Devil May Cry ~Flaming Heart~ 作:ユート・リアクト
「我々は悪と闘う最後の砦。人々は悪が存在することさえも知らない」
――映画『ヴァン・ヘルシング』より
1
俗にデビルハンターと呼ばれる、悪魔を狩ることを生業とする人間は、少なからず各所に存在する。
悪魔はまったくどこにでもいるため、デビルハンターも世界中のあらゆる地域で数を増やす必要があったからだ。いまや世界規模で人間社会に紛れ込む闇の勢力に対抗するべく彼らは協力し、より集まって、ある種の同業組合――いわゆるギルドのような形にまとまりつつあった。
そんな彼らの活動拠点として、政府もしくは個人が運営する、いわば職業安定所ともいうべき場所も、各地域に少なからず存在した。
メキシコの国境に程近い砂漠地帯に、ひっそりと建つ酒場「ワイルド・カード」も、デビルハンターご用達の拠点の一つである。入り口の扉はいかにも頑丈そうな樫の木で作られているが、いびつに歪み、割れている。開け閉めすら容易ではないだろう。そろそろ日付が変わろうとしている今でも、店の中からは怒鳴り声が絶えず、時にはそこに銃声さえ混じることもある。
明らかに、一般の客はお呼びでない、特殊な場所に違いなかった。
薄暗い店内の、あばたのように弾痕が散らばる壁からにゅっと突き出る頭の剥製は、この世の生き物のものではない。悪魔の生首が不気味に飾られる、悪趣味きわまりない店内は、およそ三十人ほどの客でごった返していた。
この酒場で新たな仕事を求めるデビルハンターには、ありとあらゆる種類の人間がいる。ただひとつ彼らに共通しているのは、人間界に出没する異界の敵と戦うということに、自分なりの確かな必然性を感じて、この仕事をしているということだろう。ある者にとっては、ほかの人間より抜きん出たいという願望を叶えるための挑戦であるし、ある者にとっては、固い信念に裏打ちされた世界に対する奉仕活動だ。ある者は宗教にその動機を持ち、ある者は復讐に動機を持つ。報酬の良さに魅せられた者もいれば、危険に魅せられた者もいる。彼らのほとんどは、悪魔と戦う自分なりの理由を持っており、見た目はまったく平凡な者でも、心の内に秘密を抱え、その秘密ゆえに、誰もやりたがらないこの極度に危険な仕事をあえて求めていた。
そのため客の誰もが尋常ならざる雰囲気を漂わせているが、中でも黒峰キョウは飛び抜けて浮いていた。
若すぎるのだ。この場で唯一の日本人であることや、武器らしい武器を持ち合わせていないことも奇異の対象ではあるものの、やはりその若さが何よりも先に目につく。むべなるかな。たった十七歳にして、デビルハンター(それも凄腕)を名乗れる人間が、この世の中に何人いるというのか。
「はいよ。約束通り、あたしの取り分が三割で、あんたの取り分が七割だ」
カウンターの奥に陣取り、ぐいっとテキーラのショットグラスを傾けているキョウに、若い女がたんまりと札束の入ったケースを差し出す。
この「ワイルド・カード」を切り盛りする、女店主のジョエルだ。栗色の髪をポニーテールに束ねた魅力的な女性である。裏稼業の連中を相手に商売しているだけあって口は悪いが、素敵な笑顔の持ち主であり、ほっそりとした肢体は要所要所の肉づきがよく、抜群のスタイルだった。
キョウが報酬を受け取ったのを確認し、ぐっと身を乗り出すジョエル。白いタンクトップの胸元を押し上げる魅惑的な谷間が、これでもかと強調される格好になった。
「さぁさ、今日こそツケを払ってもらうからね。溜まりに溜まった分、きっちりと耳を揃えて出しなよ」
「かたいこと言うなよ。この店を始める資金を出してやったのはオレだろ?」
「それとこれとは話が別だよ。あんた、今までどれだけ無銭飲食を繰り返したと思ってるんだい?」
「悪いが、この報酬の行き先はもう、決まっててね。特注で頼んだバイクの部品代と、こないだ悪魔狩りの時に壊しちまった建物の弁償で、また貧乏に逆戻りさ」
「……またかい。あまり派手に暴れ回るなって、あれほど言い含めといたじゃないか」
呆れ果てたとばかりに額に手を当て、ジョエルは軽い眩暈を堪えた。
黒峰キョウは確かに腕は良いものの、その暴れっぷりのせいで周りに余計な被害をもたらし、報酬以上の迷惑料をこしらえることが多々あった。
「あんたがツケを払い終えるのは、いったいいつになることやら。まったく、これじゃ幾つ仕事を持ってきてやってもキリがないよ」
「そう言わずにさ、また旨い話を持ってきてくれよ。ところでメシはまだか? 腹が減って死にそうなんだ」
「うるさいやつだね。そろそろ焼き上がるから、もう少し待ちなよ」
カウンターのキッチンに据えつけられた小さなオーブンが、そのとき景気のいいタイマー音を鳴らした。中から取り出されたのは、大盛りのドリアだった。こんがりと焼けたチーズとミートソースの香ばしい匂いが、はらぺこデビルハンター黒峰の空腹を大いに刺激した。
「はいよ、お待ちかね」
「お、いいねぇ。今日も美味そうだ」
子どものように顔を綻ばせるキョウは、さっそくテーブルに置かれたドリアにがっつきはじめた。
表面がかりかりして中がクリーミーなドリアが、見る見るうちに量を減らしていく。
「こらこら。もう少し落ち着いて食べなよ、はしたない」
「そうは言ってもな、オレははらぺこなの」
「あたしの姉ちゃんが得意だった料理だけどね、この店でそれを食べるやつなんて、あんたが最初で最後だよ、きっと」
そう言ってジョエルは苦笑するが、ひどく満足げであった。
まるで手作りのドリアをキョウが美味しそうに頬張ってくれるのが嬉しくてたまらない、とでも言うかのように。
「まったく。あんたは本当に単純な欲求でできてるねぇ」
「まぁな。狩りと食欲と、性欲と……」キョウは、これ以外は思いつかないとばかりに繰り返した。「性欲かな」
紅い少年の女癖の悪さを知っているジョエルは、あからさまに顔をしかめた。
「……あんたの財布と同じで、ズボンの中身もシケてるっていうのにねぇ」
「おいおい! オレの自慢のブツを見たことあるのかよ、ティキ?」
「ちょっと! あたしをその名前で呼ぶんじゃないよ」ジョエルはぴしゃりと叱りつけた。「男の子みたいで好きじゃないんだよ、本名は」
「だからって何でまた娼婦だった頃の偽名を使うんだよ? 名前は大事なんだぜ。何せそいつの魂を表す雛形だからな」
それにさ、とキョウは言葉を続け、
「いい名前だと思うぜ、ティキってのはよ」
そう言ってキョウは無邪気に笑った。憎まれ口を叩かれ、好まない本名で呼ばれ、さんざんツケを踏み倒されているにもかかわらず、ジョエルが彼を嫌いになれない最大の理由が、この幼い笑顔だった。
「はいはい。調子のいいこと言ってないで、さっさとドリアを食べちまいな。次の仕事の話があるんだからね」
ぶっきらぼうにジョエルが言った。その照れたような言い方が、キョウのお気に入りだった。
キョウは手早く、それでいてしっかりと味わいながらドリアを片づけ、テキーラで締めくくると、すぐさま仕事の話を催促する。仕事への真面目さ、というより、おのが欲望に忠実に従った積極的な態度。とりあえず腹の虫を鎮めた焔拳の狩人は、お次は地獄でバーベキューをご所望であった。ジョエルは満足げに頷き、数枚の書類を取り出した。
「ここからそう遠くない森の中に、どこぞの金持ちが建てた洋館があってね、そこが悪魔の巣窟になってるらしいんだ。今回の仕事は、その洋館の調査および悪魔の殲滅だよ」
そこでいったん話を区切るように、ジョエルはジーンズのポケットから取り出したタバコに火をつけた。仕事の話をする時、彼女は決まってタバコを口にする癖があった。
安っぽい、三級品の葉を使った紙巻きである。かつてジョエルの父親が愛飲していたこのタバコを、彼女もまた好んで常用していた。その煙が漂ってくるのを、キョウはうるさそうに手で追い払った。
「相変わらず、こいつは嫌いらしいね」
「オレがやるのは酒だけだ。自分で自分の肺をヤニ漬けにして楽しいかよ?」
「ふん、お子ちゃまな屁理屈だね。あんたこそ未成年のくせに一丁前に飲酒してるんじゃないよ。常識を振りかざすつもりはないけど、お酒は二十歳になってから、だよ」
ジョエルは微笑し、タバコの火をもみ消した。
彼女にとって困った弟のようなキョウの物言いや反応が、彼女には愉快でたまらないのだ。
「仕事の話に戻るよ。今回の仕事、依頼料は二十万ドルと高いが、危険度も相当なものだよ。実はこれと同じ依頼をちょっと前にコルネが受けたんだけどね、あの子はそれきり、帰ってはこなかった」
「……あのコルネが? 冗談だろ」
キョウはわずかに目を見張った。コルネはキョウと同じく若手のデビルハンターで、しかもまだ少女期を抜けきらない年頃だったが、その実力は折り紙付きだった。彼女が歩く武器庫のようになって悪魔のテリトリーと化したナイトクラブを一掃したことを、キョウは知っている。自分の信じる正義に頑なで、お人好しで、なにより悪魔狩人などという危険な職種に似つかわしくない、はつらつとした性格と天真爛漫な笑顔が魅力的な可愛い子ちゃんだった。
だけどもう、あの笑顔を見ることはない。悪魔との戦いに負ければ、待ち受けるのは蛆虫の餌になるよりも悲惨な運命だけだ。黒峰キョウは一度、そのことを身を以って経験していた。
「この業界にいると、つくづく思うけど」ジョエルは老婆のように悟りきった声で言った。「いいやつほど先に死んじまうねぇ」
本当に、いい子だった。ジョエルは胸の内で繰り返した。できることなら、こんなヤクザな仕事から足を洗って、普通の女の子として生きてほしかったけれど……やや俯いて口を閉ざしたジョエルの沈黙は、あるいはコルネに対する彼女なりの黙祷なのかもしれない。
「みんな、いつかは死ぬんだ。慣れたほうがいいぜ」
魂と繋がっていないような目で、そう諭すように言うキョウの冷淡な態度が、しかしジョエルにとってはまったく腹立たしくない。裏稼業の人種には珍しく、彼もまた人の死を悼むことができる人柄であることを、ジョエルは過たず理解していた。ただ、そういう感情を表に現すことを嫌っているというだけで。
ジョエルに言わせるところの「いいやつ」とは反対に位置する、まさに「嫌なやつ」が、そのときキョウに絡んできた。
「よぉよぉ、どうしたよ? キョウ。シケた面ァしやがって」
一日の大半をバーベルを持ち上げて過ごしているような体格をした男が、いきなり酒場の相棒にするようにキョウの肩へ腕を回した。
その妙に馴れ馴れしい態度に、むしろジョエルのほうが憮然となる。
「ジョヴァンニ、何の用だい?」
「やぁジョエル。相変わらず、いい女だな」
ジョヴァンニと呼ばれたイタリア男は、粘着質な笑みを浮かべてジョエルに振り向いた。
「俺様はよぉ、こいつが辛気臭せぇ顔してやがったから、心配になって声をかけたんだ」
口調こそ親しげだが、キョウを見るジョヴァンニの目は笑っていない。
齢十七にして凄腕の評価を得、破格の報酬を勝ち取っている黒峰キョウを妬む同業者は、少なからず存在する。ジョヴァンニもまた、そういう手合いの一人だった。人並み以上にプライドの高い彼は、何度となくキョウに因縁をつけ、どちらが本物の男かを決めるべく勝負を仕掛けた。しかし言うまでもないことだが、そんな風に息巻いて挑戦しても、結果は悲惨なものだった。今のところ、戦績はキョウの全戦全勝。つまりはジョヴァンニの全敗だった。
「こいつの顔があんまりに見てられねえってンで、つい世話を焼きに来ちまった」
しかし、それでもまだ懲りずにこうしてキョウに絡む辺り、彼のしつこさには並々ならぬものがあった。その原因として、ジョエルの存在があった。ジョヴァンニの女好きな性癖が、ジョエルに対して食指を動かしたのだ。彼女は二十代半ばの女盛り。娼婦だった頃の苦労が目元に倦み疲れた陰を刻んでいるのが玉に瑕だが、それでもメリハリのきいたプロポーションは魅力的の一言に尽きるし、髪と同じく栗色の瞳には、力強さと自信が漲っている。
これほどのイイ女が、その安売りしない素敵な笑顔を、よりによって小便臭いガキにだけ向けている。この俺様を差し置いて。そのことが、妬ましかった。ジョエルが黒峰キョウと独占的なマネージメント契約を結んでいることもまた、二人が仕事関係を越えた親密な仲であることの証左としか思えなかった。何度かジョエルにちょっかいをかけても、ことごとく鼻であしらわれ、まったく相手にされないのは、そのためではないか。
ジョエルに言わせれば、まったくもって傍迷惑な話でしかない。このイタリア男は下手な話術で気を引こうとし、下ネタのジョークにかこつけて自分の精力の自慢ばかりしてくるのだ。彼女にとって恋愛対象になるどころか、自分とその発言のキモさに気づいていないのが怖い、というのが偽らざる正直な本音だった。
だというのに勝手に嫉妬の炎を燃え上がらせたジョヴァンニは、いよいよ本気になって牙を剥きにかかった。
「おめえが好きそうなやり方で元気づけてやるぜ、坊や。それとも血を見るのは怖ぇか?」
そう言って懐から取り出された銀製のナイフが目にも止まらぬ速さで閃き、キョウの首筋に押し当てられていた。それも微妙に皮膚へ食い込むか食い込まないかという、絶妙の力加減で。ナイフをただの凶器としてではなく、おのが肉体の延長として扱う、達人の手捌き。彼のニックネーム、ジョヴァンニ「切り裂く者(ザ・リッパー)」の名は、決して伊達ではない。
これまでは酒場のルールに則った飲み比べや力試しの腕相撲などで男を競っていた。しかしジョヴァンニは、ついに得物を持ち出した上で腕っ節を決めようというのだ。
酒場で揉め事が起こるのは当然だし、それが流血沙汰にまでこじれることも往々にしてある。だが、それが歓迎すべきことであるかどうかを問えば、答えは否である。少なくとも、この酒場を経営する女店主にとっては。
「よしな、ジョヴァンニ」
さすがに見咎めたジョエルが、革製のヒップ・ホルスターから愛用のコルト・パイソンを引き抜き、その銃口をカウンター越しにジョヴァンニのこめかみへと押し当てていた。裏稼業の連中を相手に商売しているだけあり、ほっそりとした見た目の彼女もまた、荒事に関して心得がないわけではない。リボルバーの最高傑作とも呼ばれる無骨で巨大な拳銃が、ジョエルの細腕に不思議なほど馴染んで見えた。
「あたしの店でトラブルはご法度だよ。出入り禁止どころか、そのドタマに新しいケツの穴を開けられたくなかったら、さっさとナイフをしまいな」
あんたの脳ミソなんて、かき集めたくもない。そう言外に語り、まなじりを決するジョエル。
猛獣すら仕留めるマグナムリボルバーに狙いをつけられては、さしものジョヴァンニも饒舌を止めて押し黙ったが、ジョエルの言葉に従う様子はなかった。彼とて人外を始末してきたデビルハンターとしての戦歴がある。こめかみに押し当てられる銃口の冷たさに表情を引き締めこそすれ、その程度で怖気づいたりなどしない。
一触即発の事態に気づいた酔客たちが、はやし立てるように無責任な歓声を上げる。ジョエルは舌打ちした。酒場においてケンカや暴力は、それが自分に降りかからない限りは一種の娯楽として機能する。ましてここに集うのは人型の修羅、デビルハンターである。血を見るのが日常的な彼らにとって、このケンカや暴力の域にない戦闘行為の予感は大いに興味を惹くものであり、もはや場の雰囲気は開始のゴングを待つ試合会場のテンションさながらだった。これをどう収めろと言うのか。
無血の解決策を模索するジョエルの苦悩を他所に、この剣呑な事態の中心にいる黒峰キョウは、むしろ場の雰囲気を楽しんでいるかのようだった。喉元に押し当てられているナイフの鋭さも、さして気にした様子はない。
「面白れぇ、受けて立つぜ」
「キョウ!?」
にやりと笑ってジョヴァンニの挑戦に応じる構えのキョウに、ジョエルが驚きの声を上げ、周りの歓声がさらに大きくなる。
「銃を下ろせよ、ジョエル。これはオレに売られたケンカだぜ?」
「だけど……」
「ジョエル?」
静かな眼差しに有無を言わせぬ迫力を秘めたキョウの目に見つめられては、ジョエルも引き下がるしか他にない。渋々といった態でジョヴァンニのこめかみに押し当てていた銃口を下ろし、早撃ちで有名なガンマンのようにパイソンをクルクルと回転させてホルスターに収める。
とはいえ、やはり気が気ではなかった。彼女がジョヴァンニの制止にかかったのは、もちろんビジネス・パートナーを庇う意図もあるが、小競り合いによって店に被害が出ることも懸念してのことだ。ところがキョウまで荒事に乗り気となると、いよいよ後片付けと修理を覚悟せざるを得ないジョエルである。彼の経済事情を顧みれば容易にわかるように、黒峰キョウという男は、こと破壊と損害賠償の生産にかけたら、ちょっとしたものなのだ。
「さぁ、これでやりやすくなっただろ? いつでも来いよ、スパゲティー野郎」銃口の縛りがなくなって自由を得たジョヴァンニを、キョウは振り向きもせずに言った。「最初の一撃は譲ってやる」
依然、スツールに座ったまま先手を許可しただけでなく、ジョヴァンニを見ようともしない黒峰キョウは、よほど肝が据わっているのか、あるいはどうしようもない馬鹿なのか。
いずれにせよ、こういう舐めた態度が気に食わないジョヴァンニである。
「ヒュー♪ かっけーな、キョウ。赤面しちまいそうだぜ!」
あえて茶化すように言いながらナイフを振りかざした時にはもう、ジョヴァンニの顔から見せかけの笑みは消え失せていた。
「俺様の名前を顔に刻むぞ、こら」
冷たい殺意とともに一閃されたナイフの切っ先が、ついにキョウを襲った。
人間はもとより悪魔にも通ずる練度を極めた、芸術的な一撃。
ひたすらに速く、ひたすらに鋭い。
見守るギャラリーの目にも、かすんで見えないほどだ。
「な――」
驚きは、なのにジョヴァンニのものだった。
キョウの顔面に名前を記入するはずだった銀製のナイフは、その数センチ横で停止していた。
鋭利な切っ先を、なんとキョウの人差し指と中指のあいだに挟まれた状態で、だ。
「赤面したか?」
達人の一振りを、事もなげに指で挟んで止めてみせたキョウは、にやりと笑ってようやくジョヴァンニのほうを向き、立ち上がった。
イタリア人は慌ててナイフを引き抜こうとするが、まるで万力に固定されたかのように、ぴくりともしない。顔を真っ赤にし、その全身がプルプルと震えるほど渾身の力を振り絞っても、どうにもならなかった。
「ば、化け物が……!」
「そう言われることは、よくあるな」
皮肉に笑うキョウの片腕は、空いている。
次の瞬間にはもう、驚愕と怒りに表情を歪めるジョヴァンニの顔面に、鉄拳がめり込んでいた。
「次にオレとやるときは、武器を選ぶんだな。スパゲティー野郎」
殴り飛ばされた拍子にジョヴァンニが思わず手放したナイフを弄びながら、キョウは懇切丁寧にアドバイスした。
「こんなチャチな板っ切れでどうにかなるほど、オレはやわじゃないからよ?」
鼻血を噴出させて昏倒したジョヴァンニには当然、返す言葉はない。
決着を見届けた観客の反応は、ことのほか静かなものだった。称賛の歓声ではなく、畏怖のどよめきに包まれるのが、黒峰キョウの強さを目の当たりにしたときの恒例だった。キョウが人間ではないという事実を唯一知っているジョエルだけが、この結果を当然のこととして受け止めていた。
「悪いな、騒いじまって」
キョウは床の上に大の字に倒れたジョヴァンニにはもう一瞥をくれることもなく、いたずらを悪びれる子供のように笑ってジョエルに言った。あっさりと毒気を抜かれたジョエルは、結果的に店に被害もなく収拾がついたことも手伝って、苦言を呈すことはなかった。むしろ軽薄なイタリア男が痛い目を見たことに、すかっとした様子である。
「謝らなくてもいいさ。むしろ、ありがたいくらいだよ。前からそいつにはムカついてたからね」
「そう言ってやるなよ。こいつは嫌なやつだが、だからといって悪いやつじゃないんだ」
「無視に限るよ、こんなのは。あたしはイタリアンは好みじゃないんだ」
ジョエルは紅い唇を吊り上げ、意味深げにキョウを流し見た。
「どちらかと言うと、日本食が食べてみたいねぇ」
女盛りの彼女がそうした仕草をすると、なんとも言えぬ色っぽさがあった。
食ったらあたるぜ。キョウは苦笑し、テーブルに置かれた書類を手に取った。
「この仕事、受けるのかい?」
ジョエルは、あえて意外そうに訊いた。どれほど危険が見込まれようと、それが悪魔絡みの一件である以上、キョウが引き受けないはずがないということを、彼女は承知していた。
「受けるさ、もちろん。でないとコルネが浮かばれないだろ?」
そう言ってキョウは笑った。その笑みに幼さはなく、すでに戦士としての獰猛さを帯びていた。
「はいよ。気をつけて行ってきな」
背中越しに軽く手を振って、キョウはワイルド・カードを後にする。
タフな外見のすぐ下にある少女の名残が、しっとりとした眼差しで紅い背中を見送った。
2
黒峰キョウが出て行った後のワイルド・カードでは、こんな会話が交わされていた。
「聞いたかよ? 例のデビルハンターの話」
「もしかして、「銃撃姫」のことか?」
「そうそう。きれいな金髪を持つ、白い服を着た謎の女狩人さ」
「ガンスリンガー(銃使い)が珍しくもないデビルハンターの中にあって、そんな仰々しい異名を与るほどだ。相当な使い手だってぇ噂だぜ」
「仕事の成功率は百パーセント。最近じゃ黒峰キョウと並ぶ凄腕中の凄腕。たしかに名前負けしない評価ではあるがよぉ、そんなやつ、ほんとに存在するのかね?」
「おれも実際に見たこたぁないが、貞淑な令嬢とも、妖艶な美女とも言われてるよな」
「もしかしたら、よく似たデビルハンターがもう一人、いるのかもな? どちらにせよ、白い服を着た美しい女だってことから、「白の狩人」とも呼ばれてるみたいだぜ」
「最も馬鹿げた噂じゃ、たった一代で巨万の富を築き上げ、数年前に謎の死を遂げた、あのゾルダーク・エンタープライズの先代社長の一人娘が、銃撃姫の正体とも言われてるそうだ」
「あの、ちっこいお嬢さんが? まさか」
「確かに貞淑な令嬢ではあるがよ、虫も殺せそうにない小娘じゃねえか」
「まぁ、あくまで噂だよ。噂。ちょっとした都市伝説ってやつだ」
「そうだろうよ。あんな娘っ子が銃を振り回して悪魔を倒してるとあっちゃア、おれたちの立つ瀬がねえってもんだぜ」
「ははは。まったくだ」