客間の方へ茶を運んでいた巴は、障子越しに自分の名前をふと耳にした。
「――そろ巴を……」
一瞬足が止まり、耳をそばだてる。父の低く落ち着いた声と客の相手と話している内容が気になった。
「巴を嫁がせる相手を見つけてやらんとな」
「この辺りでも結構評判ですよ。器量良しで、弟の面倒をよくみる、とても気立てのいい娘さんだと。縁談なんて引く手数多じゃないですか」
「そういうわけにもいかないさ。あの娘は弟をさしおいて自分だけ嫁ぐ気にはならんだろう。婿入りを考えたいところだが、我が家に入るような物好きはおるまいし……。だが、いつまでもこのままでいれば、あの娘も可哀相だしな」
巴は持っていた盆を片手に、その場に立ち尽くした。声をかけて部屋に入ることができなくなってしまった。父のやるせなさそうな声が耳に残る。
いつか必ずこの話がでると思っていた。もう十と六になる。一昔前でいえば、とうに嫁いでいてもおかしくはない年頃。母は十四で父のもとへ嫁したという。
だが――。
(|縁≪えにし≫……)
まだ幼い小さな弟。我儘で気の強いところが、誰に似たのか、手に負えないところもあるけれど、それでも母が死とひきかえに遺してくれた大切な忘れ形見。日を追うごとに愛しさが募った。
私が嫁げばあの子はきっと、ひどく寂しがるに違いない。気は強いけれど、芯はとても心根が弱い。父はもてあましてしまうだろう。あの子を残して行く気にはなれない。
だけどやっぱり、このままでいても、父の負担になるばかりかもしれない。世情が不安になりつつある今、禄高は日増しに目減りしていく。このままでは一家三人、暮らしていけるかどうか……。
(やっぱり、私が嫁ぐよりほかないのかも……)
「痛っ…」
ふいに、包丁の先で指先を切ってしまった。夕餉の支度をしていた最中だったが、考えごとをしていて手元が狂ってしまった。
「そうね…」
考えてみてもはじまらない。私が少しでも苦労を重ねた父の役に立てるのであれば、どこへでも嫁ごう。縁はきっと大丈夫だろう。今は納得してくれなくても、時間をおけばきっとわかってくれる。
巴は鍋の火を消すと、足りなくなった醤油の買出しをしに裏口から家を出た。
秋の日長、というけれど、遠く西の空に沈む夕日がいつまでも沈みかねているかのように一際明るく輝いていた。
なんとなく見とれて歩いていたそのとき、
「危ない、逃げろーっ!!」
背後から悲鳴のような声があちこちから聞こえてきて、ふと振り返ると、一瞬目の前に大きな黒い塊が目の前に迫って、何が起きたのかわからなかった。
「暴れ馬だーっ!!」
その声でようやくそれが馬なのだとわかる。巴は目を大きく見開いて、声にならない悲鳴をあげた。
逃げられない……!
観念して目を瞑ると、ドウッ、と何かが倒れる音がして、巴はおそるおそる目を開ける。
へたりこんで座っている巴の目の前に、若武家らしい男が刀を抜いて立ちはだかっていた。
「大丈夫かい?」
その男は手を差し伸べて巴の背を支えた。落とした財布を拾うと、埃を払って丁寧に渡す。
巴は男の背後で泡を吹いて倒れている大きな黒馬を、息を呑んで見つめていた。
「あ、ありがとう…ございます…」
それだけ言うと、急にほっとしたかのように、巴は男の手を強く握りしめた。途端に照れたように顔を赤くして、握りしめられた手を引っ込める。
「久しぶりだね」
「…え?」
男は柔らかな微笑みを浮かべて、巴を優しく見つめた。一瞬なんのことかわからなかったが、よくよく見ると、確かに見覚えのある顔だった。
「覚えてない?」
「あ…!」
思い出して、巴は口を押さえた。それは小さい頃、隣の家同士でよく一緒に遊んだ清里家の次男だった。
「昨日、国許から帰ったんだ。挨拶しようと思ったんだけど、いろいろとごたごたが続いて…」
清里はそう言って、照れるようにまた顔を赤くした。これはこの人の癖で、本当は嬉しい時の癖なのだ。昔から変わっていない仕草に、巴はほんの少しほっとした。
だけど――。
「あの…暴れ馬を、あなたが…?」
これだけはちょっと信じがたい。たしか父と同じで武芸にはからきしだったはず。一瞬で倒せたなんて、たった三年の間になにがあったのだろう。
「いや、無我夢中だったから……」
無我夢中で峰打ち? それも一撃?
「君を助けるのに必死だっただけだよ」
そう言ってまた顔を赤くすると、慣れない業物を不器用に鞘に納めた。本当にただ夢中だっただけらしい。二本差しの左腰が妙に重くのしかかっているように見える。普段は抜くこともないのだろう。
でも――。
「本当はとても強いのね」
「そ、そんなこと」
「ありがとう、助けてくれて。命の恩人です」
「よしてくれ。そんな大層なものじゃ」
「きっと、もっと鍛えればとても強くなるわ。あなたは本当は剣才の持ち主なのよ」
「いいんだよ。僕は強くならなくても。今のままで十分なんだ。過ぎる力は身を滅ぼすだけだから」
こんなところも、昔とちっとも変わっていなかった。謙虚で、ある意味不器用な人で、でも誠実なところがあって。
巴はそのまま清里と連れ立って家路まで歩いた。
「いいのかい、買い物の途中だったんだろう?」
「あなたが帰ってきたのなら、もてなしの用意をしなくてはいけないから、急いで帰らないとね」
もてなしなんていいのに、と言いながらも満更でもないらしく、嬉しそうに照れている。暖かい昔の空気が戻ったような、そんな時間に包まれた。
そんな空気を破るかのように――。
「あ、あの…これを…」
と言って、家の裏口が近づいた頃、清里は懐から小さな包みを取り出した。
「え?」
「君に…」
カサ、と包み紙をひらいたその中に、赤い飾りのついた簪が入っていた。
「私に?」
こくん、と真っ赤になって俯く。きっと国許の小間物屋で買ったお土産なのだろう。そう思って、巴は小さくお礼を言うと、受け取ろうとして手を差し伸べた。
「結婚…しよう」
ふいに、いきなり突然に、申し込まれた。
巴は目を丸くして、なにを言われたのかわからない表情で、差し伸べかけた手を止めた。
「…………」
「突然かもしれないけど、ずっと前から……好きだった」
清里の声は微かに震えていた。
「どうしても君に会いたくて帰ってきた。遠く離れていたら、君が誰か知らない奴のところへ嫁ぐような気がして、いてもたってもいられなかった。僕は…ずっと君を…」
「私…」
巴は言葉を呑み込んだ。諦めとも戸惑いともつかないものが胸の中を去来する。この気持ちをどう言いあらわせばいいのだろう。なぜ素直に喜べないのか、自分にもよくわからなかった。
清里は簪を巴に手渡した。その赤い飾りをしばし見つめてから、巴は返事もろくにせずに、
「簪、どうもありがとう…」
そう言うと後ろ姿を見せて、そのまま裏木戸から走り去った。
清里はじっと見えなくなるまでその姿を見つめていた。巴は走りながら彼の視線を感じとり、はやる胸の鼓動を押さえながら、裏庭の桃の木の幹に手をかけた。
左手にある簪を見つめる。これはあの人なりの求婚の印だったのだ。受け取ったということは、彼の申し出に応じたという意味になるのだろうか。
ふと雁の群れの鳴き声を聞いた。巴は空を振り仰いだ。もうすぐ秋が終わる。季節は知らない間にめまぐるしく移り変わっていたのだ。そして変わらない時というのもありえない。
「私…」
あの人の申し出が嬉しかったはずなのに、何故か素直に喜べなかった。きっといつもの無表情のまま、感情のわからない顔をしていたに違いない。それをどう思ったんだろう。なぜこんな私を好きだと、あの人は告げたのか……。
たとえ聞いてみても、あの人はきっと照れたように顔を赤くして、そんな君が好きだから――、と優しく微笑むに違いない。
そう、そういう、優しい人なのだ。
(きっと――…)
幸せになれる。あの人なら幸せにしてくれる。そんな気がする。
いつも誰かの幸せを考えて生きてきた。たとえ自分がそのために犠牲になろうとも、大切な人が、愛しい人が、幸せになれるのならば……と、いつもそれだけを考えて生きてきた。
だけど自分のために幸せになれる道を探してみてもいいのかもしれない。そんな幸せを与えてくれるあの人が側にいるかぎり、それに身を委ねてみても……いいのかもしれない。
(あの人が側にいるかぎり――……)
巴は沈みゆく夕陽を眺めながら、いつか訪れる平和な穏やかな日常を静かに夢想していた。
身を委ねることへの限りない幸せを、ただひたすら夢見ていた。
やがてそのことが悲劇へと辿ることなど、思いもよらずに――。
―― 了 ――