Devil May Cry ~Flaming Heart~ 作:ユート・リアクト
「この世には無限のものが二つあるわ。女の美しさと、それを乱用することよ」
――映画『ニキータ』より
1
書類に載っていた地図を頼りに、黒峰キョウは郊外の森の未舗装道路に愛車のKAWASAKIを乗りつけ、その突き当たりにある鉄の門の前でバイクを停めた。
門の向こうには、件の洋館が建っていた。その古めかしいゴシック建築風の屋敷は、悪魔の巣窟と化しているという。死人のように蒼褪めた月明かりに照らされ、ぼんやりと浮かび上がった洋館は、まさしく巨大な怪物といった趣よろしくそびえ立っていた。その通り、あの洋館のなかは怪物の胃袋とさして変わりはない。
あのコルネをも死の顎で飲み込んだ魔所(デス・トラップ)である、いったいどれほどの人外魔境なのかと、そう不謹慎な期待を覚える黒峰キョウは、まずは気になるものを見咎めた。
両側を石塀で挟まれた鉄の門の前に、キョウよりも先に誰かが乗りつけた車があったのだ。
「すげぇ車だな」
その流麗なフォルムが目を惹きつける、イエローカラーをしたスーパー・スポーツカーのボディラインに、滅多なことでは驚かないキョウをして感嘆の声を禁じ得ない。
ランボルギーニ・ディアブロ。空気抵抗を意識した低い車高とスイングアップ(跳ね上げ式)ドアが特徴的な「黄衣の死神」である。前から見れば大人しい印象の車体も、その後ろ姿は迫力に富み、まさに猛牛の威風を漂わせている。
これほどの高級車がどうして、こんな辺鄙な場所に? キョウは小首を傾げた。敷地外に停めてある以上、この洋館に住まう人間の持ち物ではないだろうし、そもそも現在この屋敷に居を構えるのは人ならざる夜の住人たちだ。ならばキョウと同じく、屋敷に巣食う悪魔を一掃しに訪れた同業者の持ち物なのだろうか。ダブル・ブッキングの可能性を考慮しながら、キョウは南京錠もない門を押し開け、敷地内へと足を踏み入れた。
数歩進むと、彼の背後で鉄の門が独りでに閉まった。キョウはリアクションを軽く首をすくめるだけに留めた。悪意ある力によって門が固く閉ざされてしまったのは確認するまでもない。
「意外にハイテクだな」
冗談めかしてキョウは呟き、正面にある玄関前のポーチへと続く石畳の小道を進んでいった。
間近に迫る洋館の外壁は、少し前まで使用人による手入れがなされていた痕跡があったが、ここを乗っ取った闇の勢力による瘴気にさらされ、すっかりさびれていた。所々が黒ずみ、どこか生物的なおぞましい質感さえ感じさせる。まさしく悪魔の根城と化してしまった建物に特有の雰囲気である。
両開きの玄関扉の両端には、二体の巨大な石像があった。過去、屋敷を訪れた数多の者の死に行く様を傍観しつづけてきた石像だ。その石像を見上げてキョウは思った。気に食わねえ造形だぜ。そう決めつけるように思うのも、あるいは屋敷の放つ不気味な気配が影響しているからかもしれない。
ここまで近づけば、もはや疑いなく確信できた。この洋館は邪なものを受胎している。キョウの全身が、神経線維の末端に至るまでのすべてが、この忌々しい屋敷から漂ってくる暗い空気に敏感すぎるほどの反応を示していた。
「鬼が出るか、蛇が出るか……おいおい、なんだか武者震いしちまうぜ」
冗談めかして独りごちるが、その表情に軽薄さはない。
久しぶりの緊張感に痺れにも似た血の滾りを感じながら、いよいよ中に入るべく玄関の大扉に開きにかかり――思い直したかのように手を止めた。
扉の向こうの玄関ホールから、悪魔のものとは違う、人間の気配を感じ取ったからだ。職業柄、そういった感覚は鍛えてある。もしかしたらランボルギーニの持ち主かもしれない。つまり同業のデビルハンターに相違なかった。普通、悪魔の根城と化した場所に一般人が迷い込めば、その気配に焦りと怯えがあるはずなのだ。それが、ない。あるのは闇に抗おうと強く鼓動する生命の気配と大きな闘気だけだ。もはや仕事のバッティングは確定的であった。
第三者の存在を認識したキョウは、このまま鉢合わせてコンバンワするのも味気ないと思い、まずは同業者の正体を、こちらの存在に気づかれない遠巻きから確認することにした。挨拶するのは、それからでも遅くない。悪魔狩りに高級車を乗りつけてくるような手合いなのだ。どんな奇人変人なのか、少しばかり興味があった。
ポーチを逆戻りし、屋敷の外壁に沿って歩くキョウは、間近なところにあった二階の窓の真下で足を止めた。その窓まで壁伝いに一気に跳び上がり、わずかな凹凸にしがみついて窓を開けにかかる。入り口の門と同じく、窓のほうも無防備な状態だった。ろくに鍵もかかっていない。悪魔の根城と化した建物は、むしろ歓迎するような容易さで侵入者を招き入れる。来る者拒まず、去る者逃がさず、というだけで。
案の定、音を殺して中へと侵入したキョウの背後で、窓が見えない力によって勝手に施錠された。そのことを気にも留めず、二階の廻廊へと降り立ったキョウは、室内空間の広大さと贅沢さに目を奪われた。
天井の高い、広々とした玄関ホールは二階まで吹き抜けになっており、玄関扉から入った真向いには二階へと続く石造りの大階段が伸びている。大階段は中二階ほどの高さまで伸び、そこからYの字のように左右に分かれ、いまキョウの位置する二階の廻廊へと達していた。
キョウは木製の欄干の終わりに鎮座する彫像の陰に身を潜め、こっそりと眼下の壮大なロビーを見下ろした。縦溝彫りの壁の突き出し燭台に照らし出された玄関ホールは、それはもう絢爛豪華な有り様だった。床はタイル張りの大理石だし、その上に毛足の長い年代物のペルシャ絨毯が敷き詰められている。その贅沢なカーペットは、もちろん二階へと続く階段にまで及んでいる。壁際を彩るのは、いまキョウが陰に身を潜めているものと同じ堂々とした彫像、鮮やかな色彩の絵画、豪華な古美術品の数々。
そして、その中心にデビルハンターは立っていた。
キョウの位置からでは後ろ姿しか確認できないが、それでも際立って美しいと判別できる女性だった。小柄な全身から漲る自信と華やかさとが、ある種のオーラともいうべき瑞々しい存在感となって彼女を輝かせているのだ。周りの高価な調度品の数々も、その女性の前では恥じらうように光沢を失い、影を潜めているほどである。
夜を蹴散らす暁の曙光さながらのブロンドの髪が、黄金色の波となって白いコートの背中へと流れ落ちていた。
(……金髪で白い服の女? はて、どこかで聞いたような……)
キョウが記憶を呼び起こすより早く、状況は生じた。
燭台の明かりに追いやられ、壁際にわだかまっていた闇が、そのとき実体化を果たしてブロンドの女狩人を取り囲んでいた。いずれも外見に差異はあるものの、邪悪な印象は等しい闇から生まれた黒い影は、人ならざる暗い声で、口々に叫ぶ。
(女……人間の女……)
(この匂い……処女か)
(なんと高潔なる魂よ)
(穢れを知らぬ乙女、我らの好餌……)
猟場に迷い込んだ人間が極上の獲物であると知り、彼らの髑髏にも似た顔に、あからさまな欲望の色が浮かぶ。胡散臭い黒魔術の本にもあるように、悪魔は処女には目がない。清楚な雰囲気を持つ、白い衣服に身を包んだ彼女の姿は、まるで神の御使いだ。この女を落とすのはさぞ楽しいだろう。
「私の身体が目当てのようですが、ご自分の身の程を間違えないことですね」天使の息かと思えるような耳に甘い声が、腐った肉片ででもあるかのように吐き捨てる。「私にブタと遊ぶ趣味はありませんよ?」
人外の欲望の対象となった彼女は、しかし動じる様子など欠片もない。どころか周囲の闇に向けて挑発の言葉さえ投げていた。キョウは思わず笑ってしまった。ずいぶんと口の悪い天使様だな。
その不敵な態度に、にわかに殺気立つ黒い影たち。枯れ木のような手が握る死神の鎌が、処女の血を求めてぎらつく。ブロンドの女狩人は肩をすくめた。幾重にも包囲されているというのに、あくまでも平静な佇まい。この程度、危機でも何でもないと言わんばかりに。
「私たちに逆らわないほうがいいですよ。どうせ勝ち目はない」
(たち? 貴様の他に、仲間がいるというのか?)
キョウは一瞬、自分のことかと思い、どきりとした。まさかオレの存在がバレてるのか?
だが、そうではなかった。
女狩人は、まるで自分の友人を紹介するような気安さで、こう言った。
「ええ。私の愛銃、SIG・P210カスタム「ブリムストーン&ヘルファイア」ですよ」
次の瞬間にはもう、彼女の両手のなかには漆黒の輝きを放つ拳銃が二丁、握られていた。
ともに「地獄の業火」の名を冠する、双子の銃。
コートの袖の内側に仕込まれた特製ホルスターから、ワン・スナップで引き抜かれた二丁の拳銃が、まずは左右にいる悪魔の眉間をブチ抜く。女狩人はパーティの始まりだと言わんばかりに嬉々として叫んだ。
「Let's Rock,Baby!」
たったいま射殺した悪魔の消滅を待たず、くるりと翻った銃口が、前方の群れを薙ぎ払いにかかった。
炎が吼える。
まるでマシンガンのような、二丁拳銃の猛連射。床を覆っていく硝煙に焼けた空薬莢。数十匹の不運な悪魔が、あっという間に闇へと還元されていく。
瞬きする程度の僅かな間に、一方的な蹂躙が始まっていた。
だが不運なのは、あくまで前方の群れだけである。彼女の左右背後にいた悪魔たちは、その限りではなない。仲間が蜂の巣にされている隙に、複数の殺意が女狩人に襲いかかっていた。
キシャァァァ、という雄叫びと共に振りかざされる死神の鎌は、しかし白い背中まで到達できない。
「見えていますよ」
まるで背中にも目があるかのように、彼女は不敵に笑い飛ばした。
左手のブリムストーンが脇の下から背後の悪魔を狙い撃ち――かと思うと、右手のヘルファイアは前方への牽制を維持しつづけ――かと思うと、いきなり両腕をクロスさせて左右の敵を追い散らし――かと思うと、今度は肩越しに背後へ発砲――かと思うと、二つの銃口は再び前方へ。
四方八方、全方位。
めくるめく激しさで動き回る両腕と、二丁拳銃ならではのトゥーサムタイム。まるで見えない魔法の輪のなかで守られているかのように、彼女に死角はない。
「Is that all you got? どうしました。まさか、それで全力とでも言うつもりじゃありませんよね?」美しい乱射魔は接近すらできない影たちを嘲笑った。もちろん、その間も彼女の両腕は忙しなく銃を撃ちまくっている。「そんな程度じゃ私に殺されるしかないでしょう」
全てのガンスリンガーの宿命ともいうべき弱点が、そのとき到来した。
弾切れである。
両手の銃のスライドが後退したまま停まった瞬間を見咎め、それまで釘付けにされていた悪魔たちが、ここぞとばかりに飛びかかった。弾を撃ち尽くした銃器に、なす術はない。
リロードの暇さえなく、蜂蜜に群がるアリのごとき影たちを見上げるしかない彼女の表情は……不敵すぎるほどの冷笑。
黒峰キョウは次の刹那に待ち受ける一連の動作を、感嘆の眼差しで見守ることとなった。
彼女は、いの一番に降りかかる鎌の切っ先を、紙一重の見切りでやり過ごしながら、まずはブリムストーンのマガジンキャッチを親指で押し、空の弾倉を排出する。そうして落下するマガジンが地面に落ちるより早く、そのマガジンを空中で蹴り飛ばした。即席の飛び道具と化したマガジンが一匹の悪魔に直撃し、時間を稼ぐ。その隙にヘルファイアの空の弾倉も滑り落とした。
あとは新しいマガジンを装填するだけ――させじと振り下ろされる凶刃は、だが一撃たりとも血に濡れることはない。攻撃のことごとくを、ひらひらとした動作で回避してのける彼女は、まるで舞い散る花びらのようだ。ともすれば、それは踊っているとも形容できた。
そうやって華麗に攻撃をかわしながら、彼女は両の手首をひねった。その手に持つ銃のマガジンボックスが、コートの袖口を向くように。すると袖口の奥からアームが伸び、あらかじめアームの先端に取り付けられていたフルロード(弾が満タンに入った)状態の弾倉が、そのままマガジンボックスに運び込まれていた。銃使いにとって致命的な隙となるリロードの手間を、瞬時に、かつ自動で行うギミック。
ようやく訪れた反撃の機会がもう、早くも失われてしまったことを理解し、やや呆然とした様子を見せる影たち。
ブロンドの女狩人は戸惑う悪魔の、ぽかんと開いた口に銃身を突っ込み、悪戯っぽく微笑んで引き金を引いた。「BLAME♪」
また一匹、仲間を無惨に殺された悪魔たちは、動きを止め、じりじりと遠ざかりつつあった。
静かな驚愕が、あるいは戦慄が、このとき彼らの中に伝播していた。
どうして冷静でいられようか。
たかが人間が、それも小娘が、たった一人で闇の軍勢を圧倒しているという、信じがたい現実を目の当たりにして。
「情けないですね。腰が引けてますよ?」
次第に距離を開きつつある悪魔たちに向けて、白の狩人は微笑みかけた。
不敵な、そして不吉な彼女の微笑み。
なまじ獰猛さが似合わぬ清楚な顔立ちをしているだけに、まるで悪い夢でも見ているかのような絶望を、悪魔たちは感じていた。
人を恐怖で縛り、その絶望を喰らう存在である悪魔たち自身が、だ。
「なんて甲斐性のない。レディの一人もエスコートできないんですか、あなた達は」
ならばこちらから行きます、と宣言した直後、強力な弓から放たれたように白い影が疾った。
黄金色の髪が翻る。
さっきまでの花のように優雅なステップとは一変した、雷光のごときスピード。
もはや一方的なダンスの舞台が幕を開ける。
小気味よい射撃音のリズムと、マズルフラッシュのスポットライト。
その中心には常に美しいガンスリンガーの姿があった。
銃撃姫(レディ・ザ・ファイア)――それが彼女のステージネーム。
見守る黒峰キョウはすっかり魅了されてしまっていた。世界にこんなセクシーな姿はない。美人が華麗に銃を撃ってやがる。まったく……惚れるぜ。
稲妻のようなフットワークで動き回り、過たず鉛玉のキスを浴びせかける彼女と互角に戦える者は、この場には存在しないかのようだった。
なす術もなく撃ち抜かれ、散り散りになって闇へと還元されていくばかりの悪魔たちには、反撃どころか逃亡の余裕さえ見当たらない。
彼女の銃撃の餌食になったその瞬間、悪魔たちは声ならぬ声で哭き叫ぶ。
(憎い、憎い……)
(我ら夜の眷属が、こうも容易く……)
(助けてくれ……頼む、助けてくれ)
異口同音のその叫びは、あたかも哭き声のように部屋中に木霊する。
「いいでしょう。助けてあげます」彼女は、そう言って引き金を引き、助けを乞うた一匹を真っ先に射殺した。「はい、助けてあげました。これで楽になったでしょう?」
キョウの耳にさえ一発としか聞こえなかった銃声のうちに、彼女は三度、引き金を引いていた。
トリプルクイックドロウ(三連続早撃ち)――ほとんど同時に三発の銃弾をお見舞いされた悪魔は、悲鳴すら上げることなく消滅する。
凄まじい速射を披露した彼女は、そろそろ百発に近い弾丸を撃っているところであろうか。
にもかかわらず、その両手の二丁拳銃に疲弊した様子はまるでなかった。
普通、短時間のうちに数十発も連射した場合、火薬が発する炎や、弾丸が通り抜ける際の摩擦によって、銃身は非常に加熱する。P210は確かに頑丈な銃ではあるものの、これほど過剰な扱い方をして無事に済むようにはできていない。白の狩人の銃を根本から痛めつけてしまうような射撃のスタイルに酷使されては、ほとんどの銃が負荷に耐えきれず、熱で鈍るか機構がイカレてオシャカになるしか他にないはずなのだ。
――それがブリムストーン&ヘルファイアでなければの話だが。
優れた銃器は、その特殊性から量産できない。工作精度の高さのせいでコストを抑えることができないからだ。精密工作技術の高さで知られるスイス製らしく、非常に完成度の高いP210も、そういった理由で商業的には成功していない。
だが逆に、〝商業的な成功を度外視して、ひたすらに性能の高さを追求〟すれば、そう簡単には疲弊しない強靭な拳銃が出来上がる道理である。白の狩人が愛用する、いわゆるカスタム・メイドの双子の銃も、そういった経緯で完成した業物であった。
この高価な二丁拳銃を作り出すために、どれほどの費用が注ぎ込まれたのだろうか。万年貧乏が抜けない黒峰キョウには想像するだけ途方に暮れる領域の話だが、それも「彼女」であれば何ら不思議ではない。ようは金さえあれば実現する話なのだ。そして「彼女」は、いわゆるセレブリティや億万長者と呼ばれる部類の人間であった。しかも彼女の所有する企業は、そういえば兵器開発部を持ってはいなかったか。
にわかには信じがたいが――悪魔を相手に大立ち回りを演じる御令嬢の顔は、キョウにとって既知のものであった。
どこかで見たことのある顔だとは思ったが、ようやく思い出した。
世界でも有数の大企業、ゾルダーク・エンタープライズの筆頭株主であり、いまは亡き先代社長の一人娘。
大富豪かつ慈善事業家として世に知られ、たまたまキョウがテレビをつけたところを、チャリティ・イベントに出席する、カクテルドレスの美しさも極まる姿が映っていた彼女。その名は――
「フィーネ・ゾルダーク――馬鹿げた噂だと思っていたが、まさか本当にデビルハンターだったとはな」
キョウは思わず声に出して呟いていた。間違っても自分には縁がないと思っていた、華やかな世界の資産家令嬢が、まさか同業の悪魔狩人、しかも噂に伝え聞く「銃撃姫」の正体であるともなれば、驚くなというのが無理な話だった。
「そろそろ、終わりにしましょうか」
彼女――フィーネは、遊びに飽きた子供のような口調で言い、わずかに生き残った悪魔たちを見渡す。
「返してあげます、あなた達の世界へ」
フィーネは間近な位置にいた、どんくさい悪魔の頭を蹴りつけ、宙を飛んだ。
重力のくびきを断ち切ったかのような身軽さで舞い上がり、シャンデリアを越え、天井に届くぎりぎりの高みにまで飛翔する。あたかも人類を見捨てた天使のごとく。
その動きに引きずられるかのように、悪魔たちもまた、彼女の後を追った。
もはや勝敗など火を見るより明らかだが、知性よりも本能で生きる悪魔は、だからこそ逃走という選択肢がないということを理解し、負けると知りつつも挑みかかるしか他になかった。
悪魔を見下ろす二連式の銃口のような双眸を見れば、飢えた肉食獣に博愛精神を期待するほうが、まだしも見込みがあると言わざるを得ない。
「さよなら。悪魔は悪魔らしく、地獄に落ちなさい」
流れる砂金のような美しい髪を軽やかに舞い上がらせ、フィーネは空中で器用に頭の位置を上から下へと変えた。
その身体が、激しく回転する。そうして空中で錐揉みしながら、真下に向けての速射を開始する。
己自身をガトリングに見立てたかのような、それはまさに死そのものを具現化した、銃弾のレインストーム。
一瞬にして全身を貫かれ、襲いかかってきた悪魔たちは力無く地面へと落下する。
フィーネが降り立ったその時、すでに周囲には静寂が戻っていた。
あれほどいたはずの悪魔たちは、もはや一匹も残ってはいない。
これ以上はない、完全なる勝利。
「――Too easy(チョロイもんですね)」
フィーネは赤熱した銃口から立ちのぼる硝煙に、ふぅっと一息、浴びせた。
軽く突き出された桜色の唇を、キョウは欲望を帯びた眼差しで見ていた。もはや目が離せないとでも言わんばかりだ。美味そうな唇だ、ぜひ味わってみたいぜ。
銃を収めたフィーネは、乱れた髪をふわりと振って背中に流し、歩き出した。
タイトなブーツが、足を下ろすたびに華々しい音を立てる。
歩き方も優雅な足取りは、しかし数歩も進まぬうちに止まった。
なぜならフィーネの目の前で闇が凝固し、屈強な人型となって出現を果たしつつあったからだ。舞台の再開を理解したフィーネは静かに真打ちの登場を見守った。
さっきまでの雑魚とは一線を画すその悪魔は、ヒトの姿をしていたが、頭部だけは人間の格好をしていなかった。
捻じれた一対の角を持つ、山羊の頭をしたその悪魔は、一概には「ゴートリング(山羊に連なるもの)」と呼称される存在だった。鮮血を連想させる色の体毛を持つことから、さしずめブラッドゴートといったところか。
前回の依頼で同種の悪魔と戦った経験のある黒峰キョウは、これは面白いことになったと、ほくそ笑んだ。
先ほど駆逐された悪魔は、然るべき装備と知識を持ち合わせた悪魔狩人であれば、相手にする弾丸も勿体ない下っ端中の下っ端である。そんな雑魚を圧倒したところで、それは当然の結果であり、フィーネの実力を推し量る参考になりはしない。
だがブラッドゴートは、違う。たとえ熟練したデビルハンターであっても、油断してかかれば瞬時に返り討ちの憂き目に遭う、危険極まりない悪魔だ。噂に伝え聞く「銃撃姫」の力量を見極めるには、お誂え向きの対比となる相手と言えよう。
「あのヤギ頭をどうやって料理するのか、お手並み拝見だ……かわいい悪魔狩人さん?」
試合観戦者の気分でのんびりと呟くキョウの視線の先では、銃撃姫と悪魔の山羊が、数メートルの距離を隔てて対峙していた。
「人間……ヨクモ我ガ同胞ヲ手ニカケテクレタナ」
聞く者を委縮させずにはおかない威厳のある声で、ブラッドゴートは言った。
威厳だけではない。とくと見れば、その体躯もキョウがかつて仕留めた、地下の金網ファイトでチャンプとして君臨していた個体よりも大きく強壮だった。短期間のうちに急激に成長した悪魔とは違う、きちんと年月を重ねて力を蓄えた強力な存在であることが見て取れた。
「ダガ、ソノ美シサ二免ジテ許シテヤロウ。キサマハ殺スニハ惜シイ。神ヲ捨テ、我ニ忠誠ヲ誓エ。恥辱ノ接吻デモッテ、キサマヲ魔女トシテ認メ、我ガ翼下ニオサメルト契約シヨウ」
フィーネの美貌を見初めた悪魔の声には、あからさまな欲望があった。
高潔な魂を堕落へと誘う邪悪な企てがあった。
古来より、この手の淫猥な悪魔との契約には――嗚呼、恥ずべきことに!――罰当たりな口による、悪魔の最も汚らわしく獣じみた臀部への接吻が通例である。
現代風のわかりやすい言葉に言い換えると、つまりブラッドゴートはフィーネに対し、こう言っているのだ――ケツにキスしな。
「クソ食らえ、ですね」フィーネは腐敗した生ゴミを見るように唾棄した。「私は毛深い方なんて好みじゃありません。お尻がそんなにも好きなら、ご自分で慰めたらどうですか」
キョウは身体の芯が熱くなるのを感じた。フィーネが丁寧な言葉遣いで荒っぽい台詞を吐くたびに、彼の胸は甘く締めつけられるのだ。ギャップに惹かれる、というやつであろうか。あの可愛らしい口から、どうしてハートマン軍曹も顔負けのクソ言葉が飛び出てくるだなんて思える?
「……小娘ガ。泣キ叫ブキサマノ秘所カラ、ハラワタヲススリ、喰ラッテヤル」
耳障りに唸りながら、ブラッドゴートの蹄が床を蹴った。
数倍も体格の上回る巨躯が、のしかかるようにフィーネへと襲いかかる。
「男ときたら」フィーネは軽蔑しきった目で、やれやれとばかりに首を振った。「人間も悪魔も関係なく、セックスのことしか頭にないんですね」
数百キロもの巨体が目前に迫っても、余裕の構えのフィーネは銃を抜く素振りも見せなかった。
その代わりに、乱暴に伸びてきた左腕の手首を、事もなげに掴むと――ブラッドゴートを放り投げた。
ぽーん、と。
羽根枕でも扱うように軽々と。
それこそ冗談のような音を立てて。
「!?」
ブラッドゴートと黒峰キョウは、二階の高みで驚愕の念を共有した。
当事者ゆえ精神的な衝撃から抜け出せないブラッドゴートを他所に、いち早く事態を現実として認識したキョウは、呆然とフィーネを見下ろす。
いったいどれほどの馬鹿力が、その小さな身体に備わっているというのか……もちろん、そんなふうに誤解するような黒峰キョウではない。
噛み砕いて言えば、彼女はブラッドゴートの突進の勢いを利用しただけだった。
こちらに向かってくる運動エネルギーのベクトルを変換させ、そのまま空中に放り投げたに過ぎない。
これはブラッドゴートの油断が招いた結果でもあった。たかが小娘と侮りはせず、体格の違いに自惚れたりもせず、突進の際に少しでも重心を残しておけば、彼女のカウンターは成立しなかったというのだ。
とはいえ、それがただの理屈でしかないことも事実である。
相手の油断を突く形だったとはいえ、数百キロもの巨体が有する莫大な運動エネルギーを、なんの気負いもなく利用してみせるなど至難の業だ。タイミングの見極め云々、重心の移動云々以前に、もはや正気の沙汰ではない。戦闘技術の極北ともいうべき妙技であった。
「私があなたに見せてあげられる穴は、これくらいのものですから」真上に向けて暗い銃口を覗かせる二丁拳銃を、憎々しげに睨みつけるブラッドゴートに、フィーネは器用にウィンクを返した。「しっかりと目に焼きつけてくださいね?」
ブリムストーンとヘルファイアが狂ったようにシャウトし、ブラッドゴートに悲惨な運命を与えはじめた。
炎が吼える。常識を超えた速射によって、無数の弾丸が怒涛のように山羊の怪人へと押し寄せる。
そして、重力が無視された。
馬鹿げた速度で放たれる銃撃によって、ブラッドゴートの身体は空中に釘付けにされたまま、止まっていた。どころか着弾の衝撃の、あまりの間断のなさが数百キロもの重量を上回り、その巨体をどんどん上へ上へと押し上げていった。山羊の口から甲高い悲鳴がほとばしったが、それも凄まじい銃声にかき消される格好となった。驟雨のように降り注ぐ鮮血は、だが真下にいるフィーネの白いコートを汚すことはない。銃撃姫の華と威風は返り血すら寄せつけず、なおも銃撃は敢行される。
やがてブラッドゴートの背中が天井に〝叩きつけられた〟ところで残弾が尽き、その死のお手玉が終わった。
「ショウダウンです」
ようやく自由落下を許されたブラッドゴートを見上げるフィーネは、両手の銃を収めると、空いた右手をコートの内側へと伸ばした。コートの前合わせは閉じてあるので、まるで膝下丈のスカートの中から物を取り出すような不格好な仕草から、ずるりと音をたてて引き抜かれた新たな得物は――黒光りする巨大なショットガンだった。女の服の下は秘密が多い。
フランキ・スパス12。女の細腕には似つかわしくない、あまりに無骨なその散弾銃が片手で保持され、振り上げられる。そうして真上へと突き出された銃口が、落下するブラッドゴートと今まさに接触したその瞬間、下腹に響くパワフルな銃声が轟いた。
度重なる銃撃によってスイス・チーズのようになったブラッドゴートの、ぐずぐずの胴体に、この完全なゼロ距離から炸裂する12番ゲージの威力に耐えきれるような耐久性など望むべくもない。
密着する銃口から飛び出した鹿撃ち用の散弾粒が、まずはブラッドゴートの腹筋をさらに食い破り、スプレー状に散開しながら体内を引きむしる。内臓破裂など生温い。関節も筋肉も完全無視。そのまま肋骨と背骨も砕き、血と内臓をガス状に爆散させ、散弾粒はブラッドゴートを真っ二つにした。フィーネは一滴たりとも返り血を浴びたりしない。
「グァ、ギィィィ……」
濡れた音をたてて地面に転がった山羊の上半身は、苦しげに両手をバタバタさせて断末魔の呻きを漏らした。下半身のほうも死の痙攣に震え、血の海を波打たせている。もはや目も当てられない、凄惨な光景。
このまま捨て置いても、すでに実体化を解(ほつ)れさせている異界の肉体は、いくばくもないうちに自ずと消滅するだろう。しかし、ジャコンとスライドを前後させ、次弾のシェルを装填したフィーネは、たとえ秒読みになった余命でも見逃すつもりはないらしい。苦しみを長引かせないための介錯ではなく、ただ自分の気が済むまで攻撃を継続する、無意味な殺戮行動。
死神のような目で、フィーネは一発目と同じく、右腕一本でスパスを保持し、狙いをつける。SP12の重量は四キロ余りと重く、ショットガン特有のハンマーで殴りつけられるかのような反動も考慮すれば、片手で発砲しようものなら安定射撃どころか腕を痛めるのが普通である。しかし、一発目を振り返れば判るように、フィーネがSP12の扱いに窮する様子などなかった。確かに男性の硬い筋肉よりも、女性のしなやかな筋肉のほうが射撃に向いているという説があり、実際に外国のトップシューターに女性が多いという事実も現実として存在する。まして彼女は一般人とは鍛え方の違うデビルハンターである。ハンドガンとショットガンという、長さも重さも異なる得物を、まるで己自身に同化させたかのように自在に扱い、使い分けていた。なるほど「銃撃姫(レディ・ザ・ファイア)」の名は伊達ではないらしい。
「……ク、クゥッ!」
生命力と同時に魔力の大部分を失い、すでに現世(うつしよ)での行動力を剥奪されたブラッドゴートには、銃口の奥に立ちこめる闇を凝視するしか他になかった。
無慈悲に炸裂する轟音。割れ砕ける頭蓋、飛び散る脳漿。頭を失った目玉が視神経を尾を引いて、ころころとフィーネの足元に転がる。タイトなブーツがそれを踏み潰した。
フィーネは消えゆくブラッドゴートに、こう言い捨てた。天使のような顔に、小悪魔のような悪戯っぽい微笑を浮かべながら。女の子なら誰もが持つ、バッドガールな一面を剥き出しにして。
「ケツにキスしな」
2
「すげえ……」黒峰キョウは、またしてもフィーネに……すっかり惚れてしまった。「なんてタフな女だ」
完全に魅了されたキョウは挨拶も兼ねて、お近づきになろうとした。壁際の闇と同化し、気配を殺してフィーネの背後に迫る。不意を突くような形で声をかけるつもりだった。ただ単に、彼女の驚く顔が見たいという、そんな子供っぽい理由で、だ。
「恥ずかしがらないで出てきたらどうです?」
唐突にフィーネのほうから声をかけられ、キョウは硬直した。今このホールに居る者は、黒峰キョウとフィーネ・ゾルダーク以外に、ない。
デビルハンターは誰もが皆――というより、少なくとも、この仕事を長きに亘って生き抜いてきた者たちは――闇に対する研ぎ澄まされた感覚を有しており、そこに魔物が存在すれば、それがどれほど漠然としていて、大多数が気づかないような些細な気配であっても、敏感に感じ取ることができる。もちろん、それがわからぬキョウではない。彼もまたデビルハンターだからだ。ゆえに接近を感づかれないように細心の注意を払って気配を殺していた。しかも人ならざるこの身の特性を利用し、周囲の闇を味方につけてまで、だ。
それでもなお存在を嗅ぎ取られた。滅多なことでは驚かないキョウを動揺させるには、充分だった。焔拳の狩人は最近噂の同業者を、戦慄しきった眼差しで見下ろす。無意識のことだが、それは睨みつけるような形になってしまった。
「うまく気配を殺していますが、下心のせいでバレバレですよ。私のお尻を、いやらしい目で見てる」
あぁ、なるほど。自分のノーコントロールな性欲を自覚しているキョウは、あっさりと納得して二階の欄干から飛び降りた。
「惜しいな、見ていたのは足だ。オレは美脚フェチなんでね」
もはや存在を隠す意図もなく、わざと大きく音をたてて床に着地したキョウのほうに、フィーネが振り向く。
そうして二人の目が合い、キョウは思わず言葉を失った。
あぁ、なんてこった――キョウは息を飲んだ。いや、ほとんど呼吸が止まったほどだ――この女の目は、なんて美しい。
何かに驚いたように見開かれたフィーネの、やや垂れ目がちの碧眼はサファイアのように美しかった。見た者の心を惑わし、虜にする二十四カラットの魅惑の宝石。その目は歴戦の戦士に特有の不敵な眼光をも湛えていた。
キョウの心を奪ったのは、瞳だけではない。輝くような肌は、まだ踏まれていない新雪のように白く、しみ一つない。嫌味にならない程度に、ごく薄く化粧の施された魅力的な顔は、やや童顔気味で、美しいというよりも可愛らしい方向に比重が傾いており、清楚な雰囲気も相まって、メディアによれば二十一歳だというフィーネも、ともすればキョウと同い年くらいに見えた。
「……あなたは?」
自らの顔の幼さをカバーするかのような、しっかりとした声。
その声には、あからさまな警戒と緊張の色があった。
闇に潜むものの気配に敏感な彼女の観察眼は、目の前の東洋人の少年が人間ではないということを、立ちどころに見抜いていた。黒峰キョウは下心ある視線だけでなく、その闘気に満ちた強靭な身体から湧き出る、恐ろしい魔力のほうも隠しきれていない。
はっとなったキョウは、彼女の容姿の美しさにかき乱された内心を気取られないように、おどけてみせた。
「あんたの追っかけさ。ゾルダーク・エンタープライズのご息女が、まさか噂に聞く銃撃姫の正体だとは驚きだったがね」
キョウはそう言って、からかうように、じろじろとフィーネの身体を上から下まで眺め回した。フィーネは自分が裸になったような気分になり、形のいい眉をひそめた。
キョウは素直に感嘆した。間近で見るとやはり、とんでもない美人だ。だが、気位は高そうだった。彼女は資産家令嬢だから、当然かもしれない。
審美するようなキョウの眼差しが、ブーツに包まれたフィーネの足をじっくりと眺め、その奥のふくらはぎのラインを想像して楽しむと、その視線が足元で止まった。
小柄な身体をフォローするように高いヒール部分は、銀製であることが見て取れた。銀の清純さを嫌う夜の眷属が、これで蹴りを入れられたら大きなダメージを被るだろう。
「あんた、いい足してるぜ。痛そうなハイヒールだがな」
「さぁ、どうでしょう?」
キョウが顔を上げた時にはもう、フィーネは肉薄を終えていた。
気位の高い彼女は、この不躾な悪魔をブチのめす気満々だった。
キョウが驚く暇もない。
迅雷のような踏み込みの勢いもそのままに、フィーネの身体が回転した。
そうして大きく遠心力を乗せた後ろ蹴り――ローリング・ソバットが黒峰キョウの腹部を直撃する。
銀の破魔力はもとより、先のとがったピンヒールによる蹴りは、ほとんど刺突も同然の貫通力だった。
「ぐっ……」
蹴り飛ばされ、よろめき、くの字に身体を折り曲げるキョウに向けて、フィーネは確認を求めた。「痛かったですか?」
フィーネの両手がすかさず愛銃を抜き放った。先手必勝、速戦即決。数多の悪魔を葬った双子の銃が、くるりと翻って狙いをつける。
だが、その時にはもう、黒峰キョウの獰猛な笑顔が目の前にあった。
「!」
今度はフィーネが驚く番だった。
踏み込みの勢いと遠心力とを十二分に乗せた彼女の後ろ蹴りは、銀の破魔力も相まって、並の悪魔であれば悶絶し、しばらくは動けなくなるほどの威力だ。
だというのに、目の前の少年の姿をした悪魔は一、二歩、よろめいただけだった。
どころか早くもダメージから復活し、こうして接近を始めているではないか。
そのことが、引き金にかかるフィーネの指を、わずかに鈍らせた。
「ハハッ。マジでいい足してやがるな、おい!」
持ち前の驚くべきタフネスを発揮したキョウは、その隙を突いて腕を伸ばし、彼女を組み敷こうとした。
暗い銃口を向ける双子の銃を、恐れてもいない。
手を伸ばせば相手に届くほどの至近距離では、銃器は効果を発揮しない。銃口から逃れるように上体を振り動かせばいいのだから。それだけで案外、弾丸は当たらないものだ。
それがわからぬ銃撃姫ではない。
銃器が用を成さない至近距離まで敵の接近を許してしまったフィーネは、だからこそ未練なく愛銃を捨て、両手の自由を得た。
次の瞬間、弾丸のものではない硬い衝撃が、黒峰キョウの頬を打ちのめす。
「お……?」
痛みよりも驚きで、キョウは間の抜けた声を漏らしていた。
シューティンググラブに包まれた、フィーネの拳。
それがキョウを迎撃したものの正体だった。
フィーネは両腕を引きつけるように構え、ファイティング・ポーズを取っている。
「まさか、そいつは……」
静かな興奮がキョウの思考を白熱させる。
頭部を守るように両腕を構え、顎を引き、軽やかに足踏みを繰り返す格闘のスタイル。
それを見間違える炎の男ではない。
「ボクシングだと!?」
歓喜と驚愕とが同居した笑顔で、キョウもまた拳を撃ち出した。
このときもはや彼の脳裏から「女を殴ってはいけない」などという万国共通の良識は、きれいさっぱり吹き飛んでいた。戦いに熱中すると、とことん没頭して人間的な思考を忘却してしまう黒峰キョウの、それが最大の欠点であった。
炎の魔霊を籠手として物質化させずとも、分厚い樫の木のドアをも破る拳が、フィーネを襲う。
鼻骨骨折、あるいは眼球破裂も十分にあり得る、凶悪な破壊力のストレート。
それを受けるにはあまりに頼りない小さな顔には、余裕の笑み。
フィーネは半身だけ身体を横にする。ただそれだけで、彼女はキョウの右ストレートをやり過ごしてみせた。凶器のような拳が鼻先一インチを擦過しても、瞬きさえしない。
「シィッッ!」
鋭い呼気と共に、フィーネの閃光のような左フックがカウンターでヒットする。
キョウのパンチが「ガツン!」と響くハンマーなら、フィーネのそれは「スパーン!」と切れる日本刀だった。スピードと切れ味がまるで違う次元にある。
顎先を打ち抜かれ、したたかに顔を揺らされたキョウは、その威力の高さに驚いた。
もしかしたら、かつて地下闘技場で戦ったブラッドゴートよりも上かもしれない。体重が五○キロにも満たない小柄な人間の女のパンチが、だ。
その威力の秘訣に、パンチそのもののスピードという要素が挙げられるのは考えるまでもない。
普通、大型トラックと軽自動車がぶつかり合えば勝敗など火を見るより明らかだ。
だが、軽自動車が時速一○○以上のスピードで激突すれば、なるほど大型トラックにも負けない道理である。フィーネのパンチの威力にも、これと同じことが言えた。
落雷さながらの打ち下ろしでテンプルを殴りつけられるキョウを驚かせるのは、パンチだけではない。
稲妻のようなスピードと軌跡のフットワークにもまた、目を見張るものがあった。
黒峰キョウとしても、やられっぱなしというのは格好のつかない話である。だからこそ相手の打ち終わりの隙を狙ってパンチを返すのだが、その時にはもう、そこにフィーネの姿はないのだ。人域超越の黒峰キョウをも出し抜くフットワークに感心しているうちに、また次のパンチで狙い撃ちにされる。抜群の切れ味とスピード、柔軟かつ変則的な動き。フィーネ・ゾルダークは雷のように速い。
「遅いですね。女性に力だけで迫っても駄目なんですよ?」
挑発を投げるフィーネに向かってジャブを突きながら接近を試みるも、そうして伸びた左腕をかい潜るような右アッパーをねじ込まれ、キョウは仰け反らされた。うまい。もう何度、天井を見上げる羽目になっているのだろうか。すでに数えるのを止めた。もう覚えてすらいなかった。
先ほど彼女がブラッドゴートを放り投げたときに薄々、理解していたことだが、どうやらフィーネという悪魔狩人は天賦の才に裏打ちされた、もっとも新しく開発された戦闘技術の持ち主らしい。
仮にもボクシングという格闘技に励んできたキョウにはわかる。彼女は途方もない才能の塊だ。
天才と呼ぶのも失礼に当たるような、磨いても磨いても研磨の終わらない、至高の原石。
その天性のセンスに慢心したりせず、たゆまぬ努力を続け、そうして極限まで練り上げられた身体能力と戦闘技術。
いったいどれほどの信念が、覚悟が、そこまで彼女を追いこみ、駆り立てたのだろうか。
強靭な精神力と気高い美しさを兼ね備えたフィーネに、黒峰キョウは、いよいよ魅力だけでなく尊敬の念さえ覚えはじめていた。まったく、どこまでオレを惚れさせれば気が済むんだ?
一方でフィーネもまた、目の前の紅いジャケットを着た悪魔について思考を巡らせていた。
フィーネ・ゾルダークは二十一年の人生のうち五年間を悪魔と戦ってきたが、これほど力強い存在と出会うのは――彼女の種違いの妹以来――初めてのことだった。
フィーネは主に銃器を武器として用いる。小柄な彼女が剣や槍などといった得物を使うよりは、その方が効率が良いからだ。一人で多数を相手にすることも多いとあれば、なおのこと銃器に頼る面は大きい。
しかし本来、彼女の超人的なスピードを最も活かす戦闘スタイルは、格闘技を用いた接近戦なのである。スピード感あふれる鋭いパンチ、機敏かつ変則的なステップを見ても、そのことは疑う余地もない。接近戦に秀でた黒峰キョウが相手でも、ほとんど一方的にクリーンヒットを与えているほどだ。もし第三者が二人の戦いを見守っていたならば、早期の決着を予感していたに違いない。もちろんフィーネの勝利で、だ。
しかし黒峰キョウの本領は、ここからだった。
とにかく打たれ強いのだ。星の数ほどパンチを叩き込まれても、びくともしない。殴っても殴っても平然としている相手と戦い続けるのは、並々ならぬプレッシャーをフィーネに与えていた。攻撃を喰らうごとにキョウの獰猛な笑みが深く、ますます楽しげになっていく様も、フィーネの精神的な疲労に拍車をかけている。
そして何よりフィーネの心を揺さぶりにかかるのは、闘争に酔った黒峰キョウの、端正な顔立ちだった。
キョウの鳩尾に拳を突き込みながら、フィーネは思った。悪魔のくせに、いい男だなんて、間違っています。
もちろん美丈夫ならフィーネとて見慣れたものである。セレブリティとして招待されたパリのファッション週間の催しや、映画の試写会などで、だ。そこで出会ったハンサム極まりないモデルや俳優たちのルックスと比べたら、さすがの黒峰キョウも見劣りすると言っていい。しかし彼には、なんというか人の目を惹きつける魅力があった。最初は夜の眷属特有の魔性ではあるまいかと疑った。悪魔は己の性質の一つである「誘惑」をもって催眠的に人々を魅了することもあるからだ。しかし、そうではない。フィーネはとりわけ魔性の力というものを嫌悪し、警戒しているタチである。だからこそ黒峰キョウの魅力を、そういう「反則」とは違う、彼特有の魅力として認識できた。最初に彼と目を合わせた時、思わず目を見開いて見惚れてしまったのも、そのためだ。キョウの顔立ちは、もしかしたらフィーネの好みなのかもしれない。
この顔を、私の左フックで台無しにしなくてはならないのは残念です。
「はぁぁぁッ!」
フィーネはコンビネーションのなかに足技を織り交ぜ、いよいよ本格的にキョウをブチのめし始めた。
相手のガードなど無いもののようにすり抜けて、次々に攻撃がヒットする。
多彩にして的確きわまりない、芸術的なコンビネーション。
しかし、サンドバッグの気分を味わっているキョウの顔には、必勝の笑み。
もとよりキョウは根っからのファイターで、軽やかに動き回るようなタイプではない。
ゆえに自分よりもスピードで上回る相手に対する攻略法は熟知していた。
鍵となるのはボディへの攻撃だ。相手の内臓を揺さぶり、呼吸を苦しくさせ、足を鈍らせる。そうしてスピードの落ちたところを仕留めるのが、黒峰キョウのやり方だった。
もちろん、まずは大前提として〝攻撃を当てる〟必要がある。相手の敏捷なフットワークに翻弄され、ただの一発も攻撃を当てられないようでは話にならない。
しかし、キョウの人ならざる動体視力は、そろそろフィーネの圧倒的なスピードにも目が慣れてきた頃合いだった。
「人間にしては速い、な……だが、それでもオレを倒すには不十分だぜ、お嬢様?」
フィーネの動きを捕捉したキョウが、そうして左アッパーのボディブローを撃ち出す。
彼がまだ人間だった頃、ボクシングの本場メキシコへの遠征で体得した必殺のパンチ。
不可避のタイミングで放たれたそれは、なす術もないフィーネの脇腹にめり込み、内臓を蹂躙する。
はずだった。
結果としてキョウのカウンターは失敗に終わった。
なぜなら彼のパンチが直撃する瞬間、フィーネの姿がいきなり、かき消えていたからだ。
「!?」
驚愕に目を見開く悪魔の背後で、白い天使が囁きかける。
「悪魔にしては速い、ですね」
慌てて振り返ったキョウの顔面に、強烈なハイキックが叩き込まれる。
「しかし、それでも私を倒すには不十分ですよ、お坊ちゃま?」
蹴り飛ばされたキョウが顔を上げた時にはもう、目の前にいたはずのフィーネの姿がまた、かき消えていた。
しかし、同じ轍を踏む黒峰キョウではない。
(後ろ!)
振り向きざまの裏拳が打ち据えたのは、不敵な笑みを浮かべる、フィーネの残像だった。
「こっちですよ」
嘲笑とともに後頭部を殴られ、大理石の床に激しくキスを迫るキョウの顔面を、ブーツの爪先が蹴り上げていた。
(速い!)
キョウが踏ん張ったところを左フックのダブルが襲い、そこからコンビネーションで膝蹴りと、右の打ち下ろしとが炸裂する。
(まだ、スピードが上がるのか……!?)
黒峰キョウの驚きもむべなるかな。
フィーネのスピードは、完全にギアを一段階、上げていた。
ローからミドルへ。一気に増していく回転数。
「確かに悪魔は強い存在です。それこそ生まれた瞬間から既に人間を越えているほどに」
目にも止まらぬ速さで、攻撃は続く。
あまりに一方的に、あらゆる角度から。
まるでフィーネに囲まれていると錯覚する中、彼女の声だけが、動きの鈍いキョウのペースに合わせて語りかける。
「だからこそ私は、努力を続け、あなた達に挑戦する。人間の強さを証明するために」
フィーネの声には、怒りがあった。
あまりに圧倒的で、人間の努力など簡単に踏みにじるほどに強い悪魔の力に対する。
「人間を侮らないことですね、化け物。私たちは決して、あなた達に負けたりはしない」
最短最速の軌道を走る右ストレートが、やわらかい眼球を直撃していた。文字通り、まばたきよりも速く。
タフさには比類なき自信を誇るキョウも、これにはたまらず怯む素振りを見せた。
見逃すフィーネではない。
「ここっ!」
血の匂いを嗅ぎつけたフィーネは、さらにもう一段、ギアを上げた。
ミドルがあるなら、ハイもあるのが当然である。
ここへきてトップスピードを発動したフィーネを前に、かわすどころか防御の暇さえないキョウは、あまりのスピードの差を見せつけられ、半ばパニックになった。誰か警察を呼んでくれ。こいつはスピード違反だ!
だが、もう半分の冷静な部分は、この状況を打破する術を導き出していた。
スピードでは自分のほうが劣っていたとしても、回避しきれぬ範囲に攻撃を繰り出せば問題はない。
「力を貸せ、イフリート!」
己の裡に巣食う炎の魔霊に呼びかけると、キョウの両腕が文字どおり火を吹いた。
焔拳イフリートを装着する際の魔力の奔流を攻撃に応用して、雷のようなフィーネに一泡吹かせてやる。
「!?」
攻撃に専念した様子のフィーネは、逆に言えば無防備な状態だった。しかし、まさかの反撃を受けても、持ち前の反射神経で防御を間に合わせてみせたのは流石としか言いようがない。
とっさに交差させた両腕で、吹き荒れる炎の渦から顔を庇うフィーネは、そのまま爆風によって吹き飛ばされた。
相手の攻撃の手を止めることに成功したキョウは、しかし、ヒートアップしていた頭も冷える思いだった。
反則物の機動性を誇る相手とはいえ、人間の女に対して地獄の業火まで使わされてしまった事実は、己の未熟さを感じさせるには充分な反省点だった。黒峰キョウ、まだまだ修業が足りん。
気を取り直してキョウは相手の様子を窺った。フィーネのコートは耐熱使用だったのだろう。炎に巻かれた両腕の袖に、わずかな焦げ跡が残っている程度だった。
しかし、人間界の炎と違い、魔界の炎は質量を持つ。これに吹き飛ばされたフィーネは、まさに鉄球で打ちつけられたかのような衝撃を受けているはずだ。実際、彼女は両足で立ってはいるものの、まだダメージから復活できていなかった。スピードはものすごいが、やはり打たれ強くはないらしい。
その隙にキョウは走り出し、ぶつかるようにして彼女を抱え上げた。そうしたまま壁際まで突き進み、前方の扉を押し開ける。両腕のイフリートはすでに解除していた。イフリートを装着時のキョウは炎(ブレイズ)の加護に全身を覆われているため、そのまま近づいたらフィーネは火だるまになってしまうからだ。キョウは彼女にちょっかいをかけたいだけであって、ブロンドの丸焼きを作りたいわけではない。
扉の向こうは、広大なダイニング・ルームだった。玄関ホールと同様に、この部屋にも気の遠くなるほどに高い天井と二階の廻廊とがある。奥にははめこみ式の暖炉あり、室内の装飾を完璧なものにしていた。もちろん部屋の中央には、大富豪を描いた映画でお馴染みの、二十人は会食できそうな縦長のテーブルがあった。
二人のデビルハンターは、もつれ合うようにしてそのテーブルの端に倒れ込んだ。
ちょうどキョウに押し倒されるような格好のフィーネは、じたばたと手足を振り回して暴れたが、ここまで密着すれば彼女のパンチもキックも恐くはなかった。威力を確保するには、相応の運動距離が必要だからだ。
もちろん、それがわからぬフィーネではない。彼女はすかさず懐に手を伸ばし、聖水の入ったアンプルを取り出してキョウのこめかみに叩きつけていた。ガラスの割れる音とともに破邪の水が悪魔の頭を濡らす。しかし、キョウの髪型は崩せても、その笑みまでは崩せない。
「聖水が効かない!?」
驚くフィーネの大人しくない両手を掴んで動きを封じ、にやりと笑うキョウは、頭を振って水滴を飛ばした。
「残念だが、こんな子供騙しはオレくらいの悪魔には通用しない。ちょいと目にしみる程度さ」
「どこまでタフなんですか、あなたは」
感心を通り越して呆れたようにフィーネは言った。
共に、息が荒い。
呼吸が乱れるほど激しく戦ったのは、お互いにとって久しぶりのことであった。
「息が荒いですよ。女性を乱暴に扱って興奮するタイプなんですか、あなたは?」
「女性を上手に扱って興奮するタイプだ。オレと仲良くなった女は、みんな満足そうにしてたな」
「結構なことですね。いいから、その大きな自尊心はズボンにしまって、私から離れなさい。この悪魔」
「いやだね」
キョウはそう言って、からかうように顔を近づけた。
フィーネは思わず顔を逸らした。その拍子にキョウの胸元が目に入った。聖水で濡れた黒いシャツが張りついて、たくましい胸板がくっきりと浮き出ている。なおも顔を近づけるキョウに、かすれた声でフィーネは言った。
「触らないで」
キョウは従わなかった。
彼女の首筋に顔をうずめ、たっぷりと息を吸い込む。花に似たシャンプーの匂いがする金髪からは、硝煙の匂いもした。艶と危険とが、ない交ぜになった匂い。よだれが垂れそうだった。たまんねえ。
彼女から発散される匂いは、やがて不安を帯びはじめた。それに気づいたキョウは顔を上げ、にやにやと捕食獣の笑みを浮かべた。
「オレが怖いのか?」
「怖くなんかあるものですか」
フィーネは、きっとした顔でキョウを睨みつけた。生クリームのように白くなめらかな肌が、ほんのりとピンク色に染まって、美しかった。
キョウの肉体に、戦闘の高揚とは違う、邪な欲望が、わき上がってきた。
「無理すんなよ。経験のない生娘なら、当然だ」
「な、何であなたが、そのことを……」
「匂いでわかる」
まったく、なんて面倒な鼻の持ち主なんですか。フィーネは下唇を噛んだ。花びらのような、淡いピンク色の唇。キョウは目が離せなくなった。
「オレでよければ、相手してやろうか?」
「冗談。誰があなたなんかと……」
退廃的な視線が、生け贄のように身動きの取れぬフィーネの、不安に満ちた瞳の奥に、ほんの少しの好奇心を、見咎めた。
キョウは自制が利かなくなり、気づいたときにはもう、彼女の唇を奪っていた。
吸いつくのではなく、貪るように。
柔らかい身体を組み敷きながら、悪魔はフィーネの唇を、唾液で濡らしにかかる。
「ん……」
フィーネの匂いが、かすかに欲望を帯びはじめた。彼女とのキスは、純粋な興奮剤だった。昂ぶったキョウは強引に舌を差し込んだ。噛み切られるかもしれないという身勝手な不安は、もうなかった。
唇を割り開かれたフィーネは、最初は抵抗の意思を見せた。しかし、すんなりと受け入れてキョウを迎え撃った。たどたどしくも健気な舌づかいで、聞き分けのない侵入者にせめてもの反撃を試みた。
だが、両者の実力差は歴然だった。あっという間にキョウの舌がフィーネの舌を絡め取り、主導権を獲得した。十七という若さで数多くの女を経験したキョウが相手では、初心なフィーネは為す術がなかった。
「ふ、ぅ……ちゅる……んんっ」
一方的に口内を蹂躙されるフィーネの舌づかいは、いつしかキョウを拒むものではなくなっていた。
興奮した女の切ない吐息が、ぴちゃぴちゃという粘着質な水音に伴奏を添えた。
そうして彼女は頬を朱に染め、柳眉を八の字に歪め、まるで啜るように、貪るように、キョウの注意を逸らすように、深く深く口づけを交わし合って……
ガゥゥン、という銃声が、密着する二人のあいだで炸裂した。
「ぐぉ、お……ッ」
腹部を襲う、焼け火箸を突っ込まれたかのような痛みと衝撃に、キョウはキスを中断して後ろによろめいた。
見ればフィーネのベルトのバックルが展開し、弾丸の発射を示す硝煙を立ちのぼらせていた。
四発の弾丸を同時に撃ち出す、バックル・ピストル。それが婦女を暴行する悪魔に痛い目を見せたものの正体だった。
キョウはようやく自らの失敗を悟った。思いのほかキスに夢中になってしまっていたらしい。フィーネの服を脱がそうとして片手を離し、そうして同時に彼女の片手を自由にさせてしまったのがいけなかった。
透き通った肌を、いまやすっかり灼熱の破壊者の尻のように真っ赤にしたフィーネは、キョウが怯んでいる隙に彼の横をすり抜け、玄関ホールへと走り出した。そこには彼女の愛銃が落ちている。
「させるかよ!」
フィーネの意図に気づいたキョウが、痛みを押して彼女のあとを追った。今ならまだ、フィーネが銃を拾って振り返るまでのあいだにもう一度、彼女を取り押さえられるタイミングだった。
フィーネに追いすがるキョウの足取りが、そのとき明らかに鈍って加速の伸びを失った。
彼の腹部にめり込む、四発の弾丸のせいであるのは言うまでもない。
キョウが痛みに気を取られた、そのわずかなタイムラグが、決着をもたらした。
「食らいなさい!」
床に飛び込むような格好で愛銃のうちの一つを拾い上げたフィーネは、寝返りを打つように振り返り、仰向けの体勢で銃撃を敢行した。迫りくる紅いジャケットの悪魔の身体に、いくつもの血の花が咲いた。
残弾をありったけブチ込まれたキョウは、けつまづくように倒れた。ちょうどフィーネの上にのしかかる格好で。
「きゃっ!」
フィーネは悲鳴を漏らした。しかし、もう乱暴されることはないと理解すると、キョウの身体の下から這い出た。立ち上がって呼吸を整え、動かなくなった悪魔を見下ろす。
悪魔とはいえ人間の姿をした者を殺したことに、だが嫌悪感はない。彼女は実の父親もその手にかけているからだ。それよりもやはり、唇を奪われたことのほうがショックは大きかった。贅沢な苦悩だとは思っている。女だてらにデビルハンターになった時から、もし残虐無比な闇の勢力に敗れた場合、言語を絶する死に様になるであろうことは覚悟していた。実際、女という尊厳を底の底まで剥奪されて命を奪われた同性の悪魔狩人もいた。それに比べたらフィーネは断然、マシな方だった。何と言っても、彼女は命を拾ったのだから。成果としてこれに勝るものはあるだろうか。
しかし、それでも。
広々とした玄関ホールの、Yの字に左右に分かれた大階段を上り、なんとはなしに右に曲がって突き当たりのドアを開け、奥に進もうとしたフィーネは思わず、こう呟いていた。涙声で。
「初めてだったのにぃ」
3
フィーネが扉を閉め、奥へと姿を消したのを確認して、黒峰キョウはのっそりと身体を起こした。
全身を穴だらけにされたばかりだが、気にも留めない。弾痕のほうも超自然的な回復力によって癒着し、すでに跡形もなかった。
「オレじゃなきゃ死んでたぜ」
誰にともなく独りごち、咳払いするように何度も喉を鳴らす。飴玉が詰まったかのような仕草をするキョウは、口から何かを吐き出した。血痰混じりのそれは、フィーネによって体内にプレゼントされた数発もの弾丸だった。
鉛ではない。すべて銀製であった。だから先ほどの一瞬、タフな黒峰キョウをして痛みの余韻に足を取られたのだ。ただの弾丸であれば、それこそ平然としたままキョウはまたフィーネを組み敷いていただろう。
持ち弾のすべてが銀製であるとすると、いったいどれほどの費用がかかっているのだろうか。流石はゾルダーク・エンタープライズの御令嬢、伊達にゴジラ・サイズの有価証券資産の持ち主ではない。
「高い飴玉を使ってるな……んぉ?」
キョウは口の奥に違和感を覚え、親指と人差し指を口に突っ込み、違和感の原因を取り出した。
へし折られた奥歯であった。フィーネの強烈な左フックのせいであるのは言うまでもない。
「……DAM(ひでぇ)」
キョウは神妙に呟き、奥歯を放り捨てた。まったく、女には気をつけなくちゃならないのがよくわかった。
さて、とキョウは一度、思案する。フィーネほどの実力者なら、この洋館に蔓延る悪魔を一人でも一掃できることだろう。協力が必要なタイプとは思えなかった。しかし、女性を一人で戦わせて自分は仕事を放棄するなど彼のスタイルではなかった。そして何より、いまは呑気に帰れるような状況ではないのだ。
試しに入り口の玄関扉を開けてみる。目の前に広がるのは、だが屋外の景色ではなかった。
そこには、まっすぐに伸びる〝廊下〟があった。
やっぱりな、とキョウは首をすくめた。ランダムかつ恣意的に空間がねじ曲げられてしまっている。悪魔の根城と化した建物に特有の現象だ。つまり彼らが生還するには、元凶を倒し、この洋館にかけられた呪縛を解くしかないのだ。
そうと解れば、さっさと仕事を終わらせて朝飯といきたいキョウである。
「悪魔の蔓延る洋館に、最近噂の美しい女デビルハンター……」
キョウはYの字に左右に分かれた大階段を、フィーネとは反対に左側へと曲がった。
「こういう展開も悪くないか」