とあるロリコンの最期   作:キューブケーキ

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聖戦下の秘話

1.共産主義ロボの脅威

 

 古今東西、ロリコンと戦争は密接な関係を持っており、誇張や脚色される手柄話になりがちだが、崇高な使命を果たして来ていた。

 世界には悪い国がある。神の国である日本に対して露助は共産主義を信奉する悪の国であり、昭和14年のノモンハン事変は、日満蒙三国の共存共栄と言う建設的想いを踏みにじり、満州の安全保障を脅かし、関東軍を忍耐と言う地獄に引きずり込む戦であった。

 ステレオタイプなイメージでは、だだっ広い蒙古の草原で日本軍の歩兵が機械化されたソ連軍に挑みぼろ敗けすると言う世界線も存在するが、この時間軸では異なる。ここでロリコンは大きな軌跡を残している。

 満州の防衛を統括する関東軍司令官植田謙吉大将は、忠誠の化身、蹇蹇匪躬(けんけんひきゅう)の節を尽くす軍人であり、兵匪討伐の傍ら満ソ国境紛争対処要綱を麾下の部隊に与えていた。

「敵の不法行為(越境侵犯)には断固とした処置を行うべし」と言うのが防衛計画の要旨であり、張鼓峯で敗北した日本軍にとっては退けない事だった。

 張鼓峯事件の敗北は日本軍の意識を改革した。将来の戦争で科学力が求められる、戦車や飛行機が主力になる、何れも大正時代から言われて来た事だが、先人と違い組織の思考が硬直していた。それでは日露戦役で旅順の攻陥に最善を尽くさなかった乃木や欧州大戦と同じ力押しの突撃馬鹿で終わってしまう。

 いつの頃からか、満州は日本の生命線と言われる様になっていた。満州を防衛する為にはあらゆる手段を尽くさねばならない。それは当然であり、前年の昭和13年7月に内地で編制された23Dはフレッシュだが、3単位編制と言う日本陸軍にとっては味を確認した事も無い分からない物だった。

 5月12日、外蒙軍がハルハ河を渡河、不法越境して満軍と交戦した。この事態は現地部隊から近隣の日本軍に報告された。

「露助が攻めて来た? 外蒙軍?」

 ハイラルに駐屯する23D長、小松原道太郎中将が勇猛果敢な闘将である事は、満蒙国境ノモンハン西南方領地を巡る戦いで実証されている。と言っても小松原は朴念仁ではない。妻や部下に配慮する良識ある人間だ。

 終わりの見えぬ支那事変3年目とあって、戦をしたがるのは馬鹿だけであり、専守防衛の不拡大方針は心得ている。

 ただ後世の目から見て、日本陸軍の将帥は無能で軍国主義な侵略者である必要があった。

 23D長としてハイラルに赴任して以来、小松原の部下や関係上司から指揮能力や闘志の面で疑問を訴えた者は居ない。そもそも迷惑や愚かと人物評を受けるほどの無能が陸大を出れるはずもなかった。

 そして小松原に心酔する最たる者こそ、現地の満州国軍第10管区司令官の烏爾金中将だった。

「満軍だけでは対処出来ないと思慮致します」

 現在の危機を平和的に解決出来る可能性も存在したが、彼らは戦いを生業とする軍人であった。

「これまで日本は、多大な努力をしてソ連との戦をせずに平和を守る努力をして来た。これから先、ソ連が本格的派兵で攻めて来るとしても、関東軍は満州を見捨てる事はあり得ない」

 増援を期待したくても、支那方面での戦、ソ満国境の防衛もある。日本軍には兵力の余裕が無かった。しかし戦いから逃れる臆病者でも無かった。

 小松原は烏爾金中将と話し合いを終え、当初の処置要綱に従って決断を下した。この時点で23Dの将兵は1万3千名、火砲60門と数字の上では立派な編制であったが、即応可能な兵力は、師団の捜索隊(乗馬1中隊、装甲車1中隊)と歩兵1個大隊(Ⅱ/64i)。これら部隊を以て支隊を編組し、捜索隊長の東中佐が指揮を執る事となった。その中には幾人かのロリコンも居た。

「師団の方針としては、従来通りに一部を以て持久に任じ、主力を以て攻勢をとり撃滅すると言う方針で行く。そこでだ。東支隊は師団の尖兵となり、敵の橋頭堡に攻撃前進。敵先遣隊を排除すべし」

「承知しました」

 東中佐の顔を司令部の熱気が撫でた。男として闘志を掻き立てられる。お互いの武運長久を祈り、23Dと満軍は動き出した。

 張鼓峯事件の反省から、ソ連軍に火力で劣っている以上は初戦で出し惜しみをして損害を増やすのは愚の骨頂と言えた。その結果、23Dは不利な条件に抗してノモンハン方面に全力出動の挺身を敢行した。皇軍は一度動き出せば、兵力の大寡を問わず、困難に屈せず、敵撃滅の熱意あるのみであるが、やはり部隊を出せるなら多い方が良い。

「先陣は武人の誉れと言うが、小松原師団長閣下の目となり敵情の掌握する事を第一と知れ」

 騎兵は女性にキスをする様に軍馬を優しく扱う。東中佐は愛馬の首筋を撫でた。

「お前と居るといつも楽しかった。帰ったら遊びに行こうな」

 東中佐は騎兵らしい快活な人物であった為、厄介事から逃れられなかった。

 フイ高地付近に前進した東支隊は外蒙軍を捕捉、攻撃を行い対岸に撃退したが、それは始まりに過ぎなかった。

 東支隊がハイラルに帰還すると、敵は何回、攻めて来るねんとイラつく程やって来た。日本軍が迎撃に向かうと下がり、離れるとやって来る。何でまた出ないといけないんだと、マジでイラつかされた。

 敵に翻弄されている。小松原はソ連のやり口に腹をたてながらも、21日に64iを基幹とする山縣支隊を送り込んだ。

 山縣支隊は集結に時間がかかったが、23日にハイラルを出発、ノモンハンの北にあるカンジュル廟に前進した。この時、小松原師団長は山縣大佐に思う存分やれと自由裁量の指示を出していた。

 関東軍司令部も大物を狙って取り逃がすより、個々の戦闘で勝利を積み重ねる重要性を認識していた為に、余計な口出しをしなかった。

 アムコロ経由でハルハ河に向かって山縣支隊は突進、フイ高地、733高地を陣地占領した。支隊主力は制高点を確保し、各個に進出して来る敵に対して機を見て攻撃に出て、迅速に撃滅すると言うのが山縣大佐の構想だった。

 それに対してソ連軍、外蒙軍は逐次戦力を増強し、機械化部隊1大隊、外蒙騎兵約1個師が架橋をなしフイ高地に向かってここぞとばかりに攻めて来た。

 ひとたび敵が渡河して来たら、その軍勢の陣容に日本軍は目を疑った。

 その機械化部隊の中にはシベリア奥地の秘密都市で開発した共産主義ロボの姿もあった。ソ連の対日戦略の大転換だった。

 四足歩行、全長16.5メートルの共産主義ロボは重戦車の側面を持っており、26口径76mmアンチ・キリスト革命砲と46口径45mm悪魔砲を装備していた。鈍重ではあるが火力は高く、あらゆる不整地を走破可能で、大いなる活躍が期待された。

 これはソ連第57特別狙撃兵団長のフェクレンコ将軍の意思ではない。

 ソ連軍に於いて軍事委員(コミッサール)(政治将校)は指揮官に比肩する地位を持っており、部隊の作戦(指揮)、政治活動の全般を監督している。共産主義ロボもモスクワの意を受けて、政治部の隷下部隊として指導されていた。

 日本軍は、敵がもしかしてまた居なくなるのと警戒していたが、予想は最悪の形で覆された。

「ロボットだ!」

 64i長の山縣武光大佐は、少年倶楽部の読み物にでも登場しそうな超兵器の登場に困惑した。しかし塹壕は掘っていたし交通壕で繋ぎ、予備陣地を築き備えはしていた。

 対戦車戦闘を命じ、歩兵砲や速射砲が撃ち込まれるが糞雑魚過ぎてびくともしない。陸上の不沈戦艦と言った状況だ。

 今回、東中佐は山縣支隊の右翼として動いていた。

 捜索隊は若干の敵の抵抗を打破し、概ね予定の如く迂回して敵第一線の後方地帯に散兵壕を掘り陣地占領し、共産主義ロボの遮断に成功した。東中佐は状況を報告すべく下士官、兵各1名の伝令を山縣大佐に出した。これで流れはリセットされるかと思われたが、しかし死ぬのは日本軍だった。

 平坦で暴露した地形とあって対岸から敵の砲撃を受けた。初年兵も古参兵も関係無く、容赦の無い無差別殺戮だ。

「何て言うか、まぁ、忌々しい大砲だな。向こうから丸見えで沢山死ぬぜ!」

 砲煙弾雨の中、窪地を探し亀の子になるしかない。東中佐は気に入らないが、被害者面をしたりはしなかった。敵から露出した陣地を強化すべく、東中佐は自らも円匙で掘りながら指導を行った。

 山縣支隊はひたすら勇戦奮闘、善戦を以て攻撃せんとするも、量と装備を頼む敵を完全に破摧出来なかった。戦場はころがる四肢の断片や臓物で、放送不可。モザイク必要な絵面だった。

 ソ連兵は皇軍よりも感情的生き物で、負けが決まると簡単に陣地を放棄して逃げ出してしまう。アジア的優しさの血戦で敵の心胆を寒からしむる物があった。

 対しての日本軍だが、23Dは小松原中将を頂点に精神的靭帯が固く、東支隊は味方が来ると言う確信もあって敵に対して勇気百倍で敢闘した。それに騎兵は砲兵と比べて陣地変換が楽だ。的にならず射たれない場所に移動すれば良いだけの話だ。

 騎兵は柔軟性が求められる。今は防戦を頑張っているが、夜になれば転進をする決心をした。

 西洋の列強は日本人を東洋の猿と見ているが、猿とは違う。

 敵は派手に決め様とハイラルに指向しており、小松原師団長は最も要地であるフイ高地にⅡ/71iを基幹とする部隊と弾薬を、時期を逸せず逐次敵を撃滅すべく山縣支隊の応援に差し向けた。

 戦前、櫻井忠温少将も人を無き戦場の時代も来るだろうと予測していたが、関東軍司令部は敵の新型兵器であるロボットに苦戦との報告を受けて、「嘘だろ!」と報告内容を疑って派遣した辻参謀から、事実であると報告を受けるに至り受け入れた。

 東支隊の固守する前線で敵情を観察した結果、戦略持久の方針ではあったが、戦車阻止施設での足止めを行いながら肉薄攻撃班が背後に回り込む程度の対応では処理出来ず、共産主義ロボに死角無しと辻参謀は記録している。

「辻参謀、一機でも二機でも良い。飛行機が攻撃してくれたら助かります!」

「誓って御伝えしましょう」

 辻参謀は陸軍の逸材でありその蘊蓄(うんちく)を傾けて、上官であっても誤りを指摘し、士気の低い者には罵倒を行う人物だったが、患者集合所すら蹂躙して行く共産主義ロボの鬼畜な所業に怒りを滾らせていた。

 熱河や徐州会戦で、今日まで我が快速部隊が行った成功から考えても、敵が背後への挺身を企図してる事は明白であった。東中佐の要望に応えるべく辻参謀はハイラルへ報告を急いだ。

 銃剣突撃で支那軍は蹴散らせても、戦車や装甲車を前面に押し立てるソ連軍相手には上手くいかない。死にゲーすらぬるすぎる。

 現実を前に気持ちは引きずらない、全力投入により重砲と航空隊による空爆で対処しようとした。

 しかし共産主義ロボは日本軍の攻勢本拠地であるハイラルを覆滅し、国境線を東に推進すると言う方針で動いていた。

 敵は優勢なる砲兵の支援を有し我に数倍する戦車を以ており、有利な地形を利用して攻撃して来る。

 更には第一梯団が衝撃力を失えば第二梯団が代わって進む。中途に攻撃が挫折する事を防ぐ現代版車懸かりの陣であった。

 ディヴォーションLMGやマスティフショットガン、進化式ボディシールドも存在しない世界。日本軍から見れば、敵の装備は猛烈に嫉妬したくなるが無い物ねだりだ。

 撃滅せねば止まぬ勇猛果敢な精神は敵ながら天晴れだが、矢面に立つ皇軍将兵にとってはたまったものではない。

 戦では、テーベの英雄エパミノンダスが新戦術でスパルタの精鋭を撃破した様に、パラダイムの転換が必要だった。

 共産主義は博愛や愛する為に生まれて来たのではない。革命の暴力こそアカの本質だと言える。だからこそ皇軍は醜くて汚いアカと戦う。生存競争であり敵を潰すのは当然だった。

 偶然は必然でもある。意外な場所に勝利の鍵が転がっていたりもする。

 ソ連軍の大規模な侵犯が起き、第一線各中隊は希望を失いつつある中で、相互に掩護する事で孤立を防ぎ奮戦死闘を繰り広げている。優勢な敵の執拗な攻撃に対して、寡兵な23Dにとって国境の防御作戦は厳しい物があったが陣地を死守している。算定から勝ち目が無くても、大本営や関東軍司令部への面目から戦わずして後退や降伏する選択肢はない。

「戦勢我に不利とあるが、何れにしても事態の収集は急がれる。正し解決を急ぐあまり兵を徒に失うわけにはいかん」

 関東軍は壮烈凄惨な戦闘詳報を受け取り、今回の戦が予測出来た事だと悔やまれた。

「絶対優勢な敵を制圧するには、一致団結してソ連軍を排除する。その上で砲兵と航空機の協力は不可欠だ」

 我が北支軍と中支軍は、襄東作戦を実施したばかりであり休養を必要としている。増援は望めない。軍司令部の責任もあって真摯に向き合い、23Dに防戦を任せる事は不適当であるとして、ここに於いて増援として7Dの派遣が決定された。

「第2師団と第4師団を増加配属しては如何でしょうか」

「防御は攻撃と表裏一体とは言え、何事もやり過ぎは良くないよ。関東軍を総軍に格上げするには参謀本部が嫌がる。関東軍を良くするには大局的見地が必要だよ」

 絶対的正義、関東軍の組織としての未来の為に賛同した。

 敵は疾風迅雷の勢いを以て猛撃すべき所だが、その動きは泰然と言うか遅々としている。日本軍陣地前の要点を占領して偵察に努め、絶対優勢を以て撃滅し、ハイラルを奪取すると言う正攻法に拘っている。陣地があるなら取らなくてはいけないと、頑迷に思い込んで沼にはまっていた。それが付け目だった。

 日本兵が戦場に持ち込んでいた少女(ロリータ)の写真は、陰湿に死体蹴りをしていたソ連兵の進撃を止めた。情事の後か表情は諦観していた。醜女なら興醒めする所だが、しかしさすがは写真を撮りたくなるほどだけあって美貌は際立つ。糞にわかな童貞には刺激が強すぎたのだ。

 忠臣義士の美談が現代でも人々の魂を突き動かす様に、リビドーも人を動かす。この場合、動きを止めた。

 これこそ戦機熟した瞬間であった。

 日本軍の空爆が効果を現し始めソ連軍は攻勢限界に達し、日本軍の大兵団が増派されるに到りハルハ河西岸に敵兵力が駆逐され引き分けに持ち込んだ。

 火炎瓶の尽きた右翼フイ高地の日本軍守備隊は、糧秣の中にあった塩を共産主義ロボに投げつけた。破れかぶれの反撃だったが、浸透圧によって装甲は砕け共産主義ロボを遂に撃破したのだった。中央の733高地、左翼のノロ高地でも我軍の守備隊は、決死的奮闘で勇戦した。

 その後は再度の戦に備える一方で、昇進や異動、勲章や感謝状の流れがあり、勝っても負けても組織のルールは変わらない。

 後に参謀本部第四部から聞き取り調査を受けた植田軍司令官、小松原師団長はノモンハンの戦史編纂で大いに協力し戦訓を残した。一方で、知己を得た新聞社の従軍報道班員に対して、戦死した兵達の親に顔向けがならないと異口同音に述懐している。

 

 

2.共産主義ロボ、再び

 

 慶応4年1月の設置以来152年、日本と東亜の秩序を第一線で守る陸軍には様々な美談がある。

 支那の戦では、南苑の五ノ井中尉、酒井大尉。居庸関の峯中尉、京漢線無名高地であった平頂山の長尾中尉等は著名な存在だ。

 米英蘭豪相手に大御稜威(おおみいつ)の下に、天佑神助を確信し、忠勇の精神で最後まで戦い続け、ニューヨークとフィラデルフィアに新型爆弾を投下して聖戦に勝ち抜いた事もその一つと言える。

 大東亜戦争開戦劈頭のマレー作戦は、帝国一億国民に止まらず、全世界、全宇宙を感激と畏怖させた。

 松井兵団(5D)の安藤部隊に配属された島田部隊長統一指揮の下、島田、野口戦車隊がトロラク附近の敵陣地を攻撃、スリム附近に突進、敵2個旅団を捕捉殲滅したスリムの戦闘は、諸職種総合戦力が基盤をなした事で、団結力、協力動作こそ勝利の秘訣と教えてくれている。

 反面教師としては、勇猛だが部隊を全滅させた軍神五反田戦車隊長の逸話が、80年過ぎてなお私達の失笑と批判を免れはしない。

 日本は東亜の正義を守る国だが、大英帝国は二度の世界大戦で落ちぶれるまでは、世界を経済的にも征服しようとしていた。邪悪な野心は世界に沢山の植民地を作った事からも言える。

 そしてシンガポールに築きあげた難攻不落の大要塞は、大英帝国の東亜に於ける作戦中枢をなしていた。また米国の支配するマニラと相呼応する対日包囲陣の本拠で重要性があった。

 その為、我が精強たる皇軍は12月8日未明、馬来(マレー)東海岸の北端コタバルに大挙敵前上陸を敢行、初めからクライマックスであり、敵の猛烈な防御砲火を冒して敵陣を突破し、カワウソをモリモリ食べながら敵軍の猛追撃に移った。

 当時、第25軍参謀の作戦主任であった辻政信中佐は戦時中に発行された「大東亜戦記」や戦後に執筆した「シンガポール」の中で、皇軍の上陸したコタバルからジョホール・バルまで1100キロ、東京~下関に相当する長距離を突破して行く過去に例の無い作戦と表現している。

 確かにマレーの地形は平地に乏しく、大部分が山地とジャングルで、兵用地誌の準備も捗っていなかったから道路を外れての進撃は難しかった。だからこそ開戦前は守備側が有利と考えられた。

 だがマレー東岸南下部隊は密林、湿地帯を突破、トマトを食べなければ殺すぞとばかりに敵を追撃、適時要地を攻略した。

 一方、マレー西岸南下部隊の突進作戦は雨季と言う利点もあった。敵第1の防衛線ジットラを突破して敵機械化部隊を破砕しつつ進撃、敵第2の防御線ベラク河を敵前渡河し、阻止せんとした敵の機先を制した。この時までに敵兵力は半数壊滅せしめられたのである。

 野菜嫌いでチー牛食べてそうな英軍は、シンガポールの本防御陣としてマレーの首都クアラ・ルムプールを死守すべく作戦指導、北方スリム地区に野戦軍を動員したが、この一戦で脆くも皇軍に包囲殲滅され11日には完全占領。英軍の抗戦力はガタ落ちしたのである。

 人生何をやっても上手く行く時がある。昭和17年1月中旬、幸運スパイラルに入っており日本軍にとって全般有利な形勢であったが、松井兵団(5D)正面の敵軍は頑強に抵抗を続けていた。パーシバル中将は2年間の任期の間、困難に立ち向かう覚悟があったし、開戦時にタイへの先制攻撃も検討されていた。しかし麾下の部隊はそうも行かない。

 パクリで近衛師団(GD)正面の対峙する敵兵力は2000~3000と見積られた。

 実際、インドや豪州からの寄せ集めでジャングルの戦闘に適した装備とは言えなかったが、インド独立第45旅団を基幹とする部隊が、速射砲、野砲、迫撃砲、機関銃、地雷や鉄条網を備え、堅固な防御で展開していた。

「不意打ち過ぎた。日本軍は強いそうだぞ」

「いや、でも逃げちゃ駄目だろ」

 本当に優先すべき事、目標はシンガポールの防衛であり、防御体制構築、陣地強化の為に日本軍の進攻を遅延させる事がマレー半島に展開する部隊の目的だった。

 敵は抵抗の主体を道路と橋梁の破壊に置き、破壊點の前方に、砲兵の制圧帯を設け、日本軍が近付くと急襲的に火力を指向した。

 西村兵団(GD)岩畔追撃隊(5Gi)は17日、シンバンビーラムに集結、ムアル~ヨンペン街道をパクリに向かって前進。国司追撃隊(4Gi)もムアル~パトパハト街道を併進し、兵団は団結していた。

 18日、国司追撃隊の前衛である伊藤部隊(Ⅱ/4Gi)が敵と戦闘に突入。岩畔追撃隊が戦場に到着し、児島部隊(Ⅱ/5Gi)を伊藤部隊の左に展開、戦闘加入させた。

 しかし伊藤部隊は予想外の強敵に遭遇した。共産主義ロボだ。

 イギリスは独ソ戦勃発で厳しい台所事情ながら、対ソ援助を行っていた。スターリンは対日参戦こそしていないが、熱帯地方での戦訓を手に入れる好機でもあり、イギリスに恩を売るべく、シンガポール防衛の支援として共産主義ロボの改良型を義勇兵の形で送り出していた。

 ノモンハンでも鈍重だった共産主義ロボは、さらに足場の悪い湿地帯や密林があるマレーであっても防御戦闘では強さを発揮して、猛烈な集中砲火を浴びせて伊藤部隊の前進を阻んだ。

 死傷者が続出する中で岩畔大佐は、麾下の大柿部隊(Ⅲ/5Gi)をパクリから南へ迂回させて、敵の背後遮断を実施した。途中、山口大尉の隊が772高地手前の道路を遮断。大柿少佐は大隊の残りと共に453高地へ前進した。

 大柿部隊の背後遮断に対して敵は逆襲を図るが、日本兵が持ち込んでいた少女のピンナップを発見、足を停めてしまった敵戦車に対してガソリンを積めたサイダー瓶で果敢に防戦し撃退した。

 19日夜半、国司追撃隊に配属された戦車第14連隊第2中隊(五反田戦車隊)は、作戦を失敗に帰しめる愚行を犯した。

「ロボットが何だと言うのです。小回りの利く我々の方が遥かに有利です!」

 作戦要務でも「機械化部隊は特性を利用して迅速に目的を達成する如く行動する事緊要なり」とある。しかし、当時の日本陸軍は現代の10式戦車や90式戦車と比べて、蝿にもなれない装甲車に毛がはえた程度の戦車を装備していた。95式軽戦車である。

 今までは騙し討ちの奇襲の効果や勢いが凄い物で、破竹の快進撃を見せていた。

 五反田大尉は笑おうとして、岩畔大佐の表情を見て止めた。

「うん、五反田大尉。貴官のやる気は買うが、ちょっと待ちんしゃい。ここは歩兵と協力して慎重に事を進めるべきでは無いかな? 待っときんしゃい」

「お言葉ですが連隊長殿、歩兵の速度に合わせていては戦車の邪魔でしかありません」

 五反田大尉は戦車に対する過信から敵を鎧袖一触と完全に舐めきっていた。しかし敵の兵力、火砲は増強されている。

 尖兵を任じられた戦車中隊は、敵陣を突破して主力の前進を容易にさせる事を目的とするが、状況は悪い。

 この重大なる戦で第一線の状況を把握せず、全車揃ってもいない上に歩兵を随伴させず無謀にも戦車のみで敵陣突破を図り、共産主義ロボの猛火に曝されて五反田大尉以下戦車隊は全滅した。

「五反田大尉戦死、戦車隊は一両を除き全滅しました」

「あの馬鹿たれめ!」

 旅順要塞に強襲を試みて十万の将卒を殺した乃木と変わらぬ愚行、蛮行だった。

 岩畔大佐は責任感と誠意ある人物だが、彼の軍人生活の中で、五反田の暴走を許した事は、生涯を通じて禍根の残る物だった。岩畔大佐の決心に従っていたら戦車隊は敗れる事も無かった。

 戦場で情報が錯誤する事が無くても、頭がおかしい指揮官はどうしようもない。護国の華と散ると言葉を飾っても、指揮官が自己陶酔で状況判断の出来ない阿呆だったと言える。

 一方の大柿部隊は皇軍の武威を遺憾無く発揚した。20日、大柿大隊長は激しい闘志をみなぎらせながらも戦死、主だった幹部が死傷した結果、新米士官が大隊残余の指揮を執って敵の遮断を完遂した。

 共産主義ロボは鈍足が仇となり支援を受けられず遊兵化しつつある。岩畔大佐は軍使を派遣して投降勧告を再度行わせたが拒絶される。

 報告を受けた第25軍司令部の作戦主任、辻参謀は「何故もっと早く報告しなかったんだ!」と叱責、ノモンハンの経験から共産主義ロボには塩による攻撃が有効として、タイから塩を運ばせた。

 その結果、午後にはパクリの敵を殲滅し勝利する事が出来、国威を維持してシンガポールに攻め込み、城下の誓いをさせる事が出来た。

 

 

3.共産主義ロボ、三度現れる!

 

 昭和17年、英軍が緬甸(ビルマ)からとんずらして一掃された。これは重慶政府にとっても致命傷だった。

 北部仏印や支那沿岸部が日本軍の勢力圏に入っており、援蒋ルートとして米英は使えない。その為、長駆インドのチッタゴンとコルカタから北東、ビルマ北部を掠めて支那にやって来る。

 中には20以上のカーブのある道もあり、設計士は「おめぇ頭おかしいんじゃねえの?」と言われても仕方がない。それらは地形の制約から、ビルマに近いレドを経由する。

 遮断するだけなら日本軍は、フーコン谷地から北緬の米支軍(NCAC)を掃討してレドを叩く、あるいは拉孟から雲南の保山に推進、雲南軍(Y-Force)を撃滅すると言う選択もあった。

 日本軍が先にやらなければ、敵が先に攻めて来る。これは事実であり日本側の懸念も間違いでは無かった。昭和17年には米軍のスティルウェル将軍によって、インパール方面から米1個師団、英軍3個師団、支那軍2個師、雲南方面から支那軍12個師によるビルマ~タイ進攻、支那軍9個師によるハノイ進攻、支那軍による香港奪還等を計画として纏めていた。

 実際、昭和18年には雲南の支那軍が32個師に増強されており、各2~3個師の11個軍が5個集団軍として編成されていた。勿論、支那軍の1個師が単位に対して他国の師団より規模は小さかったので、米軍からも実質的には11個師団と見られていた。この他に沿岸部に英第15軍団(3個師団)、インパール方面に英第5軍団(3個師団)、レド方面にCAI(2個師団)が展開している以上、懸念や危惧では済まされない状況だった。

 そうして昭和18年2月初旬、第18師団長牟田口廉也中将は麾下の歩兵1個連隊を基幹とする支隊によるインパール攻撃を実施させた。いわゆる第一次インパール作戦である。

 チンドウィン河を渡河して、アロー~パンタ~タム~インパールの経路で、アラカン山系を走破。敵中突破による急襲で英軍の攪乱を目的とする打通作戦である。

 作戦は第21号作戦とは別物で、木庭大大佐の歩兵第55連隊(第2大隊欠)を基幹に、山砲第18連隊、工兵第18連隊、師団通信隊、輜重兵第12連隊、衛生隊、野戦病院、防疫給水部等から抽出した部隊で編組する木庭支隊によって実施された。

 チンドウィン河の水深は相当あり戦前は汽船が航行していた。ミンヂャンの対岸でイラワディ河に合しており、河川の利用による補給や部隊の移動が容易と言えた。

 この頃、英印軍第4軍団は不運な事に、チンドウィン河畔に於いて反攻作戦の準備を推進中であったが日本軍に先手を打たれた形となった。

 渡河に必要な舟艇や器材を一支隊程度ならば確実に用意出来る。船舶工兵の舟でユウ河経由で渡り、雪崩れ込む様に突っ込んだ木庭支隊はアローを占領、敗走する英軍を蹴散らし、一部は追い越してタムに前進した。敵には、誰もアラカン山系を突っ切るとは考えていないと言う隙があった。

 木庭大佐は、牟田口師団長より未開の地で遠距離挺身を行う事になるので、無理をせず雨季までに帰還する様に命じられていたが、まだ戦える。それこそ何処までも行けそうな勢いだ。

 戦機を掴み出来るだけ戦果をあげることは暗黙のルールであり、軍人の本分と言えた。

「日本軍は依然として北上中!」

「それ動きが俊敏過ぎるだろ! 日本軍主力は何処に居るんだ!」

 英軍は存在しない主力の影に怯え判断を誤っていた。司令部には重苦しい空気で漂う。

 木庭支隊は防御の第3線まで突破したが、タムの市街には堅固な陣地が築城されている。敵は航空優勢の利点があり、木庭支隊は突撃では抜けず、その上、滅茶苦茶に空爆を受けた。更にはインパールから増援が急行していた。

 敵の火力は強い。督戦は無いから逃げる事は何時でも出来る。行動の自由を与えられていたが、木庭大佐はインパールにせめて一撃を与えた上で引き揚げようと考えた。

 木庭大佐は険しい山間部の移動で悩まされていた砲兵を、第3大隊と共にタムの抑えとして残し、支隊の残りは夜陰に紛れモーレに迂回して、パレル方面に向かって北上した。

 日本軍の精兵振りを身を以て経験し知り尽くしていた英軍は、バレル手前のシェーナムに兵力を増員され、今や最大の要点となった陣地を築いて待ち受けていた。そこに木庭支隊は飛び込んでしまった。

 シェーナムで第1大隊の半数を失う損害を出した木庭支隊だが、その活躍に18Dは、補給を送る為にチンドウィン河を越えアローに一部部隊を推進、糧秣、弾薬を集積したが、敵の執拗な空爆で足止めを食らっていた。

「木庭支隊は尚更、補給が必要だろうに」

 これから5月には雨季が来る。牟田口師団長はこれ迄と考え、木庭支隊にアローへの転進を命じた。歩兵が不足して戦力が低下した事を認め、木庭大佐も執着する事無く後退を決心した。

 後退する木庭支隊を追撃した英軍は、バレルで待機していた山砲と工兵の仕掛けた罠に飛び込み、世界最強のM3グラント中戦車までもが血祭りにあげられた。更に松の木が道路を塞いだ。こうなっては戦車に勝ち目が無い。敵が後退する。

 かくして木庭支隊は、脅威を排除した事でゆっくりと逃げきれた。

 アローで木庭大佐を迎えた牟田口師団長は慰労と感謝の言葉を告げた。中でも兵を喜ばせたのは酒に煙草、甘味と言った嗜好品だった。

「気が利くじゃないか」

 頑強な敵を相手にしながら、実質的に勝ち進み続けた事から、十分な兵力と補給があればインパール攻略は可能であったと牟田口師団長は自信をつけた。安全な道にこそ勝機がある。「来年だ。来年こそは、インパールを手中に収める」と。

 一方、ラングーンの第15軍司令部は、牟田口師団長からの戦闘詳報に頭を悩ませる事になった。敵の捕虜や鹵獲した文章からも英軍は反攻を計画しており、実行されていたらビルマは混乱に陥り皇軍の威信は低下していた。今回は偶々運が良く、木庭支隊の冒険的な攻撃によって敵の計画が頓挫したが、問題は日本軍による敵状判断が完全に間違っていた事が浮き彫りにされた。事は重大だ。軍司令部はもとより、総軍、大本営の慢心と怠慢が明白だった。

「もし牟田口中将が、師団の全兵力を派遣していれば、タムはもとよりインパールまで攻略していただろう」

 飯田中将の言葉は全員が頷ける物だった。

 シェーナムを越えればバレルは目前であり、バレルに推進すればインパール攻略も夢ではなかった。総軍も補給量を統制せず第15軍に十分な用意を与えなかった事を悔やんだ。

 英軍は、日本軍による今回の攻撃を、本格的攻撃前の威力偵察と判断。当然、二度目は許さず防備は更に固められた。

 3月、ビルマ方面軍が新設されると河辺中将が方面軍司令官に任命され、牟田口中将が第15軍司令官に横滑りした。ここにインパール攻略を実施する機会が巡って来た。

 魚心あれば水心、河辺中将と牟田口中将の関係は支那の頃から良好で、今回もビルマ防衛のテーマに対して意見を求められ自説を説く機会があった。

 牟田口にとって幸いな事に、第15軍参謀長の小畑信良少将は輜重兵出身で、補給のベテランであった。

 前回の第一次インパール作戦の結果、大規模な兵力を動員せず、少数精鋭に十分な支援を与える事が出来れば不意急襲で敵陣地を抜けると考えられた。しかし二度も同じ手が通じるほど英軍に油断があると楽観視もされなかった。

 只、闇雲に突進作戦に終始すると考えず、陣地攻撃は第5飛行師団の対地支援によって行うものと兵棋演習に於いて研究、準備された。補給が途絶えては戦えぬが、それより爆弾を敵に落としてくれと言うのが前線で戦う部隊の要望だったからだ。

 河辺中将は牟田口中将を全面支援した。

「インパールを少数の兵で攻略出来ると言うなら、結構な事じゃないか。フーコンや雲南方面では敵軍が戦力を増強しつつあり、反攻の兆しが見えると言う報告も来ている。方面軍は北緬に決戦を求める事も出来る」

 ビルマ奪回を企図する敵はあの手、この手と反撃を敢行して来ていたし、敵を撃退し防衛するだけでは終わらない事も周知の事実だった。

「方面軍は緬印国境を侵す敵の攻勢を、先制攻撃でその企図を封殺する。この後に、西北部緬国境並びに雲南省付近の敵軍を叩き潰す方向で行こう」

 かくして第二次インパール作戦は根本観念として、寡少兵力を以て該方面の敵の反攻企図を事前に封殺する防衛目的であり、なるべくシンプルで済む様に兵力量は入念に検討された。

 1月7日、大陸指第1776号でインパール作戦を大本営は認可、15日には総軍と方面軍より実施命令が下達された。

 25日、第15軍は麾下の作戦参加部隊に展開命令を下達。

 主攻と助攻、インパールに指向する第一線連隊1個(歩兵第215連隊、その他所要の後方兵力を伴う)を以て、迅速に作戦目的の達成が目指された。

 山地では両端と言うべき翼の限界が存在しない為に防御には弱い。その為、攻撃側は複数の経路を利用する事が出来、今回は歩兵第58連隊基幹の宮崎支隊が助攻撃としてコヒマを占領して、アッサムからインパールまでの補給、増援を遮断する事となった。

 各支隊には通常の1個師団の弾0.2会戦分、糧秣20日分、燃料10日分が用意された。作戦を持続するには十分過ぎる量だった。

 インパール作戦開始の2月8日の朝、山本募少将指揮の山本支隊は、この日の為に用意、調教された豚や牛に騎乗して動き出した。先頭の豚の背に軍刀の鞘を立て仁王立ちしてるのが山本少将だ。

 宮崎支隊でも同様の光景が見られる。アラカン山系は必ずしも山地戦とは限らず、通過する道は所詮山地の隘路を形成している。森林地帯もあり、車輌部隊、機械化部隊の行動には不便で、豚や牛は移動手段以外に対峙するインド兵の士気を信仰の面で低下させる意味もあった。

 歩兵の行軍速度は時速4キロメートルである事から、豚の配備で向上した。赤土を巻き上げて豚の群れは進む。

 牛2頭、御兵1の牛車は200キログラムの運搬能力がある。輸送司令部の手配した自動車中隊は、不整地では動けず、逆に牛車は作戦行動可能であり、戦闘部隊に追従可能だったのが大きい。

 砲兵にとっても足は大切だ。60ミリ迫撃砲なら3.4キロメートル、81ミリ迫撃砲なら5.9キロメートル、120ミリ迫撃砲なら7.2キロメートル、105ミリ榴弾砲なら14キロメートルの射程で、山岳地域の錯綜とした地形で敵の陣地を攻撃する場合、砲兵の火力は命綱と言えるが、その分だけ重量が増す上に砲廠の様な設備での整備も必要になる。

 原始林を切り開いて作られたビルマ人の集落が途中にあった。ここに糧秣集積所や野戦病院等の後方支援体制を整えて支隊は前進を続ける。

 勝ち戦では飯が食える。腹が満たされている間は健康状態も維持されており、落伍や脱落する兵は居ない。大切なのはバランスの取れた食事と適度な攻撃前進であり、防疫給水部によって水の供給での心配も無かった。

 何故、インパールを攻めるのか兵、下士官に至るまで説明された。目的を理解しビルマ防衛と言う目標にたどり着く為の努力を各自が行う。

「突撃にぃ、前へ!」

 将校が先頭に立つと、下士官や兵は奮い立ち後に続く。必死こそ生きる道だった。

 愛嬌のある指揮官はアドバンテージがあり、部下や上官に恵まれる。

「中隊長殿に続け!」

 気持ちのアップダウンは戦場でも存在する。戦闘疲労や精神疾患で脱落する兵は悪くはないが、人として限界に達してる。それよりも逃げ出す兵が始末に悪い。

 隣の戦友が逃げ出す姿を見て、なお戦い続ける強い意思を持つ者は限られる。

 長くやってると敢闘精神も燃え尽きて来、バッドエンドを迎える。啓蒙が高まり見えない物が見えて来る。敵に圧されると何処の軍隊でも戦略持久の策を取るしか無いが、簡単には真似できる物ではなく、長時間無理してやろうとしても、遂には抵抗を砕かれるのであった。

「突っ込めぇ!」

 ロクタク湖の様な湿地帯は戦闘には不向きだ。そう考えていたが、ロクタク湖を豚や牛で渡って攻めて来た。支那方面の飯田部隊(Ⅲ/18i)加納部隊(101i)の様な無様な真似は見せない。

 馬鹿正直に正面から銃剣突撃をしたりはせずに、確実に地歩を固め敵の砲煙弾雨を極力避けて戦った。『LOST EGG』でも諦めない事、状況確認する事、創意工夫する事を訴えている。

 すげぇわ、ヤバイと言う言葉しか出てこない。

「見りゃ分かるだろ! 日本軍はインパールを落としたんだ」

 インパールを日本軍が降伏させた事で英軍は、アラカン山系を通過して行うビルマ方面への大規模な反攻は当分の間、困難となった。

 同時にインパールを占領した日本軍は、大量に鹵獲された物資の中に共産主義ロボを発見した。

「これは何だ? 戦車か?」目を丸くする兵に、若い少尉が解説する。

「ソ連のロボットだよ」士官学校の戦史教程で、ノモンハンやパクリの戦例を習っていた。

「マレーでも近衛師団の連中が手を焼かされたそうだ。今回、こいつが出てこなくて運が良かった」

 ロボットは腹が減っても戦が出来る。無傷で鹵獲された共産主義ロボは研究の為、内地に送られる事となった。その後、英軍では地走魚雷やグリンデル・マシュースの発明した殺人光線、フオシオン・ビュプレイが発明した電気砲を研究を重ね、この共産主義ロボに搭載されていた事実が判明する。

 皇国の開闢以来、重臣の数は多いが、ビルマ防衛を立て直した希代の名将、聖将と讃えられた牟田口軍司令官の様に、徳望は国中に充ち、誉れは外国まで溢れている者が何人居るだろうか。牟田口軍司令官は武臣の手本、国家の礎である。

 麾下の第15軍も精兵であったが、一部には無頼の輩も居た。第33師団の松野栄兵長、近藤善広上等兵、酒井響介一等兵は本作戦中、通過した村落で原住民の少女に性的暴行を加え殺害した事から憲兵に逮捕された。

「チャンコロや土人をどうしようと何が悪いんだ!」

 好事魔多しと言うが、強者は徒に傲る所がある。ロリコンはまだしもペドは許されない。

「銃殺にしなさい。ただしこれは提案であり強制ではない」

 性欲が枯れ果てなくても良い。姦奪を戒めるべき立場に在りながら部下を統率出来なかった直接上司の大隊長、中隊長、小隊長は解任。当人達も容疑を認め銃殺されている。

「え、嘘でしょ。ちょっと待ってよ」と思うが、お尻ペンペンで済ませず(ペド)を庇わず処断した正義は、総軍、方面軍から紳士として評価された。

 国の存亡を賭ける程でもない小作戦だったが、兵隊ごっこでしかなかったペドに哀れみをかける物ではない。

 この様にしてクリアされたインパール作戦のエンディングは、皇軍の栄光であると同時に、末尾をロリコンが汚した汚点でもあった。


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