「その汚い手で私に触れるなっ!」
細枝のような腕を見るからに不審そうな男に手折るように捕まれた少女が獰猛に咆哮する。決して守られる弱者とは言い難いその形相にも男は動じない。
その身を社会に適応するスーツ越しでも判る剣呑なまでに屈強な体躯、その角ばった巌の如き輪郭の顔には苔生したように髭が蓄えられている、それが二人だ。まず、山から下りてきた類人猿が無理して人間社会に紛れ込んだのかと思った。
そして、次に不審に思った。何せ、ここはプライバシーという概念を度外視するほどに監視カメラが張り巡らされている。こんな場所で身なりの良さそうな少女を誘拐しようとしているのだ、あの少女が仮に資産家の令嬢の類だとするならば、その難度は八階建てのビルの屋上から飛び降りて無傷で着地するより高い。
要するにほぼ無理だろう。
だが、それでも男達はまるで、その可能性を最初から視野にも入れていないといった様子で商品を貨物に詰め込むように傍らに止めた車へと少女を押し込んだ。
「くっ、離せ……下種共っ! こんな真似をして半殺しで済むと思う……っ!」
「うるせぇ、いいからしばらく黙ってろっ!」
最後まで抵抗を示した少女も空気抵抗でハエが止まりそうなほどに軽そうな平手一発で沈む始末で、あとは成すがまま、車の扉は閉じられた。
この僅かな合間に起きた事象に対し、周囲は逆転ホームランでも打たれた投手のように呆然とした表情で濁った廃棄ガスを吹かして走り出した黒塗りの車を見送っていた。
絶対の安寧に胡坐を掻いているのだから、その態度は当然だし、こんなご時勢だ、それも致し方ない。彼らにとっては異常なことは恐怖の対象でしかない。
だが、その中でも私は違っていた。
胸の内で燻っていた感情に熱が灯り始めていたのを感じていた。
残念なことに私は困っている老人がいれば蹴飛ばすような非道徳的な人種だ、慈善行為に身を差し出す程、愚かじゃない。
それにしたって攫われたお姫様を救うなんて物語ではなんとも使い回されたベタな展開だ、だが現実で、目の前で起きたそれは腐っていた感情を新鮮なものへ回帰させていた。
きっと、この出来過ぎなシナリオには手を引く者がいるのだろうが、それを知ったうえで私は形振り構わず駆け出していたのだ。
この退屈を紛らわす好機に乗り遅れまいという一心で。
私は待っていた、この瞬間を。だから駆け出し、車へと手を伸ばした。
逸脱した世界を掴み取るために。
「海咲、そろそろ起きた方が良い」
上から聞きなれた友人の声が聞こえる。
それに少し艶のある唸り声で返答してみた。正直だるい。
「起きているんだろう?」
「今日はブルーディなんだ……」
「それは昨日もだろう、お前は毎日が土曜日なのか?」
「……先に行け、私はもう少し寝てから行くからさ」
「了解した、だが、くれぐれも遅刻はするなよ」
足音が遠のいていく、また私は緩慢な動作で布団へと潜り込んだ。全身が軽い麻酔でも打たれているみたいだ。
この暁東市は非常に平和で束縛的な街だ。私が付けてるスポーツブラなんて、比較の対象にすらならない程には。
21世紀も後半に差し掛かった現在、今や政治は大企業の従順なる傀儡政権が成立し、新自由主義の名の下に徹底とした市場主義経済が行われ、一個人の人権は名ばかりの物と化している。
結果として、極端な格差が生まれ、すでに海外では企業を狙ったテロが日常茶飯事で発生する始末だ。そして、日本もまた銃器の携帯が免許さえあれば許されるほど治安は悪化していたりする、その原因の一つとされるのが、禁止区域という存在なのだが、今はさほど関係はないだろう。
ともあれ、治安が悪化している昨今の世の中で暁東市は防犯面に関して脚光を浴び、次々と世界中の企業が集い、現在の市場経済の中心を担うまでになったのだ。
皮肉なことに余計にそれが犯罪者を生み出す切欠になっているとは露知らず、街中は
だが、それでも、私のようなか弱い美少女が肌を露出しても襲われないくらいには治安も良い。最も私を含め人間は経験でしか物を語れないので、本当のところは知らないけど。
そんな日本の現在の首都に欠けてしまったのはアウトローとも言える存在だろうか、少なくとも不良という存在はサブカルにしか現れなくなってしまった。
当然だ。一度、法の敷居から飛び出てしまえば全ての権利はメッキの如く剥がれ落ち、一介の類人猿の恥さらしとして世間から扱われる。そんな度胸が青年にある筈もない。
闘争の意思は挫け、社会の歯車以下として椅子にへばり付く老人の奴隷として一生を終える、それすらも、今じゃ幸福なほうで、それどころか理想の生活モデルだ。
どいつもこいつも自分のことで手一杯、中流以下の家庭では共働きに伴う機能不全家族が当たり前となり、核家族すら維持が困難となった。
一人残された子供は親の暴力を恐れ、鋭敏になった神経で察知し、また或いは地雷原染みた家庭を潤す為に必死に学業に打ち込む。その過程で歪みを持ったまま成長していく。
存外、街の連中も本質的には私と変わらぬ生活をしていたりすると書店で教育学者の本で知った際には驚いたものだ。
ラッシュが過ぎ少し波も穏やかになった8時過ぎの商店街を歩けば、時折、怪訝さと熱烈さを混ぜたような視線を浴びる。それも仕方がない、私は美人といわれた母親似だからだ。
他にも理由は多々にあるが、視姦されても良い気分にはならない、正直に言うと私は男がそこまで好きではない、寧ろ好み的にはレズに近い。精神学的いえばアニムスが強いのだ。
そこがルームメイトと違う点だろうか。
気を逸らし続けていると、目的地へと辿り着いていた。
天然芝が生い茂る新緑の海の地平線の果てにはさながら宮殿でも思わせるような建築様式な純白の校舎が聳える。その存在感に気圧されず、少しばかり目を凝らせば、機械仕掛けの監視の眼が張り巡らされ、部外者の侵入を未然に食い止めている。
ここまで徹底された警備をする理由は、この憐桜学園が上流階級や資産家の令嬢を収める箱庭だからだ。だが、私はお嬢様ではない。
では、なぜここにいるかというのか、それはこの学園のもう一つの顔に起因する。
上流階級の犯罪への不安から、護衛の需要は急速に増加したのだ、故に訓練も兼ねて、憐桜学園はボディガード養成施設としての要素を持つことになった。
最も、私はボディガードという職業には結局、関心を抱くことがなかった。今まで、踏み止まっていられたのは一重に周囲の環境に恵まれていたからだ。
だが、それも限界、今日、私はこの場を去るつもりだ、その方が連中の為にもなる。
砂埃を帯びた春風が頬を掠めて、肩上で切り揃えた髪が耳元で微かにせせらいだ。
そして、あっさりと最後の登校日が終わった。
「本当にここを辞めるのか?」
「くどい、今時の女を口説くのにも湿っぽい感情論かよ――暑苦しい……アンタ、友達に逃げられる性質だな」
「……っ、だが、お前にとってこの一年間は無為ではなかった筈だ」
何とも虫の居所が悪そう表情から搾り出された泣き落としの言葉を浮かべた笑みで一蹴してから続けて結論を述べてやる。
「そうだな、支配される側から保障された手厚い衣食住の永続が如何に人の質を堕落せしめるかは学べたよ」
「違う、お前は理解しているはずだ、他者を守るということが如何に困難であるかを」
どうして、このオヤジは私に執着する?
そう、この筋骨隆々にまん丸に剃られた禿頭、最早、カタギとは思えない男の佐竹明敏は憐桜学園の校長を勤めている、そんなお偉いさんが塵芥の行方を心配するのだからお笑い草だ。そんな都合の良い話があってたまるかと。
目を伏せ表情を伺おうにも、サングラスに覆われた瞳からは何一つ窺い知ることは出来ない。諦めて私は一年の集大成を一言でまとめた。
「どの道、世から犯罪は絶えないんだ、こんな事をしたって無駄極まりない。それに殺さずに守るだけならば、また奴らは襲ってくる……切りがない、そこで捕まえたとしてどうせ人権など無いのだから殺すことになる、つくづく無為だよ、あんた等」
「確かに人の能力には限度がある」
「話を聞いているのか、タコ?」
懐を手探る佐竹は私が向ける懐疑の視線など気にする素振りもなく、やがて部屋の光を貪欲に飲み込む黒い塊を机に誇示するように乗せた。
それは前世紀より多くの者の手に握られたグロック17という拳銃。こんなのものを見せてどうするつもりだろうか?
「これは旧時代の産物だ。だが、引き金を引けばお前は死ぬ。絶対にだ。故にこれは万障に対する脅威なのだ、これは覆らない。故に人は依存し、やがて道を踏み外す。これを持った人間に対抗できる素質を持った人間は少ない――私が言いたいことはわかるな?」
「分からないな、それに知りたくもない。殺すのは銃じゃない、そいつの殺意だ。まるで銃を持った人間自体は怖くないように言ってくれるが、怖いのは持つ人間だろ」
机に寝かされた銃を突っ返すと私は目を細め、佐竹のサングラスが映す深淵を覗き込む。その先の真意を読み取らんとせんばかりに。
「……私との約束、あれは嘘だったのか」
「あんたの望み通りにやっただろ、何が不満なんだ?」
そう言い返した。
ああ、私にとって与えられた日常は退屈極まりなかった。
誰かに実は昨日と同じ光景を見ているといわれたら、確実に信じてしまうかもしれない。
この学校、場所は私にとっては余りに穏やか過ぎたのだから。
その空気は五感の神経を表皮に浮き出して歩いていたような私には自ら真綿で首をじわじわと絞められている錯覚さえ感じさせていた。
これは、言うならば擬態だ。日々に溶け込んで、それでいて自分で生きている感覚さえ喪失させていた。他人の演技を傍から見ている、といえば分かりやすいだろう。
そして本来の私がまるで霊魂のように周囲を揺蕩うみたいに。
まるで私はあの場所に愛郷心でも抱いているみたいじゃないか――あながち見当違いではないかもしれない。だとするならば、佐竹に感謝をする必要があるな。
ようやく宙ぶらりんだった自分の在り方が定まったと。
勿論、口に出す気はないので、私は純度100%の笑みを浮かべてやった。
不定期なので悪しからず。