矢澤先輩がどこか間違った決意をした次の日の放課後。
ここ最近は梅雨の時期なので、毎日のように雨が降っていた。
しかし、今日は珍しく晴れ模様だったので俄然皆のやる気は上がり、さあこれからμ'sの練習を始めようという事になっていたのだが……
「失礼するわよ」
「えぇと、誰?」
唐突に屋上の扉が開かれ、中から不審者の格好をした矢澤先輩が現れた。
当然、俺以外は矢澤先輩の事を知らないので、皆はその怪しい姿に警戒を募らせている素振りを見せる。
そんな俺達の視線は全く気にしていないのか、矢澤先輩は堂々とした足取りでこちらに近づいていく。
「あんたが高坂穂乃果ね」
「そ、そうだけど……」
戸惑い気味に頷いた穂乃果へと、矢澤先輩は勢いよく指を突きつけ──
「私のテストを受けなさい、高坂穂乃果!」
「へ?」
──そう告げるのだった。
現在、辺りには緊迫感漂う空気が充満していた。
指を突きつけたまま、大物感を醸しだしている矢澤先輩。
矢澤先輩の突然の指名に、驚いた様子で目を瞬かせている穂乃果。
そして、二人から離れた場所で静観している俺達。
「あの人を止めなくていいんでしょうか?」
「制服を着ているから、この学校の生徒なのは間違いないと思うけど……」
心配げに穂乃果を見つめる海未達。
対して、とりあえず危険はないと判断したからか、真姫達一年生組はどこか気楽な様子だった。
「まあ穂乃果先輩が指名されたし、私達には関係ないんじゃない?」
「なんのテストをするんだろう?」
「ラーメンの早食いとか?」
「それはないんじゃないかな、流石に」
ガヤガヤと好き勝手に言葉を交わしていると、矢澤先輩が穂乃果へと突きつけていた指をこちらに移す。
「そこっ! あんた達にもにこのテストを受けてもらうから」
「えぇっ!?」
「私達は練習をしたいんですが──」
「そのテスト、受けるよ!」
「──ほ、穂乃果!?」
海未が慌てるのも無理はない。
見知らぬ怪しい人からのテストより、μ'sの練習を優先するのが普通だろう。
しかし、穂乃果は矢澤先輩からのテストを優先した。
それは、ただ単に面白そうだと思ったからなのか、はたまた穂乃果がこれを受けた方が良いと感じたからなのか……
「それで、なんのテストをするの?」
「穂乃果、穂乃果。リボンからその人は先輩だよ」
「あっ! ご、ごめんなさい!」
「ぐっ……にこが小さいから先輩に見えなかったのね。耐えるのよ、度量が広い所を後輩に見せるのよ、にこ」
「あ、あのー?」
恐る恐るといった様子で、矢澤先輩の顔色を窺う穂乃果。
肩を震わせていた矢澤先輩は、そんな穂乃果の姿を見て、咳払いを落とす。
「だ、大丈夫よ。問題ないわ、ええ。問題ないのよ」
「良かったー、問題がなくて。それで、どんなテストをするんですか?」
「くっ……え、ええ。テスト内容は、あんた達のアイドル力よ!」
「アイドル力っ!」
穂乃果ではなく、何故か花陽がその言葉に強く反応を示した。
キラキラとした眼差しで矢澤先輩を見つめはじめた花陽は、素早い動作で懐からメモ帳とペンを取り出す。
ああ、花陽はアイドルが凄く好きだったな。
恐らく、アイドル力の事を詳しく知るためにメモ帳を取り出したのだろう。
「いつもよりかよちんの目がマジだにゃ」
「アイドルの事は何一つ見逃せませんっ!」
「一人乗り気な人もいるし、今日の練習は諦めた方がいいんじゃないかしら?」
「そう、ですね。穂乃果がテストを受けると言ってしまった以上、後は見守るしかありませんね」
諦めた様子でため息をつく海未等露知らず、穂乃果達は静かに言葉を交えていく。
「私があんたに質問するから、その内容について答えてもらうわ」
「クイズって事ですか? なぞなぞなら穂乃果得意だよ!」
「ふふふっ、その余裕がいつまで続くか見物ね」
「どんな問題なのでしょうか……!」
「かよちんが楽しそうで良かったにゃー」
不敵な笑い声を零した後、矢澤先輩は穂乃果へと問いを投げかけるのだった。
「──お客さんがアイドルに求めるものって何かしら?」
「お客さんが、求めるもの?」
矢澤先輩の問題を聞いて、穂乃果は顎に手を添えてウンウン唸りはじめた。
俺達も自然と矢澤先輩の問題を考えるべく、互いの顔を見合わせて議論を交わしていく。
「なんだろう? 可愛い衣装とかかなぁ?」
「やはり、技術ではないですか?」
「歌声じゃないかしら?」
「うーん、凛はダンスだと思うなぁ」
「候補が多すぎて絞りきれません……!」
各々が好き勝手に自分の見解を述べる中、穂乃果は虚空を眺めたまま答えない。
しかし、暫くして自分なりに答えを思いついたのか、矢澤先輩の方へと穂乃果は視線を戻す。
腕を組んでふてぶてしい態度を取る矢澤先輩に、穂乃果は笑顔で頭を掻きながら口を開く。
「わかんない!」
『……わかんない?』
「うん。だって、穂乃果はただ皆とアイドルをしたいって思っただけだもん。だから、今までお客さんを意識した事はあまりなかったなぁ」
確かに、穂乃果がスクールアイドルをやるきっかけになったのは、廃校を阻止したいという目的に、自分もアイドルとして輝いてみたいと思ったからだったはず。
お客さん達を楽しませるためではなく、あくまでも自分達が楽しむためにアイドルになる。
人によっては、酷く傲慢に感じる考え方だろう。
しかし、だからこそ穂乃果は誰よりもスクールアイドルを楽しんでおり、そしてその気持ちを通して誰よりも輝いている。
「……それが、あんたの答えでいいのね?」
「はい! 穂乃果はμ'sの皆と輝きたいだけだから!」
「っ……そ、そう」
陽だまりのような笑みを浮かべた穂乃果。
そんな穂乃果の笑顔を見て、矢澤先輩は何を思ったのだろうか。
矢澤先輩は僅かに言葉に詰まった後、
「あんた達は、さっき言っていた事でいいのよね?」
「え、ええ。私達はそう考えていますが」
「ふぅん……じゃあ、次はあんた達の踊りを見せなさい」
「へ? 穂乃果達のダンスを?」
矢澤先輩は素っ頓狂な声を上げた穂乃果に頷き、コツコツと俺達の周囲を回りはじめた。
指を立て、俺達へと言い聞かせるように、矢澤先輩は言葉を紡いでいく。
「そうよ。あんた達がどれぐらい成長したか、この私が直々に採点してあげるわ」
「あの。そもそも、貴女にテストしてもらう理由が私達にはないんですが」
「甘いっ!」
「きゃっ!?」
むっとした様子で言葉を返した海未。
しかし、矢澤先輩に勢いよく指を突きつけられ、海未は可愛らしい悲鳴を上げて肩を震わせる。
それから、思わずといった様子で頬を赤らめている海未を尻目に、矢澤先輩は順番に俺達を見回していく。
「あんた達はなんにもわかってないわ。アイドルというのはね、常にアイドルとしての意識を持つ事が大切なのよ。私にテストをしてもらう理由がない? そんな腑抜けた考えは甘えだわ! 私がテスト云々言う前に、お客さんの要望を瞬時に答えるのが、アイドルとしての心構えって言うもんでしょうが!」
「な、なるほどっ。参考になります!」
「そう、なのですか?」
「あんたも、あんたも、あんたも……あんた達全員、腑抜けている! アイドルを冒涜しているわ! そんなんで、スクールアイドルが務まると思っているの!?」
俺達を指し示した後、イライラした様子で何度も靴を鳴らす矢澤先輩。
対して、ここまで強く否定されたからか、海未達の表情が険しくなっていく。
しかし、穂乃果だけは神妙な顔つきで思案する仕草をしていた。
「……よし、やろう!」
「穂乃果ちゃん?」
「だって先輩……えっと、名前を聞いてなかった。名前を聞いてもいいですか?」
「にこよ」
「ありがとうございます。それで、にこ先輩がアイドルに強い想いを持っているってわかるから、今の穂乃果達の全力を見せて評価してもらった方がいいかなって」
「ですが、そのですね」
言葉を濁らせている海未だったが、彼女の言いたい事は概ね理解できる。
得体の知れない先輩に評価されても、自分達のためになるとは思えないのだろう。
しかも、自分達と初対面な先輩とくればなおさら。
だが、穂乃果は一度決めると一直線に進んでしまうので……
「大丈夫だよ、海未ちゃん。にこ先輩の想いは、本物だと思う」
「穂乃果先輩の意見に、私も同意します!」
「花陽ちゃん?」
「あの人からは、私と同じぐらいの熱い想いを感じました。アイドルが好きな人に、悪い人はいません!」
瞳に情熱を宿した花陽は、そう告げて胸の前で可愛らしく拳を握った。
ある意味勘と言ってもいい花陽の自論を聞いて、海未達は毒気が抜けたように呆れた表情を浮かべる。
まあ、花陽がそこまではっきり言うとは思わなかったから、海未達はなんとなく気が抜けたのかもしれない。
少なからず、皆にも矢澤先輩のアイドルへの想いが伝わっていた事もあるだろうが。
「やるだけやってもいいんじゃない? ライブ前の練習と思えばいいし」
「あの人に凛達を認めさせるんだね!」
「海未ちゃん、やってみよ?」
「……そうですね。私達の全力を見てもらいましょう!」
μ'sの皆が穂乃果の周囲に集まり、矢澤先輩と対峙した。
また、俺はさり気なく穂乃果達から離れた場所へと退避しており、こうして矢澤先輩とμ'sの間で緊迫感が漂っていく。
「にこ先輩、これが私達の全力ですっ!」
「見せてもらうわよ、あんた達の想いを」
重々しく頷いた矢澤先輩を尻目に、穂乃果達は踊りはじめるのだった。
「──はぁ……はぁ……どうですか、にこ先輩?」
肩で息をしていた穂乃果は、顔に滲む汗を拭ってそう尋ねた。
穂乃果以外も全員疲れた様子を見せ、μ'sの皆が全力で踊ったという事がわかる。
対して、矢澤先輩は腕を組んだまま黙して語らない。
そんな両者の様子を尻目に、俺は内心で酷く驚いていた。
このダンスは練習途中のものだったので、いまだに穂乃果達の動きはぎこちなかったはずだ。
しかし、今の穂乃果達の動きは最低限ダンスとして見せられるものになっていた。
これは恐らく、矢澤先輩という観客がいる事で気が引き締まったのだろう。
誰かに見られているという緊張感が、穂乃果達の意識を高め、それに比例してダンスのキレが鋭くなっていく。
「やっぱり、μ'sは凄い……」
静かに賞賛をしている間に、矢澤先輩は俯き考え込む素振りを見せる。
穂乃果達は固唾を呑んだ様子で見守り、辺りには再び緊迫感が漂いだす。
やがて、遠くの方で鳥が鳴く声が響いたところで、矢澤先輩は顔を上げて口を開く。
「駄目ね」
「ど、どうしてですか!」
「確かに、ファーストライブの時よりは上手くなったわ」
「あれ? 穂乃果達のライブに来てくれていたんですか!」
瞳を輝かせた穂乃果を見て、矢澤先輩はわざとらしく咳払いを落とす。
「んん……と、とにかく! あんた達には色々と足りないのよ!」
「私達に何が足りないのでしょうか?」
「そうよね。否定ばかりするんじゃなくて、その根拠を提示して欲しいのだけど」
「勉強させてください!」
ジリジリと近づいてくるμ'sに、矢澤先輩はゆっくりと後ずさっていく。
そして、自分を包囲しようとするμ'sに目を向けた矢澤先輩は、脚を高く上げ、それを思いっきり振り下ろす。
辺りに軽めの音が響き、穂乃果達はビクリと身を震わせ、足を止める。
「ったぁ……とりあえず、あんた達は解散しなさい!」
「あ、まってくださいにこ先──ぎゃっ!」
一方的に言い放つと、矢澤先輩は涙目になりながら屋上を後にしていく。
脚を抱えて兎のように跳ねる矢澤先輩を穂乃果が追いかけるも、勢いよく屋上の扉に当たり、額を抑えて
「大丈夫ですか穂乃果!?」
「待ってて、穂乃果ちゃん。今、絆創膏を持ってくるから!」
「お、おでこが赤くなってないよね?」
慌てた様子で穂乃果へ駆け寄る海未とことりを尻目に、俺は一年生組の元へ近づいていく。
「お疲れ様、いい踊りだったよ」
「ありがとうございます、朝陽先輩」
「まあ、私にかかればこれぐらい楽勝ね」
「ところで、さっきの人は誰だったんだろう?」
「……はっ! もしかして、凛達のライバルアイドルかも」
いや、それは違うと……間違っていないかもしれない。
一応、矢澤先輩も元スクールアイドルだったようだし、現在もアイドル研究部の部長だ。
それを踏まえれば、凛の言葉は意外と的を射ていると思う。
「とりあえず、私達も穂乃果の様子を見にいこうか」
「あの先輩には逃げられちゃったし」
「……前途多難ね」
ため息をついて呟いた真姫の言葉が、この場にいる俺達の心境を表していた。
まさか、矢澤先輩が直接穂乃果達と対峙するとは……いや、昨日の言葉から薄々勘づいてはいたが。
ともかく、遂にμ'sは矢澤先輩と出会った。
ここから、矢澤先輩とμ'sのぶつかり合いが始まるのだろう。
早く矢澤先輩がμ'sに加入してくれればいいのだが……
「果てしなく不安だ」
口の中で言葉を転がしながら、俺達は穂乃果の元へ駆け寄るのだった。