一閃。
アヴェンジャーの大鎌が、少女の身体を斬り裂いた。傷口からは血飛沫が上がり、勢いのあまり白い少女の服にまで飛び散った。
パタタ、と付着した血液はドレスに赤い染みを生み、少女は呆然とそれを眺めていた。
「今度こそ本当に終わりね。もう立てやしないでしょう」
アヴェンジャーは鎌を消し、疲れきったようにゆっくりとこちらへ戻ってくる。服の所々が焦げており、髪も同様に少し焦げて黒くなっていた。炎の黒竜に飛び込むなんて無茶な真似をしたからなのだろう。
と、アヴェンジャーが戻ってきたその刹那、世界が二つに区切られる。
先程まで変わらない景色の中に佇む私たちと、反対側には全てが赤く染まった世界の中で、血の海に沈むキャスターと、彼女に駆け寄るありす。
勝敗は決した。これから彼女たちに待ち受けるのは、消滅という避けられぬ運命。
「ありす……」
「情けの言葉でも掛けるつもり? それこそ残酷よ。もう死んでるあの子に、私たちが二度目の死を与えたというのに。その張本人から慰めの言葉をもらって、嬉しいとでも?」
それは……確かにその通りだった。
私たちが生き残るために、ゴーストであるとは言えありすを、私はこの手にかけたのだ。たとえ、既に死した存在であろうとも、ゴーストであったとしても、彼女は今ここに居て、確かに生きていた。
狂い、消滅していく運命にあったのだとしても、私は彼女らを殺すと決めたのだ。覚悟を持ってこの戦いに臨み、そして彼女らを降した。
そんな私がありすに同情するなんて、傲慢にも程があるだろう。
私はアヴェンジャーの正論に、どうしても言葉が出てこなかった。
刻一刻と、ありすの、そしてキャスターの身体が解けていく。
「あれ……きえていくよ……? そうか、もう……終わりなんだね」
「……なんで?」
消えかけていく
こんな結末、キャスターには到底受け入れられないというのに、ありすは逆に落ち着いてキャスターの手を取っていた。
「
「やっと見つけたのに。
泣きじゃくるキャスターの頭を、ありすは優しく撫でて、そして小さく微笑む。
「いいんだ……もう。
少女は独白を続ける。微笑みは変わらず絶やす事なく。けれど、その大きな瞳からは涙が次々と零れ落ちていた。
「だれも
顔を上げて、こちらへと視線を向けるありすと目が合った。ありすの悲しい笑顔を直視するのが辛かったが、何故か私は目を背けられなかった。
「ねぇ、お姉ちゃんは、
……見ていたとも。ずっと、ずっと。三回戦の相手になったその時から。
───いいや。それよりも、もっと前から。私は、
「もちろん……見てたよ」
返すべき言葉は一つしかない。ありのままの事実を、私は彼女へとまっすぐに伝えた。
私の返答に満足したのだろう、ありすは精一杯の笑顔を私へと向けてくれていた。
「やっぱり……お姉ちゃんなら、見てくれると思ってた。お姉ちゃんは
そして、ありすの視線は再びアリスへと戻る。もう、身体の半分以上をノイズに侵食されながらも、繋いだ手を決して離さないように、小さな手にできる限りの力を込めて。
「ありがとう、
「
防波堤が決壊したかのように、アリスの目からも大量の涙が溢れだす。まだ幼いというのに、消滅を、死を恐れる事もなく受け入れるそのありすの在り方は、どうしようもなく儚くも美しく思えた。
「それにありがとう、お姉ちゃん……。
……身体のほぼ全てをノイズに覆われながらも、少女はこれまでで一番の笑顔で、この場に居た全員に対し、
「……バイバイ」
そう一言だけを告げて、完全に消え去った。砂糖菓子の細工が砕けるような、音ときらめきだけが一瞬残り。もう、そこには何もなかった。
繋いでいたアリスの手が、支えを失って地面へと力無く落ちる。アリスは、もう居ない
その瞳が映すのは、虚空だけ。もしくは、消えた少女の残像か。
「……
ナーサリー・ライムがマスターの願望に沿った姿形を取るのなら、彼/彼女はサーヴァントとして喚ばれる度に、その姿を変える事になる。
アリスの言う通り、ありすの姿で居られるのは、ありすが存在している間だけの話。まさしく、アリスにとって今の姿は泡沫の夢なのだ。決して二度と見る事は叶わない、最初で最後の夢……。
「……いつもあたしはだれかのゆめ。ほんとの
アリスは震える手で、自らの頬に触れた。涙が指を伝い、その時初めて、自分が泣いているという事に気付いたようだった。
「あれ……あたし、泣いてたの……? なんで泣いてるのかな。おかしいな。わかってるのに。泣いてもほんものになんかなれないって……」
その言葉を最期に、もう一人のアリスは溶けるように霧散した。頭に被っていた帽子の飾りであるリボンと、彼女が持っていたであろう鈍く輝く小さな黒い水晶が僅かな間、血溜まりの上で消えずに残っていたが、それもすぐに消えてなくなった。血の海も、最初から何もなかったかのように、綺麗に無くなっていた。
……黒の砂糖菓子も主人の後を追った。
……これが聖杯戦争のルール。何度も経験しているとは言え、こんなものが当然なのだと思いたくなかった。
これが当然であるのなら───このシステムは、根本から歪んでいる。
「…………、」
唇を強く噛む。そうしていないと、今にも叫び出しそうだったから。
先程まであった満腹感とか吐き気とか、もう既に全て失せてしまっている。そんなどうでもいい事なんか、今は重要ではない。
唇が切れ、痛みを感じた。血がツーっと顎を伝い、地面へと滴り落ちる。
こんな痛み、私がありすに与えた苦痛を思えば、比べるべくもないだろう。
少女は消えた。
少女の死を望んだわけではなく、何を望んだわけでもない。
そんな
放置しても消滅するしかない運命とか、放っておけば怪物に成り果てるからとか、そんなもの結局は私にとって都合の良いように言葉を取り繕っただけ。
私は彼女を殺す事を正当化する理由が欲しかっただけなのだ。
既に三度目の結末だ。
これが聖杯戦争の、ひいては戦いの道理である事は理解している。
ただ、あの少女は二度と還らないだけ。その事実が胸に重い。
「………帰るわよ、マスター」
泣き出すのを必死に堪えるがやっとだった私は、声は出さず頷いて返すだけに留める。
アヴェンジャーも、今回ばかりは後味が悪そうな顔をして、黙って私の手を引いてエレベーターに向けて歩き出していた。
「死を悼んでいるのですね」
エレベーターから降りた直後の事だ。
沈んだ心に、暖かい声が掛けられた。見上げれば、目の前にはレオが立っていた。
「命が失われるのは悲しい事です。それが、このような無慈悲な戦いであれば、なおの事」
無慈悲? 無意味ではなく?
顔に出ていたのだろう。私が聞く前に、レオは頷いてみせる。
「ええ。憎しみによって殺し合うのではなく、互いに同じ目的を持ったまま、相容れず闘うしかなかった。無慈悲です。人としての心を持ったまま、人を殺めるのは悲しい。何かを渇望するから、人は
……それが悲しいと少年は言った。
いや、哀れだと。救いのない人間が、救われる事のない我々が。
それは混迷した世を導く、完成した救い主の言葉だ。
「待っていてください。僕は世界の王になるために生まれた。あなたの悼みも彼女の痛みも認めます。いずれ、誰も無意味な死を迎えないように。地上の貧困も、ここの戦いも同じですよ。足りていないから奪うしかない。その調停をするため、僕はここに来た。徹底した管理と秩序を。欠乏がなければ争いはありません。そうでしょう? 彼女の消滅を悼んだあなたなら、賛同してもらえるはずだ。人々に、完全な平等を。それがこの世界のあるべき姿、理想社会なのだと」
少年の言葉は抗いがたい毒のようだ。あるいは癒しの薬か。
ありすの死で沈み込んだ心に、少年の声は穏やかに染み込んでいき───
「残念だったわね。私がコイツと契約している限り、その手の誘いに乗るのは私が認めません」
アヴェンジャーが、私とレオの間に遮るようにして立ち塞がる。
「完全な平等? 理想社会? ふざけるのも大概にしろ。平等なんて糞食らえよ。人々の誰しもが平等に、だなんて謳うクセして、自分はその枠に入れてない時点で平等も何もあったもんじゃない」
「そうそう。彼女の言う通り。それにしてもひっどい勧誘だこと。右も左もわからないソイツに、よくもまあ堂々とつけこめるもんだわ」
更に割って入ってくるのは凛だった。声には、その瞳に負けぬ敵意がこもっている。
「話は聞かせてもらったけど。今のはあくまでハーウェイの、西欧財閥にとっての理想、よね」
「万人にとっての、ですよ。理不尽な死が待つ世界は、誰しもが避けたいものでしょう」
「はあ? 資源を独占されて、生き死にまでアンタらに管理される社会が、万人にとっての理想っていうの? 産まれた子どもを、平気で飢え死にさせる世界が? 十年先の人生まで、寿命までデザインされる人間が? 余計なお世話よ。何百、何千年と今のままで生き続けたいのなら勝手にどうぞ。わたしはいつまでも同じ生活なんてまっぴら御免よ。聖人君子の国を作りたいなら、アンタたちだけでやってろっての」
凛の言い分に満足したのか、アヴェンジャーはこれ以上は口を挟まず、ただウンウンと頷いてまた霊体化した。
「噂通りの人ですね、ミス遠坂。国連からその将来を期待されながら、中東の武装集団に身を投じた若き魔術師───。あなたの言い分も、わからないではありませんが───資源の管理は、効率の良い配分をするためのもの。富むための冨、支配欲から生まれた資源の独占は、決して行われません。僕らの支配圏の実態を見ていただければ、わかると思いますが」
「はん。ハーウェイの管理都市なら知ってるわ。階級に応じた生活が保障されている。不安要素のない、平穏な世界。何処にも行けない、何処に行く必要もない楽園。けれど、あそこには未来がない。希望も。幸せも。人はただ生きているだけだわ」
───、それは……。果たして、人間として生きていると、本当に言えるのだろうか。
人は楽をしたいとか、最善なのはどうすべきかとか、試行錯誤しながら生きるからこそ、これまで文明も発達してきた。なのに、変わらない平穏が約束されているからと言って、考える事を止めてしまえば、それは未来を作る事を放棄しているのと同じ。
凛が言ったような事が本当に真実なのだとしたら、西欧財閥の庇護下で暮らす人々は、それこそ家畜と何ら変わらない。
「笑わせるわ。娯楽あっての人間じゃない。わたし、見ての通り肉食なの。
「ミス遠坂。それはあなたの強さあってこその生き方です。生きるための戦いを肯定するのもいいでしょう。───ですが。あなたは全ての人間に、
「っ───それは───」
だが、レオとて言い負かされるようなタマじゃない。正論には完膚なきまでの正論で返し、凛もたまらず言い淀んでしまう。
「できませんね。あなたは自分の身勝手さも、傲慢さもわかっています。だからこそ、その苦しみを共有できない。全ての力無き人々の、自分と同じ苦悩を負えと強制できない」
「で、できるわよ。わたし、そんなお人好しじゃない、し」
……いや、凛は十分、というかすごくお人好しだと思うのだが。
「ええ。脱落する人間がいるのなら、自分が助ければいいと思っている。だから、あなたでは僕には勝てない」
「なんですって……?」
レオの発言が凛の琴線に触れたのだろう。途端に凛の表情が険しくなるが、レオは気にする様子もなく続けた。
「あなたの言う幸せは狭いのです。人間を救いたければ、まず人間を捨てねばなりません。支配者は必要なんです、ミス遠坂。あなたでは無理だ。そして今の僕にも。けれど聖杯の力があれば───」
地上の全て。この星を照らす光になれると、少年王は断言する。そこには一切の疑い余地はなく、確信しか無いとばかりに自信に満ちた言葉だ。
「西欧財閥の支配地域は、世界の3割に達しています。その市民たちからは不満の声は出てきていません。反抗は常に域外から発生するもの。あなたの言うファームが完全である事の証です。ですから───羊になれないのなら死んでください。申し訳ありませんが、アジア圏の6割は、人類には不要な世界です。もちろん、受け入れ態勢は万全です。共に人類の未来を守ろうというのなら、いつでもあなた方を歓迎します」
毅然であり、悠然であり、そして当然とばかりの王者としての言葉。一連のやり取りだけで分かる。レオという少年王は、たとえどんな事があろうとも、彼の中の確固たるその王道を曲げる事は不可能なのだと。
「………ふん。ま、平行線だとは思ってたけど。OK、よーくわかったわ」
「わかっていただけましたか?」
「ええ。わたしがこの聖杯戦争に参加したのは間違っていなかったってね!」
散々言い負かされた凛だったが、今は逆に笑っていた。『吹っ切れた』、そんな風に。
「ハーウェイ財閥次期当主、レオナルド・ビスタリオ・ハーウェイ。アンタの理想とやらは、ここでわたしが握り潰す」
「つまり、僕を殺すと?」
「そうでもしなけりゃ、アンタを止められないんならね」
凛の言ったように、この二人の立ち位置は平行線。それはどこまで行こうと、決して変わる事はないだろう。この二人が同じ道を歩く事は、どんな未来をも演算するムーンセルですらも予測できないに違いない。
レオも、これ以上の議論は無駄だと判断したのだろう。軽く息を吐き、諦めたように言葉を紡ぐ。
「……そうですか。でも、聡明なあなたなら、いつかはわかっていただけるでしょう。───あるいは、既に」
「……筋金入りね。その王様ぶりだけは褒めてあげるわ」
凛の宣戦布告。……それはユリウスのように、この場で戦端を開くものではない。
レオが王道なら、彼女の選択もまた王道なのだ。
戦うは聖杯戦争の決戦場。どの道、勝ち残るのはただ一人なのだから。
そして二人は去り、何もない自分だけが残される。
レオの理想。凛の決意。
自分には何もなく、何もないまま、人の命の奪い続ける。
現実の世界どころか、この
それでも───
「それでも戦うしかない」
そう。結局は戦うしかない。でなければ死ぬだけなのだから。
それがどこまで続けられるのか。耐えられず、足が止まった時がきっと───。
闇の中。誰の姿も見えず、温度も感じず、空気の流れすらもない。無に支配された空間に、少女は一人目を覚ます。
「……? どこ、ここ……?」
黒い砂糖菓子の少女は、ポツリと闇の中に佇んでいた。ありすの姿を探して周囲を見渡すが、その視界は何も映さない。
いいや。そもそも自分は消滅したはずだ。さっき、
なのに、どうして意識を保っているのだろう。
「こんばんは。はじめまして。こうして会うのは初めてね?」
不意に、どこからか声が響いた。
声は反響し、どこから発せられているのか判別できない。
ただ、その声はアリスには聞き覚えがあった。
「……なんで」
「さあ?
その刹那だった。いきなり全身が痺れ、指先は凍りついたように動かない。力を込めようとしても、自分の意思に反して全く言うことを聞かなかった。
むしろ、力が入らなかった。
混乱し、戸惑うアリスに、声の主は嗤いながら続ける。
「ほら、貸してあげてたアレを派手に使ってくれたでしょう? 私の魔力を封じておいた黒水晶。アレがあったから、自己改造と変化のスキルを眷属にも使えたんだものね」
「……あ、ああ……!?」
「改めて、お礼を言うね。ありがとう、アレを使ってくれて。おかげで、
言葉とは裏腹に、少女の声は終始、嘲笑交じりのものだった。
アリスには、彼女が何を言っているのか理解できない。否、理解したくなかった。だって、それが本当なら───
「や、め……て……!!
「ふふ………。アハ。アハハハハハハハハハハ!!!!!」
アリスの願いも虚しく、少女の嘲り嗤う声が響きわたる。
そして、嗤い声が途絶えた直後に、コツコツ、と歩く音が。
「サヨウナラ、
アリスが最期に見たものは、優しい主人の笑顔ではなく、同じ顔で醜悪に嗤う
「あ、ああ、あああ……あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛─────!!!!!!!!」
砂糖菓子は障気にあてられ腐り落ちる。
腐った砂糖菓子を苗床に、新しい生命が人知れずに宿るが、果たして、そんな苗床から生まれ出るのは、如何に異常なる存在なりや───?