人間というのは不思議で、安定した心の拠り所を手に入れると、途端に冒険心をなくすものだ。
例えどれだけ野心を持った政治家や探検家であっても、大切な者を見つけて家庭を築き子を成せば、現状の幸せを維持することに力を入れるようになる。
しかしそれは人間の話だ。
ロレンスは困ったとばかりに額に手を当て、対面に座っている妻を上目遣いでチラリと見る。表すならば『ぷんすか』だろうか。細い腕をむんずと組み、目はこちらを見てくれていない。
こういう調子の妻──ホロは大抵、ロレンスに呆れている時だ。長く共に生活してきて、ロレンスにもある程度はホロの言う女心というものが分かってきている。こんな時は平身低頭、筋が通っていようとなかろうと謝るのが正しい判断だろう。
「ホロ、俺が悪かったよ。頼むから機嫌を直してくれ」
「ふんっ」
手を合わせて頭を下げるも、ホロは聞く耳を持たない。──といっても亜麻色の髪の上にぴょこんと載っている小さな狼の耳は、ロレンスの謝罪を一語一句聞き逃すまいとピクピク動き続けているわけだが。ロレンスは下唇を噛み締め、愛妻のわかりやすい反応に口が緩みそうになるのを堪えた。
ホロはロレンスから視線をずらしたまま、尊大な口調で説教をする。
「女という生き物はいつまでも、己を引っ張ってくれる勇敢な男に惹かれるものでありんす。ぬしはそこいらに二束三文で売られておる、世帯を持った矢先に度胸を小さくするようなつまらぬ雄とは──多少なりとも違うと思っておったんじゃがな?」
「お前を大切に思っているからこそ、今回の件は避けようと思っているんだ」
「実に嬉しくない気遣いじゃ。それに、面倒事を避けようとする怠け者は得てして雌のためなどと言うものよ」
「……お前もこれが面倒事だと分かっているのなら、俺のために歩み寄ってくれてもいいと思うんだがな」
そう言って、ロレンスは机の上に置かれた紙に目をやる。
羊皮紙ではない、それよりも格段に滑らかな1枚に、こう書かれていた。
『新たな世界への扉を開きます。愛し合う2人の時を巻き戻し、まだ見ぬ世界のざわめきと香りを抱きしめに旅立ちませんか?──今夜、時計の双針が十二を指す時、村の広場の真ん中にて』
湯屋の郵便受けに無造作に入れられていたものだ。
根っからの商人であるロレンスとしては旅行の広告よりも紙の質に目を光らせるところがあったのだが──新興宗教の勧誘のような謳い文句に、ホロは見事に引っかかっていた。
ホロとロレンスが湯屋を構えて、もう数えることをやめたほどの春を経ている。
ミューリは既に一人前になり、コルと共に旅に立っていった。当然ロレンスの顔には老いが見え始め、重い荷物を持ち上げる時には腰に注意を払うまでに衰えを感じている。
対してホロは、ロレンスと初めて出会った時からほとんど変わっていない。陶器のように美しい肌も、艶やかなしっぽも、吸い込まれるような綺麗な瞳も、何一つ。
「ぬし、そんなにジロジロと見られたら、わっちの柔肌に穴があいてしまいんす」
「──っ、すまない。少し見とれていた」
「……小僧にしては気の利いた言葉じゃ──しかしわっちは、もはやそのような言葉で煙に巻かれたりせん。兎にも角にも残された時間を無為に過ごすわけにはいかないのでありんす」
なにがそこまでお前を駆り立てているのか、などと問うほどにロレンスは無粋な人間ではない。
老い先短いとは言わないまでも、2人の幸せな暮らしは残り長くないだろう。人間であるロレンスの老死という形で、2人の暮らしはやがて終わりを告げる。
初めから分かっていたことだ。
しかし、ここ数年になってからのホロは慌ただしい。ロレンスが元気に歩けるうちに、2人の思い出をたくさん作っておきたいという考えが透けて見えるのだ。
「……気持ちは痛いほどわかるが、賢狼というのはこんな胡散臭い広告に騙されるタマだったのか?」
「藁にもすがる思いのわっちにとって、こいつは運命の出会いかもしれないんでありんす。それこそ、ぬしと出会えたことに次ぐやも知れぬ!」
ロレンスは苦い顔をする。こうなってしまったホロを動かすには、願いをきくしか道はない。
ロレンスはため息を一つ大きくつくと、諦観の表情を見せた。
「……胡散臭いと思ったことでも、とりあえずは乗った振りをする。誰かが俺を嵌めようとしているなら──」
「そこには必ず、利益が生まれる場面がある。それを横取りしてしまえばいい……じゃな!」
ホロはそう言うと、太陽のようにニッコリと笑う。ロレンスはホロと出会ったばかりの頃に巻き込まれた騒動を思い出した。
「……まぁ、何とかなるだろう。お前がいるならな」
「わっちの願いを聞いてもらうんじゃ。ぬしは大船に乗ったつもりでいるとよい!」
ホロは自らの薄い胸板をトンと叩くと、尻尾を大きくゆさゆさと揺らした。
「どうせダメだって言ったって行くんだろ?」
「おや、わかっておるではないかや。ついにわっちの御し方を身につけてきたのかえ?」
「お前のワガママは叶えてやらないとならないってことを知っただけさ。御し方がわかればどれだけ気が楽なことか──とりあえず夕飯にしないか?朝から働き詰めで、腹が減って死んでしまいそうなんだ」
「とりあえず、今夜までに死んでもらっては困りんす。夕餉の用意はもうしておるから、いつでも構いんせんよ」
「ありがたいことだ」
食事をとり終え、日課となっている帳簿をつける。開業以来、湯屋の売上は順風そのものだ。看板娘というか女将というか、その他諸々の宣伝を担っているホロのおかげというのも大きいだろう。
帳簿を閉じた時、十一時を知らせる鐘の音が鳴った。それと同時にホロがスキップをしながら現れる。その服装を見て、ロレンスは苦笑を漏らした。
「……その服はあの時のか?」
「おや、覚えの悪いぬしと言えど、これは覚えておるのじゃな。感心感心」
「そりゃ、お前への初めてのプレゼントだったからな」
若き日のロレンスが、ホロに初めて買い与えた服。トレ二ー銀貨にして7枚の逸品だ。
「……少しばかり昔を思い出してみるのもいいかもしれないか」
「うむ、それでこそわっちの旦那さまよ。ぬしの昔の服も用意しておるから、すぐに着替えてくりゃれ」
そう言ってホロが差し出したのは、行商時代に使い古した懐かしい服だ。
ホロが急かすままに袖を通すと、長くねむらせていたせいで箪笥の木の匂いが漂う。けれど微かに、胡椒をはじめとした数種類の香辛料の匂いが香った。
「くふふ、ぬしもまだまだ捨てたものではありんせんな。なにせこんなうまそうな匂いがするのじゃから」
「お前に捨てられそうになった時は、頭からスパイスを被って会いに行くことにするよ」
「辛口ばかりは流石のわっちも苦手じゃ。その時にはぶどう酒を樽で持ってくるといいかもしれんな?」
ホロはくつくつと笑うと、ロレンスの準備を急かす。
「そら、善は急げじゃ。はよう準備をしてくりゃれ」
「そんなにはしゃいで、あの紙が子供の悪ふざけだった時に落ち込むんじゃないぞ?」
「大丈夫じゃ。わっちの勘では、きっと良いことがおこると思う」
「……そりゃそうだ。昔に戻ったみたいで、今ですらなかなか楽しい良い気分だしな」
「そうではありんせん!……きっと、すばらしいことが待っておる気がするんじゃ!」
「狼の勘か。頼りにしてるぞ?」
ある程度まとまった量の銀貨金貨を巾着袋に入れる。ホロの大きな胃袋を考えても、かなり長い間呑んで食ってで暮らせるだけの量だ。ロレンスは別にあの紙の宣伝文句を鵜呑みにして、旅に出る準備をしている訳では無い。金を身につけないとおちおち家を留守に出来ないのは、商人のさがだ。
ポケットにはそれなりに高価な砂糖菓子の袋を入れ、最後に護身用のナイフを腰に差した。
「準備は出来たかや?」
「あぁ、問題ない。……さぁ、行こうか」
身も蓋もない言い方だが、ロレンスは件の紙の文言に全く期待していなかった。ホロが駄々をこねたからしょうがない、夜のデートについて行ってやるとするか──そんな気持ちだった。
この夜、狼と人間の番いがニョッヒラの村から姿を消した。