「──私、髪を結ぶ事でスイッチが入るんです」
部室に戻ってきた俺達の視界に入ったのは、下ろした髪を撫でているにこ先輩だった。
憂いを帯びた表情を浮かべており、どことなく色っぽい雰囲気が漂っている。
対して、同室にいる穂乃果達は感心した様子で頷く。
「おー、流石にこ先輩だね」
「確かに、そういう自己暗示をする人がいるとは聞いた事あります。まさか、にこ先輩がそうだったとは思いませんでしたが」
「その図太さは凛も見習いたい!」
「ふむふむ! 参考になりますっ!」
目をキラキラさせてペンを走らせている花陽は置いておいて。
一体、これはどういう状況なのだろうか?
いやまぁ、にこ先輩の態度を見ればなんとなく予想はつくが。
ことりも察したのか、苦笑いをしているし。
「と、このように普段から猫を被るのもアイドルに必要な事なのだろう」
「ちょっと希! 猫を被るってどういう事よ!」
「どういう事と言われても、本当のにこっちを教えただけやん?」
「本当のにこは大人の色気がある……コホン。全く、希ったら変な事を言いだして。私はいつもこのような感じなんですよ?」
あ、まだ続ける気なんだ。
困ったように微笑むにこ先輩を尻目に、俺達は穂乃果の元へ近づいていく。
「で、どういう状況かな?」
「おかえりー。えーっと、部活動の生徒の素顔に迫る感じで撮影したくて」
「にこ先輩がいつものをやろうとしたのですが、当然却下されました」
「その結果、あの猫被りがでたって感じね」
「そこ、聞こえてるわよ!」
呆れた口調で締めくくった真姫に、にこ先輩が勢いよく指を突きつけた。
しかし、真姫は大して動じた様子も見せず、我関せずと髪の毛を弄っている。
にしても、髪を下ろしたにこ先輩か。
改めて観察してみると、普段とは違った印象を受けて新鮮だ。
背中まである黒髪は艶があり、先ほどの憂いに満ちた瞳と凄く合っている。
正直、ギャップもあってドキッとした俺はおかしくはないと思う。
「とりあえず、朝陽ちゃん達も帰ってきたし中庭で撮影しようよ!」
「穂乃果先輩にさんせーい!」
「ちょっと二人共……行ってしまいましたか」
「ま、ここで撮るよりはマシでしょ。ほら、花陽もメモしてないで行くわよ」
「もう少しで新たな開拓ができる所なんですっ」
「全く……」
「朝陽ちゃん達も早くおいでなー」
続々と部室を後にしていき、残るのは俺とことり、にこ先輩。
不服そうに眉を寄せている彼女に、ことりが声を掛ける。
「にこ先輩は行かないんですか?」
「行くけど、なんか納得がいかないというか」
「私は髪を下ろしたにこ先輩も良いと思いますよ」
「え、本当!?」
喜色の笑みを浮かべたにこ先輩に対して、何故かことりは瞳に不満げな色を宿した。
「ふーん。朝陽ちゃんはそう思ってたんだ」
「どうしたんだい、ことり?」
「別にー。さっきはあんなに激しくしてくれたのに、ことりよりにこ先輩に夢中なんだなーって」
「激しっ!?」
「は、はぁ!?」
ちょ、ちょっと何を言っているのですかことりさん!?
激しくって、ただ俺はことりの悩みをなんとかしたいと思っただけなのだが。
それがどうして誤解を招くような発言に変わっているのだ。
実際、何か良からぬ事を想像でもしたのか、にこ先輩は顔を真っ赤にしているし。
「ああああんた達! ア、アイドルに恋愛はご法度なのよ! し、しかも女の子同士なんて不健全にもほどがあるわ! これはアイドル研究部の部長としてしっかりと指導を──」
「やだなー、にこ先輩。私は激しく抱き締めてもらったって言ったんですよ?」
「──へ?」
「ふふふ、駄目ですよ早とちりは」
素っ頓狂な声を上げたにこ先輩へと、ことりはにっこりと微笑んだ。
楽しげなその笑みには、Sっ気が混ざっているような。
いや、むしろSっ気しかないのでは。
何故、ことりがいきなりにこ先輩をからかおうと思ったのかはわからないが、人を弄れるほど精神的に余裕があるのなら良かった。
まあ、弄られるにこ先輩にとっては溜まったものではないだろうが。
「あ、あんたねぇ……」
「恥ずかしがるにこ先輩、とっても可愛いかったです〜」
「は、恥ずかしがっていないわ!」
「ふふふっ」
「笑っていないで訂正しなさいよ。スーパーアイドルであるにこがこれしきの事で取り乱すわけないでしょ?」
「そういう事にしておきますね」
「だから──」
眉尻を上げて突っかかるにこ先輩と、笑みを浮かべてそれを躱すことり。
話しながら二人も去っていき、部屋には俺が一人取り残される。
なんとなく直ぐに追いかける気になれず、自分の席に座ってため息をつく。
「はぁ……」
とりあえず、ある程度ことりに余裕はできたのだろう。
にこ先輩を弄る事が何よりの証左だと思うから。
実際、今のことりからは一歩踏み込んだ距離感を覚えた。
恐らく、何かしら自身の中で区切りがついた事で、μ'sのメンバーとより仲良くなろうと考えたのだろう。
それがSっ気だと言うのは、なんていうか腑に落ちないのだが。
「問題は、これからか」
鞄から取り出した物を口に含みながら、今後の展開を脳裏に描いていく。
現在、μ'sの知名度は加速度的に増している。
ホームページに新メンバーを記載した事で、一年生組にファンが着いたりしたのだ。
穂乃果達二年生組のファンも増しており、とりあえずμ'sは順調と言ってもいいだろう。
対して、音ノ木坂そのものについては、あまり宜しくない。
スクールアイドルに興味はあるが、自分の入学を決めるほどではない。そのような感じと思われる。
つまり、絵里の負担や責任が軽減されていないという事だ。
「んくっ……経営に関しては、俺が口を出せる問題ではないんだよなぁ」
ペットボトルの水で喉を潤した俺は、頭が痛い問題にため息を零した。
希先輩に素人ながらの分析結果を渡したとは言え、あんな物が役に立つとは考えられない。ないよりはマシ程度が関の山だ。
「それに、これは絵里一人で抱え込む問題じゃない」
生徒会が首を突っ込む問題ではないはずなのだが、絵里の性格が見て見ぬ振りはできないのだろう。
以前、一度絵里の想いを再確認させた事があった。
あれ以降は焦りの感情が形を潜めたのだが、最近になって再び浮上してしまっている。
このままでは、絵里はμ'sと衝突したり過労で倒れてしまうかもしれない。
「……希先輩がいるから、μ'sは心配ないか」
携帯を取り出し、μ'sのグループチャットに行けない趣旨を送った。
返事を見ないでそれをポケットに仕舞い、鞄を持って立ち上がる。
俺にできる事は少ないが、せめて雑用だけでもしよう。
絵里の負担を少しだけでも減らすために。
「絵里は大丈夫だろうか……」
最近増えたため息にげんなりしつつ、絵里の元へ足を進めるのだった。
絵里の手伝いをした次の日。
俺の危惧した通り、絵里は一人で背負い込もうとしていた。
なんとか宥めたり雑用をしたり、疲れが溜まっている絵里の肩を揉んだり。
お土産に絵里が好きなチョコレートを渡した事もあるだろうが、昨日の彼女は終始和やかな雰囲気だった。
そんな廃校の危機がなければ、平和な昨日の一時。
改めて、絵里の生真面目さに内心で苦い思いをしたのは記憶に新しい。
もう少し肩の力を抜く事を覚えてくれれば……
「──会議を始めるわ」
その声を聞いて、俺は現実へと意識を引き戻した。
現在、俺はμ'sの皆と部室におり、暗い室内でにこ先輩が重々しいポーズを取っている。
机の上で両手を組み、口許にそれを乗せているにこ先輩。
対して、俺達も背筋を伸ばして彼女の言葉を待っていた。
辺りに緊迫感が漂う中、にこ先輩は海未へと目を向ける。
「今回の議題を述べなさい」
「リーダーは誰が相応しいかですね」
「流石海未ね。完璧な対応よ」
「は、はあ。ありがとうございます?」
「凛、μ'sの内訳を述べなさい」
次に、にこ先輩は凛に尋ねる。
座ったまま見事な敬礼をした凛は、真面目臭い面立ちで口を開く。
「いえっさー! μ'sは穂乃果先輩達二年生組が四人、凛達一年生組が三人、そしてにこ先輩三年生組が一人です!」
「ご苦労ね、凛」
「こ、光栄でありますにゃ!」
感極まったような嘘泣きをする凛を尻目に、にこ先輩は立ち上がってホワイトボードに歩み寄る。
自然と集まる全員の視線を気にする様子も見せず、彼女は重々しく腕を組んで俺達を睥睨する。
「諸君! 先日の希の言葉を思い出してほしい。彼女と一緒にPRを撮影した時、リーダーは誰なのかという問題が浮上した。そこで、私は疑問に思った。何故、私が加入した時に考えなかったのだうか、と」
そこで言葉を区切ったにこ先輩は、ホワイトボードをバンッと強く叩いた。
見事に半回転したそれを指差し、彼女は高らかに声を響かせていく。
「よって、私は議題を提示する事にした! それはつまり、μ'sのリーダーとは誰が相応しいかという事だ!」
言葉を締めくくり、こちらにドヤ顔を向けたにこ先輩。
対して、俺達は電気をつけたり、机に頬杖をついたり、思い思いに寛ぎはじめる。
「穂乃果ちゃん、お菓子食べる?」
「うん、食べる!」
「かよちーん、今日はラーメン屋に行こー」
「えっと、いいけど……いいのかな?」
「いいのよ、どうせ茶番だし」
「全く、部屋が暗いと目を悪くしますよ」
「ちょちょっと! せっかくかっこよく決まってた所だったのに、これじゃあ駄目じゃない」
不満げな表情を浮かべるにこ先輩だったが、大丈夫。
あれをかっこいいと思っているのは、にこ先輩以外いないから。
実際、海未や真姫などは白けた視線を向けているし。
「ぐぬぬ……ええい、ちゅーもーく! まずはこれを見なさい!」
「えーっと……リーダーに必要なもの?」
首を傾げた穂乃果の言葉の通り、ホワイトボードには三つの事柄が記載されていた。
──誰よりも熱い情熱を持って、皆を引っ張っていける事。
──精神的支柱になれるだけの懐の大きさを持った人である事。
──メンバーから尊敬される人である事。
どうやら、にこ先輩はこの三つの内容がリーダーに必要だと考えているらしい。
「そもそも、にこが部長に就任した時点で考え直しておくべきだったのよ」
「私は穂乃果ちゃんのままで良いと思うけどなぁ」
「いえ、今回の取材ではっきりしたでしょ? この子にリーダーは向いていないって事が」
呆れた口調で答えたにこ先輩。
まあ、取材中の穂乃果は涎を垂らして眠っていたり、ニコニコとお菓子を食べたり、作詞をしている海未の応援をしたり、作曲をしている真姫を励ましたり……あれ?
確かに、穂乃果がリーダーらしい事をしているかと聞かれたら、思わず首を傾げてしまう。
俺以外にも思い当たる節はあるのか、各々がにこ先輩の言葉を聞いて目を逸らしているし。
「はむっ。今日もパンが美味い!」
「……さて。これで、リーダーになるのに相応しいのはにこ──」
「凛は海未先輩がいいと思うにゃ」
「わ、私ですか?」
「まあ、海未はしっかりしてるからね」
幸せに満ちた顔でパンを頬張る穂乃果を尻目に、凛は海未を推薦した。
まさか自分が勧められると思ってなかったようで、海未は驚いた様子で目を瞬かせている。
「だからね、海未よりにこの方が──」
「海未ちゃんやってみない?」
「その、私には恥ずかしくて無理です。それに、穂乃果もリーダーじゃなくなるのは嫌だと思いますし」
「ふぇ? 穂乃果は別にリーダーじゃなくてもいいよ」
「えぇっ!?」
パンを食べ終わった穂乃果がそう告げると、驚愕した表情で花陽が勢いよく立ち上がった。
彼女は机を強く叩き、視線を鋭くして穂乃果へと顔を近づけていく。
「穂乃果もいいって言っているし──」
「は、花陽ちゃん?」
「リーダーじゃなくなるという事は、センターじゃなくなるという事なんですよ!?」
「でも、リーダーじゃなくてもμ'sの皆と一緒でしょ?」
「それは、そうですけど」
「じゃあ、別にリーダーじゃなくてもいいかなー。それより、皆と一緒の方が大事だし!」
「そ、そういうものなのかな……?」
朗らかな笑顔で答えた穂乃果を見て、花陽は戸惑い気味に席へと戻った。
まあ、アイドル好きな花陽からすれば、リーダーに執着しないのは不思議なのだろう。
「穂乃果がリーダーを辞めるなら、やっぱりにこが──」
「じゃあ、やっぱり海未先輩がリーダー?」
「ですから、私にリーダーは向いていません」
「全く、面倒な人ね」
いや、真姫に言われたくはないと思うが。
むしろ、俗に言うツンデレで素直になれない真姫の方が、人によっては面倒なのでは……まあ、そこが真姫の魅力だけど。
「そもそも、リーダーというのはにこのような──」
「ことり先輩は?」
「うーん、ことりちゃんは副リーダーじゃない?」
「確かに、リーダーって感じじゃないわね」
「だったら、朝陽先輩はどうかな?」
「私は踊らないからね。私がリーダーになるのは変だと思うよ?」
「じゃあ、やっぱり朝陽ちゃんも一緒に踊ろう!」
穂乃果が元気よくそう告げると、皆が期待の眼差しを送ってきた。
対して、俺は苦笑いを返して肩を竦める。
「だから、にこがリーダーになるのは当たり前──」
「前にも言ったけど、私がスクールアイドルになるのは無理さ」
「えぇー! いいじゃんいいじゃん! やろうよぉー!」
「すまない。これだけはどうしてもできない事なんだ」
「どうしても?」
「どうしても」
「……そっか」
申し訳ない表情を浮かべた俺を見て、穂乃果は残念そうに肩を落とした。
海未達も同じような行動をしており、辺りにどこか気まずい雰囲気が漂いはじめる。
すると、先ほどから自己主張をしていたにこ先輩が、おもむろに机を強く叩く。
「あんたら私の話を聞きなさいよっ! ……仕方ないわね。こうなったら勝負で白黒はっきりつけましょう!」
「勝負?」
「そう、スクールアイドルらしい勝負よ。てことで、皆はにこに付いてきなさい」
不思議そうな面立ちの穂乃果達を尻目に、にこ先輩は意気揚々と部屋を出ていった。
とりあえず、俺達も彼女の後を付いていけばいいという事だろうか?
「よくわかりませんが、私達も行きましょうか」
「あ、私はちょっと用事が──」
「朝陽ちゃんも行くよね?」
「──え?」
「用事って、また朝陽ちゃん何か一人でしようとしてるでしょ。最近、朝陽ちゃんは働きすぎ! たまには休まなきゃ」
「そんな事はないと思うけど」
「ううん、そんな事あるよ。とにかく、今日は私達に付き合って、ね?」
「……わかった」
自分は必要ないと思ったので、絵里の手伝いをしようと考えたのだが。
何か勘でも働いたのか、ことりに捕まってしまう。
暫くの問答の末、ことりのお願いに折れる事となった。
「ありがとう、朝陽ちゃん! 皆も行っちゃったし、早く行こっ」
絵里の事が心配なのだけど。
先ほどのことりの事も脳裏を過ぎり、本当に彼女がもう大丈夫か見ておきたい。
……今の笑顔から、問題はないと思ってはいるが。
ともかく、嬉しそうに微笑むことりに手を引かれ、俺も皆と行く事になるのだった。