仮題・・・恋姫世界に幕末日本をぶち込んでみた。   作:3番目

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85話 鄱陽の戦い 前編

袁術軍動く。

台湾島より規模が拡大した親衛隊ならぬ近衛軍5000と旧孫権軍と一般兵を中心とした台湾袁術軍5000。さらに徳川幕府より会津藩と薩摩藩に動員令が発せられ会津藩より5000、薩摩藩より6000、薩摩藩の支藩佐土原藩から200の兵と幕府軍2000が随行することとなった。また予備兵力として台湾島へ奥詰隊と幕府歩兵隊・幕府大砲隊からなる4000の幕府軍がすでに布陣しており、さらに黒い太陽作戦の推移を見届けるために主導した加賀藩3000・富山藩300・大聖寺藩300の兵が台湾島へ向けて洋上航海中であった。

 

疫病がはびこっている北揚州とは違い南揚州は大飢饉の影響こそ強いが疫病は殆ど広がっていなかった。そのため、今回の決起では南揚州の確保が第一目標であった。

 

台湾本島の動きに連動して蘆陵の袁術軍3万も動き出す。

南揚州に上陸した兵力は汝南袁家軍1万、徳川大日本帝国軍は1万3200に援軍の加賀藩他を加えて1万6800。台湾島の幕府軍4000や琉球王国台湾総督府軍2000は予備兵力として正式な上陸の予定はない。

 

 

蘆陵より進軍するのは蘆陵袁術軍計3万、福州から上陸した兵力約2万8000は台湾袁術軍1万と徳川大日本帝国1万6800と福州近郊の旧袁術派残党1200だ。

ちなみにこの袁術派残党を率いていたのは厳白虎であった。

 

南揚州を任されている劉繇は飢饉状態であったが何とか兵力を抽出、士気は低く兵糧も不足がちではあったが蘆陵に3万、福州に3万の兵力を派遣した。

北揚州では南揚州以上に厳しい状況であり、兵を集めている段階で南揚州へ派遣する段階ではなかった。

 

台湾から上陸した軍は弱兵と化した劉繇軍ぐいぐいと押し込んでいき支配領域を広げていった。一方で旧軍主体の蘆陵袁術軍は有利には違いないが福州方面ほどの勢いはなかった。

袁術軍と徳川軍は蘆陵と会稽南部の開放には成功したが現地民の統治に多くの兵糧が必要で台湾島の集積地から多く運び込まれていった。

いくら飢饉で弱っているとはいえこの兵力では占領土地を全域に広げられないのだ。

劉繇軍が磨り潰されながら時間を稼いでいる間に北揚州の孫策も何とか精鋭含む6万の兵力を何とか編成し軍を南へ向けたのだ。

 

 

特に福州に上陸した軍はそのほとんどが銃火器を装備した部隊で、迎撃に出た劉繇軍を一蹴し、南揚州諸豪族の小勢を道すがら潰していった。しかし、足の遅い大砲隊を同行させたために会稽の制圧速度はさほど早いものではなかった。

 

 

逆に旧式装備とは言え鈍足な兵科がいない蘆陵袁術軍は蘆陵で南揚州諸豪族の包囲軍を破り豫章にて衝突した。劉繇軍の迎撃軍3万と南揚州諸侯軍3万は蘆陵袁術軍の2倍の兵力を持ちながらも押し負けて豫章の領土を次々と失陥していった。

 

 

鄱陽で戦闘が始まった頃にようやっと北揚州の孫策軍の編成が完了し孫策率いる軍勢12万が動き出した。孫呉の常備兵は5万程、諸将の私兵が1万、北揚州諸豪族の私兵が4万、北揚州の徴募兵2万の編成だ。北揚州の疫病で軍属非軍属ともに多くの人間が戦えなくなっていたのだ。

特に軍人と違い丈夫な体を持っていない庶民は多くが病に倒れ、病に倒れた家族をほおっておけないなどの理由で徴募に応じた者はかなり少なかった。

 

それでも、結果的に12万の兵を集められたのは腐っても孫呉と言った所である。

 

その頃には蘆陵袁術軍と台湾袁術軍及び徳川大日本帝国軍が合流し、さらに台湾より徳川大日本帝国幕府軍2000と琉球王国台湾総督府軍1000が新たに増派されていた。

揚州の袁術軍残党が集結した為に劉繇は自身の軍と南揚州諸侯軍を鄱陽へ撤退させ北揚州の孫策軍来援を待つことにしたのだ。ちなみにその時の劉繇軍の内訳は劉繇軍常備兵1万劉繇軍諸将領民兵5000、南揚州諸豪族軍1万と3万に満たない兵力(2万5000)であった。

また、孫策軍劉繇軍ともに鄱陽で向かう過程の中部揚州で強制徴募を行っているため1万くらいは増えるだろう。

 

琉球王国軍を加えても汝南袁家再興軍と徳川大日本帝国軍の上陸兵力は6万1000、さらに一つ一つの規模は小さいながらも残党軍が継続して集結している。

しかし、汝南袁家再興のための戦いを行うにはいくら大飢饉と疫病が流行っている揚州が相手でも少々数的に物足りないかもしれない、拠点維持にも兵力は必要なのだ。さらに傷痍兵は後ろに下げているため6万1000は過大表記である。逆に劉繇軍は傷痍兵の落伍は捨て置いている。

無傷の兵(ただし士気は低い)約13万を抱える揚州孫家軍VS傷痍兵1万弱を抱える汝南袁家再興連合軍約6万(ただし士気は高い)の決戦が鄱陽で行われようとしていた。

 

揚州孫家軍と汝南袁家再興連合軍を比較する。

士気にかんしては旧領回復旧領民開放の大義を掲げる汝南袁家再興軍は高い、逆に飢饉に疫病と天災が続いた揚州孫家軍は低い。

兵力面は支配面積を見れば揚州全土+αを領有する揚州孫家の方が多いが飢饉疫病の影響もあり本来の動員数に比べれば見劣りするものがある。汝南袁家再興連合軍は残党軍である袁術軍以外にも同盟国軍が加わっているためある程度の数を揃えることが出来ている。現状では揚州孫家が数の面では有利であるが、同盟国の動向によっては形成の変化は有り得る。

武装面であるが汝南袁家再興連合軍の蘆陵袁術軍・台湾袁術軍通常軍その他袁術軍残党や袁術派残党以外の兵力、台湾袁術軍近衛軍・徳川大日本帝国軍・琉球王国軍は銃火器を装備している。また、沿岸制圧には徳川幕府海軍・琉球王国海軍が動員されている。火器の存在によって袁術軍の有利は確約されている。

 

すでに多くの面で汝南袁家再興連合軍は有利な条件が揃っている。しかし、兵力面で負けているし、大陸の揚州だけでも十分広いのだ。長期戦になれば汝南袁家再興連合軍の方が先にばてる可能性もある。徳川大日本帝国ならば長期戦を耐え抜けそうな兵站線を形成できそうなものであるが対ローマ、対鮮卑、各入植地の治安維持と多くの戦線を抱えているため大陸で長期的な戦争をするのは避けたいのだ。

 

揚州孫家軍(孫策は劉繇軍の指揮権を継承)約13万と傷痍兵を後方へ下げた汝南袁家再興連合軍約5万が鄱陽の平地で睨み合う。

平地と言っても岩や倒木や木等の遮蔽物や茂みの様な隠れる場所もある。また両軍ともに馬防柵や拒馬・逆茂木、樽や木箱に米俵と言ったものを遮蔽物に設置していた。また、汝南袁家再興連合軍は鉄条網も使用し、規模は小さかったが塹壕や土嚢も使用した。

 

 

徳川の陣地から撃ち出される有坂砲の砲弾。

揚州孫家軍は一方的にやられることを良しとせず策を弄する。

 

劉繇軍1万5000を先陣に南北諸豪族軍5万及び中部強制徴募兵5000(合計7万)が突撃していく。それを後方から周瑜を中心に韓当や朱治らの隊が彼らの背後に付き督戦こそ行わなかったものの圧力をかけていた為か。劉繇軍も諸豪族軍も鬼気迫る勢いで突撃して行った。孫呉の将兵は大陸では特に気の扱いが上手いとされており孫呉の将兵は孫策を崇拝の領域で信奉しているので士気は高く、殺気を中心とした気も充満していた。動物的本能に訴えてくる怖さは科学文明の未知の怖さを上回ったのだろう。

 

汝南袁家再興連合軍の銃兵が遮蔽物越しにこれらを射殺していく。一部が遮蔽物を超えることがあったが白兵部隊や銃兵の銃剣によって倒される。前衛中央の多くの兵力が屍をさらす事になったが囮の役割は果たすことが出来た。なお、劉繇はこの突撃で戦死している。

中央では雑兵集団7万と蘆陵袁術軍3万と汝南袁家近衛軍5000と幕府陸軍歩兵1個連隊1000の3万6千が激突し、右翼では程普・呂範の隊2000と孫家常備軍1万が会津藩軍と幕府歩兵2個連隊の7000と、左翼では祖茂・蒋欽の隊2000と孫家常備軍1万が薩摩藩軍と琉球王国軍の7000と戦っていた。

中衛では台湾袁術軍5000が控えており、後衛には本陣が設置され幕府奥詰銃隊500と幕府陸軍大砲隊500が配されていた。

 

連合軍左翼本陣

左翼には薩摩藩軍6000と琉球王国軍1000が配されている。

薩摩藩軍の大将である西郷隆盛と副将である桐野利秋は陣幕の前に立ち指示を出していた。琉球王国軍の大将である漢那憲慎(かんな けんちん)はその横で申し訳程度に座っており、二人の言葉に頷いたり相槌を打っているだけだ。

 

「何とか抑え込めた。敵はだいたい中央に突っ込んでいったごちゃっ。中央に援護の部隊を送っべきかな?」

「必要あいもはん。あいどんも十分強えごちゃっんでいしれん世話になりもんそ。」

「そうだな、止むっか。」

「そいがよい。」

 

西郷と桐野が話していると双眼鏡で前線を監視している薩摩藩兵が大声で叫ぶ。

「左翼を迂回しようとする騎馬隊を発見しもした!」

 

「旗はなとか?」

西郷が尋ねると薩摩藩兵がさらに大きな声で叫ぶ。

「孫!!」

 

それを聞いた西郷が藩兵に命じ、桐野が細かい指示を出す。

「なんだと!?そや大久保さんの仇じゃねか!!なんとしても殺すんだ!!絶対に逃がすっな!!」

「銃の射程外か!騎馬隊にからくいさせらすっ!!抜刀隊も行かすい!!」

 

 

孫の旗に薩摩藩の騎馬隊と抜刀隊が群がる。

「殺せ!!皆殺しだ!!見しけ出せ!!」

乱戦となった騎馬隊の指揮官が怒鳴る。

 

「悪けど、しばらく相手をしてもらうから!!」

この孫家軍の指揮官は太史慈で、その名乗りは西郷の耳にまで届いた。

「おのれ!!絶対に許さんぞ!!大久保の仇だ!!鉄砲狙え!!」 

 

 

精強な薩摩藩兵の槍や刀と銃弾に襲われた太史慈は雑兵など相手にならないと言わんばかりにねじ伏せていたが西郷と桐野は大久保の仇を何としても殺そうと彼女の別動隊に2000の兵で攻撃させる。2時間近くかけて太史慈を戦闘不能に追い込んだのだ。

両手両足両肩両脇に銃弾や刀槍の傷がつけられ出血も多い。時を置かずとも彼女は死ぬだろう。

 

「雪蓮・・・・」

 

彼女が言い切る前に西郷と桐野の怒号が響く。

「「臓物を引きずり出せぇ!!」」

 

この世界にもカニバリズムは存在する。大陸にだってある。だが、徳川大日本帝国は一部の例外を除けば食人文化そのものが勃興したこともない。しかし、彼女にとって不幸だったのは薩摩藩がその例外だったと言う事だろう。

 

この先はR-18Gなので作者の技量は足りませんので読者の想像力にお任せします。

 


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