1999/08/08:
ペンシルバニア通り1600のウエストウイングのオーバルオフィス(大統領執務室)の今代の主の苦悩を完全に理解出来る者は、彼以外のホワイトハウスの住人には1人もいまい。
彼は複雑な背景を背負った男であり、父親であり、元軍人であり、アメリカ合衆国の現最高司令官であり、地球上で最も権力を持つであろう役職に就いた政治家であった。
――――だが彼自身、後半2つに関しては『便宜上』が付くと考えている。
今や自国の軍を真に牛耳っているのは、自分ではない他の人間だ。それは統合参謀本部の将官達であったり、自分以外に議会に巣食う政治家であったり、そのどちらにも顔が利く金持ちであったり。
ともかく今オーバルオフィスで文字通り頭を抱えているのは、苦悩し、絶望し、疲れ切った1人の男であった。
「神よ、お許し下さい…」
力無くそう呟きはしたが男は悟っている。神に祈ったって何の手助けもしてくれない事を。
むしろこれは贖罪の叫び。自分の無力さ故、何百人もの兵を死なせる引き金を抑え込む事が出来なかった事に対する懺悔の言葉だった。
本来ならこの場に引き籠ってないでイーストウイングの危機管理センターで副大統領や統合参謀本部以下の面々と共に極東の地―彼はどんな地かよく知っている。ああ忘れるものか―で行われている、歴史にも刻まれるであろう一大作戦の行く末を見守ってなければならない立場にある。
だが彼は部屋から出ようとしなかった。
ただその時を待っていた。もうすぐ日付が変わる時間帯にもかかわらず、明かりもつけないまま、
「………」
重厚なマホガニーのデスクに置かれたアンティーク調の電話がおもむろに鳴る。たっぷり2回ベルが奏でられてからようやく男は手を伸ばした。
電話の主からの言葉は簡潔で短く、すぐに受話器を元の位置に戻す。
最高級の革張りの椅子の背にもたれかかり、ぼんやりと男は天井を仰いだ。それからデスクの引き出しを開けると、中に収められていた物を懐に収め、立ち上がった。
部屋を出、主が姿を現した事への驚きと心配から声をかけてくる秘書達の声など聞こえない様子で男は廊下を進み、幽鬼もかくやな無表情で男はエレベーターに乗り込む。
目的地は地下に広がる一室である。
その部屋の主は余りにも小さかった。
子供だからではない。成長障害による小人症を患っているのでもない。列記とした青年だ。彼はベッドの上で二十歳になった。
彼には成長した人間に在るべきものが欠けている。腕があるべき所には両肘のやや手前からぽっかりと途切れており、両足の内片方も膝から先が無い。
四肢以外の場所も酷いものだ。人工呼吸器に繋がれ、内臓も半分以上が人工的に作られた紛い物で補われ、頭部もまた顔を隠すぐらいの範囲で包帯が巻かれている。
何せ発見された時は戦車級―憎きエイリアンの中でも最も人を食い殺している種類―にその身体を齧られ、顔まで食(は)まれ、一体誰なのか判別がつけれない有り様だったのだ。
認識票と肉もろとも戦車級の腹の中に収まらずに済んでいたある物が無ければ・・・・・・実の父親である彼でも分からなかっただろう。チェーンにぶら下がった認識票ともう1つ―――古ぼけた日本の御守り。
辛うじて心臓は生き残って動いてはいたのだが――――脳死同然の植物状態にある。
青年が大統領の息子でなければ安楽死処置がされていてもおかしくない。
2度と目覚めないと分かっていても、彼は出来る限りの手段で延命させ続けてきた。まがりなりにも与えられた大統領としての権限と権力、父親としての執念を用いて。
――――それにも限界が訪れようとしている。
もう、彼の息子の身体は限界なのだ。息子を1年近く任せてきた医者にそう告げられて、彼は窓の存在しない病室を訪れていた。
「すまない息子よ……本当にすまない」
涙はもう枯れ果てている。虚ろながら悔恨に満ち溢れた苦悶の表情を浮かべ、見つめ合う眼すら失った息子を見つめた。
「結局私はお前に何もしてやれずじまいだった。母親にもう1度会わせる事も、母親の生まれ故郷を守りきる手助けも、お前を無事人として戻してやる事も」
子供には聞こえない。青年には届かない。声を聞き取る耳も存在しない。
「その上私は、勇敢な兵を巻き込むのみならずお前の母親の地を穢す手立てを止める事すら出来やしない」
G弾と呼ばれるあの兵器。どれほどの威力か、そしてどれほどの傷跡をその土地に刻むのか彼は詳細に知る立場にある。
だがそれを止める事が出来ない。被害と戦果を両天秤に掛けた上での決定であればまだ納得は出来る。必要最低限な代償が必要なのだというならば、汚名も甘んじて受けてみせよう。責任を取るのが責任者の仕事なのだから。
しかしG弾の使用を何よりも後押しするのは目先の利益に群がる権力者達。腐肉に集り奪い合う許されざるハイエナの群れ。
権力という物は様々な要素が積み上がり、絡み合って形成されていく。金、物資、人脈、情報、暴力。
大統領である彼個人の権力よりも、彼に相反する側の人間達の権力の方が上回ったが為の、止められぬ悲劇。
『アレ』が使われた結果間違いなく起こるのはこのアメリカへの国際社会からの猛烈なバッシングだ。そして悲劇を招いた者達は、その権力でもってこういうに違いない。『自分達こそが正しいのだから刃向かうな』と。
…己の保身と利益しか求めないハゲタカが何をほざくか
彼が誰よりも怒りを抱いている相手は、そうと分かっていながらも何の手立ても打てなかった自分自身にである。
心臓近くから延びるコードに繋がれた機材がピー……と単調な電子音を発し、規則的な波形を映し出していた画面には平行な1本線のみとなった。
息子は最期の最期まで苦痛を感じないまま逝けたのだろうか?だがそれを知る機会はもうあるまい。
彼は懐に呑んでいた代物をゆっくりと取り出した。M1911コルト・ガバメント。遥か昔、異国の地で幸せの絶頂に居た頃から所持していた軍人時代からの記念品。
この病室には1人の疲れ果てた父親とかつて息子だった青年の亡骸しか存在しなかった。
咎める人間も、止める人間も、誰も居ない。
「…こんな形で逃げだしてすまない。だけど、もう―――――私は、疲れたんだ」
年老い、自分を知る伴侶も家族も友人も全て亡くしてしまった老人のような呟き。
――――司令部から命令を受けたHSST(再突入型駆逐艦)から弾頭が分離される。
スライドを引く。鈍く光る弾丸が薬室に装填。
――――ロケット点火。燃料を猛烈に吐き出し大気圏突入への軌道をプログラムに従い取る。
しばらく手の中の拳銃を見つめる。
――――引力に引かれ、摩擦熱で表面を真っ赤に熱されながらも軌道は外れない。
45口径の銃弾は熊すらも撃ち倒し、人間の頭部に当たれば間違いなく脳の大半を頭蓋もろとも粉砕してくれるだろう。
――――目標は甲22号目標、横浜ハイヴ。未だ数百人の兵が国籍問わず、人の住まう土地をこの手に取り戻すべく奮闘し続けている。
米神に銃口を押しつける。金属の冷たさが嫌に心地良い。
――――それぞれの部隊のCP将校が悲鳴混じりに戦場一帯からのいち早い離脱を指示してきて、兵士達に動揺と戸惑いが走る。
この引き金さえ引けば全てが終わる。
――――ハイヴ一帯の光線級が唐突に虚空めがけ照射開始。だが標的となったG弾は弾頭活性化の証たる重力場(ラザフォード場)にねじ曲げられて届かない。
なのに何故まだ引き金を引かない?
――――戦闘中の各戦術機機甲部隊、離脱開始。だがもう手遅れだった。
息子は逃げずにエイリアン共……BETAと勇敢に戦ってみせた。人の姿すら失ったのだって、撤退命令を無視してまで異国の地で危険に晒された避難民を逃がすべく部隊と共に踏みとどまった結果によるものだ。
――――もう誰にも止められない。効果範囲内全てを押し潰し、消滅させる黒い太陽。
子供は逃げなかったというのに、自分は死という救いへ向かって逃げ出すのか?それで父親として愛した女に、血を分けた息子に誇れるのか?
本当に、そんな終わり方で良いのか?
時計の全ての針が12を指す。
ワシントンの現在の時刻、〇時〇〇分。日本との時差はサマータイムで13時間。
横浜ハイヴ上空で生まれた黒球が巨大な構造物も、醜悪なBETAも、人の命も。全てを呑み込んで、各々を構成する物質を歪ませ、すり潰し。
――――全てを消滅させる臨界の効果が、時空や次元、因果にすら波及したという現実に、誰も気付かないまま。
そして。
「―――――何なんだこれは」
つい数秒前まで自殺決行寸前だった事などすっかり頭から抜け落ちた彼は呆然とそう漏らすしかなかった。
遂に息を引き取ったばかりの息子の亡骸があった場所は光に包まれていた。息子は一体何処に行った?
もしこの場に香月夕呼という名の科学者が居合わせれば、彼女もまた驚愕の念に打たれると同時に光の正体も見抜いてみせただろう。
この光を、彼女はパラポジトロニウム光と呼んでいる。
次の瞬間頭を猛烈に殴打されたような衝撃に襲われ、彼は膝を突いた。
一体何だというのかこの感覚は。数度体験した網膜投影によるものとはまた違う。視界に見覚えのない光景が映し出されては脳に直接刻まれていく。
若い頃から魔法研究に携わり、一定の地位を気付いてきた自分。
――――そんな覚えは無い。この頃はまだ殻も取れない新米士官だった。魔法なんてお伽噺の産物じゃなかったのか。
スカウトを受け、他に集められた研究者と共に非合法な研究に携わっていく。次第に罪の意識に苛まれる自分。
――――嘘だ。こんなの全然知らない。
不意に訪れた転機。研究所の襲撃を機に、ただ1人の『完成作』である人造人間の赤ん坊を連れだし、追手の目が届かない世界へと逃げだした。
――――そんな筈、あの子は私と彼女との唯一の愛の結晶。兵器として作られた産物だという考えなぞ断じて認めない
平穏な暮らし。成長した子供がひょんなことから自身の正体に感付くという出来事もあったが、それでも親子2人の静かな暮らしは続く。
――――BETAのいない世界なのか?あそこは本当に逃げ出す様に離れなければならなかったあの異国の地、日本だとでもいうのか。BETAが存在しなければ、この世界もああも平和に発展出来ていたのだろうか?
不意に訪れる永久の別離。聖夜、混乱と焦燥の表情で自分を揺さぶる息子と、自身の身を襲った締めつけるような胸の痛みと共に記憶は途切れ。
――――此処ではない平和な世界の『私』はそうして死んだのか。悲壮な現実に耐え切れず自死に甘んじようとした自分と比べて、なんと幸せで穏やかな生涯なのだろう。
頭蓋の中に刷り込まれていく記憶……その代償の苦痛に喘ぎながらも、彼は顔を上げてベッドの方を見やった。
奇妙にも光は次第に縮まり、固まりつつあり、閃光の色も白から変化しつつある。
それは黒。
次元の狭間を切り裂いた隙間を覗き込んだかと思うぐらいの引きずり込まれそうな深さを湛えた闇。
強制的に覚え込まされていく記憶の本流も痛みと一緒にやがて収まり、意識もクリアになる。ゆっくりと未だ拳銃片手にふらつきながらも彼は立ち上がる事に成功した。
奇妙な感覚だ。今や別人――――違う、『もう1人の自分』の人生の記憶の存在に全く違和感を感じない。それどころか『ああそんな事もあったな』とまるで実際に体験したかのような感覚すら湧いてくる程。
「ゼロス」
改めてベッドに向き直ると、いつの間にか光は消え去っていた。ベッドの上の変化を捉えた途端、目が限界まで見開かれる。
息子の身体、四肢の内もう存在してなかった筈の両腕と片足が解けた包帯の先から唐突に生えていた。
それだけではない。中身の殆どを失って不自然にへこんでいた胸腹部は正常な膨らみを取り戻していた。表面を覆うシーツが見る見る間に紅く染まっていく。
頭部もまた包帯が解け、端正な造形が姿を現していたが、その顔にも多数の傷が刻まれていた。まるでずっと戦場に居て大怪我をしたばかりにしか見えない風体と化している。
フラットなラインを描いていた筈の心電図に起伏の浅い、しかし紛れもない心臓の鼓動が表示されだした。何らかの拍子で人工呼吸器が外れていたが、弱弱しくもしかし目に見える形で自力で呼吸しだしていて、不意に彼は歓喜の感情に襲われた。
どんな状態であれ、再び息子は息を吹き返したのだ。それだけでなく、理由はさっぱり分からない物の彼自身の腕と足すらも取り戻してまでいた。
ベッドに横たわっているのは彼の息子だけではない。
生気の感じられない亡霊の如き白髪の青年もまた、大きめのベッドにうつ伏せになって動かない。頬の傷跡を除けば美少女に見えなくもないが、とりあえず彼も傷だらけの様だ。
光と共に肉体を取り戻した息子と何処からともなく出現した重傷の青年、そしてもう1人の己の記憶の流入の理由に悩むのは後回しにして彼は大急ぎで医者を呼びに飛び出す。
だもんだから、白髪の青年の影に隠れて気付かれなかった新たな物品の存在――――黒曜石よりも深い漆黒の宝玉が埋め込まれた十字架の存在と正体に気付くまで、まだもう少し時間が必要になる。
『……一体全体何が起きたんでしょう』
彼らの出会い/再会はまあ、こんな感じ。
今更ながら、ここで彼らの説明を行うとしよう。
『彼』の名前はレイス・シルバーフィールド。
ある世界では元科学者で元魔導師だった逃亡者であり、しかしれっきとした良き父親だった男。この世界では、張りぼて同然のアメリカ合衆国大統領を務めている。
息子の名はゼロス・シルバーフィールド。
ある世界では戦闘機人という名の兵器として生み出された人造人間であり、その実平穏を望んでいただけであり――――その為に管理局史上最強最悪のテロリストと化した、極端な男。
この世界ではある想いの為に軍人となり、極東で戦い、全てを失い、それでも死ねずもはや絶望すら感じないまでにボロボロになってしまった哀れな青年……
の、筈だった。
限りなく近く限りなく遠い、鏡越しの世界の様に、決して触れ合わない筈の世界の因果が交差した時。
彼らの物語が、産声を上げた。
Muv-Luv The Outlaw Alternative
プロローグ:Re-birth
さあ、ご都合主義満載のハッピーエンドな『おとぎばなし』を始めよう。