さて、晴れて私は自由の身になったわけだ。
ファッションなどに特に拘りは無いので佐竹に買い与えられたセットアップスーツ一式を纏っている、色は味気の無い紺一色にインナーの襟元の白が映える。素朴なグラデーションという奴だ。
取り合えず柔軟性の高いストレッチ素材とやらなので動きに支障は無い。
この二週間で少々伸びた髪は高めの位置で纏めて結った。俗に言うポニテか。
さて置き、問題は生活だ。一万円あるので飲み食いには困らない。手荷物も無いので体力面においても負担は少ない。
しかし、この暁東市からは離れるべきだろう。此処は余りにも絢爛とし過ぎて肩身が狭い。例え夜であろうと、赫々たる摩天楼が目に付く場所だ。その光の帳に遮られた泥濘のような闇もあるというのに。
……いっその事、山にでも篭るか? 少なくとも食住には困らない。
そんな、適当な案を水面の気泡のように浮かべていると、長方形の自販機が目に入る。生憎のところ、一万円札は使えない。
なら、仕方ない。別のことも思いついたが、お天道様の下ではしたない真似を堂々とする気は無い。ポケットの愛人に掛けた指を離すと、私は何とも無関心な視線で周囲をなぞり、意識せずとも目に飛び込んでくる光景に目を程ほどに凝らしていく。
携帯端末に意識を集中し、他には目も暮れぬ奴、
何やらおぼつかぬ足取りで歩道を不規則に歩く奴。
過大広告に誘われ、屯う人々。
その全てを青空に独りグレアする太陽が輪郭を与える。それでいて日差しは暖かいと言うのに、どうしてこの街は温かみを感じさせないのだろうか?
まるで、人々が幽霊として化けて出ているのではないかと思えるほどに、在り方は不自然――まるで病にでも罹ったみたい。
故に私はこの街を好きになれない。
まるで太陽だけが息をしている世界だ。他は皆、眠るように凍死している。
そして私はその中で呼吸している、何とも玉虫色の孤独に窮まってしまいそうだ。
それでも寂しくは無い。いや、元から何にも飢えていないのだ。
依然として、私には何にも夢は無い。
過去から掘り当てた将来の夢はパパのお嫁さん……止めとこう、もう似合わない。
腐った感情が口元から零れる。
そんな凍死した鈍重な世界に新鮮な異変が訪れた、横を過ぎる黒塗りのワゴン。その急速なブレーキにタイヤがアスファルトに擦れ、焦げたゴムの臭いが鼻腔を突く。
「くっ……離せ、この無礼者っ!」
怒気に満ちた少女のものと思われる声が人垣を飛び越えて響いてきた。
視線を遣れば、何と言うことだろう、見慣れたゴシックな学生服を身に纏った生徒が屈強な男の二人組みに腕を捕まれていた。
……愚策だ、私はそう判断を下した。車を用い、実行犯は二人組、という判断は間違えていない。だが、円滑に車内へ拉致をするならばスタンガンか棍棒でも使って相手を気絶させてからのほうが良い、もしくは死角から首締めを仕掛け、騒がれる前にもう一人が足でも掴んで運んでしまうのが効率的だ。
しかし、あろう事か、この男らは天下の往来で公開ゲリラスナッチを行ったのだ。アホのグラウンドゼロ此処に極まり。が、周囲にはその分かり易さは寧ろ効果的に働いたようで、塩を浴びたナメクジの如く萎縮する様は何ともお笑いだった。
(馬鹿らしい、計画性の無さといい放って置いても事件は解決する)
この監視社会では最早、露店の果物をくすねるのにも相当の技量を要するのだ。自然体かつ最低限の挙動で懐に忍ばせる。そんな芸当が出来なければ、窃盗すら儘ならない。
そして、筋肉がスーツ越しに映える為強そうに見える男だが、良く目を凝らせば姿勢が悪い事が伺える、それは内側の筋肉を鍛えていない証拠だ。故にこいつらは闘いに関しても素人同然。その気になれば候補生でも余裕であしらえる。
残念ながら、私はこの事態を看過する連中と現状況では同類だ、鉄火場に自ら踏み込むほど愚かではない。無視、それこそが正しい選択だ。
……ただ、私はその正しい選択に辟易していたところだった。
反射的につま先が地を蹴飛ばし、路上を疾駆した。
視線の先には件の連中、一歩ごとに加速を早めれば輪郭はやがて明瞭に変わり行く。
その距離は徐々に縮まり、既にあと数歩で射程圏内に到達するだろう。
が、男は此方に気づいたようだ、だが致命的に振り向きが遅い。だから、その視界がこちらを捉える頃には私は目と鼻の先に居る。
「おい、何かおっかなさそうな女が走って近づいてきやがる!」
「早ぇ……化け物かよ――おい、早く詰め込め!」
焦燥が滲み出た声音、扉に分厚い手が乗る。既に少女と言う障害が無ければ次の踏み込みから回し蹴りを懐にン叩き込める位置だったが、遅かった。
勢い良く閉じられた扉を確認した、その時点で車体を掴もうとした腕は空を握っていた。
「あくまでも捕らえた獲物は捨てない、か。見上げた根性だな……」
さて、思考しろ。この状況をどう打開する?
周囲を見渡す、在るのは精々、自転車と車……ならば、前者だな。車は後始末が面倒だ。傍らのマウンテンバイクに目を付けると、ポケットからピッキングツールを取り出した。
そして、針金を鍵穴に突っ込み、まさぐる。間もなく子気味の良い音で後輪の動きを妨害していた鎖が外れた。
「追い付けるとは思えないが、自前で走るよりはマシだな」
実の所、私にとってはこれも戯れに過ぎない。
故にわざわざ盗んで、跨るマウンテンバイクにも大した期待も寄せていなかった。
しかし、重心を前に寄せて漕ぎ出すと、これが存外に早い。十秒も漕げば、視界が流れるように移り変わる。
チェーンが擦れる音と流麗に流れていく景色を気にする余裕も無く、一心不乱にサドルを押しつぶさんばかりに踏む。
その甲斐あって先ほど見逃した車体が徐々に見え、より一層、立ち漕ぎの勢いを早めた。中々の速度で口から漏れる息も熱が篭り出す。
「ハァ、ハァ……チッ」
思わず息に混じって舌打ちが漏れた。此方を視認した連中が急加速したのだ。速度は坂道にでも入らなければ自転車で追い付ける物ではない。
では、どうする? 車にでも飛び移るか? いや丁度良い。ここには一万円札があるのだ。これを使わずしてどうする?
そう思うやいなや、飛び退く形で自転車から降りた。遅れて軋むような音を上げて横転する自転車を気にも留めず、タクシーの扉を叩く、間も無く扉は開かれた。
「どこまで?」
「さっき速度違反した車、あれを直ぐにでも追い駆けて貰いたい、一万円でどうだ?」
「ちょ、ちょっと、そんな無茶な!?」
鳩が豆鉄砲を食ったような表情で泡を吹く運転手。ああ、じれったい……言い分は尤もだがな。こちらには時間が無い。
「職務の事を忘れて生娘とドライブでもしていると思えばいい、さぁ行け」
「せ、せめて理由をだな!?」
「……あんた、面倒は嫌い?」
「な、何を――ああ、嫌いだよ!」
此方の視線に怯え、そして搾り出した声に私は笑みを返す。
「そうだよな、嫌いなこと早く終わらせた方がいい筈だろう? さ、レッツゴー」
「……ああ、もう!」
やけくそ同然の叫びに共鳴するようにエンジンが唸りを上げ、車体が駆動する。
車道に車が少ないことが幸いし、メーターは鰻上りで上昇し、あっという間に速度違反スレスレまで上昇する、安全運転を心掛けることからプロ意識が伺える。
次第にバンの姿が再度、伺える距離にまで挽回できた。
しかし、そのバンはどうも人気の無い車道を選り好みして通っているようで、半ば蛇行同然に道路を疾走していた。が、お陰で極端に後れるという事態にはならずに済みそうだ。
「中々のお手前で」
「これでも昔は峠でヤンチャしていたからな」
「ヤンチャなんて卑下しなくていいだろ、ハンドルを握っているあんた……それなりに眩しかった、私は嫌いじゃないよ」
「お、おう……そうだな。久しぶりに羽目を外せた気がするぜ」
「ま、一緒に結婚指輪を外さないようにしとけよ」
そう言い捨てると私は車から降りる。
すっかりと町並みから外れ、時折吹く風が運ぶ砂埃のせせらぐ寂寞たる場所。そこに聳えるのは無骨な倉庫。電灯は付いておらず、僅かに入り込む陽光だけが内部を照らしている。
隠れるには持って来いだが、逃げるには最悪の場所だ。いよいよ以って怪しい。
まるで、指示されたように此処に来ているのでは? 何ともお粗末な推測だが外れてはいない筈だ。
本気で誘拐するのなら、外部からの侵入手段が少なく、それでいて逃走経路が確保されているような場所ではないと駄目だ。金銭交渉でもする気なら尚更に。
これは……余計なことに首を突っ込んだかもしれない。
「チッ……」
倉庫に入れば、整頓された積荷の山が連なり、凸凹の稜線を描いている。そして、その奥を覗けば、先ほどの二人組みと、お粗末な縛り方を施され、口元をガムテープを貼り付けられた先ほどの少女、その白皙の肌も怒りで真紅に高潮しているように見える。
「兄貴、まさかこんな幸運が向こうからやって来るとは思いませんでしたね」
「ああ、あの二階堂の令嬢だ」
「へへっ、早く金をせしめてバラしちまいますか?」
「そう急かすな、まだ始まったばかりだ」
……何とも頭の悪い会話だ。アホが成熟した人間とはこういうのを指すのだろうか?
バラす――つまり殺すのだろうが、そんな事をしてみろ、翌日には国(道)の礎になるに違いない、富豪の権力を甘く見すぎだ。
奴等にとって子とは自らの地位と名誉を次世代に繋げる唯一にして至高の財産なのだ、それをお釈迦にするのは最早、愚行の他にならない。
しかし、一つ気になったのは奴らの言う幸運という単語だ……誰かが二階堂という少女があの道を歩いているという情報を伝えた?
まあ、後で考えればいい話だ。裏でこそこそと小細工するような連中もその方が嬉しいには違いない。
「……二階堂家の番号は控えているな」
「いつでもかけれます」
憧れの選手を前に用紙片手で緊張するサッカー少年かよこいつ等は。いや、邪悪さが桁違いだけど。
だが、その興奮を隠せない調子が明確な隙を作り出していた。当たり前だ、浮き足立って明らかに警戒心を殺いでしまっていたのだ。
浮き足立った体に少女は身を屈め、体を突進させる。まるで意図していない攻撃に男は思ったとおり、床へと押しのけられた。
そして形振り構わず少女は駆け出す、それを見て男達が年甲斐も無く憤慨するのには数秒も無かった。
「いっ……糞がぁ!」
痛みと怒りに震えた声音と共にスーツの裏から黒い物体がするりと頭出す。
そいつはもう既に日本では誰もが、その気になれば手に取ることが出来ることになった戦いの支配者。まあ武術の心得よりかは遥かに頼りになる。
少なくとも矢面には立てない。
幸いなことに少女は此方の傍を駆け抜けようとした、ので、私は思い切り手を伸ばして遮蔽物の陰に引きずり込む、その直後、倉庫に甲高い炸裂音が木霊する。
深遠を覗かす銃口から放たれた鉛の弾丸は幸いにも少女の頭部を過ぎり、荷物を穿つだけだった。が、流石に肝が冷えたのか、少女の顔は元の白皙を取り戻していた。
「ガムテープか、雑だな――少し痛いが我慢しろ」
「……んんっ」
勢い良く口に張られたガムテープを剥がす。流石に痛そうだ。
「あ、アンタは……?」
「ただの場のノリに流されやすい女子高生さ」
「……この時期にスーツ姿の女子高生なんているわけないでしょう?」
あ、すっかり忘れていた。
「それよりも逃げることが先決だ……しかし、それでは転ぶのが関の山だ――外してやる」
「ちょっと、外すって」
「……動くな」
時間も無いので、強引に少女の両腕に結び付けられた手錠を掴み取る、そしてポケットより愛人を取り出す。
「何、その針金のような物は?」
「開錠道具」
「……そんな物で手錠が――」
言葉を言い切るより先に穴に差し込まれたツールが手錠を解除する。その様を少女は唖然とした様子で見ていた。別に大したことでもない。ガキの使いでも出来る。
「随分と変わった特技ね」
「取得すれば、これ一つで食っていける」
但し、履歴書に書く特技ではない。罪状に書かれるほうだ。
「おい、嬢ちゃん以外に誰かいるのか!? 居るなら出てきな!」
嘘をつけ、嘘を……どうせ殺る気だよ、こいつ等。何も言わないほうがまだ親切だ。
現に足音は近づいてきている、足を忍ばせようと、この寂莫たる倉庫では無意味だ、隠すなら腹ばいで動くぐらいでもしなければ。
「ねぇ、アンタ。どうする気なのよ、何処睨んでんのよ」
「冷静になれ、銃を持とうと奴らは戦略的視点から見れば素人だ、制圧するのは容易い」
「……大した自信ね?」
「そういう風に鍛えられたのだからな、当然だ」
「…………?」
僅かに眉を眇めた少女を余所目に私はどちらを片付けるか、思案する。その間にも足音は近づいている。私達の場所からして、左側だな、決定だ。
「恐らく、まだ外に車がまだ止まっている。私が先に出るからゼロになったら外へ走れ。いいな? ――3、2、1……」
「ちょ、ちょっと!」
「ゼロっ」
荷物の左側に疾駆する、銃を持った腕が目に入った、膝を折り曲げると、一気に下から突き上げるように飛び掛る。
標的と成った腕は硬直し、がら空きとなった脇へと私の腕が差し込まれ――男は呻いた、視界が逆さになったのだから当然だ。
みぞおちにめり込んだ肩を支点にして、私は男をそのまま床へと前方に投げつける。男は声にも成らぬ悲鳴を上げて床に叩きつけられる。
倒れたことで露呈した急所、私は膝を折り曲げ――そして一筋の風切音が流れた。
「ぎゃああああああああああああ!」
濁声の絶叫が倉庫内の空気を掻き乱し、やがて消沈した。
そして楔の如く男の股間に打ち込まれたつま先を私は退かす。もう片方がこの音に反応したようだ。これで少女のことは完全に思考から除外された。
それに気づかないわけも無く、背後の気味の良い足音が徐々に遠ざかるのを感じる。さて、これで問題は無い。
「て、テメェ!」
飛び出した男は構えた銃の引き金を引こうとする。
だが、角で私は既に待ち構えていた、その伸ばした手を両腕で掴み、捻りながら体を屈める。重心の崩れた男の体躯は丸もうとし、次の瞬間、私の肘が顎に打ち込まれる。
「ぐぎゃぁっ!」
声をあげ、殴られた勢いのまま退く男、その様を見据えると片膝を浮かび上がらせ、引っ張られた右足が放たれる。
「ぐぎゃぁあああ!」
がら空きの脇腹に吸い込まれた蹴りは大きく減り込み、不協和音を立てると同時に男に絶叫を発せさせる。
そして痙攣するかのように床に這い蹲った。
……何とも哀れだな。銃を持っただけで自分達が優位になったと勘違いしたか。だが、引き金を引きなければ銃は玩具に過ぎない。
そいつはお守りじゃない。使えるときに使えなければ何の意味もない。
「やっと終わりか……私も色々と鈍ったな」
そう呟くと、捻る際に落ちた銃からマガジンを抜き取り、弾丸だけを回収した。
その最中に一つ何かが目に入る。
「あいつ等は……悲鳴からして無事では無さそうだけど?
「別に、命には障りない筈だが?」
片方は骨は確実に砕け、もう片方は不能確定だが。そもそも役立てる機会は牢の中で永久に失われる訳だが。
「全部倒したの? アンタが?」
「二度も同じ事を言わせるな、そういう風に鍛えられている」
目を見開く少女につっけんどんに返す。ついでに見つけた物も一緒に投げつける。
「……っ、これ、私の鞄じゃない。随分と気が回るわね」
「女の鞄だ、見られたら困るものぐらい入ってるんじゃないのか? ……中を調べとくといい、あと警察に連絡を」
「一応確認するけど、アンタは憐桜学園の生徒?」
何故分かったのやら、私は女だ。女子の中では主席ではあるが、そもそも戸籍上の女は私しか居ない。
「そこまで教える義理は無い」
「そう」
何とも冷静なご様子、さっきまで縛られていたとは到底思えないな。
それは兎も角、未だに車を止めていてくれた運転手にまずは礼を言う必要があるな。
少女を引き連れて私は車へと歩み寄るのだった。
海咲はマリーダさんと両儀式と海斗を足して三で割ったような子と考えてください。