真剣で私に恋しなさいZ ~ 絶望より来た戦士   作:コエンマ

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初めての方は初めまして。

そうでない方は本当にお久しぶりです。

前回の執筆より気づけば半年以上が経過してしまいましたが、ようやく執筆が完了いたしましたので投稿いたします。

それではどうぞ、ごゆっくり。


第8話  紅の猟犬(前編)

 

 

 

「ふぅ、いい湯だね。温泉はやっぱりこうでなくちゃ」

 

「ああ、たまにはこういうのもいい」

 

 少し熱めの湯に浸かりながら、モロと大和はふぅと短く息を吐いた。周囲を山に囲まれているためか、室内においてもなおその空気は澄んでいた。立ち上る湯気などと共に、温泉の効能を身体に染み入らせるように深く吸い込んでいく。

 

 都市化が進んだ川神とは質が違うだろう。主にマイナスイオンとかそこらへんの関係で。

 

 悟飯も腕を伸ばしてストレッチしながらこの空間を満喫していた。

 

「温泉っていうのは初めて入ったけど、結構気持ちいいものなんだな。風呂もすごく大きいし」

 

「お、なんだ悟飯。今どき温泉初体験なんて珍しいな」

 

 洗い場で体を流した翔一が、湯船に足を入れながら悟飯のそばに腰掛ける。肩から背中へとタオルを流すさまは、江戸っ子のような佇まいを見せていた。川神市生まれの川神市育ちではあるけれども。

 

 悟飯は隣に来た翔一に笑みを零し、右手で湯を掬った。

 

「オレの家は山奥にあっていつもドラム缶で作った風呂に入ってたから、こんなに大きな風呂自体が初めてなんだ」

 

「おっ、ゴエモン風呂ってやつだな! 俺も好きだぜ、あれ。星空を見上げながら入る時なんか最高だよな!」

 

「ああ。オレも小さい頃に父さんと――――」

 

 共通の話題から話を弾ませる二人。その様子は長く時間を共にしてきた友人のようだ。モロが珍しいものを見たような、だがどこか納得というふうな表情で頷いた。

 

「驚くほどキャップと話が合ってるよね。まったく予想しなかったわけじゃないけどさ」

 

「元々が旅人らしいからな、冒険家とは毛色が似てるんだろ。ま、それを差っ引いてもクラスメイトとの会話を聞いてる限りじゃ、孫の性格や周囲への反応は珍しい部類に入るだろうが。うちのリーダーには遠く及ばないが、女子たちへの興味も普通の男子と比べたらかなり薄いみたいだし。孫自身、親切ではあるけどな」

 

 大和と共に二人を見ながら苦笑する。百代との決闘以来悟飯を注意深く観察してきた大和はもちろんのこと、卓也も悟飯の人となりをそれなりに見極めはじめていた。

 

 それはこの旅行に誘う前のことだ。不満げに膨れる京とそれを見守っていた他メンバー全員に向かって、大和はこれまでのことを報告していた。

 

 まだ分からないことも多いが、その本質に関して「少なくともこれだけは言える」と前置きをして。

 

 

 

(孫は……色々と不器用なだけだ、たぶんな。表裏がなさすぎて、色々と策考えてた自分が少し恥ずかしくなった)

 

 

 

 一子や翔一は勿論の事、クリスや由紀江、そして驚くことにガクトもこれに賛同し、モロもコメントこそ出さないが肯定の意思が表れていた。

 

 そして自らが想い慕う彼にこれだけ確信と自信を持って告げられては、京も不承不承ながらも折れるしかなかったのは事実ではある。だが一応でも了承したのは、大和の言ったことを彼女も薄々感じ取っていたからだ。

 

 確かに戦っている時に見せた悟飯の気迫は本当に凄まじい。川神の武神である百代を圧倒したその実力は本物だし、争うとなればまず勝ち目は無い。敵に回ればこの上なく危険な相手であることも理解できている。

 

 だが、日常の中にいる時の悟飯は大和たちにその危機感を薄れさせるような人間だった。

 

 普段の彼はと言えば、本当にあの時と同一人物なのかと思うほどに穏やかで優しい。男女の誰に対しても分け隔てなく接し、クラスメイトの誰かが困っていれば損得勘定など何も考えずに力になろうとする。

 

 また、その強さの割に人間性や価値観は普通の人間と変わりなかった。多少ズレているところもあるが、真面目なのと同時に恥ずかしがり屋で、自分に話しかけてくる女子生徒たちを上手くあしらう事が出来ずに右往左往することも多い。

 

 勝負をせがむ百代が抱きついただけで顔を赤くする姿は、彼が天下無双の武道家ということを忘れさせてしまうほど微笑ましかった。

 

 孫悟飯は自分達の敵ではない。

 

 ただ真っ直ぐなだけで、あの時はただそれがぶつかっただけなのだと。そう大和たちに思わせる何かが彼にはあった。

 

 キャップと歓談を続ける悟飯は本当に楽しそうだ。

 

 戦っている時とは真逆の、自分達のリーダーの似た、少年のような笑顔。彼の周りに人が集まってくるのも納得できた。

 

 一方、それを横目にしていたガクトは勝ち誇ったように鼻を鳴らす。

 

「ふ、まだまだガキってことだろ。俺様のようなダンディさと大人の余裕は持ってないってことさ」

 

 決めポーズよろしくカッコつけるガクト。だが残念ながらカッコがつかない、というか正直カッコ悪い。あまりにも絵にならなすぎて、昼食に食べた蕎麦が逆流してきそうだ。

 

「ガクトのはダーティーの間違いじゃないのか?」

 

「それに余裕がある人ほどがっつかないもんだよ?」

 

「うるせえぞてめぇら! 大人の俺様にはお子様談義は受け付けねーんだよ。それよか見ろ、この麗しい筋肉美!!」

 

「うわぁっ、少しは隠してよ! ガクトのはグロイんだよ!」

 

「放送コードに引っかかる前に自重しろ。それに、本当の筋肉美ってのはああいうのを言うんだ」

 

 ため息をつきながら親指を後ろに向ける。その先を目で追うと、果たして困り顔の悟飯がいた。対して、傍にいるキャップの目はキラキラと輝いている。

 

「おー、すげぇな悟飯! 武道家ってことだから予想はしてたけど、相当身体引き締まってるじゃねぇか。マッチョだけど暑苦しさはねぇし、身体の色が薄いからすげー映えてるぜ!」

 

「そ、そうか? それなりに鍛えてあることは自覚してるけど、改めて言われるとなんだか照れるな……」

 

 無遠慮にペタペタと体に触れる翔一に悟飯は対応しかねているのか、頭を掻きながら苦笑いしている。大和はキャップが絶賛したその体をまじまじと観察して頷いた。

 

「孫のは戦うって目的のために鍛え抜いた正真正銘武道家の肉体だ。より実戦的で無駄が無いぶん綺麗に見えるんだろう。あの修行馬鹿のワン子が並じゃないって言うぐらいの修練らしいし、ガクトのなんかとは比較にならないのは当然だ。傷が多いのがアレだが、嫌な感じはないからな」

 

「な、なんかちょっと憧れるよね。女子たちが騒ぐのも分かる気がするよ」

 

「ぐぉおおおおっ、何故だ! 同じ筋肉担当なのに、なぜ俺様とはこうまで扱いが違うんだ!?」

 

「完全に普段の行いのせいだろう。そこにルックスと性格も加えれば、理由は考えるまでもない」

 

「だね」

 

 頭を抱えるガクトに冷静かつ的確に突っ込む二人。悲しいかな、それがモテる男とモテたい男との違いである。

 

 悲しみと苦悩に満ちたガクトの咆哮はモロの被った息子について話が変えられるまで続く。そして明日は隣の旅館を覗きに行くという話題でガクトは息を吹き返し、欲望まみれの話題で盛り上がる場に悟飯は苦笑いを零すのだった。

 

 

 

 

 

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「あ~、生き返るな」

 

 間延びした声が、エコー気味に木霊する。

 

 所変わってここは女湯。

 

 ある者は昼間の修行でかいた汗を。ある者は久々の遠出による旅疲れを。

 

 各々、その経緯は違えど自分の肩の重みをほぐすように湯をかけ、疲労と汚れを洗い流していく。

 

 泉質は天然であることを証明するかのように僅かに黄色がかり透明度も高い。浴槽の隅から勢いよく溢れるお湯は少し熱めで、掌で掬い上げると、独特の手触りに加え温泉特有の硫黄臭をあたりを満たした。

 

「結局ワン子の勝ちだったんだね。結構早かったから普通に驚いたよ」

 

 浴槽の淵に腰掛けた京が後ろを振り向きながら声を放る。相手は頭をガシガシと洗っていた一子だ。

 

 汗を掻いた肌にはやはり気持ち良いのだろう。目を細めて身体を伸ばしつつ、ん~、ま~ね~、といった気のない返事を、シャワーから迸る湯に混ぜていた。

 

「犬! 貴様ズルをしただろう! 私は追い抜かされてはいなかったんだ! それなりに通ることができた山道は一本しかないのに、あとを走っていたお前たちが先に着くなんておかしいじゃないか!」

 

 その隣で身体を洗っていたクリスが、ざばーっと湯を浴びつつ吠えた。肩を怒らせながら立ち上がって仁王立ちするその姿は中々に凛々しい。

 

 が、口元を戦慄かせて歯軋りしていてはまったく意味がなかった。

 

「ク、クリスさん。その、ま、前は隠した方が……」

 

 前面をまるで隠していないところもエセ江戸っ子らしさに満ちている。恥じらいも何もあったものじゃなく、当事者でないまゆっちの方が照れている始末だった。

 

 一方由紀江はというと、注意した本人であることもあり、五人の中では肌の露出面積は少ない。タオルで巧みにガードしている辺り、その育ちのよさも窺える。

 

 だが、その陶磁器のように透き通った肌と見事なボディラインは、タオルの上や隙間からでもはっきりと窺えるほど顕著だ。

 

 隠そうとして隠せないでいることに頬を染めるその様子は、正直男性でなくともぐっとくる。そのことにときめいて毎度のごとくセクハラをかます某武神などがいい例だ。

 

 特に、百代に匹敵するほどの二つの主砲の存在は如何ともしがたく、異性からは舐めるような視線を、同姓から嫉妬と羨望の眼差しを向けられることも少なくない。

 

 とはいえ、内気な性格から来る強い羞恥心と元来よりの慎み深さを持つ彼女が、それをおおっぴらに晒すなどする理由も出来る訳もない。本人も考えてのことではなく、ただの恥ずかしさからそれを隠しているだけであろう。

 

 まったく、大和撫子はかくあるべきである。ただ、欲を言うならもう少し落ち着きを持てば友達も多いのにという苦言は、本人が一番わかっているだろうから敢えて言わないでおく。

 

 と、ここで頭を洗っていた一子が、後ろで吠え続ける金髪少女に水を向けた。

 

「先に、って言っても十分くらいでしょ。それにさっきの質問には、悪いけどいま答える気はないわ。言っておくけど、アタシはズルなんてしてないし、ちゃんとアンタの姿も確認した。悟飯くんに聞いてみればわかるわ。あと、勝負じゃないって何度も言ったじゃない。いつまで拘ってるのよ」

 

 今までの彼女からは考えられない台詞であるが、暑くなった相手には有効な一言である。それを表すように、言い争いのとっかかりを失ったクリスが悔しそうにワン子を睨んだ。

 

 子供のケンカの場合、片方が少し大人になるだけで大抵は解決してしまうといういい例である。もっとも一子が大人になったわけではなく、悟飯からの言いつけをきちんと守っているからに過ぎないのであるが。

 

 忠犬ワン子の本領発揮とも言える。

 

「ぐっ、ぐぬぬぬぬ…………っ!」

 

「落ち着けクリス。ワン子が勝負事に関して卑怯な真似をするような人間でないのは、お前も十分にわかっているだろう。それに今回は勝負でないとはいえ悟飯(ししょう)の名前まで出したんだ、疑うのは筋違いだぞ」

 

 百代が盛大な欠伸を零しながらクリスをたしなめた。言い方は優しいが、有無を言わせない雰囲気が混じっている。風間ファミリーの姉貴分を勤めてきたその貫禄は伊達ではない。

 

 しばらく面白くなさそうに唸っていたクリスも、自分の言葉が言いがかりに近いものであることはわかっていたのだろう。悪かったなと一言だけ呟くと静かに湯船に浸かった。

 

 もっとも不満に溢れた心情は隠せず、口元が蛸のようになっていることに気づいていないようだったが。

 

 気持ちは大いに分かるがな、と口元を吊り上げてから百代もゆっくりと湯に浸る。そして京と戯れる義妹を横目で見やった。

 

(悟飯と一緒に修行を始めてもう二週間か。多少重心が変化した以外は見た目も気も全く変化がないが……)

 

 一瞬、その眼差しが鋭く細められ、家族を見るものから武芸者のそれになる。瞳には歓喜と悲哀がない交ぜとなった複雑な光が差していた。

 

(悟飯も一緒だったとはいえ、まさか山道を走るクリスを追い抜くとはな。それなりに腕を上げているのは確かだろう。こんなに早く結果が伴ってくるなんて正直思わなかったし、既に伸び代のほとんどを使い果たしたと思っていたワン子が、クリスと同等クラスにまで伸びてくれたのは嬉しい誤算でもある。しかし、この先はもう……)

 

 少し熱めの湯を肩に受けながら、百代は一人目を閉じる。

 

 遠くとも、大切な輝きに満ちていたあの日々は今でも鮮明に思い出せる。

 

 いつか自分に並ぶと。

 

 必ず自分の好敵手となると。

 

 そう宣言してくれた義妹(いもうと)の、あの輝きに満ちた笑顔を忘れることなど出来ない。

 

 生きる目的を見失っていたあの子が見つけたたった一つの宝石。縋り付くようにして打ち込むようになった、生涯をかけても叶えたいと願った夢。

 

 自分にとっての光をただ追いかけようとしているだけの、清流のように純粋で、どこまでも危ういその姿。

 

 それが脳裏をよぎるたび百代の心には微かな痛みが生まれ、蓄積し、それは消えることなく、月日と共に大きくなっていった。

 

 わかっていた。そう、あの時から既に分かっていたのだ。

 

 その願いは、決してたやすいものではないと。

 

 辿り着かねばならない場所は遥かに遠く、乗り越えなければならない壁は高く険しく聳えていたことを。

 

 近い将来、自分が突きつけなければならない事実。だがそれを目の前にして尚、百代は希望に縋りたかった。

 

(…………いや、結論は今出すべきじゃない。今は……出したくない。それに今、ワン子には悟飯(アイツ)がいるんだ……私やジジイが思った通りになると、まだ決まったわけではない……)

 

 百代にとって唐突かつ運命的な出会いの相手となった謎の武道家。

 

 自分の常識の悉くをいとも簡単に打ち砕いて見せた、百代が知る限り世界で一番の非常識(そんざい)

 

 彼ならば。

 

 彼が力になってくれれば、自分が半ば諦めていた願いをまた救い上げてくれるかもしれない。

 

 目標に向かって直走る義妹を見ていることしかできなかった(じぶん)に代わって、彼女を導いてくれるのではないか。

 

 そんな手前勝手な願望が百代の中には浮かび始めていた。

 

 わがままに過ぎるその願い。だが、どうしても否定したくなかったその想い。

 

 夢は夢で終わってしまうのかもしれない。現実の厳しさもわかっていた。

 

 だが、この願いだけはどうしても、最後の最後まで、せめてそれが潰える時までは願い続けよう。そしてそれを否とするなら、自分がその役目を負おうと。百代はずっと昔に、そう心に決めていた。

 

 それこそ『彼女』が正式に自分の家族となるそれ以前から。

 

 彼女を理解する人間として。彼女に一番近い存在として。彼女を愛する存在として、願っていたかったのだ。

 

 たとえ、それがどんなに小さな可能性でも、どれだけの困難が付き纏うことになろうとも、悲しみを振り切るように何かを求めたあの子を止めることなど、誰もできはしなかっただろうから。

 

(……どちらにしろ、今年が勝負になる。私が裁定を下すその時までワン子を頼んだぞ、悟飯…………)

 

 呟きにも足りない声は、温泉に満ちる水音と歓声の中へと消えていく。湯気で曇るガラス越しに空と木々を見上げながら、百代は近い将来に来る時が予想と違ったものになってくれることを願うのだった。

 

 

 

 

 

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 さて特段何も起こらないまま迎えた翌日。風間ファミリー+1御一行は、旅館から程近い川べりにて釣りを楽しんでいた。

 

 天気は快晴。

 

 風もそれほどなく、温かい陽気は釣りには絶好のコンディションである。

 

「ほっ、やっ、せやっ!」

 

「さすがキャップ。冒険家の肩書きは伊達じゃないね」

 

「ふん、釣り上げるのが魚でしかない時点で俺様の勝ちだ」

 

「魚以外に何を釣るんだ? でも翔一はホントによく釣るなあ」

 

「悟飯もなかなかだろ? おっ、ホレ、引いてるぜ」

 

 男子たちは野生児であるキャップを筆頭にして、和やかに楽しんでいる。

 

 翔一はいわずもがな、悟飯も久々となる釣りに気分が高揚していた。一方、女子はと言えば、

 

「なんで一緒に鍛錬しないんだよワン子ー。私のことが嫌いになったのかー!?」

 

「ち、違うわよお姉さま。ちょっと修行の方針でいろいろあるって言ったじゃない。だ、だからそんな泣きそうな顔しないでってば……ね?」

 

「早くしないと時間がなくなるよ? あとワン子、腰につけたそれは何?」

 

「えへへ、な~いしょっ」

 

 風間ファミリーの古参組は魚釣りより先に組み手をはじめとして、各々の修行をしているようだ。少しいつもより精神年齢が低い百代と姉離れしはじめているように見える妹を前にしても京のクールドライは相変わらずである。

 

「孫悟飯の修行か、興味はあるが……っと、まゆっち餌を頼む」

 

「わ、わかりました! こ、今度は見事付けて見せます!」

 

『餌をつけるのにそんな一世一代の決意はいらないぜ、まゆっちー』

 

 新入り組みは男子と同じく、修行よりイベントを取ったようだ。ただし、餌をつけられなかったり仕掛けの何たる化を知らないクリスは、釣るという事以外は完全に由紀江任せにしていた。

 

 俗に言う大名釣りである。が、自身も慣れていなかったのか、餌をつけるのに悪戦苦闘している。

 

 そんな彼女に苦笑すると、悟飯はその針を取り、片手で器用に餌を付けた。

 

「そんなに震えてたら危ないよ。ほらこうやって……っと、はいできた」

 

「あ、あああありがとうございます! 孫さん! お上手ですね!」

 

「はは、まあこれぐらいはね」

 

 由紀江から竿を受け取ったクリスが見事なコントロールでポイントに投げ込むのを見ながら、悟飯は空を仰いだ。

 

 青い。川辺を吹き上がってきた風が髪を撫でていく。

 

 どこまでも澄み渡った蒼天。見上げた空はとても穏やかで、優しく降り注ぐ太陽の光と流れる雲の調和はいつもよりもゆっくりと時間を切り出しているようだった。

 

 悟飯は釣り針に掛かった小ぶりのヤマメをリリースすると、流れの緩い場所に向かって浮きを投げ込む。立てた竿を岩で挟んで固定し、倒れないことを確認してから大地に背中を預けた。

 

「…………釣りなんていつぶりだろうな」

 

 一人つぶやきながら目を閉じる。高くに舞う鳶の甲高い声が響き、とたんに眠気が押し寄せてきた。

 

 こんな安らいだ気持ちで空を見たのは、そしてこんな穏やかな時間を過ごしたのは、果たしてどのくらい前のことだっただろうか。

 

 一瞬だけ瞼が白く光り、ゆっくりと目を開ける。そこには先ほどと何も変わらない、穏やかな景色が広がっていた。

 

「……っ……」

 

 

 

 ズキリ。

 

 

 

 重い響きを宿した音に胸が痛んだ。十三年前のあの日から、身体の奥に刺さった悲しき記憶の欠片。

 

 手に入れたかった優しい日々は目の前にある。だが、共に喜びを分かち合いたかった仲間たちはもう、いない。

 

「……」

 

 穏やかな笑みを消し、険しい顔をしながら目を細める。

 

 こうしている間にも人造人間たちの恐怖は続いているのだ。本当ならば、こんなところで油を売っている暇など、呑気に過ごして良い時間など微塵もない。

 

 残された【彼】やみんなは今も戦い続けている。それが変わらない以上、是が非でもオレは戻らなければならない。

 

 その手段がない、あるいは見つかっていないのも事実ではある。世界を超える術など仲間の誰も持ち合わせていなかったし、たとえドラゴンボールの化身であった神龍の力を以ってしても可能であったかどうかわからないものだ。

 

 だが、いくら嘆いたり焦ったりしても現状が変わらないとはいえ、オレだけがこの幸福を得てしまっていいのだろうか。

 

 いや、いいわけがない。

 

 確かにこの世界に来てからも己の鍛錬を怠ったことはなかった。だが修行をしているといっても、それは力を隠しての小規模なもの。正直伸びているとは言いがたい。

 

 幸福な時間は確かに得難いものだ。楽しかったあの頃を思い出させ、それは悟飯の心に安らぎを与えると共に密かに囁くのだ。お前はその上に胡坐を掻いて問題を先送りにしているだけであろう、と。

 

 閉じた瞼の裏側で自らに課せられた使命と満ちた幸福、そして罪悪感が凌ぎを削る。

 

 そうして、空高くを流れる雲に視線を移したときだった。

 

 

 

「……!」

 

 

 

 不穏な気配を感じ取り、悟飯はスッと身を起こす。

 

 気を感じる。それもかなりの大きさだ。百代さんと黛さんを除けばこの場にいる誰よりも強い気配が、上流にある森から発せられている。

 

 いや、それだけではない。

 

 その気を軸にするようにして、大小さまざまな気が森の中に入り乱れている。中心にいる気には到底及ばないものの、間違っても一般人のそれではなかった。 

 

 姉弟でじゃれあっていた百代さんもこちらにやってくる。引き返してきた大和との空気を見ると、追いかけっこをしていた最中に彼が気づいて戻ってきたのだろう。

 

 オレはもう一度周囲の気配を探ると、大和と二言三言話して別れた彼女に近づいた。 

 

「――――百代さん」

 

「やはりお前も気づいていたか。なら説明は省くが、私はこれから森の中でちょっと遊んでくるつもりだ。鬼ごっことか隠れんぼの類をな。お前はどうする、一緒にやるか?」

 

 凄惨な笑みを口元に浮かべ、猛禽類のような瞳で舌なめずりする百代さん。今この場に居るのが彼女と自分の二人だけだったならばそうしたろうが、今回は状況が違う。オレは山の一角の方に視線を飛ばすと首を横に振った。

 

「いや、オレは一子たちのほうに行くよ。一応、みんなの安全を確かめておきたいからね」

 

「過保護だな~。いや、それだけ大切に思ってくれているということか。なら、ワン子たちのことはお前に任せるぞ」

 

 ニッと笑みを見せながら言う。ずいぶんと信頼されたものだ。拳を交えれば相手のことが大体分かるというのはお互い様らしい。顔を引き締めると、今にもスタートをきりそうな彼女の背中に声を掛けた。

 

「ああ。君も気をつけて」

 

「フ、誰にものを言っているんだ。私に黒星をつけた人間なら、相手と私の力量差も手に取るようにわかるだろうに。まあいい、気遣いと受け取っておくさ。いずれたっぷりと熨斗をつけて返させてもらうがな」

 

 自信に満ちた笑みと言葉を最後に百代さんが加速する。そして一瞬のうちに常人ならば目で追えないほどの速度に達し、山の方にかっとんでいった。川神最強の肩書きは伊達ではない……というか、オレに負けてからさらに磨きが掛かっているようだ。

 

「……ちゃんと手加減して相手してあげてくれってことだったんだけどな」

 

 オレは頬を掻きながら苦笑を零す。だが、のんびりもしていられない。軽く身体をほぐしたあと、自分が行くべき方向に向けて構えを取った。

 

「孫、ワン子たちを頼む。あと、お前にはいらんことだろうが、一応ケガには気をつけろよ」

 

 背後から聞こえる声は大和のものだ。振り返らずに片手だけ挙げて答える。

 

 そして一呼吸で気持ちを切り替えると、一子たちの気を感じる方向へと走り出した。

 

 

 

 

 




第8話でした。

本日は平日でありますが、久々に(約一ヶ月半ぶりほどでしょうか)一日何もない日でなおかつ溜まっていた仕事も先日一段落したため、なんとか筆を執る時間を作ることが出来ました(あと残った時間は部屋の清掃とかで消費されるでしょう……汗)。

このあと最低一ヶ月以上は前よりもずっと忙しい日々が続くため、タイミング的に今しかないと思い、集中的に書き上げました。

ただその過程上、文章を寝かせて推敲するという作業はできませんでした。

やりたいことではありますが、やるとどんどん投稿が延びていつになるかわからなくなりそうだったので……とにかく投稿をする、という形にしました。

さて2015年もはや三ヶ月目に突入いたしましたが、皆様はいかがお過ごしでしょうか。

現在は冬から春という季節の変わり目でもありますので、風邪やインフルが各地で流行っているようです。

体調などに気をつけて日々を過ごされますよう。

それではまた次回にて。

すぐにはできないかもですが、必ず投稿しますので。どうか気を長くしてお待ち下さい。

それでは再見(ツァイツェン)




【追伸】

 皆様からの感想につきましては、時間がある時に古い書き込みの方から少しずつ返していくつもりです。すぐの返信はできないと思われますのでご了承下さい。返信されていたら『あ、なんか書かれてる』ぐらいに思ってくだされば。

 加えて、過去、にじファンに掲載していた話などについても、時々更新していく予定ですのでよろしくです。

ではでは。

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