時期的には結構前の話。
その日、朝の穂群原学園職員室はこれまでにない困惑と動揺に包まれた。
「……ふ、藤村先生?」
「大丈夫ですかっ?」
ふらり、ふらりと。
快活で知られる藤村大河が、誰も見たことがないような虚ろな目で俯きながら自分の机に向かい歩いていた。
普段なら快活さと礼節を同居させた独特な朝の挨拶で教員皆を和やかな気分にさせるというのに、だ。
藤村教諭はまだ経験が浅いながらもその人柄で同僚達にも愛されており、さらにとある軟派野郎の所業により同年代の同僚達には異性として強く意識されてもいる。
そんな女性が酷く憔悴し沈みこんでいるのだ、職員室は一気に騒然となった。
そして。
周りの心配する声も聞こえないようで一切反応することもなく机に辿り着きそのまま流れるように伏した藤村大河のこぼしたひとりごとで、
「………………しろーに捨てられちゃったぁ……………」
職員室の混沌は凍結という形でピークに達した。
…………凍りついた空気。
動揺や混乱や衝撃や絶望や殺意や憎悪が入り乱れ、誰もがその動きを止めた中で、一人だけその空気に憚ることなく大河に話しかけた者がいた。
「……衛宮嗣郎がどうかしましたか、藤村先生」
今現在老若男女問わずこの場にいる者の殺意を一身に向けられているだろう学園の有名人の名を出したのは、寡黙無愛想で知られる葛木宗一郎。
生徒に身近で明るく気安い藤村大河とは真逆の性格だが、実直で生真面目な彼もまた同僚や生徒の信頼厚く、藤村教諭とは好対照として知られる教師だ。
普段言葉少なで自ら会話を始めたり加わったりもほとんどしない葛木には珍しい反応。
動揺の余り言葉が出てこない同僚達は彼の珍しい行動に言葉なく賞賛を贈る。
「はい、しろうが、しろーが…………え? あ、おはようございます、葛木先生、……あ、あれ? 」
衛宮嗣郎の名前に反応したらしく初めて応えた大河はようやく目に理性を取り戻す。
「お早うございます。衛宮嗣郎と何かあったようですね」
「うっ……え、えぇと? わ、わたし何か変なこと言ってました?」
教師として自分を律しようと普段から意識している大河は自分がどうやら醜態を晒したらしいことに慌てだす。それも若くして教師の威厳のようなものを持つ葛木宗一郎を前にしてとあってはなおさらだ。
「それほどのものでもありませんが……藤村先生らしからぬ状態かと」
「えぇと、そう、ですか? ……え、あ、……お、おはようございます、みなさんっ! あっ! 準備しないとっ!?」
「……そうですね、もうすぐHRです」
ああっあれ忘れたーっ、にゃぁっあれも!?、とさらに慌てる大河を置いて、葛木宗一郎は静かに考え込んだ。
......................................................
「えぇっと。……ここに来るのも久しぶりな気がしますね」
同僚達のそれとない追及を曖昧に誤魔化しつつも、やはりときどき虚ろになりながらも一日をやり通した大河。
衛宮嗣郎のいる自クラスのHRで泣き出したという噂もあり様々な(わりとバリエーションの少ない)憶測が広まっていることは本人は知らない。
どこか沈みがちなまま帰宅しようとした大河だが、葛木に呼び止められ誘われるままにとある喫茶店で葛木と向かい合っていた。
「前は試験問題の誤りのときでしたか」
「そうですね。あのときは近藤先生もいましたけど……」
状況だけ見れば男女の交際に関わるような、ぶっちゃけデートに見られるような状態だが大河はそんな色もなく恐縮している。
それはこの場所が理由だ。
学園から近いこの喫茶店は教員同士の相談や反省会、あるいは軽い説教場所としてよく使われる。
そして今日の大河には説教を受ける心当たりがありすぎた。
相手が葛木というのは意外だが、葛木には以前大河が自分から相談したこともあったし同年代のせいか割と大河のフォローに立つことも多い。教員達の代表として今日の叱責と追及に立ったのだろうと予想していた。
「……あの……」
ただ、今日の失態はあまりにも個人的な理由すぎて話しづらい。
だからこそ身が縮こまるのだが、追及されても困る大河はどうしようと目線をさまよわせていた。
そんな大河を見て葛木は少し考え、短く呟いた。
「衛宮嗣郎」
びくっ、と大河の肩が上がる。
恐縮するし『思い出して』ショックだし泣きたい気持ちだ。
ただこの話はいくら周囲に気安い大河といえど尊敬するとはいえただの同僚には話しづらく……
「アレには私もいくらか付き合いがあります」
「え?」
だが、葛木の立ち位置はただの同僚とは少し違った。
「そ、そうなんですか? 嗣郎…あ、衛宮君と、葛木先生が?」
意外、その感想を素直すぎるほど反応に出している大河に、葛木は相変わらず無表情に頷く。
「ええ、衛宮の家には五年程前から縁があり」
「衛宮の家と五年……って、もしかして切嗣さんとも!?」
「衛宮の先代ですか。数える程しか話したことはありませんが、知見ではあります」
「わぁ、意外! ……って、す、すみません! はしゃいでしまって!」
「いえ。まぁ……そのように、今でも一応は家に邪魔することもある程度には付き合いが。故、……」
人付き合いの少ないイメージのある同僚が自分の憧れの人と縁があったと知り目を輝かせていた大河だが、その後の葛木の言葉に急速に目を虚ろにさせた。
「…………家に、お邪魔……………」
その様子に、事前に聞いていた情報と合わせて葛木は状況を推測する。
「藤村先生」
「……ハッ!? あ、すみません、なんでもっ」
「…………衛宮嗣郎に訪問を拒まれましたか」
「はぁうっ!?」
胸を押さえて涙目でうずくまる大河。
「な、なんで分かるんですか!?」
「いえ。衛宮嗣郎から藤村先生があの家によく訪ねることは聞いていたので。成程、これまで日常的に訪問していたにも関わらず突如拒絶され」
「うぁぅっ」
「どこか距離を置かれ冷淡と成り」
「うにゃぅっ」
「『捨てられた』、と」
「ぐはぁっ!!」
「……う……うぅぅ……」
すでにテーブルに突っ伏して泣く大河は、藤村教諭ではなく完全にただの大河である。
「……些か配慮に欠けた言い様でしたか、申し訳無い」
「い……いえ…………うぅ」
実際、大河の悩みはまさに葛木が言ったことそのままだ。
これまで大河は週の半分以上は衛宮家に乗りこみ朝食夕食の相伴に預かっていた。
それは切嗣が存命のときからの日常であり、夕食に何故か居た教会の神父さんや娘さんとの付き合いのきっかけでもある。
悪戯っ娘な姉や素直な妹とも当然仲良く、毎日表現される行き過ぎた
……それなのに。
「そうなんです……しろーが……つめたいんです……」
嗣郎や切嗣と知り合いという葛木に、大河は素直に泣きごとを吐く。
これまでずっと続いていた日常だったというのに、突然嗣郎が大河の訪問を拒絶しはじめたのだ。
朝に訪問すればなぜか用意してある弁当箱を渡され家に上げることなく笑顔で柔らかく追い返され、
夜に訪問すれば家に上げることなくなぜか来た藤村組の若衆に引き渡され、
強引に突入を図れば手練手管の限りを尽くして排除され嗣郎の要請を受けたという祖父雷画が直に捕縛に来る始末。
ついには直接、理由も言わず『家に来ないでほしい』と困ったように言われてしまった。
あまりにもあからさまな拒絶にそれなりにニブい大河でも泣いた。
……実際のところはそれ以前からやんわりと遠まわしに訪問を控えるよう言われていたのだが大河は気付いていない。
さらに言えば嗣郎がバリエーションを変えながら繰り返した『○○だから家には来ないでくれ』という理由付きの拒絶をタイガー理論で突破し続けた結果だとも本人は気付いていない。
とにかく、大河は嗣郎に、それだけでなくイリヤや桜も含め衛宮家に拒絶されてしまったのだ。
学校では拒絶されるわけではないのだが、それでもなんだか距離を置かれているような気がする。気付いてみれば毎日あったはずのイリヤのじゃれ付きや嗣郎の口説きは激減していた。
これで沈むなという方が無理がある。
「みんなあんなに仲良しさんだったのに…………きらわれちゃったよぅ……」
わたしなにかしたかなぁ、と本気で泣いている大河に、葛木は表情を崩しもしない。
だが、小さく言葉を零した。
「…………あれも甘い」
「うぇ?」
「いえ。そのような話であれば安心して良いかと、藤村先生」
「安心、ですか?」
泣きながらも葛木の言葉に疑問符を浮かべる大河に、葛木は淡々と言葉を続ける。
「あれは……衛宮嗣郎は言動こそ
「……嗣郎は確かに周りを大事にするいい子ですけど……でも」
だからこそ拒絶されてショックなんですが、とさらに身を沈ませる大河に葛木は構わない。
「何より私に藤村先生に気を配るよう頼むような衛宮が、藤村先生を『捨てる』ことはないでしょう」
唐突な新情報に大河は顔を上げる。
「え? ……そ、それってどういう」
「私は衛宮の家にいくらか世話になっています。その義理を返したくはあったのですが、恥ずかしながら私が返せるものは多くなく。ならばと数年前
「え、え?」
……言われてみれば。人付き合いの少ないはずの葛木だが、大河には面倒見の良いイメージがある。
教材を忘れたときには貸してもらえたり試験作成で詰まったときには助力してくれたり、何気なく教師としての相談に乗ってもらったりと……気付いてみれば、散々世話になっている。
周囲に気を配ってくれる良い人だなと思っていたがどうやら大河が特別扱いだったらしい。
「そ…そうだったんですか?」
「『信用していないわけではないが、やはり心配だから』と。……ああ、監視をしているわけではなく。単に必要な際の助力を願われているだけですが」
「おぉぉぅ…………しろーめぇ……」
弟分に心配されていることを嘆くべきか怒るべきか喜ぶべきか。
しかし実際多々世話になっているので大河は悔しさと恥ずかしさで悶える。
頼れる教師になろうと頑張っているのにまだ子供の弟分にフォローされていたなんてもはや屈辱である。
「そのように……あれは貴女を大切にしている。例え冷遇しているとしても、その根幹には情があり、何らかの理由があると見るべきでしょう」
悶える大河にやはり一切構わない葛木は流石といえるだろう。
「うぅ……理由ですか……?」
情けない姿勢で聞き返す大河には理由とやらが思いつかない。
大事にしている(そう考えるのは恥ずかしいが)相手に冷たくする理由なんてあるだろうか。
納得していない大河に、葛木は己の説得能力の低さを検分しながら考える。
「……では、考えを変えてみては」
「考え、ですか?」
「衛宮嗣郎を────信用できませんか?」
藤村大河は目を見開く。
葛木にしてみれば、自分が論理で説得できないと見て、大河と嗣郎の情理に丸投げしてみただけのこと。
しかし大河にとってみれば……些細な衝撃で見失っていたことを、あらためて突き出されたとても分かりやすい教導。
「…………」
少しの間、沈黙した大河は、
「……あはは、だめだなぁわたし。しろーを信じてなかったなんて」
反省するように笑う。
「そうだよね。あの子が人を悲しませるようなことするわけない。するとしても……理由があるよね」
年相応に大人びた、しかしどこか無垢な、静かな微笑み。
「……うん。理由なんていいや。しろーはきっと、わたしのことを想ってくれてる」
「……期間のことは、おそらく訊けば答えるかと。あれも貴女に心労を与えるのは不本意の筈です」
ちょっと自分の世界に入っていた大河に相も変わらぬ無骨な声が届く。
はっ!っと大河は背筋を伸ばし、焦点を目の前の同僚に戻した。
「あっ、す、すいません! また変なところをお見せしてっ! というかいろいろすみませんっ!?」
今さらながらに大河が赤くなる。
悲しみと不安から解放され本来の教師としての態度を思い出し、あらためて自分の醜態の羞恥に苛まれたのだ。
あわあわとテンパる大河の動揺を葛木は無表情に受け流す。
「いえ、藤村先生が本調子となったようで何より」
「い、いえ、葛木先生のおかげ……」
はっ、と大河は気付く。本当にとてつもなく葛木のおかげだと。
葛木と話さなければ、きっと自分は嗣郎を信用しないままだっただろうから。
「……本当に、葛木先生のおかげです」
あらためて溢れ出た泣きそうなくらいの心からの感謝を────そのまま言葉にする。
「─────ありがとうございます!」
(…………これは)
少し紅潮した、どこまでも純粋で好意に染まった満面の笑顔を向けられて。
葛木宗一郎はわずかに驚く。
「……成程」
「え?」
「ああ、いえ……」
普段の教師としてよりもさらにいくらか素直な表情で首を傾げた大河に、葛木は一度言葉を濁し…………
……嗣郎に昔から受けている『助言』を思い出して、考えを改める。
『思ったことは素直に言葉にしてみた方が良い』、と。
「藤村先生の笑みは心を
数瞬後普段以上にガードが下がっていた藤村大河が普段とのギャップが絶大過ぎる葛木の不意打ちに急速赤面&超絶動揺したり。
実は周囲で見守っていた男性教員達がまさかの展開に大混乱に陥ったり。
この後色々起こりはしたが、葛木は相変わらず動じることはなかった。
■葛木宗一郎
特技:不意打ちによる急所への大ダメージ
ちなみに嗣郎の依頼の狙いは藤ねぇだけでなく葛木も慮っていたりする。
そして当然拒絶の理由は戦争に巻き込まないため。ただ大河には数ヶ月以上スルーされ続けていた。