そして死せる者は皆――《彼》を恐れた。
生ある者は祈る、死して彼に会わぬことを。死せる者は願う、彼の怒りに触れぬ事を。
彼は死を統べる者。全ての死せる魂の支配者。
死の世界を司る神は数あれど、『王』と呼ばれる者は彼ただ一人。
最恐にして最悪なる冥府の神――冥王《ハデス》
冷徹にして冷酷。残虐にして非道。神でありながら善を奉じず、欲望のままに悪徳を成す。全ての陰謀の裏に彼が在り、あらゆる悪は彼に従うだろう。
みだりにその姿を見てはならない。みだりにその声を聴いてはならない。みだりにその名を唱えてはならない。
冥王の怒りに、触れたくなければ。
……とまあ、巷でこのように噂されている彼であるが、ちょっと考えてみよう。
生者が死を恐れ、死者が彼を恐れるならば――はたして彼は何を恐れるのか? と
☆ 冥王様のこわいもの☆
○月×日
恐れていた時が、ついに来た。
嫁が実家に帰った。
さみしいつらい。
△月×日
仕事は良い。妻のいない寂しさを紛らわせて、なおかつ実利になる。
侍女兼秘書のヘカテーからは「あまりご無理をなさらないでくださいね」と言われているが、むしろこうでもしないと寂しくて死にそうだから問題ない。
だがそれが終わってしまえば、嫁のいない家に帰らなければならない。
誰もいない玄関。「ただいま」と言っても、「おかえり」の声は無い。
誰もいないリビング。妻の手料理はない。一人カップ麺をすする。
誰もいないベッド。一人寝はさびしい。心が寒い。明日はもう少し仕事をしていよう。
□月△日
家に帰りたくない。さびしいだけだ。だから職場でずっと仕事をしている事にした。
やはりエンドレスの事務作業は気がまぎれる。だが不眠不休で徹夜仕事を続けているとヘカテーはじめ部下達が「いい加減休んでください!」とか「もう一週間仕事部屋に引きこもってるじゃないですか!」とかうるさい。心配してくれるのは嬉しいが生憎と自分は好きでやっているのだ。それに寝たら妻の夢を見てしまう。いくら楽しくとも、起きて夢だったと気づいた時の絶望を味わうくらいなら寝なくていい。そう答えるとヘカテーに泣かれた。何故だ。
×月○日
ヘカテーに泣きつかれたので一時間だけ仮眠をとることにした。
「ハデス様寝て!」と泣き土下座までされては仕方ない。ちなみにやはり妻の夢を見た。嬉しいけど辛い。
絶望しつつ起きたら仕事が無くなっていた。執務机に山と積まれたはずの未処理の書類の山が消えて、代わりに疲れ果て息も絶え絶えの部下達が床に倒れているのを見た時は、まだ夢を見ているのかと思った。
すわ何事かと驚いていると、唯一意識のあったヘカテーが「い、一週間分の仕事を……私達で、終わらせておきました……ので……どうか、今日からお休みになってください……」と言って気を失った。血の気が失せて今にも死にそうだったが、何かをやり遂げた笑顔だった。
……ふむ。何故こんな事をするのかは分からないが、部下にそこまでされては無下にはできん。
だが一週間の休みともなると……どうしたものか。予定など勿論ない。だが冥府にいてはどうしても仕事がしたくなってしまう。ならばオリンポス(神界)は……やめておこう。あのゼウスをはじめとしたロクデナシ共に絡まれては休むこともできない。ならば――。
行き先を決めた私は、気絶した部下達をひとまず医務室のベッドへと運び、その後仕事着から私服のスーツへと着替え身支度を整える。そして私物を詰めたトランクを手に出発。職場を出てからカロンの渡し船に乗って冥府の川を横断し、目的地に向かった。
天界の下、冥府の上、二つの世界の狭間たる――人の世界へと。
☆冥王様のご来店☆
やって来ました下界。――――もう帰りたい。
幾年かぶりに冥府から出た私はとりあえず、ろくでなしの巣窟ことオリンポスのあるギリシアからできるだけ離れておきたいので地球の反対側、日本国は首都・東京に行くことにした。
季節は夏。初めて訪れた東京の街は蒸し暑く、真夏の太陽の下で多くの人間たちがひしめく光景に少々げんなりする。思えば生きている人間に会うのも久しぶりだ。ずっと基本ローテンションの死人ばかり相手してきたので、彼らのエネルギッシュな生気は私には刺激が強いらしい。
そして何よりもあれだ。カップルだ。
『命短し恋せよ乙女』というのはこの国の言葉だったか……。確かにその通り。短くも儚い人の子の生に、恋と青春を謳歌しようとするのは当然だろう。恋に励み愛を謳い添い遂げる事こそ最大の幸福だ。それを成そうとする者を私は否定しない。ただしゼウスお前は駄目だ。
だが一つ言いたい――お前らちょっとは自重しろと。
カップルA「いい天気だね。絶好のデート日和だ」
カップルB「きっと神様も私たちを祝福してくれてるんだわ❤」
カップルC「ねえあっちのベンチで休みましょう」
カップルD「いいよ。そのかわり眠くなったから膝枕してくれないか」
カップルC「いいに決まってるじゃない。むしろ私からしたい……かな❤」
リア充男「キャッキャ❤」
リア充女「ウフフ❤」
街角でも公園でも人気のない路地裏でさえも、カップル達は現れ人目を気にせずイチャつき私の精神をかき乱す。愛し合う二人から溢れだす恋の雰囲気に、妻のいない寂しさがいやおうなしに掻き立てられてしまうのだ。独りってつらい。
なのでひたすらカップル達を避け続けること数時間超。だが奴らからは逃げられない。
街中も駄目。公園も駄目。どこに行っても現れ、しまいには逃げ込んだ公衆トイレの個室から衣擦れの音と喘ぎ声が聞こえてきた時は気が遠くなってしまった。どこのカップルかは知らないが死んだ後は覚えていろ。
というかこの国は少子高齢化ではなかったのか。なのに何故カップルで溢れているのか。気が付けばすっかり日も暮れて、世界に夜の帳が下りてしまった。
深夜の街に一人佇み、疲れた溜息と共に思う。
――帰ろう。
ここは独り身がいるべき場所ではない。
軽く絶望しつつそう悟り、踵を返そうとしたその時――
ぐううううううううう~~~。
私の胃袋が異議を申し立ててきた。
……ふむ。そういえばカップルを避け続けるのに必死になるあまり、食事も碌に取らなかったな。
せっかく下界に来たのだ。せめて食事くらいはして帰ろう。
ではどこがいいかと考えた所で、ふと思い出す。
ハデス「そういえば、この国には神々のための食事処があると聞いたことがあるな……」
聞いたのは噂と場所だけで味の方は分からないが……まあ土産話くらいにはなるだろう。
そうと決まれば早速、私は噂に聞いたその場所へと向かう事にした。まずは最寄りの駅へと入り、一度入ったら二度と出られないのではないかと思えるほど複雑怪奇に入り組んだ駅構内を進み、地獄よりも地獄的な満員電車に揺られつつ、辿りついたのは魔都と名高い秋葉原。
そこは街全体が尋常でない欲望と煩悩に包まれた場所だった。地に大気に、集う人々の様々な想念が渦巻く魔窟にも似たそこを進み、入った路地裏の奥に――一軒の居酒屋があった。
ハデス「ここか……」
ほどよく古びた、いかにも老舗と言った外観。
軒先につるされた提灯の柔らかな明かりに照らされた赤の暖簾が夜風に撫でられ、私を手招きするように揺れている。
ハデス「ふむ、悪くない……」
オリンポスの色彩豊かで派手派手しい建物より、このような質素な物の方が私にとって好ましい。それに、僅かに開かれた扉から洩れる酒と料理の香りが食欲をそそる。
期待を胸に、扉を開けた瞬間――
女性店員「やめてください!」
澄んだ悲鳴が出迎えた。
ガラの悪い客A「いいじゃねえかよちょっと尻を触るくらい」
ガラの悪い客B「そうそう飲み屋じゃよくある事だって。むしろそれもサービスの内っていうか?」
女性店員「こ、ここはそういうお店じゃありません!」
見るからに厳つい、筋骨隆々の男神二人が女性店員に絡んでいた。
下卑た笑みを浮かべる二人に対し、まだ少女と言ってもいい外見の店員は気丈にふるまっているものの、すでに涙目だ。周りの客達は面倒事の気配を感じてか、遠巻きに眺めるばかり。
ガラの悪い客B「まあまあそんなこと言わずにさあ、もうちょっとサービスしてよ~」
女性店員「――っ嫌!!」
いやらしく伸ばされた手を店員は払いのける。肉を打つ音が響き、男神の顔が怒りに歪む。
ガラの悪い客B「痛って!?――てっめえ何すんだこのアマッ!!」
女性店員「………っ!!」
怒号と共に、その硬く大きな握り拳が振り上げられ、恐怖に目を閉じた店員の可憐な顔へと――
???「オリンポスのろくでなし共に比べればまだマシだが、女性の扱い方が良くないな」
振り下ろされるその刹那、拳は男神の背後から伸びた私の手によって止められた。
ガラの悪い客「な、なんだテメエ!? 放しやがれ!」
背後から腕を握られ振りほどこうとするも、私が指に力を込めると苦痛の呻き声をあげる。それを助け出そうと身構えたもう一人の男神が私の顔を見た瞬間――恐怖に硬直した。
ハデス「お前が謝罪し、直ぐに去るのならば離してやる。それが嫌だというのならば……ちょっと冥府逝くか?」
ガラの悪い客B「ふっざけんな! 誰だよテメエは!?」
ガラの悪い客A「おっ、おいやめろ! そいつは、いやその方は――!」
慌てた男神が震える声で言う前に、私は名乗った。
ハデス「ただの休暇中の
ギリシア全ての霊を裁き、冥府を統べる、己が神名を――。
ハデス「……頼むからこれ以上面倒事に巻き込まないでくれ。私はただ飢えを満たして疾く帰りたいだけなのだ」
行く先々で遭遇する面倒事に内心うんざりしつつ言った、その時。
「「「「ぎゃああああああああああああああああ!!!!」」」」
店中が恐怖と絶叫に包まれた。
大気を震わせ壁すら揺らすほどのそれは、男神たちと――そして何故か助けたはずの女性店員とその他全員の悲鳴だった。
……それはないだろう。
☆解説☆
例によってこの小説内だけのインチキ設定です。ガチの神話好きの皆さんは怒らないでね。
《ハデス》
みんな知ってるギリシア神話のラスボス。ヘラクレス殺そうとしたりタイタン蘇らせたりやりたい放題の悪オブ悪。ギリシア神話モノで黒幕は大体こいつ。女は浚い男は殺すまさに世紀末冥王である。――と、世間では噂されているかわいそうな人。ほんとは生真面目で苦労性だけど奥さん大好きの愛妻家。でもくじ運が絶望的。世間でのイメージが散々なのはたぶんハリウッドとネズミ王国のせい。
投稿完了。この物語は基本オムニバスです。なので今回の主役は冥王ハデスさんでした。
彼はギリシア神話の中ではほぼ唯一の良識派なのに世間でのイメージが最悪というある意味美味しいキャラです。というか冥府の神って割かし常識人と愛妻家が多いですね。オシリスとか大国主とか閻魔大王とか……。でも何故か女神だとアレなのが多いんですよねぇ伊邪那美とかガチ祟り神だし。いつか他の冥府の神も書きたいな。
さて、すでに精神フルボッコ状態のハデスさんですが、次の話では日本神話最大のセックスモンスターが現れてさらに精神がガリガリ削られていきます。生きろハデス。