博麗神社。妖怪退治を生業とする博麗の巫女が住む、幻想郷の最東端に位置する神社である。神社からは幻想郷全体が一望でき、春には美しい桜が咲き誇る神社だ。だというのに、妙に寂れてしまっている。
季節は初夏。現代の巫女である博麗霊夢が、額に滲む汗を手の甲で拭いながら箒でせっせと掃除をしていた。参拝客などめったに訪れることはないが、万が一の場合に備えて神社を清潔に保っておくのも巫女としての役割である。妖怪退治だけが本業ではない。
「まったく、今年はいつも以上に暑いわね。この分じゃ、八月は地獄ね」
「いやいや、この暑さだときっと地獄の閻魔様も部屋から出たがらないだろうぜ」
霊夢の独り言に被せるようにして、空高くから少女の声が響いた。霊夢が空を見上げると、太陽を背に箒に跨った少女が、いつもの無邪気な笑みを浮かべながら降りてきた。
軽々と箒から飛び降りると、真っ黒なスカートをはたきながら霊夢の元までやって来た。
「よう霊夢、ご無沙汰だな」
「あんた、昨日も一昨日も神社に来てたでしょうが」
にしし、と少年のように歯を見せながら笑う少女の名前は霧雨魔理沙。本人曰く、普通の魔法使い。彼女が着ている服も物語などで魔女が来ているような真っ黒なドレスだ。この暑い中、よくそんなものが着れると霊夢は呆れる。
「まぁまぁ、とりあえず茶でも淹れてくれよ。もちろん冷えたやつな」
「家の冷蔵庫が壊れてるって話しなかったかしら。文句があるなら飲まなくていいわよ」
売り言葉に買い言葉。傍からは一見、仲の悪い二人にも見えるが、ただ付き合いの長さからお互いのことをよく分かっており、遠慮する間柄ではないというだけのことである。
霊夢の住居である、神社の離れに二人は並んで入っていく。ふとそこで、魔理沙が口を開いた。
「そういえば、人里に妖怪が現れたって話を聞いたか?」
「とっくに耳に入っているわよ。つい先日、その妖怪退治を依頼されたところだし」
「その妖怪だが、ゾンビだって話だぜ? 幻想郷がバイオハザードになる日も近いぜ」
「物騒なこと言ってんじゃないわよ。腐臭でお布団干せなくなっちゃうじゃない」
飢えた妖怪は恐ろしい。たった一度の失敗で人里の襲撃を諦めるとは到底思えない。しかし、先日の襲撃依頼、件の妖怪は一度も人里には現れていないという。人里の周辺にも妖怪の気配はなく、この広い幻想郷を探し回るのは骨が折れる作業だ。
「その妖怪のことも気になるんだけど……一番の懸念は」
「幻想郷のあちこちに現れた篝火、か」
妖怪の人里襲撃事件の同日、幻想郷の至るところに謎の篝火が突如として出現した。小さな火種がくすぶっているものの、周りの木や草に燃え移ることはなく、かといって水をかけても消えることはない。誰が設置したものなのかも不明であり、幻想郷を騒がせている。
(これって、異変ってことなのかしら……)
霊夢は一人思考する。巫女としての使命に、幻想郷の異変の解決というものがある。とうに巫女としての修行は完了している(彼女本人にサボりぐせがあるため、あくまでも基礎の部分においてだけ)が、異変解決という実戦に臨んだことは未だない。
人と妖怪の間には、子供でも分かるほど明確な力の差が存在する。普通ならば人はただ妖怪に為すすべなく食われるだけで終わってしまうのだが、妖怪と人間のパワーバランスを保っているのが博麗の巫女である。人間は妖怪の恐ろしさを知っているからこそ無理に彼らを脅かさないし、妖怪は人間を守る博麗の巫女の厄介さを知っているからなかなか手を出せない。
しかし、そこに異変が絡むと話は別だ。妖怪が活性化し、人の心に闇と不安が現れ始める。現状がいつまでも続くことはよろしくない。
「魔理沙、ちょっと出てくるわ」
「異変解決……か?」
いつになく真面目な表情で神社を後にしようとする霊夢の背中に、魔理沙が声を投げかける。
「そうよ。悪いけど、お茶は自分で淹れてよね」
巫女服の袖に仕込まれた札を確認する。急な準備で陰陽玉の調整が間に合わなかったが、致し方ない。
「あたしもついていくぜ。一人で留守番してても暇だしな」
ふわり、と箒に跨り宙に浮かぶ魔理沙。彼女がその気になってしまえば、もはや誰が何と言おうと気持ちは変わらないだろう。
やれやれと首を振りながらも、霊夢は魔理沙の身を案じてはいなかった。魔理沙の実力を考えれば、普通の妖怪程度は軽く蹴散らすことができる。実戦未経験という点で不安が残るが、それは霊夢自身も同じことだ。
「ついてこれなかったら途中で置いていくわよ」
「心配ご無用。私はスピードには自信があってな、むしろ追い抜かしてやるぜ」
「上等っ」
こうして二人は神社を後にした。これが博麗霊夢と霧雨魔理沙にとっての、初めての異変解決となる。