仮題・・・恋姫世界に幕末日本をぶち込んでみた。   作:3番目

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79話 汝南袁家は滅びず

袁術の影響を完全に排除した孫策は建業を首都とし、揚州北部は完全に掌握。南部揚州も揚州刺史劉繇が頭を垂れ従属する形で孫策の傘下へ下った。

揚州を抑えた孫策は先の戦いで袁術・孫権に与した者達や内通が疑われた者達を処刑もしくは僻地閑職への更迭が行われた。ちなみに陸遜は孫策寄りの中立だったので影響なし、張昭・魯粛は非協力的な中立だったために僻地への更迭が行われた。

さらに荊州の一部である柴桑を足掛かりに荊州を、南揚州から交州を、それぞれ攻め入る動きを見せていた。

また、露骨な勢力拡大を行う孫策に対して時の権力者である曹操は孫策軍に対して警戒を強めていた。

 

一方の曹操軍は領内の黄巾党の残党や賊徒をほぼ完全に滅ぼすことには成功したが、横に細長い領地を持ち、涼州の馬騰や益州の劉璋は友好的な中立の関係にあるが、旧袁術領の汝南汝陰を支配し豫洲にまで手を伸ばした劉表とはすでに国境沿いで何度か小規模な戦いが起こっている。華北の袁紹とも何度か開戦しそうになって回避すると言ったことを繰り返しており、現状双方の国境には平時の兵力しか置いていないのだが決して友好的なわけではない。帝の身柄を確保し帝の威光が辛うじて機能しているから問答無用に攻められることはないのだが、潜在的な敵に周囲を囲まれた曹操は軍備を強化していくしか道はなかった。

銅製や錆鉄の武器が混ざっていたのを重装歩兵や重装騎兵を中心に新しい鉄製の武器に更新している。さらに徳川の武器や戦術に対抗するために集めていたは情報はそろそろ形になる時期だろう。

 

 

劉表は袁術の訃報に乗じて汝南汝陰等を掠め取った為に火事場泥棒として名を落としてしまった。また、旧袁術領争奪の柴桑の戦いにおいて孫策に大敗してしまったために劉表の支配力は低下、南部荊州は4郡の太守達がそれぞれ独自色を強めていった。また袁術旧領では袁術支配時代の民への高待遇が完全になくなり民の不満は溜まるばかり、地盤を固めるつもりの行動は逆に劉表の支配力が低下させ、損ばかりの結果であった。

 

 

 

益州の情勢は不穏なものとなった。

世代交代で足並みがそろわない劉璋軍。そこへ扶南国の援助を受けた劉備軍が侵攻を開始し、混乱する劉璋領の刈り取りを行っている。

 

 

袁紹軍においても北方の鮮卑による圧力と南の曹操に挟まれ決して良い状況とは言えない。

南部の曹操が軍拡するため袁紹もそれに対抗する形で軍拡していく。だいぶ弱って来ていたが公孫讃軍は潜伏したままだ。徳川や朝鮮と言った国々に支援を受けているとはいえ状況は良くないむしろ悪いと言ってもよかった。

さらに鮮卑包囲網の一角である匈奴が敗れ長城の内側に撤退し包囲網に綻びを見せた上に、涼州連合と西城長史が対鮮卑戦に参戦し一層激しさを増している。袁紹軍も鮮卑と直接剣を交える回数も増えていた。また、涼州連合はと西城長史は反鮮卑包囲網に加わっているわけではないので連携が取れていない状況であり事態の混迷度合いは深まるばかりであった。

 

 

この時代の重しの一つとして機能していた汝南袁家の事実上の滅亡によって大陸はまた大きく動こうとしていた。

 

 

 

だが、汝南袁家も滅んだわけではなかった。

 

某日夕方、琉球王国台湾島基隆港に数隻の楼船が入港していた。迎えには琉球王国台湾総督府総督具志堅椎ら琉球の官吏が迎えに出ていた。

 

楼船から一団が下りてくる。

先頭に銀地に袁の字が描かれた牙門旗を持った親衛隊の部隊。

それの後から輿に乗って袁公路こと美羽が姿を見せる。その横には七乃と蓮華に月・詠が控えている。さらにその横には徳川日本国顧問団の五代友厚や福沢諭吉らが並んでいる。

 

「ようこそいらっしゃいました。琉球王国は袁公路様を歓迎いたします。」

具志堅椎が集団の代表として頭を下げ、周り官吏達がそれに倣って頭を下げる。

輿の担ぎ手達が腰を下ろして美羽と具志堅椎の視線に合わせる。

「輿の上からで申し訳ないのじゃ。琉球王国の格別な計らいに妾は感謝しておるぞよ。」

「この度は災難でございました。微力ではありますが琉球王国も袁公路様のためにお力添えさせていただくことを琉球王国国王尚泰様に代わりお約束させていただきます。」

「尚泰王の御厚意痛み入るのじゃ。」

 

「具志堅殿、そろそろ・・・」

脇の方から五代友厚が具志堅椎に声を掛ける。

「!?・・・失礼しました。すぐに離宮の方へご案内します。お前たちすぐに袁公路様をご案内しなさい。」

船内で意識を取り戻していた美羽の額には脂汗が浮かび、輿の肘掛に寄りかかっており息も絶え絶えで衰弱しているのが分かる。

「すまぬのじゃが、閨に案内してたもれ・・・妾は疲れたのじゃ。」

美羽達は女官達と一緒に宿泊地へと案内されていった。

 

 

その場に残った友厚に椎が耳打ちする。

「家茂公がお待ちです。」

「そうですか・・・、わかりました。すぐに伺いますとお伝えください。」

 

 

孫伯符の謀反から始まる汝南袁家の壊滅及び所領の失陥。孫伯符の謀反発生時に孫伯符が袁公路を討ち取ったと宣言しの死亡説が流れ、柴桑で張勲による袁公路生存が宣言され、その後に劉表軍と孫策軍によって柴桑の争奪戦が行われ袁公路の消息が不明となった。

台湾訪問中だった家茂公は謀反発生後直ちに本国の幕府軍の出征を指示したが、出征の支度が整う前に最後の袁術領柴桑が失陥。

 

事態発生から急転直下と言ってもいいこの流れであった柴桑陥落後、日を置かずして美羽達が琉球王国に受け入れられる態勢が整えられていたのだろうか?

 

それは琉球陥落よりも前の虎林港での戦いの直前に遡る。

精神が衰弱していてまともに指揮が取れなかった張勲に代わり、袁術軍を指揮していた詠によって明命に密命が下されていた。

それは華南の南方諸民族の下に駐留している徳川勢力との接触し、密書を届ける事。それが明命に託された任務であった。

 

袁紹領を介しての接触も考えられたが途中曹操領を通過しなくてならず、曹操領は曹操自身が優秀なうえに曹操の家臣団や曹操に味方した朝廷の臣達も優秀であり、諜報面でもかなり整備されており下地なくして曹操領を突破するのは難があった為、劉表領の荊州を突破する道が選択された。

明命が劉表領を突破した際にこれと言った出来事はなかったので省略するが荊州を通り交州に入り越国及び徳川日本国南方統監府と接触し、あとは無線で本国へと伝わった。

 

明命よりもたらされた書簡は汝南袁家の徳川日本国への亡命を希望するものであり、徳川の地にて再起を図りたい旨が記されていた。家茂らはそれを承認し琉球王国に対して台湾島の一部領地の租借を要請し、汝南袁家の台湾亡命政権が誕生したのであった。

 

 




先に言っておきますと改定前より沢山死にます。

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