パシン、と乾いた小さな音が部屋の中に響く。
気付いた時には、伸ばされたクルシュの手を払っていた。
「なっ!」
後ろに立っていたフェリスが怒気を露わにし、身を乗り出そうとしたところをクルシュに止められる。
クルシュは払われた手をじっと見つめ、何かを問うようにこちらを見た。
死にたくない。
それは本音だ。
だが、クルシュの力を借りたところで何ができる。
あの巨獣を止められる者など、同じような怪物でなければ無理な話だ。
無理だと分かっている幻の希望に縋り付き、馬鹿の一つ覚えのようにまた絶望を見るくらいなら、この手を取ることなどしない。
「お前じゃ無理だ……。あの獣はどうしようもない」
氷漬けになる直前のクルシュの慌て具合を見てきたからわかる。クルシュにはあの巨獣をどうにかするだけの力は無い。ヴィルヘルムやフェリスも同様だろう。
「ふむ、なるほどな……」
クルシュは腕を組み、瞼を閉じる。
クルシュが何を考えてるかは全くわからないが、フェリスの鋭い眼光は何を物語っているのかはよくわかる。
大方、助けてもらった上にこうして手まで差し伸べられているくせに偉そうに断りやがって、とかそんな感じだろう。
奴はクルシュの忠実な従者であり、前回のループでは露骨にクルシュを無視するスバルに対し、不満を隠そうともしていなかった。今も同じだろう。
「一つ聞きたいことがある。貴様の言う獣とは、三大魔獣のことか?」
「三、大魔獣……?」
「ふむ。三大魔獣を知らないのか……。可能性はあるな。どうだ、フェリス?」
「もし魔獣の頂点にある三大魔獣より格下の魔獣でしたら、三大魔獣の一角である【大兎】を撃退したクルシュ様ならば容易く討伐できるでしょう。【白鯨】のことを言っているならば、早急に兵と武器を集めれば七日で最低限の戦準備は整います」
「白鯨の可能性はかなり薄い。ヴィルヘルムが地道に収集した情報によれば、もう少し先だ」
「そうですね」
三大魔獣。大兎。白鯨。
未知の言葉だ。
この世界にはまだまだわからない事ばかりだ。
しかし、魔獣か。
確かにあの巨獣はそういったものに類するのだろう。
名前としては大兎というものが近いのだろうか。しかしクルシュはアレを初めて見るかのような反応をしていた。
三大魔獣とやらではないのだろう。
「三大魔獣とは、嫉妬の魔女が生み出したとされる災禍の魔物どものこと。通るだけで人一人も残さないような連中だ」
クルシュはそう言って三大魔獣の話を続けた。三大魔獣とやらははるか昔、400年ほど前から存在しており、神出鬼没な上に討伐はほぼ不可能とされているらしい。
しかし先程、クルシュは大兎を追い払ったとフェリスが言っていた。案外なんとかなるものなのだろうか。
「その内の白鯨は、討伐に向かった先代剣聖を返り討ちにし、亡き者にした」
「……は?」
剣聖とは、すごい奴だと聞いた。
初代の剣聖は、竜や賢者と協力して嫉妬の魔女を封印することに成功したと聞いた。
その系譜の人物が勝てないほどの相手、だと言うのか。
「なおさらあんな奴に、勝てるわけがねえよ……」
白鯨がどれだけのものかわからないが、あの氷の巨獣より強い存在は想像できない。
王都全域を一瞬で凍てつかせ、全ての命を奪ったあの怪物はまさに厄災と呼ぶに相応しい。
おそらく、クルシュの言う三大魔獣とはまた別の、まだ発見されてすらいない魔獣かそれに類するものなのだろう。
この世界の最上位に位置する魔獣と同等以上の未発見の化け物。
「剣聖ですら無理なら、誰が……」
剣聖がどれだけすごいのか、この目でそれを見たことはないが多くの人の口ぶりから、恐らくは人類で最強を誇るほどの人物であることは推測できる。
たとえこの場に剣聖とやらが居たとしても、スバルはそれに縋ることはしないだろう。
それほどにかの巨獣は圧倒的だったのだ。
「例えば、剣聖に勝った人物がいるとするならば、どうする?」
「……は?」
クルシュが頭上から言葉を振り落とした。
「ふむ。次の問いだ。その人物がこの屋敷にいるとしたら、どうする?」
「…………」
ありえない。
スバルはそう断じた。
剣聖より強い人物。確かにいる可能性は少なくない。いくら最強と謳われようが、この世に絶対は絶対にない。負けることもあるだろう。
しかし、剣聖に勝つほどの人物がこのタイミングで、この屋敷の中にいる可能性などごく小さなものだ。
さらに
王都でも相当の地位を築いているカルステン公爵家の邸宅に、訪問または滞在を許可されているという事実。
それはカルステン家当主であるクルシュと親密、あるいはクルシュに従う者である可能性が高く……。
ここまで考え、スバルはありえないと断じたのだ。
スバルはここまで、四回、死んだ。
四回だ。
人生百年時代なんて言われてるこのご時世に、たったの一七年で四回死んでいるのだ。
その苦しみはただの痛みだけではない。
何もわからないまま殺される痛み。
ループしていることに気付き、身近な者と結託したというのに裏切られ、再度殺される痛み。
上手くいったと思えば誰にも信じられずに殺される痛み。
何もしないでいようと思えば、全てを無に帰す痛み。
心への痛みは、肉体へのそれと比べても余りある。
今なら目の前にうってつけの策があるぞ、などと言われて飛びつくほど阿呆ではない。
それを信じられる限界はとうの昔に超えている。
もしそれが本当だとしても、だったらなぜ、最初からスバルに都合の良いように物事が進まなかったのか。
異世界召喚されてすぐに裕福な家に拾われ、剣や魔法の素養に目覚め、美少女と冒険に繰り出すようなそんな展開があって良かったじゃないか。
そうでなくても、突然投獄されたり、魔女教徒に拉致されたりする前に救済措置があっても良かったじゃないか。
なぜ。今。
この何もしていないループで。
ただ気絶して、癇癪を起こしただけのこの回で、一度裏切られた相手に手を差し伸べられ、最大の絶望に対し戦力を用意できると言われるのか。
そんなうまい話があるわけがない。ないのだ。
この差し伸べられた手は蜘蛛の糸だ。
今この手を取れば、次のスバルも、次の次のスバルも、この手を取るだろう。
そうして他人に救われることを是とし、小さな希望に縋り、やがて地獄に落ちていくのだ。
「おれはお前を、信じることはできない。お前がおれを信じてくれなかったからだ」
「私と貴様は初対面のはずだが……」
クルシュは困ったように眉を寄せる。
「最初に信じなかったのはお前の方だ、クルシュ・カルステン。だからおれもお前を信じない。けど……」
スバルが話しているのはクルシュが覚えているはずもない記憶。魔女教徒となる看守長と共にスバルのことを騙したことは、クルシュを信じない理由に十分足りる。
「お前……フェリスのその忠誠心は信じる」
クルシュの傍らに控える長身の男を見る。
クルシュに対するスバルの数々の無礼な言動に、もはや耐えられないというように肩を震わせていたフェリスは突然声をかけられてピコンと猫耳を動かした。
「……なんだよ。クルシュ様のことは信じられないけど、ボクのことは信じられるって言うのか?」
「違う。おれが信じるのはお前のその異常なまでの忠誠心だ」
前回のループ、そして今回。
フェリスはよくクルシュと共にいた。
フェリスのクルシュに対する忠誠心は凄まじく、身も心も捧げているように見えた。
クルシュのために動き、クルシュのために働く。ただの主従を超えた忠誠心がフェリスからは感じられ、それは信じるに値するものだった。
「勘違いするなよ。おれはフェリスが信じてるお前を信じることにする。それだけが絶対不変で信用できるからだ」
「十分だ。フェリス、ありがとう」
「納得はいきませんが、クルシュ様のためになるのでしたら」
そう言って一歩下がるフェリス。
その姿にスバルはとりあえずは安心する。
「仕方ねえ。信じられねえことに剣聖に勝った奴がいたとする。また信じられねえことにそいつがこの屋敷内にいたとする。またまた信じられねえことにそいつがクルシュの意のままに動いてくれるとする」
「貴様、本当に信じているのか……?」
「信じてるぜ?」
ハッ、と嘲笑う。
このくらい煽りにも入らない。信じるって言ったのだから信じてるに決まっているだろう。
「だとしてもあのバケモンに勝てるとは、おれは微塵も思わないね。あれは人間が太刀打ちできるレベルじゃねえ。全員死んで終わりさ、ハハッ」
クルシュの戯言を信じたところで、スバルの中の天秤は氷の巨獣に傾いたままだ。
どれだけの剣の名手がいようが、どれだけの兵を集めようがあれに勝てるイメージは一切湧いてこない。
クルシュ自慢の剣士が一人いたところで、先ほど言っていた白鯨をはじめとした三大魔獣ですら討伐することはできないだろう。
「白鯨を討つ算段が、我々にはある」
「ぽえ」
変な声が出た。
今、こいつは、なんと言った?
「三大魔獣が一角、白鯨を殺すことが、我々にはできると言ったんだ」
間抜けな顔にもう一度言ってくれと書いてあったのか、クルシュはそう言った。
「剣聖を超えた剣士。かつての戦争で多くの戦果を挙げた末に剣聖を打ち負かし、嫁に迎え入れた剣の鬼、『剣鬼』ヴィルヘルム・ヴァン・アストレア。王国最高の治療魔法の使い手、『青』フェリス・アーガイル。この二人を筆頭に多くの戦力を私は蓄えている」
クルシュは誇らしげにそう語る。
「それを率いるのが、たった一人で大兎を退けた『戦乙女』クルシュ・カルステン様です」
フェリスが付け足すように締めくくる。
「我々は全戦力を持って白鯨を討つ。討てる。その確信がある。過去、どんな討伐隊も壊滅に追いやった災厄の魔獣を討伐する」
自信ではなく、確信。
必ず遂行すると豪語する豪胆さ。
なんの準備も無しに、ただ怯え、逃げることさえ諦めたスバルには持ち得ないものだ。
ゆえに、スバルにとってそれは蛮勇にしか映らない。
「いや、無理だ。あんたらがどれだけ強かろうが、あれには負ける。どうせみんな死ぬんだ」
最強に近い
そんなもので太刀打ちできると思われているのだから、白鯨とやらも大したことはないのだろう。
「どうせ死ぬんだったら、無駄に抵抗するより何もしない方が賢いだろ?」
結局はこの考えにたどり着く。
蜘蛛の糸に縋れば、さらにひどい地獄を見ることになる。
登った分、底に叩きつけられる衝撃は大きくなる。
ならばずっと底にいよう。
目立たぬように、小さな声で「生きたい」と呟きながら、死に続けよう。
「せめて生きている間くらいは踠いてみせろ。死んだ後のことは、死んだ後に考えれば良い」
何気なく言ったのだろう。
クルシュがその言葉を発した瞬間に、スバルの癇癪が再び弾けた。
「おまえっ……おまえに、お前なんかに何がわかるんだよ!」
死んだこともないくせに。
生きている間は踠いてみせろだ?
「踠いたさ! 土石流から逃げようと踠いた! でも逃げ切れなかった! 気に入ってもらおうと足掻いた! でも信用されなかった! 諦めようとさえした! でも許されなかった!」
死んだ後のことは死んだ後に考えろだと?
「さんざん考えて、このざまだよ!」
何度も考えた。
死んで、どうすれば死なないのか考えて、実行した。
それがこのざまだ。
この世界に落とされたことを憎んだ。
どうせだったら目の前のこいつのような境遇を得たかった。
「お前は生まれた時から貴族で! 容姿にも恵まれて! 王の候補でもあるんだろ!? さぞかし楽しい人生だろうなぁ!?」
人は生まれながらに平等ではない。
クルシュは望むものを持ち、これまで成功の道のりを進んできたに違いない。楽しくて仕方がないはずだ。
「君、調子に乗りすぎじゃないかな?」
後ろに控えていたフェリスが怒気をあらわにしてずいと前に進んできた。
猫耳が怒りでピクピクと不規則に動く。怒髪天を衝くというよりは、怒猫耳天を衝くという勢いだ。
しかしそれをクルシュは目配せだけで止めた。
「……友が死んだ。尊敬していた方であり、かけがえのない友人だった」
静かに、しかし何かを孕んだような声でクルシュがポツリと呟いた。
スバルは枕の一つでも投げつけてやろうとしたが、その何かに睨まれたように感じて動けなくなった。
「素晴らしい方だったよ。誇りを失わず、国の未来を見定めていた。だが、死んだ」
死。
もはや遠いものではない。
スバルにとってはいつでもそれは背後にあり、振り返ったときには王城の廊下へと時間が巻き戻っているかもしれない。
「狙ったかのように王族だけが亡くなってから半年、私の世界は目まぐるしく急変した」
「王候補に選ばれたことに、驚きはさほど無かった。殿下と共に見た夢をこの手で叶えることができる、という嬉しさはあったがな」
クルシュは懐から何かを取り出した。
懐かしむようにそれを握りしめ、目を瞑り、一呼吸置いてから続けた。
「公爵家と言っても、数ある諸侯の一つに過ぎん。王族に並ぶ歴史はあれど、カルステン家を陥れようとする公爵家は少なくなかった。私が女で、若い内に家督を継いだことを良く思わない連中や甘く見た連中がほとんどだな」
「しかしそれでも、私には殿下の夢見た未来を叶えるという使命があった。諦めるわけにはいかなかった。何度も挫けたさ。もし一人だったら辞めていたかもしれない。でも、フェリスがいてくれた。カルステン家に仕えるみながいてくれた。支持してくれた領民や王国民がいてくれた。だから立ち上がれた」
「笑われて俯くこともあろう。躓いて起き上がれないことだってあろう。だが、顔を上げろ。再び立ち上がれ。望む未来とはいつ何時も、先にしかないのだから」
「私は誓ったんだ。あの方が望んでいた未来を作る。それを成すためならば、私は何度斃れようとも構わない。友が、従者が、みなが助けてくれる」
「自分では立てないこともある。私など、事あるごとにフェリスに支えてもらっている」
「今、前を向くことが難しいならば、私が貴様に手を伸ばそう。もう一度立ち上がる勇気を、信念を、私が貴様に与えよう」
「私を信じる必要はない。フェリスを信じてくれるならば、それでいい」
「最高の治癒術師に、最高の剣士。どうだろうか。貴様一人よりも、かなり選択肢が増えたと思うのだが」
「……なんだそれ。自慢か?」
「自慢だ」
クルシュは臆面もなくそう言い切る。
「自慢の友に、自慢の従者。誇らしくて仕方ない。頼もしくて仕方がない。そうは思わないか?」
「それに、嘘発見器のクルシュさんも加われば百人力ってか?」
「なんと。知っていたか」
「あんたから直接聞いたんだ」
「……おかしいな。加護が正常に働かないようだ」
「嘘じゃないぜ?」
「ふふ。信じるとしよう」
クルシュがわずかに見せた過去は、スバルの心を多少なりとも揺さぶった、ような気がした。
あくまでその程度だ。
他人の、それも信用していない相手に自分語りをされたところで大きく揺らぐほどスバルの絶望は軽くない。
しかし、人に頼ってみるという小さな選択肢が生まれた。
強く生きてきたと思っていたクルシュも、多くの人に支えられ、頼って生きてきた。
そう思うと、スバルのように生きることさえ難しい人間でも他人に縋ってもいいのだろうかと考えてしまった。
それに、クルシュの見据える未来とはどんなものなのか、それが今は少しだけ気になってしまっていた。
「いいぜ。あんたらの力、おれに貸してくれ。少しだけ足掻いてみるよ」
差し出されたクルシュの手を取る。
久しぶりに他人の体温を感じた。
指先から伝わる熱は優しさを帯びていた。
スバルは蜘蛛の糸を掴んだ。
分かっている。
この糸が切れてしまうことは覚悟している。
それでも、もう一度だけ。
他人に頼って足掻いてみることを決心した。