あの日に向かって   作:ざび

1 / 3
『君の名は。』はいいぞ。(語彙力皆無)






一話

暗い、暗い意識の底で、誰かの声が響いていた。

 

『大丈夫、私もあの子も大丈夫だから』

 

女性の声だった。

今の自分は多分、酷い顔をしているんだろう。そんな自分を気遣い、想ってやまない。そんな優しい声音。

こちらを覗きこんでくる顔は見えないけれど、その声からは溢れるくらいの優しさと抑えきれない悲しさ。そのどちらもを感じ取れるような気がした。

ああ、この人は誰だ。この声は一体誰のものなんだ。

懐かしい声の筈なのに、どうしてもそれだけが思い出せない。

『今はまだ、その時では無いの。だからあなたは―――』

悲痛な声は、今にも飛び出したい衝動に駆られた心を諭してくる。

待って、行かないでくれ。俺はまだ、出会えてすらいないのに!

声にもならない思いを必死に叫ぶけれど、近くに見えていた景色は徐々に遠くなっていく。

離れて行っているのが向こうでは無くこちら側だと言う事実に気付けぬまま、その光景に俺の心は酷く抉られるように痛み―――

『――あなたは元気でいて』

7時を報せるアラームが、耳元で無慈悲に鳴った。

 

 

 

 

 

 

「おはようございます」

「今日も早いですね」

「フォッフォッフォ、今日も壮健で何よりです」

休日の朝。七時に設定したアラームに叩き起こされ、いつもの時間に朝ご飯を食べるために自分の部屋から食堂に向かう途中で、何度も声をかけられる。たった今挨拶されたのは若い女性のお手伝いさん二人に、立派な白髭を蓄えて黒いハットをかぶった爺やの三人。

こうして廊下で挨拶をされるのは、自室から食堂というそう長くも無い道のりだけだ。食堂に行けばまず間違いなくこの家に住む人みんなが顔を揃えるので、全員と朝の挨拶をすることはまぁ、変わらないのだけど。毎朝必ず同じ人と廊下で出くわす訳じゃないけれど、最後に会った爺やだけは僕の小さい頃から毎日必ず朝の廊下で顔を合わせている。それも、外見は僕が知る限りでは一切変わらないまま、穏やかな笑顔のままでだ。

「おはよう」

三者三様に。笑顔で挨拶を返した僕に、声をかけてきた人――屋敷の人は笑顔で頷いた。

良かった。ちゃんと笑えている。

表情に綻びが生じていないことに安堵すると、食堂に向かう足を少し速める。

『坊ちゃま、元気が無いようでしたが大丈夫でしょうかねぇ』

『え、本当ですか。全然気が付きませんでした……』

前言撤回。長年一緒にいる爺やにだけは通用していないらしい。彼の観察眼の性能は70を超えても右上がりのままのようだ。

……僕自身元気が無いことに気づきもしなかったが、言われてみれば確かにそうだ。何故だろうか。今は、あまり人と話したくないような気がした。

 

 

 

藤瀬耀太。それが父さんと母さんに貰った、僕の名前。

父さんは『FUJISE』という名字そのままの会社の会長で、それなりに知名度のある人だ。

以前見せて貰った雑誌には『若き敏腕実業家』なんてうたい文句がつけられていて、兎に角褒めちぎられていたのを覚えている。実際の父さんの仕事ぶりをこの目で見たわけではないけれど、今の僕には想像のつかないぐらい難しい仕事を幾つもこなしているんだろうと確信するのは、そう難しいことじゃなかった。

母さんのことについては僕自身覚えていないし、父さんも何も語ってはくれない。けれど、ともかく僕はそんな両親のもとに産まれ、今は父さんと一緒に京都の一角に建てられた家に住んでいた。

家、というよりは屋敷に近いこの場所は、やけに広い。働いているお手伝いさんは爺やを含めておおよそ十名で、彼らの住む場所も用意されているというのだからこの大きさにもなるのかも知れないが――それにしたってこんなに土地がいるのだろうか、とも思う。

けれど広いからと言って場所を余らせていることは決してなく、どの部屋も余すことなく何らかの用途で毎日使われていることは確かだ。

唯一開かずの部屋になる可能性がある場所があるとすれば、それは多忙で帰るのも飛び飛びな父さんの部屋ぐらいなものだろう。

 

こういった話をすると大体の同年代から向けられるのはどっちかというと羨望だったり、好奇心。「すげー!」だとか「今度遊びに行っていい?」なんて言われて、少しばかり僕は気分が良くなる。

これが年齢層を押し上げて学校の先生ぐらいの年齢になると『大変だね』と言われたり、『応援してるから』といった言葉をかけられるようになる。『お母さんがいないのは辛いけど』なんてこともよく言われるけど、僕から言わせればそう辛くも無い。そもそも一緒に暮らした覚えが無いのだから、これは仕方がないことだけど。それを言うと先生たちがそろって苦そうな顔をするのは、一体なぜなんだろうか。

家が広くて父親が実業家。母さんはいないけど、家には爺やをはじめとしたお手伝いさんたちがいる。確かにこれは実際のことだけれど、僕は至って普通だ。特別な才能もないし、父さんみたいに人を纏めることも出来ない。父さんもそのことには気付いているのか、だからこそ僕はそんなに肩肘張った生活を強いられている訳では無かった。

朝は普通に起きて朝食を摂り、そのまま家から十数分歩いた場所にある小学校に徒歩で向かう。そして教室で勉強したり、お昼休みに友達とグラウンドで遊んだりして、放課後を迎える。

周りのみんなと違うところがあるとすればここからで、僕は遊んだりせずにそのまま家に帰って色々と勉強をする。

テーブルマナーに語学講習。ちょっとした休憩の後に今日習った内容の復習をして、そのままの勢いで宿題を片付ける。そして晩御飯やお風呂を済ませたりして、そのまま眠るのが僕の一日だ。

休日は学校がない分ちょっと習う科目が増えて、大体夕方の四時頃には自由になる。ここからは完全に僕だけの時間で、読書だったり家の中を散策したりとその日やりたいことをやる。

ちょっと大変だけれど、慣れればそうしんどいものでもない。

放課後遊べなくてもみんなは僕と友達でいてくれるし、何より今やっていることはいつか役立つってことも、父さんが僕のことを思ってやっていることもわかっている。わかっている、けれど。

 

爺や達の喋り声から背を向けるように、食堂に向かうはずだった足を中庭へと向かわせて、噴水近くの草葉の陰に少し腰を下ろす。

今日は学校は無いから、朝ご飯のすぐ後から国語の勉強が始まるだろう。それまでには戻らないとなー、なんてことを思いながら視線を上にあげると、そこからは綺麗な青空が見えた。ここも結構な都会だけれど、こうやってみると自然は割と身近にあるんだな、と感じる。

もし僕がこれ以上に綺麗な景色を見れる場所に、そして何にも縛られないような家庭で、優しい家族のもとで暮らせたのなら。それは、多分今以上に幸せなんだろう。勿論、今が幸せじゃないなんてことは言わない。けれど何故か、今はそうとしか思えなかった。

 

「……よし」

 

視線を元に戻して、頷く。これ以上考えていても仕方がないことだ。

もう大丈夫。ちょっとの間草木に囲まれていたからか、多少は苦しい気持ちも無くなった。

早いところ朝ごはんを残さず食べてしまって、それから今日も頑張ろう。

そう決意をして、お尻に着いた草をパンパンと叩いて払いのけてから若干濡れた目元を拭う。

取り敢えず悲しいことを考えるのはやめよう。そう決意して、僕は再び食堂へと向かって駆け出した。

 

 

 

「そう言えば坊ちゃま、お気分の方はもうよろしいので?」

その日の午後四時。いつも通りの時間に勉強から解放され、早めにお風呂を済ませた僕に対して、爺やは少し眉をひそめてそう聞いてきた。そう言えばあの朝の廊下で会った時以来、今日は爺やと顔を合わせていなかった。勉強を教えてくれるお手伝いさんから報告はあったんだろうけど、実際に聞いてくるぐらいには気にしていた様だ。

それがちょっとだけ嬉しくて、つい頬が緩む。

「うん、朝はちょっと気分が悪くて。今はもう大丈夫」

だから、心配させないようにとそう返した。気分が悪かった、というのは限りなく本当のことだし嘘はついていない。

「……そうですか、それなら良かった。もうそろそろ夕食の準備が整いますので、準備ができ次第食堂の方へとおいでください」

「うん、わかった」

僕が頷くと、爺やもまた嬉しそうに微笑む。

それでは。と言って僕の部屋から出て行こうとする爺やの後ろ姿を少しの間だけ追っていると、やがて木製でできたドアはほとんど音も無く閉まる。ドアの建付けが特別良い訳では無くて、爺やが音を立てないように閉めているからだろう。他のお手伝いさんではこうはいかない。『べてらんばとらー』とやらは伊達じゃないらしい。

「そう言えば父さん、今日も返って来ないのかなぁ……」

爺やの去っていったドアを見つめている内に夕食のことを考え、そしてふいに言葉が漏れた。

僕の父さん――藤瀬良輔は、ここ数日の間家に帰っていない。東京と北海道と福岡とあと、イトモリというところに行っている。というのは、爺やから聞いた話だ。

商談、だっただろうか。どんな内容を話しているのか、なんてことは僕にはわからない。わかるのは、今日もこの様子だと返って来ないんだろう。ということだけだった。

父さんは基本的にお喋りでは無くて、サプライズとかはしないような人だ。優しいけど厳しくて、何より忙しいので食卓にいきなり現れるなんてことはまずない。ちょっと家に帰るぐらいだったら別の場所で書類を作ることを選ぶんだろう。

分かってはいることだけれど、少し心がチクリとするような感覚に苛まれる。決して、爺や達と食べるご飯が美味しくないなんてことはない。お手伝いさんの作る料理はいつも美味しいし、みんな優しい。そしてみんな笑顔で僕を元気づけてくれる。

――でも、何かが足りないような気がしてならなかった。

 

 

父さんは結局帰らないままで。

僕はその足りないものが何かわからぬまま今日も一人、自室のベッドで眠りについた。

 

 

明日もいい日になると良いな。そんなことを思いながら。

 




ちょっと文章を追加しました(10/10/23:21)
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。