Devil May Cry ~Flaming Heart~ 作:ユート・リアクト
「おれたちは死を商う。だが、たとえ死の谷を歩こうとも、悪魔など恐れない。なぜなら、おれ自身が悪魔だからだ」
――小説『フルメタル・ジャケット』より
1
人の身体がひしゃげる時の断末魔も、どうやら同じように歪んだ声になるらしい。
「げぇぇ」だの「まぺぇ」だのと、悲鳴とも言えぬ奇怪な声を漏らして男の体がくの字に折れ曲がる。
ただし、くの字といっても、前屈のように前向きにではない。エビ反りのように「後ろ向き」に折れ曲がってしまったあたり、文字どおり救いようがなかった。背骨は完全に粉砕しており、力任せに洗濯物よろしく折りたたまれたせいで男のかかとと後頭部はくっ付いてしまっていた。
場所は都内の地下深くに内蔵された特設アリーナ。決して陽の光が届かぬ漆黒のアンダーグラウンドの世界での出来事だ。
巨大なホール会場に設置されたいくつもの照明灯のライトの中、その残虐なショータイムは行われていた。
広いアリーナは、驚くほど大勢の観客で埋め尽くされていた。彼らの望みはただ一つ。リングという檻の中で飼われた二匹の猛獣が殺し合い、どちらか一匹が派手に血反吐ぶちまけてくたばるのを見物する事だ。
そして今まさに、四方を金網に囲まれたリングの中心で、ほとんど悪趣味なオブジェとなった死体を眺め、観客どもは興奮に叫び狂っていた。
この血生臭い催し物が、いつ創始したのかは定かではない。むろん運営しているのは非合法な組織だが、それを気にする者はいなかった。会場に足を運んでいる観客は、その大多数が裏社会に住まうアウトロー達だからだ。
その筋の立役者から殺しを商う凶手、古株のマフィアやグループ、名の売れた荒事師、麻薬ディーラー、武器弾薬の密売人、運び屋、高級娼婦、女衒、政界に影響力を持つ裏社会の顔役まで。そういう後ろ暗い業種の有力者やその取り巻きが、身なりの良い格好をしてリングサイドの特等席にたむろしていた。
他にもアリーナを埋め尽くす観客のほとんどは、一応は一般人のくくりで収められる連中だったが、娯楽のためなら人死にを見るのもやぶさかではない冷血な人種ばかりだ。誰一人として善良な人間などいなかった。
こういう非合法な格闘ショーは、お約束として「他言無用」というルールが暗黙の了解である。警察機構やマスコミの耳に入ると非常に厄介だからだ。催し物としての存続すら危ぶまれる。
しかし、ここの違法ファイト・クラブはその限りではなかった。ここに招かれるビッグ・ゲストの中には、警察機構の大幹部もいたからだ。つまりは、そういうことである。汚職、賄賂、癒着。金の魔力にかかれば如何なる悪事も横行する、そんなご時世である。そもそも、これほど大規模なショーが秘密裏のままであり続けること自体が不可能なのだ。
そういった様々な思惑も絡み、この地下イベントは無法地帯に住まう人々の欲望とストレスの解放を掲げる催し物として、大変な人気を博していた。
2
「みんな盛り上がってるか! 返事がないぞ、みんな盛り上がってるか!」
ずんぐりとした体型のリング・アナウンサーが、マイクを片手にそう叫んだ。
ウォォォッ、という会場中の歓声が、その返答だった。
「さあて、ご来場の血に飢えた格闘ファンの皆さん、お待たせしました!」
アナウンサーが興奮した調子で叫ぶ一方で、係員の男たちがリングに打ち捨てられている死体の片付けにかかっていた。
その様子を、この違法ファイト・クラブの王者がコーナーにあるスツールに座りながら見守っていた。
少なくとも身長二メートルはある、体重一五○キロの筋肉の塊だった。ボディビルダーも顔負けの、これ見よがしなマッチョ体型を派手なコスチュームに包み、分厚い胸板は汗でてかっている。およそ人間とは思えない桁外れの肉体だった。毎日の食事にステロイドでもかけているのではあるまいか? こいつは糞の中にも筋肉が通っているに違いない。
リングネームをミスター・キングという彼は、本名不明。戦績は全戦全勝の絶対王者だった。
ただでさえ厳つい顔つきは、もつれた黒髪とヒゲ面に彩られ、さらに暴力的な威圧を放っている。全盛期の頃のジョージ・フォアマンも、この凶相には及ぶまい。それは見る者を震え上がらせる人殺しのような顔だった。
否――フォアマンとは違い、ミスター・キングは実際に人殺しだった。見るも無残に折りたたまれ、係員によって運び去られていく挑戦者の死は、まぎれもなくキングの為した所業なのだ。
ボネットと呼ばれるビキニ水着の美女たちに取り囲まれ、水を飲ませてもらったり汗をスポンジで拭かれたりと世話を受けながら、この危険極まりないチャンプは鼻息も荒く次の獲物の入場を待ち構えていた。
試合の形態は、王者が挑戦者を迎え撃ち続ける勝ち抜き方式だった。
「いよいよ本日のメインカード! 全戦全勝を誇るミスター・キングに、史上最年少の若きチャレンジャーが挑みます」
今日だけでも前座として六試合をこなし、その結果六人もの犠牲者を出したキングだったが、これといって疲労した様子はなかった。むしろ早く戦わせろとばかりにスツールから立ち上がり、艶めかしいボネット達をリング上から退かせ、しきりに足踏みしている。
「その挑戦者の年齢は、なんと十七歳! おいおい、たしかに年齢制限はないが、いくらなんでも若すぎるだろ。この少年は自由意志での参戦らしいが、命は大事にするもんだぜ。ま、そう忠告したところで、もはや試合は中止にできないがね」
本日のラストチャレンジャーの情報を読み上げるアナウンサーの言葉に、会場内がどよめく。
この違法ファイト・クラブへの参加方法は二つある。
関係者にスカウトされるか、自分の意志による自由参加だ。
後者の自由参加組の挑戦者は、あまり観客受けが良くない。凶悪犯罪の死刑囚や格闘家崩れの挑戦者が多いスカウト組と比べると、どうしても見劣りがするからだ。
実際、会場内のどよめきは落胆の色が強かった。観客が見たいのは白熱したファイトである。だが、相手はこの違法ファイト・クラブで長きに渡り王座に君臨する絶対王者だ。強力で勇敢な挑戦者の登場が望まれていた。しかし、たった十七歳の若造では期待を預けることはできない。
「さぁ、それでは次の犠牲者の登場だ」
照明が暗くなり、選手入場口へとスポットライトが当てられる。
会場内に響き渡る、クラシックとヒップホップが融合したような大音響。
照射されたカーテンに、人型の黒いシルエットが浮かんだ。
「最強ミスター・キングに挑戦するのは、このクレイジーな若武者……」
リング・アナウンサーは深く息を吸ってから、言った。
「恐るべき「炎の男」――黒峰キョウだ!」
挑戦者と観客を隔てる紗幕が、その呼びかけを合図に左右に開いた。
そうして入り口に現れたその少年の姿に、あからさまな失望のため息が客席のそこここで上がり始めた。
仮にも本日のメインを張るチャレンジャーなのだ、若いと言っても早熟した米国人(ヤンキー)なのではあるまいか――そんな一抹の期待にかけていた観客の希望も、これで見事に裏切られたようだ。
アナウンサーが叫んだ名前からも察しがつく通り、その少年はよりによって日本産のイエローモンキーだったのだ。
一七八センチの身長に、七○キロに届くかどうかの体重。決して小柄ではないが、それは同じ日本人を基準にした場合の話だし、大巨人もかくやというミスター・キングと比べると遥かにみすぼらしく見える。子供と大人も同然の体格差があった。
ボサボサの黒髪に、黒のシャツと深紅色をした豚革のジャケット。タイトな白いスラックスをはいた姿は、一見どこにでもいる一○代の若造にしか見えない。
テンポの速いヒップホップの曲に乗って紅い少年――黒峰キョウがリングへと続くスロープの花道を歩き始めると、観客のブーイングが地鳴りのように会場に鳴り響いた。うんざりしたように口汚く罵る者もいれば、キョウに向かって氷入りの紙コップやスナック菓子を投げつける者もいた。
明らかに、お呼びではなかった。
みな一様に殺気立ち、この役不足な挑戦者に対してこれでもかとブーイングを浴びせかける。
まるで食肉工場に迷い込んだ白い子羊のように危険な立場のキョウは、しかし場の雰囲気に反して、むしろリラックスしているかのようだった。左右の客席を見回しながら、愛想良く笑みすら振り撒いている。
その不敵な態度が尚のこと観客の反感を買ったらしい。スロープで待機していたビキニ水着のボネット達も不快感を強めた様子だった。
「なにニヤついてんのよ!」
「お呼びじゃないんだよ、ふにゃちんのガキんちょが」
「女の抱き方を覚えてから出直してきな!」
美女たちは見た目の良さとは裏腹に、口汚い罵詈雑言で容赦なく年端もいかぬ少年を詰る。
だが、キョウの不敵な笑みは揺るがない。むしろ余裕すら持って丁寧な対応をしたほどだ。「ありがとう、ボインちゃん」
ボネット達の一人が、乱暴な手つきでキョウの腕を掴み上げた。
「こんな貧相な体しちゃって、女の一人も満足させられないんじゃ――」
すると彼女は、なにか熱いものにでも触ったかのように、さっと手を離した。
ジャケットの袖越しに触った前腕の感触が、まるで鋼のように硬かったからだ。筋肉組織の一本一本が金属製の繊維で編まれたかのように、その腕は信じがたい硬質感を備えていた。
呆気に取られた女を素通りして悠々とリングへと歩き去っていくキョウは、まるで散歩でもしているかのように足取りが軽い。
鋼のような手応えに未だ呆然とする女はその後ろ姿を見送った。こうして見ると、ジャケット越しにも少年の背中が広いことが窺えた。
ボネット達の中で独りだけ立ち尽くした彼女は、あり得ないとは思いながらも、大番狂わせの予感を感じ始めていた。
3
リングの中央で仁王立ちになったミスター・キングは、まじまじと目の前の挑戦者を観察した。
整った顔立ちと、ほのかに赤みがかった黒髪。そのダークブラウンの髪は、ボサボサに跳ねては乱れ、見方によってはどこか炎を連想させる。
服装のほうも、紅に黒に白という組み合わせの、なにかと目に痛い色彩を放つラフな格好である。べつだん服装に関して特別な規制はない。しかし、この暴力の祭典たるリングで見るには、やはりそのジャケット姿は、あまりに「場違い」だった。
が、なにより目を惹いたのは、こうして正面切って対峙してもなお不変の笑顔か。
この獰猛なミスター・キングを前にして笑っていられる黒峰キョウは、よほど肝が据わっているのか、あるいはどうしようもない馬鹿なのか。
いずれにせよ、キングの処方に変わりはない。たとえ子供が相手でも、情けをかけるチャンプではない。
「来る場所を間違えたな、坊主。ここはライブ会場じゃねえんだぞ?」
現実の非情さを思い知らせるように、キングは言った。
約十六メートル四方と広めのリングを、高さ六メートル余りの金網に囲まれたここの格闘ショーは、バーリ・トゥード(何でも有り)ルールの、いわば戦争なのだ。
噛みつき、目潰し、大いに結構。骨折や金的ぐらいで騒ぐな喚くな。おふくろの悪口を言おうが一向に構わない。
時間は無制限。審判員がいないからレフェリーストップもなく、降参も無効。逃亡なんてみっともない真似はリングを囲むスクエアゲージ(四角金網)が許さない。
決着は、どちらか一方が死ぬまでの、正真正銘、文字通りの殺し合い……
そのコトの重大さを、ミスター・キングは思い知らせてやりたかった。
長きに渡り王座に君臨するチャンプは、この不敵な少年の締まりのない顔つきが気に入らなかったのだ。身の程を知らねえクソガキめ、たっぷりと可愛がってやる。泣いたり笑ったりできなくしてやる……
その苛立ちを知ってか知らずか、キョウはますます笑みを深めてこう言った。
「あぁ、そうだな。オレが叩くとしたら、それはドラムじゃなくてアンタの鼻っ面だろうさ」
キングは一瞬、言葉の意味を理解できなかった。自分の聞き間違いかと耳を疑ったほどだ。
だが、そうではないと目の前の不敵な笑みが物語っていた。
ミスター・キングは怒りの唸りを発した。じっとりと汗をかいた赤ら顔がさらに真っ赤になった。
いや、赤くなったのは顔だけではなかった。
キングの激情を表すかのように、その瞳が不気味な赤光を放っていた。
まるで血のような炎のような地獄のような、この世のものとは思えぬ真紅色の眼差し。
「くそったれの、こん畜生め……生まれてきたことを後悔させてやるぜ」
怒れる絶対王者はそう言って自分のコーナーへと戻り、今にも飛び出しそうな猛牛のように落ち着きなく足踏みを繰り返した。
開始のゴングがこれほど待ち遠しいのは久しぶりだった。
早く、早く試合を始めろ……その気持ちは観客も同じだった。
そして、会場のボルテージが最高潮に達した瞬間、その熱気を爆発させるかのように、ついにようやく試合開始のゴングが鳴り響いた。
キングはいきなり突進した。
試合を長引かせる気はなかった。速攻で終わらせるつもりだった。
長らくチャンピオンをやっているミスター・キングは、観客を魅せるショーマンシップというものを心得ている。
たとえ秒殺が可能な格下が相手でも、ある程度は故意に試合を引き延ばして見せ場を確保し、十分に観客を楽しませてからようやく仕留めにかかる。そうでもしなければ相手が弱すぎて見世物として成立しない。それは最強のチャンピオンとしての因果な宿命だった。一人相撲では面白くないのだ。先ほどの試合も、そういう理由でじっくりと相手を痛めつけてから背骨をへし折っていた。
だが、今回ばかりはショーマンシップに従事する気は毛頭なかった。
一秒でも早くあのニヤケ面を打ち壊したかったのだ。
肩から突撃する前傾姿勢で、いまだ自分のコーナーに突っ立ったままの黒峰キョウに渾身のタックルを仕掛けるキング。巨体に似合わぬ敏速な動きだった。パワーとスピードがあれば、つまりはそれだけで勝負は決する。理不尽を嘆かずにはいられない理論ではあったが、極めて単純な真理でもあった。ミスター・キングが長きに渡り最強の座に君臨し続けている理由が、ここにあった。
実際、黒峰キョウとキングの間には埋めがたい体格差があった。それが故のパワーとウエイトの違いは元より、そこにスピードが加わってしまえばキョウに万に一つの勝ち目もなかった。技巧も戦略もなく、あとはただ純粋な圧倒的力にものを言わせて生意気な小僧を叩き潰すものと――
ばたん、という重々しい音がして、気がつけばキングはなぜか照明の光も眩いアリーナの天井を見上げていた。
「……?」
わが身に何が起こったのか理解できず、しばしキングは胡乱に瞬きを繰り返すしかなかった。しんと会場が静まり返っていることも今は意中になかった。
ふいに己の鼻柱に違和感を覚え、そこに手を伸ばす。ドロリとした感触が指先に返ってきた。
それが鼻骨が砕けたことによる流血だと認識が追いついた瞬間、ようやく機能を再開した痛覚が激しい痛みを訴え始めた。
ふがふがと苦しげな呼吸を投げるキングは、それでもまだ事態が把握できない。鼻が折れている。それは判った。しかし、その原因がどうしても理解できない。
その決定的な瞬間に気を失っていたキングはともかく、つぶさに全てを見届けていた観客は言葉もなく絶句していた。
何が起こったのかを説明すれば――ミスター・キングの体当たりが直撃する刹那、申し合わせたようなミートタイミングで飛び出したキョウの右ストレートが、カウンターで相手の顔面に炸裂し、その威力でキングの巨体を跳ね返したのだ。キングが一瞬気を失って仰向けに昏倒したのも、それが故である。
そこでようやく自分が無様に倒れているものと気づいた王者は、むくりと上体を起こした。
ひん曲がった鼻柱を押さえて前を見ると、黒峰キョウが堂々と佇んでいた。
先ほどと変わらぬ立ち位置で。先ほどと変わらぬ微笑みで。
「宣言通り、鼻っ面を叩いてやったぜ。筋肉ダルマ」
どんなもんだ、とばかりにキョウが右拳を胸の前で構えたポーズを決めると、にわかに会場がざわめき立ち、やがて思い出したように興奮した歓声が上がり始めた。
この意外極まる展開に、観客は期待を込めた視線をリング上へと……より正確に言えば、黒峰キョウへと送る。
こいつは、やってくれるかもしれない。
会場内の期待と興奮の眼差しを一身に受ける今夜の「主役」の姿を認め、キングは怒り任せに立ち上がった。
屈辱だった。プライドが傷ついていた。
怒りのあまり感情のメーターが一巡し、かえって冷静になったミスター・キングは、声を軋らせて笑い始めた。
ことのほか静かな感情の発露は、それゆえに喩えようもなく不穏で、不気味だった。
「よくも、やってくれたな。小僧。もう容赦しねえぜ……」
くぐもった笑い声で言いながら、手負いの猛獣が血走った眼差しを向ける。
キョウを凝視する双眸は、まるでギラつくように強く……いや、本当に光っていた。
ミスター・キングの瞳が、この世のものとは思えぬ熾火の眼光で真っ赤に輝いている。
その異様なキングの視線を、しかし臆する事もなく睨み返していたキョウだったが、むしろ未だ止めどなく垂れ流れる鼻血のほうが目を惹いたらしい。
わざとらしく笑いを堪えながら、その負傷を指して挑発を投げる。
「鼻血を出すたァずいぶんと人間的だな。次は涙でも流すか?」
「イヤ、涙ダケデハ腹ノ虫ガ治マラヌ……」
愉快そうに震えるキングの肩が、いや全身が、メキメキと音を立てて膨張していった。
人間の形をしたものから、なにか別のものへ。
化けの皮を内側から破り捨て、おぞましい怪異がその正体をさらけ出す。
「ヤッテヤルゾ……キサマヲ殺シテ、血ノ雨ヲ降ラセテヤルノダァァッ!!」
それはもう、人間じみた声を出すこともやめていた。
いや、出そうと思っても不可能だっただろう。
バリバリとミスター・キングだった皮を破り捨てて姿を現したそいつの頭部は、まぎれもなく山羊のそれだったからだ。
人間に擬態していた時よりもさらに肥大化した三メートル強の巨躯は、そこだけ妙に人間らしい直立二足歩行でどっしりと立っている。
が、やはり山羊らしく四肢は毛むくじゃらで、その「後ろ足」はちゃんと蹄を備えてキャンパスを踏み締めている。
あり得ない、この世に存在し得ないイキモノ。
捻じ曲がった一対の角と、ほとばしる鮮血(ブラッド)のような色の剛毛を生やし、人の姿をしていながら、頭部だけは人ならざる格好の、悪夢のような姿。
その半人半獣めいた異形は、魔女の夜会で淫猥なる闇の契約を迫り、欲望の解放を掲げて多くの魂を堕落させてきた伝説の「悪魔の山羊」そのものではないか。
「ゴートリング――接吻や性交を通じて魔女に力を与える「山羊の一族」か」
なにやら物知り顔でキョウは静かに呟いた。
「場違い」ならぬ「時代違い」にも、現代のリングに突如として出現した神話の住人。
その怪異なる夜の化け物の登場に、だが観客はべつだん恐怖に震え上がることはなかった。むしろ会場内は熱狂の渦に飲み込まれていた。
彼らのチャンプが人ならざる異形へと変じたにも拘わらず、この変貌さえもパフォーマンスの一つとして受け取ったのか、あるいは最初からミスター・キングの正体を知っていたかのように、まるで恐怖を感じていない。
思えばこのリングも、たかが人間同士の戦いの場にしては少々、広すぎるような感があった。
異様な盛り上がりを見せるアリーナの喧騒の中、周囲を金網に囲まれた広めのリングの上で、黒峰キョウと鮮血(ブラッド)のような体色をしたゴートリング――さしずめブラッドゴートといったところか――が対峙する。
「……ックックック……コノ姿ニナッタカラニハモウ、キサマノ命ハ残リワズカダゾ。小僧……」
先ほどよりも大いに自信を増した様子でブラッドゴートがそう脅しをかけると、キョウは失笑も露わにかぶりを振って、
「なーにを思い上がってやがるのかねぇ、このヤギ頭は。丸焼きの下拵えは済んでんだろうな?」
言いながら、やおらキョウは紅いレザージャケットの袖をまくり始めた。
肘の辺りまで剥き出しになった両腕の前腕には、硬くしなやかな刃を思わせる筋肉と束と、加えてもう一つ――
「焼き加減はどのくらいが好みだ。ミディアム? ウェルダン? それとも真っ黒な炭クズがお望みで?」
うねくる蛇のような龍のような、あるいは踊り狂う悪魔のような、禍々しい紋様をしたトライバルタトゥーがあった。それが手の甲までびっしりと施されていた。
目の錯覚だろうか、ほんのりと脈動するように赤く発光しているそのタトゥーは、おもむろにキョウが右構えのオーソドックス・スタイルでファイティングポーズを取ると、ふいに輝きを増し――次の瞬間、轟々と燃えさかる炎を噴き出した。それは目の錯覚ではなく、たしかな現実だった。
リング上を荒れ狂う炎の渦は、やがて確かな指向性を持ってキョウの両腕に集束を始める。
驚愕の念に瞠目するブラッドゴートの目の前で、ついにそれは黒峰キョウの両腕を覆うガントレットとして形を成した。
ひどく有機的なフォルムをし、悪魔の隠語であるドラゴンの顎(アギト)を模した、この世のものならざる闇の装具。
その名を焔拳「イフリート」。荒ぶる炎の魔霊が物質化し、装着者に驚異的な打撃力と独特の格闘技術を授ける炎の篭手。
「さぁて、お互いにウォームアップも済んだことだし、そろそろショータイムを始めようぜ。遊びじゃねえ、マジなやつをな!」
黒峰キョウの表情が、変わった。非常に精悍な凄みを帯びた、戦闘モードの顔つき。その顔に浮かぶ不敵な笑みも、今はどこか壮絶なものに見えた。
「派手にいくぜ!」
その咆哮に呼応するかのように勢いを増す紅蓮の炎を携え、今度はキョウのほうから攻撃を仕掛けた。闘争心の塊と化した野獣が、噴出した溶岩流のような激しさで敵へと襲いかかる。
よりエキサイトに、よりアグレッシブに、第二ラウンドのゴングが鳴り響いた。
4
観客は、ただ固唾を飲んでリング上の攻防戦を見守るしかなかった。
互いに切り札を開帳した両者の戦況が、あまりにも予想外だったからだ。
真の姿を現したミスター・キングの実力は、馴染みのファンの知る限りでは比類なき強さである。
これまで多くのチャレンジャーを屠ってきたし、中には今回のように本気を出させた強敵も少ないながら存在したが、それもやはり返り討ちに遭ってキングの前に敗死した。
ブラッドゴートと化したチャンプの猛威ときたら、それこそ太刀打ちできる者がいないかのようだった。
それが今、自分より遥かに小柄な若者を相手に後退し続けるしかなかった。
そう、その戦いは確かに文字通り攻防戦だった。守勢に徹するしかないブラッドゴートを、キョウが一方的に攻め続ける試合展開だった。
しかし、だからといって黒峰キョウがまったく攻撃を受けていないわけではない。
むしろ逆だ。
攻撃を受けた回数で言えば、いまだ「一撃も被弾していない」ブラッドゴートと比べて、はるかにキョウのほうが多かった。
イフリートを解放してからの黒峰キョウは、前に出始めると同時にプレッシャーをかけ、戦いの主導権を奪いにかかった。
むろん、そう易々とリングジェネラルシップを許すチャンプではない。むしろキョウが無造作に突っ込んでくるものだから、その出鼻をくじく左ストレートのカウンター・パンチが容易にヒットしたほどだ。しかも直撃の位置は急所のこめかみ側頭部。タイミングも角度も何かもが完璧な強打だった。
――話がおかしくなったのは、それからだ。
丸太のような剛腕から繰り出されるブラッドゴートの一撃は、ただの人間がもし頭部に食らってしまえば、首から上が消し飛ぶほどの威力があった。
その威力もむべなるかな。ブラッドゴートは、重量にして四○○キロに迫る超巨体に加え、この世ならぬ人外の怪力を備えているのだ。その一撃を受けた時点で、体格的に二回りも三回りも劣っている黒峰キョウの首から上は、それこそ魔法のように消失する。
はずだった。
ところがキョウの頭は消し飛ぶこともなく、そればかりか首回りの力だけで耐えたと見えて反撃すら放ってきたのである。
山羊らしく動物的なレベルの反射速度で、なんとか回避に成功したブラッドゴートは、慌てて間合いを離して仕切り直そうとした。
が、その時点ですでに戦いのペースは完全にキョウが掌握したと言えよう。それからの展開はワンパターンの繰り返しだった。
ブラッドゴートが距離を取ろうとすれば、すかさずキョウが肉薄して相手を捕らえにかかる。そうして接近してきたキョウの攻撃をかわし、また間合いを離す。
その結果、前述の攻防戦へと相成ったのである。しかしその実、猫がネズミをいたぶるように一方的な戦況だった。
「キヴィィッ!」
どうにかキョウの前進を止めようと、相手の打ち終わりの隙を突いてブラッドゴートが見事な右フックを叩き込んだ。
ハンマーで殴りつけたような重々しい音が鳴り響く。
強烈な右フックの直撃に、キョウの顔面がしたたかに揺れる。……が、それだけだ。これ以上ないクリーンヒットを貰っておきながら、反応は「それだけ」なのだ。
「おらおら、どうした? その程度なのかよ」ブラッドゴートは黒峰キョウの驚異的なタフネスに心底辟易していた。「じじいのファックのほうが気合い入ってる」
ブラッドゴートが何度となく攻撃を浴びせても、キョウは後ろに下がるどころか堪えた様子もなく、なんでもないかのようにケロリとして、ますますプレッシャーを強めてくる。
すると圧力に反比例してガードが甘くなるので、その隙間を狙ってもう何度目かのパンチを強振するのだが、これまた信じられないような打たれ強さの前に無効化されてしまうのだ。黒峰キョウは悪魔の攻撃を靴裏のガムほどにも気にしていない。
むろん、まったく効果がないわけではない。このままダメージが蓄積すれば、いずれキョウも動きを鈍らせ、ついには膝を折るだろう。
ようは攻撃に耐えられるタフネスの許容範囲を越えてしまえばいいのだ。
そうして相手を効かせることができれば、その好機に乗じて一気に戦いを終わらせることも可能である。
そのためには、これまで以上に強力な一撃を与え、きっかけを作る必要がある。
ならば「肉を切らせて骨を断つ」覚悟で相討ちに訴えるという選択がベストだった。
致命傷には至らないであろう狙いの甘い一撃を目敏く見切り、それを受ける代わりに必殺のカウンターを与えてペースをひっくり返す。
明らかに押され気味のブラッドゴートが活路を見出すには、それしかなかった。
が、それができなかった。
死中に活を求めた相討ちを誘うのなら、まずは前提として「あえて敵の攻撃を甘んじて受ける」という必要があるのだ。
そして黒峰キョウが相手では、その前提からして既に破綻していた。
なぜならブラッドゴートは、この炎の魔人の攻撃はすべて致命的であると過たず理解していた。
知性よりも本能で生きる悪魔だからこそ、ブラッドゴートは敏感に悟ったのだ。
――この男のパワーは圧倒的だ、ということを――
なればこそ、ブラッドゴートはこうして「防御もできずに」ただ逃げ回るしか他に術がなかった。
この男のパワーの前では、たとえ両腕に魔力を集中させてガードに回したとしても、お構いなしに突き破られるに違いないからだ。
実際、地獄の業火をまとった一撃は、かすめただけでも総毛立ち、その凄まじい熱気に足がすくむ。
灼熱の拳が目の前を擦過するたび、ブラッドゴートは突風に煽られたかのように巨体を泳がせる。
こんなパンチを食らってしまったら……ブラッドゴートは戸惑いの表情を浮かべ、いつしか及び腰になっていた。こちらから向かっていくだけの気力も失せたと言わんばかりに、ばたばたと慌てた足取りでリング上を逃げ回るだけに留まっていた。
だが、このままではジリ貧だった。肉体より先に心がへし折れそうだった。
けれど、そうと判っていても、ただ逃げ回るしか他に術がない。
「おいおい、がっかりだぜ。なんてザマだよ。睾丸(たま)を二個ぶらさげた男らしく、もっとガッツを見せろよな」
一向に打ち合いに応じようとしないチャンプに落胆したキョウは、だらんと両腕を下げて「打ってこいよ」とばかりに挑発する。
だが、もはやブラッドゴートに激するだけの意気はなかった。挑発に乗って彼我の距離を自ら詰めたところで、いたずらに寿命が縮むだけなのだ。
そう、しいて良かった探しをするならば――巨体のわりに素早いブラッドゴートと比べ、黒峰キョウの足捌きはスピードに難があった点か。
これほど優位に戦いを進めて未だブラッドゴートを仕留めきれぬ、それが最大の理由だった。
黒峰キョウのフットワークは、ひどくベタ足気味で軽さと滑らかさに乏しく、どっしりとしていた。
その大地に根を下ろすような踏ん張りこそが、あるいは驚異的なパワーの秘訣なのかもしれないが、これでは思いのほか機動力のあるブラッドゴートを追いきれない。
しかし、かといってブラッドゴートは安心できなかった。たとえキョウが足を使えずとも、それをカバーできるだけのハンドスピードがあったからだ。
ゆえにブラッドゴートは懐の深さとリーチの長さを駆使して一定の間合いをキープし、相手の接近から逃れていた。明らかにキョウの攻撃圏外と判断できる距離を維持し続けなければ、たちまちコンビネーションに巻き込まれてしまう。
だが、その間合いも着実に浸食されつつあった。
キョウ自身、足が使えぬことなど承知済みである。自分の能力を正しく把握していなければ戦士としては二流だ。そのうえで自らの欠点をカバーする方法を模索し、それを身につけた者が一流なのだ。
その観点で言えば――黒峰キョウは超がつくほどの一流だった。
悪魔といえど体力は無限ではないのだ。だからこそプレッシャーをかけ続けて相手の消耗を誘い、じわじわと体力を削っていく。そうして疲弊したところを一気にたたみかける狙いだった。炎の魔人の「狩り」の手筈は、今のところは実に上々といえる首尾だった。
が、それだけでは飽き足らなかった点が黒峰キョウの周到にして悪魔的なところか。
この殺傷本能あふるる少年は、ただ闇雲に相手を追い回しているかと思いきや、その実はリング上の空間を把握しながら彼我の立ち位置を逐一確認し、ブラッドゴートを攻めたてると同時に「誘導していた」のである。
背中にぶつかった金網の感触に、ブラッドゴートは背筋も凍る思いだった。
キョウから逃れることに気を取られるあまり、四方を取り囲む金網の存在を完全に失念していた。
広めのリングだからと周囲に目を配らなかった不注意が、ついにブラッドゴートの命運を奪うこととなったのだ。
とはいえ、ここで彼を責めるのは筋違いというものだろう。
すべては黒峰キョウの手の内だった。獲物の追いつめ方を熟知した狩人の手際だった。
ボクシングでいうところのロープを背負った状態の敵に向かって、ここぞとばかりにキョウは素早く踏み込んだ。その目がギラッと光った。「死人も目を覚ますくらいキツイ一発をお見舞いしてやる」
黒峰キョウが右腕を振りかぶったのを認め、ブラッドゴートは両腕に魔力を集中して防御の構えを取った。
金網のせいで後退という手段を封じられたブラッドゴートは、ならばと左右のどちらかに逃れようとしたが、相手のハンドスピードを考慮すると、もはや手遅れなところにまで接近を許してしまっていた。
こうなれば相手の攻撃を不可避のものと甘んじて耐え忍ぶしかなかった。
腕の一本や二本は覚悟していた。彼の最大の武器は脚にある。それが残っていれば逆転の望みはあった。
そうして腹をくくったブラッドゴートは、せめて僅かばかりでもダメージを軽減しようと、ありったけの魔力を両腕に集中し――
満を持して解き放たれた右ストレートが、いざブラッドゴートの両腕を粉砕する寸前、黒峰キョウの右腕がぴたりと制止した。
ブラッドゴートは絶望のあまり呼吸が止まるのを感じた。
その右ストレートが、ただの囮役でしかなかったと理解した時、彼の懐はあまりにも無防備だった。
顔面を狙ったと見せかけるフェイントに引っかかり、両腕を上げて無意味な防御の構えを取ってしまい、まんまと懐を晒してしまったのだ。
そして――
「どらぁあアアッ!!」
地獄の業火をまとった左アッパーのボディブローが、これ以上ない完璧さで爆裂した。
ドゴン! という爆発めいた重低音が響き渡り、ブラッドゴートの巨体がくの字に折れ曲がった。その強烈さに彼の先祖も墓の中で目を覚ましそうだ。
一発。それで事足りた。
ブラッドゴートの全身が痙攣するように細かく震えたかと思うと、やがて崩れるように膝を落としてキャンパスに蹲った。
ミスター・キングのファンが悲鳴を上げた。いつしかキョウを応援していた観客が思わず立ち上がって拍手を送った。会場が興奮の坩堝と化した瞬間だった。
会心の手応えに、黒峰キョウはにやりと笑って、
「どうだい。ボクシング大国メキシコ仕込みのボディブローだ。レバーがキマっちまっただろ?」
たしかに直撃した位置は肝臓の上だったが、どうやら凄まじいインパクトは肝臓だけといわず胃袋まで蹂躙したらしい。
蹲ったまま立ち上がれないブラッドゴートは、ふるふると身を震わせて盛大に嘔吐した。汚泥のような重油のような吐瀉物が、山羊の口腔からリング上に迸る。
「……臭せぇ。クソでも食ったか? ヤギならヤギらしく、雑草サラダでも食ってろってな」
キョウの軽口に応じるだけの気力は、もちろんなかった。
ブラッドゴートは己を情けないとは思いながらも、ただ蹲ったまま苦しげに喘ぐことしかできなかった。
「どうした。きれいにキマり過ぎて気持ち良くなっちまったか? 鱗のついたナニをおっ勃たせたら切り落とすぜ、冷凍ザー○ン野郎」
「……ソノ魔力……ソノ炎……キサマ、人間デハナイノカ?」
ようやく顔を上げることができたブラッドゴートの横腹は、ぶすぶすと黒煙を上げてそこだけヤギ肉のウェルダンになってしまっている。
黒峰キョウを見上げる真紅色の瞳に、力はない。
先ほどのボディブローは、たった一発でブラッドゴートの戦意を喪失させるのに充分すぎる威力を誇っていた。
「アリエナイ……ソレホド強力ナ魔具ガ、タダノ人間ニ扱エルハズガナイ」
黒峰キョウの両腕に装着されたイフリートを悪夢でも見るように眺め、ブラッドゴートは弱々しく呻いた。
魔具――その名の通り、魔力を有した武具。
魔具と言っても、様々な種類がある。その多くは、単純に悪魔によって生み出された武器に過ぎない。
しかし中には、悪魔自身がその姿を変えたものが存在した。それはいわば悪魔の魂そのものだ。
悪魔の魂が物質化した魔具は、極めて希少な存在に他ならない。自らの魂を自在に変転できるほどの悪魔は、総じて強大無比だからだ。
だが、元が悪魔である種類の魔具は、たとえ一つの武器と化しても己の意志を有している。
自らの主人たる存在を選定するためだ。
そういう魔具は、自らを手に入れようとする者に試練を与える。
悪魔自身が変化した魔具を所有できるのは、それを乗り越えた者でなければならない。
だが、その試練を乗り越えられる者は極めて少なかった。試練の内容があまりに過酷だからだ。
その過酷さたるや、たかが人間風情に耐えられるはずがない。
そう、もし悪魔の課す無理難題に打ち勝てるとしたら――
その存在は、もはや人間ではあり得ない。
「……あぁ、そうさ。おまえの言う通り、オレはもう、人間じゃねえ」
ぞっとするような昏い面持ちで、人ではない黒峰キョウは言った。
「一年前、黒峰キョウという人間は死んだ。殺されたんだ。おまえらクソ悪魔に、な」
言葉の温度が急激に下がっていく。
人には決して持ち得ない、闇の感情ゆえの冷気が、リング上をゆっくりと包み込む。
「黒峰キョウは、そうして一度死んで……甦ったのさ。悪魔として、悪魔を殺すために……」
呪うように言うキョウの瞳には、憎悪という名の黒い炎が冷やかに燃えていた。
ブラッドゴートを見下ろす氷点下の視線も、目の前の獲物をなぶり殺しにしてやろうかという狂気すら透けて見える。
「キサマ……キサマハ、イッタイ……!?」
「何者だ、ってか? 誰でもいいだろ、べつに。オレがおまえら悪魔を根こそぎ、あの世に送る死神だってことが判れば、それで充分じゃねえか」
黒峰キョウは、笑っていた。
乾いた、冷たい笑顔。悪魔が浮かべるものと変わらない、心無い笑み。
ブラッドゴートは震え上がった。
あまりの恐怖に。耐えがたい戦慄に。
そんな怖気を振るってしまった、己の弱さに。
人間の負の感情を刺激し、その恐怖を糧とするはずの悪魔が、恐怖に震えている――
桁外れの恐怖が、逆に起爆剤となって己を見失いかけていたブラッドゴートの闘志を再び燃え上がらせた。
彼にも誇りがあったのだ。
魔王が倒れ、最後の秩序までもが失われた魔界で生き延び、少なくない手下を率い、新天地を求めてこの世界へやって来た、という矜持が。
ブラッドゴートは遥か高みを目指していた。
彼という存在が発生して、まだ二○○年と経っていない。それほどの短期間にも拘らず、幾多の人間を喰らい、一族の中でも殊更に逞しい体躯と魔力を身につけた。
己の力が無限に高まったかのように感じていた。それは自惚れではなく、たしかな自信だった。
ゆくゆくは一族の中でも最も強力な深淵(アビス)の域へと格上げされ、その高みに至ってなお上を目指し、そうして己だけの個体名を手に入れる意気込みだった。
「山羊の一族」やミスター・キングなどという俗称ではなく、彼そのものを表す雛形という意味での真実の名を、だ。
そして最終的には、山羊の一族の中で唯一名前を得、とりわけ強力な神格の存在へと成った、かの有角神すら超えるのだ。
だが、このザマはどうだ。
己よりも矮小な小僧を前に膝を折り、こうして格下も同然に見下げ果てられている、この悲惨さはどうだ。
常に決死の心持ちでリングに上がり、人間はおろか同じ悪魔をも向こうに回して死闘を演じ続け、ことごとく打ち勝ってきたというのに……
「ギィィィ……」
屈辱の歯軋りが、くぐもった怨嗟の唸りを噛み潰す。
進退窮まったことをついに悟ったか、ブラッドゴートは捨て身の覚悟で攻撃を敢行した。
負けられぬという、彼に残された最後のプライドが、その少なくないダメージを負った肉体を突き動かした。
それに何より……ブラッドゴートは目の前の、少なくとも外見上はヒトの姿をした黒峰キョウを見た……こんな得体の知れない「なにか」に殺されるのは、死んでも御免だった。
「ガァァァッ!!」
気合いの声と共に、ブラッドゴートの下半身が大きく跳ね上がった。
強靭な足腰の筋肉をバネのように駆使したジャンプ力で、後方宙返りざまの飛び蹴りを放つ。
巨体に似合わぬ軽業師めいたパフォーマンス。
そこに遠心力とウエイトが加わり、そのうえ接触面は硬い蹄。威力のほどは計り知れなかった。
流石にこのサマーソルトキックを無防備に受けるつもりはなかったか、とっさに両腕を交差させてガードした黒峰キョウだったが、その衝撃までは殺せない。
強烈なインパクトの音が響いて、それまで勝利を確信したボクサーのように立っていたキョウの体が後方へと吹き飛んだ。
ガシャァァァァン、と恐ろしい勢いで反対側の金網に背中から叩きつけられる。
ブラッドゴートはこれを、またとない絶好の好機と速断した。
己の最大の武器と自負するだけあって、なるほど確かに凄まじい威力である。
今まで対戦してきた相手の中で、このキックを受けて木っ端と砕け散らなかった者がいなかったことを顧みると、まだ黒峰キョウが五体を残している結果はいささか不満ではあったが、大きなダメージを与えたのは確実だった。
ブラッドゴートは最後の力を振り絞って総攻撃を仕掛けた。この機を逃せば先はない。勝負所であった。なればこそ、ここで死力を尽くして一気に仕留めにかかるのが道理だった。まだ黒峰キョウがダメージから立ち直れぬうちに……
このときブラッドゴートは、悲しいかな勝負所を見誤ったと言えよう。
己が掛け値なしの信頼を預ける大技がヒットした時点で、相手を効かせたものと早合点してしまったのは無理もない。
だがキックが直撃した箇所は、黒峰キョウの両腕であり、そこは悪魔が物質化した篭手に覆われていた。
これまで黒峰キョウは、その篭手をあたかもナックルダスターか何かに見立てて攻撃武器に転用していたが、そもそも篭手の用途は「相手の攻撃を防ぐ」ことにある。
つまり本来の性質は、攻性ではなく防性、すなわち防具なのだ。それが敵の攻撃を受けきれぬ道理はなかった。
実際、キックの衝撃こそ殺し損ねて吹き飛んでしまったが、その威力の大部分は封殺してのけていた。
「へぇ……いい蹴り持ってんじゃねえか、ヤギ頭。だが、まだまだ大したことはねえな」
そういう訳で、黒峰キョウにこれというダメージを負った様子などなかった。こんなふうに相手の蹴りを評価する余裕すらあったくらいだ。
だが、そんな無情な現実が待ち構えているとは露知らず、いざ決着してくれるとばかりに向かってきたブラッドゴートは、まさか反撃が来るとは思ってもいなかっただろう。
攻撃に専念した様子のブラッドゴートは、逆に言えばひどく無防備で、深く腰を沈めて迎撃態勢に入ったキョウにとって見れば格好の獲物でしかなかった。
「本物を見せてやるぜ。蹴りってのはなァ、こうやるんだよっ!」
踏み込みざまの回し蹴りが、その足先に猛烈な火炎をまとってブラッドゴートの脇腹にめり込み、敵の前進を食い止める。
烈火のごとき蹴り技のコンビネーションが、そこから文字通り火を吹いた。
蹴り込んだ勢いで体を反転させ、もう一発。今度はその反動を利用して体を切り返し、さらに一発と次々に蹴り込んでいく。
「おらおらおらおら……っ!!」
怒涛の勢いで上下左右から無作為に降り注ぐ、魔性の猛火を伴った蹴りの乱打。
特筆すべきは、その動きの流麗さであろう。一切の無駄がなく、切れ味抜群で、きっちりと体重も乗っていた。達人の見せる演舞のごとき、凄絶な足技の嵐。
黒峰キョウ自身、実はボクシング以外の格闘技術を持っていなかったが、焔拳イフリートの加護は自らの使い手に類まれなるパワーと、そして超絶的な体術とを与えていた。
「Blast(ぶっ飛べ)ッ!!」
都合十三発目となるフィニッシュの後ろ回し蹴りが、もう完全に火だるまになった敵をダメ押しとばかりに吹き飛ばした。
先ほどの鏡合わせのように、今度はブラッドゴートの巨体が恐ろしい勢いで金網に激突する。だが、止まらない。勢い余って金網を突き破った。
巨大な火の玉と化したブラッドゴートの巨体は、その軌道上にいた哀れな観客を何人か巻き込み、それでもなお勢いを衰退させることなくアリーナの上階まで転げ跳んだ。
それは観客席後方の天井近くに掲げられた大型スクリーンにめり込んだところで、ようやく停止した。
いまだメラメラと燃え続ける山羊の丸焼きは、やがて音もなく消滅していった。
砂のように崩れ去ったブラッドゴートの消滅を確認して、黒峰キョウは首をすくめた。そのブラッドゴートに巻き込まれて死んだ一部の観客が同じく消えていたことに、もちろん彼は気づいていた。
跡形も残らない死。いつもと同じだ。やつらは徹底した秘密主義を貫いている。
形も、時間も、場所も関係なく現れては消える。
それが何故かは判らないが、べつだん知ろうとは思わない。人と魔、この二つは絶対に理解し合える間柄ではないからだ。
そもそも悪魔と共存できるようなら、この世が光と闇に隔てられている事もないのだから。
昏い眼差しでブラッドゴートの消えた場所を見つめるキョウの右腕を、そのとき掴み上げる感触があった。
いつの間にかリングに上がっていたアナウンサーが、黒峰キョウの手を持ち上げてウイニングポーズを取らせていた。
「皆さん、新チャンピオンの誕生です!」
興奮した様子のリング・アナウンサーが弾んだ声でそう叫ぶと、アリーナに歓呼が爆発した。
「黒峰キョウ! 黒峰キョウ! 黒峰キョウ!」
思いのほか観客に受け入れられたらしい今夜のヒーローは、くすぐったそうに苦笑を浮かべながらも、この賞賛を味わった。「照れるぜ」
気分を良くした黒峰キョウは、いきなりリング・アナウンサーの手からマイクをひったくると、会場内を見渡した。
「あー、あー……今夜はこんなむさ苦しい試合を観に来てくれてありがとう、暇を持て余した物好きの皆さん」
客席のそこここで短い笑い声が聞こえた。
「いや、本気だとも」と黒峰キョウは続けた。「いくら暇を持て余していようが、ここはてめえらみてえなクソどもが来ていい場所じゃねえ。雁首そろえて、とっとと元の掃き溜めに戻りやがれ」
一瞬、アリーナはしんと静まり返り、それから困惑した様子でざわつき始めた。
「おい、君は何を言って……」
戸惑いの表情のリング・アナウンサーの言葉は、そこで途切れた。
なぜなら黒峰キョウが皆まで言わせることなく、アナウンサーの顔面をマイクを持っていないほうの手で弾き飛ばしたからだ。
焔拳イフリートの裏拳の一撃を受けたアナウンサーは、首から上を文字通り四散させてキャンパスに転がった。
「口で言っても判らねえか? だったらオレが送り返してるぜ、おまえらの世界にな」
突然の暴挙にどよめく会場内の全員に向けて、黒峰キョウは宣戦布告した。
「さぁ、かかってきな。おまえら全員、まとめて相手にしてやるぜ」
己が使い手の闘志に呼応して、両腕のイフリートが激しく炎を上げた。その手の中のマイクが、篭手の放つ炎に飲まれてあっさりと溶解する。真っ赤に焼けて液状化した鉄が、キャンパスにこぼれ落ちて煙を上げた。
誰の目にも明らかな、むき出しの敵意。
むろん、ここまであからさまに敵対視されて黙っていられるほど、このアリーナにいる連中は人間ができていなかった。
――いや、そもそも人間ですらなかったと言うべきか。
バリバリという音が響いた。
それは先刻の――ミスター・キングが化けの皮を脱ぎ捨てた時と同じ音だった。
その音が互いに反響し合うように連続し、果たして会場内は人外の魔境と化した。
確かにここは、違法ファイト・クラブだった。
この世に存在を許されない夜の住人の催し物だった。
誰一人として人間などいなかった。ボネット達の美しさは上辺だけの偽物だった。見ればリング・アナウンサーの死体も静かに風化していた。あのブラッドゴートと同じように。
そう、やつらはまったく「どこにでもいる」。
時も場所も関係なく、やつらは人間の姿を擬し、ごく自然に人間社会に溶け込んでいる。
生存競争の激しすぎる魔界よりも、人間界のほうが遥かに生きやすく、居心地がいいからだ。
だが、そうしてジワジワと勢力を拡大しながら、隙あらば人間界を乗っ取ろうと画策している。居心地がいいといっても、やはり自分たちが支配者でないと気が済まないらしく、この世界を狂乱と混沌で彩り、いつしか第二の魔界を生み出そうとしているのだ。二千年前と同じように。そして何より怖いことに、ほとんどの人間がその事実を知らない。自らの日常の陰で息を潜めている脅威に、誰もが気づいていない。
このアリーナを埋め尽くすほど大勢の悪魔でさえ、もはや世界規模で人間社会に溶け込んだ悪魔の総数に比べると、ほんの一パーセントにも満たないのだ。
その恐るべき現実を思うと、さしものキョウも不安を覚えずにはいられない。現実から目を背けるように項垂れ、そっと目を閉じる。正視できなかった。まるで無限を見ているような果てのなさが、そこにはある。
だが、彼は昂然と顔を上げた。
決然と開かれた瞳には、もう不安も恐怖もなく、ただ揺るぎなく前を見据える不敵な眼光だけがあるばかり。
無限に現れるというのなら、こちらも際限なく始末していくだけ――そう血の復讐を誓ったのだ。
こいつらを、ほんの一年前までは普通(ただ)の少年だった黒峰響を殺した悪魔どもを、この世から一匹残らず消し去るために、オレは、黒峰キョウは、悪魔として現代に蘇ったのだから。
なればこそ、もはや彼は止まらない。命果てるその時まで、終わりなき戦いに身を投じ、許すまじき怨敵を狩り続ける。その青い血を川のごとく流し続ける。
そうして殺して殺して殺し続けて……わけがわからなくなるまでコロシマクッテ……
そして次こそはちゃんと死のう。
殺到する悪魔の大群を自嘲の笑みで見やりながら、黒峰キョウは切にそう思った。
四方を囲む金網をよじ登り、あるいはキョウに蹴破られて金網にできた穴からリングに雪崩れ込んでくる闇の軍勢。
だが、恐るるに足らず。鋭い鎌の切っ先も、獰猛な獣の牙も、赤光を放つ人外の眼窩も、黒峰キョウの身を脅かす脅威にはなり得ない。
先ほど見せた感傷的な表情はもう消えていた。
それに代わって、もはや定番とばかりに不敵な笑みが浮かんでいた。
そして次の瞬間、襲い来る有象無象の悪魔どもに向けて、かつて人間だった炎の魔人は灼熱の拳を振り上げた。
「Let's Rock,Baby!」