王女お気に入りの宦官もどきにして、歌舞楽曲の師匠・サヴィトリとして王宮での日々は瞬く間に過ぎていった。只人では辿り着けぬ技芸の極致の習得を自ら望んだだけあって、熱心な生徒だった。
教師としての俺の才覚はどうであったのかは語るまいが、天界の歌や舞を学んだウッタラー姫は父王や兄王子たちの催す宴に嬉々として参加し、宴の参加者たちに対して惜しげも無く己の習得した歌舞を披露して見せた。
その結果、瞬く間にマツヤ王国の真珠のように麗しい姫君の噂は周辺諸国へと広がっていったので、ここのことろ、この可憐な姫君は終始ご機嫌であった。
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一日に数時間だけ設けられた授業の時間を除けば、基本的に仕事のない俺は暇である。
そのため、そういう時間は情報収集も兼ねて、姫君に使える侍女たちと混ざって仕事をするのが常だった。
仕事といっても大したことではない。
彼女たちではやや難儀するであろう重い荷物を運んだり、高いところによじ登って木の枝を選定したり、あるいは使い走りを頼まれたりとか、その程度である。一応、俺の今の体は男性体であるのだが、宦官扱いされているのでまともな男たちほど俺の近くに寄るのを憚っている状態である。そうなれば、自然と話し相手も女性陣に限定されるというもの。
そして、古今東西、女という生き物は噂話が好きな生き物である。
それは市井に生きる主婦たちでも、王宮で働く侍女たちでも変わらないものだった。
「――新しい、教師?」
「そうなのよ。このところの姫殿下のあなたへの傾倒ぶりに、国王陛下が危機感を覚えたのかもしれないわよ?」
日向の香りのする無数の寝具を室内へと取り入れながら、忙しくなく手と口を動かす彼女たちに混じって洗濯物を無心で畳んでいた俺へと声をかけたのは、ウッタラー姫付きの侍女の一人であった。
「……傾倒、って……俺と姫さまはそういう関係ではないよ?」
「あら、私たちはみ〜んなそれを知っているわよ? でも、そんな風に姫さまとあなたの関係を見咎める者もいるし、やきもきする方もいらっしゃるのよ」
顔を見合わせてクスクスと笑う彼女らの囁き声がそよ風に乗る。
淑やかな振る舞いとは裏腹に、この国の王女に使える彼女たちは実にしたたかだ。一応は宦官扱いされているとはいえ、この身は男。そんな何処の馬の骨ともしれぬサヴィトリという名の不審者がつつがなく日々を過ごしていけるのは、王女に使える侍女たちの尽力あってこそ。
「――でもまぁ、気にはなるな。ねぇ、新しい教師って、どんな人なの?」
それを身にしみて理解しているので、彼女たちの望むように、噂話に付き合うことにする。
水を向けてやれば、待っていました! と言わんばかりに、小鳥のように侍女たちが囀りだす。よっぽど誰かに話したくてうずうずしていたのだろう。
「今朝のことよ? ヴィラータ王が、姿勢の様子を見に、城下に下りて行きましたの」
「陛下はね、大きな広間に陣を張って、城下の人々の話を聞くことも己の務めとしているわ」
「そんな時よ。陛下の前に、とっても素晴らしい体躯の殿方や目を見張らんばかりに美しい女人が現れたのですって」
「質素な身なりでありながら、神々のように美しい、麗しい方々だったとか」
「でも、そのような方であってもお困りになることはあるのよねぇ。彼らは各々己の得意とすることを口にして、王宮にお勤めすることになりましたのよ?」
侍女たちの何名かは渦中の者たちを実際に目にしたのだろう。
うっとりとした表情と蕩けている眼差しに、さぞかし見応えのある美男美女であったのだろうと推測する。
「――へぇ……。その二人の名前を知っているの? 片方が、姫さまの教師になるのでしょう?」
「あらやだ、サヴィトリ。陛下が雇われたのは二人ではないわ――六人よ?」
「六人!? 随分と多いな!」
人目をひく雰囲気と美貌の男女が六人揃って王宮勤め、か。
まるで示し合わしたかのような出来事だが、侍女たちはそこまで思い至っていないらしい。口々に新たな仲間のことを吹聴している。
「一番最初に参られたのは、バラモンさまよ。カンカ様とおっしゃるお方で、骰子遊びの達人なんですって」
「でも、賭博だなんて、俗な遊びをなされるようなお方には思えないわ。あんなに涼やかで誠実そうなお方なのですもの。きっと、お戯れでおっしゃっているのよ」
へぇ……。一人は、骰子使いとして召し抱えられたって訳か。
しっかし、骰子なぁ……なんだろう。この何処と無く不吉な予感は……。
「私が目にしたのはバッラヴァという名の料理人よ? 噂では、今度王宮お抱えの剣闘士と力比べを王の御前でなさるとか! うっとりするくらいに逞しい体つきに、太い腕! ああ、あの腕で抱擁されたら、きっとあまりに雄々しさに心が蕩けてしまいそうだわ」
「まぁ! そんなことを早々に言うべきではないわ。あなただって、グランティカさまの若木のような佇まいを目にしたら心変わりするに決まっていますもの! ああ、サヴィトリ、この方は厩舎で戦争馬の世話係になったのよ?」
「それを言うなら、私は断然タンティパーラよ! そりゃあ、先のお二人に比べると静かで大人しめな方なのだけど、神々に捧げる牛たちの世話をしている時の、ふとした仕草に漂う男性的な雰囲気がたまらないわぁ……!」
「お姉さまだがた〜、ここは品評会ではないのだから、手も動かして〜」
当然とした心地の彼女たちを正気に戻すべく、声を張り上げる。
それにしても、賭博師に料理人、それから馬屋番と牛飼い、か。と言うことは、六人の内、四人は男で、残りの二人が女性ということか……へぇ。
「――なぁ、姫さまの教師っていう話はどうなったんだ?」
「あらあら、すっかり忘れていたわ!」
取り込んだ洗濯物を籠の中に直し、侍女たちに習って、籠を持ち上げる。勤めを終えた太陽の輝きが西日となって差込む中、すっかり陰影の色濃くなった廊下を侍女たちと混ざって歩みつつ、耳を澄ます。
密やかにしめやかに、薄暗い王宮の廊下に侍女たちの仄かな含み笑いが木霊する。
「サイランドリー」
「え?」
「
「サイランドリーだなんて、変な名前! 本名かしら?」
「でも、咲き誇る蓮のようにお美しいお方よ!。絶世の美女ってあのような方を指していうのでしょうね。少しばかりやつれていらっしゃいますけど、あの王妃さまがご自身にお仕えするのを渋るほどの美貌の持ち主だったとか」
「きっと元々は高貴なご身分のお方に違いないわ。あの物腰、あの気品……王妃さまよりも王妃さまらしいくらいに……。それなのに、どうして侍女などに身をやつしていらっしゃるのかしらね?」
「さあ……色々とご事情がおありなのよ。――ああでも、あの方、あれでも既婚者らしいわよ? なんでも、五人の獰猛なガンダルヴァが夫としておられるのですって」
蓮華を連想させる、王妃に勝る気品を持つ、絶世の美女、ねぇ……。
変なの。どこかで聞き覚えがあるような気がするのだが、でも、どこでだろう?
ひょっとしたら俺の失われた記憶が関係しているのかなぁ?
色々と気になることは多いが、本命はそこではない。
「――でも、そのサイランドリーとやらは、姫さまの教師ではないのだろう? なぁ。焦らさないで、教えておくれよ」
「うふふ。でも、その必要はないみたいだわ」
侍女たちのたおやかな指先の向こうに、俺の方へと駆け寄ってくる真白の姫君の姿があった。
「ようやく見つけたわ、サヴィトリ! お前に、会ってもらいたい方がいるのよ!」
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――奇妙に歪である癖に、それを差し置いてあまりあるほどに美しい。
本来ならば褒め言葉ではないが、そのような誉がこれほどに似合う相手など、そうはいないだろう。
至高の名工の手で丹念に研磨された黒真珠、至上の職人の手で精密に練磨された黒曜石。
遠い海の彼方より運ばれてきた馥郁たる黒薔薇、高い峰の頂きで摘まれた絢爛たる黒百合。
人の手で造られるからこその造形美と人の手に触れぬからこその自然美。
相反する筈の二種類の美という概念が反発することなく、溶け合うことで生まれた――どこか奇妙で歪なくせに、目を離すことができない危うげな魅力を宿した、麗人。
――こいつ、絶対に只の人間ではないだろう……!
ゴクリと生唾を飲み込みながら、そんなことを思う。
記憶を失っているせいで確かなことは言えないものの、目の前にいる相手が只者ではないことは一目で判断できた。
よくもまぁ、マツヤ王が娘の教師役として雇ったものだ――何せ、見るからにこいつは尋常ではない。
ただ、そこに佇む――――それだけで衆目を集め、ふとした仕草だけで人目を奪う。
全身から発せられる高貴さ、典雅さ、上品さ。ありとあらゆる言葉を用いたところで、その麗しい特異性を描写することは不可能だろう。
そう言い切れる、断言できる。というよりも、そうとしか言いようがない程度には、そいつの絢爛さは際立っていたのだった。
「サヴィトリ、我が親愛なる師よ! この方がこの度、父上に雇われた踊りの先生であるブリハンナラよ」
しゃらり、とその身を装う様々な装飾品を優雅に揺らしながら、そいつは俺に対して一礼する。
初対面の相手への礼儀として、こちらも頭をさげるなりなんなりして、挨拶せねばならぬと思うのだが、己の意思に反して体は思うように動かない。
「ブリハンナラ。こちらがわたくしの師匠のサヴィトリ。いかにあなたが優れた歌と踊りの名人だとしても、ここではサヴィトリの方が先達なのだから、よくこれのいうことに従うように」
王女が滔々と何かを物語っているが、そちらに聴覚を割くことすらも憚られる。
目を離せない、隙を見せられない。そして、それはどうやら、相手も同じようだった。
闇夜をそのまま切り取ったような黒々とした双眸。
それが、俺のわずかな仕草も見逃すまいと言わんばかりにこちらを凝視している。
微塵も揺るがないその強い眼差しに、こちらの警戒心も増すばかり。
まるで、檻の中の実験動物を観察する術者の目。こちらの気分としては、あるいは捕食者にのしかかられた被食動物にでもなったようだ。
「――――初めまして。私の名はブリハンナラ。周辺諸国にその才覚を鳴り響かせる、誉れ高き姫君の師であられるお方にお会いできて――誠に光栄です」
にこり、と誰が見ても完璧だと認めざるを得ない微笑を浮かべ、低く甘い声で麗句を綴る。
聞いた相手の背筋を粟立たせるほどに、ぞっとするほど艶を帯びた美声だった。
ぞわぞわと産毛が逆立ち、意図せずして喉が鳴る。
なんだろう、なんと称したらいいのだろう――なんというか、本来あるべきものがあるべき姿から歪められているとでも言うのか。
ぞっとするほどに美しく、寒気がするほどに艶かしい――類い稀な美貌の美女。
なんだけど、そのはずなんだけど……うーん。
内心で首をかしげる。そうして、聞こえない程度に小さな声で唸り声をあげた。
こいつ……ものすっごい美人なんだけど、なんだろう? 黙視するたび感じる――違和感というか、コレジャナイ感は。
「ねぇ、サヴィトリ。お前、わたくしの話をきちんと聞いているのかしら?」
機嫌を損ねてしまったらしい王女が、拗ねた子猫のように俺の腕へとするりと絡みついてくる。
普段ならば彼女のご機嫌をとるために万の言葉を尽くすのだが、今回ばかりはちょっとそれどころではない。なので、それになおざりに対応してやれば、真珠のような色合いのほっぺたがぷくりと膨らんでいく。
……文句のつけようのない美人、だとは思う。
肉体的にも、容貌的にも申し分はない……のだが、なんだろう? なんというか、記憶に残っているような面影が参照できないがために、曖昧な言い方しかできないのだが……そう。
――――率直に言えば、色気がない。
艶の帯びた美声。衆目を集める典雅な所作。豊かに渦をなす黒髪。黒曜石を嵌め込んだような、切れ長の瞳。
きめ細やかな肌……と、体の部位へと視線を走らせれば、これでもかと言わんばかりに褒め言葉になり得る言葉が浮かんでくるのだが……なんというか、それだけなのである。
女性を女たらしめる肉感的な色香というか、女性的な気配とでもいうべきか。
普段、王女のお気に入りとして女の園で過ごす時間が長いせいか感じずに居られない“何か”がどうしようもなく、こいつからは欠如している。
――こんなに美人なのに、女としての気配が微塵も感じられないってどういうことだ?
だからこそ、それは悪魔の思いつきだった。
正直に告白すると、人間の外見の美醜には関心なんてないと豪語して居た俺も、こいつの歪な美しさには圧倒されて居たのかもしれない。
後、本来ならば抑止力になるはずの王女がいじけて部屋の外へ出て行ってしまったことも要因だったのかもしれない。
――ひょっとしてこいつ、女に化けた男なんじゃないか?
ブリハンナラ、と呼ばれて居た女が俺を見つめ、何事かを告げるべく口を開いた――その、瞬間。
「――――えいっ!」
「んなっ!?」
ぽふん! と間抜けな音がなる。あれ、なんか、ちょっと……固、い?
――――正直に言おう。なんか、奇妙に柔らかかった。