仮題・・・恋姫世界に幕末日本をぶち込んでみた。   作:3番目

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47話 汝南袁家軍政顧問団 と 汝南芸術文化

 洛陽では、献帝に気に入られた董卓が権勢をふるい、袁紹は洛陽を去り南皮へと去っていった。また、他の群雄達も同様に自領へと戻っていった。

 洛陽には徳川日本国が献上した財があったため、しばらくは安定した統治が続きそうであったが、董卓に功績を奪われた形で袁紹は不満を持ってしまっただろう。

 だが、大陸は一応現状は平静を取り戻していた。

 

 ちなみに松平定敬一行は董卓が献帝を奉じて上洛したのを知ったのは袁術領でのことであった。

 

 

 

 

 袁術領では徳川日本国のナンバー2の訪問によって、連日連夜にわたり定敬はもてなされていた。定敬は袁術領に1週間ほど滞在したとされ、袁術と徳川の蜜月関係が周囲にも、伺わせられるほどであった。

 

 また、ある程度自立している華北袁家とは違い、徳川日本国に多くの面で頼り切っている汝南袁家であるが、今回の軍政顧問団の設置は汝南袁家と徳川幕府のさらなる親密化が進むことになるだろう。

 この、軍政顧問団は大久保利通を代表顧問としており、今後は汝南袁家では大久保利通によって主導された公共設備投資が、黄巾党の乱で正式に加増された寿春の地を含めて始まるだろう。

 また、本土内で多くの商工会議所立ち上げにかかわった五代友厚もこの顧問団に参加しており、彼が立ち上げに尽力した寿春の商工会議所は後の袁術領の商工業の改善・発展の下支えとなる。ただ、友厚は袁術領で甘党の袁術との付き合いが祟り糖尿病で本国へ静養のために帰国することになり、仲建国時の式典には参加出来ていないのだが・・・

 

 また、この軍政顧問団は本来は汝南袁家の軍事の底上げ、公共設備の整備が目的ではあったが、本来とは違う方向に進んでしまうこととなる。

 張勲は軍事政治に力を入れようとしていたようだが、汝南袁家の当主である袁術は軍事政治ともに明るくなく。袁術は軍政顧問団に加わっていた副次的な人員達との交友を深めていった。この副次的な人員と言うのが音楽家の吉沢検校や歌人の安藤野雁、陶芸家宮川香山、画家の歌川広重・山本芳翠・狩野芳崖と言った人物たちであった。これら多くの要因によって三国志の時代における反董卓連合による董卓討伐が終わるまでの期間において文化面の急成長を遂げることとなる。

 

 また、顧問団の護衛責任者と副責任者が上原寛林と高嶺秀夫であった事もあり、袁術軍は大陸最初の軍楽隊を保有することにもなった。また、袁術軍の代表的な軍歌『姫さん姫さん』は反董卓連合軍の袁術軍内で多用され反董卓連合軍のある種の花形だった。

 

 

 後の世では芸術の都、寿春などと呼ばれるほどであった。

 芸術分野に明るい汝南袁家高官雷薄と高嶺秀夫の共同で創立された、寿春お茶の水美術音楽学校は袁術領の代表的産業である茶畑の中に立っており、それを象徴するものであった。

 

 袁術公路自身も歌や音楽、他芸術面では非常に稀有な才能を開花させ領民に愛される文化人(歌手、歌人、画家、陶芸家)として歴史に名を残すことになったのである。

 

 

 歌人袁術公路としてこの様な和歌を残している。徳川家茂との間でやり取りされたものであり、彼の和歌への返歌を歌ったものである。徳川家茂の和歌と一緒に紹介する。

 

 

『会はむ日をその日と知らず暗闇に いづれの日まで我恋ひ居らむ』徳川家茂

現代語訳:ふたたび逢える日はいつとも分からず、暗いの闇にいるような思いで、いつまで私は恋に苦しんでいればよいのだろう。

 

『魂あらば会ふこともあらむ わが故にはだな思ひそ命だに経ば』袁術公路

現代語訳:生きていれば、いつかまた会うこともできるでしょう。私のために思い苦しまないでください。今はただ生きていさえするなら

 

 この内容から察することができるように、この二人は非常に深く愛し合っていたことが分かる。これらの和歌返歌は現存するものだけでも50首以上存在し、一説では500首はあったのではと言われている。これらの和歌返歌が収録されている『徳袁恋和歌集』現代の上流階級者のバイブルでもある。

 




ちょっと、ネタに走る。
和歌は万葉集のやつに手を加えてみました。

次々回からは反董卓連合編。英傑大集合かな?

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