レ・プレ
王都より遥か西、辺境を治めるゴスター領は最西端の海岸線に小さな町がある。いや、町といってもその規模はひどく小さく、大きな村といった方が正しいだろう。町は物資の流通も人の行き交いも盛んではなく、唯一の目抜き通りにも人影はひとつふたつあるだけである。この町からは「活気」というものが忘れ去られていた。
ある晴れた日、町の外れにある居酒屋に、にわか雨を避けて一人の男が飛び込んで来た。
入口の扉を引きちぎるように早足で入ってきた男は、びしょ濡れになった頭と体をバシバシ払い、僅か数組のみある席にどっかりと腰を下ろした。風来坊のような格好の男は鍛えてあるのか、プロレスラーさながらのがっしりとした体躯が服の上からでもわかる。腰に差しているのは騎士の持つような両刃の剣ではなく、鍔のない白木の刀。身長はおよそ180cmくらいで、黒い短髪は編笠で隠れている。切れ長の目元にはどこか威圧感が漂うものの、眉間にしわがよっているわけでもなく、単に目つきが悪いだけらしい。
店内はその構造のせいか、昼過ぎだというのに薄暗い。
「誰かいるか」
男の呼びかけが終わる間もなく、奥からサンダルをつっかけた気の良さそうなおやじが前掛けで手を拭きながら出てきた。
「へいへい、いらっしゃい。おや、この夕立に降られたんで。災難でしたな」
男は差していた刀を隣のいすの背に立て、懐から手拭いを出して顔やら腕やらをぬぐっている。しかしどうやら懐の手拭いまで雨で濡れてしまっており、仕方なく男は手拭いもいすの背に引っ掛けた。
「ひどい雨だ。少し雨宿りさせてもらうぜ。ああ、腹も減っている。何か食い物を出してくれ」
実の所、そこまで腹が減っている訳ではなく、雨宿りの軒先料としてである。
この世界は「竜の足跡」と呼ばれる領域が国と国とを分けている。その領域は長大で、街や村、農地などの人間社会の営みはその領域を避けるようにして在る。領域に入ると、それまでよい天気であってもシャワーに入るように突然にして息もつけぬ程の暴風雨となる。そして風雨は足跡の奥に近づくにつれて激しさを増す。それだけならばまだ命に関わる危険ではないが、この領域を人々がわざわざ避ける理由がもうひとつある。曰く「竜が棲む」という話である。いつどこで、誰がそんな事を言い出したのかはわからない。真中にあたるラインに最も近づいた者が何かの「咆哮」に似たうなりを聞いたという説もある。現段階で足跡について間違いない事は、今までに横断できた者はいないという事、横断を試みた者は一人として帰ってこなかったという事、そして足跡は何故か10年の周期で蛇がうねるように流動する、という事である。
足跡の流動に伴う社会的な損害は大小あり、それに伴い人々の日常も変化を余儀なくされる。近くにあった足跡が山を隔てて向こうに行ったおかげで野生動物達の気性が穏やかになり暮らしやすくなる、という事もあれば、足跡が国を繋ぐ街道にまでずれてきて交易すらまともにできなくなる事すらある。流動のある年は、人の心は穏やかではない。そして今年は、流動の年であった。人々は足跡に合わせてまた暮らしを変えていかねばならない。
軒先料はそんな景気の悪さを懸念しての事だった。「しかしひどい目にあった。雲一つない快晴だってんのにこのどしゃぶりだ」
「ほう。そら、狐の嫁入りですな。空は晴れているのに雨に降られるのを狐の嫁入り言うんです。お客さん、もしかしたら化かされたのかも知れませんな」
おやじはテーブルを拭きながらそんな事を言って再び奥へ入っていった。
「そんなことはないさ」
男はびしょ濡れの懐から煙草入れを出して、テーブルのすみにほっぽり出されていた誰かのマッチをすって呟いた。狐狸の化かしや小金稼ぎの妖術師崩れの幻覚などは道中いくつも破ってきた。煙が灯りにゆれ、くすんでいく。それをぼんやり眺める男の目が少し鋭くなった。
ふたつめの煙草をのみ終わる頃、盆を持ったおやじがいそいそと奥から出てきた。
「随分早いな」
「へい、恐れいります。今朝入った鮎の塩焼きです」
それはいい、と男は顔をほころばせる。店の様子からしてあまり期待はしていなかったが、意外にも上等なめしである。男は早速みそ汁をすすり始めた。
「おやじ、店の調子はどうだ」
男は香の物を噛みながらノホホンと尋ねた。
「この所ずっと赤字ですよ。足跡が街道の方までズレて来ちまったおかげでルマッカからの物質もここんとこトンと来ねえ。おかげで町もウチもこのざまで」
窓際の席で新聞を読んでいるおやじも言うことの割にはのんびりキセルをのんでいる。意外と肝の太いおやじである。
店内は相変わらず薄暗く、小さな窓から差す光の他にはぶら下がる灯りが白くともるのみである。男はしばらくめしを食いながらおやじと話していたが、食後の茶をすすりながら男を見なかったか、とたずねた。おやじは歳のせいか、少し眠そうである。
「んん?」
男はマッチをすり、煙草に火をつけた。正面のおやじの姿が煙にゆれる。
「片腕の男さ。髪は黒で赤い目をしている。背はそうだな、俺と同じくらいだ。」
おやじは老眼鏡らしき眼鏡を拭きながらかぶりをふって
「いや、知りませんな。探し人で?」
男は立ち上がり、支度をしながら残った茶を飲み干した。
「いや、ついでさ。知らないならいいんだ」
男は煙草をくわえると、少し多めにめしの代金を置いてごちそうさん、と店を出た。
帰る間際男は
「っと、おやじ」
と店の奥に入っていくおやじを呼び止める。
「はい、なんでしょう」
男はにやりと笑い、
「次はうまく化かすことだ。店主がムジナと知れちゃ商売もあがったりだろう」
と言い捨てて後ろ手に扉を閉めていった。残った店主は頭を掻き掻き誰もいない扉に向かって「…年のせいかな」と独りごちると、新聞を小脇に店奥の暗がりにのそのそと消えていった。
ここは足跡によって分けられた四つの領からなる、ある一つの大陸。それは大昔、時空の揺らぎによって世界から切り離され、忘れ去られた。今、その大陸について知るものはほとんどいない。大陸に今なお住んでいる者達でさえ、もう大陸の名を覚えている者はいない。