真っ白な世界があった。白以外の何もかもを排したその世界には、物体もなければ生物も存在しない。
ぽつり、と。
一人の少年が不意に姿を現す。12歳くらいの、ただ幼いとも言い切れない少年だった。よって、白い世界には初めて『影』が生まれた。
彼は泣いていた。ずっと泣いていた……いたけれど。両手で顔を覆うこともなく、うずくまることも、声を出すこともせずに泣いていた。世界に零れ落ちた彼の涙は、白く染まることもなく透明なままだった。
ひたひた、と。
唐突に多くの人だかりが生まれた。年のころはまちまちだが、その多くは高齢の老人たちに占められていた。彼と同じくらいの歳の子供ともなれば、十人といない。少年の周囲に立つ彼ら全員の足元に、『影』はない。
少年は、不意に泣くのを止めた。
二人の少年と少女が、彼の方に踏み出した直後からだった。ちょうど彼と同い年くらいの、男の子と女の子。彼らは少年の両隣から歩いて、ゆっくりと近づいて行く。
二人は泣いていた。少年よりもはっきりと感情を零しながら泣いていた。しかし落ちた涙液は地面に触れた途端に、白い世界に吸い込まれ、跡形もなく消える。
……なん、で……? なんで……?」
少年の声には、ただ漠然とした恐怖が宿っていた。声がどれだけ小さくとも、色抜けしたような真っ白い双眸は確かに苦痛を訴えている。
二人は、そんな彼の頬にそっと触れ、耳元で囁いた。
――オ■■ガ■■テ■、ヨカ■■。
※※※※
ふと目が覚めた。
最初に感じたのは、加重感。乗っかっている物を弾きのけようとすると、その物体が纏っていた異様な湿度に驚く。
大集団に組み敷かれていたかのように思われた重圧は、ただ自身の汗を吸っただけの掛け布団だった。いくら周囲を見渡しても、どこにも他人の姿など見えない。いつもの俺自身の部屋と、視線にそって動く《06:55》という文字盤だけが映る。
「…………ゆ、め……?」
そう口にしても、
普段の夢とは明らかに違う感覚。手の腹に爪をつき立てながらも、未だにここが夢か
ただただ恐ろしかった。
その夢は、自分に対する悪意を全て凝縮したらこんな夢になるのではないかと思えるほどの、強烈な悪夢だったのだ。
しかし、体にとっては脳みその混乱など案外瑣末なものらしい。俺の右手はいつの間にか、首の後ろのコードを手繰ろうとしている。しかし部屋の隅のコンセントから伸びる充電コネクタを確かめると、現状俺のニューロリンカーとつながっていない。うなされていたせいか、勝手に抜けてしまったらしかった。
それだけ暴れたのならどこか破損させてやいないかと、首元のニューロリンカーに手を回して僅かに飛び出した突起に触れる。
それは小さな外接カメラ。引っ張るとタコ糸より一回り太ったコードが伸び、ニューロリンカーのある首の後ろへ向けた。視界半分を使ってカメラの映像が流れ込み、やや褪せたシルバーの、緩やかな曲線を描く俺のニューロリンカーが映る。半年前に新調したばかりなのに、細かな傷がいくつもついていた。いつも着けたまま寝ているせいもあるのだろうが、今日は少し別件で着けたまま寝ざるを得なかったという事情がある。
とりあえず。大きな傷はないようだったので、俺はカメラを元の位置に戻す。
視界が再び全開になると、寝起きにも関わらず鮮明に映る――実際、視覚ではなく脳に直接働きかけているのだから当たり前だけども――視界左上に表示される《06:57》の時刻表示をタッチした。すると下に伸びるように展開される《クロック》メニューを操作し、あと3分後に鳴る筈だったアラームの設定を切る。
装着した状態での仮想アラームは、外した状態での控えめなものとは違う。脳に直接聴覚情報を送るため、鼓膜になんの負担も与えないからと言って相当無茶な大音量を響かせるので、うっかり二度寝しないうちに切っておかなければならないのだ。
……毎日の習慣というのは大きいもので、この時には俺はもうだいぶ落ち着きを取り戻していた。
「……頭いたい」
ひとしきり寝起きの作業を終え、俺は思わず頭を抑えた。昨日は遅くまでゲームをしたせいで、4時間も寝ていないのだ。
確かに妹とVRゲームをする久しぶりのことだったが、それでも昔は毎日夜遅くまで遊んで怒られるのも常だった。しかし、これに父や母まで加わってくると尋常でない。
いままでも家族仲が悪かったということはないが、家族四人でゲーム大会なんて流石に初めてだった。最終的に一番乗り気でなかった母がハマりまくり、主催者である妹が《寝落ち》(※使用者が意識を失うと強制的にVR空間からログアウトするサービス)するまで止まらなかったのだ。いつの間にかとんでもない時間になっていることに気付いた後は、みな顔面蒼白の体で寝床についた。
たった四時間前のことなのに、妙な悪夢を見たせいかまるで遠い過去のように感じる。
一体いつぶりだったろうか。こんなに「楽しかった」時間ではなく、楽しむことを「許せた」時間は……少なくとも、半年前より後には思い出せない。
こんな風に生きていいのか、という迷いが、未だに俺の腸のあたりを渦巻いていた。
覚醒してから早2分。
もしかすると父も母もまだ寝ているかも知れないし、そうだったなら起こさなければいけない。
どことなくふらつきながら立ち上がると、自分の部屋の戸を開けた。となりにある両親の寝室につま先を向ける前に、柔らかい小麦の匂いが鼻腔を包む。こんがりきつね色に焼けた食パンが目に浮かぶような香気につられて、俺は先んじてリビングへ赴いた。
「あ、
「……ミドリ?」
台所に立ち、電子レンジから4枚の食パンを取り出していたのは、昨日一番最初に寝てしまった妹――鈴木
さほど艶のないセミロングの黒髪を、後ろに軽く縛ってさげている。菊の花をイメージした黄緑と白のパジャマに包まれた肢体は、中学一年生としては痩せ型の俺の体格より更に一回り小さく、華奢だ。
「……え、アレ。母さんは……?」
「お父さんとお母さんならまだ寝てるよ。一回起こそうとしたんだけど、『あと5分あと5分』ってうるさいから、もう先に朝ご飯作っちゃおうと思って。……ま、パン焼いてコーンスープの粉末溶かすだけだけど」
「いや、まぁ……ていうか、お前電子レンジも使えなかったような……」
「鷹兄……いつの話よそれ。流石に11歳にもなってレンジ一つ使えない訳ないでしょ」
指摘されたことに憤るまでもなく、翠はやや呆れたような態度で、本人にしか見えない仮想の画面を操作し続ける。迂闊にも漏らしたその的外れな指摘は、誰のことも省みないで自分のことばかり考えてきた俺の、この愚昧な半年間の象徴と言えた。
「……じゃあ、俺はジャムとかマーガリンとか出しとく」
「そう? ならお願い……って、鷹兄チョコクリームも忘れないでね」
「……あれ大分カロリーあるぞ」
「今日も泳いで消費するから問題なし」
はっきりと喝破してみせた翠は、どうも今は水泳を習っているらしい。そんなことさえ知らなかったダメ兄貴は、少々うなだれるような気分でリビングへ行く。
台所から隔てる戸さえないリビングは、大分雑多な具合だった。
昨日の突発的ゲームパーティの影響もあるだろうが、うちのリビングは大体いつもこんなものだ。
この2046年現在、大抵の情報媒体は全てニューロリンカーによる電子データとして収納される。よって毎日溜まる新聞や書類、書籍や大半の郵便物などは人々の生活から消えうせ、もはや部屋を散らかすものは何もないかと思われるが、あながちそうでもない。
実際には、折り畳む前の衣服や、電子情報を重視するがゆえに増えてしまったデータチップファイルの数々が山積し、合成樹脂テーブル(子供が頭をぶつけても怪我しないことで有名)の上は未だに混沌とした有様だ。
過去には
「鷹兄ー! ジャムとかより先にお皿とコップ出してよ!」
「あ……悪い、すぐ出すから……」
妹に大きな声で呼びかけられ、びくりと肩が上がってしまう。食器棚に戻ろうにもカーテンがまだ閉じたままなのに気付き、ホームネットに接続された家電の使用権を行使して、上部についている小型モーターにカーテンを開かせると、目に染みるほどの日光が差し込んできた。
その日は、昨日まで降っていた雨が止み、秋雨に濡れたアスファルトの帯を、朝日がゆっくりと乾かしていく連休明けの火曜日だった。雨上がりの世界は、どこもかしこも天然の反射鏡ばかりで、まるで光のリサイタルのよう。二、三瞬きを繰り返すと、真っ白に覆われた視界が段々と輪郭を取り戻していく。
ガラスに映っていたのは、平々凡々とした少年の姿。つい先日切りそろえたばかりの短髪は、どうにもまだ馴染んでいないように見える。だぶついた灰色のスウェットが包む体駆は、反対にやつれたように細く、右手に巻かれた医療用テープが痛々しい。顔もやはりあか抜けず、全体的な印象はだいぶ暗いものだった。
世田谷区立明神中学に通う中学一年生、
※※※※
―――――2046年9月25日:明神中学/教室
紅葉はまだ遠いが、木の葉の色めきにはどこか変化が出始めていた。深緑は淡い翡翠色へ薄まり、中には黄金色に煌めいているものまである。
そんなしんみりとした秋の昼下がり。仮想黒板に記述されたさっぱり理解できない数式を前に、目線を思い切り逸らしていた俺は、窓辺から覗く梅の木より更に遠いところへ想いをはせていた。
2046年における中等学校の授業体系は、ほぼニューロリンカーによって成り立っていると言っていい。
まず、全校生徒はニューロリンカーを通じて学内ローカルネットにアカウント登録することで、学籍証明や出席確認などを済ませる。学内ローカルネット接続中はグローバルネットから強制遮断され、いくつかの特殊な行事を除き無効化はできない──が、あくまでこれは社会的な機構だ。実務的な機能は別にある。
例えば、教師の用いる仮想黒板。
これは、使用している本人にはニューロリンカーによって計算し尽くされた《最も文字を書きやすい眼前》に映し出される。だが逆に、ローカルネット経由で一方的に情報送信された生徒達には《最も文字を見やすい眼前》に黒板が映し出されるのだ。
よって全く教室の前面を入れていない筈の俺の視界には、黒板が煩わしくひっついているのである。転じて、明後日の方向を向いていてもメモを取っているフリさえしていれば怒られもしない。
もう一つに、自動音声補正。
教壇で喋るややぽっちゃり体系の数学教師は、根っからの小声なのか口の開き具合が微小で、素のままでは大した音量が出ていない。が、それを本人のニューロリンカーが拾い上げ、生徒側のニューロリンカーを通じ、増幅された聴覚情報として直接脳へ送信されている。
ただこの機能、結構な欠点がある。
あくまで《増幅》であって、一定以上の音量はそのまま伝えてしまう。だからたまに、こういった機能を軽視しがちな熱血教師に当たった場合、馬鹿げた本人の声量が《×2(バイツー)》になってとんでもく喧しいのだ。あの時は、鼓膜に負荷がなくとも、脳細胞がいくつかやられてしまうかと思った。
さて。
これら二つの授業が一体どんな効能をもたらしているかと言えば、答えは“限りなくゼロに等しい”だ。
黒板の仮想化は、チョークや鉛筆、消しゴム等の大量消費を防ぎ、更にはチョークの粉塵に過敏な喘息や呼吸器系の持病を持つ生徒に対し一定の効果をあげている。自動音声補正機能も同様で、聴覚障害を持つ生徒などへの実績は計り知れない。
けれど、裏を反せば。それは一般の生徒には余り関係がないのだ。
実際、ニューロリンカーが発売されたのが15年前で、学校にまで導入が義務づけられたのはほんの5年前。設備等の設置期間を考えると僅か3、4年程度しか経っていない。だから小学生時代のほとんどは紙と鉛筆を使用していたし、往時を鑑みても、利便性に然したる違いはなかったように思うのだ。
では何故こんなシステムが、大量の設備投資をかけてまで全国の学校機関に採用されているのか。
それは恐らく、現代日本において深刻化の一途をたどる少子化問題に深い関わりが……
キーンコーンカーンコーン ギーンゴーンガーンゴーン
と、こればかりは実際の音声である時報が鳴った。
6時間目の終了。そして生徒達にとっては帰宅時間を知らせる鐘でもある。──その瞬間、俺は多いに安堵のため息を落とした。
4月の入学からここ半年ろくな態度で授業を受けていなかったせいか、周囲に全く着いていけてない。特に中学から突然方式の変わる数学・英語などはさっぱりだ。うまいこと友人にでも聞ければいいのだが、俺唯一の友人は、はっきり言って余り頭のよろしいタイプではなかった。
きゅぽん、とやや間抜けたサウンドエフェクトと共に、視界右端のメールアイコンが点滅する。既に任意消滅可能状態になっている仮想黒板を消し、旧世代の封筒なるものを模したそれをタップし、開いた。余談だが、仮想黒板は生徒の学習意欲維持という名目でコピー&ペーストやスクリーンショットができない。
『ホンジツ 3ジ40プン セイトカイシツ ニテ マツ ソウキユウ ニ コラレタシ』
まず、文面の馬鹿さ加減に頭を抱えた。
授業時間内における生徒間の通信は禁止されているにもかかわらず、このメッセージは終業直後に送られてきた。つまり、授業中にわざわざ文面をセットしておいて、終わったが早いかそれをインスタントメッセージに貼りつけて送ったのだ。しかも、こんな百年前の電報調で。
きっと授業も聞かずに、どうしたら相手を笑わせられるかと何度も書き直したりしていたに違いない。無関係なことを考えて時間をやり過ごしていた俺に何か言う資格はないと思うが、それでもこの送り主が相当のアホウであることは明らかだった。
容量の余りまくったストレージにそれを放り込み、席を立つ。まだ時刻は三時半丁度だが、こと勉強以外は真面目なあいつなら、誰よりも早く急行していることだろう。そう、例えば『最もカッコいい決めポーズ』の練習にでも勤しみながら……
「………………んぐっ」
想像すると、件の仮想黒板に取って代わって、坊主頭のヤツによるありとあらゆるポージングのイメージが浮かんで離れなくなった。鬱陶しさは後者の圧勝。まさにチャンピオンである。
などと馬鹿なことを考えていたせいか、廊下の角を曲がる際、横合いから現れた人影に気付かなかった。
「……あっ」
「……ッて」
ばらばら、と大量の紙がが舞い上がる。最初は何がなんだかよく分からなくて、プリントを運ぶ女生徒にぶつかってしまったのだ、と把握するまで一秒以上かかった。
「あっ、わ……!」
ミスに気付いた俺は、慌てて散らばったプリントを拾い集めようとする。ぶつかった女子は、中途半端に手元に残った束を落とさないようバランスを取っている為、しゃがみこんでプリントを拾い集めるのに難があるようだった。
そんな成り行きもあり、結局俺が全部かき集めることに。元を正せば当然の責任なのだが、今どき触れる機会のないプリント紙集めはあながちに大変だった。
「……その、これ」
「あ、これはどうも」
拾ったプリントを手渡す段階になって、ようやく相手の顔がはっきり見える。
しっとりとした黒い髪の毛は、線の細いその肩よりも高いところで切りそろえられていた。頭頂部にシンプルな白いカチューシャを差し、胸には赤いリボンを着けてはいるものの、それ以外は至って自然体。しかしというかだからこそ、初見でも彼女の顔の端整さは十二分に理解できる。
「すみません……手、怪我をしているのに全部拾わせてしまって」
「いや……もう治りかけだし、その……そもそも俺がぼーっとしてたせい、だから」
「いえ。散らばりやすいものを抱えていたのに、私の注意が不足していました。どうぞお気になさらず」
へり下った物言いではあるものの、言葉尻のハッキリした清明な喋り方だった。凛とした立ち振る舞いだけでなく、俺の右手のテープのことを気づかう配慮の心さえある。言行の節々から育ちのよさが感じられた。――ただ。
ただ何か、違和感があった。
「……あの……」
「はい?」
大前提として、俺はヒトと喋るのが下手だ。
それも単に女子と喋ると声が上擦るとか、緊張で稀に吃音が起きるとかの次元ではなく。相槌とオウム返しができれば上等で、まともに返答するなど至難を極める上に、身内にだって未だに口籠ってしまう時が多い。その位どうしようもないレベルだ。
そんな訳なので、俺が相手に話を振るなんてこと。それも初対面の女子にずけずけと質問するなんて、とてもとても珍しいことだった。
「…………ていうか、あの……なんで、敬語?」
彼女は、その
その瞬間。初めて、彼女がわずかに柳眉をひそめたかのように見えた。迷っているのかどうかは分からない。俺は俺で、聞いてはいけない質問だったかと今更後悔し始めている。
しかし、答えは端的だった。
「主義、ですね」
「あ、ああ……………………そう」
一片の曇りもなくそう言われてしまっては、もう何も言えない。俺はぎこちない微笑みを返すしかなかった。
「ご迷惑をおかけしました。それでは失礼します」
ショートカットに白カチューシャの女子は、律儀に頭を下げてからその場を去って行く。もしかしたら新手のボケだったのではと考えつつも、それはそれで難易度が上がってるだけではないのかと反対のことも浮かび、思考がグルグル空回る。
結局。職員室の方面へ向かう彼女の背と、その首筋にあるオレンジ色のニューロリンカーを階段の角まで見送ってから、独り言ちた。
「…………俺も行くか」
※※※※
明神中学の校舎は、本館と体育館等のある別館に分かれている。そして、俺が今いる本館は五階建てだ。
一階には保健室や応接室に職員室があり、二階に一年生、三階に二年生、四階に三年生の教室がある。当然クラスルームだけでは余りの出る二、三、四階は図書館他レクリエーションルームが占めているのだが、五階はと言うとこれがほとんど何もない。物置みたいになってる少人数教室と、後はいくつか『特殊な用途』に使われる部屋があるだけだ。
よって、ここ生徒会室はその『特殊な用途』の部屋の一つということになる。
なんか、超入りづらい。
俺がそう感じる理由は言うまでもない。
いくらこの部屋の利用者から呼びつけられたとはいえ、生徒会というのは教師陣を除けばこの学校のトップヒエラルキー。その彼らが使用する部屋というのは、入りにくさで言えば校長室に次ぐレベルだ。生徒間における実際の扱いについては知る由もないが、少なくともクラス内で二人にしか名前を憶えられていない俺より下ということは有り得ないだろう。
とにかく拘泥してても始まらない。二、三回ノックしてから戸に手を掛ける。
「……失礼しま――――す……?」
戸を開けて最初に現れたのは、漆黒の帳だった。
足を一歩引いて全体像を見ると、それが黒いマントを羽織った学生の背面であることがよく分かる。本来の背丈は一年男子の平均より下だろうが、頭にのせたシルクハットを足せば俺を超えるくらいはある。
そして、今のところ唯一の友人である
「やぁやぁ、よくぞ来たなタカ! 今日はこのオレが新たな世界への道を示してやろうと思い、ここに召喚した次第よ! 大いに感謝したまえフハハ」
「――間違えました」
その刹那、俺の右手は紫電よりも速く閃いた。
取り付けられた開閉用の窪みに触れ、稲妻のように戸を
ならば仕方がない。このまま力押しでヤツの足を潰す――
「イタイいたい痛い! ちょっ、間違ってないって! ここで合ってますって! ディスプレイス、イズ、セイトカイルーム!」
「ッ、しぶとい……っ」
「完全に仕留めに来てんじゃん! 何がそんなに気に障ったってのさぁ!?」
わめく声は特撮の怪獣よりもおどろおどろしく、水揚げされたタコが如き激しい抵抗を見せる。タコというなら、ズレたシルクハットの下から本人の薄っすら涼やかな頭部の方がそれっぽいが。
俺は少しだけ手を緩め、一応の確認を取ってみる。
「……貼っといた予防線の、さらに下を行かれた俺の気分……わかるか……?」
「へっ? なんのことよ? もしかしてステッキとかちょび髭とかが足んなかった? いやぁー実はさっき鳩のぬいぐるみ見つけたから、どうやったら帽子に隠せるか苦心してたん――」
……よし、倍プッシュだ。
空いた左手を壁面の凹凸に掴ませ、内側に挟み込む要領で更に強く戸を押し込む。ぐにゃぐにゃと肉が潰れるような感覚が諸手を覆ったが、どうせ八本もある(ない)のだ。少しくらい伸びても問題ないだろう。
「ギャーッ! あ、ちょっ、ギブギブ! なんか足の感覚なくなって――ていうか、昨日のゲームの話をしないの!? オレその為に呼んだんだけど――っ!」
「…………そうだっけ」
「そうですその通り! という訳で足の拘束を解いて欲しいんですけ――ぐわぁあああッ! これ以上強めちゃダメぇだってばぁっ!」
そういやそんな理由だったかな、と片手間に思い返す。
昨日の部活前に突如として現れたこの大内は、いきなり《直結》というマナー違反というか常識から逸脱した行為を強要し、挙句の果てによく分からないゲームアプリを送信してきたのだ。当然説明を求めた俺に「明日になったら話す。とりあえず今日寝る時はニューロリンカーを外すな」とだけ言い残して去っていったのが昨日のこと。その訳の分からない説明を順守した俺も俺だが、やはりこのタコ坊主はいずれ締め上げねばなるまい、と固く心に誓う。
でも、まぁ。
そろそろ頃合いだろう。いい加減腕も疲れてきたし、おふざけはこの辺にしておかないと永遠に用件が終わらない。両腕から力を抜き、そっと戸から手を離そうとした。
「――おい! そこで何してる!」
鋭い声に、びくりと肩が震える。
声は階段の方からで、そこから現れたメガネの男子生徒は紛れもなく上級生だった。襟首の草のバッジから見て二年生だろうが、この際学年は大した問題ではない。
生徒会室の戸を押し合っている今の俺たちの姿は、どこからどう見てもふざけて遊んでいるようにしか見えない。というか事実その通りだし、誤解どころかこれ以上なく正当な理由で注意を受けることになるだろう。停学やら謹慎やらは流石にないと思うが、職員室連行くらいは普通に有り得た。
「扉も学校の備品だぞ! 壊したらいくらすると思、って…………」
「あっ! 来た! メイン先輩来た! これで勝つる! ヘルプミー!」
毅然とした表情を湛え、上履きを鳴らしながらこちらへ闊歩してくる二年生の言葉は、奇しくも俺の押していた戸の様子を見た途端に止まった。
そこにあったのは、きっと謎の黒マントとシルクハットを着けた大内の姿だろう。大内本人は両手を振って盛んに助けを求めているが、黒ぶち眼鏡の先輩からは表情の一切が消えていた。
その二年生は、時が止まったかのように少しの間立ち尽くす。
俺には、それがどんな意味を表すのかを推し量ることはできない。二人の間には何か因縁があったのかも知れないし、そうでないのかも知れない。
ただ、次に彼の起こした行動はシンプルであった。
――戸に手を添え、容赦なく大内の方に閉めた。
「えっ! ウソ先輩、マジで閉めっ、あっ、あっ……ッァア―――――ッ!!」
大内の汚らしい断末魔が耳を
人が少なくてよかった、などと友人の最期を見届けながら俺はやや逃避的な感想を抱いていた。
※※※※
生徒会室内には、数多くの備品が無造作に置いてあった。最低限、事務作業と会議用のデスクとスクリーン周辺は空間が確保されていたが、それ以外は物置同然と言っていい。いや、基本的に使用頻度の低い物置より、学園祭数週間後の
「――で、だ。結局、彼がお前の言っていた友達で合ってんだよな、大内」
生徒が指を挟んだら怪我をする、なんて理由で関節のあちこちに合成樹脂が塗られたパイプ椅子。その一つに、メガネの二年生は横を向いたラフな形で座っていた。
若干色素の薄い焦げ茶色の髪は、かなり癖のない毛質のようで、耳と目に少しかかるくらいまで柳のように垂れている。眉間には中学生に似つかわぬ苦労ジワの跡が滲み、つり上がった眉の下には鋭利な双眸が覗いていた。
「そりゃオレが言ってたのはそこのタカで間違いないっすけど……そ、それより
フーフーと息を吹いて自分の足を労わる大内(シルクハットと黒マントは取り上げ済み。備品だったらしい)は、迂遠な言い回しで抗議していた。
ヤツの外見については、間抜けヅラと坊主頭であることさえ分かってれば十分だろう。他の特徴なんて、結局その二つのインパクトに比べれば全部上塗りされてしまう程度のものだ。
「生徒会室の戸で遊んでるようなヤツに人権はない」
「最終的に先輩が一番トビラとオレにダメージ与えてましたよねぇっ!」
大内がキャンキャン騒ぐのもおかまいなしに、「池澤」と呼ばれた先輩は立ち上がり、俺の座るパイプ椅子の方まで歩み寄ってくる。ほとんど反射的に俺も立ち上がった。
「苗字はたしか鈴木……だよな。オレは生徒会副会長の
「……ぁ……はい」
凄まじく小さな声で応じたが、気に留める様子もなく眼鏡の二年生――池澤は握手を求める。俺の手元よりわずかに高い位置にある彼の手を取ると、ハッキリと力強い感触があった。
驚くべきは、その「重さ」だろうか。
彼の体つきは、どう見ても運動や喧嘩沙汰とは縁遠そうな細身だった。筋肉など俺よりついているか怪しいもので、こうして握られている右手だって特別握力が強い訳ではない。それでもこうして背筋の伸びた彼の立ち方を見ていると、たとえトラックがやって来ても不動のままなのではないかという気がしてくる。
正しく「そんな馬鹿な」という発想。けれど彼の持つ独特の雰囲気は、そのバカげた発想さえも裏付けてしまいそうな圧が合ったのだ。
「慣れてますし……ていうか、俺も、その……調子乗りすぎてました。……すみません」
「仕方ないさ。突然部屋ん中からあんなバケモン飛び出して来たら誰だってそうする。オレだってそうする」
「……です、よね」
謝罪と赦しを経て、池澤先輩から差し出された手を取り、固い握手を交わす。口下手な俺だが、この握手に飾りつけた言葉は要らなかった。お互いに理解の共通基点を有し、同じ闘いを続ける同士との、言語を介さない温かな対話。
要するに、「大内メンドくせぇ同盟」結成の瞬間であった。
「……おかしくない? 二人とも初対面だよね。それがなんでオレほっぽいて固い握手交わしちゃってんの? おかしいよね?」
「呉越同舟って言葉、あとで辞書引いとけ」
粘着質につっかかる大内に対し、池澤は俺から手を離してから冷然と返す。もちろん大内の無駄に広い交友関係をすべて把握している訳ではないが、俺の知る限り彼ら二人は今年度の生徒会が始まる
そう言えば。
今更になるが、何故この池澤副会長は今日ここに来ていたのだろう。単に生徒会活動の日だと言われたらそこまでだが、一応昨日の大内は「許可はとってる」と言っていたし、しかも用件はゲームアプリのちょっとした説明だった筈だ。それが何で生徒会の生真面目そうな先輩まで出て来るのだろう、と疑心せずにはいられない。
…………イヤ、ただの大内の大ポカと言われてしまえばホントそこまでなのだが。
「さっさと本題に入るぞ。差し当たって、鈴木に聞いておきたいことがいくつかある。」
立ったまま、学校史などの今時珍しい紙媒体が数多く蔵書されている本棚にもたれるようにして、池澤は話を始める。
最初に。アンダーリムの下から来た金属質な彼の視線が向いたのは、大内ではなく俺だった。
「まず、大内からどこまで聞いてる? 《加速》や《対戦》についてなんだが」
「……え、っと? よく、意味が…………?」
「じゃあグローバルネット接続のリスクとか、睡眠時にアバターを作成するからリンカー外すなって話についても訊いてないか?」
「一応、寝てる間はリンカーを外すな、とは……言われましたけど……」
質問の意味がよく分からなかった。質問に答えるというよりも、ほとんどこちらの知ること全部を暴露するように応対する。そのカソクやらタイセンやらが、昨日大内からインストールされたゲームの用語なのでは、という尤もらしい推測が浮かんだのは、それから5秒近く経ってからだ。
要するに、それくらい池澤副会長の認識と俺の状態が異なっていたということ。困惑する俺を見ておおよその判別がついたのか、彼は鋭い目で大内の坊主頭を射抜く。
「大内……てめえ全然説明できてないじゃねえか」
「えっ! そ、そんなこと言っても結構タイヘンだったんすよ! ぶっちゃけ、突然《直結》して変なゲームアプリ突っ込むとかほぼ詐欺ですよ! そんな悪辣なことを親友にせざるを得なかったオレのこの無念な気持ちが分かりますか!」
「我が校始まって以来のペテン師がよく言いやがる……つーか、最低限グローバル接続を切らせろって言ったよな確か……?」
てへっ、と。三枚目の坊主頭がベロ出して小首を傾げた。
その余りに悍ましい絵面はもはや説明する気も起きないが、一刹那ばかり池澤の顔に般若が覗き、流石の大内も舌を引っ込めたということだけは記して置く。
「いっぺん湾岸エリア辺りに簀巻きにして放り出してきたいとこだが……まあ仕方ねえか。つーか初顔の新人にちょっかい出すヤツもいないとか、毎度どんだけ過疎ってんだうちのエリアは」
二重の意味で呆れる、とばかりにため息を吐く池澤。実際には俺はその片一方が何なのか全然知らないし、多分もう片方も半分くらいしか理解できていない。
とにかく、それをこれから説明するのだろう。俺には(コミュニケーション能力的にも)状況を見守る他ない。
「じゃあ後は全部《待機所》で説明する……から。鈴木、ちと悪いが、ちょっと《直結》してもらっていいか」
するととんだ藪蛇が来た。
《直結》っていうのはあの《直結》だろうか、と思考が空転している間に、池澤はデスクの引き出しから二本の
「……その……なぜ…………?」
「必要なことなんだ。セキュリティ関係が気になるなら、オレは直結中リンカーを一切操作しない。約束する」
《有線直結通信》。
早い話が、互いのニューリンカーに横たわる無数のセキュリティを無効化し、高速通信を可能にするための行為だ。データのやりとりは格段にスムーズになり、《思考発声》による会話なども可能になる。
利便性は上がるが、さきほど池澤も言った通り、直結中はお互いのセキュリティがかなり脆弱化する。ハックもクラックも思いのままなので、初対面の相手とするのは流石に危険な行いと言わざるを得ない。……まぁ、逆に家族間やカップル間では割と盛んに利用されているのだが。
「先輩先輩。『男ばかりの直結祭り』って、もう、字面からしてドキドキがまるで感じられないんですが……?」
「だ・ま・れ」
いつの間にか池澤のブロンズカラーのニューロリンカーを中心とした
『――よし、二人とも繋げたな。問題なかったら
耳ではなく、頭に直接声がする。硬質でよく通る響きは、《思考発声》という形になっても変わらない池澤のもの。俺と大内は素直に返事をするが、その形はだいぶ異なっていた。
『あ、ハイ』
「『りょ、了解……って声ダブってるし。やっぱ結構ムズくないっすかこれ』」
俺の返事が、普段の声をベースに自動作成された仮想音声のみなのに対し、大内のそれは本人の肉声混じりなのである。耳と頭の二重に声が聞こえるさまは、教師の使う自動音声補正によく似ている。が、実のところ、これら二つの機能は根本的な部分で大きく相違していた。
『えと……そういう時は物理的に口閉じた方がいいぞ。頭で念じるっていうより、口以外はほとんど喋ってるような感じで』
『口以外口以外口以外……おっ! 出来た出来た! さんきゅータカ――って、アレ……? なんかおまえ普段より口数多くね?』
『……いや、まぁ、馴れれば普通に喋るより楽だし』
『ほーん』
自動音声補正は、あくまで物理的なマイクで拾った音を増幅、送信しているに過ぎない。けれど思考発声は、喉や声帯を通すより前。その名の通り《思考》したことをそのまま仮想音声として発信するのだ。もちろん莫大な人の思考すべてを馬鹿正直に変換している訳はなく、ある程度本人が言葉を選ぶ必要はあるものの、通常の発声に比べれば必要な工程が遙かに少ない。そして負荷の減少はそのまま喋り易さに直結する。
そして時に、こんな事態も招くことがある。
『……そういやタカって、なんで赤ちゃんの頃からニューロリンカー持ちなんだろう?』
『は……? なんでお前がそんなこと知って……?』
『えっ――うわやべ声に出てた? いやでも、今更気にするようなことでもないっけ……?』
どうやら今の大内の発言は、ただの内言らしかった。思考発声中に口頭で話してしまうのもありがちだが、本来伝えるつもりのない考えまで伝わってしまうパターンも珍しくない。いかにも思考発声初心者というミスだ。
当惑する俺と、どう説明したものか――という内心を半分以上垂れ流しにしながら思案する大内。その二人に挟まれた黒ぶち眼鏡の池澤は、かなり露骨に嘆息しながら割って入る。
『……先日のアンケート調査結果だ。そこにニューロリンカー使用年数を書き込むのがあっただろ? ――それ、
『ああ、なるほ………………え?』
初めの半分だけ聞いて納得しかけた所で、藪から二匹目の蛇が出て来る。ドジョウじゃないのだからそう何匹も出て来なくとも……などと脱線した思考がケーブルづたいに漏れる前に、俺は池澤に訊き返す。
『……え、と。なんでまた……?』
『一言で言えば、それが今回の『本題』――いや、
今度こそ何も分からなかった。
油を差していないドアのように、ぎこちなく首をもたげるのが精一杯。ただそれはあちらも織り込み済みだったのか、疑問を挟む間を作ることなく池澤は続けた。
『詳しい話は、一度体験してもらった方が早い。おい大内、そっちの方から手品用かなんかのコイン取ってくれ』
『へいへい了解りょうかーい……でも何に使うんすかコレ?』
『それも含めてすぐ分かる』
放物線を描いて飛んでくるコインを片手でキャッチすると、池澤は感触を確かめるように二、三度弾いては掴み直しているようだった。
『じゃあ、鈴木。オレが次にこのコインを弾いたら、あるコマンドを言う。お前はそれを間髪入れずに復唱してくれ』
もちろん《思考発声》じゃなくて口頭でな、と付け足し、池澤は親指にコインをセットする。正直何がなんだかよく分かっていない俺だったが、そう言われれば従うしかない。よく見れば端にいる坊主頭の友人も多少姿勢を正して、次の瞬間を待っていた。
それは、一秒とない時間だったのかも知れない。
ピィンッ、と。コインを弾く甲高い音が響き渡る。
掘り込まれた意匠が霞むほど使い古されたコインは、窓から射し込む僅かな光を鈍く反射しながら、宙を舞う。表は王冠、裏はとんがり帽子の悪魔。それらが代わる代わるにこちらへ姿を見せながら、やがて天井の蛍光灯にまで達するかというほど高く飛ぶ。
そして鋭く、池澤のコマンド発声が俺の意識を貫いた。
――――バーストリンク。
それを、俺がどれほど遅れて言ったのかは分からない。けれど、何か。俺の口は普段の強張った感覚をまるで忘れ、魂から吸い寄せられるようにいつの間にやらその単語を発していた。
そして次の瞬間。
バシイイイイッ!! と。
空間そのものが割れるような雷鳴が轟き、世界が一変する。
全面に、青。橙色の斜陽に照らされていた茶色の床や銀のパイプ椅子、大きく白いスクリーンから紺色基調のブレザーまで。気付いた頃には、生徒会室内のすべてが青くクリアに染まっていた。
しかし、俺が仰天したのはそこではない。
それは上。回転しながら宙に浮いていたコイン。光を弾く金色は今や薄い青色に変わっていたが、俺はその存在を今の今まで見つめており、認識の断絶もおかしな見逃しもなかった筈だ。
一秒経っても、二秒経っても。落ちることもなければ、表と裏が入れ替わることもない。コインは重力のくびきからも運動量の法則からも解放された状態で停止し、俺の頭上ではとんがり帽子の悪魔がずっと笑っていた。
「……どう、なって…………?」
そう口に出した時点、とある事実に気が付いた。俺は明らかに口から言葉を発してしまっているにもかかわらず、思考発声がダブる感覚がない。XSBケーブルを接続した状況で《思考発声》が起きない理由は大きく分けて二つ。一つは接触不良や任意の実質接続停止をした場合であり、もう一つは直結したまま
よくよく考えれば、池澤の発したそれは一般的なフルダイブコマンドに類似する。つまりこの現実を色違いに模したこの仮想空間は、池澤らの言っていたゲームの仕様である蓋然性が高い。
だから俺は、ほとんど何の気なく、池澤や大内の方へ声をかけようとした。
「――
俺が言うまでもなく、返答はやってきた。それは勿論、今の池澤の戸惑いの言葉などではない。
ボコォッ!! と粘性の強い液体が、何かから吹きこぼれるような音がした。音源たる窓の外へ顔を向けると、巨大なオレンジの光の柱が立ち上がる。火柱とも呼ぶべき強烈な光に
物体全てを埋め尽くしていた青は、いつの間にやら視界のすべてから失せていた。何せ、眼前に並ぶ黒と赤の織りなす暗黒の世界に、青という色が介在する余地はなかったからだ。
一時は自分の五感の方が信じられなかった。
まず嗅覚を腐った卵のような匂いが席巻し、聴覚には先程の粘着質な音がへばりついている。味蕾が感知する空気の味は熱く、肌には今にも汗だくになりそうな熱波がむんむんと沈着していた。
溶岩流と、黒々とした火山石。――たった今まで生徒会室であり中学校だった場所が、炎熱地獄のような溶岩地帯と化していたのである。
「…………え、は……」
一体自分は、何処へ来てしまったのだろう?
そんな逃避的な疑問が俺の頭をもたげるが、一も二もなく別の事実がそれを否定する。
【1800】の数字が【1799】【1798】と減っている間に、視界中央では【FIGHT!!】と炎が閃き――気付く。
もしかして――これはVRゲームなんじゃないか、と。
そうならそうで納得のいかないことは多々あるが、それでも一応の心の落着点のようなものは築けた気がした。たとえどれだけ滅茶苦茶な事象が起きても、ゲームだから、で説明できる。俺が考えて答えの出る領域ではない分、いっそ思考も何も放り投げられるのだ。
そんな根拠のない安堵感が身を包むと、今度はこのゲームを俺に送り込んできた当人たちに意識が行く。そういえば、と俺は周囲を見渡した。
「えっ、えぇっ!? なんでいきなり《対戦ステージ》に来てるのオレたち!? どゆこと!?」
探すまでもなく、いつもの煩い声が響いてくる。天井の数か所から高熱の雫が垂れ、ガラの悪い鍾乳洞みたいな状態になっている生徒会室の中で、ヤツはいつものハゲ面とは異なった格好で騒いでいた。
恐らくこのゲーム用のアバターだろう。その姿を一言で表すのなら、やたらデカいモモンガだろうか。くりくりとしたアイレンズや、ぴっと上に伸びた耳が齧歯目らしくとても愛くるしく映るが、中身が坊主頭のアホだと思うと表情筋の引き攣りを禁じ得ない。特徴的なのは、体のほとんどが単色で構成されていることか。完全な緑よりはやや青っぽい感じのカラーリングは、灼熱の光をよく反射する綺麗な色合いだ。
「ゲージよく見ろナッツ。鳴沢……スネークヘッドの仕業だ。わざわざ中学まで来て突然《乱入》とか何考えてんだアイツ」
いや、光の反射という意味ではこちらの方がより顕著か。
堅く生真面目そうな口ぶりは、確かにあの池澤のもの。その音源は、てかてかとした金属光沢を全身から放つ銅の人型だった。「銅色」ではなく正しく「銅」そのものと言った印象のボディは概ねなんの特徴もなく、それが逆に埴輪じみたコミカルな印象を与えている。左手には古代ローマの剣闘士が用いたグラディウスめいた両刃剣、右手には盾……というより「壁」と呼ぶ方が正しそうな身の丈ほどの無骨な銅板が握られ、いかにも戦闘用のアバターらしい。
銅巨人アバターの池澤が何の気なしに振った首が俺の方を向く。その様子で、モモンガ大内の方も俺に気付いたらしくこちらに手を振ってくる。
「おータカどういうアバターになった、ん……?」
「おい鈴……木、なのか……?」
なんでか二人とも、言葉途中で固まる。俺はとにかく彼らの方まで歩いて行くが、表情の読み取り辛いアバター姿の二人はなんとも言えない雰囲気を醸していた。
そういえば、こうして二人がアバター姿を披露しているということは、俺も何かしらのアバターになっているのではないか。二人とも結構
いや、俺はそろそろ気付いていたのかも知れない。
距離に対していつもより速度が遅く、こんなガチガチの火山岩の上を歩いている癖してやけにフワフワした感覚が足裏を走っていること。そもそも視界上の二本のバーにある《モペラモーブ・スネークヘッド》という名前と、もう一つの《ある名前》を見ていた時点で。
「鈴木……ちょっとこの盾見とけ――アビリティ、《
池澤が俺の倍ほどの盾を翳すと、そこに小さな影が映り――突如その表面が鏡のように光輝いた。正確には光を反射する割合が増えただけだが、結果それは現在の俺の実像をはっきりと映し出す。
まず目に入るのは、目が痛くなるような黄色い着色。
それがやや縦長の直方体として成型され、そこから丸っこい小さな手足が伸びている。一メートルちょいの直方体の真ん中に目鼻口が全て揃っており、どうも一頭身に毛が生えたバランスのようだ。特徴的なのは、全身がネズミにかじられた跡のようにボコボコとしており、それがどうにもコミカル――というか、
――――――――――つーか、スポ○ジ・○ブじゃね。
いやいやそんな馬鹿な。
いくら何でもそんなワケはない。いくらちょっと怪しげなゲームだって、著作権の概念くらいあるだろう。まんまソレなんてアバデザ(※アバターデザイン)許されるワケがない。まぁ、でも。ゲームのデザイナーだってタイヘンなのだ。たまに造形が似かよることくらいある。そうだ、多分そうだ。これは俺の単なる見間違い。ちょっとソレっぽいからってビックリし過ぎて、よく見たらそんなに似てないなんてことはアルアルだ。――よし、もう大丈夫。次こそは穴が空くほどじっくり見てから、正確な判断を下すのだ。3、2、1……ハイ!
――――――――――どっからどう見ても、ス○ンジ・ボ○だった。
「……………………………………ナニコレ」
思考を失うというのはこういう時のことを指すらしい。いや正確には元キャラと全く同じという訳ではないのだ。やたら伸びたマツゲや、あの一回りして狂気を感じさせるようなフレッシュスマイルもない。ただもしも「パクったよね」と言われたら何一つ反論できないレベルというだけで。
隣を見ると、大内が肩を震わせていた。白い帯のついた頬をぷっくり膨らませ、噴き出す寸前という表情である。いつもなら既に殴っている時分だが、眼前の池澤の方でさえ明後日の方向を向いて表情を誤魔化しているのだから仕方ない。
彼が大内と違っていたのは、その後に俺の肩を叩く余裕があったことぐらいだろう。
「まぁ、なんだ……ドンマイ」
果たしてその言葉は優しさだったのだろうか。ろくに人心を解せない俺には知る由もないことだが、奇妙なほど今の俺の気持ちは透き通っている。
諦観とか忘我とか、とにかく「無」と呼べる感情をいっぱいに詰め込んだスポンジボディが、鏡と化した池澤の盾にぼんやりと浮かんでいた。
――とどのつまり。
これが俺、鈴木鷹こと《エッグ・スパンジ》の初陣であった。
「剽窃=他人の作品や論文を盗んで、自分のものとして発表すること
Imitation=模倣、まね、模造、模写、物まね、人まね、模造品、偽物、模造作品」
……要するにそういうことです
2018/08/17/18:59 あとがきの修正