01
「ねぇ、なんで1+1は2なのかな?」
……。
俺には、質問の意味がイマイチ良く分からなかった。
いや、質問の意味は分かった。
分からなかったのは意味じゃなく、意義であり意図である。
日暮れの教室に、俺と向かいあって佇む女の、試すようなニヤニヤとした、やたらと神経を逆撫でする表情からは、肝心の『意図』が感じ取れなかった。
「知らん。先人がそう決めたんだろ。」
俺はそんな女のニヤついた顔から視線を外し、書類に集中する。
大体この書類の所為で教室に残る羽目になって、この訳の分からない質問に答えるという、奇妙なイベントに遭遇してしまったのだから、早急にこいつを始末してしまう必要がある。
……これ以上コイツに絡まれない為にも。
「えーーなにそれつまんない。」
「真面目に答えてよ真面目に。」
「そんな答えじゃ、エジソンさんも呆れちゃうよ。」
後ろ向きに椅子に跨って、つまらなさそうに
エジソンの前にお前が呆れてるじゃないか。
呆れてるというか飽きてるじゃないか。
「そんなに暇なら帰れば……?」
「いやぁね。」
「そうしたいのは山々なんだけど」
「バリアみたいなのが張ってあって出れないんだよ。」
にぃっと口角を上げながら、挑発してくる。
「はあ?!」
「ちょっ!おまっ!!」
俺は急いで教室のドアに駆け寄る。
ドアにある窪みに手を掛けて、両手で力一杯、左に引く。
少し力強過ぎたか、ガタンと凄い音を立てて開く。
割れていないか心配になる程の轟音だったが気にしてはいられない。
ドアの向こうに手を伸ばせば…。
――バンッ…。
今度は勢いよく叩くようにして、手を伸ばす。
――バンッ…!
どれだけ力強く叩こうが伸ばそうが、手は教室のドアより先に出ることは出来ない。
――やはり、教室から出られない。
出せない。
まるで――見えない壁に阻まれているかのように。
「ふっふーん。」
「大人しくしなぁ。」
椅子をカタカタと揺らしながら、楽しそうに言う彼女。
「
「きゃっ…!」
「
頬に両手を当て、恍惚そうに見上げる碧海。
若干引き気味になってしまった俺は、諦めてドアを閉め、元の席に戻る。
立ち上がるときに思わず弾き飛ばしてしまった椅子を、今度は丁寧に引き寄せ、ゆっくりと座る。
「いい加減にしてくれないかな……?」
椅子さんの痛みを代弁してするかのように、力強く圧を掛ける。
そんな俺の思いを気にする様子もなく、碧海はいけしゃあしゃあとこう言う。
「だって直人…話聞いてくれないし?」
「なんでそんなにニコニコしてんだよ…。」
「だって直人、今逃げられないでしょ?」
ニコリ。
彼女の整った顔に、不覚にもドキリとしそうになった。
けれど、この監禁状態+相手が碧海という状況を鑑みると、別の原因で心臓がドキリとした。
「で?いつ出してくれるんだ?」
「素っ気ない?!」
「馴れっこだしな。」
「それにしては、テンパってたけど?」
「可能性がある限り…俺は諦めないっ……!」
テンパってたという言い方は適切ではない。
俺はあくまでこの教室に囚われるのが嫌で、今ならもしかしたら抜け出せるのではないかと力を尽くした結果が、あの「椅子の悲劇」である。
ごめんっ…!椅子さんっ…!
「きゃあー直人格好いー。」
遥かに棒読みな碧海は遂に飽きたのか、長い黒髪を指先でクルクルと弄んでいた。
「っと…こんなこと言ったら本当に恰好良くなっちゃう。」
こんなこと…と言うのは『恰好いい』のことだろう。
「今更じゃないか。」
「迂闊な嘘は吐かないようにしないと。」
「聞けよ。」
俺の羞恥心のつまりにつまった台詞を華麗にスルーし、一人で勝手に完結させる。
「格好いい直人を見るのは私だけで充分だ!」
「はいはい。」
これ以上不毛な会話を続けるのは時間の無駄だ。
俺は返事を素っ気なく返して、書類に集中する。
「だから冷たい!」
そりゃ、冷たくしなけりゃ碧海が調子に乗って、いつまで経っても帰れなくなってしまう。
……あんまり暗い時間に出歩くのは良くないし、何より俺の母親から、物理的にお灸を据えられる。
それだけは避けたい。
「……」
「むぅ……。」
「分かったよ…。早くそれ書き終えて。」
「そして二人で甘ぁい時間を……。」
真っ白だった頬を高揚させ、ほんのり赤くなる。
艶めかしやかな唇を強調しながら、色っぽい瞳でこちらを見る。
器用だな…おい…。
「…………」
「……無反応はやめてよ!」
さっきの扇情的な表情は何処へやら。
頬をぷくうっと膨らませる。
しかし、この監禁状態(ry
「…どうせ…私が満足するまで出られないんだから…。」
目に涙を溜め、拗ねる碧海。
椅子を正面に座り直し、俺に背を向ける。
…碧海には悪いが、こんなことでめげる彼女ではないので、作業を進めさせてもらう。
――後で、後でちゃんと慰めるから……。
心で力強く謝罪しつつ、ペンを走らせる。
02
時は次の日。
いつも通りうざったい碧海に絡まれ数分。
やっとのことで書類を完成させた俺は、なんとか碧海に頼み込み、『見えない壁』を消してもらい、職員室へ提出しに行き、ほんの一歩すら教室に戻らず、当然荷物も置いたまま、全速力で逃げ帰った。
お蔭で朝から碧海の機嫌がかなり悪い。
俺はその碧海の鋭い視線から逃げようとは思わなかったし、思えなかった。
「直人……?」
「ハイ。」
雪女の如き、冷たい凍えるような視線に、(登校中だというのに)身じろぎすら出来ない。
「覚えてるかな……あの時のこと…·。」
「ア、アノトキトハイッタイイツデショウカ。」
「『碧海ちゃんをお嫁さんにしてあげる!』って…言われた時のこと…。」
「何年前すかね?!」
碧海をちゃん呼びしているのだから、少なくとも小学校高学年以前の話になるが。
「私…あのときとっても嬉しかった……。」
「なのに……。」
「……………」
俯きながら震えている碧海を見て、流石に申し訳なく思った。
人を泣かせたなんて、それだけで罪悪感が生まれてしまう。
俺は極悪人ではないのでな。
それがいくら、俺が牽制している幼馴染みだったとしても。
「…直人は私を抱き締める。」
ぼそりと碧海が呟くと、逆らい難いチカラで身体の自由を奪われ、脈絡も無く、彼女を抱き締める羽目になる。
柔らかい碧海の身体の感覚よりも、『またか。』という諦めにも似た感情の方を強く感じてしまった。
朝のなかなか早い時間帯とはいえ、人通りは皆無ではない。
過ぎ去っていく通行人は皆、恥ずかしいものでも見るように頬をほんのり赤く染めて通り過ぎて行く。
――もう恥かしいとかどうでもいいや。
……いや、恥ずかしいんだけど。
抵抗が出来ないのは俺が一等良く知っているので、諦めてサービスでもしてやろう。
碧海を抱き締めるべく背中に回していた腕を頭の方に持って行き、頭全体を包み込むように、顔を俺の胸板に
「は、はわわ……。」
俺の予想外の行動に、碧海は顔を真っ赤にする。
「よっしゃ身体動く!」
「なっ……?!」
自由になった両腕を直ぐ様碧海から離す。
驚いた様子の碧海。
「私、まだ満足してない!」
「してるから拒否出来てるんだろ?」
「うぅ……。」
ションボリと肩を落とす碧海。
いつもこんなにしおらしかったら惚れてたなぁ、きっと。
「まあ長いこと一緒にいるからな。」
「能力についてもお前よりも良く知っているかもしれないぜ。」
『能力』、そう、能力。
俺は間違いなくそう言ったし、碧海もそう受け取ったし、俺は間違いなくそういう意味で言ったのだし、碧海もそういう意味で受け取った…筈だ。
能力…というのはこれ以外、しっくりくる呼称が見付からなかった為に、急繕いで使った言葉だ。
本来どんな名前で呼ばれているかなんて分からないし、そもそも、碧海以外に、所謂『能力者』なんてものがいるかも知らない。
少なくとも今まであった人の中で能力者はいなかったし、その疑いを持ったことも無かった。
例えいたとしても、皆平穏に暮らしたいが為に、能力を隠すだろう。
目立ちたがり屋は別として。
碧海も例に漏れず、隠している側の人間だ。
隠してる側…と言っても、そんな派閥が存在するのか、という疑問は残るけれど…。
碧海の能力は『言ったことが現実になる。』というもの。
――バリアみたいなものが張ってあって…
――直人は私を抱き締める…
それもこれも皆、能力の所為。
俺がコイツに振り回されるのも、この能力の所為。
教室から出られなかったことも、公衆の面前で恥を掻いたことも、全部、能力の所為。
しかしそんな、最強無敵の能力にも当然、弱点はある。
碧海が満足すること。
能力を使ったことで満足感で満たされれば、能力は自動で解除される。
任意で解除する方法は一応は無いのだが、能力を打ち消すように能力を使えば、解除と言える形に収まる。
教室の『見えない壁』はこの方法で消えた。
ただ、「壁なんて無い」と言えば済むという訳だ。
つまり、能力は更新される。
それだけの話だ。
「うぅ……。」
上目遣いで悔しそうに唸る碧海。
ざまあみろ。
「ほら、早く行かないと遅刻するぞ。」
碧海の頭にポンと手を置き、先行する。
碧海は女子にしては身長が高い方なので、やりずらさを感じる。
「あ、ちょっと待って!」
「お願いだから待って!」
「必死過ぎだろ…。」
歩き去る俺に必死に追い縋る。
そんなに心配しなくても、俺はお前を置いていけないんだから…。(能力の話)
「待ってくれたらなんでもするから!」
「バック転でもリンボーダンスでも
「俺のメリットが分からん。」
バック転だろうがリンボーだろうが匍匐前進だろうが、俺には何の得も無い。
というかなんでその三つを選んだんだ…。
「特に意味は無いよ。」
「?!」
「俺って口に出してたか?!」
言葉を発したつもりは無いのに、何故か答えを返されて、もう「能力か?!」と疑うしかない。
でもコイツは何も言っていないから発動しない筈だけど……。
――もしや、進化した?
「直人のさっきの呆れ顔を見れば、大体分かるよ。」
「呆れてるのが分かるなら、いい加減にしろ。」
未だ衝撃が冷めやらぬまま、俺は碧海に手刀を御見舞する。
ふにゃ!と、可愛らしい声を出して怯んだ碧海を置いていくように、足早に学校を目指す。
これ以上コイツに構っていたら遅刻の危険性がある。
それは勘弁頂きたい。
そんなことになったら、碧海を経由して母に話が知れてしまう。
絶望しかない……。
俺は不安を取り除くように、一歩一歩力強く歩く。
「あ、待って待って!」
靴の踵を鳴らしながら、碧海が駆け足で寄ってくる。
俺の隣で立ち止まり、嬉しそうに笑う碧海。
その笑顔を見て、俺も釣られて笑顔を零した。