ポケモン色の本棚   作:@早蕨@

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いかりまんじゅうの味

【一】

 

 いかりの湖の畔は、僕の大好きな散歩コースだ。ジョウト地方北東部のチョウジタウンから北の林道を抜けると、いつでも湖はそこにある。いつきても変わらないその姿に僕は安心を覚え、朝の空気が澄んだ時間にゆっくり歩いていると、心がとても晴れやかになる。ポケモンも持たず、一人でしばらく歩いてからが僕の一日のスタートだ。とても気分が良い。

 朝の湖には、チョウジジタウンの人がちらほら歩いている。僕と同じように散歩をしている。観光客も混ざっており、その人達と歩きながら他愛のない話をすることもあった。畔にはベンチが設置されていて、おじいさんやおばあさん達が物思いにふけながら、じっと、湖を見つめている。

「おはようございます」

 ベンチに座り、両手で持った杖を足の間についていた。毎日毎日この場所に座っているおじいさんだ。チョウジタウンの住人かどうかはわからない。ただ、いつもこの場所にいる。お互いに詮索することもなく、ただ、話をしていた。

「今日も、湖は変わらないですね」

「あの時から、この湖の表情は一緒だよ」

 おじいさんは言う。

 おじいさんと僕は思っているが、実際の年齢はわからない。たっぷりと髭を蓄え、痩身で小柄。ガラガラとした声に、深く刻まれた皺。足が悪いのか、杖をついていつも歩いている。そんな風貌だから、おじいさんと呼んでいる。たまに、思っているよりも若いのかもしれない、と思うことがあるが、わざわざ聞くようなことはしなかった。おじいさんも、僕のことをまったく聞いてこないからだ。

「あの時とは、何時のお話ですか?」

「もう、三十年以上前の話だよ。この湖に、考えられない程たくさんのギャラドスが出現したんだ。この風景には、似合わない話さ」

「ああ、おかしな電波で無理矢理進化させられたとか」

「そう。おかしな電波の発信源は、チョウジの土産屋の地下にあったんだ」

「怪しげな、気配ただよう忍び里、なんて言われてますし、今でももしかしたら何かあるのかもしれないですね」

 僕の言葉に、おじいさんはゆっくりと首を横に振った。

「今はもう、何もない。この町は平和そのものだ。同じことを、繰り返してはいけない」

 事件当時を知る者にとっては、よっぽど悲惨な事件だったのだろう。自然の摂理に逆らい、無理矢理進化させられたギャラドス達の死体がいくつも湖に浮かんだ写真は、今でもジョウトに語り継がれている。僕も学校で見た記憶がある。忘れてはいけない事、二度と起こしてはいけない事件として、今でも語り継がれていた。

「守りたい風景ですよね。この湖は、この町の、この地方の宝だ」

「そう。守らなければいけないもの。それを間違えた人間が、当時はたくさんいたんだ」

 おじいさんは悲しそうに顔を伏せる。随分と事情に詳しそうだ。当時のチョウジタウンに住んでいた人なのだろう。

「今でもそういう人間はたくさんいます。けれど、この町で起きた事件や、世界中で起きた悲惨な事件を語り継いでいくことで、間違えそうな人を正していかなければなりません」

「払った犠牲は大きい。その犠牲を、無駄にしてはいけない」

「そうですね。僕が小さいころ習ったように、伝えていくことが大事なんでしょう」

 おじいさんはにこりと微笑んで此方を向いた。僕もにこりと微笑み返す。

 その顔に刻まれた皺に、折り重なった苦労と乗り越えてきた人生の厚みを感じる。心の綺麗な人なのだろうと、僕は思った。

「あ、おじいさん、お腹空いていませんか? お結びがあるので、よかったらお一ついかがですか?」

 この湖を眺めながら食べる朝食はとてもおいしい。

「いいのかい?」

「どうぞどうぞ」

 アルミホイルに包まれたお結びを一つ渡すと、おじいさんはひどく細い手で包みを開く。小さく噛み、ゆっくりと咀嚼してから飲み込んだ。

「ありがとう、おいしいよ」

 一緒に食べても良いかと思ったが、おじいさんはきっとこのおにぎり一つ食べ切れないだろう。小さく噛まれたお結びを見て、なんとなくそれがわかった。一人にして食べられるだけ食べてもらって、もしまた機会があれば、とびきり小さくして持ってこよう。

「それでは、僕はこの辺で」

 僕はおじいさんに一つ頭を下げ、その場を後にする。散歩はこの辺でいいだろう。おじいさんからいいお話も聞けた。

 チョウジタウンは、とても平和だ。

 

【二】

 

 おじいさんと話したその夜、仕事を終えた僕は、チョウジタウンにある自宅へ帰宅した。ドアを開け、「ただいま」と声に出すと、「おかえりー!」と甲高い声を上げながらドタドタと足音が寄ってくる。

「いい子にしてたかい?」

「いい子にしてたー!」

 娘のさくらが、また靴も脱いでいない僕に飛びついてくる。七歳になったばかりの、可愛い娘だ。

「おかえりなさい、あなた」

「ただいま、ふたば」

 エプロン姿の嫁も、僕達を微笑ましそうに見ながらやってくる。僕の大事な家族は、いかりの湖と同じようにいつもここにある。いつまでも、守っていたい。

 スーツから部屋着に着替え、僕は食卓へ着く。さくらもお行儀よく席につくと、続々とテーブルに食事が並べられていく。煮魚の香ばしいにおいが僕の食欲をくすぐった。

「さくら、おばあちゃんを呼んできて」

「はーい!」

 さくらは立ち上がると、襖を隔てた隣の部屋を入っていく。「おばあちゃん、ごはんだよー」と、さくらの声と共に、手を引かれた僕の母、さくらのおばあちゃんがやってくる。

「あらあら、今日も一段とおいしそうねえ」

 僕の母はいつもにこにこしている。並べられた食事に向けて、素直な気持ちをぶつけた。

「今日はおかあさんの好きなものにしましたから」

「あれ、今日は何か特別な日だったかな」

「特別な日じゃなければ、好きなものを作ってはいけないの?」

「息子より、ふたばさんの方がよっぽど優しいねえ」

「参ったなあ……」

 ふふ、とふたばは嬉しそうに口元に手を当てて、席につく。まったく仲が良くて困る。嫁姑で仲が良いのはありがたいが、度々悪者にされるのは困る。

 さて、席には母さんとふたばとさくら、それと僕が座っている。僕の家族だ。四人で住んでいる。ジョウトでも一番の都会であるコガネからチョウジタウンに移住してから、もう何年だろう。十年。いや、もっとかもしれない。ふたばはチョウジ出身の人だ。僕がここで働き始めてから出会い、結婚、さくらが生まれた。四人の暮らしはとても穏やかだ。何ものにも代えがたい。

「べろちゃんまだだよ! いただきますしてないよー!」

 そしてもう一匹、僕の大事な家族が隣にいる。一家の大黒柱の隣に飄々と、舌を出しながら座っている。もう随分前の話だが、こいつ用に、大き目の椅子を買ってやったのだ。「先に食べちゃうのは、め! だよ」さくらに怒られたベロは、へへへと言わんばかりに頬を掻いた。

 母さんとふたばとさくら、僕、そしてベロリンガ。四人と一匹の、大事な大事な空間だ。

「ベロも待ちきれないみたいだし、食べようか」

 いただきます。声を合わせてそう言って、僕達は夕食を楽しんだ。

 

【三】

 

 夕食を終えると、ふたばとさくらは一緒にお風呂へ入っていった。その間に母さんが皿を洗い始める。うちのいつもの流れだった。その隣にベロが付き、洗った皿をどんどん器用に拭いていく。ふたばは洗い物は私がやるんでゆっくりしていてください、といつも言うが、決まって母さんは「ベロも手伝ってくれるし、平気だよ」と頑なに譲らない。

 こんなに人の暮らしに馴染んだベロリンガも珍しいだろう。僕が手塩にかけて小さな頃から育てあげたのだ、なんて言えたらかっこいいが、ベロは母さんのポケモンで、母さんの言うことと何故かふたばの言うことだけ絶対に聞くのだ。

 僕が物心ついたときから一緒にいたから、兄弟みたいな関係と言われれば、その通りなのだと思う。毎日一緒に遊んだし、ずっと一緒に寝ていた。母さんが一度床に臥せってからは、母さんの部屋でじっと眠っている。頼もしい限りである。

「こら、なめるんじゃないの」

 パシんと頭を叩かれたベロは、やっちった、とまた頬を掻く。こいつの癖だ。自分の皿を渡されるとなめずにいられないらしい。一度洗った皿は再び洗われ、ベロは一生懸命我慢してそれを拭く。ベロリンガというポケモンは、舌触りと味覚でいろいろなものを判別する能力がある。洗った皿を舐めてもまだ自分の飯の味でもするのかもしれない。小さい頃からずっと見ていた光景だが、母さんもベロのその癖が嫌いなわけではない。まったくこの子は、と小さい頃の僕の頭を叩いていた時と同じように、少し嬉しそうにしながら、同じ表情を浮かべながら頭を叩く。ベロもまた、息子なのだ。僕はその微笑ましい光景を見ているのが好きだった。昔の自分を思い出し、なんとなく嬉しくなる。

「まったく、ベロはいつまで経っても変わらずだらしないなあ」

 じとりと首を回してこちらを見やるベロに、僕は軽く舌を出して返答した。ベロと接する時は何故だかいつも昔のように接してしまう。これは僕の癖だ。

「あんたも大して変わってないよ。後、舌を出すのはやめなさい。いい歳なんだから」

 ちぇ、とは大人なので流石に言わない。「わかったよ」「まったく、口だけなんだから」とだけ母さんと言葉を交わす。「だいたいあんたはねえ」と母さんの小言が始まりそうだったので、僕はいそいそと食卓を離れ、和室のリビングへ腰を落ち着けることにした。去り際、ベロは僕がやったのと同じように舌を出してきた。なるほど、確かに変わらないのかもしれない。何千回何万回とやったやり取りだ。

「さて、テレビでも見ようか」

 リビングに腰を落ち着け、テレビをつける。チャンネルをいくつか回していると、有名トレーナー同士のエキシビションマッチが行われていた。最近地方大会をいくつも優勝しているベテランの男と、昔四天王だったシバの孫、若手一番手超新星との一戦だ。なかなか見ごたえがありそうな試合だった。試合は既に中盤に差し掛かっているようで、ケンタロスの突進をカイリキーが受け止めている。力と力のぶつかり合い。家族を守る平和主義の僕だが、スポーツを見て興奮しない訳ではない。その先が気になり、つい夢中になってテレビに見入った。

 昔は僕もトレーナーだったのだ。こうやって強いトレーナー達なんかと戦える日を夢見て、日々ポケモンと努力をしていた、なんていう昔話を僕は持っている訳ではない。もちろん学校は出ているので、ポケモンに対する一定の知識は持っているが、実際トレーナーとして旅に出た経験などないのだ。僕はポケモンの能力を人の生活に役立てるために、人手やポケモンが欲しい企業から個人向けに、トレーナーやポケモンの派遣をやっている。その仕事柄、ポケモンに関わる機会が多いので、トレーナーと同等にはポケモンに詳しいと自負している。

 トレーナーになれなかったから、せめてポケモンに関わる仕事に就きたいと願った僕にはぴったりの仕事なのだ。

「お風呂あがったよー! 次お父さんの番!」

 さっぱりしてパジャマを着たさくらが、騒がしく僕に報告してくる。

「もうちょっと待って」

「あれ、ポケモンバトル? 今日だったんだ!」

 報告を終えたさくらは、テーブルを挟んで僕の向かいに着席する。

「もー! これすごく楽しみなバトルだったのに! 何で教えてくれなかったのー!」

「父さんもさっき知ったんだ。見たければ、次からはきちんと自分で確認しなさい」

 もー! とふてくされ気味のさくらだったが、バスタオルを頭にかけて、すぐにテレビを食い入るように見始めた。その辺のわんぱく少年と同じように、さくらはバトルがとても好きなのだ。トレーナーになってバッヂを集めたいと、チャンピオンになる! としきりに、声高らかに宣言している。いつかは旅に出ちゃうのかしら……と偶にふたばは寂しそうにするが、僕は精一杯応援してやりたいと思っている、寂しくない訳ではないが、夢を持つのはいいことだ。安心してさくらを送り出せる環境を作るのも、僕の役目だと思っている。

 とまあ、そんな偉そうなことは父親としての建前で、実際は僕がトレーナーになれなかった分、精一杯やりたいことをやって欲しい。ただ、それだけだ。

「あなた、お風呂入っちゃって。後がつかえているから」

「ああ、今入るよ」

「さくら、そんな近くでテレビ見ないの。目、悪くするよ」

「わかってるー」

 気づけばさくらはテレビにかじりついている。そんな近くで見たら逆に見づらいだろうに。

 僕はふたばの言葉に従い、風呂へ入ることにした。バトルの内容も気になるが、後でさくらが教えてくれるだろう。

「そういえば、ふたばの小さい頃の夢ってなんだった?」

 部屋を出るとき、バスタオルで髪を抑えながら拭いているふたばの背中へふと言葉を投げかけた。

「どうしたの突然?」

 ふたばは不思議そうに僕の方を振り返った。

「いや、なんとなく気になって」

「なんだったかしら。ブリーダー、だったかな?」

「今もブリーダーになりたいか?」

 ふたばはふふ、と口に手を当てて小さく笑う。

「そんなわけないじゃない。あなたとお母さん、さくらに、ベロと一緒に暮らしているだけで十分幸せ。夢を叶えてもらっているようなものよ」

「嬉しい事を言ってくれるじゃないか」

「まったく、変な人ね」

 その時は、ふたばの答えに満足して、僕は風呂へ向かうこととした。

 

 

【四】

 

 

 今の生活で十分幸せ。確かにそうだ。僕もそう思う。今を守りたい。けれど、トレーナーになったらどうなっていたんだろうな、と思う時もある。仕事柄トレーナーと会う機会も多い分、小さい頃の夢なんて思い出す機会が多いのかもしれない。

 特に今日はそれが顕著だ。何でだろうなんて、そんなの、朝の会話に決まっている。おじいさんと話したいかりの湖の話が原因だ。おかしな電波の発信源、チョウジの土産物屋の地下に基地を広げていたのは、ロケット団という組織だ。ロケット団なんて今は暴露本とかゴシップ雑誌のコラムとか、昔の衝撃映像とかを流すテレビ番組くらいでしか名前が出てこないが、昔はとても大きく影響力の大きい組織、マフィア、犯罪集団だった。

 僕はもうなくなったその組織をひどく憎んでいる。小さいころ、その組織のおかげでひどい目にあった。今でもあの時のひどく憔悴した母さんの姿が忘れられない。それと同時に、父親の姿が許せなかった。幼いながら、寝室とリビングを隔てる襖をそっと開け、隙間から見た光景は、強烈だった。失業してお金に困っていた父親は、母さんに向かってとんでもないことを言い放ったのだ。

「おれはロケット団に入る」

 サカキ様の理想はすばらしい。付いて行きたい。俺は彼の右腕になるんだ。それに金もいいんだ。出世すれば、一生金には困らない。そんなこと、どうでもよかった。いくらお金に困ったからって、そんな犯罪集団に自分の父親が入ることもショックだったし、一生懸命パートをしながら家庭を支えた母さんを見ていられなかった。さんざん怒鳴り声を上げて言い合いした後、父親は引き下がらず母さんは認めず、最終的に父親は出て行った。自分のやりたいことだけを求めて突っ走り、家族を残したあいつを今でも許せない。

 そんな光景を見ていたから、困り果て、憔悴しながらも必死に働き僕を育ててくれた母さんを置いて、そんな母さんを置いて、トレーナーとして旅に出ることなんてできなかった。

 僕は、トレーナーの夢を諦めた。

 

 

 風呂からあがると、興奮した様子でさくらがはしゃいでいた。

「すごーい! 強い! かっこいい!」

 何度も何度も同じ言葉を繰り返してふたばに話しかけ、そうねそうね、と机に肩肘をつきながらふたばは頷く。隣で片づけを終えた母さんも微笑ましそうにうんうんと頷いていた。

「シバの孫が勝ったのか。相手も随分やり手だったみたいだけど」

「お父さん! 凄いんだよ! この人、強いだけじゃないの。見てると泣けちゃうよ!」

 今のさくらに聞いても試合内容はわからないだろう。人をそれだけ引き付けるバトルが出来るからこそ、シバの孫はあの若さにしてカントージョウトを股にかける屈指のトレーナーなのだ。おっさん連中に人気のあるトレーナーだが、負けじとさくらはとにかく彼に嵌っている。

 男らしい。強い。綺麗とは言えないが、バトルから見えるひたむきな姿がとてもぐっとくる。もっと子どもっぽい言い回しだったとは思うが、この前はしゃいでいた時はそんなことを言っていた。さくらはいつの間にかひたむき、なんて言葉を覚えている。ずっと小さな子どもに見えても、あっという間に大人になっていくんだろうなと思う。そうしたら旅に出たいと言い出すだろう。あの人みたいになるんだ、なんて言うに決まっている。そんな時が来るのが楽しみなようで、寂しい。そして、少しだけ羨ましい。

「ほら、歯を磨いて、寝る準備しちゃいなさい」

「わかってるよー!」

 興奮気味のさくらを宥めるには、もうしばらく時間がかかるだろう。

 僕もリビングに座り込み、もう少しだけさくらの相手をすることにした。

 

【五】

 

 翌日、いつもの通りいかりの湖を散歩する。僕がいけば、いつ行ってもベンチにおじいさんは座っている。その隣に腰掛けるのも、だんだんと日課になっていた。

「おはようございます」

 朝日が湖に反射した、きらきらとした光景を眺めながら僕は挨拶をする。心がとても落ち着く光景だ。

「おはよう、今日も早いね」

「おじいさんこそ」

「私は歳だから、早く目が覚めてしまうだけだよ」

 がらがらした声で、おじいさんは小さく笑う。

「歳でも毎日ここを散歩していれば、長生きできそうですね」

「長生きしても、しょうがない。私はもう、迎えをただ待つだけだよ」

「そんなことおっしゃらず」

 おじいさんは元気がなさそうだった。いつも物静かだが、会話の途中で話を切るように黙り込んだり、ぎゅっと目を瞑っている。身体の調子は、あまりよくないのかもしれない。

「ああそうだ、これ、昨日のお礼だ。よかったら、食べておくれ」

 おじいさんは抱えていた紙袋を僕に手渡す。何を持っているかと思えば、わざわざお礼を持ってきてくれたのか。

「そんな……ありがとうございます。わざわざ買っていただいたんですね」

 紙袋の中には、無造作にお土産用のビニールに包まれたまんじゅうが五つ程入っていた。いかりまんじゅうだ。この町にいると意外と食べる機会がないので、こうやっていただけるとありたがい。

「いいや、買ったんじゃないんだ」

「え?」

「恥ずかしながら、私が作ったんだ」

 思わず袋の中をもう一度見てしまう。自分のことを話さないおじいさんの、意外な事実だった。

「職人さんだったんですね。お金を払わなきゃ」

「そんな、大層なものではないよ。私の人生、いきついた先がいかりまんじゅうで、それを作っているのが、心地よかっただけさ」

 おじいさんは途切れ途切れ話を続ける。時折せき込み、痩せこけた身体を弾ませた。

「それでは、ありがたくいただきます。家族で食べますね」

 落ち着いた様子で控えめな笑みを受け取り、僕はその場から離れることにした。

「僕はもう行きますけど、おじいさん、あまり調子も良くなさそうですし、早めに帰って休んだ方が良いですよ。ご迷惑でなければ、お送りしましょうか?」

「いや、大丈夫だよ。ありがとう」

 そう言われると思っていた。目を逸らされたし、一人でいたいのだろう。無理矢理送るのも身体に障りそうだ。

 おじいさんはいかりまんじゅうを渡せば用はなし、とでも言うかのように、ゆっくりゆっくりと立ち上がって、「それじゃあ」とその場を後にした。その姿が、いつも僕の目に映るおじいさんと違った気がした。ただの散歩をするおじいさんではなく、チョウジの名産を作る職人さんとして映った。力無いその身体の中に、積み重ねた技を秘めているのだと思うとかっこいい。ちょっとその人の事を知るだけで、こんなにもイメージは変わるものか。もらった紙袋の中にちらりと目をやり、去りゆくおじいさんを僕はしばらく見守っていた。

 

 

【六】

 

 

「先輩、午後はこおりの抜け道の工事の件で、現場立ち合いですよね?」

「そうだな。今回もこの前の人が名乗りを上げてくれたよ」

「ああ、最近ちょくちょく仕事をやってくれるおっさんトレーナーですよね?」

 お昼過ぎ、僕はチョウジにある事務所近くの蕎麦屋で後輩と昼食をとっていた。事務所の斜向かいに店を構えるこの蕎麦屋は、うちの連中には早くて安くて何よりおいしく、とても好評だった。

「ああ、よくやってくれてるよあの人は。ポケモンを育てるには、金と人脈と信頼が必要だって、すんごい説得力ある顔で言ってたな」

「しばらくこの辺で足を止めるんですかね、ジム戦でしょうか。名前、なんていうんでしたっけ」

「えっと、タケチさんだったかな。ちょっと話したとき、ジム戦をするとか言ってた気がするよ」

 こんな田舎にもトレーナーが集まるのも、ジムがあるおかげだ。ジムがある町はそれなりに栄えるし、ありがたい話である。

「そうだそうだ。そんな名前でしたね。ジム戦かあ、俺もジョウトを足で回った時期があったなあ。コガネのジムリーダーにぼっこぼこにされて、何度やっても勝てなくて諦めちゃったんですよね。大見得切って家を飛び出したのにすぐ戻ってきたもんだから、根性叩き直してこい! なんて親に言われて、すぐ放り出されちゃったんですよね」

 きつね蕎麦を食べる箸を止め、懐かしそうに後輩は空を見た。それでも今では仕事の出来る立派なサラリーマンなんだから、成長したもんだ。最初は本当に覚えの悪いやつだったが。

「そういえば先輩のそういう話って聞いたことないですね。どうなんですか? トレーナーだったりしたんですか? この業界、元トレーナーって多いじゃないですか」

 わざわざ昔話をしてやる気なんておきない。僕は無視してざる蕎麦をすすり続ける。

「黙ってるとこ見ると、結構おしいところまでいってる凄腕のトレーナーだったりして!」

「うるさいなあ、早く食わないと午後の仕事に間に合わないぞ。客先で面談入ってるんだろ、無駄口叩いてないでさっさと食え」

 ちょっとだけイライラした気持ちを精一杯隠して先輩を気取ったつもりだったが、どう見えているだろうか。

「ま、トレーナーとしてどういう結果だったかどうかなんて、今関係ないですしね」

 それはトレーナーを経験しているから言える言葉だ、とは思ったが、口には出来なかった。別に話して恥ずかしい話ではないのだが、口に出したくなかった。向かいに座って軽口を叩いてくるこの後輩が、嫌いなわけではない。僕の中で、折り合いがつかなかった。

「わかったらとっとと食え食え」

「わかってますよ」

 トレーナーなんて、今更羨ましがってどうする。僕は僕なりのスキルを磨いて、今の仕事をしてるんだ。やりがいだってあるし、自信もある。人に自慢だって出来る。なのにトレーナーなんて、どうだっていいだろ。

 そう思いながら、どうだってよくないのは自分が一番よくわかっている。タケチというあのトレーナー。向かいに座る元トレーナーの後輩。そしてトレーナーを夢見るさくら、三人ともそれぞれやりたいことをやっていたり、やり終えたり、やろうとしている。その環境が整っている。素晴らしい話だ。僕は、スタート地点にさえ立てなかった。いや、立たなかった。自分で勝手に決めたことなんだ。本当にあいつの、父親のせいなんて言うつもりはない。ずっとそう思っていたのに、今更になって苛立ちがこみ上げる。

 今あるものに満足していたんじゃないのか僕は。何を贅沢言っているんだ。今で十分、幸せだ。満ち足りているはずなんだ。

 いくら抑え込んでも収まらない苛立ちを抱えたまま、僕は今の幸せの中を過ごしていた。

 

【七】

 

 その日仕事を終えて家に帰ると、いつものようにさくらが僕を迎える。ふたばが遅れてやってきて、挨拶を交わす。今日もおいしいご飯を作って待ってくれている。朝おじいさんにもらったいかりまんじゅうだけ手渡して、僕は母さんの元へ向う。

 リビングと襖で隔てた隣の部屋にいる母さんに「ただいま」と言うと、「おかえり」と言葉が返ってくる。座椅子に座っている母さんは、それに続けて「何かあったかい?」と下から顔を覗き込んでくる。

 まったく敵わない。僕の心の荒れ具合を外からでも見破ってしまうのだ。伊達に母親をやっているわけではないってことか。

「大丈夫。大したことじゃないよ。くだらない事さ」

「本当かい?」

「本当さ。それより、どうして何かあると思ったんだ?」

 母さんは一瞬言いたくなさそうに俯くが、意を決したように顔を上げる。

「ただいま、の声が、あの時の父さんとそっくりなのさ」

 面食らった。母さんが、あいつの話をするなんて。僕達の間で、特にあの時の話はタブーだったはずなのだ。何で今更。

「どうしたんだよ、急にそんなこと言って」

「別に、今更気にすることもないだろう。終わった話さ」

「母さんは、まだ父さんのこと……」

 僕は続きを言いかけて、言葉を必死に選んだ。愛している? 好きなのか? そんな簡単に言っていいとは思えなかった。どれだけ母さんが苦労したと思っている。僕だって、それをずっと見てきた。

「わかったような口を利くんじゃないよ。あの人は勝手に出ていった。そこで縁は切れたんだよ。ただ時折、あんたがあの人と重なるような口調やしぐさをするから、なんとなく思い出しただけさ」

 父は自分のやりたい事だけを前に見据えて僕達を捨てた。僕と父は同じではないが、なんとなく、今日僕がずっと思っているようなことを、父も思っていたのかもしれないと思ってしまった。母がいて、ベロがいて、僕がいて、守るべき家族があるのに、どうしても譲れないものが出来てしまったんだろう。当然、許せるようなことではないが。

「僕が父さんと同じことをするかもしれないって、そう思った?」

「あんたをそんな無責任に育てた覚えはないよ。あの人とあんたは親子だけど、違うんだ」

「わかってる。無責任は、僕が一番嫌いな言葉だ。それに、同じことを繰り返す訳ないだろう」

「分かっているならもう行きな」

 途中から、ずっとベロに睨みつけられていた。その視線から逃げるように、僕は部屋を後にした。母さんに窘められた言葉が、僕に重くのしかかる。母さんが僕の全てを理解して話しているわけではないだろう。それでも、一瞬でも頭をよぎった事に、「ただいま」の一言だけで感づいたのだ。まったく僕は、どうかしている。

 

 ふたばの夕食を食べ終え、さくらのバトル話を聞き、風呂にも入ってすっきりし、家族が寝静まった後、僕は久しぶりに酒を飲んだ。太く底の浅いグラスに氷を入れ、ウイスキーを注ぐ。リビングにどかりと腰を落ち着け、少しずつ舐めた。普段アルコールなんて飲まないから、すぐに体中に回ってくる。雑な思考から出てくるくだらない欲とか感情を、一つ一つ頭の中で潰していく。

「お酒なんて、珍しいわね」

 さくらと一緒に眠ったはずだったふたばが、物音静かにリビングへ戻ってきた。優しく、僕を諭しに来たかのように、正面へ座った。しばらく沈黙が続く。僕は何も口に出す気にはなれなかった。

「私も、少しだけいただこうかな」

 先に沈黙を破ったのはふたばだった。ゆっくり立ち上がり、自分のグラスを取りにキッチンへ向かった。戸棚へ手を伸ばし、グラスを取り出す。冷凍庫から氷をいくつか取り出して、グラスに放り込んだ。カランカランと、甲高い音が静かな部屋に響いた。そんな何気ない光景が、当たり前の光景が、大切なのだ。

 ふたばはグラスを持って再びリビングに腰を落ち着ける。その空きグラスに、僕はウイスキーを少しだけ注いでやった。

「乾杯」

 カツン、と静かにグラスを合わせる。

「何に乾杯?」

「さあ。ただ、乾杯って言うものでしょ? おはようって、いただきますって、いってきますって、ちゃんとそれぞれ意味はあるけど、そういうのってその意味だけのために、言うわけじゃないよね」

「違いないや」

 ふふ、とふたばは微笑んで、グラスに口をつけた。

「あなたと二人でお酒なんて、久しぶり。たまにはいいね、こういうの。お酒飲んでいるあなたの姿、好きよ」

 恥ずかしげもなくふたばはそんなことを言う。言いたいことを言うふたばに、僕の方が照れてしまう。

「そんなこと言っても、何も出てこないぞ」

「いいのよ、何もいらない」

「ふたばは、本当に何もいらないのか?」

「もう、たくさんもらってるから」

 そうだ。僕もふたばからいろいろなものをもらっている。母さんからも、ベロからも、さくらからも、たくさんもらっている。幸せな時間も、親としての時間も、夫としての時間も、親孝行してやりたい息子としての時間もだ。

「あなたは、何か欲しいの?」

「欲しかった」

「何が?」

「トレーナーの、自分」

 簡単に、口をついた。トレーナーになりたい、いい歳して何言ってるんだ、恥ずかしい。ふたばはそんな僕を笑うかのようにまた小さく笑った。

「そうだよな、笑っちゃうよな」

 僕はさっき照れた時より恥ずかしくなった。そんな僕を見てふたばはちがうちがう、と言うように顔の前で手を横に振った。

「そうじゃないの。あなたがそう言ってくれるのが、嬉しくて」

「どういうこと?」

「ずっと、言っちゃいけないって思っていたでしょ? トレーナーになりたいって、それだけは言っちゃいけないって」

「……なんで、それを?」

「おかあさんから聞いたのよ、ずっと前に。あなたは小さい頃からトレーナーになるんだ、旅をするんだって言っていたのに、ある日を境に言わなくなったって。それを口にするのを、私のために言わないようにしたって。おかあさん、ずっと気にされていたわよ。あなたを育てるのに必死で、あなたの夢まで支えてあげることが出来なかったって、悔やんでた。さくらがトレーナーになりたいって、うちで騒ぎ始めたくらいの時かしら」

「そっか、母さんが……。でも、それは母さんのせいじゃない。僕が、自分で決めたことなんだから」

「あなたは優しすぎるの。自分がしたいこともしていいの。怖がらなくていいの。家族はちゃんとここにある。昔みたいに、壊れない。……同じことは繰り返さないって、あなた今日おかあさんと話していたでしょ」

「聞いていたのか」

「ごめんなさい。でも、これは本当の事よ。怯えないで、怖がらないで。あなたは言っていいの。トレーナーになりたいって。おかあさんも、待ってるわよ?」

 僕は襖の向こうで眠る母さんを見遣った。

 あの頃は生活をするのに必死だった。昼も夜も働く母さんに、僕の夢まで面倒を見る余裕なんてなかった。僕にはそれがわかっていたから、トレーナーになるのを諦めた。母さんのせいなんて思っていない。母さんのためにそうしたんだ。僕が、そうしたかった。母さんは優しいから、私のせいでなんて気に病んでいるんだろうけど、そんなの、気にしなくていいのに。

「そっかあ、僕がトレーナーかあ。さくらと同期になれるかな」

「なれるなれる。さくらもきっと喜ぶわ」

「平日はお父さん、土日はトレーナー。忙しくなるな」

「あなたのそんな、子どもみたいに嬉しそうな笑顔、初めて見た」

 そう言うふたばも、嬉しそうに笑ってくれている。

「お酒のせいさ。ちょっと、酔ったかも」

「こんなおいしいお酒、初めて」

「ああ、僕もだよ」 

 リビングの雰囲気が柔らかい、いい心地。ふたばは出来た嫁だ。僕にはもったいないくらいだ。

 グラスに口をつけ、ウイスキーを舐める。おいしい。僕は大人だ。おっさんだけど、新米トレーナーだ。

「あら、いらっしゃいベロちゃん」

 気づけば襖を少しだけ開けて、ベロがこちらを覗き込んでいた。僕とふたばを交互に見遣り、うんうん、とわかった風に頷いた。にんまりと笑って、ベロは僕に舌を出してくる。僕はすぐに舌を出し返す。

 それを見て、ふたばも嬉しそうに舌を出した。

 母さんに見られたら、「舌を出すのはやめなさい。いい歳なんだから」って、言われそうだ。

 

【八】

 

 朝、いつもと違う感覚で目が覚めた。心の奥がすっと軽くなったようだ。ゆっくり起き上がって隣を見ると、さくらはまだ夢の中だった。ふたばの姿はない。階段を下りていけば、きっと朝ご飯のいい香りが広がっているのだろう。ふたばの朝は僕よりも少しだけ早い。さくらの頭を軽くなでてから、僕は部屋を出て階段を下りた。

「ベ、ベロちゃんどうしたの?」

 いつもの穏やかな朝かと思いきや、ふたばの素っ頓狂な声が聞こえてくる。廊下を歩き、ダイニングへ向かうと、ベロが大慌てで僕の元へやってくる。舌を出し、んー! と僕に何かを伝えたそうにしている。両手には、いかりまんじゅうを抱えていた。こいつ、朝からまんじゅうなんて食べたのか。

「どうしたベロ。そのまんじゅうそんなにうまいのか? あのおじいさん、いい職人さんなんだな」

 よくわからないが、ベロはもどかしそうに騒ぎ続ける。

「ふたば、ベロは何か変なもの食べたか?」

「あなたが昨日もらって来たいかりまんじゅう、どうしても食べたそうにしていたから一つあげたの。それだけよ」

 ベロは僕に伝わらないのを見るや、今度は母さんの部屋をかけていく。僕とエプロン姿のふたばも付いて行く。既に起きていた母さんは慌てた様子のベロに驚き、「どうしたんだいまったく、朝から騒がしい」と言いながらベロの行動に釘付けだった。ベロは身をかがめて押し入れに頭から突っ込み、中を引っ掻き回し、手前のものをポイポイ後ろへ放っていく。そんな押し入れの奥に何があるんだ? ベロはやっと見つけた、とばかりに飛び出してくると、古ぼけたボールを一つ取り出した。右手にいかりまんじゅう、左手にモンスターボールを持ち、僕と母さんに強く強く突き出した。

 一瞬分からなかったが、その古いボールを見ていたら、次の瞬間には思い出せた。

 昔、トレーナーになりたいと僕が騒いでいたころ、父さんが僕に買ってくれたものだった。いつかこれを使って、ポケモンを捕まえてみなさいと渡してくれたのだ。

「どういうことだい?」

 母さんは首を傾げながら、何がなんだか分からないという様子だ。

「おいベロ、そういうことか。そういうことなのか?」

 分かってきた。ベロは、舌の上にものを乗せればそこから様々なものを読み取ることが出来る。例えば、一度特定の人を舐めれば、その人の味を一生忘れない。その人が触ったものを舐めれば、誰が触ったか読み取れる。ベロは、父さんが大好きだった。スキンシップで、いつも舐め回していたのだ。

 それに、ベロは父さんが僕にモンスターボールを買ってきてくれた時、一緒に居た。一緒に捕まえに行こうって、ベロと約束したんだ。

「おいベロ、父さんなんだな。いかりまんじゅうを作ったその人が、父さんなんだな!」

 だからずっとそう言っている! とばかりにベロはもう一度強く突き出した。

「どういうことだい。あの人が、見つかったってのかい?」

「どうする母さん。父さんと、会えるよ」

 突然のことで若干追いついて来ていない様子だったが、ふうう、と大きく息を吐いて、一瞬にして元の落ち着いた母さんに戻った。

「今更、あの人に会いたいなんて思わない。縁は切れたんだ。話をしたいのは、あんたの方じゃないかい? どんな奴だとしても、あれはあんたの父親だ」

 僕はいてもたってもいられず、ベロからボールをひったくって、そのまま家を飛び出した。すぐにベロも僕の後からついてくる。チョウジの北側にあるうちから、林道を抜ければすぐにいかりの湖だ。

「ベロ、確かなんだな。あの人が、父さんなんだな!」

 後ろを振り向くと、ベロは力強く頷いた。

 思い出したように主張し始めた、心の奥のひっかかりの原因がわかった気がした。

 何度も何度も話した。どういう気持ちで僕と話していたんだ。僕を見て顔色一つ変えなかったじゃないか。ふざけんな。僕が、僕達が、どれだけ辛かったと思ってるんだ。どれだけあんたのことを好きだったと思ってるんだ。それがなんだ、近くに居て、いつも話していて、いかりまんじゅう職人だ? 相変わらずそうやって自分の好きなことだけをやって生きているんだ。あの野郎。

 

 僕は父さんの姿を思い浮かべた。大きくて、力が強かった。手が大きくて、腕相撲なんてやってもぴくりともしない。僕とベロの頭をわしわしと撫でていた。まだ小さかったベロはにんまりと極上の笑顔を浮かべていた。

 憎い憎いと思っていた。殺してやりたいとさえ思ったこともある。

 僕の走るスピードは少しずつ落ちていった。ベロが僕の隣に追いつくと、ひたすら泣きじゃくっていた。やっと会える、やっと文句が言える。いきり立って、飛び出して来たのに、気づけば思い出すのは優しい父さんの顔だけだった。母さんも、僕も、ベロも、本当に父さんの事が好きだったんだ。お金なんてなくたっていい。一緒に居られるだけで、僕は嬉しかったんだ。

 年甲斐もなく、僕もベロも、歩きながら泣き続けた。

 

 

 林道を抜けると、いつもと変わらない湖がそこに広がっていた。僕とベロだけが、子どもに戻ってしまった。湖畔に沿って歩けば、いつものベンチがそこにある。凛とした空気、やわらかな湖の風景。入り混じるように、そこに、おじいさんが、父さんがいる。僕はその姿を見て、ぎゅっと両手を握りしめた。

 知っている。僕の散歩道に、この人はいつもいた。僕を待つかのように、ずっとここにいたのだ。いつの間にか背も追い越して小さく見えるその身体は、痩せこけて弱弱しい。なんだよ、そんな弱くなりやがって……。

 僕は一生懸命平静を保って、涙を止め、ゆっくり近づき、いまにも飛びかかりそうだったベロを制して、隣にゆっくりと腰をかけた。

「いかりまんじゅう、ありがとうございました」

「いいんだ。大したものじゃない」

 僕は、大人になった。あんたの知ってる、僕じゃないんだ。

「うちの者が、喜んでました」

「そうか。それは、よかった」

「あの、僕、これから独り言を言うんで。聞いてもらえますか?」

 おじいさんは、僕の言葉にピクリと肩を揺らし、何かを考え込むように俯いた。

「ああ」

「……僕の父親は、昔、母さんと僕とポケモンを残して、出て行ったんです。自分のやりたいことだけしか見てなくて、本当にひどい父親なんです。母さんは、身を粉にして働きました。僕を育てるために、昼も夜も必死に。僕はそんな母さんを支えたくて、安心させたくて、トレーナーになるのをやめて、学校を出てからすぐに働きました。父親なんかより、よっぽど真面目に一生懸命働いたつもりです。それから、僕がやっとそれっぽく大人になってきた頃、母さんは、倒れました。激務がたたってなのか、僕が働き始めたことに安心したのか、理由はわかりません。それまで元気だった母さんが、いきなり、弱くなりました。役目を終えたみたいに。ベロはそれから、母さんの傍を片時も離れません。何かあったらいけないと、ずっとずっと一緒に居ます。後ろにいるやつは僕の兄弟です。物心ついたころから一緒にいる、頼れるやつです。

 母さんはその後、体調を持ち直しました。前みたいに元気に動き回れる状態じゃなくて、家にいることが多くなりました。ちょうどその後くらいですかね、僕に嫁が来ました。ふたばっていうんです。可愛くて、気が利いて、頭が良くて、言いたいことをはっきり言う、素晴らしい嫁です。母さんとも仲が良くて、内緒話なんか、二人でするくらい。それから、娘も出来ました。さくらっていう、女の子です。僕は父親になった。一生懸命働いて、育てて、僕も幸せをもらって、とても、大切な時間が続いています。あの時から、辛いことばかりだったけど、今はとても幸せです。あの人がいなくたって、僕は今、とっても幸せに暮らしています。もっともっと立派な父親にだってなってみせます。かっこいい夫にだってなります。とびっきりの親孝行息子にだってなります。……あなたの息子は、この世で一番、幸せに暮らしています」

 言い切って、僕は涙が止まらなくなった。

 それと同時に、隣のおじいさんも嗚咽する。

「そうかい……そうか、幸せか……良かった」

「だから、いつまでもここに居てください。僕もまた、ここに来ます。いつか、他の人も連れてくるかもしれない。いつになるかわからない。けど、待っていてください。時間はたくさん経ちました。なかったことには出来ないけれど、今度は僕達だって話を聞けるかもしれない。あなたの過ごした時間を、人生を、一つずつ」

 ベロは泣き顔のまま、ベンチの前へ回り込み、おじいさんのすぐ前にじっと立ち尽くした。右手に持ったいかりまんじゅうを口に放りこみ。飲み込むと、おいしそうに笑みを浮かべた。おじいさんは弱弱しく、ゆっくりとベロの頭を撫でる。あの頃と同じベロがそこにいる。

「僕は、これからトレーナーになるんです。小さいころ、なりたかった自分に、今やっとなることが出来ます。欲しいものはもう何もない。後はゆっくり、取り戻していくだけなのかもしれません」

 おじいさんは、ベロの頭を撫でたまま項垂れる。

 そんな父親の肩に、僕は生まれて初めて手を置いた。小さくなったそれに後何度触れることが出来るかはわからない。

 いかりのみずうみの風景が変わるその時までは、付き合ってもらおうと、僕は思った。

 

 【了】

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