ラブライブ!サンシャイン!!~陽光に寄り添う二等星~ 作:マーケン
みんなの音楽のディベート大会はそれはもう盛り上がった。入れ込んでいることについて好きに語れるのだからそれはもう楽しくない筈が無い。特に普段遠慮してあまり喋らないルビィちゃんや花丸ちゃんときたら普段の反動からか、多弁も多弁だった。
花丸ちゃんについては脱線しはじめ『無』とはと語り出すのだから焦ったけれど、その『無』に対する花丸ちゃんの世界観を楽曲に取り込みたいと言っていたから、花丸ちゃんの言う『無』とは花丸ちゃんの根幹をなす概念なのだろう。
しかし、『無』とはまた難しいことを言いだしたものだ。
形而上学的な学問としての『無』。そして数多の宗教で語られる宗教的な『無』。どちらも共通するのは認識である。
観測する事象に対し、意味を与えたり、そもそも存在しない物、つまり『無』をそういった状態が存在すると仮定したりする。それこそが『無』を語る上で大前提となることだ。
つまり花丸ちゃんは世界の捉え方とは認識である、と伝えたかったのではないかと思う。
もっともーーーー
「花丸、そっち」
「ずら。鞠莉ちゃんお皿持ってきました」
天井からの雨漏りの対応で現状それどころでは無くなってしまったのだが。
古いお寺であるとは思っていたけれど、まさか私達が来た日に限ってこんな事になるとは不運としか言えないだろう。
私達はお寺内にあるお皿やら器やらを総動員して天井から滴り落ちる水滴をカバーしている。
文字通り水を差された事で折角盛り上がっていた空気が慎と静まりかえってしまった。もっとも、曲作りという工程事態が進んでいた訳では無いので、そろそろ曲を作れという合図と受け止めれば良いのかも知れない。
「みーーーーー」
静寂に波紋を作るのは、それもまた天井から滴り落ちる水滴だった。
雨漏りを受け止めるために置いた水受けから発するのは天の恵み。もたらされたのは天啓となり、みんなの心を打った。
聞き逃してしまうような水滴の落ちた複数の単音。そこには本来関連性も意味もない。けれど、そこに特別な何かを見出せるのは私達だ。
「ばらばらな音が」
ただのばらばらな音も連なればメロディーにだってなるのだ。いや、ばらばらだからこそそこにメロディーが存在しえるのだ。
みんなはその天から降りてきた音の連なりに自分達の姿を見た。
好みも音楽性もばらばら。けれど、無理に同じである必要はないのだ。
お互いを知り、個性を認め、そこに価値を与える。
「調和して」
それが本来色も形も無いaquaにAqoursという意味を与えるのだ。
それを気付いた。気付けた。だからみんなはもう大丈夫だろう。
ああ、みんなの胸にある音楽が合わさった時、どんな曲が生み出されるのか今から楽しみだ。
そう言えばジェミニのアカリとして作曲した時はすんなりといったけれど、ユニットを組んでから一番最初の活動となったカバーアレンジをどの曲にするかとなった時、えらい時間が掛かったのを今更になって思い出した。
その時はお互いに譲らずカラオケでオールを決行し、カラオケバトルを繰り広げた。中学生がオール?とか疑問に思ってはいけない。田舎の地元民がご贔屓にする店なのだ。たまにハメを外すのはご愛敬というものだ。
さて、バトルとは言うけれど、内容は散々たるもの。泥仕合と言う奴だ。体力も喉も限界まで使い切って結局カバーすることになったのはお互いに歌わなかった曲だったのだから。
カバーアレンジしたのはメロキュアの“Agape”、円盤皇女ワるきゅーレのタイアップ曲だ。
高音域での高い歌唱力と透き通る声、誤魔化しの聴かないシンプルで短い歌詞から演奏と歌の調和がキモとなる名曲だ。
それを選んだのは挑戦。そして音楽に対する愛からだ。
“Would you call me if you need my love?”
歌詞の中にあるその問い掛けに胸を打たれたのは私達だけではないだろう。
私達はその問い掛けに対してのアンサーとしてカバーアレンジを選んだのだ。
そう言えばAgapeもまた無償や無限の愛という意味があるそうだ。
無償、無限という概念もまた無と同様の概念だ。本来は存在しえないことに意味を与え、生み出されたのもの。
概念上の存在には現実的でないからこそ人を魅了するのだ。
さて、と私はそっと腰を上げると集中して作曲し始めたみんなに気付かれないようにお寺を出た。
気付いたとは言え現実としての形の無いものに形を与えるのだから長丁場になるのは必至だ。
空想と現実の狭間に心を置いて作業するみんなのために私は現実でできる手段を講じる必要がある。
「もしもし?マルゲリータとシーフード、あとは・・・」
差し入れ程度では一晩明かすには全然足りないだろう。
私は主屋から出るとスマホでピザ屋に出前を注文したのだった。