新たな地で
風が吹いていた。潮の香りを多分に含んだ湿った風が頬を撫でる。
「ねぇ、ふーちゃん」
「なぁに?」
短い銀髪をたなびかせるのは、私と同じくらいの女の子。その紅い瞳には、うっすらと涙が浮かんでいるように見えた。
「……私はもう、行っちゃうけど」
彼女はもうここにはいなくなる。この瀬渡内の海から、離れていってしまう。
「次に会うときには、10倍強くなっていようね」
「10倍、強く……」
それが途方もない数字であることは分かっていた。でも、今の私ならできる気がして。
「うん。約束する。次会うときは、10倍強くあろうね」
「……うん!」
ぼぉおおん...汽笛が響く。出航が近いのだ。
「じゃあ、行かなきゃ」
「元気でね……元気でね! ここちゃん!」
銀髪の少女、ここちゃんはフェリーに乗り込み、蔵橋島を去ったのだった。
ちりちりと額を温める陽の光に、心地よく目が覚めた。
波の音、風の音。窓の外には初めて見る景色が広がっていた。
「んっ……もう着いたの」
相当にだらしない体勢で寝ていたようなので、寝癖等がないか手鏡でチェックする。透き通るような水色の髪は、セミロングの先まで滑らか。寝癖は大丈夫そうだ。瞳も琥珀色に澄んでいる。充血はしていなそうだ。
んぅぅっ……っと声を漏らしながら伸びをして、重たい荷物を担いで席を立つ。デッキへ続くドアを開くと、海風が優しく頬を撫でた。
「……来ちゃったなぁ」
四島市、久奈島。『フライング・サーカス』の聖地に、私は足を踏み入れた。
四島は、アンチグラビトンシューズが推奨される特区。それなら近くに停留所があるはずだと思い辺りを見回すと、予想通りそれは見つけられた。地元にあったそれよりも少々小さいように思える。
緑のマットを踏みしめて、ランプが青になるのを待つ。ランプが青に光り、発進許可を下す。
「FLYっと」
つま先立ちのように体勢を作ると、ハイカットスニーカー風のグラシュから、小さな翼のようなエフェクトが出現する。それとほぼ同時に、上方へと体を引っ張る浮遊感。
重力の縛りから解き放たれ、私は空に躍る。
空から久奈島を眺める。森林が成す割合が多く、その中にぽつり、ぽつりと集落がある。まさに田舎といった感じであったけど、地元も似たようなものであったことを思い出した。
「まぁ、どこもそんなものだよね」
グラシュは法的な立ち位置が難しい。グラシュそのものの危険性は薄いが、航空機との接触事故などの危険性があるのだ。そこでこういう離島で試験的に運用されている。
つまり裏を返せば、グラシュが自由に使える場所は田舎とも言えるのだ。
一旦停止して、スマートフォンで場所を確認する。目的地まではすぐそこだ。
結構な高度まで来てしまった。ゆっくりと降下しながら、停留所を目指した。
スタッ、と停留所に着地する。それと同時に重力に引っ張られた荷物が自己主張を始めた。
「う゛っ……重い……」
大まかな荷物は先に送ったとは言え、一人暮らしの道具を一人で持ってきたのだから当然だ。ボストンバッグをしっかりと持ち直して、家へと向かう。
一人暮らしをするにあたって、昔親戚の人が住んでいた家を借りることになった。新興住宅街の中にある比較的新しい家だけど、建ててすぐに転勤が決まって、手放すのも気が引けて持っていた、ということらしい。
「にしても、一人暮らしで一軒家ってのも、なんかなぁ」
持ってきている荷物もそんなに多くない。タンス等の家財くらいのものだ。聞く所によると2階建てでそれなりに広く、ガレージもあるんだとか。使い道がないよ。
マップが示す自宅にたどり着いた。確かに、大きな一軒家だ。建てたのも最近とあって非常に綺麗。庭もそれなりの広さあり、聞いていた通りシャッター付きのガレージがある。
よいしょ、とオッサン臭い声を上げて玄関前に荷物を下ろした。するとちょうど真横に位置する、おとなりさんの玄関から人が出てくるところだった。
桃色のロングヘアに、どこから持ってきているのか気になるサイドテール。大人っぽく整った顔立ちには幼げな笑顔が浮かんでいた。
「あ、こんにちは〜」
緩く、可愛らしい声でそのピンクの少女は私に挨拶をした。
「あ、初めまして。今日から引っ越してきました、
「わぁ、初めまして! いいお名前ですね、空を飛ぶのにピッタリです!」
その感性はわからない。確かに、女の名前に『翔』が入っているのは珍しいとは思うけど。
「私は倉科明日香です。久奈浜学院に通ってる2年生です」
「あ、私も久奈浜に転校するんです! 3学期から同級生ですね!」
「すごいです! こんな偶然ってあるんですね〜」
ぱぁ、っと倉科さんの笑顔が炸裂した。眩しいな、この人の笑顔は。直視できないくらいに。
……ん、待て? 倉科明日香ってどっかで聞いた気が―――
―――思い出せないので、気のせいだったと処理した。
「わぁっ、もうこんな時間だ! ごめんなさい、私部活があるので!」
「あ、すみませんお時間取っちゃって! お気をつけて!」
明日香さんは時間を確認したスマートフォンをスクールバッグに突っ込みながら走り出した。
お隣さんとの関係は良好。楽しい日々になりそうだ。
手続きは概ね済ませてきていたので、私は空いた時間を利用して買い物に出てきていた。料理できる環境があっても、食材が無くちゃ料理は出来ない。買い出しのついでに、街の雰囲気も見ておきたかった。
停留所から飛んで、あまり遠くない距離に商店街がある。活気があるとは言えないが、今すぐシャッター街になるとも思えない、他の地方都市とは少々違う雰囲気の商店街だ。
「いや〜、買った買った」
最初はスーパーマーケットでちょっと買い物をしただけだったのだが、隣接している市場や薬局で買い物をするうちに、両手にいっぱいの荷物を担いでいた。まぁ、持ってきていないけど必要なモノもたくさんあったし、無意味な買い物ではないはずだ。
ピコピコとやかましいゲームセンターの脇を通り過ぎると、私はあるお店に目を惹かれていた。
「スカイスポーツ……白瀬」
外から見た感じ、FCに代表されるスカイスポーツのお店のようだ。気になって、ドアを開く。
「いらっしゃいませ!スカイスポーツ白瀬へようこそ!」
挨拶をしてきた店員さんは、全身筋肉隆々のマッチョと称するにふさわしい青年だった。年は……同じくらいだろうか?
白瀬と名の付く店だったから少々期待したのだが、期待するだけ無駄だった。そりゃあそうか。あそこまでの有名人、こんな小さな店に留まるスケールじゃないよね。
「……あ、インベイドの新作だ。へー...オールラウンダー用とか出したんだぁ...」
「おっ、インベイドがお好みかい? お目が高いねぇ」
あ、この店員さん話しかけてくるタイプの人か。面倒だなぁ。
「いえ、私はアブルホール社のグラシュが好みなので……」
アブルホール社。いつもトリッキーなグラシュを出すことで割と有名なメーカーだ。私のグラシュはアブルホールの『エンゲイジ』。ファイター用にカリカリに弄り倒されたオールラウンダー用グラシュ、即ち純正魔改造品である。
「アブルホールかぁ……あそこもそろそろ新型を出すらしいぞ。何でも『スラスト』とかいう、加速・最高速に思い切り振ったグラシュだとか」
「へぇ……」
そうは言われても、私はエンゲイジから変えるつもりはないのだけれど。
ありがとうございましたーとの挨拶を背に、私はスカイスポーツ白瀬を後にした。
圧力鍋を火にかけながら、私はリビングの机で作業をしていた。
グラシュの分解整備。これはスカイウォーカーとして欠かしてはいけないことだ。...と思っているのはきっと私くらいで、本当は分解する必要なんてない。だけど、細々なデザイン部に砂や塩が付いているのが嫌な私は、せめて掃除だけでもとよく分解整備をする。
無意味に引かれたモールドでも、それはグラシュのデザインの一部だ。しっかりと汚れを落としてやらないと可哀想だから。
ボロ布と、先ほど買ってきた綿棒で隅々まで掃除する。そもそも今日は飛んでいないから必要ないとも言えたけど、やっておきたい日課だった。
アブルホール社のエンゲイジは、ボディ色は海のように深い青。コントレイルは銀とも白とも言える明るい色だった。最初は私がグラシュを履くきっかけになった少女と同じメーカーだから、と使い始めたアブルホール社のグラシュも、今はお気に入り。これで同社の商品を使うのは2機目だ。
エアスプレーで浮き上がったゴミを飛ばして、軽くティッシュで拭き取る。作業が終わる頃に、圧力鍋の中身も完成の時間だ。
リビングの隅にグラシュを置いて、キッチンに向かう。炊飯器からつやつやのご飯を器に盛って、圧力鍋の中身であるビーフシチューは深皿に。
「……うんっ」
我ながら美味しそうだ。でも少し作りすぎたかな?
「倉科さんに持って行ってあげようかな」
インターホンを押すと、パタパタという足音に続いて少女の姿が。
「あ、風翔ちゃん。こんばんは〜」
「はい、こんばんは、倉科さん」
倉科さんはいちご柄のパジャマを着ていた。何だか彼女の印象そのままで思わず笑ってしまった。
「な、何ですかいきなり笑って! ……って、その手のものは?」
「あぁ、ごめんなさい。ちょっと作りすぎちゃったので、お近づきの印にでもと。ビーフシチューです」
倉科さんは鍋の中身を興味深そうに覗いて。
「わぁ……美味しそうです! ありがとう、風翔ちゃん!」
「いえいえ。私も食べきれませんから」
鍋を渡す。それで帰ろうとする私に、倉科さんが言う。
「明日は何か予定があったりします?」
「あ、はい。ちょっと学校に手続きを...」
「じゃあ、一緒に行きませんか? 私も部活があるので」
にこにこと笑顔で言う彼女。こんなの断れる罪な女がいるのだろうか。男はもっと。
「はい、一緒に行きましょう、倉科さん」
「明日香、でいいですよ。じゃあ、また明日!」
「……また明日!」
場所が変わると眠れなくなる。きっと誰しもそうだろう。
ベッドも布団も枕も一緒なのに、私は妙に寝つきが悪かった。窓から照らす月明かりのせいだろうかと思いカーテンを閉めても結果は一緒。
「んー……」
ふとスマホの電源を入れる。SNSを開くと、母親からの通知が何件か。それを返して、ふと友達欄を開いた。
そこには、一人のお気に入りが。私が唯一無二の親友だと思い、そしてそう思うが故に何年も連絡をとっていない少女だ。
「頑張るね、私」
かつての10倍。それが私の目標。そして、彼女と大会で戦う。その日を目指して、私は頑張ってきた。
目を閉じると、それまでとは打って変わって眠気が襲ってきた。
「おはよう、明日香さん」
「おはよ〜」
玄関を出るタイミングが偶然にも重なって、私たちは笑いながら学校に向かう。
「風翔ちゃんは停留所の使い方は分かるんですか?」
「うん、大丈夫。地元もグラシュは結構使われてたからね」
私の地元は廣島県。その中でも瀬渡内海に浮かぶ島々をグラシュ特区とした『瀬渡内特区』の生まれで、グラシュは普及当時から使っていた。ほんの少しだけこっちとは勝手が違うのだけど、それも昨日のうちに慣れてしまったから大丈夫だと思う。
「そうなんですね〜。という事は、どこかの島の生まれなんですか?」
停留所から飛び立ちながら会話は続く。
「廣島県です。蔵橋島ってところから。……」FLYっ」
学校まではそう遠くなかったはずだ。こんな他愛もない会話をしていれば、すぐだろう。
停留所に着陸する。久奈浜学院は私が思っているよりも遥かに小さな学校だった...いや、私の想像が大きすぎただけだと思うけど。
「じゃあ、私は職員室に行くので」
「うん、じゃあ私は部活に行きます!」
カバンをしっかりと肩にかけ直してから。
「あっちで『フライングサーカス部』やってるので、是非見学に来てくださいね!」
そう言って駆けて行ってしまった。
―――フライングサーカス部。
「あっ!!」
外れていたピースが噛み合った気分になった。倉科明日香...どこかで聞いたと思ったら、前回大会の覇者じゃないか。通称「青空の魔術師」。FC協会にバランサー・オフの禁止令を敷かせる原因を作った張本人だ。バランサー・オフを認めることで更に開く選手間の実力差を考えてのこと。普通の人はバランサー・オフなどまともに立つことも出来ないのに。
そんな彼女をどうして忘れてしまっていたのかは至極簡単な理由。普通は出てしまう『強者のオーラ』を微塵も感じなかったからだ。
「あの人が……」
私よりも遥かに強い。それは考えるまでもなく分かっていた。だが、こうも恐怖を感じない人物だと知ると、どうしても同列程度に考えてしまう自分がいた。
書類手続きや先生方への挨拶を終わらせて、私はある場所を目指していた。
「あっち、って……」
どっちだよ。そう思いながらも、指さされた方向を目指して空を飛んでいるところだった。
周りをキョロキョロと見回しながら飛んでいると、海岸に、薄目で見れば分かるくらいのコントレイルが見える。
「……あそこか」
全然『あっち』じゃないじゃないかと思いながら、ゆっくりと降下していく。
近づいてみれば、実践練習の途中だったようだ。飛んでいるのは...見覚えが有る。長い黒髪を振り回しながら必死に飛び回るのは、急成長株の鳶沢みさき。そしてその相手は...
「日向、晶也……」
知っている。知らない訳が無い。私もスカイウォーカーとしては古参の部類だ。彼を知らないなんて、常識がないと言われても過言ではない。
ジュニア最強。日本なんて枠に収まるわけない超人。そして、ある日突然翼を畳んだ少年だ。
「キレイ……」
暴力的なほどに鋭角な鳶沢さんのコントレイル。それに対し、常に曲線的で滑らかな日向さんのコントレイル。混ざり合って金色に近い輝きを見せる。
「あ、風翔ちゃん! 来てくれたんですね!」
「うん。この練習を見て、私もうずうずしてたところ」
「凄いですよね! 私もこのくらい飛べたらなぁ」
明日香さんは、純粋な瞳で空を見上げていた。今の言葉は、人によってはグサリと胸に刺さるものだった。だけどこの瞳を見て、人を傷つけるために言ったものではないと理解できる。
―――彼女の好奇心は、底なし沼のようだ。そう思った。
「……明日香先輩、この方は?」
その声でハッとなる。明日香さんの隣には、少し小さな女の子が立っていた。亜麻色のツインテールで、浮かんでいる表情をひとことで表すなら、不審、である。
「ミーティングで言った、風翔さんですよ」
「あー、明日香先輩のお隣さんって言ってた……有坂真白です。よろしくお願いしますね、風翔先輩」
「うん、よろしくお願いします、有坂さん」
警戒心が強そうだが、いい子のようでよかった。
そこへ、飛んでいた2人が降りてきた。二人共疲労困憊、といった感じだ。
「みさき先輩! お疲れ様です〜っ!」
「あーうん、ありがとありがと」
鳶沢さんは適当にあしらっている。アレか、有坂さんは愛が重いタイプか。ていうか2人はそういう関係なのか。
「コーチ、お疲れ様です!」
「おう、お疲れ。じゃあ次は明日香と真白な。最初は真白が上を取って攻撃、続けて明日香が上から。ポイントを取るごとに交代して、それを12セット」
「「はい!」」
前回大会では日向さんはコーチ専任だったはず。それが今飛んでいるという事は、選手も兼任なんだろう。
「……ん、キミは?」
「ホントだ。自然と溶け込んでて気付かなかったよ」
二人の視線がこちらに向けられる。そりゃあ、さっきまでいなかった人物が急に現れたらこうなるだろう。
「明日香さんから聞いてませんでしたか? 3学期から転入する道真風翔です」
「見学に来るって言ってたっけか。いらっしゃい、久奈浜学院FC部へ。部長の日向晶也です」
「はーい、鳶沢みさきでーす」
対照的な挨拶を受けて、私は二人と握手をした。そして、飛び始めた上空の二人に目を向ける。
「どうです? ウチの練習は」
「そうですね。実践的でいいと思います。少人数だからこそ捗る練習ですよね」
1対1で、シチュエーションに合わせて試合形式で進める練習。大人数だと効果的とは言い難いが、少人数での練習なら、二人の細かな問題点や良さを見つけるのにちょうどいい。
「……道真さんは、FCはやってるんですか?」
「はい。瀬渡内で少々」
「瀬渡内ですか。あっちもレベル高いですよね」
四島ほどではないが、瀬渡内もそれなりのレベルを誇るFCの聖地だ。……まぁ、それでは足りないと思ったから私は四島に来たわけだが。
「という事は、ここでも続けると?」
「そのつもりで、顧問の先生にも挨拶してきました」
そう言うと、日向さんはこちらに向き直った。
「……グラシュは、持ってます?」
「はい。いつでもプレイできるようになってます」
そう答えたら、日向さんは少しニヤリと笑った気がした。
「見てるだけってのも退屈でしょう。ちょっと、試合していきませんか?」
「―――えっ?」
こうして、四島で初の試合は、部内の練習試合となったのだ。
グラシュ特区
……グラシュの使用が広域的に認められる地区のこと。本作では永崎の四島市、廣島の瀬渡内特区、糸賀県の枇杷地区、東北地方の太平洋沿岸部、そして大笠原地方の5つ。
原作以外未読とあって少し情報が少なく戸惑っていますが、そこはパラレルワールドということで納得いただけると嬉しいです。
※文章の体裁を整え、一部を修正しました。