健康的で艶やかな姫カットが様になる少女が左手首のダイバーズウォッチに視線を落とす。会敵するまで10分と言うところだろう。手負いの山猫を思わせる双眸が深く光る。作動させたクロノグラフのストップウォッチは既に3分を経過していた。
晴天の下。視界良好。赤いパーカーにジーンズ姿の彼女はもう一度、左手首で鎮座するビクトリノックス社謹製のダイバーズウォッチを視る。メンズモデルの腕枷のような重量感溢れる腕時計。それに眼が引き付けられるが何よりも際立って彼女に興味を持つのが……彼女の左手の小指が欠損していた事だ。明らかな切断。第二関節を境に指が足りない。それでも今の彼女には然したる障害ではなかった。
彼女は首を左上に向ける。見慣れた愛車の旋回砲塔が視界に入る。彼女の身長は154cm。小柄で華奢な印象を受ける体躯だった。どちらかと言えば図書室で見かけるタイプの少女だ。その彼女はこの道に入ってから乗りこなしている愛車の九二式重装甲車の転輪に爪先を掛けて雌鹿のように昇っていく。
九二式重装甲車。装甲車と言う名前が与えられているが、実質の豆戦車だ。車体右側に具えた主砲の砲架式13mm機関砲と、機関砲と左側の運転席の真ん中上部に取り付けられた小さな旋回砲塔が特徴だ。旋回砲塔はその見た目に似合って砲ではなく、銃を……6.5mm軽機関銃を1挺だけ具えている。
騎兵隊の代替として考案され、何よりも速度と機動力重視で設計された豆戦車だ。足回りは申し分無くとも武装も装甲も貧弱。時勢に勝てずに敗北を重ねる歴史を持つ悲しい鉄の馬だ。歩兵や軽装甲車両以下を攻撃するのなら問題無いが、段ボールと揶揄される平均6mmの装甲は戦時中の平均的な小銃弾で貫通する脆さだった。
それでも、彼女の足だ。彼女の腕だ。
ハッチの上に登った彼女は遠くに視線を移してダイバーズウォッチの回転ベゼルを『6分』の位置にセットする。6分後に彼女が想像する展開が始まる。
全長4mも無い。全幅1.6m余り。砲塔を含めた全高1.9m以下。重量は3.5tと軽い。小型軽量で最高速度40kmをマークしているが、エンジンや履帯の寿命考えると余り、速度を出したくない。
旧軍の特徴をそのまま表現した黄色い稲妻状の帯が特徴の迷彩パターンから、良く、吶喊でしかアイデンティティを表現できない学園の傘下に収まる派閥だと勘違いされるが、縁も所縁も無い。同じ国の車両を『使う』だけだ。
九二式のハッチの上で仁王立ちになり、少し背伸び。遠くを臨む。砲声が聞こえる。先遣隊として先行させた小隊が発見されて追い立てられているのかもしれない。
臨んだ先は山間部の過疎地。人口密度が薄い村落だった。厳密には廃村に決定した過疎地域で好きなだけ暴れられる条件が揃っている。
「なー。奈鹿(なかの)―。そろそろ頃合じゃね?」
旋回砲塔下部車体の右側前方鉄窓が大きく開いてブラウンのマッシュウルフを揺らしながら頼れる機関砲手の名緒々共衛(なおみ ともえ)が顔を出す。水色のチェックのシャツが涼しげで活発明朗な笑顔が印象的な少女だが、共衛がこの世界に踏み込んだのは、この世界の認知度を用いて同性を口説いて食い散らかすと言う不純な理由だった。根は良い奴。根より上は良い奴ではない。それでもこの九二式重装甲車の13mm機関砲を操らせれば隊内でも随一の実力を発揮する。
ダイバーズウォッチの左小指が欠損した少女……奈鹿は短く小さく「そうだな」と肯定すると、車長席にすとんとそのまま落ちて座る。やや暗い車内。狭い視界。銃眼や外部を覗くスリット以外からの光源に乏しい。明るかった世界が暗転して暗い車内に眼が慣れるまでに左爪先で運転席を軽く蹴る。
「多鴫(たしぎ)、行くぞ。呑んでばかりだと乱交パーティの最中に小便垂れるぞ」
奈鹿のがさつな物の言い方に操縦桿の前でスキットルを呷っていたポニーテールの少女は何処か翳りの有る表情を崩さずに無言でスキットルを作業ベストのマガジンポケットに差し込む。スキットルの中身はノンアルコールの焼酎のはずだが、彼女の物憂げでやや閉じた瞳は常に何かに不満をもたらしているような反骨を感じる。彼女の……多鴫の左頬に立てに走った4針の縫合跡を見せる創傷が彼女の印象を一層悪くする。この瑕さえ無ければ可愛かっただろう。この傷が有ったから彼女は異質な存在と認識されたのだろう。
軽妙洒脱で軽佻浮薄を纏う機関砲手の名御々共衛(なおみ ともえ)。
暗い翳りを背負う寡黙な操縦手、藤多鴫(ふじ たしぎ)。
彼女たちが運命を供にする谷川奈鹿(たにがわ なかの)の仲間だ。
仲間。
世に言う強襲戦車競技【タンカスロン】に出場した面子だ。世間一般に広く認知されている戦車道が戦車道連盟の公式試合ならば、此方は戦車道連盟の庇護を受けない戦車だけの野良試合。勝って得るのは強敵を倒した栄誉だけ。
10t以下の戦車ならば1輌からでも参戦可能。敵味方と言う概念も乏しく、試合中に第三勢力が乗り込む事も有る上に同盟を結んだ相手を裏切って背後から砲撃して撃破しても問題は無い。公式試合で無い故にあらゆる改造や積載も許される。10t以下の戦車ならば試合に参戦できる。これこそが【タンカスロン】の醍醐味であり、野蛮だと卑下される最大の要因だ。
喧嘩を売られた。喧嘩を買った。ただそれだけで何処にも記録が残らない野良犬同然の醜いルールで試合が始まる。
誰がハイエナの生き方が下賎だと決めた?
誰がハゲタカの貪り方が下品だと決めた?
その道には、その世界には、その筋には流儀が有る。
全てが自己責任の名の下に行われる【タンカスロン】。
『戦車が通るのだから道が出来て当たり前だろう』。
持ち込む戦車が10t以下なら問題無いフィールド。乙女淑女の武道として戦車の道を説く戦車道とは一線を画す……否、一線を越えた競技。許されない事が許される世界はまさに戦車戦の相を呈する。死傷者の頻発に対する意識も低く、出場する選手だけではなく、それを取り巻いて観戦するギャラリーまでもが命懸け。戦車の内装に施された特殊なカーボンの有用性を疑う事も珍しくない。
戦車が戦う。戦うから戦車だ。
他に理由は要らない。戦車は戦車だ。それに乗り込む人間のしがらみは戦車には関係無い。
強襲戦車競技【タンカスロン】。
公式競技がプロのレースなら、【タンカスロン】は街道レーサーの小競り合いだ。
だが。しかし。それでも。そうであっても。其処に勝敗を決する要素が有る限り、その僅かに輝く栄光を掴む為に命も青春も人生も擲つ人種が存在する。
それが、それこそが谷川奈鹿だった。そして谷川奈鹿のような人種達だった。
【タンカスロン】に参戦する理由は人の数だけ存在する。だが目指す物は勝利だけ。
谷川奈鹿にも【タンカスロン】に手勢を率いて参戦する理由が有る。
その理由が尊いか否かは誰にも決められない……。
「先行させた小隊が交戦したらしい」
車内で奈鹿がスロートマイクを首に嵌めながら二人に指示を出す。耳には既にヘッドセットを宛がっている。
「予定通りに後退中との事だ。多鴫。エンジンに火を入れろ……連中の主砲の音しか聞こえない。いいか、共衛。開けた場所に出るまで発砲するなよ」
車載無線機のマイクを手に取り、奈鹿は交戦中の先遣隊に指示を出す。
「そのまま、敗走を装いながら後退を続けろ。私達と合流するまで『欠けるな』」
『了解! 少しきついですけど……』
先遣隊の指揮を任せた副隊長の王基美園(おうもと みその)が今にも泣きそうな声で返答する。
ダイバーズウォッチを視る。
「あと3分で合流できる。広い試合会場じゃない。落ち着け。走れる道を選べ」
試合会場の等高線が入った白黒の軍用地図を見ながらマーカーペンで要所に×印を入れる。シルバーコンパスのスケールを宛がい、距離と速度から合流地点と合流予定時間を算出する。
「戦車前進。3号車、付いてこい。少し荒れる道を走るぞ」
自分達が搭乗する九二式重装甲車の左後方6mの位置に控えていたもう一輌の九二式重装甲車にスロートマイク越しに指示を出す。谷川奈鹿の手勢は隊長車でありフラッグ車である自分を含めて合計で4輌の九二式重装甲車だ。3輌が健在でも王将であるフラッグ車が撃破されればこの試合は負けだ。
2輌で1個の2個小隊編成でこの試合に臨んでいる。相手も4輌の戦闘車両で立ち向かう。数の上では互角だが、何処に何が潜んでいるのか判然としない【タンカスロン】では相手を単純に4輌だと信じない事だ。第三勢力の介入や相手が他勢力と結託して伏兵として試合会場に予め潜伏させている可能性が高い。可能性の話だけを挙げれば枚挙に暇が無い。
眉根を寄せて地図を睨む奈鹿。共衛が出番を焦がれて九二式13mm機関砲のグリップを握る。多鴫は暗い精気を点した瞳で前面の、開かれた窓の外を見る。戦闘が始まれば即座に運転席前方を守る蔀式の鉄窓を閉める心算だ。細長い覗き穴では視界が限られる。交戦状態に入るまでは誰もが自分の視界を確保する為に蔀式の鉄窓を開け放っている。それに悠長に外部の風を感じていられるのは今の内だ。交戦状態に入ると砂埃や破片を防ぐ為に否でも窓を降ろす事になる。紙装甲でも砂埃くらいは或る程度、防げる。
エンジンの……空冷直列6気筒の震動が尻を小刻みに叩く。エンジンの麗しい騒音で車内が五月蝿いのは当たり前だ。場合によっては車内での意思疎通は会話ではなく、蹴りや拳骨やハンドシグナルで行う。今は少しばかり早足で駆けている。騒々しさに拍車が掛かる。
「…………」
地図を睨みつけながらも現場の通信を漏らすまいとヘッドセットに神経を注ぐ。
先遣隊の第2小隊は交戦中。否、敗走中。どの車両も被害は無い。弾幕で牽制しながら転進させている。この軒先の呼び鈴を押して直ぐに逃げる小学生のような行動にも意味は有る。相手の無駄弾を誘っているのだ。厳密に言えば先遣隊は『交戦したものの、撤退して敗走している最中』と言う偽装を行っているだけだ。勿論、リスクは高い。先遣隊が全滅する可能性は常に付き纏う。
「3時! 700! 友軍発見!」
口はスキットルを呷る為だけに存在すると思われていた多鴫が大声で怒鳴る。
「! ……合流しろ! 共恵、徹甲弾は詰めてるな!」
「とっくに詰めてるよ! 早く射角の前に引き摺り出してよ!」
2輌の九二式重装甲車と合流を果たすも口頭での戦況報告は無しだ。背後150mの位置まで敵車輌が押し寄せている。
7TPだ。4輌。軽戦車でも綺麗なパンツァーカイルを形成すると大きな脅威に見えるから不思議だ。
7TP。ポーランドの軽戦車でボフォースの37mm対戦車砲を搭載する強力な戦車だ。段ボールの如き九二式重装甲車の装甲板では擦過しただけで車体が横転しかねない。内訳は37mm砲単砲等モデルが2輌と、ヴィッカース軽機関銃をそれぞれに具えた双砲塔モデルが2輌。
ポーランドをモチーフにしたボンプル高校の戦車道部の傘下に収まる派閥かと思ったが、噂の隊長の、自己顕示欲が強いアピールが見受けられない。奈鹿達が使う車輌が日本軍だから知波単学園の系列かと勘違いされるのと同じで関係の無い派閥なのだろう。それに連中もボンプル高校特有の機動を見せない。形が綺麗過ぎる。整列するドミノのような美しさだ。
放置された田畑を荒らし、乾いた畦道を乗り越えて九二式重装甲車が合流した後も蛇行運転を継続して砲弾を躱す。37mm砲は砲身の挙動と砲口の大きさを視ていれば直前で躱す事ができる。
だが、厄介だったのは双砲塔型がばら撒く銃弾だった。7.7mm口径の機銃弾。情けない事に九二式重装甲車は要所に被弾すればその数発で撃破を示す白旗が掲げられてしまう。白旗の判定が下ればそこで車輌の機動は停止だ。状況次第ではたったの一連射で複数の車輌が戦線を離脱してしまう。
焦るにはまだ早い。
7TPの装甲は最大で17mm。3人乗りの軽戦車としては及第点の装甲。九二式に搭載している13mm機関砲は徹甲弾を用いた場合、射程離500mで20mmの防弾鋼を貫通する。十分に勝機は有る。この場合、一番攻撃に晒され易い前面装甲が17mm。それ以外はそれよりも薄い装甲だと想像できる。
それに九二式重装甲車は『鉄の馬』をコンセプトに開発された戦闘車輌だ。足の速さなら7TPより速い。7TPは最高速度が時速32km。九二式重装甲車は最高時速40kmだ。
「全車、付いているな? 蛇行を続けろ! 車長! 『狙撃』訓練の時間だ! 操縦席を狙え! 目晦ましだ! 機関砲手は連中のお上品な陣形が崩れるまで我慢しろ!」
37mm砲の砲撃間隔が開く。無為な砲撃を誘われているのに気が付いたらしい。先頭に37mm砲塔。その右手側にも同型。更に右手側に双砲塔。先頭車の左手側に双砲塔。37mm砲搭載型は発砲間隔が開けているので脅威度が下がる。双砲塔型は相変わらず2挺の機銃が弾幕を張る。装甲の厚さだけなら双砲塔型が一番手頃な標的と言える。それぞれの砲塔は構造上、装甲が異様に薄い。距離を詰めてくれれば九二式重装甲車の旋回砲塔に具えられた6.5mm軽機関銃でも仕留められる。
奈鹿はダイバーズウォッチの回転ベゼルを『残り3分』に設定してから砲塔を旋回させて軽機関銃のグリップを握り、手近な7TPの操縦席付近に銃撃を浴びせる。
昨日まで雨だった所為もあって、土煙が派手に巻き上がることは無い。流石に銃撃された7TPが咄嗟に操縦桿を切って玉葱小屋に突っ込んだ時は大量の藁や積もった埃を舞い上げた。
オモチャのようなオペラグラスでも顔がはっきり確認できる距離に観客が波を作っている。無責任に歓声を挙げて応援や罵声を飛ばす。
放置された田畑の跡を走り抜ける。
開けた原っぱに出る。だが、僅かな勾配で小高い丘の頂上へと向かっている。クリップボードの地図通りだ。速度がやや低下。平地のように軽快に走り回れない。
「小隊に分かれろ。王基隊は右翼に展開。王基、お前の命令で『滑れ』。確実に1輌ずつ撃破する。此方は左から食っていく! 必ず2輌で仕留めろ! 可能なら連中のケツに廻れ! 口は強そうでもケツは弱い。連中を撹乱させれば大成功だ」
軽機関銃で400m先の標的に銃撃を与えながらスロートマイクで各車に命令を下す。
『被弾!』
ヘッドフォンから絶叫が聞こえる。自分の小隊の1輌が37mm砲の直撃を後部に受けて炎が混じる黒い煙を上げて白旗を揚げたまま停車。そのまま視界から向こうへと遠ざかる。
「ちっ! おんどりゃあ! 3号車! お前ら後でケツバットじゃボケ!」
これからの一大攻勢に転じる矢先に自分とコンビを組むはずの車輌が被弾して離脱した。被弾しても走行可能ならそのまま試合は続行される上に時間的猶予を作る事が出来るのなら修理して戦線に復帰する事もできる。だが、白旗が揚がると言う事は走行不能で現場での修理不能を差す。
「多鴫! あと1分逃げろ! 共衛! 合図をしたら『滑るから撃て!』照準に捉えなくて構わん! 距離を200に合わせておけ! 『そこに獲物を写してやる』」
機関砲に限らず旧日本軍の照準器はお世辞にも高い精度とは言えなかった。経験と勘で着弾点を予想して先越しに撃つ職人芸が求められた。士気が高ければ弾は当たると言う精神論の具現化だった。故に機関砲の命中精度に大きな期待は寄せない。そもそも大きな標的を狙うための機関砲だ。
奈鹿は軽機関銃の引き金から指を離し、グリップを強く握った。見慣れた腕時計を見つめて3秒後、大きく吸った息を吐き出し、肺が空っぽになった瞬間に多鴫の座席を思いっきり蹴る。
「共衛!」
同時に機関砲手の名を叫ぶ。車体は左方向に急旋回する。左履帯の転輪を急停止させてその場で急激に180度、方向転換をする。恰も地面を滑るような機動を見せる。
共衛は自分の名を呼ばれた時には既に引き金を引き絞っていた。照準に敵戦車は捉えていないのに。だが、僅かな人体的タイムラグを奈鹿は計算していたのだ。共衛が引き金を力一杯引き絞った数瞬後に虚しく空を切るはずの13mm機関砲の徹甲弾は左手側の7TPの車体前面に集中して叩き込まれる。15発入り小弾倉を丸々1本消費した。サイクルレートが速いのではない。13mm機関砲の着弾点に7TPが長く居過ぎただけだ。
最初の数発で既に白旗判定だった。更に膠着したかのような体勢が続き全弾、叩き込まれたのだ。死体を蹴るのにも似た侮辱的行為に取られかねない。
奈鹿の九二式重装甲車は直ぐに180度反転させて本来進むべき小高い丘の頂上を蛇行しながら目指す。副隊長の王基美園が率いる九二式重装甲車の小隊も奈鹿車に倣って幾度と無く右翼側の端の車輌――双砲塔型――を狙っているが攻撃を敢行するだけ失敗を重ねる。
此方の目論見が解ったのか相手側も一旦速度を落として陣形を整え直す。
「……!」
今度は双砲塔型が先頭に。その両側斜め後方に単砲塔が警護するように付いてくる。
「……そう来たか」
「何が?」
背後の様子が伺えない共衛が首を傾げる。
「双砲塔型を先頭に置いて弾幕を張って追い立てて、その弾幕から逃げ出せた車輌を両脇の単砲塔が仕留める戦法だ。早い話が、此方のケツに火を点ける真似をしてトンズラした車輌から37mm砲で確実に仕留める心算なんだよ」
『あ、バカ!』
ヘッドセット越しに王基美園の声が泣き叫ぶように聞こえる。
「!」
咄嗟に蔀型の銃眼を開け放って4号車の方を見る。それと同時だった。4号車の後部に被弾して鈍い爆発音とともに停止した。双砲塔の弾幕から逃れようとして先走った王基小隊の1輌が大きく王基車から離れた途端に37mm砲の餌食になった。九二式重装甲車の軽い車体に37mm砲の弾頭は強烈だ。エンジン付近に被弾した4号車はその衝撃で前のめりにつんのめるようにして吹っ飛ばされたのだ。
今更離脱した車輌を念頭に置いても仕方が無い。たった2輌の九二式重装甲車で残りの7TPを如何に片付けるのかを考えた方が建設的だ。
勿論策は有る。
「王基、丘を登り切れ。20m前進の後に反転。この丘の稜線の向こうは勾配が急だ。連中の腹を突く。お前が登り切るまで私が援護する。お前の車輌がやられても私の車輌がやられても敗北だ。私の車輌だけでは連中を片付けられない」
奈鹿はクリップボードの地図にパステルカラーの水色とピンクのマーカーで要所や数字を書き込みながらスロートマイクで王基車に指示を出す。本来ならフラッグ車である奈鹿車が先行して王基車が後続して奈鹿車を体を張って守るのがセオリーだ。だが、戦力的に鑑みて2輌併せた戦力でなければまともな策が思いつかなかった。
何より、1輌の火力は高が知れている。ダラダラと戦況を長引かせるより短期決戦でカタを付けたいのが本音だ。
作動させたダイバーズウォッチのクロノグラフを視る。試合が始まって25分が経過した。回転ベゼルを『残り1分』に設定する。
「蛇行止め! かっ飛ばせ! 丘の上で飛んでも構わん! 着地次第、信地旋回! 共衛! 連中は必ず下腹を見せる! 照準に捕らえた奴を確実に仕留めろ!」
全速力で丘の稜線の向こうに走って消える王基車。蛇行を止めて直進で120mほどの距離を全速力で走る奈鹿車に火力が集中する。直撃は無いが銃弾の擦過が幾つか装甲に拵えられる。奈鹿も砲塔を廻して6.5mm機銃で牽制を浴びせているが勿論それで大人しくなってくれる訳ではない。空薬莢を受ける嚢がどんどん重くなる。
奈鹿は37mm砲の着弾が正確になりつつあるのを見て、早めに丘を登り切る事にシフトして良かったと思っている。あのままだと双砲塔型の機銃に蹴散らされて37mmに各個撃破されているところだ。稜線の死角を利用した砲撃で勝負に持ち込むしかないと思っていたが、まさか2輌も持って行かれるとは思っていなかった。
これでは奈鹿の念願が叶わない。戦車道の世界に入った大願が叶わない。彼女の夢にはどうしても最大数の火力が必要なのだ。【タンカスロン】で足止めさせられている場合ではない。九二式重装甲車4輌を以ってしても『苦戦を強いられている場合ではない』のだ。
「飛ぶよ!」
操縦に関係の無い機関砲手の共衛が叫ぶ。
一瞬の無重力感。稜線を簡素なジャンプ台として九二式重装甲車が僅かな距離を飛行する。直後に襲う着地の衝撃。多鴫は一言も喋らず、ギアチェンジを行い、未だ大きく跳ねる車体の向きを信地旋回で180度反転させて、車体の震動が鎮まるようにアクセルから足を離した。サスの作用で揺れる車体が止まる頃にエンジンを切る。
1分経過。
それを先途と言わんばかりに稜線を勢い良く跳ね上がって直進してくる先頭の双砲塔型。そして単砲塔型の2輌。
王基車が先頭の双砲塔型の車体前方下部辺りから後部へかけて13mm機関砲弾を叩き込む。ミシンで縫うように車体の下に穴が開く。双砲塔型は地面に着地した瞬間に白旗を揚げて停車した。車体下部から灰色の煙を上げている。双砲塔の機銃がダラリと下がる。
戦友の戦果を確認する間も無く、共衛も13mm機関砲の引き金を引く。操縦手の多鴫が陣取ってくれた場所は絶好の砲撃ポイントだった。車体も揺れていない。エンジンの震動も無い。照準器のレティクルに頼らなくとも必中を狙える自信が有った。
後続する左翼側の単砲塔型の車体下部ほぼ中央に共衛の放った機関砲弾は吸い込まれて、その単砲塔型は稜線を乗り越える前に白旗を揚げてしまう。惰性で単砲塔型は丘を乗り越えて停車。
共衛の戦果を……否、共衛の発砲を確認した瞬間に多鴫はエンジンを再点火して後退しながら残りの単砲塔と距離を稼ぐために走る。後退ゆえに大した速度は発揮できないが、勾配が急なので下りは思った以上に速度が乗る。それに王基車も倣う。
残りは単砲塔型1輌。できる物なら自軍の車輌が全て健在のままこの状況を迎えたかった。隊長である奈鹿の未熟ゆえの失態だ。失態は無かったとしても、相手の技量を読む力が無かった事に由来する人生経験の深浅の問題だった。隊長としては離脱車輌を出した時点で、どんなに忘れたくても忘れられない瑕として心と記憶に残る。それを即ち経験から得た智慧の糧として活かせるかどうかは奈鹿の人生次第だ。
勾配が急。2輌の九二式重装甲車は車列を整えて回頭し、一気に勾配を下る。やがて平坦な原を抜けまたも田畑が眺められる開けた場所に出る。原っぱと違い、畦道や水路跡があちらこちらに走っている為に履帯を取られないように走行する必要が生じる。敵の7TPは必中を心掛けた砲撃を繰り出す。搭載した砲弾の残弾が心許無いのだろう。軽戦車で対戦車砲を搭載したモデルは確かに驚異的な打撃力だ。だが、小さな体躯の豆戦車の内部には長丁場を戦えるほどの砲弾を積載するスペースが無い。
「王基。焦るな。左右に展開する。軽機で弾幕を張れ。距離を引き付けてから左右斜めから同時に13mmで止めを刺す。タイミングがずれると此方が1輌ずつ片付けられる」
奈鹿は6.5mm軽機の弾倉を交換しながらスロートマイクで王基車と連絡を取る。王基美園と言う少女はサブリーダーとしての資質を湛えているのに慎重すぎるほどに慎重になり過ぎて大胆な発想や行動を踏み止まる傾向が有る。指示したタイミングは必ず守るが、遊撃や残党狩りでは遅れを取る事が多いのが困りどころだった。
2輌の九二式重装甲車の旋回砲塔に具えられた6.5mm軽機関銃が単砲塔型7TPの操縦席や砲等前面を激しく叩く。走行しながらの砲撃で直撃を受ける事は珍しい。連中もそれを肝に銘じているのか、砲撃する直前に徐行に近い速度に落とす。此方の2輌もそのようにして撃破された。双砲塔型と違って1輌で九二式重装甲車2輌を同時に相手にするのは難しい。単砲塔型は所詮、単砲塔だ。単騎だと獲物を定めるのに大きな時間を割かれる。
……故に、単砲塔型7TPを仕留めるのには王基車との呼吸が合った攻撃が必要だった。
7TPの右前方200mに王基車。左前方に奈鹿車。速度は同じ。3輌とも同じ速度だ。単砲塔型7TPはフラッグ車である奈鹿車に照準を定めているが、徐行してからの砲撃と言うスタイルを捨てて行進間射撃で追っている。現在、時速32km。7TPには辛い速度だ。軽量快速を謳う九二式重装甲車ではまだ余裕の有る走行を見せる。
「王基、3分以内に合図を出す。信地旋回……ベタ踏みで回頭。後に全速でヤツの脇を抜ける。そのままケツに回り込んで接近して同時に直進。接射で掘る! 体当たりする心算で行け!」
『然しそれでは! 畦道や地面の状態が全速で走れる状況じゃ有りません!』
「安心しろ。直進すれば農協のガレージに出る。お前は其処で向きを変えろ。私はその横の廃棄された倉庫に突っ込んでから信地旋回する。いいな。3分後だ」
散発的な砲撃が後ろから聞こえる。確かに、地図の通りに其処に農協が有り、シャッターが閉まった大型の倉庫が有る。今、奈鹿が見ているのは正確無比な軍用地図ではない。この近隣を記した書店で買える地図だ。軍用地図では拾えない民間の建物が細かく記されているので、方位やグリッド等、計測に必要な情報しか書き込まれていない地図とは別の意味で有用性が高い。
『了解です』
王基車はそれから沈黙した。合図を待っているのだ。
畦道や田畑や堆肥の山を踏み越えて3輌は走った。流石にまともな砲撃は期待できないのか7TPは走破のみに徹する。砲口はしっかりと奈鹿車を狙っているが、スタビライザーを具えた後年の戦車と違い、照準を定める余裕など無いだろう。奈鹿車内部の乗員も凸凹の激しい地形に跳ねるように座席から尻を浮かせて視界の確保に苦労していた。
「行くぞ!」
3分経過。王基車は農協脇のガレージに出ると滑りながら回頭する。4tトラックが6台ほど停められるスペースだったが、それだけ有れば充分だった。王基美園は回頭するや否や全速で直進を指示し、7TPの左脇を抜けるべく前進する。
「!?」
王基美園は思わず、旋回砲塔の銃眼を開いて隊長車でフラッグ車の奈鹿車の行方を追ってしまった。
7TP、そのまま奈鹿車を追う。奈鹿車が突っ込んだ大型倉庫――元は重機を停めておく大型屋内ガレージ――のシャッターをぶち破り、2輌とも倉庫内部で壁や柱を壊しながら狭い空間で犬の喧嘩の如く、互いの尻を追いかけ合っている……らしいのだ。
砂埃や倉庫の内部の塵埃が酷過ぎて煙幕を焚いた様に視界が悪い。たった100mの距離。応援に駆けつけるべきか。命令では直進して脇をすり抜けろと言われた。隊長の奈鹿の命令が根底から意味を成さなくなった。応援に駆けつけるべきか。無闇な砲撃は隊長車への被弾の恐れが有る。
鉄骨とブリキとコンクリだけで拵えられた、10tトラックが8台ほど停められる倉庫は程なくして屋根が落ちる。柱も梁も内側に倒れる。
「隊長!」
王基美園は絶叫する。あの重量物だとそれだけで白旗判定が掲げられても不思議ではない。
数秒の沈黙が訪れる。崩壊した屋根の下で両者とも行動不能で白旗判定が下ったか? 瓦解し、大きな埃の塊が辺りに漂い始める。
――――もう駄目だ……。
王基美園はセミロングの髪に埃が降り掛かるのも構わずに車長用のハッチから顔を出して口元を覆い、何事かを叫ぼうと息を吸った。
『王基! 砲撃準備! 今から押し出す! 私も纏めて撃て!』
「!」
王基の脳裏には驚愕と疑問しか浮かばなかった。だが、ヘッドセットの向こうで健在な隊長はそう命じた。撃てと命じた。
「回頭! 倉庫! 砲撃用意! 目標……倉庫! 倉庫の埃の塊!」
王基が叫び終えると同時に身の丈の5倍以上の高さに達する濃厚な煙幕に似た埃の渦の中から7TPが左横腹を見せて押し出されてくる。エンジンが今にも火を噴きそうな悲鳴を挙げる。その唸り声は7TPと九二式重装甲車が張り上げる怒声を思わせた。
左側の履帯が切れた7TPが右側面から九二式重装甲車に押されて王基車の前に捧げられるように突き出される。距離、100m以下。慎重と優柔不断が混じりそうな王基美園もこの時ばかりは躊躇わなかった。
7TPの37mm砲塔が旋回を始めて奈鹿が駆る隊長車に狙いを定めようとしていたのだ。
「撃て!」
美園は叫んだ。信頼する砲手が13mm機関砲で砲撃する。勿論標的は目前に突き出された7TPの左横腹だ。7TPの健在な右履帯が息を吹き返すまでに決着はついた。
「…………」
13mm機関砲弾が荒れ狂うように徹甲弾を吐き散らし……恐らく、砲手も白旗判定など目視していなかったのだろう。
既に白旗が掲げられた敵フラッグ車。
その敵フラッグ車こと7TP単砲塔型の砲口はあと数度、旋回させていれば、奈鹿が座る軽機関銃の旋回砲塔に狙いが定まっていた。
最後まで残存していた7TPはこれにて行動不能と判定されて停止。この瞬間に谷川奈鹿率いる戦車隊の勝利が決定した。
7TPの履帯が切れていなかったらこの勝負は敗北していた。履帯が切れたのは恐らく偶然だろう。瓦解した倉庫の瓦礫を荒く踏みつけているうちに不調を来たし、それでも最小半径で……小回りに勝る九二式重装甲車の尻を捕らえようとアクセルを全開にしたのが敗因に繋がったようだ。……『繋がったようだ』と言う憶測でしか王基美園は勝利の状況を観測する事が出来なかった。
左側面に13mm機関砲弾に激しく叩かれた弾痕を残している7TP。金切り声を挙げて九二式重装甲車が操縦桿を切って止まりそうな低速で王基車の近くまでやってくる。
車長のハッチが開く。ヘットセットを首に掛けた奈鹿が上半身を乗り出す。笑顔よりも疲労の色が強い顔だ。その奈鹿が右手握り拳で親指を立ててやけに悪そうな、やけに白い歯を見せて王基美園に『笑顔をぶつける』。
「やったな! 『美園』! 良い配置だ!」
それを聞いた王基美園は車長席から飛び上がらんばかりに喜んだ。戦車に乗って愛すべき隊長が『部員』を名前で呼ぶのはかなりの信頼を寄せた者のみだ。その気難しいところが有る奈鹿に名前を呼ばれたので王基美園は自分の成長よりも奈鹿と『足並みを揃える』許可が出たことに歓喜した。
奈鹿は機銃弾の擦過が生々しい砲塔から這い出るように上半身を乗り出して降車する。
「あーあ。やってくれたなぁ。ちきしょうめ!」
奈鹿は愛車の九二式重装甲車1号車の装甲を撫でながら、美園が駆る2号車が仕留めたフラッグ車の7TP単砲塔型を見る。ハッチから敵軍首魁の鳥羽工業高校戦車道部の部長が出てくる。ボサボサのショートカットを金髪に染めた気が強そうな娘だ。白いトレーナーにジーンズパンツの軽い出で立ち。身長は160cmもない。軽戦車や豆戦車は車長が座る席が低く小さいので小柄な人間が体格的に向いている。
見た目は奈鹿も金髪の少女もただの不良だ。だが、戦車……【タンカスロン】に懸ける情熱だけは同等同類の香りが漂う。
「……痛てて……ヤるなら一発で仕留めてくれよ! 機関砲で蜂の巣とか! どんだけ火力不足なんだよ!」
金髪の少女は非難の声を挙げているが唇の端はやや釣り上がって微笑を隠しきれていない。
「悪りぃな。私達は臆病モンなんだよ! 止めに何発も叩き込まなきゃ気が済まねぇんだ!」
「……」
「……」
それぞれの車輌から乗員が這い出してくる。暫し、奈鹿は名前も知らない金髪のショートカットの少女と睨み合っていた。
2人とも同じタイミングで口に溜まった埃を含んだ唾を吐き捨てる。
「畿内麻生高校。谷川奈鹿だ」
「鳥羽工業高校。芹由香子(せり ゆかこ)」
互いが名乗る。手が届いていれば握手をしていたかもしれない。彼女たちは互いの健闘を称え合う精神を持っていたが表現が不器用だった。だから初めて名乗りを上げたのにそれからは視線を交わしもせずに踵を返して撤収準備に取り掛かった。
或る日の或る野試合の或る勝敗が決しただけだった。
勝者は勝利の栄光以外に何も得ない。
虚しいだけの世界に生き方と価値を見付けた奈鹿は勝利の栄光以上の物を掴んだ。彼女が求める物がまた一歩、近くなった。
奈鹿はダイバーズウォッチの回転ベゼルを『残り45分』にセットしてから大声で「撤収撤収!」と叫ぶ。既に撃破された離脱車輌にもスロートマイクで撤収を伝える。奈鹿の右手がクロノグラフを止める。試合は開始から40分でカタが付いた。時間を管理するのは彼女の癖らしい。
多鴫は座り込んだままスキットルを呷っていた。無口な彼女は面倒臭そうな顔で抗議したが座り込んだままでは何も始まらないのを知っているので重い尻を上げた。共衛は自分の小洒落た衣服が煤や埃で薄汚れしているのにも関わらずに、ギャラリーに向かって歓声に応えていた。共衛の事だ。撤収が終わればギャラリーの何人かの女子高生を持ち帰って一夜限りの恋愛を楽しむ心算なのだ。
学園艦が寄港した先。陸に上がった小さな街で、お互いの高校の生徒が肩が触れたかどうかの諍いから【タンカスロン】で代理戦争をするとは思っていなかったが、袖摺り合うのも何かの縁だろう。あの鳥羽工業の少女とも何処かで再戦するかもしれない。或いは共謀を図り同盟を組むかもしれない。その時はその時で【タンカスロン】の醍醐味を楽しませてもらおう。
今日は疲れた。
心地よい疲労を引き摺って入浴中に寝落ちするが、それはいつもの事だった。