Devil May Cry ~Flaming Heart~   作:ユート・リアクト

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Interval①

 

 

「知り合いが化け物に食べられているのを見て平静でいられる者はいるだろうか」

               ――小説『バイオハザード アンブレラ・クロニクルズ SIDE A』より

 

 

       1

 

 

 黒峰響がボクシングと出会ったのは、ひたすらケンカに明け暮れていた中学時代、何度となく停学処分を受けた響に業を煮やした父親が、息子をボクシング・ジムに放り込むという典型的な始まりだった。

 当時、ケンカを探して徘徊していたような一匹狼を、だがジムの経営者は諸手を上げて歓迎した。響の父親と、柚原というそのジムの経営者とは家族ぐるみの付き合いがあったため、断るわけにもいかなかったのだろう。それが世間の推測した成り行きだったが、事実はそうではない。柚原ジムの経営者は、黒峰響に宿るボクシングの才能を過たず見抜いていた。曰く、この少年はダイアモンドの原石である、と。

 実際、ボクシングに打ち込みはじめた黒峰響は見る見るうちに頭角を現していき、ケンカの数も瞬く間に減っていった。響の両親は旅館を経営しており、家族や友人との関係も良好。そのため少年が非行に走る理由も思い当たらないので、大方、若さゆえに持て余していたエネルギーをケンカで発散していたのだろう。それが周囲の大人たちの見解だった。

 ボクシングとの出会いによって、ようやく自分の居場所を見つけた黒峰響は、まさしく飛ぶ鳥をも落とす勢いだった。十五歳以下のジュニアボクシング大会で、初出場ながら堂々の優勝。その強さと才能を、いち早く察知したボクシング関係者はマスコミを通して何度も黒峰響の名前を取り上げた。プロ向きの逸材として、早くも将来を期待された響は、それまで腫れもの扱いされていたとは思えぬ人気ぶりで、さらなる活躍を続けた。

 中学を卒業し、高校に進学してからも快進撃は止まらない。十代とは思えぬ圧倒的なパンチ力と強靭なタフネス、無尽蔵のスタミナに裏付けされた極めて好戦的なファイトスタイルは、多くの観客を魅了した。真正面からの打ち合いを好むそのスタイルは、もちろん少なくない被弾を黒峰響にもたらしたが、それも響の並々ならぬタフさを引き立たせるだけの〝演出〟に留まり、そうして打ちのめされながらも攻撃の手を緩めぬ響のファイターぶりは、なおのこと観客の目を楽しませた。端正な顔立ちを獰猛に歪めるさまは、一体何人の女性ファンを虜にしたことだろうか。もちろん響は女性嫌いではないし、十代の少年らしく異性に対する好奇心も旺盛である。彼に幼馴染みの恋人がいなければ、きっと女性関係のせいで将来を棒に振っていたに違いない。

 どうにか女遊びに狂うことのなかった黒峰響の強さは、なにもパンチ力や打たれ強さといった先天的な能力によるものばかりではない。かつてトップランカーとして世界タイトルに挑戦した経験もある柚原ジムの経営者は、兼業で響の専属トレーナーを務め、ボクシングの英才教育を施した。その結果、後天的に付与された分厚い技術が、少年の持ち前のパワーを、さらに後押しした。そうして十代ながらも既にボクサーとして完成されつつあった黒峰響の強さは、ほとんど手に負えないほどだった。もちろん同級のアマチュアボクサーの中には、『天才』や『怪物』と称される才能豊かな選手も何人かいた。だが、黒峰響にだけは勝てなかった。彼らは、こんな鬼神のような強さを誇るボクサーと同世代に生まれてしまった自らの悲運を嘆いた。それほどまでに黒峰響という少年は、アマチュアボクシングの中では突き抜けた存在だった。

 観客を魅了する好戦的なファイトスタイルで、リング上では燃え盛るように戦う。そんな黒峰キョウを、ボクシング関係者は畏怖と羨望を込めてこう呼んだ。

 炎の男――

 まだプロ・デビューも果たしていない少年に与える異名としては、大袈裟なまでに仰々しい響きであったが、黒峰響の強さと戦いぶりを一言で表現する場合において、これほど相応しいものもないだろう。

 

 

       2

 

 

 そんな黒峰響にも、ある日、転機が訪れる。それは彼のボクサー生命を左右するだけの規模に留まらず、人生そのものを覆すほど決定的なものであった。

 夏季の長期休暇を利用した、メキシコへの遠征。

 高校のボクシング部と柚原ジムとが提携して行われたこの強化合宿は、黒峰響にさらなる成長を促した。ボクシング大国として有名なこのメキシコで、響は多くのことを学んだ。パンチを出しながらプレッシャーをかけ、じりじりと相手を追いつめるオフェンス能力。急所へのまともなヒットを許さないディフェンス能力。中でもメキシカン・ボクサーの代名詞とも言える左アッパーのボディブローを体得してからは、持ち前の攻撃力にますます磨きがかかり、その風聞を耳にしたボクシング関係者は彼の帰国を今や遅しと待ち焦がれていた。

 しかし、黒峰響がふたたび日本の土を踏むことはなかった。

 いくらボクサーとして恐ろしく強いと言っても、彼とて十代の若者である。初めて異国の地を訪れた少年が、夏休みというタイミングも相まって、思い出づくりのための行動を起こしたとしても、それは咎めようもないことであった。

 深夜、合宿場が寝静まった頃合いを見計らい、響は仲間を引き連れて外へと繰り出した。

 目的地は廃病院。

 どの地域にも一つは存在する肝試しの名所であった。

 

 

「ねえ。やっぱりやめときましょうよ」

 不安に曇った眼差しで、柚原愛佳は進言した。しかし、周りの男たちは聞く耳を持たない。

「ここまで来ておいて何だよ。柚原」

「そうだよ。廃病院とか、肝試しには絶好の場所じゃないか」

 弱気なことを言うボクシング部のマネージャーに、部員である野田と中川が口を揃えて反駁する。その一方で、黒峰響は幼馴染みの、いつになく神妙な態度にニヤリとしている。

「おいおい、まさか急に怖くなったとか言うんじゃねえだろうな? よりによって、あの愛佳が?」人を食ったような意地の悪い笑顔で、響は続けた。「少しはかわいいトコあるじゃねえか」

「違うわよ! そうじゃなくて」

 思わずそう言い返した愛佳だったが、実際は本当に怖くなり始めていた。

 背の高い金網のフェンスの向こうに建つ、いまにも崩れ落ちそうな廃病院の鬱然とした外観に、えも言われぬ怖気を感じたのだ。柚原愛佳は子供の頃から霊感というものがある方だった。さすがに明確な幽霊などを見た経験はないが、墓地などに漂う独特の冷気を彼女は感じることできた。その感覚が、目の前の廃病院に対して強い忌避感を訴えている。ここは嫌な場所だ。人が立ち入っていいところじゃない。

 あたし、怖い。だからもう帰りましょうよ――素直にそう白状すれば、あるいは男たちも聞き入れて寮に引き返したかもしれない。だが、勝ち気な彼女の性格が、このとき仇になってしまった。それに、今さらみんなの楽しみに水を差すのも、なんだか気が引けて、結局、不安げに口籠もるしかなかった。

「みんナ。そろそロ、着きまス」

 街外れの廃病院にまで案内してくれたフリオが、後ろの四人を振り返って言った。日本人世界チャンピオンへの挑戦のため、ボクシング・トレーナーである父親の付き添いで何度か来日経験のあるメキシコの少年は、たどたどしいながらも充分に日本語での会話ができた。そして黒峰響を擁するボクシング部に、メキシコの合宿場を提供してくれたのが、この少年の父親であった。

 フリオの話によると、この廃病院は昔、多くの精神異常患者を受け持っていた精神病院であったらしい。しかし、ある日突然、患者たちが互いを殺し合うという事件が起きた。原因は依然として不明。取り調べを受けた担当医は生気を欠いた声で、こう言ったという。いつか、こうなるとは思っていた。惨劇の前触れはあったのだ。ここは悪霊めいたものに憑かれている。この場所に長く居てはいけない。私はきっと気が触れるだろう。そういって医者は直後に自殺。多くの謎を残したまま病院は閉鎖となり、立ち入り禁止となった。その後は正式な取り壊しの決定もなく、現在までこうして放置されている。

 その話を聞いた時、響と野田と中川は、話の内容に薄ら寒いものを感じながらも、一様に顔を輝かせた。好奇心旺盛な少年たちが鋼鉄の度胸を試す場所として、まったく誂え向きな〝設定〟を持ったロケーションなのだから無理もない。それに付き合わされる羽目になった愛佳の受難こそ推して知るべきだろう。愛佳は人知れずため息を吐いた。まったく、あたしって本当に振り回されやすい体質だわ。

「ここでス。ここから中、入れまス」

 廃病院の四方を取り囲むフェンスに沿って歩くこと数分。やおらフリオが指差した先には、いくらか金網が劣化して解(ほつ)れていた箇所があった。ここを通って敷地内に侵入する腹積もりであった。ボクシングで鍛えた響たちの体力なら、背の高いフェンスでもよじ登って越えることは可能だったが、それと同じ真似を女の子である愛佳にさせるわけにもいかない――しかも彼女は今、ミニスカートである――し、そもそも金網のてっぺんには、かみそりのような刃を備えた、コイル状の有刺鉄線の忍び返しが巻きつけてあった。

 人ひとりが通るにはやや心許ないフェンスの綻びを、響と野田がそれぞれ左右にこじ開けた。元気とパワーを持て余したヤンチャ坊主どもには造作もないことだった。そうして大きくなった金網の穴を、響は芝居がかった仕草で愛佳に指し示した。「レディファーストだ。お先にどうぞ、お嬢さん?」

 そうやって彼女の尻を眺める魂胆が見え見えなエロガキの向こう脛を、愛佳は思いきり蹴りつけた。

「このヘンタイ! あんたが先に行きなさいよ!」

 痛みに悶絶する響がいそいそとフェンスを通り抜けたのを確認して、愛佳は残りの男たちにも叫びつけた。

「ほら、あんた達も!」それは雷が落ちたと錯覚するような大声量だった。「モタモタしてるとその貧相なケツを蹴り飛ばしてやるわよッ!?」

 母親にこっぴどく叱られた子供のような従順さで、野田と中川とフリオの三人も慌てて響のあとに続いた。ボクシング部において、顧問には逆らっても柚原愛佳にだけは逆らうなと、黒峰響を中心として部員全員に彼女が恐れられている理由が、ここにあった。

 敷地内に足を踏み入れた一向は、目の前にそびえ立つ建物の外観に思わず息を飲んだ。病院は完全な廃墟で、持参した懐中電灯のライトは無情にもその荒廃ぶりをまざまざと照らし出していた。屋根のなくなった一部の壁が、欠けた歯のように地面から突き出している。銃眼のついた石造りの胸壁は一面、伸び放題になって蛇のように絡みつく緑のツタに覆われていた。

「ボロボロだな」

 遊園地のアトラクションの幽霊屋敷に入る前ような顔で、響が呟いた。病院が閉鎖した背景といい、この荒れ果てた様相といい、こいつは肝試しには極めつきに誂え向きな場所だ。

 いよいよ建物内に入るという段になって、不安に眉根を寄せる愛佳は周りの男たちを見回した。誰の顔にも好奇心と、ほんの少しの躊躇とが表れていた。だが、彼らの顔に怯えはなかった。いささかの不安の色さえなかった。それが愛佳には一番気がかりだった。

 頭上の夜空もまた、愛佳の不安を煽る一因を担っていた。低く立ち込めた黒雲の隙間から、真っ赤な月が顔を出している。今まで見たこともない、赤い月。その禍々しい色味に、滴る鮮血を連想し、気丈なはずの愛佳をして身震いを禁じ得なかった。

「いくぜ」

 響は連れ立った四人に呼びかける。今となってはもう施錠もされていない門扉を押し開けて、院内へと足を踏み入れる男たちの背中に、愛佳は置いていかれまじと慌てて追いすがった。彼女の中の不安はまだ消えていない。しかし、なんやかんや言いながらもここまで付いて来てしまったのだから、もう、後戻りはできなかった。

 

 

       3

 

 

 がらんとした病院の中は、闇が大部分を占拠していた。クリーム色をしたリノリウムの床も、この濃密な闇の前では形無しであった。しかも空気の音が聞こえるほどに静かで、その淀んだ空気には、古くなった血と埃の匂いが立ち込めていた。愛佳は喉が鳴るほど大きく息を飲み、すぐにこの場所は気に食わないと決めつけた。玄関から中に入った途端、気配を感じたのだ……広大な屋内に、漠然とした、そして微かな不吉なものを、だ。なんとなく取り憑かれているような感じ。それが誰になのか、あるいは何になのかは判然としなかったが。愛佳はふとフリオの話を思い出した。かつて病院に勤めていた担当医は、自殺する直前、この場所には悪霊のようなものが憑いていると証言したという。誰もが狂人の戯言と笑い飛ばすような話の内容が、このとき、もはや冗談の類とは思えなくなっていた。それほどまでに、この場所に立ち込める空気は不穏なものに満ちていた。かつて病院に常に内在していた狂気が、今もなお蟠っているとでも言うのか。

 本能的な恐怖心を刺激する違和感を覚えたのは、愛佳だけではない。敵意のある視線、誰かに見られているような感覚を、その場の誰もが感じていた。既にもう度胸試しの浮かれた気分は消え去っていた。肝っ玉の大きさが自慢の黒峰響でさえ、無駄口を止め、ボクシングの試合の時かそれ以上の緊張感に表情を引き締めている。

「何だこれ? ここの雰囲気、少し変だぞ。おれたち以外に誰もいないはずなのに、気配がする。一人で夜道を歩いてると、背後から誰かの足音が近づいてるって感じる時みたいな」

 曖昧な口振りでありながら全員の心情を的確に表現している野田に、中川が相槌を打つ。

「そうだね。妙に静かすぎるし、それにちょっと肌寒い。外は真夏の暑さなのに、ひんやりとする」

 Tシャツに半ズボンという服装をした少年は、まるで初冬の到来のような冷え込みを感じ、肩をすぼめた。その吐息が白くなって闇に流れていった。季節は夏だというのに、どうしてこんなに寒いのだろうか。

 このときようやく男たちも愛佳と同様、名状しがたい嫌な予感を覚えはじめた。しかし、まだ好奇心のほうが勝っていた。懐中電灯のライトだけを頼りに、特に当てもなく院内を散策する。誰かに見られているような感覚は、まだ消えない。

 メインホールには、かつて患者たちが使っていたと思しきクレヨンや鉛筆が散らばっていた。響は床に落ちていた一枚の絵を眺めた。不気味なピエロが、目から鼻から口から真っ赤な血を滴らせ、自らの顔面におぞましいペイントを施している。炎の男はブルッと身を震わせた。有名な連続児童殺人犯がかつて描いた絵も、ここまで恐ろしくはあるまい。背筋を走る悪寒を振り払うように、響は軽口を叩いた。「ジョン・ウェイン・ゲイシーも真っ青だな」

 これ以上、画用紙に描かれた血と狂気を吟味するのは気が滅入るので、響はさっさと目を離した。だが、響と同じくピエロの絵を見ていた愛佳は目が離せなかった。男よりも女のほうが感受性が強い。この場で唯一の少女である愛佳には、その絵の醸し出す雰囲気が、もはやこの世のものとは思えなくなっていた。赤い涙を流すピエロの目が、自分を睨みつけているようにさえ感じる。もしかしたら、これまでに感じた〝視線〟の主が、この絵のピエロであると錯覚するほどに。

 愛佳は急に笑い出したくなった。存在しないものを怖がっていた自分をバカにしてやりたくなった。建物も人間と同じで、過去の出来事を記憶している。この場所はつまり、かつて院内に常に内在していた狂気が、えも言われぬ不気味な雰囲気として残留しているのだ。あたしは、その雰囲気に恐怖心を刺激されていたに過ぎない。自殺した担当医も、なにかが乗り移ったように殺し合った患者たちも、きっと自分と同じ〝症状〟に悩まされていただけなのだ。幽霊などといったものは、見る者の心、見る者の主観に左右されるに違いないからだ。そうよ、怖いと思うから、おかしなものが見えてしまうのよ。身も蓋もない言い方に聞こえるかもしれないが、愛佳はそう自分を納得させた。まるで彼女の無意識が、今もなお感じる誰かの気配と邪悪な息遣いから目を背けようとしているかのように。

 ほとんど無理矢理に心の均衡を保った愛佳は、しかし、ついに〝それ〟の存在に気づいてしまった。

 ふと目をやった先の、なにもないはずの闇の虚空に、邪悪な表情を浮かべた「なにか」の顔が見えた。

「ひッ――」

 悲鳴を噛み殺して後退る愛佳の手から、懐中電灯が落ちる。落下の衝撃で、レンズが割れ砕ける音に、男たちが反射的に振り返る。

「柚原!? お、驚かすなよ……」

 心臓に悪いとでも言いたげな中川を余所に、響がひどく怯えた様子の愛佳に歩み寄る。

「愛佳、どうした?」

「い、いま何かが、そこに……」

 響は震える指先が示した方向を視線で追った。しかし、そこには何もない。

「本当よ、信じて。何かがいたの。何か、いけないものよ。人じゃない」

 肝試しにおいて〝らしさ〟を引き出すための定番とも言える愛佳の台詞を、だが誰もが冗談と笑い飛ばしたりしなかった。愛佳の恐怖が演技ではなく本物だということは、その怯えきった顔を見れば一目瞭然だし、なにより彼女が思慮の浅い嘘を言うような人物ではないということを、同じボクシング部に在籍する男たちは知っていた。

 やにわに緊迫する空気の中、彼らは暗闇に潜むものの正体を見極めようと周囲を見渡し……そこでようやく気がついた。

 ここまで連れ立った仲間の一人が、忽然と姿を消しているということに。

「おい。野田のやつはいったいどこに……」

 そう言いさした響の言葉を遮るように、それぞれが持つ懐中電灯のライトが、いきなり何の理由もなく消えた。辺りの闇が、さらに濃密さを増して響たちを包み込む。窓から差し込む赤い月明かりだけが、わずかな視界を生み出す中、中川は急に光を消した懐中電灯のスイッチを何度も上下した。

「くそ、くそっ。なんで、どうして点かないんだ……」

 得体の知れない事態に、いよいよ不安を隠しきれなくなった中川を、さらに追いつめるように不吉な声が聞こえた。

 すすり泣くようなその声は、次第に高くなっていく。「な、なんだよ、おい!」呻き声がする。「誰だ!? いったい僕たちをどうするつもりなんだ!?」精一杯虚勢を保つ中川を嘲笑うように、哄笑が、陰にこもった不気味な含み笑いが……。「うわああ、お母ちゃん……」泣き叫ぶ声が悲鳴に変わった。「助けて! 誰か助けて!」

 声は……病院の中に妙な具合に反響して、出所がまったく掴めない。まるで至るところに溜まった闇そのものが声を発しているかのように。

 愛佳を庇うように立ちふさがる響には、恐慌状態に陥った中川を気にかける余裕もなかった。なぜなら彼の鋭敏な危機感が、周囲の闇から注意を逸らすことを激しく拒絶しているからだ。まるで一度でも闇から目を離したが最後、おまえは絶対に後悔する羽目になるぞと言わんばかりに。

 瞬きさえ失念して周囲の闇を警戒する響は、だからこそ自分に向かって振り下ろされる鎌の切っ先に反応できた。

「危ねえ!」

「きゃぁっ!」

 愛佳を押し倒すような格好でともに床に転がり込む。響ごと愛佳をも両断しにかかった凶刃は、響の赤みがかった黒髪を数本、切り裂くだけに留まって空を切った。

 転倒した響と愛佳は、自分たちに死を与えようとした何者かを見上げた。

 だがそれは、人ではない。

 それは、この病院に内在する狂気と怨念を苗床に巣食う、闇から生まれた黒い影。

 ここに至るまでの間、ずっと彼らを見つめ、不気味な声を響かせていた存在。

 漆黒のトーガに身を包み、死神の大鎌を携えた姿は、おとぎ話に喩えるしか他に表現のしようがない。

「あああ、悪魔……」

 恐怖のあまり震え上がる中川は、ほとんど現実を正しく認識する能力を失っていた。まるで悪夢のなかに迷い込んだように、ひとかけらも現実を感じることはできなかった。ただ、冗談のように大きな鎌がもたらす恐怖だけが本物だった。死にたくない、という身も蓋もない感情だけが。

 悪魔は、自らの奇襲が不発に終わったにもかかわらず、その骸骨のような表情を歪めた。

 笑っている――響たちがそう理解した時にはもう、黒い影は実体を解いて、周囲の闇に溶け込むように姿を消した。自ら吐き出した墨で身を隠すイカのように。

 月明かりの届かない暗がりから、じっと注がれる無数の眼差し……最悪だ。悪魔には響たちが見えるが、こちらからは相手の姿が見えない。

「逃げろ!」

 弾けるような響の怒声に、恐怖で麻痺していた全員の四肢の硬直が解けた。あられもない悲鳴を上げながら、もと来た道を一目散に逆走する。邪悪な笑い声が追いかけてくる。いち早く玄関に到達した中川が門扉に手をかける。悪意のある力が働いていて、びくともしない。中川は完全にパニックになった。「開かない! 開かない!」

 小動物のように追いつめられたことを悟った響は、背中を冷たい汗に濡らしながら背後を振り返る。

 濃密な闇と、そこに潜むものが、威圧的に響たちを取り囲んでいた。勝利を確信した残忍な笑い声が、どこからともなく響いた。

「ミ、みんナ! 落ち着いてくださイ!」

 恐怖で吐きそうな顔で、フリオが言った。

「大丈夫でス。聖書でワ、悪魔は神の許しを得ないと何もできませン! だかラ……」

 響たちよりも自らに大丈夫だと言い聞かせるような信心深いフリオの台詞に、周囲の闇が色めきたった。

 的外れな馬鹿に憤るような、呆れ果てるような、人外の冷たい殺気。

(神? 神だと?)

(あの傲慢ちきに、我らの死の権力が束縛されるとでも?)

 人ではない暗い声による人語は、周囲の闇から放たれていた。

 愛佳はもう驚く気力もなかった。

(ならば貴様らの神に許しを求めてやろう。それで我らの望みが叶うのならば)

(嗚呼、神よ。我らは人間を殺すのが待ちきれない!)

 周囲の闇から黒い影が次々に飛び出し、一斉にフリオへと襲いかかった。少年の悲鳴が上がり、黒い影たちが舌と喉を鳴らす湿った音が伴奏を添えた。

 肉片に捌かれつつあるフリオの断末魔が身体の芯まで染み込み、残り三人の人間は我を忘れて逃げ出した。気が狂わないのが不思議なほどの恐怖だった。もう恐ろしすぎて訳がわからなかったが、今この場で、神にも従わない力が働いていることは確かだった。

「もう嫌ぁぁぁッ!」

 愛佳がホラー映画のヒロインのような悲鳴を上げた。だがこれは、撮影ではない。フリオの死も、悪魔の存在も、まごうことなき現実であった。

 このとき愛佳は失禁する寸前だった。だが、もし下着を濡らしていたとしても恥じる必要はなかっただろう。死の恐怖の前には、その程度を恥とは呼ばない。

 皮肉にも影たちが〝食事〟に夢中だったおかげで退路を見出した三人は、間近なところにあった診察室に飛び込んだ。体当たりするように扉を閉め、鍵をかけ、ずるずると座り込む響。恐怖による激しい息遣いだけが、ほこりっぽい診察室に虚しく反響していた。

「なんなんだ? あれはいったい、なんだって言うんだ!?」

 やや呼吸が落ち着いたところで、中川が喚き散らした。扉一枚を隔てた向こうには人殺しの化け物がいるというのに、大声を出して自らの存在をつまびらかにしてしまっているのは愚行以外の何物でもなかったが、それを気にする冷静さなどもう、ない。

 フリオの死にざまを見て気力を喪失した中川は、足元もおぼつかなかった。彼は黒峰響ほどではないものの、才能豊かな選手であるし、試合の経験も豊富だった。苦境に対処する術も心得ていた。しかし、ボクシングで得たあらゆる経験も、いま目にした悪夢の光景の前には何の役にも立たなかった。

「そうだ、これは夢なんだ……」すっかり憔悴した中川が、うわ言のように呟いた。早く目を覚まさなくちゃ。「だってこんな……こんなのって……恐ろしすぎて現実じゃないみたいだ」

「しっかりしろ、中川」

 こちらも憔悴してはいるが、まだ目に力のある響が諌めるように言った。

「オレもたまに夢と現実の区別がつかなくなる時があるが、これはそれとは違う」

 夢に結びつけて安堵を得ようとしていた中川の逃避にも似た認識を、響の言葉がはっきりと切り捨ててしまった。どんなに馬鹿げたことでも、あり得ない現象でも、現実は現実として正しく認識しなければならない。たとえそれが、どれほど非現実的であったとしても。

 ホラー映画やコミックの中でしか存在を許されないはずの怪異が、フリオを殺したのだ。響は無情な現実に眩暈を覚えた。まったく、こんなのってアリかよ?

「……音が聞こえなくなったな」

 ドア越しに聞き耳を立てていた響は、影たちが獲物に群がる慌ただしい音が途絶えたことに気がついた。飢えを満足させ、闇は闇に還ったのだろうか? もちろん、それを確かめるつもりはなかった。このまま朝まで診察室に立てこもる旨を愛佳と中川に告げると、ふたりは反論もなく了解した。一刻も早く病院から逃げ出したかったが、獰猛なものを孕んだこの暗闇を懐中電灯もなしに動き回るのは危険だし、日の出の訪れを待てば影たちも光の世界から退散するかもしれない。そこに一縷の希望を見出すより他はなかった。

 万が一に備え、なにか武器になりそうなものを探す響だったが、ここはかつて精神異常患者を抱えていた場所である。武器になりそうなものが見つかるはずもなかった。その代わりに見咎めたのは、脱出口として使えそうな窓という窓に、逃走防止用の鉄格子が備え付けられてあるということだけであった。響たちには武器も、作戦も、幸運も尽きていた。

 力無く座り込む三人のあいだに、言葉はなかった。話すだけの気力もなかった。重苦しい沈黙の中、ただじっと座して朝の訪れを待つしか他に術はない。

 音の死んだ診察室に、そのとき呼びかける声があった。

「おい、俺だ。野田だ。開けてくれ」

 悪魔たちの暗い声とは違う、それは彼らにとって聞き覚えのある声だった。

「野田!?」

 ボクシング部の友人の呼びかけに、それまで意気消沈していた中川が立ち上がった。響と愛佳も驚きに顔を上げる。

 野田は診察室に入りたがっているようだ。中川が慌ててドアに駆け寄る。

 しかし、それは響によって制止された。鍵を開けようと伸びる中川の腕を掴んで引き寄せる。

「おい。何するんだよ、黒峰!」

「ちょっと待て。なにか変だ」

「おい、俺だ。野田だ。開けてくれ」

 再びそう呼びかける野田は、さっき悪魔が出現する直前に忽然と姿を消していた。それが今になって急に姿を現したことに、響は嫌な予感を覚えたのだ。野田の声がうがいをしているみたいにゴポゴポいっていることや、まるで壊れたテープレコーダーのように同じ台詞を繰り返していることも、響の不安をよりいっそう助長させた。「おい、俺だ。野田だ。開けてくれ」

「うるさい! 離せよ、野田がそこにいるんだぞ!」

 聞き分けのない中川は、怒り任せに響の手を振り解きにかかった。

 野田はなおも呼びかけ続ける。

「おい、俺だ。野田だ。開けてくれ」

「響! ドアを開けさせちゃダメ!」

 響と同じく嫌な予感を覚えた愛佳が叫ぶが、暴れ回る中川と違い、響のほうは相手が仲間ということもあって怒りを沸点まで持ち込めなかった。その隙を突いて放たれた中川の右フックが、相手の頬を打ちのめし、響を引き剥がした。野田は機械的に呼びかけ続けている。おい、俺だ。野田だ。開けてくれ。

 仲間からの暴力に、たたらを踏んで後退る響は、殴られた頬を押さえて呆然としていた。

「中川……」

「響! 中川はもうダメ。逃げるわよ!」

 かつての仲間が手に負えないことを悟った愛佳は、有無を言わせぬ口調とともに響の腕を引いた。

 もはや正気を失った中川の目を見れば、その中川を切り捨てる愛佳の無情な判断が正しいということを、響のなかの冷徹な部分も肯定していた。オレたちが生き残るには、ここで中川を見捨てるしかない。

「あそこから出られるわ」

 愛佳が指差した先には、別の廊下に出られるもう一つのドアがあった。 

 そうして二人が診察室から飛び出すのと同じタイミングで、中川が野田を迎えるために扉を開けた。

 果たして、そこには野田が立っていた。

 姿形こそ変わり果ててはいたが、それは間違いなく野田だった。中川のかけがえのない友達だ。

 中川の目が希望に輝いた。

「ああ、よかった。無事だったんだね、野田。ん? いつの間に服を着替えたんだ。ははは。黒峰じゃないんだから、おまえに赤色は似合わないよ。それに腕がちぎれてるじゃないか。ボクシングをやってるんだから、あれだけ腕のケガには気をつけろって言ったじゃないか。まったく、仕方のないやつだな。腹から腸までこぼしちゃって。そんな状態でボディにいいやつを食らったら痛いどころじゃ済まないぞ? ははは、おかしなやつだな。よだれを垂らしてあーあー言ってないで、少しはしゃんとしろよ。おや、どうしたんだい? どうしてそんな大きな口で、僕の頭を飲み込むんだい?」

 

 

 その狭い廊下には、等しい間隔を置いてドアが並んでいた。しかし、どれもぴったりと閉まっている。かつて病院だったことを考えると、これは全て病室なのだろう。大部屋ではなく、個室なのかもしれない。精神異常患者の病室ということだけあって、どこか牢獄めいた趣を感じさせた。

 廊下へと躍り出た響と愛佳は、すっかり憔悴していた。肉体的な疲ればかりではなく、精神的な疲弊もある。常軌を逸した経験が釣瓶打ちのように続いて、おかげで二人とも神経が焼き切れかかっていた。

「……すまねえ、愛佳」

 朝まで立て籠もるべく個室をチェックしている愛佳に、ぽつりと響が口火を切った。

 普段の軽薄さとタフさが失われている幼馴染みの、いまにも泣き崩れてしまいそうな顔を、愛佳は静かに見つめる。

「オレが肝試しをしようなんて言い出したばかりに、こんな……」

 悔いるような声だった。仲間たちの死にざまが、断末魔が、響の耳にいつまでもこびりついていた。フリオの悲鳴、野田だったものの死せる声、中川の戦慄き……それらが脳裏を去来し、黒峰響を自責の念で押し潰しにかかる。オレのせいだ。オレが仲間を連れ出さなければ、きっと、あいつらの死も回避できたはずだ……

「やめて」

 自分自身に追いつめられた響を、凛とした声が呼び戻した。

 弱々しく顔を上げた響は、いままで見たこともない愛佳の真摯な視線を放心したように見つめ返した。

 打ちひしがれる少年を責めるでもなく、嘆くでもなく、ただ真っ直ぐに響を見つめる炎のように強い眼差し。

「確かにアンタにも責任はあるかもしれない。でもね、こんな事態になるなんて誰にも予想できなかった。この病院に来てから、普通の人間には手に負えない出来事ばかり。どれもこれも場外ホームラン級のすごいやつよ。自分のことだけで精一杯、誰かのことを気にかける余裕なんてない」

 だから中川を見捨てたのだ、と、そう言外に語る愛佳の昏い眼差しに、響は息が詰まって何も言えなくなった。

「けれど、あたしは絶対、アンタだけは見捨てたりしない。だって約束してくれたじゃない。必ず世界チャンピオンになって、あたしにベルトをプレゼントしてくれるって」

 目の前の幼馴染みに想いを告げた時のことを思い出して、響ははっとなった。

 ボクシングに打ち込む黒峰響が王者のベルトを望むのは、もちろん最強という称号に魅せられた少年の夢であるし、ボクシングを教えてくれた愛佳の親父さんに対する恩義でもある。

 だが、それ以上に強い感情がある。

 惚れた女に、世界の頂からの景色を見せてやりたいという気持ちだ。

 そこに至るまでの長く険しい道のりを、共に歩んでいきたいという気持ちだ。

〝愛佳、オレ、必ず世界チャンピオンになる。だからそれまで、オレの隣でサポートしてほしい。もちろん、その後も、ずっと。ダメか?〟

 顔が燃え落ちてしまいそうなほど照れながらも、そう想いを告白したのは、果たして誰だったか。

 そして、困ったように微笑し、真っ赤に頬を染め、若く愚かな少年の想いを受け止めてくれたのは、果たして誰だったか――黒峰響は今、自分が生きなければならない理由を、はっきりと思い出した。

 その夢を終わらせないためにも――

 オレは、この悪夢から抜け出さなければならない。惚れた女の手を取って、人間の力の及ぶかぎり早く。

「あぁ、そうだな……」

 そうだとも。

「ようやくわかったようね。いいこと? アンタは必ず世界チャンピオンになる。だから、こんなところでアンタが死ぬなんてこと、あたしが絶対に許さないんだから」

 それが、はるか高みを目指す少年を支え、導き、ともに歩んでいくことを決意した少女の誓いだった。

 間近にあった個室のドアを開き、中の様子を窺う愛佳の気高い背中を見て、響は不覚にも泣きそうになった。

 昔、男を助けるのは、いつだって女だと、そう親父が言っていたことがある。その言葉の意味を、いま響は身をもって痛感していた。情けない話だが、それでも確かに救いだった。黒峰響をふたたび立ち上がらせる希望だった。

 だから……今度はオレが、彼女を助けてやる番だ。

「愛佳」

 名前を呼ばれて振り返る少女を、響は揺るぎない瞳で見つめ、

「あの化け物どもから逃げられるかどうかは、まだ分からない。だけど絶対に生きて、ここから出よう。……必ず、ふたり一緒で」

「……バカ」

 無愛想に返しながらも、それが照れ隠しであることは愛佳の赤い顔を見れば一目瞭然であった。

 そして彼女の口元が、かすかに綻んでいることを、彼女を愛する少年は決して見逃さなかった。笑みと呼ぶにはあまりに小さく素っ気ないものだったが、それでも黒峰響にとって鋼鉄ですら溶けてしまいそうな笑顔だった。

「……響のバカ」

 愛佳は繰り返した。口元は依然として、かすかに綻んでいる。なんとか無表情を装う努力はしているが、それは失敗に終わっていた。普段は冷たく取り澄まし、きつい性格と可愛げのない口調でけなしてくる彼女に、それでも少年がすっかり参ってしまった最大の理由が、これだった。笑顔を安売りするタイプではない彼女の、ごく稀に見せるいじらしさが、愛しかった。 

「あぁ、バカでいいさ」

 この笑顔を守るためなら、オレは何度でも立ち上がってやると、そう黒峰響は眼差しに力を込めた。

「それでもオレは、愛佳、おまえだけは守ってみせる。オレの命に懸けて。たとえ相手が悪魔だろうと、絶対に、だ」

「響……」

 静かに、だが熱く見つめ合う幼い恋人たちの眼差しを、そのとき独りでに閉まった扉が遮断した。

 悪意ある力によって廊下と個室に分断された二人は、お互いの姿を求めて扉に駆け寄った。開かない。響の勘が全力で不吉を告げた。

「愛佳?」

「開かない……ドアが開かない!」

 扉の向こうでドアノブをガチャガチャさせながら、怯えた様子の愛佳が叫んだ。

「落ち着け。いまオレが開けてやる」

 内心、どうしようもない嫌な予感に見舞われながら、響は努めて冷静にドアノブを押したり引いたりした。しかし、その顔は見る見るうちに焦燥の念で塗り潰されていった。

 扉は強力な力で封じられていて、びくともしない。

「響、早くここから出して。何か、とても嫌な感じがするわ」

「なんとか開けて出してやるから待ってろ」

「……何よこの匂い。まるで硫黄みたいな。どういうことなの?」

「匂いなんかしないぞ。とにかく待て、すぐに開ける」

 響は拳が軋むほど扉を殴りつけた。何度も何度も蹴破りにかかった。渾身の力で体当たりもした。

 扉は呪われていて微動だにしない。

「お願いよ、ここから出して。急いで、なんだか変だわ。お願いだから出して!」

「今やってる、待ってろ!」

「響、早く……何かが入ってきたみたい。助けて。何かが入ってきたわ! 響、助けて! 助けて! 助けてよぉぉぉ!!」

 扉の向こうで誰かと何かが争い、そして猫が生きながらにして煮殺されかかっているかのような絶叫が聞こえてきた。それが愛佳の悲鳴だなんて信じたくなかった。ご馳走を貪り尽くすかのような咀嚼音が一段と喧しくなった。

「やめろ! やめてくれぇ!」響は喉も裂けんばかりに絶叫した。「愛佳ああああァァッ!!」

 やがて狂騒が鳴り止むと、それまで微動だにしなかった扉が、すんなりと内側に開いた。扉に全身の力を加えつづけていた響は、いきなり扉が無抵抗に開いたせいで、ほとんど転がり込むような格好で室内へと踏み入っていた。

 勢い余って転倒する響を受け止めたのは、だがリノリウムの床の硬い衝撃ではなく、粘り気のある液体の水音だった。床に着いた両手をピチャリと鳴らす濡れた感触は、いましがた家畜を解体したかのように、うっすらと湯気を立てるほど温かく新鮮だった。

「……あ」

 手のひらを赤黒く汚す生命の感触に、絶望的な呻き声を漏らしながら、響は顔を上げた。

「あ、あ……」

 それは筆舌に尽くしがたい有り様だったが、あえて言葉に喩えるなら、こうだろうか。

 少女は、血濡れの天使となっていた。

 しかし、翼のように見えたそれは、よく見ればラベルのように剥がされ、外側に広げられた背中の皮だった。その〝翼〟と少女の身体とを天井から吊るしているのは、なんと少女自身のはらわただった。裸にひきむしられ、腹を裂かれ、乳房の切り取られた血染めの肢体はもはや正視に耐えるものではなく、かつて素直じゃない微笑みだけで黒峰響を虜にした美貌も、すり潰され、無惨なまでに見る影もない。

 ひび割れた呻きだけが黒峰響の口を衝く中、不意に少女だったモノが顔を上げて響を見た……ような気がした。

 ――……響。

 信じられないことに、こんな状態になってなお少女はまだ呼吸を止めていなかった。まるで黒峰響の理性にとどめを刺す最後の一手を与えるまで、いくらか慈悲深い死を先延ばしにされることを、何者かに強要されたかのように。

 目玉のくり抜かれた眼窩から赤い涙を流す、柚原愛佳だった肉体は、血まみれの声で、こう言った。

 ――助けて……

「ゲボォアぁあ!」

 響は自分のなかの何かが崩壊する音を聞いた。気がつけば胃の中身をありったけ逆流させ、ぶち撒けていた。汚い音を立てて床に落ちる吐瀉物が血の海と混ざり合い、奇妙なマーブル模様を作り出した。

 彼が愛した少女は、ただ一度だけ助けを請うたきり、もう何も言わなくなった。

「は――っ、は――っ……!」

 息も絶え絶えになりながら、響はおもむろに立ち上がった。夢遊病者のような足取りで、よろよろと廊下へと出た。すると急に温度が下がり、あの邪悪な者たちの気配を感じた。濃密に立ち込める暗がりから、くすくすという忍び笑いが聞こえる。まるで恋人を守れなかった少年を嘲るかのように。

「出てきやがれ、悪魔め!」

 殺気を研ぎ澄ます周囲の闇へ向けて、黒峰響は半狂乱になって叫んだ。

「殺してやる! 殺してやる!」

 このとき響を駆り立てたのは、だが苦痛や諦念といった人並みの絶望ではなかった。

 魂も焼けつくような、言葉にならない激しい怒りだった。

「てめえら全員、ぶっ殺してやるッ!!」

 怒り狂った咆哮を放つ響は、死を恐れてはいなかった。その態度が暗闇に潜むものを戸惑わせた。当てが外れた、と言わんばかりの落胆と混乱が、周囲の闇に伝播した。

 この廃病院に迷い込んだ獲物のなかで、黒峰響は最も強靭な魂の持ち主だった。

 だからこそ悪魔たちは、その魂を恐怖で煮詰め、絶望に染めてから喰らうつもりだった。そのために手間暇かけて彼を追いつめ、友人と恋人の死というスパイスを加え、じっくりと〝料理〟していたのだ。

 だが、この結果はどうだ。

 普通の人間であれば、桁外れの恐怖と絶望の奔流に耐えきれず精神が崩壊する。そうして蹂躙された魂を喰らう。それこそが人間狩りの醍醐味、悪魔流の魂の贅沢な味わい方であった。

 だというのに、この少年は絶望に屈することはなかった。むしろ凄まじい怒りを滾らせ、人ならざる彼らに挑むことを選択した。

 そのことが悪魔たちに戸惑いを与え、ひどく苛立たせた。それが黒い殺意に転化するのは時間の問題だった。

 だが、果たして彼らは気づいているだろうか?

 その激情はきっと、目の前の少年が絶望をはねのけたことに対する動揺が原因であることに。

 響は周囲の闇がにわかに色めき立つのを感じた。廊下の扉が次々に開き、そこから漆黒の闇が実体化しながら襲いかかってくるのが見えた。だが、恐怖はなかった。もはや怒りと狂気だけが黒峰響を突き動かす全てだった。そして、おこがましくも「炎の男」などと謳われた無力な少年は、ただ一人の女も守れない、そのちっぽけな両腕を振り上げた。

 

 

 それからのことを、黒峰響はあまり覚えていない。

 両腕が砕けるまで拳を振るい、悪魔を何体か倒したところまでは記憶があった。

 だが、やはり多勢に無勢で追いつめられ、くまなく全身に喰らいつかれ、ライオンの群れに襲われるシマウマの気分を味わった辺りで彼の意識は暗闇へと堕ちていった。

 死の間際、黒峰響は無我夢中だった。

 ただ、ひたすらに叫びつづけた。

 死にたくない、と。

 その魂の慟哭を、確かに聞き届ける声があった。

 祟るような呪うような、それでいて誘(いざな)うような、暗い声。

 黒峰響を殺した悪魔たちと同種の、だが格段に威厳と風格の違う、上位存在の声。

 その声が、黒峰響を死の淵から甦らせ、彼と彼の仲間を殺した悪魔たちを皆殺しにするほどの力を与えた。

 それが、「黒峰キョウ」の誕生の経緯だった。

 しばらくの後に、黒峰キョウは、この時この瞬間のことを振り返り、こう述懐している。

 それはまさに契約の瞬間だった、と―― 

 

 

       4

 

 

 いつもの悪夢の終わりと同時に、キョウは目を覚ました。

 ぎしぎしとスプリングを軋ませ、質素なベッドから身を起こすと、戦闘的に引き締まった裸体が露わになった。齢十七の少年の肉体にしては、あまりに鋭利に研ぎ澄まされ、硬質に鍛え上げられた厚みだった。

 彼の隣には、こちらも全裸である若い女が、すやすやと寝息を立てていた。みごとな曲線を描く肢体が、乱れたシーツからはみ出している。キョウとさして年齢の変わらない、二○代前半くらいの女だったが、名前は思い出せなかった。どうせ行きずりで関係しただけの、一夜限りの女だ。「黒峰キョウ」になってからの彼の女癖の悪さは、いまに始まったことではない。

 キョウは首をすくめた。悪魔絡みの仕事を請け負うと、いつもこうだ。戦いを目前に控えると、どうしても血が滾ってしまう。胸の内で荒ぶる衝動を持て余した時は、こうして女の身体を使って発散することが常だった。

 この血の滾りは……黒峰キョウは両腕の、ぼんやりと光を放つ禍々しいトライバルタトゥーを見下ろした……きっと、こいつのせいだ。

 一年前、黒峰キョウは魂の盟約によって、その身に悪魔を宿した。

 彼の裡に巣食った炎の魔霊は、一度死んだ黒峰キョウを現世へと復活させる再生と引き換えに、ただ一つのことを望んだ。

 闘争――それも血で血を洗い、命を薪にして燃え続ける炎のような闘争を、だ。

 以来、黒峰キョウは契約に基づき、ヒトとしての生を剥奪され、闘争を継続していた。

 悪魔の欲望を満たすためだけに駆動する傀儡。死ねば今度こそ塵に還るが、魂の盟約に縛られる限り存在しつづける、かりそめの命。それが黒峰キョウの正体だった。

 衣服を着込み、トレードマークの紅いジャケットに袖を通したキョウは、女を起こさないように足音を殺しながら部屋を出、階段を下りた。一階は、がらんとしたボクシング・ジムだった。薄汚い街角に建つ、経営難によって放棄されたボクシング・ジムに、黒峰キョウは無断で居座り、そのロフトを寝ぐらとしていた。

 トレーニングに必要な器具はそのまま放置されていたが、キョウが気晴らしに手をつけるのはサンドバッグくらいのものだった。トレーニングとは、人間が己を鍛えるための行為である。悪魔の力を得た黒峰キョウにとっては、その理念からして既に破綻していた。かつては世界チャンピオンという高みを目指していた彼も、今となっては努力そのものに意味を見出せなくなっていた。そんなことをしなくても、ヒトがどれだけ頑張っても手の届かない領域へ、黒峰キョウは最初から到達していた。なぜなら彼は化け物だから。もうとっくに人間ではないのだから。見ろよ、強力なガムテープで補強されたサンドバッグも、オレが軽く小突いただけで破れる寸前じゃねえか。

 外へと出たキョウは、ジムの前に停めてある愛車のバイクに飛び乗った。見たところKAWASAKIがベースらしかったが、手の加わり方が半端ではなかった。キョウが手ずから、高出力のエンジンをさらにボアアップし、加えて駆動系を大幅に強化、おまけにトレッド長まで延長している車体構成は、もはや市販のバイクをドラッグレース仕様さながらのモンスターマシンに変貌させていた。人域超越の存在である黒峰キョウが運用する以上、その性能はヒトとしての操縦者の限界を度外視したもので構わない。その事実に皮肉な冷笑を浮かべながら、キョウはエンジンを始動させ、スロットルを開いた。日付が変わったばかりの夜の闇に、猛獣の咆哮のようなエキゾースト・ノートが轟いた。

 今回受けた依頼の内容は、少なくない人死にも確認されている地下の金網ファイトの実態調査である。むろん黒峰キョウが出張る以上、その〝調査〟が穏便に済むはずもなく、また件の金網ファイトに人ではない者の存在が一枚噛んでいることも予想に難くない。

 さぁ、今夜も仕事だ。キョウはやおらバイクのギアを直結させ、一気に走り出した。また悪魔を殺そう。このオレの、悪魔の力で。

 キョウの目はもう、希望に満ちた少年のそれではなかった。彼は魂と繋がっていないような目で、夜の帳の彼方を見ていた。バイクのヘッドライトさえ寄せつけぬ漆黒の闇のせいで、前はよく見えなかった。

 

 

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