/ふと、夢を見た。
ネット上に無数に散らばった、どうでもいい動画の一つを見ている気分。
それは以前にも見た光景だった。
聖杯戦争の予選を突破し、眠り続けたその時に。
倒壊したビルの群れ。そこいらで燻る炎と、立ち込める黒煙。およそ人の気配は無いが、屍ならば至るところで散見でき、血と硝煙の匂いが蔓延している。
まさしく、人も建造物も滅んだ、文明そのものが死んだ都市と言える。
では、これが思い出せない過去なのか。あるいは、失った過去。
頭脳は破損しても、体に刻まれた遺伝情報は消えないように。
/嘆きの声が聞こえる。
何故。何故。何故。
何故、憎みながら、こんなにも焦がれるのか。
何故、悼みながら、こんなにも愛しいのか。
災害を、紛争を、多くの無慈悲な死を睨みながら。
「 」は何故、この景色に臨んでいるのか。
この不合理に解答を。
答えがないのなら、自らの手で目覚めなければ。
記憶はいらない。
ただ戦えと。
今は、幾たび呼び起こす声を聞いた。
『人間なんて、所詮は他人を犠牲にしないと利益を得られない生き物だもの。だから、人間は他人が居ないと生きていけない。だから、憎かろうと他人に焦がれる。
愛憎とは表裏一体。憎い他人を殺すために。愛する他人を生かすために。人間は、他人を必要とするからこそ、戦い、壊し、殺す。それこそが、人間が紡いできた歴史。……あぁ、人間はどうしてこんなにも───醜いのでしょうね?』
……目覚めると、そこは見慣れたマイルームだった。
欠けた夢を、見ていたようだ。
……今のは……全く覚えも実感もないが、自分の過去の夢だった。
それだけは、はっきりと断言できる。
気にはなる、のだけれど。しばらく頭をひねってみても、何一つとして思い出す事はない。
気にはなっても、どうしようもない。何かを思い出すまで、放っておくしかなさそうだ。
「何? 怖い夢でも見たワケ? アンタ、寝汗ですごい事になってるわよ」
もう起きていたらしいアヴェンジャーが、コップ片手にコーヒーを飲みながら、私へと指差してくる。彼女の指先を追うようにして視線を胸元へと下げると、ブラウスが汗で張り付き、全身がしっとりとした嫌悪感で満たされている事にようやく気付く。
うっすらと下着まで透けていたので、慌てて胸を腕で隠した。
「何よ。別に女同士だし、気にするコトも無いでしょうに。それに、恥じらいなんて捨てたもん勝ちよ」
「なにその妙な持論。いや、いくら何でもブラが透けて見えるのはヤらしすぎるでしょう? 私、別に痴女じゃないし」
アヴェンジャーのおおざっぱすぎる持論をスルーして、私は端末から替えの服を取り出し、アヴェンジャーには背を向けて着替え始める。こういう時、電子世界は楽に着替えを用意する事ができるので便利である。
着替えを完了し、アヴェンジャーが鎧を纏うのを傍目に、私も遅れて朝食を摂る。焼きそばパンを急ぎ口に詰め込み、最後は苺ミルクを一気に飲み干す。
アヴェンジャーが先に起きていた事もあり、彼女の仕度が終わるまでに、私も出られるようにしておかないと、後から文句を言われるからだ。
……詰め込みすぎて胸が若干苦しいが、とりあえず私も仕度は整った。見れば、アヴェンジャーも仕度を終えたところらしい。
「ん。それじゃ、まずは遠坂 凛の所に行くわよ。昨日の
……そうだった。あれで何が分かったのかを確かめないと。
たぶん彼女は、いつもの場所に居るだろう。保健室のラニも気になるが、あの頭痛の意味を凛に聞かなくては───。
凛を探して屋上にやって来た。やはり、彼女はいつものように、屋上の端で空を眺めていた。
彼女に近寄ると、凛はすぐに私へと振り返る。別段驚く素振りもなく、「また来たか」といった面持ちだ。
「……あら。ここに来たって事は……揺らぎには行った?」
「うん。なんとか探し出したよ。データを取得した時に軽い頭痛はしたけど。あれって何だったの?」
「頭痛だけ、ですって……?」
私の言葉に、凛は明らかに動揺を見せた。が、すぐに何かを悟ったように、静かに私の眼を見つめ返してくる。
「……そう。何らかの不具合は出ると予想していたけど、まさかそれだけなんてね。あのペンダントは確かに、残留魔力を取得できるものよ。けど───実はね。ノイズの取得は、使用者の脳に大きな負担を強いるわ」
脳に……負担──?
それは、どれほどの負荷として、のしかかってくるものなのだろうか。そんな疑問も、凛はすぐに解消してみせた。
「生身なら意識の断絶、魔術回路が無ければ死に至るほどのフィードバックがある」
────!!
背筋が凍る。
では、あれは罠だったのか? 私はこの少女に気を許しすぎて……。
──いや、違う。
確かに私は昨日、ノイズとの接続を行った。しかし、こうして生きている。
これは──どういうことだ?
彼女が冗談を言っているのか?
私の胸中で渦巻く疑念は晴れる事もなく、更にトドメの一撃であるかのように、凛は爆弾を落とした。
「これで決まりね。あなた、普通の魔術師じゃないわ。下手すると、人間ですらないかもね」
「……何、て」
彼女は今、何と言った?
頭はまるでごちゃ混ぜにされたように、全く思考がまとまらない。胸が苦しい。呼吸は無意識に乱れ始めている。
茫然と立ち尽くす私に、凛は鋭い言葉の刃を尚も突き付ける。
「あなたは
分から、ない。ただ──
そう、身に覚えのない夢を見たような……。
たどたどしくはあるが、それを凛に伝えてみたところ、彼女はまた訝しいとばかりに、私を睨み付けた。
「夢? 電脳世界へ来た時に? ありえない。だって理論的には、霊子ダイブそのものが夢と同じカテゴリなのよ? ……夢の中で夢を見る、とか。まったく、どこまで謎の存在なのよ。アンタ」
それだけ言い残して、遠坂 凛は去っていった。
通常の魔術師ではない?
まっとうな人間ではない?
まったくの他人事だ。
何故なら、私はそんな大げさな者ではない。記憶は無くとも、その事実だけは、はっきりと断言できるのに───。
自分の事がようやく分かると思った矢先に、私はまた自分自身が何なのか分からなくなった。
『私』とは?
岸波 白野とは?
一体、私の正体は何なんだろう……?
結局、あれから私は自分が何者なのかという終わらない自問自答を続け、気付けば図書室の入り口前に立っていた。
考えはまとまらず、自分に関する手がかりすらもまた闇の中へと消え、そしてふとレオに言われた事を思い出した。
聖杯戦争について、詳しく教える事が出来る。レオはそう言っていたのだ。
失った自らの手がかり、その喪失感を無意識の内に埋めようと、新たな知識──聖杯戦争という、未だに私の中では不確かである事柄──を求めてここに辿り着いたのかもしれない。
図書室に入り、あの本を見つけた本棚の所まで向かう。すると、レオはそこに居た。まるで、私がここに来る事が分かっていたとでも言うように、彼は私を見かけると微笑みかけてくる。
「ようこそ、岸波さん。では、何をお聞きになりますか?」
私が口を開くよりも早く、彼はさも当たり前とばかりに、先に問いを投げ掛けてきた。なんだか、こちらの事が見透かされているような気分になるが、あえてそれには触れず、私は順に聖杯戦争について、その詳細を聞いていく事にした。
「そもそもの始まり、聖杯が見つかった経緯を知りたい。教えてくれる?」
「……発端は前世紀に遡ります。ある時、人間は巨大な構造物を観測、発見しました。遙か過去から存在していた、人類外のテクノロジーによる古代遺物を。それが聖杯───ムーンセルです」
前世紀……と言えば、有名どころだとファラオの下で栄えたエジプト文明や、人類最古の英雄王と称されるギルガメッシュ王が治めたバビロニアなどが時代としては当てはまるだろうか。
そんな、途方もなく昔から、このムーンセルは存在していたというのか。
「しかし、当時の人類には、その正体、構造、技術体系を解析する事は出来ませんでした。……いえ、現在でも、おそらく未来においてすら、解析する事は出来ないでしょう。それほど、ムーンセルを構成する技術は異質だったのです」
ムーンセルが人類外によって設置されたという話も頷ける。この電子の海を形作り、そこにデータ化した人間の魂を無数に招き入れた状態で、私たちの行動全てにおいてエラーすら起こさず運営しているのだから、オーバーテクノロジーどころの話ではない。
まだ霊子ハッカーも存在していないだろう古代に、ムーンセルという地球外の超大遺物を発見出来ただけでも、人類にとっては御の字と言えるだろう。
「ですが我々は、その機械が“何をしているか”だけは知る事が出来ました。……ムーンセルは、地球を見ていたのです。瞬き一つせずに。そして遙か過去から、地球の全てを記録し続けていた。全て生命、全ての生態。歴史、思想───そして魂まで」
「魂、まで……、」
「ムーンセルとは、全地球の記録にして、設計図。七つの階層を持つ神の遺物。故に、人々はこう呼んだのです。奇跡の聖杯。この世の全てを解き明かす、
地球のこれまでの全て、そしてこれからの全てを観測し続ける───それはまさしく神の眼だ。
地球の全てを記録しているというのなら、ムーンセルならば私の失われた記憶に関しても記録しているのではないか?
ムーンセルにアクセス出来れば、私の記憶を取り戻せるのかもしれない。……その手段が有れば、の話なのだが。
「さて、聖杯発見の歴史については以上です。他に何か聞きたい事はありますか?」
レオはまだまだ語り足りないようで、私なんて話に付いていくだけでも大変なのに、彼は涼しい顔をしている。これが才能の差という事か……。
「それじゃ……、聖杯の素材、とか?」
「ふむ。素材、ですか。聖杯の材質自体は、地球上にもある物です。そして、それが判明した時、僕たちは認めざるを得なかった……。それならば──その構造なら“全てを記録出来る”と」
地球上に存在する物質で構成されているというのは意外だったが、
レオの口振りからするに、人類に加工出来るような代物では無いとは想像出来るのだが。
「それを最初に発見したのは、巨人の穴倉──アトラス院でした。やがて、それは我々ハーウェイやトオサカリンの所属する組織などの知るところとなります。聖杯は、人類文明では考えられないほど、巨大なフォトニック純結晶で構成されたものなのですよ」
フォトニック
あまり聞き覚えのない単語だが、それほどまでに凄いのだろうか。
「フォトニック結晶はナノ単位の操作により、光そのものを閉じ込められる鉱物です。その処理速度、記憶容量は、他を圧倒する。ハーウェイでも研究を進めていますが、未だ1センチにも満たない
西欧財団やアトラス院ですらも容易に加工出来ない鉱物。それが聖杯の素材として使われている……?
いよいよ現実味が薄れてきた。ならば、一体聖杯とはどれほどの量のフォトニック結晶を使用しているのだろうか。
私の視線から、それを察したらしいレオが続きを語る。
「──けれど。ムーンセルの中枢……いえ、聖杯は、そのフォトニック結晶そのものだった。聖杯とは、全長三千キロメートルものフォトニック結晶を利用して作られた、光を媒介にした演算・記憶回路。情報はおろか、情報を管理する筐ですらも光で構成された、高次元のシステムなのです」
三千、キロ……!?
アトラス院ですら3センチがやっとだというのに、ムーンセルはそれとは比べ物にならないほどの巨大さという事だ。
現代においてやっと到達したその最大値を、ムーンセルは嘲笑うかの如く遥か遠く上回る。人類では届かない神の領域。
異星のテクノロジーと呼ぶ他ないのも仕方ない。おそらく、人類にそこまで到達出来る未来は無いだろう。
「地上全ての資源を使っても釣り合わない、規格外のスーパーコンピューター……。神の頭脳、と言われるのも当然ですね」
だからこそ、
勝者には栄光が──などといった生ぬるいものではなく、文字通り、この世の全てを手にしたも同然と言うべき賞品が与えられるのだ。
だからといって、私は死ぬ危険を冒してまで、聖杯を手に入れたいとは思えなかった。
私には何かが欠落している。そんな気がしてならない。その欠落こそが、失われた記憶なのかもしれない。
「まだ時間に余裕がありますし、他にはありませんか? 無ければ、僕の方から言いましょうか」
だんだんヒートアップしてきたのか、レオの言葉に熱が籠り始める。私が聞くまでもなく、レオは次の内容を話し始めた。
「では、聖杯の在処についてを語りましょう。聖杯の在処が分かった時、人々は、こぞって、そこへ到達しようとしました。しかし、我々西欧財団は、それを差し止めた……。それほどの物がハーウェイ以外の人間の手に渡ると、無用の混乱を呼ぶと考えたからです」
なんともまあ、傲慢な……。だが、それも実力有ってこそ、か。凛から聞いた限りでは、西欧財団は地球上での最大勢力であるようだし、彼らからしてみれば、それが当たり前であり、普通であり、正しき在り方なのだろう。
なんとなく、凛がハーウェイを嫌っている理由が分かった気がする。
「ハーウェイは新しい技術開発を規制した。それは人類にはこれ以上のテクノロジーは必要ない、という判断からですが───同時に、
月。地球の衛星であり、夜の象徴。
なんとなく納得がいく。地球全てを観測するならば、地球の全てを観測出来る位置として、地球の衛星であるという事は理に適っている。
一点に留まらず、地球の隅々にまで目を届かせる為には、衛星軌道に乗るのはもってこいだろう。
さて、そろそろ話が長引いてきたし、次の質問で最後にしよう。
このムーンセルに関して、最も私が知りたい内容。何故、こんな命懸けの戦いに臨んでいるのかという、一番の謎でもあった、この戦い───
「
「そうですね……。我々西欧財団は、聖杯を知った時点で、何人も辿り着く事が出来ないよう、宇宙開発を規制しました。しかし、抜け道があった。それが霊子ハッカーによる侵入です。いえ、人類はずっと昔から、ムーンセルとコンタクトをとっていた。霊体、意識として、その内部に招かれていたそうです。おそらくは……ムーンセルにとって、人の精神だけは、観測出来ないものだからでしょう」
それは……確かにそうかもしれない。幾らムーンセルが地球の全てを観測し、記録するとしても、人々が何を思い、何を考えているかなど、分かりようがない。
行動の結果は分かっても、それに伴った人の心、感情の揺らぎまでは読み取れないのだろう。
「あらゆる自然現象を観測出来る聖杯も、形而上のものは観測出来ない。だから逆に招き入れて“教えてもらう”事をムーンセルは選んだのだと、僕は考えています。……こうして、
何度も耳にした名前だが、こうして改めて聞くと、自分の場違いさも浮き彫りになるような気がする。こんな壮大な話の中に、何故私は足を踏み入れてしまっているのだろう、と。
「聖杯戦争とは聖杯に進入した
レオは言い終えると、満足したように息を吐き、再び私と視線を交差させた。
「おおよその説明は以上でしょうか。まだしはらくはここに居ますので、また聞きたくなればお越し下さい」
では──とだけ言い残して、レオはさっさと本棚へと向かって行ってしまった。貴重な時間を割いてまで、私の為に説明してくれた事に感謝するが、それにしたって内容があまりにも深すぎるため、頭の中を整理するだけで精一杯だった。
気を紛らわしたかったからこそ、レオの元へと話を聞きに来たはずなのに、今の話を聞いて余計に頭が痛くなる。
結局のところ、私は私が何者であるのかという問題から目をそらす事は許されないのだと、改めて思い知らされたのである。
重い頭を抱えながら、同じく重い足取りで保健室へと私はやってきた。目的は言うまでもなくラニに会うためだ。
昨日と同じようにそっとカーテンをめくり、ラニのベッドサイドに行く。
ラニは目を覚ましていた。その目は昨日と変わらず何も映さず、体は起こしてこそいるが、身じろぎもしない。
しばらく黙ってラニの顔を見つめていると、彼女は不意に口を開いた。
「壊れた道具を眺めていて、楽しいですか?」
───道具?
ラニの台詞が気になったが、言い返しができず、黙って彼女の言うに任せる。
ラニは、こちらの意を察してか、そのまま言葉を続ける。
「私は聖杯を得るためだけに生まれた道具。師のために聖杯を得る。そのためだけに生きてきました。でも、私はその目的を失った。だから、ただの壊れた道具。塵は塵に、星は星に還るが宿め」
淡々と、抑揚も無く語る彼女の目からは、生気がすっかり消え失せていた。
己をただの道具だと言い、聖杯戦争の資格と共に、生存の理由さえも失ったと語る彼女。
それを見ていて、一つ聞きたくなった。
彼女の師と言う人は、一人の人間を、ただ聖杯を手にするためだけに育て上げたというのか?
それでは、あまりに彼女の意思が存在しないではないか。
「ラニ、あなたの言う師って、あなたにとってどんな人なの?」
「──師、ですか? 師は、私の全て。この世に私を生み、慈しみ、知識を授けてくれた。その師が聖杯を欲するのであれば、私はそれを叶えるだけ。それが、私の存在理由だから」
──じゃあ、ラニは聖杯に何を願うのか。
命を懸けて、師のために尽くして、ラニの願いは何も無いのか。
ラニの言葉を聞いていたら、何だか無性に腹が立った。師が死ねと言ったら、この娘はきっと、そうするのだろう。
「これで分かりましたか? 私にとって、師の言うことは絶対です。あなたには関係の無いこと」
初めて、ラニが言葉を荒げる。感情らしいものが少し言葉に乗り、その目にうっすらと光が宿る。
「出て行って下さい。そして、私にはもう───構わないで」
昨日の拒絶とは、明らかに少し、違った。
もし……この娘の心を開けるのであれば、それが少しでも助けになるのなら、明日もここに来てみよう。
その行為が自己満足なのだということは分かっている。そして、自分が何者か分からないという悩みから逃避するための口実であるとも。だが、それでも、私は保健室へと通い続ける事を止めない。
それが「助けた」者の役目かもしれないから。
だから私は、何度でも彼女に会いに行くのだ。