「今日の秘書艦が利根ですね」
「うむ!」
今日の秘書艦は吾輩じゃ! いざ、出陣だな!
「吾輩が秘書艦を務める以上、仕事の心配はいらないぞ!」
「まあ、肩の力を抜いてください」
む、なだめられてしまった。吾輩がお姉さんとはいえ、提督ほうがお兄さんだからな。敵わない。
「さっ、仕事始めますよ」
「うむ」
今日は雨。丁度良い機会じゃ。前々から気になっていたことを試してみよう。
「提督、ちょっとよろしいか?」
「なんでしょう」
仕事が一区切りついたところで、提督に声をかけた。
「少し、外を歩かんか?」
「雨の中?」
「うむ」
不思議そうに聞き返してきた提督に、頷いてみせる。
「先日、漫画で『相合い傘』というものを見てな。吾輩も体験してみたいのじゃ」
漫画では女の子が鼓動を速くして惚けておった。所謂『ドキドキする』というものじゃろう。そんな気持ちになったことのない吾輩は、興味津々じゃ。
「わかりました。少しだけですよ」
迷うそぶりもなく、すぐ立ち上がった。
説明しなくとも、提督は全部わかってくれるから助かるぞ。
「ただ、貴女の期待通りにはならないでしょう」
共に部屋を出るとき、そんなことを言ってきた。
「やってみないとわからんぞよ!」
なんて言葉を返したが、提督が言うことに間違いがあったことはない。
「――まっこと言う通りじゃな!」
雨が降る中、傘の下で開き直ったように声をだした。
弱めとはいえ傘がいるぐらいの雨で、大きめの傘を二人で使う。傘を持つのは提督で、少し吾輩のほうに寄せてくれる気遣いもある。漫画と大差ない場面であろう。だというのに……。
「全く変わらん!」
『ドキドキ』どころか『トキトキ』することもない。なにが楽しいのじゃ!
「だから言ったでしょう」
「うむ。なぜじゃ!」
どうせ考えてもわからん。それに、提督ならわかっておるだろうから、考えるだけ無駄じゃ。
「その前に確認しますが、貴女がこんなことを言い出したのは漫画の影響でしょう?」
「うむ!」
「雨の日、偶然憧れの彼と相合い傘をしてドキドキ……場面を要約するとこうでしょう」
「流石提督じゃな! その通りじゃ!」
何一つ共感できなかったのじゃが。
「あれはつまり慣れです。傘という極々限られた空間に、最低でもお喋りすることしかできない彼と二人きり。触れあうぐらい間近にいることに緊張して、本当なら逃げ出しているところ。でも、雨のせいで逃げられない。それは同時に、離れなくていい合理的理由でもある。そのことを嬉しく感じながらも、やっぱり緊張してしまう。ドキドキする要因としては、こんなとこでしょう。これに慣れていないから、漫画の人物は感情が昂ぶるのです」
なんともわかりやすい説明じゃ。じゃが、それでは疑問が発生するぞ。
「吾輩はこんな状況は初めてじゃ。慣れてはおらんぞ?」
「貴女の場合、前提が違いますから。自分が近くにいても、なんとも思わないでしょう」
「嬉しいぞ。提督のことは好きじゃからな」
「それはわかってます。でも、そうやって堂々としているじゃないですか」
「堂々としない理由がないからの」
こんな感情隠してなんになるというんじゃ。隠してもどうせばれとるし、提督は全てを受け入れてくれるからの。
「だからですよ。漫画では堂々とできないから、緊張するのです」
ふむ。その気持ちは全くわからんから、理解できないのも当然じゃな。
「それに、貴女は極々限られた空間に二人きりで触れあうことなんて、もう慣れてるじゃないですか」
「…………おぉ! それもそうじゃったな! はっはっは!」
言われて気づいたぞ。そういえば、もう布団の上で密着しておった。今更じゃったな。
「それに慣れれても、相合い傘は恥ずかしいって人もいたりしますけど」
「そうなのか?」
「それはそれ。これはこれってやつです。磯波とかそうでしょうね」
「それはなんでじゃ。あっちに慣れてれば、こっちなんて大したことじゃないだろう」
こんな一緒に歩く程度、なにを戸惑う必要があるというのじゃろうか。それ以上のことをやっているというのに。
「今言った、それはそれ。これはこれです」
「はぁ。わからんのぉ」
つまり、本人にとっては別問題ってことなんじゃな。吾輩にはわからん。
「利根はおおらかですからね。そんなことでドキドキしてたほうが驚きです」
「そういうものかの」
言われてみれば、そうかもしれないの。
漫画にはこれ以外にも登場人物が『ドキドキ』している行動があったが、それを自分にあてはめてみても、感情が揺れることすら想像できない。
「ただ、方法がないわけではありません」
「ほう。では早速やってくれ」
提督のことだから、そうではないかと思っておった。提督じゃからな」
「やりません。こういうのは場面が大事なんです。今すぐできるようなことではありませんから」
「では、教えてくれぬか?」
教えてくれれば、自分で想像できる。できるというなら、気になって仕方がない。
「それもダメです。いくら自分でも、こればっかりは確証がありませんから」
「大丈夫じゃ。提督の言うことに間違いはない」
「そんなこと言ってもダメです。タイミングがきたらやってあげますから」
「……仕方ないの」
そこまで言うのなら諦めるしかない。じゃが、聞かなくてもその考えが間違ってはいないと断言できるのは本心じゃ。
人間誰しも間違いはあるとか、絶対はありえないとか言うが、この提督に限っては……ここの艦娘に関して言えば、そんなことはない。だからこその提督じゃから。
「それに、貴女は元気に走り回ってる姿のほうが似合ってます」
「そうじゃな」
それは吾輩も同意じゃ。
こんな小さい空間で感情が揺れている自分はわからんが、走り回っている自分は容易に想像が出来る。
「じゃあ、走るかの!」
やはり吾輩は動くのが一番じゃ! グダグダ考えずに、思うがままに動こうぞ!
「止めはしませんが、気をつけてくださいよ」
「大丈夫じゃ! 提督が見ているからの!」
雨だということを気にせず、吾輩は思いきり走り回る。
「はっはっは! 気持ちいいぞ!」
雨にを濡れながら動くと、なんかいろいろどうでもよくなってくるの。疲れなんか忘れて、全身で楽しんでいる気がするぞ。
晴れの日に動き回って、汗をかいて疲れるのも楽しいが、これはこれで楽しいぞ!
「提督もやったらどうじゃ!」
「却下です」
「じゃろうな!」
誘っておきながらなんじゃが、ここで受けたら逆に驚きじゃ。
「貴女もほどほどにしてください。風邪引きますよ」
「艦娘は風邪ひかんぞよ!」
「冷えた身体を温めようとして、熱暴走起こしてしまいますよ」
「うむ。そうじゃな!」
揚げ足を取ったらしっかり返されてしまった。
じゃが実際遊んでばかりもいられないから、ほどほどにしておかないとじゃな。
「――しっかり乾かしたら、仕事再開しますからね」
「わかったぞ」
冷えた身体をお風呂で温め、提督に髪を乾かしてもらう。
「すまないの。吾輩のわがままに付き合わせて」
すっかり失念していたが、まだ仕事が終わったわけではない。吾輩としては少し息抜き程度に考えていたのだが、予想外に遊んでしまった。
「構いません。貴女が楽しめたのならそれでいいです」
こんなことを言ってくるから、これ以上は謝れない。やはり提督はお兄ちゃんじゃな。
「じゃが、提督も一緒に入る必要はなかったじゃろう。仕事をしておればよかったのに」
余りにも自然過ぎて、入ってる間にツッコむのを忘れていたぞ。
「一緒に入りたかったからですよ。貴女もそうでしょう?」
「うむ。当然じゃ」
折角隣にいられるのだから、僅かな時間も無駄にはできないというものじゃ。
この後、いつもの時間にも共に湯浴みをするとはいえ、だからといって一人で入る理由にはならないからの。
「髪、結びますよ」
「おお、頼むぞ」
流れで返事をしたが、そういえば提督に髪を結われるのは初めてじゃな。
いつもは、入浴後はそのまま寝るだけじゃから髪を結わないし、朝は自分で結っておるからの。
「……ん……お……?」
結う前に、櫛で梳きながら髪を撫でられる。提督の指が、手触りが、髪で感じられる。
その感触に、少し不思議な感覚を覚えた。わからんが、嫌ではない感覚。
「……ふ……ん……あ……」
息が漏れる。身体が震える。鼓動が速くなる。
髪を撫でられて、持ち上げられて、纏められてるだけなのに、体も心もおかしくなっとる。
「……利根の髪は、綺麗ですね」
耳元で、なにか囁かれた。
優しい振動が脳に伝わり、風呂上がり独特の匂いが鼻腔をくすぐる。
「と……とうぜん……じゃ……!」
言葉がうまく出ない。まるで操られてるみたいに、精一杯頑張らないと自分を保てない。出来ることなら、何もかも放棄して走り出したい。でも、このままでいたい。
「わ……わが……わが……い……は……」
胸が苦しい。心臓が締め付けられているようじゃ。
髪を結われる感覚が妙に鮮明で、提督の存在がしっかりと感じられて、なのにそれ以外はなにもわからない。
辛い。苦しい。逃げ去りたい。…………逃げたくない。
怖い。こわい。コワイ。
「はい。できましたよ」
「…………へ?」
提督の指が髪を離れる感覚で、現実に戻された。
髪を結う。たったこれだけのはずなのに、全てが終わったかのような安心感と、全てが終わってしまったような喪失感に包まれた。
「……て……ていと……く?」
振り向いて、存在を確認する。
なにか考えているわけじゃない。なにも考えられない。ただ、本能的に提督を探した。
「……ごめんなさい。貴女には刺激が強すぎました」
その体勢のまま、突然吾輩を抱きしめてきた。
「ど、どうしたの……じゃ……?」
提督の温もりを感じて、徐々に頭が働いてくる。その時になって、ようやく気づいた。
「あれ? 吾輩……」
提督の肩が濡れている。その事実に次いで、自分の頬が濡れていたことに。
「なにがおこったのじゃ……?」
状況が把握できない。
さっきのあれはなんだったのか。今のこれはなんなのか。
「あれが、ドキドキするってことです」
指で頬を拭いながら、提督がそう言ってきた。
「あれが……」
自分の内側がギューっとなって、世界がわからなくなる感覚。それが『ドキドキ』というやつか。
「…………こわかった」
柄にもなく、弱々しく本音を吐いてしまった。じゃが、それぐらいに怖かった。
「そうですよね。申し訳ない」
「謝ることではない。頼んだのはこっちじゃ」
そうやって強がりながらも、きつく抱きしめ返した。
「じゃが、あれはどういうことじゃ? 髪を結ってもらうだけであんなになるとは……」
今まで誰かに髪を結って貰ったことはほとんどなかったが、それでもそれだけであんなことにならないのはわかっておる。
「髪を結んでもらうというのは、相手が友人知人ならなんでもありませんが、それが家族、恋人、親友……大切な人となると、特別な行為にもなります。それに、髪というのは変に敏感で、触れる感触を奇妙に感じますから」
うまくわからなかったが、なんとなく納得できた。
髪についてどうこう考えたことはなかったが、だからこそなのじゃろう。提督がさっき言っていた『慣れ』というやつじゃ。
髪を結ってもらうのも、触られるのも吾輩は慣れていなかった。じゃが、それ自体はドキドキする行為だということかの。、しかも相合い傘や夜伽とはまた別の。
「ただ、貴女の場合、耐性がなさ過ぎた。だから、感覚についていけず、心の変化を処理できず、結果溢れてしまった」
振り返ると、その通りじゃな。吾輩にはなにが起こったのかわかっていなかった。
「こんなことで泣いてしまうなんて驚きじゃ。すまないの。わがままに付き合わせて」
さっき言った言葉を、もう一度言った。
さっきは単に面倒をかけた非礼じゃが、今回は困らせてしまった非礼じゃ。
「こちらこそ、申し訳ありません。こんな方法しかとれなくて」
なにがあっても気持ちは変わらない。そうわかっていても、提督は艦娘の泣き顔を好まない。
嬉し涙とか、感動の涙とか、そういうのは笑ってくれるが、それ以外は重く受け止めている。
今回のコレは、恐怖から流れた涙じゃ。だから『それ以外』に含まれる。
状況からして、これが最速で最善の方法じゃった。だからこの方法を選んだ。それが、この結果になるとわかっていて。
「構わん。吾輩は満足じゃ」
ここで謝らない。もう謝ったから。
「じゃが、泣かせた責任は取ってもらおうかの」
代わりに、笑顔を見せる。思いっきり、笑顔にさせてもらう。それが、提督に対するお礼で、吾輩に対する非礼じゃ。
「わかりました。仕事が片付いたら……ですけどね」
「うむ」
体を離し、仕切り直すように二人で笑い合った。
「さあ、待ちに待った時間じゃ!」
次週の秘書艦も決まり、ようやく待ちに待った時間がやってきたぞ。
逃がさないよう、提督をガッチリと捕まえてやるぞ。
「張り切ってますね」
「当然じゃ! 泣かせた責任は重いぞよ!」
はしゃぎながら言う言葉ではないじゃろうが、はしゃがずにはいられない。ここからは完全に二人の時間じゃからな。
「今宵は提督もずぶ濡れになってもらうぞ!」
わしのほうがずぶ濡れになりそうじゃが、そんなことはどうでもいいのじゃ。