風交じり 雨降る夜の 雨交じり 雪降る夜は すべもなく 寒くしあれば
堅塩を 取りつづしろひ
これはかの山上憶良の歌である。『貧窮問答歌』という題で詠われ、寒い冬を越すためにほとんどお湯と変わらない酒と精製も何もされていない固まりの塩を摘まんで生活をしていたことを表わす歌だ。
ふと外を見てみると、未だに雪は止まない。まだ昼間だというのに、空には暗雲が立ち込めている。しんしんと雪が降りしきる寒空の下でも、身に纏うものは着倒して色褪せてしまった、ところどころ糸の解れた着流しだけだ。
酒でやり過ごせればよかったが、生憎手元には間違っても酒とは呼べないようなお湯と、味気なさを解消するための堅塩しかない。
手先の感覚が無くなってくる。
いつものことだ。
足先の感覚が既にない。
いつものことだ。
春を運ぶ妖精が来る気配はどうだ。
いいや、まだ来ない。
腐りかけの縁側の上で胡坐を掻きながら、壊れたブリキ人形のようにずっと寒空を見つめ続ける者が居る。顔は哀愁に満ちている。まるで旧里を思い起こす晩年の人の如し。
湯気の立っていた糟湯酒も、今はもう煙すら立たない。上がる煙に落ちる雪、貧しさの中に隠れた風流かな、などと思っていたのはつい五分前だ。冷たくなった糟湯酒を一息に飲み干すと、また新しいものを飲もうとお湯を沸かすために立ち上がる。
「井戸まで行くのか」
この寒空の中で、どうしてそのような苦行を強いられなければならないのだろうか。そうだ、水道が壊れたのが悪い。凍りついたのか破裂したのか知らないが、蛇口を捻って水の出てこないゴミみたいな設備がすべて悪い。思わず蛇口を根元から寸断した自分は何も悪くない。それでも水が出てこないのだから、とんだ頑固者である。
「っ!」
草履を履いた直後、あまりの冷たさに飛び上がりそうになる。どうやら、草履に雪が積もるくらいは降っていたらしい。これだから冬は、と愚痴を一つ溢して、その者は井戸へ向かった。
「……井戸、か? 妖怪の一つでも出てきそうなものだが」
井戸に到着して早々、そんな感想が漏れた。くたびれていた。見た目、桶は腐っていて今にも穴が開きそうだ。手に取ってみてみれば、なんと本当に底板が抜けていた。よく見れば滑車は錆びつくどころか風化しており、見るに堪えない。ロープもところどころ腐っていて、首の皮一枚で繋がっている状態だ。
これは断じて井戸ではない。井戸という名を持ったゴミである。水を汲めず人の心も汲めない井戸に、一体どうして価値があると言えるのだろうか。
「骨折り損とはこのことだ」
手に持っていた桶を井戸の中に投げ捨てる。すると、何の嫌がらせか滑車を滑っていたロープがとうとう切れて、ロープごと桶は井戸の闇に消えて行った。なるほど、やはりゴミである。
「どうしたものか」
飲料水は確かにある。しかし、冬を越す分には心もとないどころか足りる筈もなく、あの酒という名のお湯をお湯にすらせず冷たいまま酒粕を溶かして飲むとしても、百升分飲めるかどうか。水蒸気となって消える分を考えれば、どう考えても冬は越せない。
「不味い、本格的に不味い」
帰り道、焦りのあまり歩調が速くなる。毎日欠かさず手入れをしている自慢のひげに手を当てて、凍っていた頭の中を知恵熱で解凍して海に戻すと同時に埋没する。ただただ冷たいだけである。外の空気も現実も非情である。
「人里……いや、借金が、うん」
うかうかと人里には入れない。かの名門の稗田家から借りた額は筆舌に尽くしがたい凄惨たるものがある。他にも、雑貨店とか、青果店、肉屋、牛乳屋、何処に行っても赤色の数字しか思い浮かばない。飲み屋を思い出したら頭痛までしてきた。
「……いや、あの神社ならば」
ふと、ただ飯を食える心当たりが浮上する。あそこの巫女は何だかんだ言っても、機嫌が良い時は飯を馳走してくれる。機嫌が良い時が一割も無いのが傷だが、ゼロに等しいよりはマシである。お湯よりも上等な酒を振る舞ってくれるだろう。堅塩よりもまともな飯が出てくるだろう。それだけで万々歳だ。
「よし、行こうか」
今日の飯は豪華になる気がする、とは本人のあてにならない予感である。
「いやよ」
付け入る隙のない否定の三文字である。飯を馳走してくれ、と頼んだら一刀両断された。なるほど、博麗の巫女とは剣の心得があるらしい。見事なまでの寸断は感服するほかにない。しかし、たとえ両断されたとしても諦めはしない。その者にとってはまさに死活問題なのだ。
「頭を地面に擦り付けてもダメか?」
「そんなことをしても賽銭箱には一銭も入らないわ」
神に仕えるくせしてリアリストだ。そこは神の施しなどと宣って、飯の一つでも分けてやればいいものを。そうすれば、信仰も集まり賽銭も増えるかもしれないというのに。
「はぁ。巫女に飯を乞う前に、働きなさいよ」
「働きたくないでござる」
すっ、と幣が振り上げられた。その者は慌てて両手を振り、巫女を宥めに掛かる。
「待て、待て。そう焦るものではない。老体に幣を打つのは人のやることか!」
「少女に飯を乞うのが大人のやること?」
「老人を養うのは常に若者の仕事――っ!」
ガツン、と幣で今度こそ頭を殴られた。近頃の巫女は棒術も嗜んでいるらしい。これほどバイオレンスな巫女は願い下げだ。武術を収めるのは結構だが、それを老体に振るうのは神に仕える者の所業にあらず、と高らかに言ってやりたいものだ。
「はぁ。あんたの腕なら、退治屋くらい楽々と出来るでしょうに」
頭を抱えて悶絶するジジイに対して、巫女は呆れたような視線を向けた。
「私に遠慮しているっていうなら、やめなさい。老人に心配されるほど落ちぶれちゃいないわ」
ギロリ、と巫女の視線がジジイを貫く。それを感じ取ったのか、ジジイはその場に胡坐を掻いたまま、かかっ! と陽気に笑ってみせた。
「童を路頭に迷わせては、それこそ年寄りの立場が無い。老人はちと、加減が苦手での。剣を持てば悪鬼となる。猪口を持てば飲んだくれ。本を手にすりゃ孫の世話するジジイよな」
「悪鬼なら妖怪ね。それもとびきり性質の悪い。退治してもいいかしら?」
「やめとけ、やめとけ。齢二十にも至らぬ若造に、千歳をかけた剣は止められぬ。弾幕とやらは流行に疎いジジイらしく知らぬが、剣ならば話は別。老体の身で若造など手にかけたくはない」
迫力の無いジジイで、言葉も雲の様に軽いお調子者だ。巫女からしてみれば、このジジイは薄汚れた話し好きの好々爺にしか感じられない。
立派なひげが魅力的? 意味がわからんとは巫女の気持ちである。
「はぁ……。それで、水だけでも暮らせるあんたが、何でまた、此処に来たのよ」
「水道が止まった。叩き切っても出やしない」
「いや、それ当たり前だから」
「近くの井戸にも行ってはみたが……」
「あー、わかった。ゴミだったのね」
「とうとう老体に鞭を打つ世界になってしまったか」
「働かないやつには厳しい世界なのよ」
「なんと、定年退職した者に慈悲は無いのか!」
「知るか」
会話の最中、釜の中から茶碗に白飯を装った巫女は、それを箸と共にジジイ向けて「はい」と声を掛けて渡した。これには慣れた手つきで、ジジイも「恩に着る」と一言添えて受け取り、湯気の立つ熱々の米を頬張った。
「……米をそんなに美味しそうに食べるやつ、あんた以外に居ないわよ」
「堅塩と糟湯酒だけを口にすれば、この気持ちもわかる」
「いつの時代の生活よ」
「剣を始めるのと同じくらい昔の事か」
「いやな時代ね」
そうか、そうよ、と相槌を打てば、ジジイが白米を食い終わるまで風の音以外に立つものなし。さて、いよいよ茶碗一杯平らげたかと思い巫女が「茶碗返せ」と手を出すと、驚くべき言葉が飛び込んだ。
「もう一杯」
「雪の中に埋めるわよ」
ジジイは茶碗を差し出しておかわりを要求。対して巫女は寒空の下に叩きだそうとするだけに飽き足らず、雪の中で凍死しろと言わんばかりの気迫である。巫女は乱暴にジジイから茶碗を引っ手繰ると、釜を開けてまた白飯をその中に入れて渡した。
「……うむ」
白米を頬張れば、たちまち好々爺として笑顔が光り輝く。老人特有の和やかな空気が部屋の中に浸透する。
「あっ、明日の雪掻き全部、よろしく」
ピタリ、と箸の動きが止まる。巫女の方を見てみれば、実に少女らしい染みも皺も無い綺麗な笑顔が浮かんでいる。なるほど、ただ飯ほど怖いものは無いとはまさにこのことか。
「待て。雪掻きをやるとは一言も」
「ついにボケたのかしら。ただ飯くれてやるなんて一言も言ってないわ」
「……恩くらい返すとするか」
幣を振り上げられた上に正論をぶつけられ、ジジイは観念したのか頷いた。老体を酷使しようとする巫女など巫女である前に人としての道に反するが、此処では常識は通じない。ことこの老人が酷使されるなど、実のところ毎度のことである。
「いつものところで寝なさい。妖忌、明日は任せたわよ」
「承った」
米粒一つ残っていない茶碗と使っていた箸を巫女に渡すと、巫女は奥へと引っ込んだ。
いつもの場所、とやらは神社の物置の中である。布団も枕も無く、寝転がるスペースもない粗悪な環境だが、このジジイこと妖忌にとっては些末な問題である。慣れと適合能力とは恐ろしいものだ。むしろ、雨風を完全に凌げるだけありがたい。
埃っぽい掃除に行き届かない物置の中、胡坐を掻いて目を瞑る。
さて、明日は誰のもとに行ってみようか。
腹が膨れていたせいか、それとも雨風の凌げる場所に居たためか、その日はすぐに眠ってしまった。
ご要望あれば適当に続けたいと思います。