「ぐへへ……つれないこと言ってんじゃないわよずら丸ぅ……」
「…………」
突然だが、俺は今人生最大のピンチに襲われている。
ピンチとは言っても命の危機だとか、人生を左右するターニングポイントだとかそういうのでは一切ない。おそらくは我慢するだけで乗り越えられる程度の事象であるし、客観的に見るならばそこまで切羽詰まったものでもないのだろう。それくらいで何を、という輩もいるかもしれない。
だが待ってほしい。現在進行形で俺の身体を包み込む柔らかな感触と甘酸っぱい女子特有の芳香が、必ずしもプラスに働くとは限らないのではないだろうか。先程から耳元で発される善子の間延びした声が、毎度のように心地よいものだとは断言できないのではないだろうか。
もう一言で言ってしまうと、今俺は一つの布団の上で善子に思いっきり抱き締められている。
……違うのだ。決してそういう意味合いではなく、純粋に下心なく抱き締められているだけだ。そう、言うならば今の俺は抱き枕扱い。男女の営み的なアレではないことを先に声を大にして主張しておきたい。羨ましいと石を投げるならばそれもいいだろうが、すっかり夢の中に埋没している善子の抱き枕状態となっている今の俺の精神状態を鑑みてからにしても遅くはないはずだ。
そもそも寝る前段階で、布団は二枚敷いていたはずだ。少々手狭ではあったものの、それぞれの布団を敷くくらいの余裕はあった。無論、密着しなければ寝られない程狭くもない。これは安心して寝られるな、と安堵したのも記憶に新しい。善子はどうやらそういった機微に疎い人間のようで、「こういうのって合宿みたいで楽しいわよね!」とかありえないくらい見当違いなことをのたまわっていた。人の苦労も知らんとこの中二病は呑気な事を。
それからは特に問題もなく消灯後就寝。俺はあまり寝つきのいい方ではないから、目を瞑ったままテキトーに物思いに耽っていた。東京生活初日から随分と癖の強いイベントが始まったもんやね、とかなんとか考えていた矢先、何やら徐々にこちらへと近づいてくる気配を感じたのだ。嫌な予感がビビビと走る。まさかな、と内心ヒヤヒヤしながら肩を竦め、とりあえず一息置いてからゆっくりと目を開けた。
善子の顔が鼻先2センチの距離にまで接近しているなんて、誰が予想しただろう。
「ぬっふぅ」
想像を遥かに超える事態に晩御飯の引っ越し蕎麦が鼻から逆流するかと思った。引っ越し早々逆流し素麺とかさすがに笑えない。なんとか喉元辺りで押しとどめた俺の努力を誰かに褒めてほしいけれど、今この場にはポンコツ堕天使しかいない為、セルフ称賛に留めるしかなかった。控えめに言って辛い。
そこからはあれよあれよという間に手足が伸びてきて、声を上げる暇もなくすっかり善子の腕の中である。控えめとはいえ平均くらいはあるらしい善子のおっぱ……胸が目の辺りを包み込んでいる状態で早30分。善子は相当寝相が悪いらしく、俺を抱きすくめたまま時折身じろぎする為、彼女の柔らかさをいちいち意識しなくてはならない俺だ。お願いだからこれ以上身体を押し付けないでほしいと懇願するものの、既に夢の中でずら丸さんとやらとランデブーしている彼女が応答することはない。ていうか誰だよずら丸。どんな流れを経ればそんな田舎っぽいニックネームが生まれるんだよずら丸。逆にどんな人か気になってきたよずら丸。
すっかり絶望しか見えない現状ではあるが、このまま泣き寝入りしているわけにはいかない。なんとか脱出して安心安全な快眠ライフをいち早く獲得する必要がある。ただでさえ疲れているのに、善子の抱き枕状態で過ごすというのは……いや、この柔らかさやおっぱいに包まれる幸福感を無条件で体験できるのは願ってもないけれど、迂闊に手を出せないこの状態で放置というのはなかなかに鬼畜の所業だ。俺の理性と世間体を守る為にも、総力を挙げて堕天使を引き離さなければなるまい。
まずは力ずくで抜け出す方法を試してみる。俺の頭を包み込んでいる腕を掴むと、そのまま引き上げて下から頭を引き抜――――
「……んぁっ……」
――――かずにそれ以上の抵抗を諦めて再び善子の胸に顔をつけたままの体勢で待機せざるを得ない茅野春彦18歳。
神様とか仏様とかすべての万能存在に恨み辛みをぶつけたい。俺が何か悪いことをしましたか。割と誠実に生きていたはずなのに、どうして俺がこんな生殺し生活を過ごさないといけないのですか。こんなの拷問にも程がありますよ。
初対面から危機感のない奴だなとは思っていたが、まさかここまでゆっるゆるだとは。もう天然とかそういう次元をとっくの昔に飛び越えている気がする。よくもまぁ今まで大した事件に巻き込まれず生き抜いてきたものだと割と真面目に尊敬の念を抱きそうになった。よっぽどしっかりとしたボディガードがついていたのだろう。こいつの場合ふらふらっと暗がりに連れていかれたとしてもまったく不思議ではない。
……なんかもう、ここまで来たらむしろ触ってもいいんじゃなかろうか。今ならば不可抗力という言い訳もできる気がする。先程から気にはなっていた感触を、しっかり手で感じても罰は当たらないんじゃないだろうか。
無意識に生唾を呑み込む。ゆっくりと右手を膨らみの一つへと伸ばしていく。顔を胸で圧迫され続けていた為か酸素不足で頭がぼーっとしていた。うまく思考が働かない。虚ろな意識で、本能のままに善子の胸を揉みしだ――――
――――春彦と一緒に住むのはまったく問題ないってこと。だって、アンタ優しいもの。心配してくれてありがとね、春彦。
「――――は」
すっと手を下ろす。全身の力が抜ける。強張っていた身体が楽になると、そのまま彼女の胸に顔を預けたまま目を瞑った。溜息が零れる。あぁくそ、どこまでも調子の狂う同居人だ。無防備すぎて、俺の神経がガリガリ削られていく。マジで、なにしよんやろな俺。
前述の台詞と共に向けられた彼女の笑顔が脳裏に浮かぶ。俺に全幅の信頼を置いていた、曇りのない笑み。かつてあそこまで人に信頼されたことがあっただろうか。あそこまでの純粋無垢な笑顔で、微笑まれたことが、果たして。
「春彦ぉ……私のリトルデーモンになりなさぁい……」
「なーんがリトルデーモンかって。意味分からんこと言っとる場合やないばい、ガチで」
間の抜けた声で場違いな寝言を漏らす善子に一応返事を残し、身体の自由を手放す。もう睡眠時間がどうこうとかくだらないことは二の次だ。今はこいつのやりたいようにやらせてやろう。どうせ言っても聞きはしないのだし、大人しくすべてを受け入れた方が気持ちも楽になるはずだ。
未だに寝言を放ち続けている善子の脇腹を軽く叩いて反撃だけしておく。今夜は随分と長い夜になりそうだ。
☆
「春彦、アンタなんでそんなに疲れ切ってんのよ。目の下の隈もえげつないし、昨日はちゃんと寝た? 寝不足は元気の大敵なんだから、しっかり体調管理しないと駄目よ?」
「へいへい……分かってますよ……」
眠気と疲労ですっかりグロッキーな俺を見た善子の第一声がそんな感じで、俺としてはもうどうにでもなれって感じだ。彼女のソフトな感触が未だに離れないのでマトモに顔すら見れない。こんな夜が後4年間も続くのかと思うと憂鬱が心を埋め尽くす。睡眠導入剤でも貰ってこようかな、と密かな決意を胸に抱いた。
布団を端に寄せ、朝食の準備に取り掛かる。少し早めに起床した善子が既に作っていてくれたらしく、味噌汁のいい匂いが鼻腔を擽った。白飯と味噌汁というシンプルなラインナップだけれど、疲れた身体に染み渡る。
「ちゃんと料理できたんだな善子……意外だ……」
「できるって言ったでしょ! 堕天使たるもの、家事くらいは完璧にこなさなくっちゃ!」
「あ、このしじみ美味い」
「聞きなさいよ!」
日本スルー力検定3級の俺の見事なスルー力に叫ぶ善子だが、昨夜のことを考えるとこれくらいの反撃は許容してほしい。むしろこの程度で済ませているのだから感謝さえしてほしいくらいだ。あの時の俺の精神的ダメージはなかなかに強烈なものであったことをこの場を借りて述べさせていただく。
「そういえば春彦。アンタ今日何か用事あったりする?」
「いや、特にないから適当にぶらつくつもりだったけど」
「それは何よりね。ちょうどよかったわ」
「すまん、意味が掴めない」
「アンタの今日の予定がたった今決定したって言う事よ」
とても理不尽なことを言われている感覚はあるものの、あまりムカつきはしないのは善子の人柄ゆえだろうか。子供に駄々をこねられているというか、威張られているというか……微笑ましいという気持ちが前面に来てしまって、なんかもう可愛い。
しかしながら、予定が決まったとはどういうことだろう。買い物についてきてほしいとかそういう類のリア充イベント発生の予感がする。あ、でも善子だからそれも微妙だな。期待を裏切られる未来が見えている。
期待半分不安半分のバフ〇リン状態で彼女の言葉を待っていると、胸を張ったドヤ顔でいつになく嬉しそうに言い渡された内容が、以下の通りだ。
「今日は私の眷属の一人、リリーに会いに行くわよ! 元々遊ぶ約束していたんだけど、アンタも暇なら一緒に行きましょ! いっぱいいた方が絶対楽しいわ!」
リリーって誰だよ、とかいう無粋なツッコミは大人しく呑み込んでおこう。ここで余計なことを言うと話が進まなくなるのは昨日の会話で把握済みだ。どうせ断っても無理矢理連れていかれるのだろうし、詳細は実際に会ってみてから確認すればいい。
というか、善子とも出会って一日だというのに、早速自分の友達と会わせるとはこの女相当の手練れと見える。コミュ力があるのかないのか……特に何も考えていないという評価が一番合いそうなところも彼女らしい。堕天使(笑)は自由気ままな生き物らしいし。
だが、彼女の友人というものに興味はある。善子の事も色々聞いておきたいし、これは良い機会かもしれない。せっかくだし、ここは便乗させていただこう。
「ん、りょーかい。それじゃあちょっと良い服着ていこうかね」
「いい心がけね! 私のリトルデーモンたるもの、常に最高のパフォーマンスを維持しておきなさい!」
「誰がリトルデーモンか」
「さぁ、楽しみね!」
「聞いちゃいねぇ」
心底楽しそうに快活に笑う善子。そんな彼女にいちいち何かを言うのもアホらしく思えた俺は、大人しく出かける準備に勤しむことにした。
略称;だてけん!