とあるロリコンの最期   作:キューブケーキ

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島流し生活

1.前史

 

 WW2終結後の東西冷戦時代、日本列島で4次に渡る戦争があった。特に1948年の男鹿戦争は、日本が国際社会に復帰する転機となった事件と言える。

 そもそも戦争が長引いたのも、日本が分断国家になったのも、日本軍が歩兵の突撃で勝敗を変えると言った盲信から、防御戦闘で戦車の効果を認識したからであって、マキンの戦いがパラダイムの転換だった。

 皇軍は、満州事変当時、関東軍自動車隊で持っていた装甲自動車小隊に内地より仏製ルノー戦車1小隊を増派して独立戦車中隊を編成し、哈爾濱の戦闘に投入したのが戦車使用の鏑矢であった。その後、大東亜戦争開戦迄に装備の更新、部隊の拡張は進められた。

 ガ島に連合軍が侵攻した時、大本営陸海軍部は、MO作戦を優先しており、ガ島の速やかな奪回を現場に求めた。陸軍中央統帥部は重慶攻略を目的とした51号作戦を計画しており、副次的な南太平洋で拘束、掣肘される事は本意では無かったのだ。

 シンプル・イズ・ベスト、そこで内地に帰還途中の一木支隊と、F・S作戦中止で浮いた青葉支隊を第17軍隷下に入れたが、日本陸海軍の墓場となったのは周知の通りだ。

 この状況下で、カーリング中佐の指揮する海兵隊226名が、潜水艦2隻に分乗し、ゴムボートで上陸。バンバンバリバリと奇襲攻撃を行った。

 この襲撃で日本側に損害を与えた後、米軍は迅速に引き上げしたが、数名が取り残され捕虜となった。

 マキンは海軍の管轄であり、第62警備隊マキン派遣隊と第14航空隊が展開してたが、米軍の跳梁を許し面子を潰され、8月20日にはGF長官が同じ轍を踏むまいと防衛強化を下命した。一方、陸軍は22日に、インド東北部を攻める事で防衛地域を拡大すると言う企図の計画、21号作戦の準備として大陸令650号に基づき大陸指1237号の指示を出した。

 この時局に戦場を拡大する。愚策でしかなく、初戦の勝利の興奮からまだ覚めきってはいなかった。

 現地部隊指揮官であるビルマの第15軍司令官飯田中将は反対したが、軍人である以上、命令には服する義務があり、南方軍の意向を麾下の師団に説明、敵情把握の指示を出した。

 9月3日、第18師団長牟田口中将と同席していた師団参謀長の武田大佐は、「インパール付近までは行けますが、アッサム州までは無理です」と答えた。第15軍は消極的ではあったが、任務の遂行は絶対原理であり、指示通り10月の作戦開始に備えて準備は進められた。

 しかし連合軍は同年末から翌年2月にかけて攻勢を行いビルマを脅かした。第15軍はビルマを堅持するが、日本軍史上類を見ない敗北を南太平洋で経験し状況が変わった。

 敵に対抗する唯一の手段は、やはり火器に依存するしかない。我が方に相応数の戦車又は火器の装備があるなら敵軍を恐るべき物は無い。

 1943年2月16日、陸軍参謀総長は昭和18年綜合作戦指導竝兵力運用及兵備の大綱を上奏、大陸令895号で関東軍から戦車1個中隊を骨幹とする部隊がマキンに派遣された。

 開戦時、陸軍全51個師団の内、南方軍があ号作戦に使用出来た師団数は11個。糧食、弾薬、燃料の作戦用資材準備状況も北方重視で、関東軍からの兵力抽出は極めて一部に限られており13個師団が満州で遊兵化していた。今回は関東軍を傍観者にさせなかった。とは言っても1943年の時点で、陸軍58個師団、戦車3個師団の内、14個師団、1個戦車師団が満州に展開していた。

 連合軍では米軍の将帥、マッカーサーとニミッツによる対日戦略の方向性で割れていたが、太平洋島嶼攻略は海軍主導の戦争であり、11月19日、マキン攻略を目的としたカルバニック作戦が発動された。

 マキンにはターナー少将のTF54からTF52が送り込まれた。

 水上機の基地としての機能しかなかったマキンに米軍はここでも、事前の空爆と艦砲射撃で耕した後に部隊を上陸させると言うオーバーキルな火力ごり押し、過剰戦力の投入な物量作戦で挑んだ。

 上陸部隊は、第27師団の第105歩兵連隊に第193戦車大隊、第152工兵大隊や砲兵、通信、衛生、偵察中隊等を増強して編組された第165連隊戦闘団(6470名)。

 対する我は、第3特別基地根拠地派遣隊等700餘名。防御兵器は8センチ砲、8センチ高角砲各3門、13ミリ機銃12丁。

 米軍がビーチレッド、ビーチレッド2と呼称する島の西海岸に左翼第1大隊、右翼第3大隊が並列配置で上陸開始したが、日本側は少ない兵力を有効活用すべく、島の中央部に配置していた。

 日本軍の抵抗が無い事から米軍は、若い時の厨二病と言うか冒険的な行動を実行に移した。

 ビーチイエローと呼称する島の中央部、北海岸に第2大隊をガチで脳死していて雑に上陸させた。

 しかし調子に乗ったら足下を掬われる。日本軍もマレー作戦中、パクリ付近の戦闘で戦車第14連隊第2中隊が壊滅し、近衛師団も多数の損害を出している。それは違うんじゃないと後から批判を受ける結果になった。

 その昔、フレデリック大王はロイテンの戦いに於いて3万の兵を以て8万のオーストリヤ軍を破り、ロスバッハの戦いでは2万5千の兵を以て5万の同盟軍を撃破した。又支那事変に於いて皇軍は5倍から10倍の支那軍を撃破している。

 三十年戦争のリッチェエンの戦で瑞典王グスタフ・アドルフは戦死したが、瑞典軍はドイツ軍の攻撃を跳ね返した。

 いずれの勝利も、士気旺盛で忠勇義烈な将兵が揃った結果だ。

 事前に十分な準備で偽装、隠蔽されていた戦車中隊による逆襲が始まった。快速な98式軽戦車を装備していた日本軍は、決死的奮闘で第2大隊を壊滅させた。その事が日本軍を戦車信仰へと変え、中部太平洋や比島、南西諸島での戦いを長引かせた。

 そして稼いだ時間で、日本側は有利な条件で戦争を終わらせるべく準備を開始した。

 それはビルマから始まった。

 かつて地球上には大きな文明、母なる国が栄えていたと、ビルマで発見された碑文板には表象と文字によって綴られていた。

 ビルマは日本の倍以上な面積であり、雨季はマラリア、コレラ、赤痢、水虫、インキンタムシ等の伝染病が流行る厳しい風土である。

 現地では、原住民が白人の支配から解放を願っても、一致団結する前に、懐柔工作の買収や脅迫による裏切りや民族対立による切り崩しで纏まる事が難しかった。

 アジア太平洋戦争が始まると史上最強の我が皇軍は、マレー作戦の側背を守り、南方要域を守るべく全国屈指の精鋭第33師団と第55師団(一部欠)が、開戦劈頭の1942年1月20日、不意急襲の泰緬国境突破にビルマ進攻作戦が始まり、ビルマ独立軍の支援を受け、険しいビルマの地勢を物ともせず、獅子奮迅の大活躍を見せた。

 軍司令官以下挙軍一体となり任務遂行に邁進、特に宇宙開闢以来の大活躍と言われるのが、55D112iの沖支隊。D主力と離れて前人未到のジャングルを文字通り切り開きながらの任務遂行であった。

 当時、ビルマに展開していた英印軍は、圧倒的大部隊の歩兵37個大隊、砲兵13個中隊の4万と言われている。しかも英印軍や重慶軍は兵員を増加させつつある。

 タイに展開する小畑英良中将の第5飛行集団の支援もあったが、インドから来襲する敵の空襲頻度は高かった。

 そんな状況でありながら、ビルマの首都ラングーンに日章旗が翻ったのは3月8日。第一期ビルマ作戦を終えた日本軍は、引き続きマンダレー方面の敵を求め撃滅すべき南方軍命令により、攻撃前進を継続した。

 後に56Dと18Dが加わったとは言え、当初、僅か2個師団の寡兵で英軍を追い出しビルマを制圧し、印支ルートを遮断したのであった。

 第15軍司令官飯田祥二郎中将の采配で、見事に勝利したのである。

 ビルマは援蒋ルートに要であった。それ以外に戦争遂行に必要な石油やマンガン、タングステン、翡翠、ルビー、金等の豊富な鉱物資源を産出すると同時に、世界有数の米作、ケシ栽培地帯でもあった。

 9月21日、インド東部のチッタゴンより、第14インド師団がベンガル湾沿岸のアラカンに侵攻。敵の反攻が始まった。主力はマユ半島を東進、アキャブを指向していた。

 33Dの213i(-Ⅰ)基幹とする宮脇支隊は頑強に抵抗している。日本軍のターンはまだ終わってはいない。飯田中将は北緬の防衛警備に就いていた55Dに迎撃を指示した。

 55Dは昭和16年5月に善通寺師管で編成完結したピカピカの新鋭師団である。18Dは55Dと警備を交代し、北緬へ移動した。

 1943年2月8日、チャールズ・ウィンゲート准将の第77インド旅団が、インパールからタムに前進。後方攪乱目的の挺身部隊は、南北に分かれ14日/15日にチンドウィン川を渡河。東に横断しながら襲撃を繰返し、イラワジ川を渡河、カチン高原に抜けた。

 3月27日、南方軍隷下、ビルマ方面軍司令部がラングーンに新設されると、河邊正三中将が方面軍司令官に赴任。戦闘序列が更新され飯田中将の後を継いで第15軍司令官に就いたのが、18D長だった闘将牟田口廉也中将だった。

 18Dは1937年9月、第12師管で動員完結し、支那各地を転戦。開戦時マレー作戦に参加した歴戦の部隊である。

 牟田口中将は、18D長として北緬警備中に、ウィンゲート旅団による浸透と後方攪乱に悩まされ、敵の反攻戦力が整編されている事と、積極的反攻にはつ出ないであろうと言う認識の誤りが判明した。事実、ビルマ北東、雲南省の昆明では支那軍が米式装備を与えられ訓練されている。

 生産性の無い浮浪者を助けるのは、偽善者か貧困ビジネスだが、支那兵は戦う事が出来る。どんな思想を持って様と必要なのは兵士だ。

 我が軍も中野学校出身者により、現地住民から兵補を募り遊撃隊を編成しているが敵に一歩遅れいる。

「北アフリカでドイツ軍が敗れ、エジプトを占領し中東からインドへ打通出来る可能性は遠退いた。これは英印軍への圧力が減ったと言う事で、東部インドからビルマへの反攻が前倒しされるだろう」

 牟田口中将は尽忠報国の精神を、その働きで実証した。日本にとって支那こそ主戦場であり、不意急襲で雲南省の敵反攻拠点を覆滅し、援支公路を遮断、一気に攻勢に出て重慶政府の息の根を止めようと考えていた。

 その準備の為、マレー作戦で活躍した闘志も申し分無い作戦の神様、辻政信中佐を軍司令部の参謀として抜擢、陸軍大学校から招致した。

 大兵団の運用困難なフーコンの地形に実地調査した辻参謀は満足して計画を書き上げた。

「当面の敵として、インパールにギフォード将軍の英印軍第4軍団約3個師団、レドにスティルウェル将軍の米支軍約2個師、雲南の保山に衛立煌将軍のビルマ遠征軍約16個師が展開しております。ではビルマ防衛をどうするかと言う話ですが、要はフーコンで守り、雲南を攻めると言う話でありますが、作戦目的は雲南省要域を攻略確保して航空作戦を容易ならしむる事であり、援蒋航空路を遮断に勉める事にあります。使用兵力は菊兵団と龍兵団の半分でも多い位です。作戦発揮時期は敵の兵力増強具合から鑑みても、早いほど良い。ですから本年10月初旬を希望します」

 支那との戦を終わらせる事は、輜重畑出身で第15軍参謀長の小畑信良少将、後方参謀釘宮真石中佐も大賛成だった。

 十分な研究内容にビルマ方面軍高級参謀片倉衷大佐も賛成で、話はサクサク纏まり南方軍総司令官寺内元帥から大本営に認可を求めた。

 支那に対する大本営の作戦要領は南京政権の支援と防衛強化と言う場当たり的な物だったが、この好機に乗じ奥深く重慶まで進攻すべしと活気付く事となった。

 紆余曲折を経て、8月には大本営より雲南作戦の準備指示が出され、第15軍の雲南作戦は現実の物となった。

 18Dは31Dの進出に伴い8月下旬、ミイトキーナ地区に師団司令部、114i(-Ⅰ、Ⅲ)、12P、12T、モウガン地区56i(-Ⅰ、Ⅱ)、カーサ地区55i、ミーニン地区18BA、フーコン渓谷のマインカンにⅡ/56iと移動開始した。

 地形、戦況、敵情を詳細に観察し、辻参謀によって立案された計画に従い、国鉄の第5特設鉄道隊や輜重部隊により、56Dと18Dの予想展開地域内に武器、弾薬、糧秣、衛生器材、燃料、輸送用の軍馬や軍牛、軍豚を前送分置され集積を概了した。

 9月1日、雲南進攻の部署が決定した。乾坤一擲、運命の時だ。ビルマ方面軍は防衛作戦を始める。

 南機関が、古寺で収集した古文書から、ビルマ各地に残る遺跡を発見した。これは1万2000年前の古代都市で、石造りの物だった。

 樹海の木々に呑み込まれつつあった遺跡は、ビルマ防衛の拠点として役立った。

 10月、緬支境界で怒江作戦が開始され、西岸の56Dが拉孟、騰越の線に後退。東岸の重慶軍を誘い込んだ。

 雲南遠征軍は保山を策源地として、に戦力充足を図っていた。当然、手痛い目にあった前回の教訓を踏まえており、慎重に西岸に進攻して来た。

「来年1月迄に雲南を攻略する」として、米支軍をビルマ領内で分断、平戞、龍陵等で包囲した。

 重囲の中、砲爆撃により死傷者は続出、弾薬糧食は欠乏し、重慶軍は竹竿に刺していた日本兵の首に代わって、白旗を掲げるのも早かった。

 昆明の中緬運輸総局局長愈飛鵬は、職を賭して前線に一粒でも多く米を送ろうと努力したが、皇軍の封鎖を突破する事は出来なかった。

 食事で大切なのは動物性タンパク質であり、肉を食べなければ筋力が衰える。遂にミミズやネズミまで食べ尽くし、投降した支那兵は痩せ細っていた。

 一方、連合国軍では米英合同参謀本部(CCS)が「欧州と太平洋で航空戦力が必要とされており、アジア大陸で空輸に使用できる余裕は無い。地上ルート建設による連携強化は空路輸送より優先される」と決定した事により、レド公路打通を企図する東南アジア方面軍司令部(SEAC)司令官マウントバッテンは、緬北から日本軍を一掃すべく、英印軍をフーコン渓谷に南下させた。

 フーコンはカチン語で魔の谷を意味し、開戦時、重慶軍3個師が北へ壊走した因縁深い場所でもある。

 そこへ米式装備の新編第1軍、第6軍がパトカイ山系を越えて雪崩込んだ。

 今年1月にもタロー附近で攻撃を仕掛けて来た敵軍は、2月末に撃退されている。

 4月3日に牟田口中将と18D長を交代した田中新一中将は、3月26日にメイミョーで引継ぎを行った時に「近く実施される雲南進攻作戦で18Dは、おそらくレドからフーコンに侵攻して来る敵に対して、北緬を防衛し、最悪の場合、ミイトキーナ、モガウン及びカーマインの要域を確保して貰いたい」牟田口中将の構想を聞かされ、十分に理解しており、この戦いでミイトキーナに指揮所を置き防衛作戦の全般指導を行った。

 ミイトキーナはフーコン方面と雲南方面を繋ぐ北緬の要衝である。英軍駐屯地は拡張されて、師団司令部を収容した。

「ここが菊兵団の死に場所と心得よ」

 師団長は士気を鼓舞した。

 市街化地域の作戦、戦闘行動は最後の手段であり、都市部には近付けない。

 山と渓流と言う天然の障害に、散兵壕を組み合わせた堅陣である。

 在インド支那軍(CAI)を指揮するジョゼフ・W・スティルウェル中将は開戦時、蒋介石から支那軍の指揮権を与えられており、日本軍が占領区域から撤退した場合限って支那側から仕掛けて良いとしていたが、手違いと錯誤から予想外の抵抗に遭い惨敗した経験を持つ。

 その為、容易には誘いに乗らないと考えられた。

 10月30日正午、フーコン峡谷の最北端、タルン河沿いのシュローとニンビンの守備隊が接敵した。敵は新編第1軍第38師第112団であり、対するは友軍は1個中隊。

 第2大隊長渡辺正博少佐は、「第6中隊はシュロー、ユパンガを放棄、ニンビンを確保すべし」と指示を送ったが、「我が中隊、意気軒昂。人員装備損害無し。当面の敵を撃退せり」と報告して来た。

 第6中隊は逆に敵の装備や糧秣、弾薬を手に入れ焼け太りした。

「中隊長殿、敵は尻尾を巻いて逃げて行きます」

 戦利品のコンビーフやドライフルーツを頬張り兵は喜ぶ。

「おう!」

 81mm迫撃砲、60mm迫撃砲、機関銃等を装備した火力優勢な支那軍であったが、我が軍を攻めあぐんだ。この原因は米軍の承認無しには、支那軍が動けない事にあった。

 スティルウェル中将は、「十分な食料と武器を補給した中国軍第38師に対している日本軍は、その頑強な抵抗から8個大隊乃至10個大隊と見積られる」と分析していた。

 56i長長久竹郎大佐はi主力の居るモガウンから、第2大隊、第3大隊を率いてクナイ河北岸地区まで救援に向かった。その距離120km。間もなく渡辺少佐の第2大隊主力と鈴木重直少佐の山砲第2大隊が到着し、反撃に転じ敵を撃退した。

「敵は釣れました。新編第1軍の第38師と第22師です。インドで訓練を受けたというのに戦意は低いですな」

 フーコンの密林、タロー平地に配置されていた伏兵が左支隊となり、日本軍宣撫カチン族の協力で野ブタの丸焼き、インコやリスをもりもり食べて鋭気を養い、間道から敵後背を突いた。

 敵の退路を断つと同時に来攻する増援を阻止する任務だ。

 重点指向はシンブヤン附近、パトカイ山系の隘路口で、チョークポイントだ。

 牟田口中将は自動車中隊5個を増派して、田中中将を支援した。18D長であったから愛着があったが、贔屓ではない。18Dの決心と企図を認めたのだ。

 蝿が集り山蛭が降り注ぐ中、連続不断の戦闘が敵の士気を低下させていた。

 クレア・リー・シェーンノート大佐がスティルウェル将軍の怒りを買い左遷されなければ、空中投下による補給が行われていたかもしれない。しかしシェーンノート大佐はいない。士気を回復させる最強の西瓜も手元には無かった。

 逆に日本兵は一挙に撃滅すべく、竹林で芋虫を増加食代わりに食べながら密林を踏破して進撃した。後に内地で大流行するビルマ定食のメニューである。

 敵を誘い出し撃破した皇軍は攻勢に転移した。敵野戦軍と言う障害を排除し、雲南を容易く攻略した皇軍は、遂に重慶攻略作戦を行う様に見せた。

 牟田口廉也は支那駐屯聯隊の頃から忠勇な武人である。部下は一兵卒に至るまで牟田口の大戦略が浸透して理解している。

 我らの壮烈な戦死は、英霊になるだけではなく帝国臣民を鼓舞する。忠勇な皇軍将兵も日本男児の本懐である戦に奮い立つ。

 進め一億火の玉だの標語の様に、大和魂で支那軍は撃破出来る。

「わしに一個大隊を与えよ。精兵揃いの皇軍であれば、支那軍なんぞに遅れは取らんわい」

 記者の前で豪語する牟田口。そして連日の爆撃、迫る皇軍の威容に、遂に蒋介石は交渉の席に着いた。

 帝国の基本方針としては、反日行為の抑制と防共協定締結。市場の解放、邦人の権益保護であり、それが認められるなら占領地からの撤退を約束した。

 蒋介石は反共での支援を求め、直ちに皇軍は共匪討伐に協力した。血を流す事による盟約である。

 支那問題の解決で連合国との講和は進むかと思われた。しかしここまで血を流し過ぎた以上、国民党政府が降りた所で米英も簡単には引き下がらない。

 結果、帝国政府は徹底抗戦を選択。開発の間に合った局地戦闘機の震電による邀撃に遭い、B-29撃墜による原子爆弾の投下失敗。1945年~46年、日本本土に侵攻したオリンピック、コロネット作戦は失敗。

 本土決戦と言う事で日本軍及び国民義勇戦闘隊は頑強に抵抗した。日本人の士気を衰えさせるどころか、逆に連合国側では死傷者が増大し厭戦気分が増した。

 ここで動いたのがソ連の指導者、スターリンだった。

 スターリンの領土的野心は満州以外に、日本列島も視野に入れていた。対独戦終結で開き直り、隠さず、欧州から兵力を転用、極東の軍を増強しており、対日参戦は明白だった。

 日本側は敗戦が近付く中、参謀本部第5課が、ソ連の対日参戦準備は1945年の7月までに概了すると判断。8月か遅くとも9月初旬頃が危険と見ていた。しかし種村大佐はアカの影響を受けており、ソ連に対する日本側の意思決定で妨害活動を行っていた。

 民主主義国家に於いて、激しい抵抗がある地上戦で多くの若者を死なせる事は、民衆から政府の支持率を下げる事に繋がる。特に、ソ連と比べて人的資源に限りある米英にとって、スターリンの対日参戦の申し出は、渡りに船だった。

 結果、連合国は渡洋能力の低いソ連海軍極東艦隊に船舶を貸与。日本軍に対し第二戦線を形成する事に成功。

 既にヤルタ会談において、東北、北海道は、終戦に貢献したソ連に割譲されると決まっていた。南へ向かう避難民をソ連軍は容赦なく襲い、強制労働に徴用していった。

 松代の大本営で、ソ連軍の本土侵攻の報を受けた御上は、皇土を蹂躙され臣民が傷つく事を嘆いた。聖断は下り、日本は連合国に降伏したのだった。

 1945年、アジア太平洋戦争の敗北によって日本は降伏。共匪は貪欲にも旧満州国の領域である東北地方を掌握すべく、ソ連と連携して動いた。以後、東北は共匪の策源地となった。

 東北争奪戦に遅れを取った国民党政権は、共匪の勢力拡大を憂慮するが後手に回った。

 共匪は襲撃やテロを繰り返し治安が悪化、そして1947年、戦争の季節がやって来た。6月、超サットヴァ甘露水やスーパー甘露水の類いで強化された共匪の攻勢を前に、北支方面で国軍は寝惚けていたのか損失を重ねた。7月には黄河以南の共匪を撃滅し掃蕩する戡亂作戦を実施したが、共匪は攻勢にリソースを割き勢力を拡大させた。

 辛亥革命の後に軍閥が各地に乱立した時も、日本との戦争になった時も、この世にクソゲーはあると多くの民衆は思った。今回も同じだ。

 こうした状況を打破すべく国軍は動き、1948年11月、自然的に遼瀋会戦が勃発。真摯に向き合ったが理想的展開は訪れず国軍は敗れた。かくして東北は完全に共匪の手中に落ち、華北にも危機が迫った。

 大陸が戦禍の渦に巻き込まれていた1948年、ソ連軍占領下の北日本で、秋田県能代市は、帝政ロシア以来の悲願であった不凍港を抱える重要な都市と言えた。

 サハリン州の財政は、北日本の再建と開発に投資されている。当然、将来的にはその見返りが期待されている。

「露助め。何もかも持っていくつもりか」

 港ではウラジオストクに向かう貨物船に、銀や銅と言った鉱物資源、米が船積みされている。

 占領地の住民は唯々諾々と従っているが、跳ね返りは何処にでも存在する。

 男鹿半島は、東北地方がソ連の占領下にある中、西側陣営の一員としてスタートを切った日本にとって飛び地と言える。

 当時、男鹿半島には在郷軍人を中心とした郷土防衛隊の国民義勇戦闘隊が存在した。敗戦と同時に日本の軍事組織は解体、武装解除されたが、男鹿半島やソ連占領地との緩衝地帯では、様々な思惑から自警団として武装勢力が残されていた。

 これらの武装勢力は反共組織として、西側から援助を受けソ連占領地内で地下闘争を行った。ソ連側も報復として、越境作戦で根拠地となる集落を襲撃し住民を皆殺しにする事もあった。

 1948年、ソ連占領下の日本で社会主義政権の日本人民共和国が樹立された。政権を握る日本人民民主党の書記長、小沢(こざわ)健治(けんち)はソ連の傀儡であった。

 事実、幼児趣味であった小沢は、旧華族の見目麗しい女児を与えられ、喜んでロシア人に協力したとソ連側の記録がKGBに残っている。

 当時、匪賊討伐の秋季攻勢として大規模な越境作戦を企図するソ連軍は、男鹿半島正面に大規模な兵力を集結させつつあった。

 この状況で10月31日、六郷、能代の旧軍飛行場を利用する共和国防衛隊に対して、米空母群が空襲を敢行した。

 連合軍より攻撃命令を下達されていた国民義勇戦闘隊は、同日に前進を開始。目的は奥羽本線を東へ打通して、秋田市と能代市を結ぶ線まで進出する事にある。

 日本海は連合軍の庭と化しており、水上艦艇の戦力でもソ連極東艦隊を圧倒していた。その為、能代市に対して米艦隊が艦砲射撃を行い、国民義勇戦闘隊の前進を密接な火力支援で掩護した。

 砲撃に揺れる市内、地下壕で小沢は女児に抱きつき震えていた。

「畜生、畜生!」

 ソ連軍は北へ撤退し、国民義勇戦闘隊が市内に突入し、制圧を始めた。共和国防衛隊も抵抗を行うが、治安維持の軽装備であり、西側から援助を受けた国民義勇戦闘隊に対して装備の面で劣っている。

 国民学校高等科の教諭であった小沢は、閉鎖された田舎で教師の社会的地位と影響力を以て成り上がった。ソ連の後ろ楯が無ければ、今の地位はあり得なかった。

 自分が切り捨てられた事を小沢は勘づいていた。誰が次の傀儡になるにしろ、ソ連にとって利用価値のある者だと言う事だけは理解出来た。

 最期に小沢はコンクリートに押し潰され死亡した。それは戦艦「ミズーリ」「アイオワ」による砲撃だった。

 

 

 

2.祖国統一後の受難

 

 北日本と分断国家となった日本は、同一民族を仮想敵として、血を流す実戦も経験していた。今更、治安出動を躊躇する理由も無かった。

 60年安保闘争で時の総理大臣岸信介が、反社会的勢力である暴力団や右翼に頼る事をよしとせず自衛隊の治安出動を許した結果、自衛隊と警察による鎮圧は多数の死傷者を出した。

 妥協無しに平和は来ない。結果、全学連の過激派やブントのような反政府勢力に対し東側による武器供与で武装闘争を激化させた。

 親米政権が赤化革命によって倒される事をソ連や中共は望んだが、上手くはいかなかった。

 ソ連の衛星国である北の日本だが、民主主義と資本主義を経験していた事で、東側諸国の中では、ドイツ民主共和国に並ぶ豊かな国となったはずだった。

 一方の東京政権が属する西側諸国では、豊かな暮らしで80年代にはゲーム機が爆発的人気を呼び各社が競争する中で、フィリップスのCD-iとセガのスーパー32Xの二強が市場を席捲する90年代、アップルのピピン@が登場しインターネットによる新たな時代を到来させようとしていた。

 東西冷戦は意外な結末を向かえる。ソ連邦の破綻と解体に始まり、北日本で民衆が蜂起し、分断国家であった日本の統一を実現した。

 しかし90年代に発生した第二次関東大震災は、日本の国力の低下、経済破綻させる物となった。首都圏が壊滅したその年、国内では偏向報道によって世論誘導がなされ共産勢力が拡大した。民意の形ではあるが、臨時政府として左翼政権が樹立した事は日米同盟の終焉に繋がり特筆される事件と言えた。

 日本国内では非常事態宣言が発令され、流通は止まり経済は混乱している。

 国民へ現金の給付や企業の経営支援、復興に向けた建て直しが模索される中、最果ての島で戦いがあった。

 沖縄県八重山郡、南西諸島西端に位置する魚釣島。近年、ガス田の存在から領有権を主張する様になった中共の領土的野心に脅かされており、武装侵入の不法上陸と言う侵略行為があった場合、一番に攻められる場所だった。

 現在、島で最高峰の奈良原岳に家屋が存在する。

 島民の小升(こます)雅典(まさのり)は55才になる。世間一般で言えば定年退職でもおかしくない年齢だ。

 そんな小升だが、防災散歩どころか民間防衛隊として平時から沿岸監視に当たっていた。

 小升と同僚の井上(いのうえ)貴四(たかし)、大箸(おおはし)直昭(なおあき)、梅本(うめもと)飽彦(あきひこ)、亀山(かめやま)悠字(ゆうじ)。何れも脛に傷を持つ男達で、刑務所に入れば懲役20年、実刑と引き換えに執行猶予扱いの刑務としてこの島にやって来た。

 離島への島流しは、人の為になる生き方を学ぶ事で、将来どの様に生きていくかを再考させると言う臨床心理学、犯罪心理学に基づく更正プログラムの一環でもある。

(残り一年……)

 5年間の任期を勤め上げれば、退職金を貰って解放される。そう言う契約だった。

(内地に戻ればネット環境も手に入る。そうすればREALITY Avatarでバビ肉になって自己発電で自給自足出来る。完璧だ。完璧すぎて、我ながら怖い)

 警戒すべき中共による侵略だが、示威行為に留まっており、領海侵犯で漁船や艦艇を遊弋させる、航空機を飛ばす等と惰性化しており、小升達も自堕落な島流し生活を過ごしていた。

 魚釣島は傾斜しており、大規模な上陸に適してるとは言えない。しかし少数でも侵入を行おうとするなら、不可能ではなかった。

 敵が初めに投入して来るのは軽装備の小規模な部隊と考えられる。その為、有事の際に敵の着上陸を阻止乃至妨害し遅滞行動を実施すべく、61式戦車から小火器は64式小銃や62式機関銃まで一応の装備は与えられている。

 魚釣島は戦車の運用に適しているとは言えない地勢だったが、高地に砲台代わりとして車体を埋設されていた。

 偽装網の下、戦車の傍らに座り込んだ小升は、遅めの昼食として手羽先の唐揚げと塩ザンギ、オムそばを食べていた。

「少し辛い。塩が多すぎだな」

 この歳になれば健康には気を使う。伊右衛門プラスおいしい糖質対策を毎日、2リットル以上飲んでいる。

 日常生活で消耗する発電機の燃料や食料、細々とした物は毎月一回、連絡船がやって来て運んでくれている。中にはアービーズのサンドイッチ、ネイサンズのホットドッグ、デイリークイーンのアイスクリームもあった。

 とは言えペットボトル飲料と違い、日持ちのしない食材を使った温食は数える程しか出ない。倉庫には保存食として袋麺のチャパゲティやノグリが備蓄されている。

 腹が満たされれば、後は睡眠か性欲が求められる。小升はお気に入りのジュニアアイドルの着エロをおかずに一発抜く事を考えていた。

 貴重な娯楽でもある食事に舌鼓を打っていると、歩哨に着いていた井上が報告して来た。

「小升さん、船がやって来ますよ」

「うん?」

 井上は49才。まだ精力も体力も旺盛で、小升の性癖とも合う男だ。小升より若い分だけ、視力も良い。

 小型の漁船だ。最近ではスウェーデンのCBJテックの開発した6.5×25ミリ弾を使用する協力なPDWまで装備する姿も見受けられており、準軍事組織の海上民兵によるPOSOWの脅威と言う事前説明は受けていたが、やはり見た目が漁船では警戒心も薄い。

 1987年の三七事件に於いて、台湾の小金門島でベトナム難民の船を金門防衛司令部隷下、歩兵第158師が撃沈した時は世間から虐殺だと叩かれた事も影響している。

 即応体制の維持とは言いながらも、大陸の中共軍と直接戦った台湾の国府軍と状況が異なり、これまでに違法操業程度は目こぼしもしていた。

 本来なら警戒しておくべき事だが、戦車の砲口は漁船に向けられていない。自衛隊と違い戦技競技会も無いので、島に来てからは射撃予習もやってない。

「あっ」

 ばらばらと上陸して来た男達は4名1組の3個組を最小単位として、小銃や軽機関銃で武装している。小升の目から見て、各々の組動作から漁民ではなく訓練された兵士の動きだった。事実、敵の装備している95式小銃や88式狙撃銃は、漁民が使い捨てるには高級品と言えた。

 井上と同い年な大箸は、49才にしては俊敏な動きで無線機に飛びついたが、泣きそうな顔で小升に報告する。石垣島や沖縄本島と通信が途絶していたのだ。

「糞、やるしかないのか」

 外からの応援はあてに出来ない。出入国法違反の現行犯だが逮捕以前に、抵抗が予想される。相手は自分達を殺しにかかって来ている。ここは自分達だけで対処するしかない。

 戦車には対人、対舟艇用に榴弾(HE)が用意されていた。

「訓練通りに殺れば良いんだ」

 相手はUAVを飛ばして上空から情報を得ようとしている。だが幸いにしてまだ気づかれてはいない。小升の言葉に全員、殺し合いを覚悟した。

 給料を貰うんだから真面目にやる。

「戦車が動けばバレる。一気に殺るぞ」

 死が近付くと生物は子孫を残そうとする例にもれず、小升は悔いを残して死にたく無かった。生きて帰ったら逮捕されても良いから、少女に小遣いを渡してスクール水着やブルマ、制服姿でプレイするんだと決意した。

「戦闘用意」

 しかし漁船にはユーゴスラビアでT-72戦車を屠った紅箭8(レッドアロー)対戦車ミサイルのL型が用意されていた。

 UAVは隠蔽、偽装されていた日本側陣地を発見する。

 毎秒200メートルで飛翔するレッドアローは、T-72戦車よりも装甲の薄い61式戦車相手なら朝飯前の楽勝であり、屑鉄に変えてしまった。

 遮蔽物で芋るとかの話以前で、操縦手の亀山が運転始めでエンジン始動させた瞬間、ミサイルを撃ち込まれ戦車は文字通り鉄の棺桶になった。乗車していた亀山と砲手の梅本、装填手の大箸が昇天した。

 敵を倒した後で文書類を回収、校合・精査して状況報告する事を小升は考えていたが、全て頭から吹き飛んだ。

 小升は井上と顔を見合わせる。二人だけになってしまった。

 交互躍進で登って来る敵兵に視線を戻すと、「ヤベエ空気だ」と判断した。怖いと言う感情が湧き出した。足がプルプル震えた。よし戦おうとか絡めない以上、銃を放り出してその場から脱兎のごとく逃げ出した。

 隣で仲間が倒れ様と、どんな事があっても心を平常に、無に保つ事が出来ないと戦えない。

 口から荒い息を吐いてる姿はパンティングで、文字通り尻尾を丸めて逃げる負け犬だった。

 

 

エピローグ

 

 その後、小升と井上は射殺された。ブラックモンブランを差し出し命乞いをしても、おかしい奴は分かる。脛に傷がありやましい奴はおかしい雰囲気を漂わせている。こいつはヤバイと分かり、下らんポエムを聴かせるなと切り捨てられた。

 中共政府は、日本へ批難声明を発信、東海艦隊が日本の排他的経済水域(EEZ)に近付いた。元寇の時とは違い神風は吹かず、火災を起こした独島や沈没したブエン・ビエント号の様な事故も東海艦隊に起きなかった。

 国会審議をボイコットして長い休みを取っていた事で震災を免れ、出席していた事で全滅した与党議員に代わり政権を獲た野党第一党の日本人民革命党ではあったが、こう言った状況下で危機対処能力が足りない事は否めない事実だった。

 報告するのは臨時に統合幕僚会議議長を代行してる中部方面総監の陸将で、防衛大臣に代わり呼び出されていた。今必要なのは、たまたま大臣の椅子が転がり込んで来た者よりも、プロの助言だからだ。

「向こうは強気ですね。武装警察の海警ではなく、いきなり海軍を出して来たのは本気だと言うアピールとも言えます。南京軍区では大規模な部隊の移動があり、ロケット軍、空軍を含めた演習名目の動員が行われておりました」

 事件は『漁民を攻撃したテロリストの排除』を口実にする先制攻撃シナリオのフェイズ1と言える。

 日頃から売国奴扱いの政党なので、政権を握ったこの機会に「あいつ嫌いなんで殺しておきます」とばかりに自衛隊の縮小と解体を計画しつつあった事から、嫌味の一つも言いたくなったが場は弁えている。組織としては苛められてきな臭くても、私情を抑えて事実のみを語った。

「中国の一方的な主張は認められない。アメリカはどうなんだ。こう言う時の為の安保だろう」

 中韓寄りの政党とは言え、さすがに国家としての主権が脅かされてる以上は、総理に就任した老人も国益を優先するだけの思考力を持っていた。

「総理、アフガニスタンやイラクで痛手を負って、疲弊しながらも中東に派兵をしてるアメリカに、極東で新しい戦争をする余裕はありません。安保の脆弱性は以前から指摘されていた事です」

 彼我の戦力差は隔絶しており、人民解放軍(PLA)が介入して来た場合、渡洋能力は数個師団規模あり、幾ら自衛隊でも沿海部で海上戦力を撃退、侵攻意図を阻止する事は難しい。

 結果、強気の中共軍は与那国島を電撃的に占領。同時に八重山諸島のほぼ中間である西表島に大規模な兵力を展開させ、黒島、小浜島以西は敵の制圧下に入った。

 石垣市から10㎞程しか離れていない近場に敵が進出した事実に南西諸島を管轄する西部方面隊は動けなかった。それ以外にも国内には西のシンパである共匪が策動しており、叛徒やシンパに煽動された不純分子による暴動があった。それらの討伐に警察と自衛隊は駆り出され、治安は回復しつつあるが人手や装備が足りない。

 戦後の調査では、共産赤色分子である武装ゲリラ、約6万人が日本国内に侵入しており、破壊活動を行い中共軍の進攻を助けたと判明している。

 現政権は動かない。動くなと言われており、手足を縛られた状態では満足に戦えない。

 沖縄の第15旅団は島嶼防衛が目的であり、本土の部隊に比べて戦車や火砲等の総合的な火力指数で劣っていた。

 開戦となった現状、最前線である竹富島は石垣島防衛の要となる。大岳(うふだき)を中心にその防御は固められていた。

 一方、攻撃側にしてみれば珊瑚礁と隠顕岩に囲まれた地形上の制約から、竹富東港を選ぶしかない。都合の良い想定でしかないが、旅団はこの敵情判断から第51普通科連隊を竹富島に配置していた。

 しかし蓋を開けてみれば、中共軍は石垣空港に部隊を空輸して来て、抵抗する間も無く一気に石垣市を陥落させ、石垣港から増援を送り込んできた。

 これに対して旅団は、前勢岳~バンナ岳の線で防御を行うが、96式戦車を先頭に攻撃前進する敵の兵力、火力との差が大きく耐えきれずに後退、於茂登(おもと)岳~野底岳の北部山岳地域に防御線を張り、同盟国からの援助を受けながら反撃の好機を待った。

 敵は石垣島南部の日本軍を駆逐すると、同盟国が軍事介入して来る前に日本軍の主力を撃滅すべく、主攻を於茂登岳に向けた。

 敵の攻撃企図に対して、正面の嵩田山で防御戦闘を行い、幾度も敵の攻撃を破砕し反攻準備の時間を稼いだのが第52普通科連隊戦闘団であった。

 嵩田山一帯の山陵は名蔵ダムに背中を守られると言う有利な地形であったが、52iは中共との緊張状態が高まっていた時期に新設された連隊で、4個中隊基幹で特科、施設科を伴わず、これに友軍を収容して編組した混成大隊から戦闘団を構成していた。この時、△202、△189、△200に陣地占領しており、防御正面は2㎞であった。

 開得に進出した敵は1個大隊で、左第一線の△200山頂を奪取すべく斜面を登り攻撃して来たが、地形を利用し配置された機関銃と迫撃砲の火網に、あたおかにも飛び込み撃退された。

 後続部隊は到着後、UAVによる偵察を行い、加えて05式自走迫撃砲が攻撃準備射撃を行った。堅固な陣地が築かれている訳でもなく、これで簡単に占領できると考えられた。

 攻撃方向を一方向と誤認させて、同時にZ-19攻撃ヘリコプターの対地支援で、△202にも攻撃を開始した。△200に集中していた戦闘団の抵抗は弱く、4中隊の守る△202は比較的容易に奪取されてしまった。そこで52i長は予備隊の混成大隊を投入、夜間の奇襲で奪還した。

 こうして第一日目の戦闘は、死屍累々と横たわり文字通り屍山血河となった。△200の戦いは流血で彩られた事から、「地雷メイク高地の戦闘」と呼ばれる事となる。

 そもそも戦争になると言うだけで経済的損失も計り知れない物となる。リスクの高さから、低強度紛争の段階で事件を収めたい日本政府は、ここまで攻められておきながら自衛隊の正式な防衛出動を躊躇った。

「何て様だ……」

 若い頃は反政府活動の闘士だった老人だが、総理の椅子に座った事を後悔した。弱い国は強い国に従うしかない。それが現実だ。

 なんやかんやあって尖閣諸島は割譲され政府は隠蔽を図ったが、ストライサンド効果で拡散され、反政府デモや在日中国大使館へ火炎瓶投石などが発生し内閣総辞職となった。

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