「昨日はほんっとーにすみませんでしたっっっ!」
寝癖だらけの髪を振り乱し勢いよく床に額を擦り付ける曜さん。善子の寝巻を着用している為か、主に胸部の辺りにサイズ違いが見受けられるものの、できるだけそこから視線を外すよう試みる。何故ならば、俺の視線に気が付いた堕天使からの目が痛いからだ。昨日からやけに機嫌が悪い様子の彼女は千歌さんと味噌汁を啜りながら俺と曜さんのやりとりを眺めていた。
善子の様子はさておき、さすがに年上かつ憧れのスクールアイドルに土下座をさせている光景というのはあまり褒められたものではなく、それどころかファンから見たら殺されかねない絵面であるため、とりあえずは一旦彼女に落ち着いてもらうことにする。
「だ、大丈夫ですって曜さん。別にあれくらい気にしてませんから……」
「でもっ! 初対面の男の子に家まで運んでもらうどころか、えっと、その……色々なお世話までさせちゃったって言うのは、さすがに申し訳ないというか、恥ずかしいというか……」
「は、恥ずかしいのはお互い様なんですけどね?」
「ほほーう。あれが世間一般で言う『責任取ってよ!』ってやつなんだね?」
「違うと思う。でも春彦はサイテー」
「アンタら事情知っているくせにややこしくなる発言するのやめてくんない!?」
互いに顔を突きつけてヒソヒソと近所の奥さんよろしく陰口を叩き始めた二人に涙が止まらない。マジで濡れ衣もいいところなんだが。特に善子の辛辣具合が心に突き刺さる。彼女はいったい何にキレているというのか。いい加減理由をはっきりさせないと、お互いの精神衛生上よくない気がする。
決して視線を合わせようとしない堕天使。一方で、ようやく顔を上げた曜さんは何故か少し顔を赤らめると、恥ずかしそうにこちらをちらちら見始めていた。嫌な予感が背筋を走る。
「な、なんでしょう……」
「……何かお礼をさせてくれないかな? さすがに迷惑かけたままというのは……」
「お礼なんてそんな……むしろ俺的には、Aqoursの渡辺曜の柔らかい感触を体験できただけでも――――」
「おいそこの変態糞野郎」
「冗談です。でも、マジで気にしてないんで、お礼とかそういうのは気にしなくていいですって!」
「でも……それじゃあ私の気が済まないというか……」
一瞬ルームシェアの相方から堕天奥義堕天龍鳳凰縛を繰り出されかけるも、なんとかいなして彼女の背中に寄りかかる。クッション代わりにしておけばこいつも動けまいて。
ぷるぷると震える堕天使の頭に顎を乗せつつ、曜さんの処遇を考える。
俺としてはお礼なんて滅相もないし、そもそもいちファンの立場で彼女らと関わりを持てただけで天にも昇る思いではあるのだけれど、彼女的にはこのまま穏便に済ませる気がまったくない様子。根が真面目そうだとは思っていたけれど、この人もしかしたら想像以上に不器用なのかもしれない。以前善子が曜さんのことを「なんでもそつなくこなすけど、要領が良いくせに変なところ馬鹿」と何気に酷評していたが、今ならばその評価が正しいことがなんとなく分かる気がする。変なところで生真面目なのだ、この人は。
さてさて、となると、どうすれば無難に落とし込めるか。
あまり女性の扱いに慣れていない、というかほとんど経験がない俺にこんな選択を求めること自体酷だとは思うのだけれど、そういう状況に陥ってしまったのだから仕方がない。さっきから我関せずの千歌さんや、俺の下でうーうー唸っている善子に協力を仰ぐのもなんか違う気がする。いや、何が違うのかは分からないけれど。
しばしの無言が続く。会話がなかなか進まない為にそろそろ曜さんの涙腺が決壊しかけていた。正直な話泣きそうなのはこっちなのだけれど、それを言うとまた事態がややこしくなりそうだ。
うんうんと自分なりに頭を悩ませる。お互いに不利益を被ることなく、かつ楽しい感じで済ませられる妙案……。
……と、ここで一つのアイデアが舞い降りてきた。これならば、いい感じに締められるのではなかろうか。
早速伝えるべく、曜さんの名前を呼ぶ。
「あの、曜さん。それならなんですけど」
「う、うん……」
「――今度の休日に、内浦を案内してくれませんか?」
「……へ?」
予想だにもしなかったのだろうか、目を丸くしたままパチクリと瞬きを繰り返す曜さん。涙目で驚く姿も可愛らしいのだから、スクールアイドルというのは本当にすごい。
呆気にとられる曜さんを他所に、善子の髪を弄りながら言葉を続ける。視界の端で千歌さんが苦笑しているが、今だけはスルー。
「Aqoursの地元、なんですよね? 善子の実家は沼津らしいんですけど、俺、内浦に一度行ってみたいなって思っていて。だけど、何があるとかよく分からないし……なので、もし予定が合えばなんですけど、俺に内浦を案内してくれると助かるなぁって」
「……そんなのでいいの? あんなに迷惑かけたのに?」
「もともと俺自身そんなに迷惑だとは思っていませんし、むしろ観光案内してもらえるのなら願ったりですよ」
Aqoursのファンとして聖地巡礼の一度は行っておきたいところではあるから、内浦をよく知る人が色々と案内してくれるのであれば願ってもない展開だ。それも、Aqoursのメンバー当人自らとなれば拒否する道理はまったくない。後は、曜さんが承諾してくれるかによるけれど……。
何度か俺と千歌さん、善子を順番に見た後に、曜さんは輝くような笑みを浮かべて大きく頷くのだった。
☆
「それじゃあ、今度の週末に沼津駅集合ねー」
「案内は任せて! 絶対内浦のことが大好きになるスポットに連れていくから!」
そう言い残し、我が家を去っていく二人。最終的に曜さんも元気が出てくれたようで、実に結果オーライだ。今週末の予定も立ったし、今から楽しみである。
「……それで、なんでお前はそんなに不機嫌なのさ」
「べぇっつにぃ、ただ、私以外の女の子には随分と優しいんだなって思っただけですぅ」
「ガキみてぇなこと言ってんなよ……そんな他所他所しい間柄でもないだろ」
「それはそうだけど……私だって、たまには優しくしてもらいたいお年頃なんだから」
「拗ねられても困る」
お団子クッションを抱えたままぶすーっと不貞腐れている善子に溜息をつく。ここ最近イマイチ言動が読めない彼女ではあるが、今日に限ってはそれが顕著だ。ていうか、もう同棲して三か月になる相手を捕まえて優しくしてほしいとか、それもう男友達に求める条件としては色々とアレすぎやしないか。
時刻は既にお昼を跨ごうとしている。今日は確か基礎演習の講義があった気がするが、今から行っても間に合わないだろう。善子も着替える様子はないし、後で教授にお詫びのメールを打っておくと脳内メモに刻み込んだ。まぁ一回くらい休んでも大丈夫だとは思う。
念のため谷沢に欠席の連絡を頼むと、善子の隣に腰を下ろす。タンクトップにショートパンツという部屋着めいた服装だからか、妙に彼女を意識してしまう。もう結構見慣れているはずなのだが……普段より弱い面を見せているせいか、いつもとは違った雰囲気を感じる。
ちら、と横顔を盗み見ると、目尻が腫れていることに気が付いた。最初は寝起きのせいかと思ったが、どうやら事情が違うらしい。悪夢やらを見て泣きじゃくったのかもしれない。普段ならからかうところではあるが、どうしてかそんな彼女から目が離せない。
「……なによ」
「……なんでもねぇよ」
それだけの会話。ただ、意識の外で、俺はいつの間にか、彼女を抱き寄せる様にして肩に手を回していた。何故そのような行為に至ったかは分からない。気が付いた時には、既に彼女の顔が傍に来ていた。怒鳴られる、と一瞬身構えるも、拳が飛んでくる様子はない。ピクッ、と一度肩を震わせると、そのまま俺に促されるように身を寄せる善子。
自分でも理解できない。俺の行動も、善子の態度も。なんで今俺は善子を抱き寄せていて、どうして彼女は俺の胸に身体を預けているのか。何がどのようにしてこうなったのか、おそらくは、この場にいる誰もが理解してはいないのだろう。
だけど、なんというか。
変にいじける不器用な堕天使の事を、「愛しい」と思うようになっていた。
「善子」
「……」
「……いいのか?」
「……好きにすれば。別に、アンタなら嫌でもないし」
「妥協案って滅茶苦茶傷つくぞ」
「野暮なこと言わせんじゃないわよ。少しは察しなさい」
「……分かったよ」
それ以上、特に何も言わなかった。悪態をつくわけでもなく、甘言を囁く訳でもない。きっかけも、理由も、結論も。普通ならば何かしら存在するはずの何もかもが空虚なまま、身を寄せる堕天使の顎に右手を添え、傾ける。彼女らしからぬ殊勝な態度に虚を突かれるも、頬を朱に染め目を閉じる善子相手に無駄な感情は捨て去った。おそらく、今は不要なものであるから。
窓の外からしとしとと雨の音が聞こえてくる。梅雨入りも本格化し、じめじめとした空気が部屋の中にも染み込んでいた。強い湿気に嫌気が差すものの、この火照りは蒸し暑さとは別に原因があるように思える。
絹のようにきめ細やかな髪が腕をくすぐる中、そっと顔を寄せて。
「ん……」
――――その後のことは、よく覚えていない。
現実味のない温もりと、水気にふやけた身体。部屋中に散乱する衣類。
……そして、網膜に焼き付く彼女の淫靡な表情と、鼓膜を引っ掻くような嬌声。
ただ、それだけだ。
関係性が変わる瞬間は書いてて楽しい。