1.潜伏
現代ではロリコンやペドの性犯罪者であっても、平均寿命の低い戦国時代では女性の成熟も早く子をなす事が出来た。子を産み、家を残す事こそ女性の務めであった。
天正5年、織田家の勢力は畿内を制し、所領は538万石。動員出来る兵力は13万人以上と算定される。
対するは中国の雄、毛利家で、12州87万石。兵力は4万6千人程度。
一見して、毛利家が織田家に対して劣勢だが、織田家が13万人を動員すれば人的資源が枯渇するよりも前に、領内の経済が破綻する。更に織田家は武田、上杉との戦い、大和の信貴城城主松永久秀の叛乱等と内外への対応で忙しく動き続けていた。
つまり中国方面に投入出来る兵力は限られていた。
平伏する秀吉の前で、ピイピイと鳴くペンギンに魚を与え終えた信長は口を開いた。
「禿鼠、行ってこい」
天正5年10月、信長は山陽道諸州の攻略を羽柴秀吉に命じる。信長はクレバーで命じるだけだが、命じられた秀吉は結果を出さねばならない。貧乏人の小倅が出世するには結果が全てだった。
23日、秀吉は兵を率いて安土を出立し、リビドーを抑える事は出来ず京で一泊をした後に播磨に入った。秀吉が無類の女好きであった事は、京極竜子や多くの側室を作った事実からも知られており京で何も無かったとは言え無い。それも秀吉自身に女性から、この人の側に居たいと思わせる甲斐性があったからだ。
播磨の西部五郡は毛利方の宇喜多直家が浸食し、小豪族は織田と毛利の間で臣従する程付き合ってはいないが遊びでもないと言う宙ぶらりんな外交状態で揺れ動いていた。
軍事的センスを持っていた秀吉は、いきなり攻めると言う馬鹿丸出しな策と言うのも烏滸がましい真似はせず、姫路城に本営を定め敵情の把握に努めたのも当然である。秀吉は宣撫工作に努め傘下を増やした。
11月27日、秀吉は佐用郡上月村に前進、上月城を攻撃した。十分に準備された攻撃計画であり、秀吉は敵の応援が来る事も承知していた。
29日には敵の応援を撃退し、12月4日には上月城を陥落させた。軍勢は勢いに乗り、福岡野城を攻め抜き、秀吉は安土に戦勝報告で戻った。SkypeやDiscordはおろかTeamSpeakさえも存在しない時代は、使者を送ったり直接対面か文を出すしか連絡方法が無かったので仕方がない。
「毛利は如何した」
「彼奴らが動くのは卯月頃になるかと」
織田家の軍事攻勢に対して毛利家は、要点である上月城攻略を決意、3万5千人の動員を開始した。
その間、播磨の領主に補された秀吉は7500の兵を率いて播磨の加古川城に入った。その秀吉の下に、織田家の勢いを見て地元の有力者達が挨拶に来た。
2月、播磨に戻った秀吉から別所長治、三木城城主はこの戦で先鋒を命じられた。
「羽柴は我等を小間使いと侮って使い潰す腹積もりでおるのか!」
長治は説得を試みたが相手にされず、秀吉は笑った。秀吉にしてみれば、威圧的嫌がらせをした訳でも、説明が下手だった訳でもない。天然と言うか悪い事をしてる自覚が無く、笑い話としてスルーしただけだが、頭は沸いている。
しかし距離感には隔たりがあり、長治は憤激し一門衆も同調、毛利に旗色を変えた。秀吉は長治の面子を立てて頭を下げる。それだけで良かったのだ。誇りを守るために戦う。これも一つの生き方だ。
三木城は、毛利攻めを行う織田軍の後方連絡線を遮断するには最適の緊要地であり秀吉側には衝撃的だった。
刃を向けて来ており、構ってくれないと拗ねちゃうぞと言う可愛い話では無い。
別れる時は面倒臭い。足下に火が燻っている事に気付いた秀吉は、別所の領内に火を放ち攻撃を開始した。長治が先に攻撃して来たと捏造した上での討伐だった。
秀吉の攻撃計画は簡単明瞭、三木城の支城を先に落とし兵糧攻めを行うと言う物だった。その為に、野口城、淡河城、高砂城等を攻略する。
遅かれ早かれ別所の謀叛は信長の知る所となる。そうなれば、それはそれで若手に経験を積ませる機会だ。織田家の次代を担う信忠を播磨入りさせる事は自明の理であった。
秀吉は、百姓の小倅から城持ち領地持ちに引き上げてくれた信長を尊敬し織田家に忠を尽くしており、次代の惣領たる信忠の花道を作るのは、羽柴家の栄達に繋がると判断した。
織田の軍勢が行軍している。若い者は出世を夢見ているが、年配者は生きる事を考えていた。彼らの会話は家に帰って女房を抱くか、若い娘を嫁に貰うと言う女の話だ。子孫を作り家を残す事は、生物の本能として優先順位が高い。戦になれば近くの木陰に幼女を連れ込んで一発こます事もあった。
先手を命じられたのは秀吉の異父弟である秀長であった。秀長の隊は、加藤光泰、堀秀政、他2隊で編組されている。
「親父殿」
「何だ、気負っておるのか」
秀吉の士、蜂須賀彦右衛門正勝は57になる。子の家政は18。自分の仕える小男は41。
天下が織田家の下で一つになれば、これから戦で出世する機会が減るかもしれない。野武士の出である正勝にとって政はノータッチの領域であり、政争に巻き込まれても戦と違い器用に立ち回る自信がなかった。
「よくは分かりません」
「分からぬ事は怖い。それで用心深くなるなら構わん」
憮然とする我が子の頭に手を伸ばすと、子供扱いを嫌がり乱暴に退けられた。
正勝は吹き出し、家政は僅かに顔をしかめた。
若者には経験が必要だった。正勝は、三木城攻めに当たり手頃な農民を拐って宛がう事を考えていた。
戦で女児を抱けば一端の武士として目覚める。勝ち戦には女運も求められる。引き出しは増やした方が良いと、ロリコンも時代が許していた。センシティブなコンテンツではなかったのだ。
2.増加
2-1)関東軍の罪
日本民族は太古から、
そんな大日本帝国は、アジアの市場を狙う英米やソ連に睨まれ押さえつけられていた。その上、支那人を煽って日本を疲弊させた。さらにイギリスはシンガポールに要塞を築き、そこを足がかりに日本を攻めようとしている。
国家存亡の危急に際して日本人は期せずして、一つの合言葉に堅く結ばれていた。「靖国神社で会おう」なのだ! これ程強く美しい愛国の精神溢れた言葉は無い。
しかし負ければそれは軍国主義の産物で切り捨てられる。
日露戦役以来、日本の敵は常に北の大国であった。満州事変勃発前は南満鉄道沿線に1個師団と1個独立守備隊(6個大隊)とを駐屯させていた日本の関東軍だが、その後、陰でコソコソ動きおこがましい事に傀儡国家の満州帝国を設立。昭和7年日8月15日に成立した日満議定書によって、日本軍が満州の防衛を実質的に担当する事になり、おとがめを受ける事無く関東軍の兵力は逐次増強されていった。
10月18日には、張学良が萬福麟を熱河省主席とし、熱河省を根拠地とすべく、湯玉麟討伐を決意。王以哲、朱慶瀾を派遣。兵匪は開魯方面より侵攻開始した。
帝国は満洲国政府の要請に基き、熱河省の匪賊討伐を検討開始する。
23日、国民政府は、湖北省で共匪により35万人が虐殺されたと発表。共匪は動乱に乗じて、福建省に侵攻。24日に建寧、泰寧を占領し、29日には福州方面に前進した。
国民政府外交委員会に帝国は、日支紛争解決討議の基礎として日貨排斥の撤回、排日行動取締の要請と共匪討伐の協力を申し入れ、11月3日、蒋中正は12月15日までの剿滅赤匪と徹底を討伐軍に命じた。
24日、我が皇軍は、撫順附近平項山一帯で、共匪2700人を掃討。29日には、北満の蘇炳文叛軍に対して討伐を開始した。
12月3日、我が皇軍は興安嶺を突破、ブヘトを占拠。海拉爾の蘇炳文は同地を脱出する。
4日には、蘇炳文、張殿九の賊軍を撃破した我軍が海拉爾に迫った。蘇炳文、張殿九等は夜半の内に満洲里より鉄道で露領に逃亡。現地で武装解除された。我軍は6日、満洲里に入城せり。
17日、山海關を中心に北支一帯の支那軍は戦備を整え、獨立歩兵第9旅旅長何柱國に不穏な兆候を確認。
23日、張学良は湯玉麟に積極的な抗日を命じ、100万元の資金援助を約束した。これを受け湯玉麟は、26日に熱河省から満洲国への阿片及び高粱の輸出を禁止、朝陽北票の戦備を固めた。
31日、張学良は自重を求める南京政府に服従せず、河北抗日軍事総司令官を僭称。長城以西の支那軍、義勇軍の統制が取れない以上、国民政府は地方で解決すべく交渉の結果、我皇軍が問題解決の為に熱河省に於いて匪賊討伐を行う事を看過、黙認する事に同意した。
これにより関東軍司令部内で画策されていた熱河省を満洲国に含む熱河作戦の一部に修正が行われ、状況回復後の即時撤兵が決定された。
昭和8年元旦は日曜日だった。午後9時半、満洲国国境警察隊が射撃を受け、山海關城内の我憲兵分遣所に手榴弾2個が投擲される事件が発生。支那駐屯軍司令官中村孝太郎中将(士候13期・陸大21期)は「零下20度、30度の大吹雪の中、誰が好き好んで外に出たいと思うんだ。ジンギスカン料理を食ってる方がましだ」と支那側に抗議。
2日、山海關では何柱國より装備、弾薬を受領した鄭桂林の兵匪は、皇軍を襲撃するが一筋縄ではいかない。
事態に対して8D長は14Bを救援に派遣、鈴木少将は31iを指揮し救援に向かった。我5iの獨立守備隊は果敢に立ち向かい南門を占拠。3日午前10時から戦闘開始し午後2時には山海關一帯を占拠し、10日には8K主力、5i、32iと協力し九門を占領し同方面の治安を回復した。
関東軍司令部は満洲国軍と、緊密なる連絡を取り、準備に着手しつつあった。
2月5日日曜日、兵匪3千が熱河省に侵入した事を確認。中旬には熱河省の兵匪が、正規軍が歩兵4個旅、騎兵3個旅、5個師で義勇軍と合わせて約13萬5千人の大軍に膨れ上がっていた。
13日月曜日、8D長一行が襲撃され副官野村大尉が戦死した。
「諸君、いよいよ熱河省の屑どもを討伐する時が来た。奴らは皇軍が精強な事を知らない。しょせん烏合の衆だ。我軍の武威の下にひれ伏する事になるだろう。刃向かう奴らは容赦無く排除しろ」
事態に対して満洲国討熱軍総司令部が設置され、関東軍司令部は各部隊に命令下達した。
これにより、通遼より坂本政右衛門中将(士候11期・陸大23期)の6D、錦州より西義一中将(士候10期・陸大21期)の8D、綏中より服部兵次郎少将(士候15期・陸大27期)の14MBと中村馨少将(士候14期)の33MBが動き出した。
支那情勢は地政学的リスクとなり、金本位停止、金輸出禁止等を経てニューヨークもロンドンも市場では債券が大幅な値崩れを起こした。
敵の抵抗は貧弱であったが、皇軍の行軍を阻害したのは気象と地形だった。
熱河省が険峻な山岳地帯と砂漠地帯からなる激寒、酷暑の地である。
8Dの先遣隊である16B長川原侃少将(士候13期)率いる川原挺身隊には、久留米第1戦車隊と歩兵學校教導隊戦車隊で編成された臨時派遣第1戦車隊が先鋒として配属されていた。
百武俊吉大尉(陸士33期)の指揮で、朝陽から西南の凌源に攻撃前進開始した。
河原挺身隊は、14MBと共に凌源を挟撃する。進撃に際し交通網は整備されておらず、雪の砂漠で水はなく、補給は困難を極め、更に凍傷により少なからぬ落伍者が発生した。
3月2日、赤峰を占領した頃、河原挺身隊は朝陽手前の部落、葉柏壽を占領。戦車は敵中突破で、更に平泉、首都承徳へと猛進撃した。
河原挺身隊は9日、長山峪附近の戦闘で敵匪の逆襲に遭遇。元々、砲兵出身であった藤田雄蔵大尉(士候33期)の近接航空支援により苦境を抜けるが、10日前後には長城線を占領して熱河省の掃討粛清を終った。
反満勢力が一掃された事より、支那情勢は沈静化の様相を見せた。
しかし関東軍司令部は魔物に取り憑かれていた。皇軍に長城を越えさせたのである。
帝国政府と国民政府が講和の道を模索する中、軍の暴走は止む事がなかった。
昭和12年11月から中央統帥部は南支作戦を研究し、12月には台湾軍司令官古荘幹郎中将(陸士14期、陸大21期首席)を軍司令官に、第5軍を編成して
「廣東及び英領香港は援蒋補給路の源泉地であり、南支那に於ける重要な策源地だ。事実、廣九鉄道で結ばれた補給路は支那軍を支えている状態だ。だが大陸の沿岸部を全て占領したとしても、ビルマ方面から支援が絶える事はない。厄介な事だ」
その後、武漢三鎮の攻略に大陸の我軍が総力を挙げ動きつつ有る中、昭和13年9月7日、大本営御前会議於いて支那軍の南方輸血路である軍需品補給路を遮断し、抗日策謀の重要拠点を覆滅すべく廣東作戦を決定した。
「敵、国民革命軍は、ご存知の通り中央軍以外に地方軍閥の私兵が存在しており、地方軍は師、旅、團、營、連、排の編制区分はあっても充足率はバラバラです。当面の戦場に対して敵兵力の見積は、第4戦区の
「漢口に我軍が迫り、応援として廣東から部隊を抽出して派遣されたか」
実際、余漢謀上将麾下の第12集団軍が展開していた。
これに対し皇軍は第21軍司令部が動員され、軍司令官には台湾軍司令官古荘幹郎中将が再度任命され、19日には大陸令第201号で第21軍の戦闘序列と攻略命令が下令された。
渡洋上陸作戦に当たって、陸海軍協定により海軍は航空戦隊2個を中核とする第5艦隊と基地航空隊2個を投入。
軍主力を運ぶ第一次輸送梯団は香港の50km北東にある
10月12日未明、我陸海軍の精鋭部隊は、廣東作戦陸海軍協定と廣東作戦要綱に基づき、正面の亜鈴湾、澳頭港、岩前港、下涌圩に18D(歩兵2大隊欠、MG2大隊、LP・WS2中隊、BA1連隊、LM1大隊、M1大隊)、一部/5Dの及川支隊(歩兵3大隊、LP・WS1中隊、BA1中隊)は塩灶背に、東方平海半島へ104D(歩兵2大隊、MG1大隊、A1大隊、BA1大隊、LM1中隊)が奇襲上陸を敢行。
同日夕刻迄に、海岸から20km進出し、13日正午には淡水南北の線に達した。
海軍陸戦隊は、亜鈴湾北岸と南岸の拝牙山砲台に上陸し占領した。難関を制覇してこそ日本男児の本懐である
その後上陸部隊は、15日に独立混成第20旅の守る恵州のトーチカ陣地群を突破、16日に博羅縣城を占領、廣九鉄道を遮断。21日午後3時には要塞化された複廓陣地を突破して廣東市に入城した。
「閣下、おめでとうございます」
「ありがとう。皆の献身的奮闘あればこその成果だ」
これで面目も立つと古荘中将は笑顔で感謝した。
「次は何処に行かされるのだろうな」
大本営は廣東占領後、1個師団を北支に転用、代わりに1個混成旅団を配属した。
一先ず、南は制した。次は北の番だった。
従来、日本軍の対ソ作戦は、兵力で優勢なソ連軍を南満州に於いて撃退すると言う内線作戦で主導を得るで物あったが、組織は時代に適応すべく進化していく。満州を手に入れた事で積極的な攻勢作戦を執るに至った。
昭和15年、満州方面の予想戦場に即応すべく関東軍鉄道隊司令部が設置された。広大なソ連領内侵攻時には鉄道が兵站を支える力となるからだ。同司令部は鉄道連隊を指揮し、軍用機関車式軽便鉄道(軌間60糎)及普通鉄道の建設、運転、補修、改築等を行う事を任務としている。
装備を定め編成を企図したが、平均的1個師団の輸送量は約32個列車で、(甲車輛編制35個列車、甲駄馬編制37個列車、乙車輛編制30個列車、丙車輛編制28個列車)軍直属部隊を併せると1個師団あたりの所要列車数は約2倍とされていた。
昭和16年6月6日、駐独の大島大使より独ソ開戦の兆候が報告された。日本の敵は日露戦役以来、北の露助であったが、陸軍省軍務局軍務課長の兆候佐藤賢了少将(陸士29期、陸大37期)は対ソ戦参加より南進論を唱えていた。
22日の独ソ開戦に伴い世界情勢が急変した。
松岡洋右外相は参内し、御上に対ソ参戦を私見として上奏した。
陸軍内部でこの好機に乗じるべしと言う意見も溢れた。参謀総長杉山元大将(陸士12期、陸大22期)、参謀本部第一部部長田中新一少将(陸士25期、陸大35期)、第二部ロシア課課長磯村武亮大佐(陸士30期、陸大39期首席)、第二部謀略課課長唐川安夫中佐(陸士29期、陸大39期)、第二部欧米課課長天野正一大佐(陸士32期、陸大43期首席)も賛成派であったが、陸相東條英機中将(陸士17期、陸大27期)は時期尚早と木戸内府に反対を表明しており、軍務局軍事課長の真田穣一郎大佐(陸士31期、陸大39期)は独ソ開戦は愚かだと断じている。
独ソ戦に便乗して関東軍司令部は、ソ連領内に侵攻し極東を切り取ろうとした。鉄道隊も命令受領後、12時間以内に出動準備を完了。満鉄も野戦鉄道司令部指導の下で鉄道動員された。
関東軍小演習(関小演)は関東軍特別演習(関特演)よりも戦場を限定し、頑強な抵抗が予想される黒竜、大興安嶺方面を選択肢から外した事がこの計画の肝だった。
先ず関東軍隷下部隊から抽出した支隊が、満州と朝鮮北東部に接する
実質的な初動部隊は1個師団。支那軍がチョロかった経験から、満州事変や北支那事変同様に既成事実さえ積み上げれば、後はどうにでもなると判断したのも仕方がない。しかし事前の根回しは失敗、陸軍中央統帥部も支那方面軍司令部も協力を拒否した。
「ソ連よりも支那問題の解決や対南方施策が優先される。英米蘭の態度を見る限り、ソ連と事を構えれば帝国に宣戦布告さえして来るだろう」
厨二病を見るかの様な痛々しい、居たたまれない視線を向けてくる。
「そうか」
ソ連軍相手に直接、ボコしたいけど物理的にぶん殴る行為を止めるよう、遠回しではなく理由を確りと説明してくれた。
「米国は特にそうなる。英国が参戦させようとしてるからな。日本がどう動こうと、そう言う事だ」
まあそれはそうだ。北進か南進で意見は分かれており、趣味嗜好はあるので否定する気はない。そんな感じで関東軍司令部にも、帝国は北辺の安定を確保すべきだと言う考え方があった。
脈無しボンバーで、内地や支那方面から応援を得られなくても、それでもやるべきだと言う事で、関東軍司令部は6月28日、在満師団の動員を決定した。
在満の師団は、第1、第8~12、第14、第23~25、第28、29の12個師団。在鮮の第19、20師団を合わせても14個師団。戦場を限定した攻勢には十分だと考えられた。
関小演に於ける作戦第一期の兵力は、第3軍(河辺正三中将)が第8、9、12師団、第4軍(横山勇中将)が第1師団、第5軍(飯村穣中将)が第11、24、25師団、第6軍(喜多誠一中将)が第23師団、直轄部隊に第10、14、28、29師団を基幹とする部隊で、独立守備隊や国境守備隊が配属されている。
開戦に当たって関東軍は昭和16年度帝国陸軍作戦計画要領に従い、東方面の決戦に向けて第一方面軍を編組された。
7月2日帝国の処置を巡る御前会議で、近衛文麿首相と松岡外相は大激論を行い、御上の聖断をいただき情勢の推移に伴う国策要綱が決定された。
しかし現地では国境の要地を確保。第2
7月3日、事態の全容が参謀本部に届いた時には事が起きた後だった。二日目にして興凱湖の西に兵を進め、既に一部はウスリー河を越えてイマンに到達していた。
「関東軍は近々、極東ソ連を席巻しソ連軍の戦力を駆逐すると思っております。なぜなら昨日、関東軍は東方面に於ける作戦を開始しましたが、第二期作戦を待つまでもありませんでした。第一方面軍はイマン付近に到達したとの事です」
浅慮で楽観的なのか、反応を見る様にいかがですか、本当に凄いですよねと付け加える勢いだ。
「何の事だ?」報告を受けた御上はピンと来なかった。
帝国は独ソ開戦により極東ソ連軍弱体化を期待したが、依然として30個師団、戦車2300輛、航空機1700機の兵力を擁し、戦況の推移は独軍優勢と行かず予断を許さぬ物があった。
「軍を動かしました。作戦の主導性は関東軍司令部が責任を持っており、我々は中央統帥部のどの部署よりも現地情勢を熟知しております。優れた分析、判断能力を持っている上に、支那やソ連の将帥が指揮する兵に比べて、関東軍の指揮統帥は現実に則しております。だから勝ち続けられるのだと思います」
つまりは何が言いたいかと言うと、日ソ開戦だけどセーフだよねと言う話だ。梅津大将からの報告に、「わー凄い」と滅茶苦茶テンション高い返事が返って来る事はなく、東條首相は卒倒しかけた。
彼我の兵力は、北正面より東正面に集中しているとの情報もあった。下手をしたら初手で負けていたのだ。
満州事変で関東軍の影響力が急拡大した為、陸軍中央統帥部は関東軍の独断行動を黙認してしまい、職員に対する法令や規則順守の精神教育不足が露呈した。その上、関東軍に対して何の抑制もしないまま放置した結果、チャハル作戦の追認やノモンハン事変を引き起こした。そしてTPOとマナーを弁えない関東軍の暴走で発生したのが今回の開戦報告だった。
ただでさえ満州事変を拡大させた板垣征四郎、気違い扱いの石原莞爾や熱河作戦の武藤信義、ノモンハン事件の植田謙吉と言った国策や方向性をコントロールしようとする過激派は一定数いる。
「支那相手の戦ですら何年続かせている。支那よりも大きいソ連相手の戦では兵が幾らあっても足りないのではないか。戦はいつ終わる? 言った事、やった事も忘れる程に陸軍は鳥頭か。聞いておるのか、東條?」
「申し訳ありません」
流されるまま、どっち付かず。滅茶滅茶優柔不断と思われていた御上だが、やはり鶴の一声は大きい。
躾の悪い飼い犬が他人に噛みついた場合、飼い主には責任がある。
苛つきはパワーを呼ぶ原動力となる。調子こくんじゃないぞと御上の怒りは激しく、東條は助走を付けて殴られた気分だった。実際問題として、支那の排日排日貨は、遡れば明治41年の辰丸事件からになるわけで、そうは言われても困ってしまう。
首相として留任されたが、兼任していた陸相の務めは果たせていないとして職を解かれ、代わりに多田駿が現役召集され陸相に赴任した。
実質的に陸軍統帥部のトップであった杉山参謀総長は御前会議を待たず解任。参謀総長には軍事参議官であった西尾寿造が任命された。
海軍は対米戦こそ本番と考えており、対ソ開戦では活躍出来ない事から非協力的で、陸軍の内輪揉めも冷ややかに静観していたが、第21戦隊「木曾」「多摩」、特設水上機母艦「君川丸」、水雷艇「鳩」「鷺」と言う限定的な戦力で第5艦隊を編成し日本海を警戒した。
自決は許されず、杉山は第一線の指揮官として賊軍討伐を命じられた。
参謀次長が新京の関東軍司令部に大陸命として事件の拡大する事無く、速やかに原駐屯地に帰還すべしと命令した。しかし関東軍司令官は大命を拝受するどころか、打算を超越してソ連を討つべきだと変電したからだ。
攻勢作戦を中止すると返電が無い以上、討つしかない。無茶振りではない。死んでこいと言う実質的な命令があった。
対米交渉の方針を巡り政府・大本営連絡会議が開かれたが、こうなっては仏印進駐等と悠長な事をやってる暇はなかった。参謀本部の検討では、満州国軍はほとんど戦力はなく、関東軍の主力も対ソ戦に動員されている為、朝鮮軍や支那方面軍に備えて2~3個師団程度が張り付いて居る物だと見なし、朝鮮から吉林方面に4個師団(内地からは第2、16、55、56師団)基幹の第25軍を、北支から熱河方面に主力9個師団(支那からは近衛師団、第4、5、18、21、33、38、48、104師団)と第19混成旅団が基幹の第23軍を使用する事が考えられた。
7月5日、陸海軍中央協定を作成。討伐計画の上奏を終えると同時に、南支那方面軍戦闘序列を解き征討軍戦闘序列が令された。
ソ連通で参謀次長でもあった沢田茂中将は、征討軍司令官に任じられた杉山の参謀長として同行した。関東軍解体後の対ソ処理の交渉全般を行う為だ。
驚いたのは関東軍司令部も同様であった。まだ行ける、まだ行けると、ハバロフスク攻略を目前にして浮かれていた戦勝気分が吹き飛んだ。ショックで、緊張してマジで吐きそうだった。
「は、何なんだてめぇ? お前、ここで止める何て正気か? てめぇみてえな屑が! 言ってろ、弱腰の糞が!」一人がそう言うと、侵略を始めた意識が低く盗人猛々しい事に皆が同調した。
「おい、言い方!」
御上が義挙を認めぬはずが無い。君側の奸を討てと言う言葉も聞かれた。賊軍とされた関東軍だが、錦の御旗があれば幕府諸藩が降った明治維新とは違う。天皇と言う存在をイマジナリーフレンドの様に自分の中で理想化し、征討軍を奸賊の傀儡軍と見なして抵抗した。
「我々に出来る事と言ったら一戦交えて本気だと伝える事だ」
誹謗、中傷の話が出回り過ぎている。血を流さずに済ませる事は難しい。無抵抗で逮捕される気も無かった。
ウザいリプライを都合よくブロックする感覚と同じで、社会にムカついた時は叛乱を起こして正当性を認めさせるデッキが一番効く。
当然、陸軍統帥部は慌てて止めようとして来る。
「敵軍の鴨緑江渡河を阻止し朝鮮以北への前進を阻止すべし。鴨緑江対岸の敵は、我に対し三倍の優勢を以て攻撃をして来る物と判断し、満州国陸軍の一部を以て持久を図る物とする」
満州国陸軍は帝国国防の補助的要素であり、兵力は必要最小限に止められていた。その為、戦車、重砲、飛行機はいらないと言うのが日本軍顧問の判断だった事から、脅威とは見なされてなかった。
現実には予想以上で、関東軍司令部のデッキは整えられていた。軍政部大臣を通して各軍管区司令官、警備司令官に指示が下され、満州国軍が動いていた。
鴨緑江は日清、日露の戦役でも戦場となった事からも、彼我にとっての要地と言えた。主力が東に居る今、関東軍の穴を埋める様に、第一線の鴨緑江に第1、7
1MBは歩兵第1、2
満州と接する駐蒙軍、北支方面軍、朝鮮軍は警戒を高める一方で、7月19日に賊軍討伐の命令が発せられ、23日「在満部隊の武装解除に進駐す」べき命令が発せられた。
全肯定する程、軍も阿呆ではなかった。28日に内地の部隊が釜山に上陸し吉林省を目指し、30日には支那方面から転用された主力が熱河省に向かい移動開始した。
皇軍相撃つと言う状況で、「関係性や情もあるが、怒る時に怒れないと本人の為にならない」と軍司令官は決心を語った。
征討軍の構想は、武装解除の執行と主要幹部の逮捕は第25軍だけで済むと楽観した考えを持っていた。主力の満州展開は、第25軍による武装解除が終了7日後として、おおむね一ヶ月間で状態の復帰完了と言う物だった。
かくして朝鮮の釜山、仁川、元山に上陸した部隊が楽に終わるだろうと、物見遊山気分でウキウキしながら進んでいると、鴨緑江で在満関東軍と満州国軍による迎撃を受けた。
友達がお泊まりに来たらおもてなしをする様に、各部隊は所命の如く展開を完了し、「来たか長さん、待ってた、ほい!」と、激しい砲撃と機関銃の弾幕、そして地雷で歓迎した。更には戦時用法と作戦計画に基き、在満鉄道部隊の装甲軌道車、装甲列車が攻撃に参加した。
「ぶち殺してやる。犬が、糞が! わかる言語で喋れや!」
音がヤバイ。命令伝達が滞る。
何処でもセーブが出来るのはゲームだけで、討伐軍司令部がピュア過ぎた結果、うわぁ、ヤバイ、ヤバイ! どうしよう、どうしようと悩んでる間に、シナジー効果でたちまち戦死、負傷兵が続出。物陰に隠れて回復なんて暇も無く、阿鼻叫喚の地獄で全滅する部隊もある。
「あ、死にそう。おい、何でやねん!」
更に不幸は重なり、発熱出血を伴い死亡率13〜36%でオロヤ熱の病原体に類似した孫呉熱や赤痢も流行り死傷者が出る事態に陥っていた。
「うーわ、やべぇ! 不味い、不味い、下がれ」
Apexと違いフェニックスキットも無いから、バームクーヘンの様に穴があくともう救えない。ゲームオーバーになってしまう。
大陸で支那軍との戦いから学んだ戦術と、鹵獲された最新装備で武装した関東軍は、征討軍より一歩リードしていた事もあった。征討軍は小学生かお前ら、と言われても仕方がない。7割の損害を受けて、戦場掃除の屍体収容する猶予さえ与えられず義州から後退した。
本件は奇襲を受けた後の指揮官が行うべき決心、処置と諸部隊が取りたる行動から、多少の齟齬はやむを得ざるも、戒心を要する教訓として残された。
色々あって現状で見える確かな情報として、皇軍相撃の報はリークされ帝国を震撼させた。
これらの騒動は国際社会にも影響を及ぼした。米英は、ソ連領内に関東軍が侵攻した事で、日本の資産を凍結し、米国は8月1日に対日石油輸出禁止に出た。
昭和15年7月27日の大本営政府連絡会議において蘭印資源の確保は交渉を進める方向であったが、オランダは英米に依存し流される立場から対日制裁に同調した。
予想外にも関東軍及満州国軍が抵抗を示し、西南戦役以来の本格的叛乱の兆しを見せた事から、陸軍は対南方企図を一時的に延期とした。
初戦で損害を受けた征討軍だったが、「我々は天皇陛下の軍隊だ。天皇陛下の命令を聞かない将校は国賊だ。満州を石器時代に戻せ」と破壊と殲滅が目的に変わり、海軍が対支作戦中の第11航空艦隊を投入。関東軍主力の帰還を阻止すべくシベリア鉄道を破壊。他にも満州国内の火力、水力発電所、送電施設を空爆で叩く方向に変更。心理的効果も狙い、第一期工事中であっても容赦はしなかった。
熱河省方面に進入した征討軍の先鋒は
軍主力は錦州を経て奉天から北上し、新京に向かう計画で、北平より北上する近衛師団に対して錦州に展開していた部隊は貧弱であり、古北口の17bs、承徳の9独守司、13bsと満州国軍の2~4MBが動員される程度と想定していたが、山地、河川の錯綜した地形により前進の渋滞が発生した。
ここで砲爆撃を受ければ甚大な損害を出していた所でもあり、結局、この方面は一兵団の使用に止めるのが適切な戦場と言えた。
人は間違いを繰り返し成長して行くが、国が間違いを犯した場合は、クソゲーのユーザーレビューより悲惨な結果で、大荒れとなる。
関東軍司令部には大義を認めて欲しい、お願い戦をやってしまったけど受け入れて、本当に憂国の想いから起ったので受け入れてと言う感情があった。しかし、そんなん知らねーよ、と周りは敵になり、寝る暇も無くなった。義を唱えて不義に陥り朝敵の名を負った明治戊辰に於ける幕軍の如く朽ちて逝くだけだった。
持病で休養する等と逃げ出さず、最期まで諦めず戦い続けた第5軍司令官飯村中将は、総力戦の何足るかを知っており帝国の将来を憂いていた。
戦が始まる前、内地で購入した小説を捲る。新潮文庫から和訳の出ている『従妹ベット』の下巻で45銭だった。
(エログロ小説のつもりで買ってみたが、中々面白いな)
そろそろ読み終えられそうだったが、邪魔が入る。
「閣下、失礼致します」
戦況極めて不利なるを看取り投降を促す部下に対して、「まだ敗けが確定はしてない。例え帝国の誰にも我らの義挙を理解出来なくても、我らは戦う事から逃げはしない」と徹底抗戦の言葉を残し射殺されている。
2-2)勝ち過ぎた戦争
関東軍を根絶やしにして黒歴史となる満州の叛乱を鎮圧し、後顧の憂いを無くした日本は蘭印に対する軍事行動を決意するのだった。
戦後、アジア太平洋戦争と呼ばれるのは東亜に限らず、南太平洋で行われた新西蘭作戦の影響も大きい。
人は過ちを繰り返さない。開戦から日本軍はマライ、フイリッピン、セレベス、スマトラ、ジャワ等と各地を席巻し、おおむね勝ち進んでいた。
中央統帥部は色々と考えてくれているが、外地ではあーしろこーしろと指示する者が居ないので、作戦要領に従いながらも軍司令官は自己の決断と判断で仕切る事が求められる。
「ビルマの英印軍は約4万、南方作戦が一段落した後であれば、増援を得てからでもラングーンを落とせば良い」
南部ビルマの攻略は敵飛行場の制圧により第25軍のマレー作戦を支援すると言う主旨以外に、援蒋ルートの遮断と言う目的もあった。ビルマは、重慶政府の雲南省、西康省、イギリス領インドと接しており遮断する必要があった。
南方軍総司令官伯爵寺内大将は、南総作命甲第1号を11月5日に発し、飯田祥二郎中将の第15軍は先ずタイの安定確保を目指して準備した。そして翌6日の大陸命第555号で南方作戦の戦闘序列が令され、第15軍は第33師団、第55師団(南海支隊欠)の2個師団を基幹に通信、兵站部隊等で編成されるが、徐州や内地に部隊は散らばっていた。作戦初期のタイ進駐の際、飯田中将には第25軍に隷属する予定の近衛師団を、一時的に指揮下に入る事とされていた。
そんなこんなで準備を行い始まった開戦当初、第15軍は南部仏印より陸路と回路でタイに進駐した。
さて、戦後生まれの諸君は、日本側の奇襲でアジア・太平洋戦争が始まった事をよく知る所であり、ビルマ作戦以外の南方作戦やハワイ作戦は、既にゲームや様々な書籍で脚光を浴びた事柄らでよく知ってる事と思う。よって今更な内容なので、ここではスルーとする事にした。
やっぱなんか戦争には負のイメージがあり、プロパガンダを行い国民の意思統一、戦意高揚させる事は戦争完遂では大切な事だった。日本は「12月8日、英軍が
11日に締結された日泰協同作戦要綱では、在タイ国日本軍及タイ国軍はビルマに在る敵軍に対し協同作戦す、とされている。
同日、発令された南総作命甲第13号で第15軍は、モーメルン等南ビルマの敵航空基地を占領すべし、と命令下達された。タイ進駐後、近衛師団は第25軍の指揮に入りマレー作戦に参加するが、第15軍の各部隊集結は遅々として進まなかった。
「胃が痛ぇ……」
20日に第15軍は、第15軍命令として南部ビルマ攻略を命じたが、実働部隊は55Dのみであった。
21日に参謀本部作戦課より提示された第15軍作戦要領案では、ビルマに於ける英国勢力を一掃しビルマの要域を占領確保する為に、33Dは3個大隊、55Dは4個大隊を以て作戦に当たるとされた。
「おい、マジで! ちょっと、何この使用兵力に比べて、課題な要求は」
この時期はマレー作戦実施中であり、南方軍も第15軍も攻勢の限界だった。そもそも第15軍は部隊の移動が完了していない。
「本当にヤバイ。マジムカつく」
55Dはそんな情勢に関係無く、22日に第55師団命令を出していた。
結果、ビルマに対する本格的作戦実施は、翌年の昭和17年1月22日に大陸命第590号、大陸指第1081号が出されるまで待たれる流れとなった。
ビルマ作戦(U作戦)に先立ち航空優勢を確保すべく、12月23日と25日にラングーンに対して第3飛行集団の第7、第10
「どう言う事だ?」
しかし年明け、これからやろうかと言っていたビルマ方面の処置は突然中止となった。決まったからにはやる気だった南方軍と第15軍だが、方針の転換は大きな影響を与えた。
昭和17年12月1日、ニューギニア東北部、ラエから夜陰に紛れ第17軍を載せた
見送るのは
勝つ事は悪い事ではない。5月上旬に実施されたMO作戦は成功、南海支隊がポートモレスビーを攻略。
「豪州本土の攻略は、支那方面、満州から転用して最低13個師団、それらの輸送に大量の船舶が必要と見積もられる。陸軍としては、支那事変の経過から考えても戦が長期化する恐れがあり、反対である」
太平洋は島嶼を巡る戦いで、制海権を握れば終わる。海軍の担当する戦場と見なされていた。そこに陸軍がわざわざ兵を割いてくれているのが現状だった。
「海軍も長期戦は避けたい所だがあ、ここに至っては、攻めて攻めて攻め続け、敵の戦意を喪失させなければ戦争の主導権は奪われてしまう」
今は勝っている。1月30日の陸海軍協定により、7月中旬予定のFS作戦が6月上旬に繰り上げて発動された。
これにより大規模な配置転換があり、支那派遣軍はせ号作戦を延期、北支那方面軍による冀中作戦は中止され、大陸で日本軍は戦線縮小の動きに出た。
結果、大本営は参加者の頭の上で行う図上演習を実施した上で、FS作戦を発動。第17軍はフィジーとサモアを攻略。目標を確保し、川口支隊と青葉支隊は任務を完遂した。
前提条件をクリアした上で、米豪遮断としてニューカレドニアやニュージーランドも視野に入れ、第三段作戦が検討された。
ニュージーランドはオーストラリア大陸の東南方向に、南北二大島と数個の小島嶼より成っている。大部分が山地により隔絶し、温泉もあり風土は日本に近い。
「ニュージーランドは良港に恵まれておらず、山嶽重畳の地勢の為、根拠地として利用するには費用が嵩む困難な物となるだろう」
「成る程、それも大変だな。この資料によると、ニュージーランドでは冷凍工場が最大の産業施設とあるが、現地部隊の糧食は輸出向肉類工場から納品させれば良いのではないか。バターやチーズ、ベーコンもある」
ニュージーランドは
上奏された陸海軍それぞれからの作戦計画案に対して、天皇陛下は「ハワイは遠すぎる」と申されニュージーランドを選ばれた。この瞬間、ハワイ攻略作戦は遠退いたと言える。
第一期はニューカレドニアを攻略し、第二期はニュージーランドを攻略する事で直接、豪州を恫喝し講和に持ち込もうと言う野心的な計画だった。『新西蘭作戦』そのまま、NZ作戦である。
百武晴吉中将麾下、第17軍は、当初は南海支隊、川口支隊(35iB基幹)、青葉支隊(4i基幹)で編成されていたが、新西蘭作戦に当たり一木支隊(28i基幹)、2D、38Dが隷下部隊に配属されている。
大本営はこの他に4個師団、3個旅団の増加を認めていたが、第17軍司令部は確約兵力を過大だと断り、現有兵力で事足りると考察した。
第17軍は海軍実戦部隊とニュージーランド攻略計画の細部補足として、合同研究を行った。
「戦前の調査では、ニュージーランドの陸軍は1万3千、海軍は巡洋艦2隻、護衛艦2隻、その他2隻、空軍は30機程度。糞雑魚だと舐めたくなるが敵はそれだけではない。人口は凡そ160万人、国土は本州と四国を合わせた位の面積がある。アメリカはニュージーランド、豪州を足場として日本に反撃を企てている次第で、僅か1個軍、それも2個師団基幹の軍だけで、南太平洋方面の連合軍全部隊を相手にしながら、更にニュージーランドを攻略すると言うのは、無茶では無いだろうか?」
遠征軍の長距離渡洋と言う要素の入った攻略作戦の前提条件は、海上交通路の維持であり、制海権と航空優勢確保は絶対だった。具体的考案及実情の認識が不十分だと山本は反対し、未だに東太平洋方面での攻勢計画に固執し、機会があれば努めて方針を一致させようとしていた。
もやしカレーを食べて歓談していた会談の場が凍った。周りの者は山本と百武の空気が変わった事を感じる。
「それは違うくないですか。言い過ぎですよ。ではガチで陸軍が10個師団を用意したとして、海軍はそれだけの将兵と装備や消耗品を確実に運べると確約出来るのですか? 海軍の活躍で主力艦は根こそぎ沈めましたが、敵は壊滅した軍備の再建、増強に狂奔する一面、潜水艦や魚雷艇で必死のゲリラ戦を行い、宣撫工作、思想戦を展開する事は明白です。勿論、この戦艦武蔵が張り子の虎ではない事は分かっておりますが」
海軍と言うよりもGF司令部は、戦争の早期集結に貢献出来る作戦を求めていたが、陸軍兵力を使わない作戦を逆に提案されてしまった。ニュージーランドは海軍に補給や輸送の責任が重くのしかかる作戦だった。しかし、そこまで言われては黙ってはいられない。
「んなぁ……」
山本と百武の間に割り込む様に宇垣纏少将が言葉を被せた。
「無論です! 武蔵は戦う為の船ですから十分に務めを果たし、百武閣下達を無事、ニュージーランドに送り届けて見せましょう!」
日本人は空気を読み、空気で集団が動く。意志決定では戦略志向を重視されるが、人情や空気で左右されるのも事実だった。今回の議論も感情と空気で流れが変わった。
まんまと術中にはまり、口車に乗せられた事で、GFは動くしかなかった。
陰気な笑い声をあげる山本だった。
ニュージーランドの主要港は
輸送船団を送り込む事は出来る。ウェリントンに到るクック海峡は殆ど離礁がなく、容易に入港可能と海軍も分析していた。
問題は敵に長い海上交通路を寸断されないかどうかだった。それでも陸海軍協定に基づいて、GFは最強のカードである「武蔵」を含め総力をあげて護衛を決行する事になっていた。
悪魔の技を使ってでもこの戦争を終わりにする決意があった。
4.重症
日本が聖戦として世界を相手に戦い、違う世界線では負けたかも知れないWW2から70年以上が過ぎた康徳86年(昭和94年)、皇軍が東亜の敵を撃滅した事で大陸の満州国と南太平洋の新西蘭は、日本の統治時代を経て完全独立を果たしたが、文化的影響は大きく思考放棄していた事から、二大ロリコンランドとして知られている。
一度は米英に追従し、日本に宣戦布告して来たメキシコ、ドミニカ、キューバ、ニカラガ、コスタリカ、ウルグワイ等の群小国も外交関係を回復し、満州に観光客を送り込んで来ているぐらいだ。
この国は豊富な地下資源を埋蔵する事から炭鉱、鉄鉱、銅、モリブデン、鉛を産出し、中でも黒龍江省
各産業部門の中で生産の伸びが著しいのは、金融部門と商業であり、外資の参入で成長率を押し上げてている。その為にユダヤ商人の国と揶揄される事もある。
満州はイスラム教とユダヤ教の並立さえ認められる信仰の自由から、21世紀には人口1億人を超えると予測された。東方のイェルサレムとなり約束の地となる筈だった。
しかし順風満帆とはいかない。複合民族国家の弱点から、共産勢力による地下活動が展開されていた。
今でこそ青少年健全育成条例等で手をつけてはいけないと厳しく取り締まれているが、戦前の日本は性風俗もおおらかだった。そこに共産匪賊はつけ入る隙があった。
満州国国務院は関東軍の叛乱鎮圧後、次長級のポストですら日本人には認められなかった。現地人主導での自立を御上が求められたからだ。
政治匪がいかにアジテーションをしようとも、下半身の思考にイデオロギーや人種は関係無い。
文化面、特に性風俗での汚染は大きく、日本人は罪深い事に現地人の性癖を変えてしまった。結果、共匪が望む形での文化習慣としての脱日本、脱ロリコンとはいかなかった。
幼女が経営するクリエイティブな飲み屋が新京の街に多数存在する。世間的には、女を抱くより体を休めようと言うのが多数派を占めるが、リビドーの強い者は捌け口を求める。
昭和100年を目前にして満州を訪れる日本人観光客も多く、鈴木和也もそんな一人だった。日本人向けにフレッシュネスバーガーの店舗が進出しており、ベーコオムレツバーガーが爆発的人気を誇っていたが、最近はモスバーガーのライスバーガーが対抗馬として台頭して来ている。
若い者は直ぐに高級娼婦を抱きたがるが、37になる鈴木は年増より未熟な少女相手と言う大人の楽しみ方を知っている。
一軒目の娼館は様子見で、ジーマに上海老酒、トンテキ、チキン南蛮、セセリキムチを頼んだ。幼女が目の前で作る料理の味は内地に変わらぬ美味さがあった。付きだしメロウを合わせても3990円。満州国円と日本円の為替レートが1:1である事を考えれば、内地より割安かもしれない。
一戦交えて店を変え、二軒目は欧米から食の影響を受けている店だった。カシスオレンジ、キューバリブレ、ジンバック、ポテトサラダ、鶏のアヒージョ、しめにバナナジュースとメイプルキャラメルトーストと言う健啖家ぶりを見せて会計は3350円。
祖国日本では子供を働かせる事が少ない。一方、ここ満州では酒と料理を提供されて、幼女が微笑みかけてくれる。
普通はする事の無い行為を楽しんでいた。鈴木は、子供の頃から幼女が好きで強制性交、児童ポルノ法違反容疑で何度も逮捕された事がある。少女相手背徳感が好きだった。
腐ってしまい、健全ではなくなった男が楽しめるのは近場では満州と新西蘭だけだった。
「ねぇ、おじさん。テキーラサンライズを奢ってくれない?」
声をかけられて男はにたりと笑った。
「おお、良いぞ」
鈴木と刑務所で懲役仲間だった荒井健は街頭で娼婦を買った。30の荒井を相手にするのは、7歳の少女だった。内地では違法でもここでは合法だ。
白系ロシア人の少女に連れて行かれた店、『Let's Begin』は良心的価格で、二階は休憩所となっている。店内では魔王魂やDOVA-SYNDROME、PeriTuneと言った所のフリーBGMが流れていた。
酒を飲んでから始めようとしたら、男が怒鳴り込んで来た。
「俺のペコに何、手を出してんだああああ! 違うよ、なああ!」
美しい物を愛する事は自然だ。だから荒井は平和的に三人で楽しまないかと考えた。
そして、こんにちはうさぎと小粋なジョークを言おうと口を開いた所、問答無用で刺された。中村将、29歳。阿片常習者であり人間の屑だった。
「何だよ!?」
「出てけ、この野郎! てめぇ、出てけ!」
中村は荒井を何度も刺していたが、凶器となった物は漢方薬で使われるイッカクの角だった。
これだけの騒動であれば店の外まで聴こえて来る。通行人や近隣から警察に連絡が寄せられる。
満州国の警察組織に採用された日本人職員は少なくない。谷正弘が通報を受けて事件現場に駆けつけると、血まみれになって笑う中村を目撃する事となった。戦争も知らない世代で23の若者には衝撃的な光景だった。
強い者がモテるのはモンゴル人が漢人を降し支那を支配して以来の掟だが、法と秩序が現代社会では重んじられる。
「その魚を捨てろ」谷が叫ぶと中村は振り返った。
「何だと、糞が!」
中村が谷に向かってイッカクを構えて突っ込んで来る。谷は肩から提げていた小銃を構えた。
「馬鹿野郎! 止まらんと射つぞ」
満州国の警察組織は国軍が解体された後、中共のゲリラや馬賊との戦いで準軍事作戦を展開する事もあった。その経験から半世紀以上経った現在も、枢軸陣営の同盟国であったイタリアからAR70/90小銃、ドイツからレオパルド2戦車やMG3機関銃等を採用していた。
「ブヒィィイイイイ! 人の努力を笑うな!」
ブチのギレた阿片中毒の廃人の言動は意味不明だ。しかし鋭利な尖端を持つ凶器の威力は本物だ。
谷は恐怖から発砲した。そうだ、日頃の訓練とは違う。頬付けをした射撃姿勢と違い、不馴れな腰だめに構えた射撃で安定性が欠けて、がく引きになり銃口が上がる。
中村の身体に5.56ミリの弾がめり込むが、イッカクの角も谷の体を貫いていた。ハベルの鎧を着てる訳でもないのだ。耐えれる訳が無かった。震えるペコの目の前で二人は果てた。
数日後、満州国警察美談として谷の話が報道されたが、エンターテイメントとしての盛り上がりは短かった。同期の話から谷もロリコンであり、本件は被害者、容疑者、殉職した警察官の三者共にロリコンであったと世間に知れ渡る事となった。
この事件により宣統帝溥儀は、ロリとペドは大罪として満州国の法改正を進めさせ、新西蘭もこれに続き、BLやエッツな作品、児童ポルノ等を廃止させた名君として歴史に名を残している。
なお鈴木は排泄プレイを要求。拒否された所で暴れ出した為、娼婦は抵抗した。ケツ持ちのヤクザが到着した時、鈴木の頭部に殴打の跡があり、凶器の冷凍マグロが転がっていた。
「どう言う事? これ、完全にマグロで殺られたんだよな……」
どんな事をしたいと言う欲求は大切だが、ロリコンに神は居ない。身元の証明に成る物を剥ぎ取られ、ドラム缶にコンクリート詰めされた上で人知れず満州の地に埋められた。