愛しているわと女神は言った。   作:エターなる

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はち

 ――――

 

 忘れ得ぬ記憶がある。

 

 安楽椅子に座る老いた女のこと。スバルの白髪とはまた違う、経年によって白くなった死に近い色。痩せた女との会話である。

 

 思い出の中のスバルは、穏やかな表情で遠くを眺める老女の傍らに立ち、切なさに胸を焦がしている。

 二人の視線の先では子供たちが駆け回っている。色んな種族の子供たちである。白い肌、黒い肌、象牙の肌、獣の面影を宿した子もある。

 

 彼らの首元には鈍色の鎖が光る。それは、彼らが皆、老女の奴隷だと示すものだ。在りし日のスバルがそうだったように。

 

 青空に響き渡るは快活な笑声。それは、彼らが皆、幸せを感じていると示すものだ。かつてのスバルが、そうだったように。

 

『ずっと、知りたかったことがある』

 

 この時口にした言葉を、スバルはしっかりと覚えている。

 なぜって、苦しかったからだ。逃げ出したくなるほどの激情を抑えつけながら、臓腑から絞り出した言葉だったから。痛くて辛い、幼い頃の傷を抉り返すような、そんな叫びだったから。

 

『なぜ、俺を棄てたのだ』

『……』

『嘘で良かったはずだ。一言、愛していると、俺を愛していると。それだけで、貴女は俺を、飼い殺しにも、死兵にもできた。俺は、それほど、貴方を愛していた、信じていた。貴女も、それを理解していたはずだ』

 

 この発言には、少しだけ嘘が混じっていた。愛していたと言ったことと、信じていたと言ったこと、この二つは全くのデタラメだった。

 

 酷い嘘を吐いたものだ、そうスバルは思い返すことがある。当時の彼は、この嘘に、もう一度バカな問いを重ねた。

 

『教えてくれ。それなのに、なぜ、俺を棄てた』

 

 愚かな男だった。見目に美しく、才気に長ける。凡そ人が羨む総てを持っていながら、しかし、あまりに一途で素直で頑なに過ぎた。

 

 他人を容易く信じて何かと厄介事に巻き込まれては、幾度も騙され笑われてきた。その度ごとに深く傷つき、恨みに思い、しかし、それでもなお、きっと自分も悪かったのだ何か事情があったのだと、自省と顧慮の念を抱く。彼はそんな、全く、愚かな男であった。

 

 もっと上手く生きられたはずである。裏切りに報復で応えていたなら。他者の善意や悪意を利用していたなら。もっと、利に聡く、立ち回っていたなら。きっとこんなにも傷を負うことはなかった。

 

 疑うことを知っても、信じたいと願っている。裏切りを憎みながら、許す理由を探している。

 

 バカな男だ。これは生来の気質だけでなく、多分に、養父母の所為なのだ。彼らがスバルをこんなにも愚かな男にしてしまった。

 

 ――生まれながらの悪などない、赤子は皆無垢である、人を憎むな、罪をこそ憎め、疑うな、信じよ、善を信じよ、良心にのみ従え、自らを誇れ、誇れる人間であれ、気高く生きよ、エトセトラ、エトセトラ――。

 

 彼らがそんな風に教えたから! 生まれて初めて受けた愛が、善意が、あまりに大きな物だったから!

 

 だから、彼はこんな不出来な嘘を吐いた。そして、答えを誘導するような、こんな下手くそな問いを投げたのだ。

 

 ごめんなさいと言ってほしかった。わたしも愛していたのと囁いてほしかった。貴方には自分のために生きてほしかった、あれは貴方のためだったのよ、そんな風に弁明してほしかった。

 

 そのどれか一つ、どんな言い訳がましい言葉でも、彼は総てを呑み込むつもりだった。

 

 スバルは肯定を求めていた。あの優しかった日々が偽者でなかったこと、与えてくれた愛が本物であったこと、その肯定を。

 

 愛していたのでも信じていたのでもない。彼は本当は、本当は、まだ――。

 

『……。大きくなったわね、スバル』

 

 胸が激しい痛みを発し、スバルは小さく呻いた。

 かつては甘くとろけるようだった彼女の声は、しわがれ、擦れはててしまっていた。さもあらん、彼女との最後の会話から、優に半世紀近くが経っていたのだから。

 老婆が優し気な笑みと一緒にスバルへ視線を移す。シワだらけの顔の中で、眼差しだけが昔と同じだった。

 

『私はもう、おばあちゃんになってしまったわ。歩くのだって億劫で、目も良く見えなくなった。最近じゃあ、朝、起き上がれない日もあるのよ。貴方と別れてから、色んなことがあって、色んなことが変わったわ。……でも、あの時から、今も、変わらないことだって、ある』

 

 老婆は笑みを深くした。安楽椅子がきゅっと鳴った。細く枯れた手がひじ掛けを強く握っていた。

 

『わたしは子供しか愛さない。この館に大人の男は必要ない。言ったでしょう』

 

 オヤジはおよびじゃないのよ。

 

『分かったら、もう行きなさい。貴方の居場所は、ここにはないのだから』

 

 結局、スバルは追い払われるように館を出ることになった。見送りには若い女中が一人だけついた。

 門のところで、彼は数分前まで老婆と一緒に居た庭の方を見やった。エルフの優れた聴力が、子供たちの驚きの声を捉えたからだ。いとけない声は良く通り、耳を澄ませばその内容さえも聞き取れた。

 

 ――おばあさま、泣いているの?

 ――どうしたの? どこか痛いの? 悲しいの?

 

 少し不自然な間が空き、また、子供たちの声が届く。

 

 ――嬉しいのに、泣いているの?

 ――ヘンなのー。嬉しいなら、笑えばいいじゃん。なー?

 ――ナー。

 ――ちょっと! このバカ男子どもっ、デリカシーってものがないんだからっ!

 

 スバルは目を閉じ、深く息を吸った。しぶとく心に残る未練を、呼気と一緒に捨てていくため。

 

 一度だけ見送りの女中に頭を下げた。女も同じように黙礼を返した。

 

 彼はこの女を知らないし、この女もスバルのことを知らない。だが、どちらも理解していることはあった。

 二人ともが奴隷であったこと。同じようにこの館で育ったこと。片方は外の世界へ出て行き、片方は残ったこと。

 その中で、もし、スバルだけが特別に知っていることがあるとしたら、それは多分、彼こそが最初の一人だったということだ。

 

 みんな、大きくなるのよ。強く、優しく、立派に、自分の力で生きるの。そして、必ず、幸せになって。……約束よ、わたしの可愛い天使たち(スバルカビタ)

 

 子供たちの声に紛れ、甘く優しい囁きが聞こえた気がした。幻聴に違いない。その声は、既にこの世界から消え去ったはずのものだった。

 

 スバルは踵を返して歩き出した。

 老女の言った通りだ。自分の力で生きられる者の居場所はここにはない。大人になった者は、『子供の家』に居てはいけないのだ。

 

『また、いらしてください』

 

 女中の声に一度だけ足を止め、しかし、返事さえせずにまた歩を進めた。

 彼は、二度と、振り返らないと決めた。

 

 

 

 

 かつてある国に、多くの孤児や奴隷たちを一角の人物として育て上げ、国家に大きく貢献した貴族の女性があった。彼女の死は大いに悼まれ、国葬の折、その功績と遺志により、学び舎を兼ねた孤児院の設立が宣言される。以降その施設では、一世紀と暫くの間――敗戦により国家が滅亡する時まで、多くの子供たちが教養を授けられることとなった。

 

 彼女は生涯独身を貫いたと言われている。記録上は、愛人もなく、故に、嫡子庶子共にない。十代の中頃から奴隷を買い始めたとされ、その事実と時代背景から彼女を小児性愛者と見る学派があるが、彼らの論説を裏付ける信頼できる根拠はない。

 

 名はアシュレア。アシュライヤ、アシュテーとも。孤児の守護神ヘスティアのアナグラムが綴り間違いして広まったとする説もあるが、有力ではない。奴隷の母、孤児の母、史上初めての公営養護院創設者、あるいは創設の立役者として知られる。

 

 ――――

 

「それで、リリ。用は何だ」

「え?」

 

 リリはぱちくり目を瞬かせた。

 

「用があって、俺に声を掛けたのだろう?」

「あ、は、はい。そうです、そうでした」

 

 今度はこくこくと頷き、店の奥を見やってまた何度か首を縦に振る。横目で確認するスバルの目には、初老の女性がにこにこしながらガンバレと身振りを送っているのが見えた。同じくらいの老夫も横に居て、眼鏡の奥の瞳を気づかわしげにすぼめている。

 リリは菓子を握っている方とは逆の手でお仕着せのエプロンをそっと撫で、誇らしくも面映ゆげにはにかむ。

 

「冒険者さま……ではなかったんでした、えと、スバルさまは、どんなお花をお探しですか? 何でも聞いてください。リリは、お花屋さん、なので、お客さまのお手伝いをします」

 

 なるほど。スバルは得心が行って、もう一度横目で店の奥を見やった。

 

 パルゥムの少女と白髪のエルフの動向に首ったけな二人。つまり彼らは、白髪のエルフを使って少女に接客の練習をさせよう、というのだ。

 

 彼らの友人であるところの例の農夫、スバルがその紹介で店に来たという事実は、来店直後の挨拶でちらと話したことである。恐らくはそのおかげか、スバルは初対面ながら善良な人間と思われているようだった。

 

 多くの人は、共通の友人がいると、良くも悪くもその友人越しに相手を解釈してしまうものである。善人の周りには善人が多く、悪人は悪人同士で結託しがちだからだ。勿論、例外もあるけれども。

 

 翻って農夫はというと、老夫婦とは子供を貰い貰われするくらいの仲である。

 

 加えて彼は道中魔物の群れの中に置き去りにしたエルフの青年のことを大層気に病んでいたようで、この花屋でもその青年の話をしていたらしい。

 農夫の目にはスバルは義侠心の強い正義漢に映っていたようだから、彼は多分に好意的な解釈で老夫婦に話して聞かせたそうだ。曰く、老い先みじけえオレなんかの為に、うんぬん。

 

 そんなわけで、スバルは来店後十分もせぬうちに花屋の夫婦、こと婦人にたいそう気に入られていた。リリがびくびくしながらも白髪の鉄仮面男に話しかけたのは、蓋し彼女の差し向けだった。

 

 ちなみにこれは彼の美貌も相まっての結果であるからして、彼がブオトコであった場合はこうはいかなかっただろう、かどうかは、老婦人にしか分からないことである――全くの余談だ。

 

 さておいて。

 

 そういった諸々を勘案したスバルは、そうか、と一つ頷き立ち上がった。

 

 彼の推察が正しければ、少女に自信を持たせるのが夫婦の目的である。断るよりは何か頼んだ方が良いのだろうが、はてさて。

 

 スバルはちょっと考え、とある用事にならうまく託けられると思い当たる。

 

「では、リリ。キミを優秀な売り子と見込んで頼もう。パーティに持っていける、ステキな花束を見繕ってくれ」

「パーティ……。失礼かもですが、どんな?」

「それが、良く知らないのだ。旅の徒然で一席打てと突然招かれた。ささやかな席とはあったが、主催者はかなり高名だ、謙遜かもしれん」

「そうなんですか。じゃあ、スバルさまは、おもてなしを提供するがわなんですね」

 

 持て成す側……そうなるのだろうか?

 熱心に頭を下げて頼み込む黒髪の美女を思い出し、スバルは少しく首を捻った。良く分からぬ。

 

「その御方の好みの色とかは、分かりますか?」

「否、全くだ。……まあ、委細任せる」

 

 結局、彼は少女に全て放り投げることにした。もとは手ぶらで向かうつもりだった朴念仁の風来坊である、悪印象を抱かれなければ何でも良かった。

 

「おもてなしする側なら、目立ちすぎないほうが良いかもしれませんね。良く知らない人のパーティですし、出しゃばりって思われるかも。……えっと、それならあんまり豪勢なのはダメで……。あ、でも、質素すぎたら逆にバカにしてるって取られるかもだし……。うんと、じゃあ、真ん中から、少し控えめくらいかなあ……」

 

 リリは口元に拳を当て、うんうん一所懸命に頭を巡らせ始めた。客をほっぽってああでもないこうでもないと悩むのは改善点だろうが、接客慣れしない彼女なりに頑張っているのは良く伝わる。

 

 可愛らしい、性根のすくよかな子だ。願わくは、このまま真っ直ぐに成長してほしい。

 

 スバルはそんな風に少女の様子を穏やかな気持ちで眺めながら、そういえばと忠告を飛ばすことにした。

 

「ところでリリ。あまり握っていると、融けてしまうぞ」

「はい?」

 

 突然の言葉に丸い目でエルフを見上げる少女。

 

「その錠菓はスターチ粉の塊だ。手汗にもすぐやられる。気を付けろ」

「……ひゃわっ!?」

 

 彼女は慌てて拳を開き、頓狂な悲鳴を上げた。案の定、塊は表面がふやけ溶け出し、小さな手の平にべったり張り付いていた。

 

 

 

 時は進む。

 街の影がほんの少し東へ伸びた。

 

 途中から老女も加わってああだこうだと作られた花束は、スバルの髪と瞳の色をテーマにした物に仕上がった。形は滴る雫に似ている。淡い黄色と桃色の花も所々に織り交ぜ、とても柔らかな印象だ。

 

 会計の折、スバルは彼女らの尽力に頭を下げて謝意を示した。実際には、花束って結構な値段がするのだな、などと明後日な感想を抱いていたのだが、変わらぬ表情は彼の奇妙な内心を覆い隠して気高さすら漂わせていた。

 

 達成感に満ちた表情を浮かべる老若二人の女たち。店主の老人はそんな妻を呆れた目で見ていたが、そこはスバルのあずかり知ることではない。

 

 ――お前ねえ、リリちゃんに任せるんじゃなかったのかい?

 ――だって、アンタ。やっぱり一人じゃ心配じゃないの。

 ――お前が面食いなだけだろうに。いい歳したババアが釣り銭渡すだけで色めいて……、みっともない。

 ――うふふ、それよそれ。私、ちょっと触っちゃったのよ。なんだか若返った気分だわ。

 

 店の奥でそのようなやり取りが行われているのも、同じく馬耳東風、耳には捉えられても意識に引っかかることはなかった。

 

「あの、スバルさま」

 

 店を出たところで、リリが小走りで追ってきた。スバルを期待に満ちたきらきらしい瞳で見上げる。どうした、と問うと、少女はもじもじしながらこんなことを口にした。

 

「リリは、スバルさまのお役に立てましたか?」

 

 何を言うかと思えば、そんなことを。スバルは直ぐに察した。これは肯定を求める問いである。悩むほどのことでもなかったから、彼は心内を端的に述べた。

 

「勿論だとも。大いに助かった」

 

 リリの頬がぱっと紅く色づいた。もにょもにょと波打つ唇から、うふふ、えへへ、と抑えきれない笑みがこぼれだす。

 

「ほ、本当ですか?」

 

 これもまた、肯定を求める問いだ。

 スバルは今度は膝を折って最初と同じように目線を合わせ、ちょっと乱暴に少女の頭を撫でた。

 

「わわ、あぅあぅ」

 

 どうにも放っておけない気分にさせるコだ、と、彼はそんなことを思っていた。このコは、もしかしたら、認められることに飢えているのかもしれない、ちょうど、大昔の自分がそうであったように。

 

「勿論だと言ったろう」

「そ、そうですか、そうですか」

 

 役に立ったか――そんなのは、本当に論ずるまでも勿いことなのだ。

 人界に生まれ落ちてより云百年、花を贈った経験自体は数あれど、しかしてその実態は、友人の供花に数輪を、といった類いの贈花が数百回、という侘しい男、それがスバル・ヴリシャンである。そんな男にロクな花束が作れようか。

 しかし、束にできるほどの造詣はなくたって、キレイかどうかくらい分かる。唐変木なりに、彼も多くのモノを見て、感じて、これまで生きて来たのだ。

 

 昇る日を美しく思い、沈む月を偲ばしく思う。

 大いなる山々に畏怖を抱き、果てしない海原に驚異を覚える。

 

 スバルにとっては、これはそれらと同じことだ。この花束は、彼の感性には、たしかにキレイと映る。

 市井の花屋の急造りの品だから、本当はどこかに欠点があるかもしれないし、専門の者が見れば粗も多く出てくるかもしれない。けれども、誰が何と言ったって、その批評が彼の感じた美しさを否定できはしない。彼がそうと感じたからには、彼にとってはそうなのだ。

 

「リリ、キミはきっと良い花屋になれよう。自信を持って、頑張りなさい」

「はい、はいっ」

 

 良い返事だ。スバルは最後に頭を一撫でし、立ち上がり少女に背を向けた。

 

「あの、また来てくださいっ」

 

 幼い声が投げられたが、彼は立ち止まりも振り返りもせず歩き続けた。

 気が向いたら、という返事代わりに、花束を持っていない方の手をひらり振った。

 

「きっとですよ、約束ですからねっ」

 

 ――約束っ!

 少女の声がそう告げる。スバルはちょっと可笑しく思った。どうやら自分は約束をしたことになったらしい。まあ、別にここに来れないほど忙しい訳でもないし、馴染みの場所が増えるのはむしろ喜ばしいことだが……。

 

 それから、今日今後のことに思いを馳せた。

 

 午後五時までは、あと一刻半と少し。一先ず宿に戻って、身だしなみを整えるべきだろう。

 身だしなみ……。はて、と不意に疑問が浮かんだ。

 

(良く考えたら、貴人のパーティだ、ドレスコードなどもありうるのか? 困った、礼服がない。旅人の正装とかこつけて、鎧姿で……というのは、さすがに無理かも知らん。うぅむ)

 

 そもそも、芸売りでもないなら、旅人は身軽であるべきだ。嵩張る服をそう多く持っているはずがない。

 

 普段から彼が身に纏うのは、赤い革鎧と紫紺の外套の二つ。何度も九死を救った自慢の一張羅である。

 

 だが、見た目には、並の兵士や冒険者よりよほど武張った装いだ。使い込んだ凄みこそあれ、高貴な場には泥臭さが勝ちすぎるようにも思われる。

 

 しかし、だからといって、長旅に耐える頑丈さだけが取り柄の平服で出向くのも、どうだろうか。

 

(……、まあ、良いか。なんとでもなるだろう)

 

 結局、スバルは花束のときと同じく、浮かんだ懸念を放り投げてしまうことにした。

 

 御年八百と云十年。一桁目は曖昧でさえあるハイエルフ。長生きのジジイに良くありがちなように、彼も大概楽観的なところがあった。あまり深く悩まない方が、長い人生、楽でいいのかもしれない。

 

 

 ――さて。

 現実問題として、このような楽観思考も、ある面では正しいこともあるのだろう。彼の心配事は結局、すぐに解決した。

 

「スバル様、お迎えに上がりました」

 

 宿の玄関先で、一人の女がスバルを待ち構えていた。切れ長の目と怜悧な雰囲気をした例の女である。傍らには一頭立ての小型馬車が停められていて、若い御者が情報誌を広げている。

 彼女はスバルの姿を認めると、今朝の一幕を焼き直したように黒い頭をそっと下げた。

 

「貴女は……。たしか、ソニアと云ったな。しかし、まだ時間には早いようだが……」

 

 陽はまだまだ高い。オラリオはかなり広いが、馬車を使えば、端から端まで行くのでも、さすがに一刻は掛からないはずだ。

 

「はい、いいえ。実は、 私どもの主が貴方様の来訪を今か今かと尋ねられるものですから、まだ間もありますが、こうして参った次第です。もちろん、用事がおありでしたら、そちらを優先していただいて……。ただ、その間は、ここでお待ちしたいのですが……、宜しいですか?」

「構わない。しかし、馬車とは……。驚いた」

「出入りの商会の貸馬車です。フォールクヴァングには限られた者以外は入れませんので、これに乗っていただきます。もちろん、お渡しした招待状を見せて頂くのでもよいのですが、恥ずかしながら、私どものファミリアには気性の荒い者も多く……、つまり、何か失礼を働く輩がいないとも限りません。ですから、会場となる館までこれで直接お送りいたします」

「なるほど。了解した」

 

 頷きを一つ、了承の返事を返す。ふと、スバルはいい機会だと気付いて女に質問を投げた。

 

「実は、礼服の持ち合わせがない。なにぶん無頼の身だ、この格好以外では今朝の着流しくらいしかないのだ。さすがに、失礼か?」

 

 出で立ちがよく見えるよう、手を広げて見せる。

 ソニアはスバルの格好を一通り眺めると、すぐにかぶりを振った。

 

「問題ありません。フレイヤ様は寛大な御方ですし、冒険者らの装いにも慣れていらっしゃいます。……それに、あの方は、貴方様がどのような格好でも、きっと気になされないでしょう……」

「そうか。助かる」

「いいえ、私は何も……」

 

 また頭が下げられる。黒い髪の女はその格好のままスバルを促した。

 

「では、お支度をお待ちしています」

 

 

 スバルは宿に入り、すぐに準備を始めた。といっても、そもそも物を持たない彼だ、やれることも少ない。

 顔を洗い、身体を拭き上げ、髪を梳いて、具足の細かな隙間から泥を落とす。マントと鎧は普段から手入れを欠かしていないから、少し蝋を塗るだけ。そうしたら、もう支度は終わりだ。

 

 ブーケを抱え、他に持っていくような物はないかと部屋を見渡す。

 ふと壁際の布に包まる愛槍と弓が目に留まったが、それこそパーティには不要な物、スバルはそのままにしてソニアの下へ戻った。

 

「あら、そちらの花は、お持ちになるのですか?」

「む、これか。手ぶらで出向くよりは良いだろう。招待の礼だ」

「然様ですか。フレイヤ様もお喜びになるでしょう。私がお渡ししておきます。

 ……さ、お乗りください」

 

 スバルが腰を落ち着けたのを確認し、ソニアが御者台に合図を送った。鞭を受けた馬が重たく鼻を鳴らし、ゆっくり動き出す。

 

 向かうは、いざ、フォールクヴァングへ。

 

 ――――

 

 




どうしても直前に読んだ物に影響を受けてしまう。文体然り表現然り。イヤーンモー。
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