この上もなく慎重に   作:都っ市

1 / 3
「原作準拠」ってタグがあると知って、入れようと思ったけど恥ずかしくてやめました


小町「この時間にそんなの食べてたら太るよ?」

 二月も折り返し地点を過ぎると、程なくして年度末の実力試験が襲い掛かってくる。

 去年などは「ふははは、バレンタインで浮かれてる暇も無いなリア充共! お前らが浮き足立っている間に俺は学業に邁進するぞ、せいぜいのぼせているがいい!!」といった具合に、何一つ悔しくもないのに脳内で負け惜しみごっこをしながら勉強していたものだ。なにせ俺には、約束された勝利の妹、小町がいる。世の若人が羨望や孤独に苦しんでいようと、対岸の火事でしかない。バレンタインデーなど、恐るるに足らず。

 しかしながら、今年はどうにも勝手が違う。

 机の上には閉じた教科書と開いたノート。充電中の電子辞書、ペンケース、マグカップにはコーヒー。

 そして小さな包みが二つ。雪ノ下からのチョコレートと、由比ヶ浜からのクッキー。

 そう、まさに今、俺自身が地に足つかぬ状態だった。それはもうフワッフワに浮き足立っている。勉強どころか本やゲームすら手につかない。成す術もなくぼんやりと椅子に掛け、頭を抱えるばかりだった。不甲斐ない、情けないぞ比企谷八幡……。

 自分を叱咤してはみるものの、脳は勝手に今日の出来事を追いかける。由比ヶ浜の言葉、雪ノ下の依頼。彼女の涙、彼女の笑顔。

 

 ていうか、どうしたらいいのこれ。どうしたらいい? 食べるか。そりゃ食べるよな……。いや、食べていいの? ホントに? 後で怒られない?

 

 ……いやいや、おいおい。冷静になってくれ、俺。どうか落ち着いてほしい。考えをまとめるなら、まずはリラックスすることだ。肩の力を抜け。そして温かい飲み物を一口。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……………………冷たい…………。

 

 

 あれ? 俺アイスコーヒー持ってきたんでしたっけ? さっき熱々を淹れたばっかだと思うんだけど。そんな長いこと考え込んでたのか、と携帯を確認すると、時刻は十時十分を回って……え、もうこんな時間……。マジか。そりゃコーヒーも冷めるわ。

 ……何をやっとんのじゃ、俺は。

 深い、ため息が出た。なんか……、なんか俺、気持ち悪いな……何やってんだろう。

 もういい。もう十分だ。何をごちゃごちゃと悩むことがある? ただのお菓子だ、これは。貰えた。ありがたい、嬉しい。でも菓子だ。美味しくいただいて、来月お返しに何か贈る。それだけのことだ。オーケー納得。さぁ食おう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……………………どっちから?

 

 

 いやいや! だからどっちでもいいんだよ!! はよ食え!!

 がさっと包みを手に取り、両方のラッピングのリボンを解く。……が、そこで手が止まる。

 いいや、違う。どっちでもよくはない。断じてどうでもいいことではないのだ。そうでなければ最初から躊躇などしない。

 さぁ、どちらから口を付ける? 考えろ、簡単だ。先に食べる理由がある方を選ぶだけ。

 一呼吸置いて、クッキーの入った方の包みを持ち上げた。由比ヶ浜結衣から受け取った、お礼。彼女曰く、ただのお礼。

 なんのことはない、先に貰ったのはこっちだ。だからこっちを先に食べる。理由はそれでいい。俺を納得させる理屈になっていればそれでいい。

 一枚つまんで取り出す。紛うことなきチョコレートクッキーだった。初めて見たガハマクッキーはもはや炭でしかなかったが、目の前のこれはまさにクッキー、完全に焼き菓子である。これを雪ノ下の助け無しに作ったと言うのだから、それだけでもう感慨深い。かじってみると、サクリとした歯ごたえ。

 苦い。

 しかし焦げているわけではない。噛み続けると軽くほぐれていって、その中にちゃんと甘みが見つかる。

 美味しいじゃないの。これは恐れ入った。なんかちょっと失敗しちゃったとか言ってたけど、やや形が歪なくらいで他になんの問題もなく美味い。かなりビターな大人の味だったのは意外だったが。ひょっとして、バレンタインイベントで散々甘ったるいものばっか食ってたから、変化をつけようという配慮だろうか。まったく、頭が下がる。

 

 コーヒーをまた一口飲みながら、もう一つの包みに目を向ける。

 そのとき、脇に置いていた携帯が低く唸って着信を知らせた。液晶に表示された名前を見て――思わず宙を仰いだ。一応そういう予感はあったが、今来るか。

 

「……もしもし」

『ひゃっはろーう! 比企谷くん今大丈夫かな? 雪乃ちゃんのチョコもう食べた?』

 

 畳みかけるかのように、挨拶と質問。雪ノ下陽乃、その人だった。覚悟して通話ボタンを押したつもりが、あまりにも単刀直入な問いにやはり怯んでしまう。しかし後悔しても遅い。

 

「イベントで貰って帰ったヤツなら食べきりましたけど」

『そっちじゃなくて。今日の』

 

 煙に巻こうとしたところで逃がれられるはずもなかった。

 

「……今から食べるところですが」

 

 なぜチョコレートを貰ったことを知っているのか、聞くだけ無駄だろう。

 

『お! ちょうどいいじゃーん、今感想聞かせてよ』

「嫌ですよ……」

 

 苦い。苦々しい。

 気取られないように、静かに歯噛みする。正直、今この問題をつつかれるのはキツい。まだ何一つ整理できていないのだ。

 思い浮かべているのは、数時間前の光景。

 水族園からの帰り道。雪ノ下は降りるはずのない駅で降りて、改札を出る前の俺を呼び止めた。そうして、それを差し出した。

 呆然としていたが、「ありがとう」くらいは言えていたと思う。他にいくらでも口にすべき言葉があったのかもしれないが、その時はそれで限界だった。すぐに踵を返した雪ノ下を見送ることすらできずに、受け取ったものを見つめるばかりだった。

 

『何も減るもんじゃないんだからいいじゃない? 比企谷くんのグルメリポート聞いてみたいなー』

「引越しの方は片付いたんですか?」

 

 取り合わないことにして、別の話題をぶつける。

 

『んー、つまんないなぁもう。雪乃ちゃんに教えてあげたいのに』

「学校で会うんですから、感想……ていうか、礼なら直接言いますよ」

『ふーん? まぁ、後で雪乃ちゃんから聞き出すのも面白いかな。引っ越しならすぐ終わったよ、とりあえず最低限の荷物だけだったし』

「そうですか」

 

 あっさり引き下がってくれたのは助かった。声は不満そうだが、変なプレッシャーは感じない。多分、話の核心はバレンタインの件ではないのだろう。そうでなければ簡単には見逃してもらえなかったはずだ。

 

『じゃ、あまり遅くなるのも悪いし本題ね。今さ、ウチのお母さんに質問されちゃってるんだよね、いろいろと』

 

 陽乃さんは妙にゆっくりと、言葉を切りながら話す。その都度、俺の反応を確認するかのように。こちらは黙っているのだから、手応えなど確かめようが無いはずなのだ。にも関わらず、わずかな表情の変化まで向こうに筒抜けになっているかのような錯覚を起こす。

 

『例えば……雪乃ちゃんと一緒にいる子のこと、知ってるの? とかね。わかるよね? ガハマちゃんと、比企谷くん。まぁ、どっちかと言うと君の方がメインかな』

「はぁ……」

 

 雪ノ下の母親。面識があるとは言っても二度顔を合わせ、一度言葉を交わしただけだ。関心を持たれる理由に心当たりはない――と言えば嘘になるが、まさか、思っていたより警戒されているのだろうか。「ウチのかわいい娘の周りに悪い虫が!」みたいなアレなのかな……。やだ、不穏。

 

『さ、そこでおねーさんから比企谷くんに質問なんだけど』

 

 何が楽しいのやら、陽乃さんの声音は妙に弾んだ。

 

『ズバリ! ウチのお母さんに何て紹介してほしい?』

「はい?」

 

 想定の斜め上の問いだった。なんじゃそら。

 

「そりゃ普通に、同じ学年、同じ部活の生徒でいいんじゃないですか」

『すーぐそうやってとぼけるんだから。それで済むことじゃないってわかってるでしょ?』

「そんなこと言われましてもね……」

 

 首を捻って頭を掻く。この人がどういう回答を期待しているのかさっぱり見えない。なんでそんなにワクワク感出してるの? 何か面白い要素ありますか?

 

「参考にお聞きしますけど、お任せします、って言ったらどうなるんですか」

『おねーさんにお任せコースだと、将来の義弟☆ ってことになるね』

 

 まだそんなこと言ってんのか、この人は……。面白い冗談のつもりか、面白くもない冗談のつもりか。あるいは婉曲に「お任せとか言ってねぇで自分で考えろ」っておっしゃってるんですかね。

 

「……それを聞いた、将来のお義母さん☆ は、どうなさるんでしょうね」

『あらまぁ比企谷くんったら。わたしをおねえちゃんって呼ぶのが先じゃない?』

「しょーもないとこに引っかからないでください」

 

 微かな笑い声が、右の耳をくすくすと擽る。

 

『さて、どうだろうねぇ。雪乃ちゃんとまともに接点のある男の子なんて、前例が隼人くらいだからさ』

「そうですか」

 

 きっと、そうなのだろうとは思っていた。過去に親しかった異性が幼馴染だけ、それも葉山ただ一人だと言うなら、娘の周囲をうろつく男子――つまりは俺なんてイレギュラーそのものだ。マークされるのも頷ける。やだ、怖い……。

 俺など、警戒に値するような人間ではないというのに。

 

『さ、どうする?』

 

 陽乃さんがせっつく。しかし答えようがない。そもそも正解が存在する問いとも思えない。それでも敢えて答えるなら、やはりこれしかないだろう。

 

「お任せ、でお願いします」

『おや、義弟宣言? ついに?』

「違います。まさか本気でそんなこと言うつもり無いでしょう」

『ほう』

「陽乃さんの思うようにお願いします」

『ふーん……?』

 

 正直かなり勇気の要る選択ではあるが――多分、悪意のままにあることないこと適当に言ったりはしないだろう、多分。おそらくは、案外まともなことを言ってくれたりするはずだ。……おそらくは。

 陽乃さんは黙ったままだった。俺の答えから、俺の何かを測っているのか。不安を煽る空白だった。固唾を飲んで、陽乃さんの言葉を待つ。

 

 ――沈黙が、長い。

 

 え、大丈夫ですよね……? 本気で将来の義弟だとか、あのお母上に吹き込むつもりじゃないよね? あの威厳が和服着たような存在に冗談とか全然通じそうにないけど。

 時が経つほどに、緊張はいや増すばかりだった。いよいよ焦れてこちらから何か言おうとしたとき、ようやく陽乃さんの息遣いに発言の気配が聞き取れた。

 

『……ファイナル、アンサー?』

 

 演出がかった、厳かな声が問いかけてきた。構わずに通話を切ってやろうかと思ったが、さすがにその勇気は無い。

 

「〝フィフティ・フィフティ〟は使えるんですか?」

『あはは、そもそも四択問題じゃないからねぇ。あ、〝テレフォン〟は使ってもいいよ? もうすぐ雪乃ちゃんお風呂上がると思うから。代わってあげる』

「いいです、待った。結構です」

 

 無茶苦茶である。このお茶目お姉さんホント面倒くせぇ……。オーディエンスよ、教えてくれ。強化外骨格女子大生、雪ノ下陽乃への対処法を。

 

『ま、遊ぶのはこの辺にしておいて。もちろん比企谷くんのこと、変に悪く言ったりしないよ? 今回はそれでオッケー。でもね』

 

 とどめの一言は、先程までとは打って変わって静かな口調だった。

 

『これ、そのうち放っておけなくなるから。心しておくように』

 

 なおさら不穏な、含みのある忠告。そしておやすみという言葉を残して、通話は終了した。

 スマートフォンを持った手が、がくりと落ちる。『これ』とは具体的に何だ。『そのうち』とは一体いつだ。握りしめた右手の上に、項垂れるようにして額を置く。

 突っ伏したまま、頭では忙しく今の会話を反復していた。そのループが、電話の直前まで繰り返していた煩悶と繋がって、雪だるま式に膨れ上がる。

 わからない。今、俺が考えるべきことは何だ。奉仕部のことか、雪ノ下の母のことか。クッキーのことか、チョコレートのことか。

 顔を上げると、解きかけた包みからのぞく小さな紙箱。数日前に部室で分けてもらったクッキーは、もっと飾り気のない袋に詰めてあったことを覚えている。

 身を起こし、それを手に取った。

 そっと小さな箱を開くと、チョコレートが六粒。インゴット型のそれはつるりと光沢があって、表面には白く模様があしらってある。ドット、花柄、アーガイルチェック、それぞれ二つずつ。控えめながら繊細なデコレーションだった。どうやったのこれ……。手作りのはずだが、専門店の品と言われても疑いようがない。完璧主義ここに極まると言うか、これは……。

 

 これを、俺は何として受け取ればいいのだろうか。

 比企谷八幡の中の慎重派が、強く警戒を呼びかけている。これは世に言う義理チョコ、ささやかな儀礼のチョコに他ならない。妙に高い完成度は雪ノ下の完璧主義の為せる業だ。勘違いをするな、思い上がるな、逆上せるな。また間違えたいのか。

 一方でまた別の慎重派が、嫌に冷静な声を出す。

 事実、最近の雪ノ下の態度は以前と明らかに異なるではないか。その違和感を目の当たりにしながら、自覚しながら、指摘されながら、今さらどうして誤魔化すことができる? 

 いつもどおりのはずのやりとりの中に、微かに感じていた変化の兆し。決して口には出さず、違和感と名付けて保留しているそれ。ここしばらく、ずっとそのことを考えてきた。未だ答えは得ていない。

 間違えたくない。間違えたくない。受け取ってしまったものを前にして、思うことはそればかりだった。折本や、他の幾つかの失敗例など比ではない。今度間違えてしまえば、きっと俺はとんでもない深手を負う。それだけはわかっていて、だから間違えることを恐れている。バレンタインイベントの頃から抱え込んでいた困惑は、今や切迫感に変わっていた。

 はっきり言って、手に余る。

 今なお誇り高きぼっちを自認している俺だが、どんな問題も独力で対処すると豪語していられたのは過去の話だ。ここ一年だけでどれだけの人間に力を借りただろう。この件も、誰かに話すだけでも話してみれば糸口くらい掴めるだろうか。

 軽くため息を吐いたつもりが、口から出たのは呆れ笑いだった。

 またこれだ。いつの間にか誰かに頼ること、縋ることが当たり前のように選択肢に含まれている。そもそもこんなこと、誰にどうやって話すんだよ。「奉仕部の二人からバレンタインにお菓子貰ったんだけど」とか持ちかけるのん? 絶対無理だ。エクストリーム無理。

 再び自嘲の笑いが起こる。つーか最近、悩んでばっかだな、俺。

 ぼっちは話し相手がいない故に思索し、考察し、熟考する。一人で抱え込むような悩み事にも慣れっこ――と言いたいところだが、開き直ったぼっちは実にストレスフリーな生物だ。人並み以上のお悩み耐性を持ち合わせている訳ではない。

 友達を求めて焦っていた小学校時代、恋人がほしいと勇んだ中学生時代。不毛に足掻いていた頃と比べて、高校入学後の一年は実に安穏としていた。ほんの一年前なのに、あまりにも遠い記憶に思える。

 今はどうだ。女子から菓子を貰って右往左往している。ただのお礼で貰ったクッキーに、たった六粒のチョコレートに、こんなにも動揺している。しかもさっきの電話だ。マジで何なのあの人……ていうかマジで何なのこのチョコレート、このクオリティ……ああもう、ダメだ、また思考がループしている。

 

 やっとのことで、チョコレートを一粒摘み上げた。

 舌の上に乗せて一噛みする。たちまち目の覚めるような香りが口内を満たし、それまで果てしなく空転を続けていた思考が急停止した。

 口の中のそれが失われていくのはどうにも惜しかった。自分で食べておいて馬鹿みたいな話だが、どうしようもなく惜しかった。だから、それ以上は噛むことも、舌を動かすこともできなかった。

 それでもやがて、溶けてなくなる。

 舌に残る余韻を、冷めたインスタントコーヒーで流し込む。すると、妙な罪悪感が胃にもたれる気がした。

 食べてしまった。一粒、食べきってしまった。別に後悔しているのではない、と言うより後悔と呼びたくないのだが、とにかく「食べてしまった」と、飲み込んだ瞬間に思った。いやいや、受け取った以上は食べないなんて選択肢はない。「受け取ってしまった」のが問題なのだ。だったら受け取らないという選択肢はあったのか? どっちにしろ、もう引き返せない。いや、どうして引き返せないんだ。そもそも引き返せないってどこから……?

 コーヒーを一息に飲み干して、机の上を片付け始める。ガハマクッキーの袋を閉じ、香り高いチョコの箱に蓋をする。ダメです。今日はもう無理です。寝よう。風呂入って歯磨いて寝よう。宿題は明日にしよう……って訳にもいかないか。今出ている課題は、全部明日の午前提出だ。今からやるしかない。

 グズグズ悩んでいなければ、とっくに終わっていたはずだったのだ。つくづく、いつもと勝手が違う。

 バレンタインデー、恐ろしい子。


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。