Devil May Cry ~Flaming Heart~ 作:ユート・リアクト
「気高い努力を続ける人間の精神が、悪魔風情に理解できた例(ためし)があっただろうか」
――ドイツ芸術文学『ファウスト』より
1
フィーネ・ゾルダークにとって、父親は心から尊敬できる人物だった。
起業して一代で大成功を収め、いまやゾルダーク・エンタープライズが世界中の研究機関や貧しい国々に欠くことのできない財政援助を行えるのも、ひとえに父の超人的な努力の賜物に他ならない。父親に心酔するフィーネは、そう信じて疑わなかった。
「いいかい、フィーネ。信条と希望を忘れず、ひたむきに努力するんだ。そうすれば必ず夢は叶う」
小さい頃から何度も言い聞かされてきた言葉。
人間の努力の限界を超える――それはゾルダーク・エンタープライズのモットーであるばかりではなく、父の人生哲学の結晶でもあった。
誰もが羨み、尊敬する立派な父を持ち、フィーネは誇らしい気持ちで一杯だった。父を見習って鉄のような努力をすることも、まるで苦にはならなかった。学校の成績は常に一番をキープし、運動神経は抜群だったから部活動にも積極的に参加した。のちに「銃撃姫(レディ・ザ・ファイア)」とまで呼ばれる彼女の超絶的な銃技は、このとき射撃に打ち込んで土台ができていたからに他ならない。
高校生のときにはオリンピックの代表候補にまで持ち上げられる、卓越した身体能力と射撃技術。
その天性のセンスに慢心することもなく、たゆまぬ努力を怠らない、高潔な人格の持ち主。
努力する天才――陳腐な表現ではあるが、フィーネ・ゾルダークという人物を説明する場合において、これほど適切な言葉もあるまい。
「あなたは、どこまで努力するんですか?」
「どこまでも、です」
セレブリティとして父とともに招待された、映画の授賞式。
レッド・カーペットを歩く俳優たちもそっちのけで質問してきた記者に対する、それがフィーネの回答だった。
立派な受け答えに誇らしげな笑みを浮かべる父の、娘を高く評価する眼差しを受け、フィーネは鼻も高くなる思いだった。
父のような努力をつづけてきた。父に負けぬように。父の名に恥じぬように。誰よりも父のことを尊敬しているから。
たとえ父が軽薄なプレイボーイを演じ、娘とさして年齢の変わらぬ美女を両手に侍らせようとも構わない。それも成功者のステータスだし、父もまた一人の男性であることをフィーネは理解していた。きっと妻がいなくて寂しいに違いないのだ。
フィーネの母親は、もういない。フィーネを出産して間もなく離婚したからだ。いまは郊外の街で、ひっそりと暮らしている。ほかの女と。離婚した原因は、つまりそういうこと。
――相手が男ならまだしも、まさか女に女を寝取られるという、ショッキングな出来事。
――それを忘れるために仕事に没頭したから、今日までの成功がある。父は冗談めかしてそう言っていたが、まだ恋愛経験もなく、しかもそれが実の母親の話であるともなれば、とても笑うに笑えないフィーネであった。
2
努力家とは人の見えないところで苦労しているものである。だから夜な夜な、それこそゾルダーク・エンタープライズの完全な営業時間外だというのに父が屋敷から外出するのを見咎めたとしても、フィーネは問い詰める気にはなれなかった。もしかしたら、女に会いに行っているのかもしれない。娘と一緒に住まう屋敷に連れ込むのは憚られるから。
だとすれば、それは不必要な気遣いだと断言せねばならない、とフィーネは思った。
父とて一人の男性である。たとえ父が再婚し、フィーネとさして年齢の変わらぬ女を「お母さん」と呼ぶことになろうとも、それが父の幸せに繋がるのであれば何も問題など無かった。なぜならフィーネは誰よりも父を尊敬し、愛していたから。
だから、父のような偉大な人に、逢瀬のためとはいえ娘の目を忍ぶような真似をさせてはならない。
確証を得るべくフィーネは父の後を、こっそりと尾行した。その行動が結果として彼女の人生を狂わせることになろうとは、このときフィーネは夢にも思っていなかった。
父の運転するロールス・ロイスが向かった先は、街外れに位置する廃墟……そこは、ある犯罪者が人質とともに焼身自殺を図ったという、曰くつきの場所だった。
どうして父が、こんな場所に? 疑問は混乱を呼び、軽い眩暈さえ覚えながら、それでもフィーネは朽ち果てた廃墟の中を進んでいった。奥の闇へと消えていった父の行方を求めて。
焼け落ちた窓から差し込む月明かりだけが頼りの足元は、ひどく心許ない。嫌な予感がする。外の月が、まるで血のような色をしているせいかもしれない。濃密にわだかまる暗闇と、にじみ出る血ような月明かりのコントラスト。
……嗚呼。
……どうして今夜の月は、こんなにも赤いのだろうか。
まだ恐怖と不安より好奇心のほうが先に立つフィーネの足取りは、そのとき凍りついたように硬直した。
「……赤ちゃんの泣き声?」
暗闇に、泣き声が反響している。
ごくり、と息を呑んだフィーネの全身は、金縛りにあったかのように動けない。
生ける彫像と化したフィーネに再び命を吹き込んだのは、この先に父がいる、という確信にも似た直感だった。
痛みと共に感覚を取り戻した手足が、ぎこちない動きで奥へと進む。名状しがたい嫌な予感は増幅していくばかり。早鐘を打つように鼓動する心臓が、ろっ骨に何度もぶつかる。ドクン、ドクン……
やがて通路の終わりに差しかかったところでフィーネは身をひそめた。ここは焼け落ちた廃墟である。小娘が一人隠れる程度の物陰には事欠かない。恐る恐る瓦礫から身を乗り出して彼女が見たもの、それは……
通路の一番奥に位置する広間は、内側の壁に沿って黒いキャンドルが配置されている。フィーネが知る由もないが、それは人間の脂肪で作られた代物だった。
忌まわしい蝋燭のともし火が、ぼんやりと輪郭を縁取る室内には、冒涜的な詠唱が響いている。まわりくどい、わかりにくい歌詞。だが、ミッション系の州立高校に通っているフィーネには、それが聖書の逆読みだと理解できた。はや、神の敵を崇拝するミサははじまっていたのだ。
儀式を司るのは、真紅色の眼差しも禍々しい祭司だった。金糸の刺繍も多彩な、いかにも神秘的な黒の法衣を身にまとっている。だが、その前合わせは足元まで割れており、したは素っ裸だった。かげからのぞく男性の象徴はすっかり怒張しており、キャンドル・ライトのなかにぴくぴくと震えている。人間の骨や血で作られた黒い祭壇のうえに立ち、彼は香炉を振りたくっていた。甘ったるく、つんと鼻孔を刺激してくる煙。燃えているのは大麻だった。
黒魔術の儀式の参会者は、政治家や殺人犯。その他、各界の有力者たち。そして、父とよく似た後姿が、そこに違和感なく紛れ込んでいる光景が、どうか見間違いであってほしい、とフィーネは切に思った。
フィーネの見たところ、総勢十三名の会衆は皆一様に、はためくローブのしたは一糸まとわぬ裸のようだった。神を冒涜する逆歌詞のラテン語を口ずさみながら、黒い祭壇を取り囲んでいる。その祭壇の上部のタイル壁にかけられているのは逆さまになった十字架だった。
「願いを聞きたまえ、邪悪な魔王よ。我らの支配者よ。この世のすべてを治める王よ。地獄の門を広く開け放ち、我らの前に現れたまえ」
人間にあるまじき紅眼をした祭司が、謳うように言う。
黄じみた歯を持つ、けだものような口で。
「されば此処に、あなたの処女が」
祭司の手招きを合図に、暗がりから一人の少女が現れる。
太陽の光にも似た金髪を持つ、それこそフィーネとよく似た、美しい少女。
布地の薄いケープを身にまとい、祭司の導きに従って祭壇へと上がる少女の足取りは、夢遊病のようにおぼつかない。あどけない美貌が人形のように表情を喪失しているところを見ても、少女がかなりの量の鎮静剤、あるいは人智の及ばぬ力の影響下にあるのは明白だった。
祭司がケープの留め紐をほどくあいだも、少女は微動だにせず立ち尽くしている。ほっそりとした肩と、ふくらみかけた胸、金糸のような淡い恥毛を露わにし、音もなくケープが滑り落ちる。未成熟な少女の裸体は、しかし不浄の火を灯すキャンドルの明かりの下、同性のフィーネから見ても倒錯的で、ぞっとするほど美しかった。
「どうか、この純粋けがれなき処女を受容されんことを」
黒い祭壇に導かれ、あおむけに横たわった少女の脚を祭司は左右に開いた。
少女の秘密の場所を覗きこみ、その罰当たりな口でもって、みだらなキスをする。
「なにとぞ、この純潔なる肉をもって、あなたの名を讃えさせたまわんことを」
逆読みのラテン語の詠唱が一段と高まる。
参会者は自らを狂気へと駆り立て、叫び、踊り、わき立つような暗い情熱のなかで一体化していく。
「偉大なる闇の主に、この生贄を捧げたてまつる」
さかりのついた豚のごとき斉唱を、そのとき甲高くかき消して反響する、赤ん坊の泣き声。
見れば、祭司の手がもがき暴れる新生児の片足をむんずと掴み、かざし持っているではないか。
不吉な予感に、フィーネののどが砂漠の午後のように干上がる。
「おお、魔王(プリンス・オブ・ダークネス)よ! この稚児を差し上げたてまつる。我らの平和が常に、あなたと共にありまするように!」
次の瞬間にはもう、祭壇の上に横たわった裸の少女の胸の上で、祭司の両手が事もなげに赤ん坊を引き裂いていた。罪なき命が無惨に奪われる光景を目の当たりにし、フィーネはもはや声もなかった。
「グゥオオオオオオッ!」
勢いよく飛び散る、か弱い生き物の血肉を浴びて、狂気のうねりは最高潮に達する。
祭司はもはや、かりそめの肉体をかなぐり捨て、真の姿を露わにしていた。
人の姿をしていながら、頭部だけは山羊を思わせる格好の、悪夢のような姿。
黒魔術の象徴である、淫らな雄山羊の姿をしたその存在は、有名な民間伝承に喩えるしか他に表現のしようがない。
「あ、悪魔……」
思わず声に出して漏らしたフィーネの目の前で、この狂宴もいよいよクライマックスに向けて加速する。
乳児の血を浴びて生贄としての純度を高めた少女の、まだ破瓜の痛みも知らぬ私的な部分を、山羊人間は鱗のついた男根で一気に刺しつらぬいた。甚だしい苦痛をもたらす、ささくれ立った狼藉をねじ込まれ、しかし少女はぴくりとも動かない。闇に向けて見開かれた少女の目はもう、いかなる対象をも捉えていなかった。
背徳的な快楽に打ち震える、山羊の姿をした魔女の神は、その少女をがつがつと喰らいだした。血しぶきが上がり、なまめかしい肢体は見る見るうちに姿を消していった。
悪魔崇拝者たちもまたローブを脱ぎ捨て、それぞれ可能なかぎり即席のカップルを作り、ひたすら肉体の快楽を追い求めはじめた。頭をのけ反らせて馬鹿笑いし、常軌を逸した性行為に没頭する。
――好色な炎の燃料を激発し、そそり立つ男根、まろび出る乳房。
――地に落ちた秩序、容認された獣性。この場所こそは神をも恐れぬ局外者だけの世界に他ならない。
正気を繋ぎ止めるのに必死なフィーネは、しかし、ついに目撃してしまった。
見間違いであってほしかった父の姿が、この気違いじみた乱交パーティーのなかに見える。
父は腹の突き出た毛深い男に背後から犯され、うめき声と絶叫を同時に放っていた。
しかし、その叫びが苦痛ではなく快楽によるものであることは、よがり狂った父の顔を見れば一目瞭然であった。
生まれてこの方、誰よりも尊敬し、愛していた父の、言語道断なゲイ・シーン。
それを目の当たりにした娘の心境が、果たしてどんなものであるか――察することができる者など、おそらく、ただ一人としていはしまい。
3
「黒魔術の儀式は夜、行われる。墓地や廃墟の中が好まれるが、最も相応しいのは凶行、犯罪が犯された場所である……」
厳しい表情で朗読するフィーネの声が、黒い板張りの書斎に小さく響いた。
経済学の書籍や哲学本で埋め尽くされた、父の書斎。
父の目を盗み、その見せかけの書斎をくまなく調べたフィーネは、巧妙な擬装によって隠されたスイッチを見つけ出していた。
果たして、そのスイッチを押すと、壁に接した書棚の一つが滑るように横へスライドした。そうして出現した、人の出入りできる秘密の通路の奥には、あわい光を放つガス灯に照らされた蔵書室があった。
革装の本だけでなく、この世の生き物ではない骨格標本もがぎっしりと陳列された、悪魔崇拝者の研究工房。
「悪魔崇拝のカルトには、権力志向のグループがある。そのメンバーには裕福な著名人が多い。彼らは権力や富を得る代わりに生贄を捧げ、悪魔に魂を売り払うのだ……」
書架に並べられた、古今東西、あらゆる妖術、儀式の類の書物。
そこには「黒いミサ」について詳しく説明が為されていた。闇と群衆、狂乱と混沌、単調な音楽と一定の魔力(リズム)。そしてなにより、血塗られた供物……人身御供に処女凌辱……
狂気じみた儀式の内容を一字一句確かめるように声に出して読み上げるフィーネの喉が、失望感に戦慄く。
「あの世における魂の救いを犠牲にして、この世における援助を悪魔に求める取り引き……」
これまでずっと、父の成功はたゆまぬ努力によるものだと思っていた。だが今、ようやく真実を知った。父が成功できたのは、悪魔に魂を売り渡したが故だったのだ。神を冒涜する儀式により、いたいけな乳飲み子と少女を生贄に捧げることによって。
「それこそが法と秩序を乱さんとする地下の陰謀、悪魔崇拝の極致……」
そこまで読み上げたところで、がっくりと項垂れ、自嘲の笑みを浮かべるフィーネ。
邪法に手を染めて成り上がった罪人を、よりもよって父に持ち、憧れていた自分を、どうして蔑まずにいられようか。フィーネは壁にかけてある父の肖像画に目をとめる。「努力」という耳心地のいい言葉で娘を騙してきた、その男の顔のあたりに唾を吐きかけてやりたい気分だった。
憧れの人に少しでも近づこうと積み重ねてきた、これまでの努力は一体、何のためにあったのか――
失意に曇った眼差しは、もはや気力もなかった。肉親の裏切りという、強烈な、だが平凡な絶望の一つだけで、こうも人間とは両足を支える力を失ってしまうものなのか。
フィーネは皮肉な冷笑を浮かべた。これまで努力による前進だけを続けてきた彼女には痛々しい程に似つかわしくない、それは後ろ向きな暗い感情の表現だった。
その通り、人間は弱い。悪魔の手助けが無ければ、人生の勝利もままならない程に。
だとすれば努力とは結局、上辺だけの飾りに過ぎないのか。人知れず流した汗に意味など無ければ、安易な悪行を重ねて悪魔に媚びを売り、甘美なその力の恩恵に与るしか外にないのか。人間とは、自分の力では道を切り開くこともできない脆弱な生き物だから?
そんなことはない、と胸の内で叫ぶ声が聞こえた。
意地になったようなその叫びは、たしかに自分の声だった。
人間は強い。悪魔など要らぬ。そのことを証明せねばならない。
怒りと決意で荒ぶる魂の鼓動が、死んでいたフィーネの瞳に炎を灯す。彼女は父を暗殺することにした。悪魔崇拝者などという外道を生かしておくほど、もはやフィーネは甘くない。たとえ相手が肉親であろうとも、それが必要なことであれば実の父親の殺害も辞さない冷徹な意志と覚悟とが、このとき既にフィーネの中には芽生えつつあった。
この日を境に、フィーネの射撃は意味合いを変えた。競技ではなく殺人の手段として、だ。そして意外にもフィーネには強固な殺し屋の本能が備わっていた。訓練の際、父親を殺すつもりで引き金を絞る瞬間の、妙に頭のなかが冴えわたる感覚。獲物の横腹に狙いを澄ましたサメというのは、さながらこんな心境なのかもしれない。
とどのつまり……フィーネという人物は、そちらの方面の才能にも恵まれた、生まれながらの狩人であるらしかった。巧妙な擬装によって隠された悪魔崇拝者の研究工房を、いとも容易く見つけ出した〝嗅覚〟を見ても、そのことは疑う余地もない。それはネズミの巣穴を目ざとく発見する毒蛇の手際だった。
悪魔崇拝者の暗殺を決意したハンターは、もちろん静粛な殺しに失敗した場合のことも想定していた。荒事にもつれ込んだ場合、物をいうのは肉弾戦の強さである。フィーネは腕っぷしをも鍛え上げにかかった。ペイ・パー・ビューで観戦したボクシングや、アクションものの映画で覚えた見様見真似の格闘術を、フィーネは持ち前の天性で身につけた。それこそ一つの戦闘技術として成立する完成度で、だ。
そうして人知れず力を高め、牙を研いでいたフィーネは、しかし予想もしないタイミングで暗殺の機会に恵まれた。
ある日、父の書斎の隠し通路が開け放たれたまま放置されているのを、フィーネは見咎めた。あり得ない事態である。用意周到な悪魔崇拝者は、こうした不始末とは程遠い人物のはずだ。
ならば――考えられる可能性は、父は今、自分の研究工房の隠蔽に気をやる余裕すらない状況に陥っているということ。
気配を殺して隠し通路を進むと、緊張に強張った父の声と、よく知らない女性の話し声が聞こえてきた。
「……さぁ、私の研究工房には案内した。約束通り、これで私を見逃すと……」
父の声は、そこで一旦、途切れた。
鈍い衝撃音。経験上、人間が殴り倒される音のように聞こえる。
固唾を飲んで蔵書室を覗きこむと、頬を打ちのめされた父が、憎々しげに一人の女を見上げている。
白いスーツに身を包み、小柄な体躯には不似合いの巨大な銃器を携えた、短いながらも艶やかな黒髪を持つ女性。
転倒した父を見下ろす、サングラスに覆われたオッドアイは、冷酷そのものの眼差し。
それが、忌むべき悪魔崇拝者を追いつめた女ハンターの風体だった。
「悪いけど、あんたを見逃すつもりはないの」
彼女は、そういって太股のホルスターから拳銃を引き抜いた。
冷たい銃口を突きつけられた父の顔が、よりいっそう憎悪の念に歪む。
「……さては貴様、私が生涯かけて集めた闇の秘術を独り占めにする気だな?」
「勘違いしないで。私の知り合いにね、こうした悪魔に関する本を蒐集する好事家がいるのよ」黒髪の女性は、油断なく拳銃を突きつけながら蔵書室を見渡した。あらゆる妖術、儀式の類の書物が、ぎっしりと収められている。「これだけあれば、しばらくは交渉の材料に困ることはないわね」
ガチン、と撃鉄を起こす音。
シューティンググラブに包まれた指先が、引き金のテンションをゆっくりと絞っていく。
「ま、待てっ! 聞いた話と違うぞ。デビルハンターは人間を殺さぬものではないのか!?」
「あぁ、なるほど……確かに「殺しはイヤだ」なんていう、甘ったるい建前を平然と口にするデビルハンターが一人いるわ。しかも厄介なことに、そいつがデビルハンターの草分け的な存在だから、「デビルハンターは人間を殺さない」っていうイメージが付いちゃったのね」
でもね、と彼女は笑った。
ひと欠片の慈悲も感じさせぬ、氷点下の微笑みだった。
「私は違うわ。悪魔よりも人間のほうが恐ろしいという事を、私は知ってる……昔、悪魔の力を手に入れるために、自分の妻を生贄にした男がいた。そいつは古代の技術を復活させ、魔界への道を開こうとし、大勢の人を死なせたわ」
フィーネは呼吸も忘れて彼女の言葉に聞き入った。
悪魔の存在を知り、関わったことで人生を狂わされてしまった、それは一人の人間の独白だった。
「あの悲劇を繰り返さないためなら、人殺しだって厭わない」
誓いにも似た言葉。
それを聞いたフィーネの胸に、熱いなにかが宿る。
「つまりは、そういうこと。私はデビルハンターであると同時に、分別のある殺人者でもあるのよ……そして私が始末するのは、あんたのように他者を犠牲にする、ろくでなし野郎だけ……」
「なら、それは私にやらせてください」
何の躊躇もなくその場に踏み入ったことに、他ならぬフィーネ自身が驚いていた。そうしなければならない、という使命感にも似た衝動が、そのときフィーネを突き動かしたのだ。
突然の闖入者に、黒髪の女ハンターは愕然と目を見開く。
「フィーネ!? た、助けてくれ! この女が――」
カーペット敷きの床を這って娘の足元にすがりつく男を、フィーネは足蹴にした。
「触らないでください、この薄汚いゴキブリ野郎」
「な――」
「私が何も知らないとでも思ったんですか。ノミのお尻のデキモノみたいなあなたの気持ちいいところまで、こっちは把握済みですよ、このおかま野郎」
憤怒と侮蔑の形相を浮かべる娘を呆然と見上げ、全てを悟った悪魔崇拝者は、卑屈な怒りで表情を歪めた。
「その口の悪さ、そっくりだな……結婚して間もなく私を捨てた、あの女と……」
少なくともフィーネの知る限り、父がそんな表情を浮かべるところを見たことはない。
だが、その卑屈な顔つきの方が、この男には似合って見えた。これが本性であるのは今となっては分かりきったことだった。
余談ではあるが。
フィーネの父親は、決して優れた人材ではなかった。己の器の卑小さに気づけず、自分が大物だと信じて疑わないまま、末端の会社員として使役されるだけの、どこにでもいる平凡な人間……それが彼の正体だった。
「まったく悪魔のような女だった……成功を夢見て奮迅していたこの私をっ! 努力が足りない、凡人のくせに夢見がち、などと切り捨て! よりにもよって売女なんぞと駆け落ちしおってッ!」
それが、いつまでも現実に目を向けぬうちにパートナーから愛想を尽かされた、ある負け犬の慟哭だった。
「それからというものだ、悪魔を崇める身になったのは。彼らは力強き者の守護者だ、この私のような。まったくもって素晴らしい。良いことが次から次に重なって起こり、富と名声が一気に転がり込んできた……私に奇跡を信じさせてくれた恩人だ」
「奇跡……」
フィーネは冷えきった眼差しで父親を見下ろし、それから室内を眺めた。
「言葉の割りに、ずいぶんと生臭い部屋ですね」
本棚の隙間に吊るされた、この世の生き物ではない骨格標本。水槽の中でホルマリン漬けにされた、もはや原型の判別もできぬ何か。それは身体の半分が獣のような見た目だったが、よく見れば人間に似た手足も備わっていた。
悪魔と人間の融合――ある程度洗練された悪魔崇拝者なら誰もがやりそうな実験だった。
「お気に召さないか? しかし、これも研鑚の賜物。人間には努力が必要なのだ、いろいろとな」
「たとえば? いたいけな赤ちゃんを悪魔に捧げるような? だいたい、どこからあの赤ちゃんを誘拐してきたんですか」
「人聞きの悪いことを言うな。孤児院に大金を払ったのだ、あのちっぽけな生き物のためにな。逆に感謝してほしいくらいだぞ。世の納税者のために福祉の口をひとつ減らしてやったようなものだからな」
フィーネは父親の顔に、ぺっと唾を吐きかけた。
生まれてこの方、誰にであれ唾を引っかけたことのないフィーネが、実の父親に対して、だ。
「もう、話すことはありません」
そこでようやくフィーネは、黙って二人のやり取りを見守っていた黒髪の女ハンターに目を向けた。
彼女の持つ拳銃へと手を伸ばす。
「よければ、それを貸していただけませんか?」
「……いいけど、あなたにできる?」
「できます。だから、やらせてください。私の魂が、そう言ってるから」
黒髪の女ハンターは、かつての自分を見るような眼差しで拳銃を手渡した。
冷たい銃口が、ゆっくりと実の父親にポイントされる。
「……殺すのか? この私を? おまえの父親を?」
返事はない。
殺意の視線が、無言の肯定だった。
「――口惜しや――」
己の最期を悟った悪魔崇拝者が、呪詛と怨嗟に染まった瞳で娘を凝視する。
「わが主の言うとおりにしていれば……高潔な魂を持つおまえを、もっと早く生贄に捧げていれば、こんなことには……」
皆まで言わせることはなかった。
次の瞬間にはもう、フィーネは引き金を連続で絞り、まるで塀の上に並べた空き缶を撃つような気軽さで父親を射殺していた。
一発、二発、三発、四発――フルロードの弾倉が空になるまで撃ち尽くす頃には、父親だったモノは蜂の巣となり、ゆっくりと広がる血の海に沈んでいた。
満足した死神の吐息を思わせる硝煙と共に、静寂が漂う。
「あ……は」
フィーネの口が、乾いた笑い声をたてる。
最初の一声が漏れ出たあとは、もう押し留めようがなかった。
「ははっ! ははは! アハハハハハハハハハハハハハッ!」
父親を殺した。悪を倒し、正義を遂行した。そう――私は、やるべきことをやった、そのはずだ。フィーネは自分にそう言い聞かせた。
だというのに、何の達成感もないのがおかしくて。バケツの底に穴が開いたような喪失感がおかしくて。
だから笑って笑って笑って、わけがわからなくなるまで笑いまくって――
なぜか溢れてきた涙がおかしくて、フィーネはまた笑った。
「涙なんか出ないと思ってました――」
「おかしなことじゃないわ。その涙は、あなたが人間である何よりの証拠よ」
フィーネの手のなかでスライドが後退したまま停止した拳銃を、そっと優しく奪い取りながら、黒髪の女ハンターが言った。
「つらい思いをさせたわね。やっぱり私が、この男を撃つべきだった……」
沈痛な面持ちで彼女が呟くと、フィーネは泣き濡れた瞳のまま、しかし決然とかぶりを振る。
「これは〝家族の問題〟でしたから」
「だから理屈じゃないって? 私が言えた義理じゃないけど、そいつは子供が親を殺す理由としちゃ下の下よ」
怒りを含んだ声。
フィーネは不思議そうな顔で彼女を見つめる。
「ひょっとして、あなたも?」
「ごめんなさいね。私と同じ思いをする人が出ないようにこの仕事を始めたはずなのに、私は、あのときの私とあなたを重ねて見てしまった……」
だからフィーネの悲壮な決意を容認してしまった。
悔いるように目を伏せた彼女に、だがフィーネは小さく微笑む。
「あなた、いい人なんですね」
涙を拭ったフィーネは、何かが吹っ切れたような表情で言葉を続ける。
「でももう、悪魔を知る前には戻れません。――この世には、野放しにはできない悪がいる。甘美で安易な力をチラつかせて人々を誘惑し、努力を放棄させ、堕落させる悪が」
それを知ってしまった以上、私が選ぶべき道はひとつです。
そう宣言するフィーネに、黒髪の女ハンターは覚悟を問う。
「相手は情け容赦もない存在よ。しかも、まったくどこにでも現れ、倒しても倒してもキリがなく、無限を見ているような絶望感さえ与えてくるわ。そんな連中を相手に、あなたは……どこまで戦うつもり?」
「どこまでも、です」
無限に現れるというなら、無限に倒していくだけ。
一片の躊躇もなく即答するフィーネに、女ハンターは諦めたようなため息を漏らす。
小娘の面倒を見るなんて私のガラじゃない。だが闘争の道を選んだ若者には、お手本が必要だった。
「オーケイ。なら私が、あなたを鍛えてあげるわ」
「……いいんですか?」
「あら、願ってもない申し出だった? 遠慮する必要はないわよ。私があなたを「こちら側」に引き込んじゃったようなものだし」
そんなふうに言いながらも、まるで引け目を感じていないような口調。
悪戯っぽい彼女につられて、フィーネも思わず微笑を浮かべる。
「まずは自己紹介といきましょう。私の名前はレディ。当然ながら偽名だけど、あいにく本名は捨てちゃったから、こちらを名乗らせてもらうわ」
「フィーネ・ゾルダークです。よろしくお願いします、レディさん」
「ようこそフィーネ。悪魔と、その狩人の世界へ」
そう言って差し出される、レディの右手。
血と硝煙の匂いをまとったその右手を、迷うことなく握り返したフィーネの眼差しに、もはや幼さはない。
それはフィーネの、少女だった日の終わり――
のちに「銃撃姫(レディ・ザ・ファイア)」と謳われるまでになる、強く美しいデビルハンターが誕生した瞬間だった。
4
それからの五年間はレディの元で修行し、フィーネは悪魔について様々なことを学んだ。どうやって奴らを狩るか、戦うか、殺すか……悪魔だけでなく、あの日、父が参加した下品な会堂で見かけた連中をも、フィーネは始末した。師であるレディの協力の元、事故や自殺に見せかけて、だ。彼らの盟主である悪魔の山羊に至っては、とりわけ残忍なやり方でそれまでの悪事を後悔させてやった。雄々しい角をへし折って、汚らわしい部位を切り落として、命乞いをするその口をすり潰して……
血しぶきと硝煙にまみれた歳月は、飛ぶように過ぎた。しかし、だからといって「表向き」の生活を疎かにはしなかった。きちんと勉学に励んで進学し、大学で高度な経済学を受講した。父の死後――彼の死は病気によるものだと公表されている――フィーネはゾルダーク・エンタープライズの筆頭株主として会社を受け継いだからだ。運営のほとんどを信頼できる取締役に任せているが、ある程度は経済手腕がないと会長としての面目が立たない。
結局、フィーネは大富豪兼デビルハンターとして二重の生活を送るようになった。昼は勉学に励みながらオープニング・パーティやチャリティ・イベントに出席し、その裏で残虐無比な闇の勢力との戦いに身をやつした。
過密なスケジュールに基づいた生活は、もちろん少なくない負担をフィーネの肉体にもたらした。筋肉痛、睡眠不足なんて当たり前。会社の重要な会議に出席した際、疲労のあまり睡魔に負かされてしまい、天使のような寝顔でブルドッグのように涎を垂らしていたと取締役にからかわれたときは恥ずかしさで死にそうになった程だ。
だが、それほど肉体に負担のかかる生活を送っても、楽して生きたいなどとは微塵も思わなかった。
生きるとは、命を削ることなのだ。そうした努力こそが悪魔にも負けぬ人間の強さである。それがフィーネの持つ思想であり、信仰だった。
師匠に実力を認められて独り立ちしたフィーネは、飛ぶ鳥を落とす勢いで評価を高めていった。「銃撃姫」という異名はもちろん、「白の狩人」と謳われるまでになったのは、同じ容姿を持つ種違いの妹の活躍もあってのことだが、とにもかくにも彼女の腕の確かさとネーム・バリューは広く好感を持ってクライアントたちに受け入れられ、悪魔どもには恐怖の対象として轟き渡った。
一年前、ふらりと現れて急に名前を上げた「焔拳の狩人」とやらとデビューの時期が近かった為、評価を二分される事態に陥っているが、それでもフィーネが悪魔狩りの依頼に事欠くようなことはない。
そして今回、彼女が受けた依頼は、どこぞの金持ちが建てた洋館に巣食う、夜の眷属どもの掃討。
少し前に、これと同じ依頼を受け、そのまま帰らぬ人となった女デビルハンター、コルネ・アレクトル。
長い時間を共有した親しい間柄、というわけではない。ともに悪魔狩人の、しかも年齢も近い女同士だけあって妙な意地の張り合いとなり、そうして知己になっただけの関係だ。そのはずだった。
なのにコルネの訃報を聞いた時、悲しみと、それを上回る業火のような怒りを覚えたのは――
愛車のランボルギーニ・ディアブロで件の洋館に乗りつけたフィーネは、景気付けとばかりに正面玄関の扉を蹴り開け、悪魔の巣窟にずかずかと踏み入った。
(女……人間の女……)
(この匂い……処女か)
(なんと高潔なる魂よ)
(穢れを知らぬ乙女、我らの好餌……)
時を置かずして出現を果たす、闇から生まれた黒い影。それは地上のどんな猛獣よりも危険な存在で、まともな人間なら考えるだけで震え上がる存在だ。
しかし、あからさまな欲望と殺意とを向ける人ならざる者たちを、恐れるに足らずと言わんばかりに真っ向から睨みつける、黄金色の髪を持った白い影。
友の敵討ちに燃える銃撃姫は、不敵すぎるほどの冷笑さえ浮かべて、周囲の闇に向けて挑発の言葉を投げた。母親譲りの口の悪さを存分に発揮して。
「ご自分の身の程を間違えないことですね。私にブタと遊ぶ趣味はありませんよ?」