ポケモン色の本棚   作:@早蕨@

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さいみんじゅつの中で

【一】

「スリーパーって、知ってる?」

「なんだよ急に」

 ふう、と智は大きく煙を吐いた。もくもくと、白いもやのようなその煙は僕の頭上へ上っていく。

「お前は話が唐突なんだよいつも」

 左手でつまんだ煙草を人差し指で小気味よく叩き、灰皿へ灰を落とした。煙とともに吐き出した息を吸い込むように、右手でジョッキを持ち、中途半端に残っていたビールを一気に飲み干す。のどを鳴らしてそれを飲み込むと、智は目を細めて僕を一瞥する。

「いいだろ別に、聞きたくなったんだから」

「だって今、今度のボーナスの使い道を話してたよな。話変わりすぎだろ」 

「そうかな」

「そうだよ」

 ドスンとジョッキをテーブルに置き、すいませーん! と大きな声で店員を呼んだ智は、まあいいけどさ、と続けた。気まぐれな話題変更に付き合ってくれる智は、僕にとって貴重な友人だった。仕事帰りに適当に声をかけても、一緒に飲み屋の暖簾をくぐってくれる友人は、本当に少ない。

 お待たせしました、と忙しそうに近づいてきた店員に「生二つ」と勝手に僕の分まで頼んだ智は、持っていた煙草を灰皿に押し付けた。

「で、なんだっけ? スリーパー? 知らないよ。ショートスリーパーとか、ロングスリーパーとか、そういう話? おれは寝たらなかなか起きないよ」

「僕は割と睡眠時間は少なくても大丈夫なタイプだけど、その話じゃなくて、スリーパーだよスリーパー。ポケモンの」

「ポケモン?」

 智は思い出すように視線を上げた。昔小さいころ、「ポケットモンスター緑・赤」を一緒にやった覚えがある。通信ケーブルを持っている智は皆のヒーローだった。金・銀バージョンまではクラスの皆や智ともやっていたと思う。それ以降は皆ポケモンはやらなくなってしまった。中学生になると皆少しでも背伸びして大人になりたがるから、ポケモンは子どもっぽいと、避けてしまう。僕は皆にやっていないと嘘をつきながら、新しいものが発売される度にポケモンをプレイしていた。あの不思議な生き物達、ファンタジーに寄り過ぎない世界観が僕にはたまらなかったのだ。

「あー、覚えてるよ。鼻が大きくて不細工で、人型の、黄色いやつだろ? コインぶら下げてるよな」

 スリーパーはとんだ評価を受けていた。

「それそれ」

「懐かしいなあ。ケーブル持ってる俺はヒーローだった」

 智の中でもあの頃の自分はヒーローだった。僕もお世話になったものだ。

「で、そのスリーパーが何なの?」

「スリーパーってさ、コインぶらさげていて、さいみんじゅつをするじゃない。相手を眠らせるやつ」

「するなあ、眠らされると本当いらいらするんだよな。いらいらしすぎてゲームボーイ机に叩きつけたら、データ消えた覚えあるもん」

「そう、その叩きつけたら消えちゃうようなスリーパーなんだけどさ」

 僕は一度言葉を切って、言おうか迷っていた言葉を切り出す。

「見えるんだよ。夢とか、寝る前とか、スリーパーが」

 何を言っているんだこいつは、と怪訝そうな視線を寄越した智は、新しい煙草に火をつけて、大きく煙を吐いた。

「仕事のしすぎじゃないのか。最近忙しいって言ってたし、ちょっと休んだ方がいいだろ。お前、昔から辛いとか逃げたいとか、人に言わないで頑張りすぎるだろ。スリーパーが見えるって、それ休んだ方がいいって」

 心配されてしまう。

 でも、僕は何も疲れてなどいなかった。スリーパーが見えてからというもの、調子はすこぶる良い。ポジティブになれたし、自信もついた。悪いことはない。

「いつからだ? それ」

「随分前から」

「随分前って、学生の頃からか?」

「そうだね」

「悩みでもあるのか? 俺でよければ、聞くぞ」

「悩みなんかないよ。違うんだ。僕は、スリーパーがいることが普通になってしまって、皆はどうなんだろうと、ふと気になっただけなんだ」

「その話、美咲ちゃんには?」

 まさか話してないよな? とでも言うように、智はゆっくりと僕に問いかけた。

「してない。スリーパーが見えるって、そんな変かな」

「変というか……スリーパーって、お前、いや、でも、美咲ちゃんには話しといた方がいいのか?」

 ぶつぶつ呟きながら、何か考え込み始めた。そういう状態だっていうのは、彼女だし、知っておく必要あるだろ。でもなあ、と智は続ける。

「スリーパーが見えて、何されるんだ? 眠らされるのか?」

「眠らされることもあるし、何もしないこともあるし、あと、僕をポジティブにしてくれる。いろいろ、忘れさせてくれる。元気にしてくれるんだ」

「わかった。とりあえず、しばらく仕事は休め。明日からじゃ無理なら、なるべく早く休暇をとれ。いいな」

「なんでよ、僕はいたって普通だ。元気だよ」

「とは言ってもな……」

 お待たせ致しました。

 僕らの間に二つジョッキが置かれる。僕はそれを掴んでぐいとのみ、体にアルコールを流し入れた。

「酔っ払ってるわけじゃない。おかしくなった訳じゃないよ」

 少し語気を荒めたことに、智は少し驚いた様子を浮かべた。

「わ、わかった。まあ、今日のところは楽しく呑もう。俺も仕事休めなんて、変なこと言って悪かった」

 そう言うと僕と同じ様にジョッキをつかみ、ぐっとそのほとんどを飲み干した。相変わらずいい飲みっぷりだ。酒だけじゃなくて、昔からいろいろと豪快なやつ。

 その後、その日はもう、僕と智の間でスリーパーの話をすることはなかった。

 

 

【二】

 店の前で智と別れて、一人僕は家路についた。気づけば 零時を回っており、歩いて 二十分程の場所にあるアパートに着くころには、一時になっていそうだ。なんか良い深夜番組やっていたっけ。そう思い、目を預けていた腕時計から視線を逸らす。

 朧月の照らす商店街のど真ん中で、ゆっくりと歩みを進める。シャッターの閉まり切った商店街に、人の気配は感じられない。時折すれ違う自転車、酔っ払って地面に寝そべった男。どれも、人とは思えなかった。障害物でしかない。無機質で、冷たくて、朧月のように輪郭が不鮮明。あれ、酔っ払ってるかな。大丈夫。視界はまだ、歪んでいない。なるべく無視して、僕は商店街を練り歩いた。

 街灯が、等間隔に立ち並ぶ。遠くに見えるそれらは、だんだんと間隔を狭め、集まっていく。境界線のない光が、遥か先を照らす。あとどれくらい歩けばいいのかな。アパートまで、どれくらいだっけ。遠くの街灯を見つめていると、なんだか眠くなる。どうしよう、秋口だから、路上は寒いだろうな。目的地まで、辿り着かなきゃいけない。……おえ。自分で言って、その言葉に、吐き気を催した。ぐるんと目が回る。思わず街灯に手をついて、おえ、と僕は嘔吐した。何もかも吐いた。ビールも、焼き鳥も、全部。全部吐いたはずなのに、まだ体の奥に何かが残る。おえ、おえ、と嗚咽して、引っかかった何かを出そうとするが、出るのは既に胃液だけ。気持ち悪い。でも、もう何も物は出ない。ふう、と街灯から手を離す。持っていたハンカチで口を拭き、握りしめたまま商店街を再び歩き出す。スリーパーに会いたくなった。僕は、吐いて少しだけ回復した足取りを頼りに、目的地まで歩き続けた。

 

【三】

 アパートに戻ってすぐにシャワーを浴びた。熱いシャワーを頭からかぶると、幾分か気分はましになった。

 寝巻に着替え、バスタオルで頭をわしゃわしゃと搔きむしり、ワンルームの部屋に敷いたせんべい布団に座り込んだ。隣にあるテーブルの上には、ポケモンのソフトが置いてある。ポケットモンスター赤バージョンが、五つ。わざわざゲームボーイアドバンスSPを購入し、中古屋に売っていたソフトを買い占めた。どれも、クリアしていない。途中で飽きてしまう。あんなに好きだったポケモンでさえ、クリアまで進めることができなかった。一つ買っては途中までやり、一つ買っては途中までやり、どのセーブデータも消すことが出来ない。むしゃくしゃする。気分は最悪で、頭には血が上っていく。僕はソフトを一つつかんで、玄関に向かって思い切り投げつけた。無性にいらいらした。立ち上がって、玄関に落ちたそれを思い切り踏んだ。バキ、と嫌な音がして、壊れる。ざまあみろ。これで、クリアする必要なくなった。また、買い足さなければ。ソフトがなくなってしまう。

 ソフトを壊せば、ゲームを壊せば、ゴールをなくせば、世界を壊せば、そこに行く必要がなくなる。もうどこにも行く必要はない。行けないんだから、何もしなくていい……なんて、これ、ゲームだし。現実世界、消せるわけないし。ゴールって、どこだよ。くだらなくて、部屋の中で一人で笑った。大笑いした。アパート近くにある中古屋の赤バージョンは買い占めてしまったし、次はどこへ行こう。そんなことを考えると、だんだん吐き気も消えたような気がした。少しだけご機嫌になった僕は、髪を乾かし、歯を磨き、スッキリして布団に入った。

 明日も仕事だ、早く寝よう。

 

【四】

 スリーパーは現れる。アパートの中、せんべい布団の上で胡坐をかく。見上げると、スリーパーがニタニタと笑う。視線が交わり、僕の目の前にコインをぶらさげて、それを揺らした。じっとそれを見つめる。何も考えず、心をからっぽにする。ゆらゆらと揺れるそれを目で追う。意識がふわりと軽くなる。

「どうしたい?」

 コインを揺らすのを止め、スリーパーは言う。汚い声だ。

「何を、どうしたい?」

 スリーパーは続ける。耳障りな声が僕の耳にまとわりつく。どうしたい。何がしたい。僕は何もしたくない。

 死にたい、なんて言うことは簡単だけど、難しい。消えたい。いなくなりたい。誰からも忘れられて、何もなくなって、消して欲しい。

 違う。わからない。誰からも忘れ去られることなんて、想像つかない。死にたいといっても、死ぬところなんて、やっぱり想像できない。じゃあなに、僕はどうしたい。何が言いたい。「わかっている」スリーパーはそう言って、にやりと口を横に広げる。わかった風な口をききやがって、僕はイラっととして、スリーパーを睨みつける。

「やり直したいんだ」

 僕は隣の机にドンと拳を叩き落した。うるさい。そんなこと言うな。図星なのはわかっている。死にたいなんて、消えたいなんて、僕はただ、苦しい気持ちから逃れたいだけだ。時間を巻き戻し、もう一度やり直したいだけだ。

「どうしたい?」

 スリーパーはもう一度僕にそう聞いた。キっと睨みつけ、僕はもう一度机に拳を叩き落した。どうにもならない。そんなの分かってる。

「わかってるだろ。どうにかしろよ」

 スリーパーはひひっ、と気味の悪い笑みを浮かべる。再びコインを揺らし始め、僕はそれを目で追うことしか出来なくなった。イラついた気分が落ち着き、意識が軽くなる。うとうとし、瞼が重たくなっていく。何度目かもうわからない、会話とも呼べないやりとり。コインの揺れ幅が小さくなる。僕の意識は薄れていく。

「おやすみ」

 僕は座ったまま、眠りについた。

 

【五】

「たっちゃん起きて」

 ポンポンと肩を叩かれ、僕は目を覚ました。カーテンから差し込んだ朝日に目が眩む。

「朝ご飯できてるから、一緒に食べよ」

 それだけ言うと、美咲は立ち上がって台所へ向かった。ワンルームだから台所なんて呼べるようなものではないけど、何かをよそっている。味噌汁、かな。

 のそのそと起き上がり、あくびを一つ。おなかが鳴っている。そうだ、昨日の夜は飲み屋でつまみを食べただけだった。白いご飯が恋しくなり、僕は立ち上がった。気持ちは、晴れやかだった。

「手伝うよ。ごはん、どれくらい食べる?」

「いいよいいよ、全部やるから。先に顔洗ってきな」

「大丈夫、これくらいやるよ」

 置く場所がないから、炊飯器は台所脇の床へ無造作に置いてある。茶碗をひっつかみ、ごはんをぺたぺたとよそっていく。

「今日、うちに来られる日だっけ?」

「金曜はいつも来てるじゃない。まったくもう、何時まで経っても覚えないんだから。金曜は来られる日なの」

「そっか。いつも、ごめんな」

「ごめんな、じゃなくてありがとう、でしょ」

 もう、と頬を膨らまし、美咲は味噌汁が入った二つのお椀をテーブルに並べる。あれ、ポケモンのソフトがない。

「そこに、ゲームなかった?」

 片付けるのを、忘れた。

「あるよ、ポケモン。赤ばっかり 四つ」

 美咲はそう言うと、テーブルを挟み、僕が寝ていた布団の反対側、テレビのおいてある台を指さす。確かにそこには、きれいに四つのソフトが縦に積まれていた。

「そこに、置いたんだね」

「ごはん食べるとき邪魔でしょ」

 美咲はそれから、ポケモンのソフトのことについては触れなかった。玄関にも、壊れたソフトがあったはずなんだけどな。僕はよそったごはんをテーブルに並べてから、洗面台の前に立った。ユニットバスだから、小さい小さい洗面台の鏡には、僕のしょうもない特徴のない顔が映る。気分が落ち込んだ人の顔ではなかった。大丈夫、元気だ。また 一日、やれる。

 蛇口をひねり、勢いよく顔を洗うと、ぼやっとした意識がはっきりする。ほら、元気になった。一瞬だけスリーパーが頭の中を掠める。それをしっかり内に秘め、僕は美咲のごはんの元へ。玄関に、ポケモンのソフトは落ちていなかった。僕が昨夜無造作に脱いだ革靴と美咲の靴が、きれいに並んでいるだけ。

「ほら、早く食べなきゃ遅刻するよー」

 美咲の声に、僕の空腹が反応する。あたたかな湯気が立ち上る味噌汁に誘われ、着席する。

「今日の夜は? 来るんだっけ?」

「大学終わって、夜はバイト。明日も夜はバイトだから、朝来るね。お昼とか、ちょっと一緒にいられたら嬉しい」

「明日は暇だし、バイトまで一緒にいようか」

「うん!」

 屈託のない笑顔を見せた美咲は、僕にはもったいないくらいの彼女だ。時間が作れる日は出勤前の僕に朝ご飯を作ってくれて、洗濯もしてくれて、その後大学へ行く。家が貧乏だからと、奨学金を借り、卒業後の事を考え自分で学費を貯めながらしっかり学業をこなす。迷惑をかけた分、お母さんを安心させたくてと、安定を望み、公務員試験を突破した。愛想がよくて、愛嬌もある。疲れた顔を、あまり見せない。

 ただ、すごく繊細な子だった。気分の浮き沈みが激しい。持ち直すのは早いけど、自分の全てを僕にぶつけ、話してくれる。美咲からの信頼を、感じていた。

中学高校は酷いいじめにあったり、親と折り合いがつかなかったりと、かなり精神的に追い詰められていたようだ。何とか高卒の資格だけはとって、大学に入り、それまでの人間関係をリセットし、人付き合いに恐れを感じながらも、自分を変えたい一心で頑張ってきたようだった。

 その細く小さな体に、美咲の頑張りはきっと追いついていないのだと思う。体調を崩すことも多々あった。もともと病気がちな子らしい。それでも美咲は頑張るのをやめない。自分にストイックで、真面目すぎだった。話を聞けば聞くほど、耳が痛いくらいに。

 僕が出勤した後も、部屋の掃除をしてくれている。昨日は美咲がいなかったから布団が敷きっぱなしだったが、いつもは綺麗に片付けられている。僕は大分、甘えているのだろう。

「たっちゃん」

「なに?」

 美咲は持っていた茶碗と箸を置き、僕の顔を心配そうにのぞき込んだ。

「何かあったの?」

「どうしたの突然」

「凄く、白い顔してる。隈もすごいし、とても疲れているみたい」

 美咲の言葉に僕は動揺した。先ほど鏡で見た僕の顔は、本当に疲れていなくて、いつも通りだったから。

「だ、大丈夫だよ。全然疲れてない。気分も晴れやかさ」

「本当に?」

「美咲も頑張ってるし、僕も負けてられないよ。」

 味噌汁を一気にのみ切り、ごはんをかきこむ。

「ご馳走様!」

 僕は半ば逃げるように食器を流しに置く。軽く、手が震えていた。なんで。晴れやかな気分が、一瞬にして曇った。何かに追われるように寝巻を脱ぎ、スーツに着替え、ネクタイを締めた。その身ぐるみになった瞬間、服の上からプレッシャーのような何かが僕にまとわりつく。体が、重くなる。

「ごめん、じゃあ、行ってきます」

「う、うん。いってらっしゃい」

 美咲の声を聞き終わらぬまま、表情を見ぬまま、ドアを開け、後ろ手でそれを閉める。僕の鼓動はとても早い。何だ。どういうことだよ。くそ。白い顔? 隈? 疲れ? ふざけるな。そんなもの僕にはない。あり得ないんだ。

スリーパーのやつ、下手くそなさいみんじゅつをかけやがって、あの野郎!

 アパートを飛び出し、動悸と異常な不安感を抑えつけながら駅へと向かう。そこまでの道のりに、同じ格好をした男達が並び歩く。コツコツと音を立て、歩みを進める。昨日歩いた商店街。その表情は一変する。ちらほらと開いているシャッター。昨夜とは逆方向に向かう人たち。自転車が後ろから僕の横をかすめる。無機質で冷たく見えたそれは、何かに突進するように、悪意をもって前に進むかのよう。

「ああ、もう……」

 呟き、僕は歩き続ける。周りの流れに逆らわない。同じ形をした同じ生き物が同じ方向を歩く。これが、それぞれ違うポケモン達だったらといつも思う。ゲームの中の世界に想いを馳せる。夢を持ち、それぞれがそれぞれの世界へ飛び出す。世にも不思議な、多種多様な生き物と共に、冒険を繰り返す。「やり直したいんだ」スリーパーの言葉を思い出す。そうだ。別世界に憧れたって、そんなものは妄想にすぎない。現実があって、毎日がある。生活がある。僕はただ、逃げたいだけなんだ。それだけなんだ。

 どれだけ頭の中で考えを張り巡らせても、引き返そうとしても、駅に吸い込まれていくかのように、歩みは止まらない。

 気づけばもう、駅だった。改札を通り、いつものホームへ。僕の鼓動はずっと早いままだった。待つ間も、それは収まらない。電光掲示板で、次に来る電車の時間を確認する。これに乗ったら仕事だ。力を籠め、拳を握る。落ち着け、落ち着け。言い聞かせたが、収まらない。目を閉じ、耐えるかのようにぐっと拳を握りしめる。じとりと嫌な汗が僕の背中を流れる。あの野郎。どういうさいみんじゅつかけてんだ。くそ。くそ。くそ!

 電車が来る頃だと思い、ゆっくりと目を開ける。そろそろホームへ電車が入ってくる。乗車口に並ぶ、隣の列の先頭、僕はその姿に思わず「あ」と声を漏らす。鼻が大きく、黄色い、不細工な奴。周りの誰も不審がらず、そこに居ることにも気づいていない。僕の視線と意識は全てそれに注がれる。突然、ぐるりと首だけをこちらに向けた黄色い奴――スリーパー――は、にやりと大きく笑った。今までで、一番、大きなにやけ顔。次の瞬間、スリーパーはホームへと飛び込んだ。それがほぼ線路へ着地したと同時に入ってくる電車。ブレーキをかけることなく、それはいつも通りにホームへと到着した。

 僕は、そのまま動けなくなった。毎日毎日、嵐のように過ぎ去っていく時間から取り残されるように、僕の中だけ時が止まったかのように膠着した。動悸も、何故だか収まっていく。

 開いた扉から次々に乗り込む人々。満員の電車は、口から漏れ出そうな嘔吐物を塞ぐように閉まっていき、定刻通りに走り出す。

 どれだけそこに立ち尽くしただろうか。一本、二本、電車が過ぎ去り、同じ光景を何度か見た後、今度はそこに居てもたってもいられなくなり、反対側の電車へ乗り込んだ。

 なるべく不審がられないよう、平静を装って、吊革に掴まる。行く当てもなく、どこか遠くへ。

「やり直したいんだ」

 やり直したいんだ。逃げたいんだ。

 やり直したいんだ。逃げたいんだ。

 スリーパーの言葉を反芻し続ける。

 電車に飛び込んだあいつの姿が、頭から離れなかった。

周りのことなんて見えない、今自分がどこにいるのかさえわからない。何が起こったのか頭で考えることで精一杯。

 誰も気づかなかった。何事もなかったかのように景色は動いた。誰かが死んでも、世界はまるでびくともせず、ただそこにあり続けた。

 

 全てがどうでも良くなる気がして、吊革に使ったまま、終着駅まで揺られ続ける。

僕はその日、仕事を休んだ。

 

【六-一】

 僕が電車を下りたのは、都会から外れた小さな町、地元の駅だった。久々に降り立った場所に、小さな安堵感を覚える。

 すぐに駅のトイレに入って、鏡を見た。僕の顔は、ひどくやつれていた。頬がこけ、体も、心なしか小さくなったかもしれない。目にはひどい隈がある。確かに、顔は白い。……ああ、いないのか。僕はまた、あの光景を思い返した。

 スリーパーが僕の前に現れてから、随分と長い時が経つ。仕事を始めたころはまだ、夢枕に立つように現れた。最初から、驚きはしなかった。ポケモンだ、とひどく落ち着いていた記憶がある。幽霊でも、知らない人でもない、ポケモンは僕にとって昔から見慣れた姿だったからかもしれない。

 気づけば一週間に一回、三日に一回と、どんどん奴が現れる頻度は上がり、その度にあのコインの魔力に取りつかれた。あれがあれば、心が楽だった。

 

【六-二】

 スリーパーは、僕が抱えていた劣等感、不満、不安、嫉妬を、まとめて和らげ、内に隠してくれる。前向きで、自信のある自分を作り出せた。本当に自分が変われたのではないかと思う程、記憶ごと吹っ飛びそうな程、強力だった。だからこそ、僕のような人が美咲と付き合うことが出来たのかもしれない。

 僕は昔から人より出来ない子だった。小学生の時、あまりのトロさにいじめられていたこともあった。その癖負けず嫌いで……いや、ただ人に出来ないと思われることを恐怖に思い、人一倍何事も努力した。勉強も、スポーツも、全力で頑張った。智と同じ大学にも入った。真面目すぎる程、真面目だと思う。

 対して智は、小学生の時から勉強もスポーツもよく出来、努力を怠らない本物の優等生だった。僕は智に嫉妬し、意識していた。智は、僕が根性ある奴だと思ってくれていたらしい。互いが互いの努力を知っているからこそ、嫉妬心を乗り越えて智と仲良くなるまで、時間はかからなかった。

 努力を怠らない人間はそれに見合った人生を送る。そう信じている。人から見たら、僕は順風満帆なのかもしれない。

 それでも、僕に一番近しく、大切な友達は常に上に向かって突っ走った。夢を持ち、それを掴み取ろうとした。世間一般では人並みでも、僕の中に劣等感は絶えなかった。僕には夢なんてものはなかったし、これといってやりたいこともなかった。何とか周りに食らいついて、普通に働くなんてことしか頭になかった。

 嫉妬心を乗り越えた友情だったはずなのに、いつの間にか妬みの対象でしかなくて、それをひたかくしにしていた。

 醜い自分が、最高に嫌いだ。

 美咲と付き合ったのも、智が美咲のことを好きだと分かったからだ。あいつが好きな人を、奪いたいと思った。スリーパーに頼った僕なら、それが、出来る気がした。

 あの時僕は、自信過剰で、対等な気でいた。堂々と智の前で美咲の話を出し、二人で恨みっこなしと、約束した。

 結果的に僕は美咲と付き合うこととなり、当初の目的を果たした。智の好きなものを、奪った。

 僕は性格が悪い。人を妬み、努力しなかった人を蔑み、人の目を気にし続け、体裁ばかり気にする。

 そんな風に取り繕ってきた僕が社会に出ると、化けの皮はすぐに剥がれた。智に感じる負い目、美咲に対する負い目。自分への嫌気。仕事なんて、うまくいく訳がなかった。残業は増え、仕事は終わらず、迷惑をかけ、評価は下がる。上司から冷たい視線を浴び、否定され続ける毎日。僕はそれでも相変わらず人目を気にして努力したつもりだったが、もうその効果は薄かった。全部、自業自得。さいみんじゅつの効果は、だんだんと薄れていく。

 僕と違って美咲はまっすぐだ。真に自分を変えたくて努力を続けた。その成果は出ているし、その努力は確実に美咲に自信をつけている。スリーパーのさいみんじゅつから解かれれば、僕はただの性格の悪いやつで、美咲と付き合って良い訳がなかった。毎晩毎晩、僕はさいみんじゅつの外で謝り、朝起きると、さいみんじゅつの中で自分を取り繕った。

だから思う。

「僕が死ねばよかったんだ」

 

 

【六―三】

 地元の駅に着いても行く当てはなく、僕は実家へと帰ってきていた。両親は働いていて昼間家にはいない。キーケースから久々に実家の鍵を取り、中へ入る。

 両親の靴しかない玄関。僕のものがなくなったこと以外は、何も変わっていない。二階へ上がり、自分の部屋へ。僕の部屋は、そのままにしておいてくれている。

 久々に、入った。ずっと使っていた勉強机、ベッド、好きなアーティストのポスター、大学の教科書、CD、本棚、ゲーム、と目を配ったところで、本棚の上にゲームボーイが視界に入った。ずっとずっと、この古めかしい機械で僕はポケモンをやっていた。これが好きだった。

 刺さっているのは、もちろん赤バージョン。スイッチを入れても、動かなかった。

「そうだ、電池」

 僕は勉強机の中をひっかき回し、単三の電池を取り出す。昔から、引き出しの上から二番目にストックがあった。すぐに電池をいれ、起動する。

 起動音の後に、なれたオープニング画面が映る。ボタンを押すと、「つづきから」が残っていた。データは消えていない。僕はすぐにそれを選択する。

 マサラタウン。主人公は自分の家の前に立っていた。なんだか僕は変な親近感を覚え、キャラを動かし、二階の自室へと移動させる。スタートボタンを押し、「ポケモン」を選択すると、自分が持っているポケモンを見ることが出来る。

「何を使っていたんだっけ」

 手持ちのポケモンを見て、僕はギョッとした。スリーパーが、一体。

 薄気味悪くなって、僕はすぐにBボタンを押し、「ポケモン」の画面を消す。

 そもそもなんで本棚の上にゲーム機とポケモンが?

 思い出のある大切なゲーム機とソフトだから、プラスチックケースに入れて、ずっときれいに保管したはずだった。データだって、普通、残っているものか?

 机の一番上の引き出しを開けると、確かにそこにはプラスチックケースがあったが、ゲーム機とソフトはない。やっぱり、本棚の上に誰かが出したのだ。

 考えにくいが、母親や父親が出したのかもしれない。息子が昔大層はまっていたものを見つけ、試しに点けようとしたのかもしれない。

 僕は無理やりそう思い込み、元の場所に戻そうと、ゲーム機のスイッチを切った。

 

 切ったが、切れない。

 

「え? 何で?」

 間抜けな声を出して、僕は何度もスイッチをオンオフに切り替え続けたが、何も変わらない。なんだこれ。気が動転していると、画面はいつの間にかメニュー画面から、「ポケモン」を選択。アイコンがスリーパーに留まり、「つよさをみる」。

「うわ!」

 スリーパーのグラフィックが現われると同時に出る鳴き声に、僕は思わずゲーム機をベッドの上に落とした。あのグラフィックが強烈に僕の頭に焼き付いた。瞬間、眩暈。足がぐらつき、床に膝をつく。頭痛と、吐き気に襲われ、僕は階段を駆け下り、一階のトイレへ駆け込んだ。便器に頭を突っ込んでしこたま吐き。頭が割れそうな頭痛に耐え続けた。

 だんだんと頭痛と吐き気が収まって来たころ、便器から顔を上げ、洗面所で口をゆすごうとその前に立った時、鏡に映った自分を見て腰を抜かした。そんなまさか、とおそるおそる立ち上がり、もう一度鏡に自分の姿を映す。どう見ても、スリーパー。

ここまで来ると、あまり驚けず、笑うしかなかった。どこを触っても剥がれたりしない。やっぱり、不細工なスリーパーだった。

 しばらく鏡の前に立ち尽くした。この状況を飲み込むまで、しばらく時間がかかった。

「どうなってんだ、一体」

 最早夢か現実かどうかもわからない。夢なら覚めろ。早く覚めて、もっともっと、ずっと前に戻してくれ。

 ……どれだけ立ち尽くしたところで、その夢は覚めなかった。

 僕は落ち着いていた。このままスリーパーになっていれば、誰からも忘れてもらえると思った。このままでいいのかもしれない。気づけばいつの間にか手の中にあるコインと紐を使って、それが出来る気がする。途端に気持ちは晴れやかになった。罪悪感から惨めに逃げ回り、自分を取り繕い、さいみんじゅつの効きが悪くなってきて、その結果がこれだ。最早人間の姿でいることが許されないと、全てを否定されこの姿になったのかもしれない。僕にはおあつらえ向き。あいつが電車に轢かれて死んで、僕がその後を継いで、誰かのために役に立って、そいつのために死ぬ。

 僕は、なんとなくわかった気がした。何年もさいみんじゅつの中に居続け、だんだんとその効き目がなくなってきて、押し込めてきた罪悪感と、今の生活が苦しくて、僕は無様に逃げ出そうとした。線路に飛び込もうとしたのは僕だ。目を開け、走り出そうとしたところで、あいつの姿に止められた。まるで逃げるのは許さないとでも言うかのように、あいつは、僕の代わりに死んだ。助けてくれた。だからその代わり、僕はスリーパーになった。次は、僕の番だった。

 使命感なんてものが湧いてくるが、所詮罪滅ぼしで、自分が楽になりたいだけ。誰かの役に立てば、スリーパーが報われて、良い事をすれば、智や美咲への負い目が少しは和らぐ気がする。相変わらず自分のことばっかりしか考えられないなと我ながら呆れるばかりだが、スリーパーになってしまったので、なんだか不思議な感覚だった。

「とにかく、動いてみるしかないな」

 いろいろ考えていても仕方がない。

 僕はそのまま、実家を後にした。

 

 

【七】

 抵抗はなかった。そうだろうな、とは思った。

 スリーパーの姿で町を歩いても、誰も僕には気づかない。僕がスリーパーを見るのは夢の中か寝る前だったが、あいつは僕の周りにずっといたのだ。見えなかっただけなんだ。それがよく分かった。

 町の人は僕の姿に気づかないし、皆、自分の後ろをスリーパーがくっついて歩いている事にまったく気づいていなかった。驚くよりも何よりも、芸がない。皆スリーパーって、絵面的にどうよ。さいみんじゅつって、ゲンガーとか、他にも使えるやついただろ。

 どの人間にもスリーパーがついているのを見ていると、その人が本当は何を考えているのか気になってくる。皆それぞれ心の中に押し込めたいことがあるのかもしれない。それが罪悪感じゃなくとも、ちょっとした嫌な事、耐えられないような悲しみ、恥ずかしい事、皆それぞれあるはずだ。それを正面から受け止めきれないから、皆スリーパーのさいみんじゅつでそれを隠している。

「皆、同じなんだな」

 口に出して相談すればいい。誰かと共感したい。それが出来る人、出来る事ばかりではないのだ。もちろん、智だって、美咲だって同じ。勝手に罪悪感を抱えて死のうとした僕だけど、見えている全員にその可能性がゼロではないのだ。頭に浮かぶのは、スリーパーの最後の姿。この世界でどれだけのスリーパー達が身代わりになっているのか。その日の自分を殺し、次の日の自分に託す。そうやって毎日毎日生活している人間達は、いつか自爆するのだ。

 そうやって僕は町を歩きながらひたすらに考えを巡らせたが、答えなんて見つかるはずがないのだ。何かやることを見つけなければいけない。すぐに思いついたのは、智と美咲に会いにいくことだった。あいつらの後ろにもスリーパーがいるのだ。そしてそいつらは、どんなさいみんじゅつをかけているのだろうか。

 気になったのは、それだけ。

 誰の役にとか、電車に轢かれたあいつの代わりに、とかそんなことはどうでもいい。

 僕が会って話さなければならないのは、あの二人だけだ。そこに思い至るまでずいぶん時間がかかった。ぼうっと町を歩いていた時間もかなり長かった。落ち着いていたつもりだったが、整理がついていたわけではなかった。

 駅まで戻ると、大分いい時間だ。いつもの駅まで戻るのに、ここからだと 2時間はかかる。間に合うかな、と駅の階段をかけあがり、改札まで辿り着く。定期なんてものを持ち合わせているわけがなく、改札横、駅委員さんの窓口の前を横切った。ホームに降り、電車を待っていると、いつも僕の近くで同じように電車を待っているスリーパーを思い浮かべると、滑稽だった。周りにちらほらいる人の近くにも同数のスリーパーがいる。ただじっとついているだけ。スリーパー同士で話すなんてことはない。互いが互いをいないものとでもいうように、じっと、その人間達周りを陣取っている。その不思議に思わず変な笑みがこぼれる。僕があの、ニタニタとした気持ち悪い顔を浮かべているのかと思うと、それはそれは気持ち悪い。

「美咲の後ろにこんなのくっついてるのなんて嫌だな」

 赤バージョンのリメイクで、スリーパーが幼女を誘拐しているのを思い出す。

 僕に美咲のことを心配する資格なんてないなと考えると、スリーパーがついている方が安全なのかもしれない。そうなると、ゲーム内でのスリーパーが悪者だと思えなくなってくる。こんなことに気づける人は、そうそういないだろう。

「くだらないな」

 人間でいるときより軽い気分でいる自分が、やっぱり嫌いだった。人間を捨てて、外野になった気分でいるのかもしれない。外野だから、二人に会いにいこうとしているのかもしれない。どうしようもない自分に嫌気が差したころ、ホームにアナウンスが流れる。そろそろ電車が入ってくる。僕はちらと電車が来る方向、左に軽く首を向ける。少し遠くで電車を待っている人の後ろにいるスリーパーが、ただ段差を降りるかのように、線路へ飛び込んだ。電車は止まらない。あいつと同じように、そのスリーパーも電車に轢かれる。

 またか。

 待っている人は何かが変わったかのようにすっと背筋を伸ばし、キョロキョロ辺りを見回す。気づかないなりに、何かを感じとったのかもしれない。 

 こうやって、世界のどこかで自分を、スリーパーを殺して生きている人たちがいる。何事もなかったかのように、電車の扉は開く。

 スリーパーの姿で、元来た道を、僕は戻った。

 

 

【八】

 智を待った。いつも使っている駅の改札で、智がだいたい帰宅する時間まで待ち続けた。その間、とんでもない数のスリーパーを見たのは言うまでもない。こんな世界が普通に在るなんて、ふざけた話だ。

 改札から見ているだけで見つけられるものかと思っていたが、智の姿は簡単に捉えることが出来た。他の誰よりも急いでいるからだ。改札を抜けた瞬間小走りに走り出した智の後ろを、僕は焦ってついていった。駅を出て、智はアパートの方向へ急ぐ。帰路に着くサラリーマン、学生、一日を終えてホッと一息ついた人達を縫って、一人焦っている。智の家は僕のアパートと反対にあるから、僕のアパートへ向かっているのだろう。突然いなくなったから、美咲が連絡でもしたか? それにしてもたった一日なんて随分早いな。

 智は案の定僕のアパートまで走り続け、そのまま駆け足で僕の部屋で飛び込んだ。鍵は開いている。美咲が開けたのか。そのまますぐにドアは閉められ、僕は一人取り残された。自分の家なのに、そのドアを開けることが出来なかった。そもそもこの姿でドアを開けたら勝手にドアが開いたように見えるのかもしれない。誰のことも気にしていなかったが、あの二人に何かそういうところを見せるのは憚られた。それに、あの二人が一緒にいるところを邪魔できない僕がいる。

 そこに、立ち尽くしていることしか出来ない。

 中の声も聞こえず、しばらくその場にいると、中から二人そろって出てきた。

 美咲は泣いている。智はその美咲を優しく支えていた。その後ろには、二匹のスリーパーを連れている。何故泣いている? 僕がいなくなったから? でも、まだ一日も経っていない。

「とりあえず、家の中だと塞ぎこむから」

「うん」

 美咲のおぼつかない足取りを支える智を見ると、僕は異常に胸が痛んだ。その場所は僕の場所だと、罪悪感など無視した気持ちが僕を支配する。こんな姿になったからって、虫が良すぎる。何も出来ない自分にやきもきしながら、僕は二人の後をつける。

 どこに行くのかと思えば、近くの公園だった。道路に面し、三方を家に囲まれた小さな公園だ。遊具が少しと、ベンチがあるだけ。二人その小さなベンチに腰を掛ける。二人の話を盗み聞きするみたいで嫌だけれど、僕は離れることが出来ない。美咲と一緒にいる智を見ると、どうしても盗み聞きしなければ気が済まなかった。

「外の空気吸って、少しは落ち着かないと。君が参っちゃう」

「ありがとう」

 顔を伏せ、泣きぐずる美咲の手を、智は握っている。

「たっちゃんと最後に会った日、酷く疲れた顔をしていて、どう見てもおかしくて、でも私、何もしてあげられなかった」

「美咲ちゃんのせいじゃないよ」

「少し前からおかしかったの。同じゲームをたくさん買ったり、凄く沈んでた」

「それでも、美咲ちゃんが悪いわけじゃない」

「こんなに、一週間も連絡がつかないなんて、普通じゃない」

 一週間? 僕の中では一日も経っていないが、もう別段驚きもしなかった。これだけ立て続けにわけのわからないことが起きているのだから、時間が飛んだっておかしくない。要するに僕がただ一日過ごしている間に、一週間過ぎていたということなのだろう。

「たっちゃんの家にいって、何か手掛かりでも、と思って部屋に上がらせてもらったけど。何もわからなかった。一際大事そうに、ゲームがしまってあるだけ」

 ああ、美咲なのか。僕を心配して、そこまで。

「……俺はね美咲ちゃん。あいつが本当に強いのを知ってる。小さい頃から、人と比べ物にならない程努力をしてきて、辛いことも乗り越えてる。俺はそんなあいつが凄いとずっと思ってる。別に勝負をしていた訳じゃないけど、いつもあいつの事を気にして、俺も頑張ろうと思ってきた。そんなあいつが、美咲ちゃんを放っておいてどこかに行くはずなんてない。そんな無責任なやつじゃないよ」

 違う、違うよ智。

「今、こんな話するのも変だけどさ、俺、美咲ちゃんのこと好きだったんだよ」

「え?」

 美咲は腫らした目で、智をびっくりしたような顔で見た。もちろん、僕も同じように。

「俺が先にあいつに言ったんだ。そうしたら、僕もあの子が好きだって。初めて面と向かって張り合われた気がしたよ。昔から意識しあってて、仲が良かったけど、そういうのってなかったから、びっくりした。だから、どっちが付き合うことになっても恨みっこなしって、そう約束したんだ。もちろん、どっちもフられる可能性はあったけどね」

 そういって、智は恥ずかしそうに頭を掻いた。

「でも、あいつが美咲ちゃんに話しかけてる時の君を見ていたり、二人で何気なく歩いているところを見た時、君はあいつのことが好きなんだなって思ったよ。すぐ分かった。それが分かった瞬間俺は身を引くしかないなと思ったし、あんな真剣な顔して俺に張り合ってきたあいつを見たら、逆に応援したくなっちゃったんだよ。だからね、だからねっていうのも変だけど、あいつ、絶対戻ってくるから。こんな期待持たせるようなこと言うのって、本当は良くないのかもしれないけど、戻ってくるよ。それまで死ぬほど努力してきたあいつが、どの時よりも真剣な顔で、これだけは譲れないって顔、忘れられないよ。絶対、戻ってくる。」

「ありがとう……」

「戻ってきたとき、怒らないでやってくれよ。きっとあいつなりにいろいろ抱えてて、何とかしようとしてたんだよ。何もかも、全部含めてあいつだから、受け入れてやって」

 美咲をまた顔を伏せて泣き始めた。

 僕は智に詰め寄ったあのときのことを思い出した。

 智が美咲を好きだったから、取ろうとした。

 僕は自問する。

 僕はいつから美咲のことが好きなのか? 答えはわかっている。智が泣いた美咲を支えているのを見ただけで、すっ飛ばしたい気分に駆られた。こんな僕を数年間、支え続けてくれた。スリーパーに頼り切って、罪悪感を押し殺し、この生活を続けた。さいみんじゅつの中は、現実になっている。僕は動機こそ、始まりこそ不純かもしれないが、話しかけてすぐ、あの時から、ずっと、美咲が好きだ。

「ほら、あいつバカみたいに真面目なところあるじゃない? くっだらない小さい事、気にしてるのかもよ?」

 ははは! と智はいつものように笑った。

 小さい事なのか? 許してもらえるのか?

「どんな理由があってもさ、あいつが美咲ちゃんを好きなことに、絶対変わりないから」

 スリーパー。僕、どうやったら戻れるんだ? 僕が大好きな人達の世界には、どうすれば戻れるんだよ。僕が悪いことをした。全部謝って、正面から話すから、戻してくれ。頼むよ。もう一度、さいみんじゅつをかけてくれ。

「ありがとう、智君。元気づけてくれて。そうだよね、戻って来るって、信じなきゃね」

 美咲は真っ赤な目をしながら、にこりと微笑んだ。僕の大好きな笑顔がそこにある。

 それと同時に、二人の後ろに佇むスリーパー二匹も、ニタりと笑う。

 なんだよ。なんだお前ら。

 二匹はベンチに座る二人の前に回り込み、そのコインを、揺らす。

 二人はコインを見たのか、スリーパーを確認したのかわからない。ただ、きっと何かがちらついたことはわかったのかもしれない。ちらとそのコインに二人の視線が注がれたそのとき、スリーパー 2匹は首だけをぐるりと回して僕を見つめ、またニタりと笑った。

「きゃあ!」

「うおあ!」

 突然驚く二人。体をのけ反らせ、二人そろって飛び上がる。

「た、たっちゃん?」

「お、お前、いつから……」

「あ、えっと、見えてるってこと? また、さいみんじゅつの中?」

 思い切り飛びついてくる美咲。はあ、とため息をついて安堵したような顔を浮かべる智。

「もう、どこ行ってたの!」

「ごめん。ずっと、変な世界にいた」

「そんなとこもう行かないで!」

「わかったよ、もう、どこにも行かない」

 僕は、人間だ。

「お前、本当どこにいたんだ?」

 僕の手の中にはコインと、それをつるす紐がある。それを飛びつかれた美咲越しに、その背中からコインをつるして見せた。

「ここ、ずっとこの中。もしかしたら、今もかも」

「はあ?」

 僕の話は、いつも唐突だ。コインを手繰り寄せ、僕はそれを大事にポケットへしまう。

 今僕はどの僕なのだろう。スリーパーにさいみんじゅつを掛けられた僕なのか、元の僕なのか。

 智の言葉じゃないけれど、全部含めて僕なのかもしれない。さいみんじゅつの中とか、外とか、きっとどうでもいいのだ。世の中皆、そうなのだろう。そう思わせる僕のポケットの中のコインと、僕が人に戻ったはずなのに消えないスリーパー達。人は皆どこかでさいみんじゅつの中にいる。

 今も昔も、これから一生、ずっと。

「美咲、後でさ、言っておきたいことがあるんだ。言わないと、僕の気が済まなくて」

 小柄な美咲は、僕の胸に顔を埋めて一つだけ頷いた。

 最後にもう一つ。後ろを向くと、やっぱりいる。

「ありがとな、スリーパー」

 大きく大きくニタりと笑ったその顔は、僕には少しだけ、微笑んでいるように見えた。

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