医師からの診断書を片手に、了子の脳裏には少年の姿が蘇っていた。
少年の名は大鳳空。
“櫻井了子”の甥であり、番外聖遺物「Excalibur」を有する、自らの前身とも言える大鳳理論に基づく唯一のシンフォギア装者。
数週間前の雪音クリスとの死闘で一時は生死の境を彷徨ったものの無事に意識を取り戻し、その後も驚異的な回復力を見せ、つい先程担当医から退院の許可が下りた。
ハッキリ言ってしまえば、異常である。
“絶唱”による身体的負荷は、天羽奏の一件で既に立証済みである通り、人体に多大なダメージを及ぼす。仮に風鳴翼や立花響が同じ様に“絶唱”を使えば、少なくともあと数週間はリハビリに時間を要する事は想像に難くない。
それを――――――尋常ならざる回復力を可能としたのは、何なのか。
(聖遺物の力……という訳でもなさそうね)
聖遺物の研究者として―――いや、そうでなくとも、「Excalibur」に纏わる伝承は余りにも有名である。
世界屈指の騎士物語に登場する騎士王が所持した聖剣。
アーサー・ペンドラゴンを王たらしめた選定の剣。
そして了子の調べた限りにおいては、恐らく人類史上最初の“ノイズ”討伐に用いられた聖遺物。
その破片こそが、空の心臓に埋まっている聖遺物の正体である。
彼の聖剣の欠片が、十四年前の“事故”で死にかけていた空を現世に蘇らせ、シンフォギア装者として目覚めさせた―――それは事実だ。
しかし、だ。
それはあくまで命の灯火を吹き返させたに過ぎない。事実あの事故の直後、空の身体能力は大きく退行していた。今でも、聖遺物の補助なしでは同年代の平均的な運動能力には大きく劣っている。それを補う為に、実験の際には様々な薬物を投与して補強しているというのが現状だ。
死という確実な“運命”を覆すには、とても及ばない。
(“鞘”であれば、或いはあり得たかもしれないが…………)
“剣”と対になる聖遺物―――伝承に残る、魔法の“鞘”。
真名すら定かではないそれは、恐らくは“剣”すら上回る力を秘めている。
だが、その“鞘”は未だに発見には至っていない。
ならば一体、何が彼をあの境地へ到らしめているのか……
「――――――ッ!?」
途端、脳髄を焼き切らんばかりに奔った痛みに了子は顔を歪ませた。
振り払う様に薙いだ手が机の上に置いてあったカップを床へ叩きつけ、陶器の割れる音が消えるのと同じ様に激痛は治まりを見せる。
「ッ……全く、しつこい……!」
苛立ちに眉を顰めながら、しかし了子の瞳は空の写真が貼られた壁に向かった。
そして徐に手を懐に入れると、
「―――何にせよ、“私”の邪魔はさせない」
刹那の間をおいて、空の写真を銃弾が喰い破った。
「幾千年にも渡る宿願を、必ず果たしてみせる……!!」
◆
「友達と喧嘩したことないの?」
「……友達、いないんだ」
未来の言葉に、クリスは躊躇う様に呟く事しか出来ない自分に驚いた。
空と別れて間もなく、自分を殺す為に差し向けられた“ノイズ”を駆逐している内に疲弊し、何処とも知れぬ路地裏で倒れた所までは記憶していた。
だが、いざ目が覚めてみると自分は柔らかい布団の上に寝かされていて、傍らでは見知らぬ少女が世話を焼いてくれていた。
服を替えてくれたり、身体を拭いてくれたり…………代えの下着がなかったというハプニングもあったが、それでも久方ぶりに触れる“他人”の温もりに、クリスは戸惑った。
「地球の裏側でパパとママを殺されたアタシは、ずっと“一人”で…………いや」
「……?」
「“一人”だけ、いたんだ。アタシの事を、大事にしてくれた奴が」
“友達”では余りによそよそしく、血の繋がりがないからこそ“家族”とは言い難い。
クリスの脳裏を過るのは、一人の少年の姿だった。
「理解してくれると思っていた人も、アタシを道具の様に扱うだけだった……アイツだけだったんだ。アタシの事を、まともに見てくれたのは」
痛いといっても聞いてくれなかった。
止めてといっても聞いてくれなかった。
自分の話に耳を貸そうともしない、最低の大人達に弄ばれる地獄の様な日々の中で出会った、一人の少年。
自分と同じ様に、あの地域では珍しい白い肌と、宝石の様に澄んだ赤い瞳。中性的な顔立ちは、着飾れば少女の様にも見えたかもしれない。
そう。
だからこそ、“彼”はよく売れた。
自分と同じ様に―――或いは、自分以上に売り続けられた彼は、それでも笑って言ってくれた。
『大丈夫だよ』と。
『絶対に、大丈夫だよ』と、そう言って、泣きじゃくる自分や子供達を抱きしめてあやしていたのを、クリスは鮮明に覚えている。
どれだけの長い時間をあの地獄で過ごしてきたのかは知らない。
けれど、下賤で最低な大人達の扱いに手慣れていた様子を見るに、自分よりも遥かに長い時間を其処で過ごしてきたであろう事は、想像に難くない。
少ない食事を、自分より小さな子供に分け与えて。
誰とも知れぬ他人の為に、自分が身代りを買って出て。
地獄の中で、なお優しさを失わぬ彼に、幼き日のクリスは神にも似た何かを見ていた。
―――だが、切欠は余りにも唐突だった。
何処とも知れぬ村に滞在していたある日、けたたましい銃声がクリス達の耳朶を打った。
次いで聞こえてくる怒声と爆音の最中、彼は叫んだ。
『逃げろ!』
それは、普段聞いていた理解の及ばぬ何処かの言語ではなく、久しく聞いていなかった日本語で、かき切れながらも絞り出す様な叫びだった。
テントに無数の穴が開き、銃撃の音が益々激しさを増す中で、クリスは彼に手をひかれて必死に走った。
熱のこもった手でギュッと握り締められて、転びそうになる脚を必死に励まして駆け抜けた。
四方八方に逃げ惑う大人達を余所に、彼はまた日本語ではない言葉で叫び、子供達を誘導する。自分にも早く逃げろと急かす彼に、しかしクリスは随分と久しぶりに感じる日本語で返した。
『あなたもっ!!』
―――瞬間、何かを感じた様にハッとした表情を浮かべた彼は、渾身の力で自分を突き飛ばした。
刹那、クリスの顔面に何かが飛び散る。
べっとりとした、温く湿ったそれは、胸が大きく口を開けた様に空洞になった彼の身体から夥しく溢れ出る血液。
ぐらり、と傾いた彼の身体は、そのまま自分の上にのしかかった。
擦り剥いて焼け付く様に熱い筈の肌が、酷く冷たく感じられた。どんどん溢れ出る血の奔流は、そのまま赤黒い沼地を形成していく。
熱を失っていく彼の身体に守られる様に在る自分は、脳髄が理解を拒むそれを認めようとして必死に震える身体を抱きしめていた。
うわ言の様な、泣き言の様な何かを必死に絞り出そうとして―――けれど、クリスは何も言う事が出来なかった。
『……く、な……い』
肩に乗る彼の顎が、微かに動いた。
『死にた、く……な、い……っ!』
――――――それは、嘗て両親を目の前で無慈悲に奪われた少女の願いと、相反する言葉だった。
それから間もなく、クリスは戦闘行動を停止した国連軍によって助けられた。
聞けば彼らは、クリスの叫んだ声を頼りに更に銃撃を繰り返し、他にも多くの子供達を救ったのだという。
無数の瓦礫と銃撃の中を生き延びたそれを彼らは“奇跡”と呼んだが、それが間違いである事は誰よりもクリスが知っていた。
自分は生かされた。
生きてしまった。
誰よりも生を渇望していた、彼を身代りにして。
嘗て死を望んだ筈の自分が、自分だけが生き残ってしまった。
――――――そして、クリスは悟った。
生きる事を望む命を、無慈悲に、無差別に奪う事が大人のやる事だというのなら。
自分達の利益や身勝手な大義名分の為だけに、幼い命を弄び、奪い尽くす事が大人のする事だというのなら。
その全てを否定し、拒絶し、破壊し、蹂躙し、殺戮する。
それが、それこそが生き残ってしまった自分の“使命”なのだと――――――血と、硝煙の海に沈んだ彼に、クリスは誓ったのだ。
◆
「アタシに友達はいない……いや、いらない」
だから、クリスは恐かった。
自分の願いを知り、協力してくれて、理解してくれていると思っていたフィーネにすら裏切られ、今尚生き続ける自分自身が、恐くて仕方なかった。
「でも……!」
「お前も、アタシに関わるな。アタシなんかに関わったら、ロクな事にならねぇ……」
また、自分は誰かを犠牲にして生き延びてしまうのではないか。
その犠牲はもしかしたら、今こうして自分を助けてくれた少女になってしまうのではないか。
だから、クリスはその温もりを拒絶する。
“あの時”の様な事を、二度と繰り返さない為に――――――
「っ!?」
「何だッ!?」
街中に響き渡る警報音に、クリスは目を見開いた。
慌てて外に出てみれば、人が波の様に逃げ惑う姿が前を通り過ぎていく。
「おい……一体何の騒ぎだ?」
「何って、“ノイズ”が現れたのよ!警戒警報知らないの!?」
未来の言葉に、クリスは瞠目した。
(フィーネ……くそっ!!)
呼びとめようと叫ぶ未来の言葉は耳に届かず、激情のままにクリスは駆け出した。
(バカが……!!アタシってば、何をやらかしているんだ!!)
無力な人間が傷つく姿を見たくないからこそ手にした力。
それが今は、その無力な人間を危機に晒している。
(ちくしょう……ちくしょう!ちくしょう!!)
走る。
人を避けて、駆け抜けて、そして――――――
「―――何処に行く気だ?」
聞き覚えのある声音が、耳朶を打った。