仮題・・・恋姫世界に幕末日本をぶち込んでみた。   作:3番目

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40話 パルティア出兵 オマーン湾海戦

 徳川日本国、扶南国、室利仏逝王国、琉球王国の四か国軍は翌年の春、軍の編成を終えて、徳川幕府第三艦隊及び多数の輸送特化型帆船、および、航海技術を持つ琉球海軍の一部艦艇に乗せられアラビア海へと到達した。

 幕府は陸軍兵力として、幕府陸軍7個連隊、大砲大隊1個大隊、組合銃隊10組合、港湾武兵銃隊1個大隊合計1万2千を送り出したのであった。無論、諸藩にも動員をかけ宇和島藩藩主伊達宗城を総司令官、熊本藩藩主細川護久を副司令官として西方交易交渉団に所属する全藩に動員をかけた。合計35藩からなり、1万9250の兵力を抱えた。

 徳川幕府陸軍と諸藩軍の合計は3万1250である。

 ここで徳川日本と共に海を渡った国々の派兵兵力を紹介しよう。

 扶南国は木鹿(ボク ロク)を大将、副将兀突骨(ゴツ トツコツ)を据えた3500の兵を、室利仏逝王国はタロン・チャイヤーを大将、副将にロロル・クタクリットを据えた2000の兵を、琉球王国は無帰仁主那(なきじん しゅな)を大将にした500を派遣したのだ。

 派遣軍総勢3万7250である。

 

 ローマ帝国はすでにパルティア領土の半分近くを犯し、かつては黒海や地中海を望むことができたアナトリア地方まで範図広げていたパルティア王国はトルコ地方、クルド地方、アラブ地方を追い出されて、イラン高原での戦いに敗戦し一時はバルチスターンまで侵入されたのだ。

 ちなみにこの当時はパルティア・サータヴァーハナ連合に加えてクシャーナがおり3か国連合であった。イラン高原の敗戦でクシャーナ朝は分断されトルクメニスタン地方カラクーム砂漠へ撤退コべド山脈に防衛線を引き徹底抗戦をしているが連絡が取れず状況はわからない。

 徳川日本国・扶南国・室利仏逝王国・琉球王国首脳陣は派遣軍代表の伊達宗城はパルティア王国国王ヴォロガセス6世及び親征していたサータヴァーハナ朝国王シムカ・サータヴァーハナに謁見。海を越えてやって来た援軍としてはこの4万近い軍は法外な物であり、以前よりパルティア・サータヴァーハナの間を取り持ってきた徳川日本が口先だけでなくやるときはやる国であると示すことができたのだ。

 宗城達派遣軍の面々は両国王より丁重に扱われた。

 ちなみに侵攻してきたローマ帝国は奴隷兵含めて総勢約20万。

 対する国家連合軍はパルティア王国約7万、サータバーハナ朝約5万、四か国派遣軍約3万、連絡が取れないクシャーナ朝約3万、合計すればギリギリ18万行くか行かないかである、だが、共闘が望めないクシャーナは数に入れられない。つまりは15万、しかも、この表記は切り上げ方式なので正確には考えるならば15万に及ばないと思われる。

 それでも敵との差はだいぶ縮まる。

 国家連合軍首脳部は、防衛線の引き直しを図る。

 カイサル山からバンダレアッバースのラインでの防衛線の引き直しを図ったのだ。

 

 

 による、パルティア王国及びサータバーハナ朝の連合軍に合流。

 パルティア王国5万とサータヴァーハナ朝3万の8万が水源地であるヘルマンド水源域の北進を開始、パルティア王国2万とサータヴァーハナ朝1万、四か国連合軍約3万がバルチスターンの全土回復のために西進を開始したのだ。また、西進軍は一番数の多い四ヵ国連合軍の伊達宗城に預けられた。

 北進軍はヘルマンド水源域の奪取に成功する。彼等の勝利には四ヵ国派遣軍の貢献が大きい。

 まず、西進軍の司令官となった宗城は幕府海軍第三艦隊及び琉球海軍アラビア海の確保を要請。これによって幕府海軍第三艦隊司令官永井尚志の指揮によって周辺のローマ軍艦艇が手あたり次第沈められた。

 これに、対してローマ艦隊はオマーン湾に集結。幕府海軍司令官永井尚志艦隊決戦を決意。

 周辺のパルティア・サータヴァーハナ艦艇をかき集めオマーン湾へと進撃した。

 徳川日本はここに来て始めた明確な国家海軍との艦隊戦が行われたのであった。

 この戦いは最新式の蒸気機関を搭載し、多くの大砲を備えた砲艦隊である幕府艦隊の大勝利という訳でもなかった。確かに序盤ではそういった面はあった。この時代の戦いは衝角突撃による白兵戦が主体であった。無論、幕府海軍や琉球海軍は近づかれる前に砲撃で沈めてしまう方針を取ったが、敵の数も多く、衝角突撃を許してしまう。また、パルティア・サータヴァーハナの海軍艦艇も旧来型の白兵戦を軸として考えられている艦艇である。彼らも衝角突撃による白兵戦で戦っているのだ、混戦は免れなかった。幕府海軍艦に取り付いたローマ海軍艦にパルティア・サータヴァーハナの海軍艦が突撃し、さらにローマ海軍艦が突撃し、さらにパルティア・サータヴァーハナが永遠と繰り返され、幕府艦隊も致し方なしとこれに加わった。幕府海軍初の海戦は最新の艦艇を保有していたにもかかわらず旧来的な戦い方を強いられたのだ。

 船上では弓に槍、西洋の長剣、インド・西アジアの曲刀、日本の日本刀と銃剣が絡み合う海上で熾烈な戦いが繰り広げられていた頃、陸でも同様に戦いが繰り広げ得られていた。

 




短いですがパルティア出兵編は2回に分けます。

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