宿屋にはそこまで時間は掛からずに着いた。客日入りはいいようで、中からは活気のよい声が扉の隙間から漏れて聞こえる。
いざ男が扉を開けようとすると、男の手をぎゅっと握る力がこもる。少女の手だ。少女は街道を歩く途中、さすがに少しだけは人に慣れたようで、男に隠れるように歩くことはなくなったが、その代わり少女は男の手を握ることによって不安や恐怖を凌いでいるのだ。と、言ってもきっかけは男にある。少女が人に少し慣れ、男に隠れならがら歩くことはなくなったが、何分、街道には立ち並ぶ様々な屋台に行商人などが手に入れてきた品物目当てに、沢山の町人に観光人、それらの人がひしめき合って、大人である男はどうって事ないにしても、幼い少女にとっては、大勢の人は大きな波と変わらない。ひとたび波に攫われれば男とはぐれて、いつの間にかにどこぞ知らぬ所へと行き着くかもしれない。
大規模とは言えないが、それでも十分に大きいこの街で少女を見失っては、見つけ出すのがかなり酷だ。それがどちらとも動く事ができるなら一層のこと見つけにくい。
そう思った男は、見るからに危なっかしい少女に手を差し伸べたのだ。少女はその手を直ぐに握った。いや、飛びついたという方が正しいだろうか、やはり多少は慣れたとしてもやはり人が怖いのだろう、男の手に握られた少女の手は少しばかりか震えていた。
ここまで来るとやはり完璧な父子にしか見えない。どちらとも黒い外套に少女の方は身を隠すために被り物をしているとはいえ、大きな男と小さな少女、握り合うその手に歩いているところを見ればどこからどう見てもそれは家族の姿だ。
実際、黒ずくめの親子として、奇妙な親子だとでも言ったような視線が二人をすれ違いざまに掠める。少女はそれらの視線に気づく余裕はないので、気づきはしないが、男は当然、この視線に気づいていたが、気にするだけ精神をすり減らすだけなので、それらの視線は気にしない事にしていた。
まあ、当の本人たちはまさか自分たちが親子にみられているとはわからないだろう。男は視線には気づけても、その意味まではわからないのだから。
男は塞がっていない方の手で木製の扉を押す。押せば開く、ドアノブもない簡易な扉だ。中に入ると、一階には食堂と宿泊室が一緒になっているようで、幾人もの大人や子供が、席に座って食事を取ったり、酒を飲んでワイワイと騒いでいる。
そんな騒ぎも二人の来訪によって砕かれることになる。まあ、全身黒ずくめな旅装束二人組が現れれば無理もない事だといえるだろう。だが貿易やらなにやらで沢山の交流のあるエストアの街の中では旅装束などというものは見慣れたものなのだろう。流石に宿の中には男達のような長期にわたる旅をするような服装でなく、推測するに近場の街などから馬車などにのってきたのか、軽装な者達が殆どだ。
ほんの数瞬だけ静寂に包まれた食堂にはまた活気ある姿へと戻った。その中には子供らの旅人への憧れでもあるのだろうか、「いいなぁ」やら「僕も何時かは世界中を旅してみたいなぁ」などといった可愛げのある夢に、その子らの親なのだろう、「お前さん達には旅に出れる年になったら、金を稼いで俺や母さんに孝行してもらわなきゃいけないからな」、と言った言葉に子どもたちは口を尖らせて文句を言っていた。
男はその場の空気を特に気にせず、そのまま宿屋の受付へと向かう。少女もそれに男の手を先程よりも力を込めながらも付いて行く。その姿をみた客達の中には「へぇ、親子で旅たぁ、酔狂だね」と言ったような言葉もあったが、男はしれっとしていて気にする様子は微塵もなく、少女は余裕が無いのかその言葉に反応するよりも男の手を握ることに意識を向けていた。
木でできた床が、男と少女の足によってコツコツと音を立て、静かな空間に広がる。
「済まないが二人部屋があれば泊まりたいんだが。最悪一人部屋でもいい。」
男は宿主であるだろう、無精髭をたくわえたなかなかに貫禄を感じた男性に話しかける。
「あいよ、二人部屋」
「まず、二人部屋はある。この鍵だ。」
男性は直ぐ後の部屋ごとに区切られている鍵入れから一つの鍵を取り出し男に渡す。
「そこの階段を上がって奥の部屋だ。番号が付いているからわかるだろう。」
「ああ、ありがとう。」
「しめて銀貨二枚に銅貨十二枚だね、食事は別払いだ。風呂はそこの食堂の横にある廊下をまっすぐに行けばある。釘を刺しておくが女湯は覗くなよ。」
「無論だ。ここで覗くと後が怖そうだ。」
男は軽口で返し男性は大きく笑う。
「違いない。ここらにいる女どもはどうにも怖くてしょうがない。もっとお淑やかに出来ないもんかね。」
「それもまた一つの魅力だろう。諦めて受け入れろ。」
「んなことずっと前からわかってんだよ、、まったくなんでうちの嫁さんはあんなのになっちまうのかね。」
男性は愚痴は言っているものの顔は笑顔で、食堂で忙しく料理を作っている女性を見る。夫婦仲は良好なようだ。
男と男性のやり取りは終わり、男は少女を連れて宛てがわれた部屋へと向かう。
階段を上がった後、階段下から聞こえてくる活気のある軽口やらなりやらが、妙に男には心地よかった。少女は変わらず男にしがみついた状態のままだったが。
◆
部屋の中には質素なベッドが二つ横に並んでいて、その隙間の間には一つの台、その上に洋灯。扉の左側に木製の枠で作られた簡易な窓。その窓からは大通りが見え、日が少し傾いている中、衰えることない、小雑多とした人々と屋台の景色が見える。
右側には服を掛けておくための木製の突起の付いた棒がいっぽん立てられている。
男は自分の外套を棒に掛け、台の上に腰に提げていた旅用具の入った袋を置く。男の服装はまさに旅装束と言っていいもので、下は厚めの布で出来た、少し大きめのズボンに、少女と同じく、黒皮で出来たブーツ。上は手首まである肌着に、更に上から懐中の付いた服を重ね着している。そのどれもが使い込んでいるようで、所々傷んでいる場所が見て取れる。
服装とは別に、男の髪が思いの外長かったことに少女は気づいた。
男と森で一緒に寝た時は寝ぼけていたため気づかなかったが、男の後ろ髪は長く、腰近くまで伸びており、首のうなじ辺で髪を紐で結っている。だが、長いのは後ろ髪の方だけで、前の方は短髪という髪型になっている。短髪と言っても、全体的に長めで、前髪は目を軽く覆っている。色は少女と同じ夜を思わすほどの黒色である。
男のそんな姿見ていた少女の視線に気づいたのか、男は軽く少女に視線を向ける。男の視線と少女の視線、その二つが交差した瞬間、男の姿をじっと見ていた少女は、勢い良く、現実に引き戻された。
「どうした。」
男は少女が扉の位置からずっと動かないことに怪訝に思い声をかけた。
「な、なんでもないです。」
慌てるように少女は答える。ただ男の姿をじっと見ていたなんてことは少女にとって気恥ずかしく、言葉にして言える筈がなった。