1.共産主義ロボの脅威
古今東西、ロリコンと戦争は密接な関係を持っており、誇張や脚色される手柄話になりがちだが、崇高な使命を果たして来ていた。
世界には悪い国がある。神の国である日本に対して露助は共産主義を信奉する悪の国であり、昭和14年のノモンハン事変は、日満蒙三国の共存共栄と言う建設的想いを踏みにじり、満州の安全保障を脅かし、関東軍を忍耐と言う地獄に引きずり込む戦であった。
ステレオタイプなイメージでは、だだっ広い蒙古の草原で日本軍の歩兵が機械化されたソ連軍に挑みぼろ敗けすると言う世界線も存在するが、ノモンハンの戦いは外蒙古の主張する境界線であるハルハ河を中心に、北からフイ(721)、バルシャガル(755)、ノロ(742)の要衝3高地が舞台となった。ノモンハンは草原ではなく砂漠であった。
この時間軸での推移は異なる。ここでロリコンは大きな軌跡を残している。
共産主義は奴隷主義で自由主義では無い。満州国は反共の砦であり、対ソ連に際して満州国の西部は守備に徹すると言う事が我軍の基本方針であった。
協定は糞の役にも立たないが、その上で此方から事変を引き起こすと言う事は、独断専行許す気風があるしても考え難い物だった。
満州の防衛を統括する関東軍司令官植田謙吉大将(陸士10期、陸大21期)は、忠誠の化身、
あらゆる軍事行動の究極の目的は、敵の軍隊とその戦意を破碎するにある。「敵の不法行為(越境侵犯)には断固とした処置を行うべし」と言うのが防衛計画の要旨であり、張鼓峯で敗北した日本軍にとっては退けない事だった。
関東軍司令部作戦課課長の寺田雅雄大佐(士候29期、陸大40期首席)は張鼓峰事件では、参謀本部編制動員課の編制班長として現地を視察し、速やかな停戦を主張した一人であった。張鼓峯事件の敗北は日本軍の意識を改革した。将来の戦争で科学力が求められる、戦車や飛行機が主力になる、何れも大正時代から言われて来た事だが、先人と違い組織の思考が硬直していた。それでは日露戦役で旅順の攻陥に最善を尽くさなかった乃木や欧州大戦と同じ力押しの突撃馬鹿で終わってしまう。
いつの頃からか、満州は日本の生命線と言われる様になっていた。満州を防衛する為にはあらゆる手段を尽くさねばならない。それは当然であり、前年の昭和13年7月に内地で編制された23Dはフレッシュだが、3単位編制と言う日本陸軍にとっては味を確認した事も無い分からない物だった。
外蒙古共和国はソ連の極東赤化工作の前進基地であった。昭和14年4月頃からハルハ河付近において家畜が国境を越えた事に端を発して我が方と外蒙側との間に小紛争が繰り返された。
匪賊は日満軍に追われると国境を越えて外蒙に逃亡し、日満軍を悩ませた。満蒙国境地帯は、ゴビ砂漠で内外蒙古は分かたれているが同一民族である。赤化勢力となったの外蒙は不法越境による挑発を繰り返した。
ノモンハン警察分駐所には蒙系警士5名が配置され警戒に当たっていたが、5月12日も、外蒙軍がハルハ河を渡河、右岸に不法越境して満軍と交戦した。この事態は現地部隊から近隣の日本軍に報告された。
「露助が攻めて来た? 外蒙軍?」
ハイラルに駐屯する23D長、小松原道太郎中将(陸士18期、陸大27期)が勇猛果敢な闘将である事は、満蒙国境ノモンハン西南方領地を巡る戦いで実証されている。と言っても小松原は朴念仁ではない。妻や部下に配慮する良識ある人間だ。
終わりの見えぬ支那事変3年目とあって、戦をしたがるのは馬鹿だけであり、専守防衛の不拡大方針は心得ている。
ただ後世の目から見て、日本陸軍の将帥は無能で軍国主義な侵略者である必要があった。
23D長としてハイラルに赴任して以来、小松原の部下や関係上司から指揮能力や闘志の面で疑問を訴えた者は居ない。そもそも迷惑や愚かと人物評を受けるほどの無能が陸大を出れるはずもなかった。
そして小松原に心酔する最たる者こそ、現地の満州国軍第10管区司令官の烏爾金中将だった。
「敵は騎兵約700、満軍だけでは対処出来ないと思慮致します」
第10軍管区は興安騎兵第1、第2、第7、第8、第9団、通信隊、自動車隊(2個連)、衛生隊その他、山砲(2個連)から成っていたが、主任顧問市村中佐、参謀長丹巴上校との会同によって論議された事と考えられる。
現在の危機を平和的に解決出来る可能性も存在したが、彼らは戦いを生業とする軍人であった。
「これまで日本は、多大な努力をしてソ連との戦をせずに平和を守る努力をして来た。これから先、ソ連が本格的派兵で攻めて来るとしても、関東軍は満州を見捨てる事はあり得ない」
増援を期待したくても、支那方面での戦、ソ満国境の防衛もある。日本軍には兵力の余裕が無かった。しかし戦いから逃れる臆病者でも無かった。
小松原は烏爾金中将と話し合いを終え、当初の処置要綱に従って決断を下した。この時点で23Dの将兵は1万3千名、火砲60門と数字の上では立派な編制であったが、即応可能な兵力は、師団の捜索隊(乗馬1中隊、装甲車1中隊)と歩兵1個大隊(Ⅱ/64i)。これら部隊を以て支隊を編組し、捜索隊長の東八百蔵中佐が指揮を執る事となった。その中には幾人かのロリコンも居た。
「師団の方針としては、従来通りに一部を以て持久に任じ、主力を以て攻勢をとり敵を捕捉撃滅すると言う方針で行く。そこでだ。東支隊は師団の尖兵となり、敵の橋頭堡に攻撃前進。敵先遣隊を排除すべし」
「承知しました」
師団参謀の鈴木善康少佐(士候33期、陸大専科5期)が師団長の命令を携えて飛び込んで来た。東中佐の顔を闘志の熱気が撫でた。男として闘志を掻き立てられる。お互いの武運長久を祈り、23Dと満軍は動き出した。
張鼓峯事件の反省から、ソ連軍に火力で劣っている以上は初戦で出し惜しみをして損害を増やすのは愚の骨頂と言えた。その結果、23Dは不利な条件に抗してノモンハン方面に全力出動の挺身を敢行した。皇軍は一度動き出せば、兵力の大寡を問わず、困難に屈せず、敵撃滅の熱意あるのみであるが、やはり部隊を出せるなら多い方が良い。
「先陣は武人の誉れと言うが、小松原師団長閣下の目となり敵情の掌握する事を第一と知れ」
騎兵は女性にキスをする様に軍馬を優しく扱う。東中佐は愛馬の首筋を撫でた。
「お前と居るといつも楽しかった。帰ったら遊びに行こうな」
東中佐は騎兵らしい快活な人物であった為、厄介事から逃れられなかった。
フイ高地付近に前進した東支隊は外蒙軍を捕捉、攻撃を行い対岸に撃退したが、それは始まりに過ぎなかった。
東支隊がハイラルに帰還すると、敵は何回、攻めて来るねんとイラつく程やって来た。日本軍が迎撃に向かうと下がり、離れるとやって来る。何でまた出ないといけないんだと、マジでイラつかされた。
敵に翻弄されている。小松原は当初、蒙古軍だと考えていた。しかし戦を始めてみると相手はソ連軍であった。ソ連のやり口に腹をたてながらも、21日に64iを基幹とする山縣支隊を送り込んだ。支隊には満軍から興安騎兵第2団(何維成上校)、第8団(策特納木中校)が加わった。
山縣支隊は集結に時間がかかったが、23日にハイラルを出発、ノモンハンの北にあるカンジュル廟に前進した。この時、小松原師団長は山縣武光大佐(陸士26期、陸大38期)に思う存分やれと自由裁量の指示を出していた。
関東軍司令部も大物を狙って取り逃がすより、個々の戦闘で勝利を積み重ねる重要性を認識していた為に、余計な口出しをしなかった。ただし現地の状況を確認する為、参謀を派遣した。参謀は司偵機で上空より戦場の確認を行った。
アムコロ経由でハルハ河に向かって山縣支隊は突進、北の
支隊主力は制高点を確保し、各個に進出して来る敵に対して機を見て攻撃に出て、迅速に撃滅すると言うのが山縣大佐の構想だった。
それに対してソ連軍、外蒙軍の地形は東の日本側より50メートルも高く、東側を一望出来た。地形的有利の他に逐次戦力を増強しつつ在る中で、7月2日、23D主力は、フイ高地方面よりハルハ河左岸渡河を実行した。
左岸攻撃部隊の右第一線は72i酒井部隊、左第一線は72i岡本部隊。伊勢高秀部隊長(陸士25期)の13Aがフイ高地から近接戦闘部隊に対する密接な火力支援を実施し、3日払暁には小松台のソ連軍を撃破し、パイン・ツァガン高地を占領、前進を継続した。
右岸攻撃部隊は、安岡中将の指揮する3TK、4TK、64i(-1個大)、1SA、24Pからなる安岡支隊であった。
攻勢はソ連・蒙古軍の反攻により頓挫した。
関東軍は内地からエログロ雑誌を取り寄せ、敵の足を止める特殊心理作戦に出た。7月23日、航空機からばら撒かれた雑誌や写真により左岸台上の敵砲兵は沈黙した。この膠着状態を利用して関東軍は防御を固めた。
8月4日、萩州立兵部隊長(陸士17期、陸大28期)の指揮下、7Aが編成され、終始第一線で戦う小松原部隊長(陸士18期、陸大27期)の23Dの他に14Dと8Kの増強を受けた。
藤本参謀長(陸士26期、陸大35期)は、23iBの小林恒一部隊長(陸士22期、陸大34期)から状況を確認した。
ホルステン河の南、左第一線のノロ高地は、ノモンハンの203高地である。
その配置は北から宮崎少佐の大隊、中央に杉谷良夫中佐の大隊、南に梶川富治少佐の大隊が配置されていた。
機械化部隊1大隊、外蒙騎兵約1個師が架橋をなしフイ高地に向かっここぞとばかりに攻めて来た。
ひとたび敵が渡河して来たら、その軍勢の陣容に日本軍は目を疑った。
BT戦車やBA装甲車ならまだしも、その機械化部隊の中にはシベリア奥地の秘密都市で開発した共産主義ロボの姿もあった。ソ連の対日戦略の大転換だった。
四足歩行、全長16.5メートルの共産主義ロボは重戦車の側面を持っており、26口径76mmアンチ・キリスト革命砲と46口径45mm悪魔砲を装備していた。鈍重ではあるが火力は高く、あらゆる不整地を走破可能で、大いなる活躍が期待された。
これはソ連第57特別狙撃兵団長のフェクレンコ将軍の意思ではない。
ソ連軍に於いて
日本軍は、敵がもしかしてまた居なくなるのと警戒していたが、予想は最悪の形で覆された。
「ロボットだ!」
山縣大佐は、少年倶楽部の読み物にでも登場しそうな超兵器の登場に困惑した。しかし塹壕は掘っていたし交通壕で繋ぎ、予備陣地を築き備えはしていた。
対戦車戦闘を命じ、歩兵砲や速射砲が撃ち込まれるが糞雑魚過ぎてびくともしない。陸上の不沈戦艦と言った状況だ。
今回、東中佐は山縣支隊の右翼として動いていた。
捜索隊は若干の敵の抵抗を打破し、概ね予定の如く迂回して敵第一線の後方地帯に散兵壕を掘り陣地占領し、共産主義ロボの遮断に成功した。
東中佐は、支隊長の決心に必要な
平坦で暴露した地形とあって対岸から敵の砲撃を受けた。圧倒的火力の下では、初年兵も古参兵も関係無く、容赦の無い無差別殺戮だ。火砲や重火器を破壊され、弾薬が欠乏しても守地を守らんと日本軍は勇戦した。
「何て言うか、まぁ、忌々しい大砲だな。向こうから丸見えで沢山死ぬぜ!」
砲煙弾雨の中、窪地を探し亀の子になるしかない。東中佐は気に入らないが、被害者面をしたりはしなかった。敵から露出した陣地を強化すべく、東中佐は自らも円匙で掘りながら指導を行った。
山縣支隊はひたすら勇戦奮闘、善戦を以て攻撃せんとするも、量と装備を頼む敵を完全に破摧出来なかった。戦場はころがる四肢の断片や臓物で、放送不可。モザイク必要な絵面だった。
「甚大な損害を受ける前に撤収させるべきではないか?」
師団司令部では撤収命令を出すべきか検討されたが、敵に国境線を脅かされて退けば付け上がらせるだけだ。関東軍司令部から派遣された参謀も、初動に於いて追撃を加える事こそ最良だと提言した。
死守命令こそ出さなかったが、支隊は頑強に抵抗した。
ソ連兵は皇軍よりも感情的生き物で、負けが決まると簡単に陣地を放棄して逃げ出してしまう。アジア的優しさの血戦で敵の心胆を寒からしむる物があった。
対しての日本軍だが、23Dは小松原中将を頂点に精神的靭帯が固く、東支隊は味方が来ると言う確信もあって敵に対して勇気百倍で敢闘した。それに騎兵は砲兵と比べて陣地変換が楽だ。的にならず射たれない場所に移動すれば良いだけの話だ。
騎兵は柔軟性が求められる。今は防戦を頑張っているが、夜になれば転進をする決心をした。
西洋の列強は日本人を東洋の猿と見ているが、猿とは違う。
敵は派手に決め様とハイラルに指向しており、小松原師団長は最も要地であるフイ高地にⅡ/71iを基幹とする部隊と弾薬を、時期を逸せず逐次敵を撃滅すべく山縣支隊の応援に差し向けた。師団参謀長の大内孔大佐(陸士26期、陸大34期)も積極的行動を支持した。
戦況窮迫を告げ、満軍興安師(興安騎兵第4、第5、第6、第12団)を主力に興安学校教導隊及若干の砲兵から編組された興安支隊もノロ高地を占領し左翼を警戒すべき任務で投入された。
日本軍現地部隊による考察では、砂地の為、砲撃で陣地は破壊されやすいが、一方で砲撃の効果も減殺されていた。
しかし教育3ヶ月程度の新兵ばかりであり、砲撃、空爆を受けると戦意を低下させた。井戸や湧水すらない。戦車や装甲自動車を前に戦意を喪失させた。無断離脱者が発生する中で、石蘭斌少将の石蘭支隊が到着。
石蘭支隊は、970高地付近を占領、左翼を警戒したが、敵は、我陣地後方に対して我補給路遮断を目的として交通遮断射撃を行い士卒を飢えさせ、第一線の営長以下280名が日系軍官4名を射殺して敵方に背叛投降した。
その間、742高地を陣地占領した高島小隊は、陣地前に近接して来た敵の機動を偵知した為、これを破砕すべく夜襲を行い見事撃退、敵の遺棄死体30確認の戦果をあげる等、皇軍は果敢に戦っていた。
戦前、櫻井忠温少将(陸士13期)も人を無き戦場の時代も来るだろうと予測していたが、関東軍司令部は敵の新型兵器であるロボットに苦戦との報告を受けて、「嘘だろ!」と報告内容を疑って派遣した辻参謀から、事実であると報告を受けるに至り受け入れた。
東支隊の固守する前線で敵情を観察した結果、戦略持久の方針ではあったが、戦車阻止施設での足止めを行いながら肉薄攻撃班が背後に回り込む程度の対応では処理出来ず、共産主義ロボに死角無しと、当時関東軍参謀本部に勤務していた辻政信少佐(陸士36期首席、陸大43期恩賜)は記録している。
「辻参謀、一機でも二機でも良い。飛行機が攻撃してくれたら助かります!」
「誓って御伝えしましょう」
辻参謀は陸軍の逸材でありその
熱河や徐州会戦で、今日まで我が快速部隊が行った成功から考えても、敵が背後への挺身を企図してる事は明白であった。東中佐の要望に応えるべく辻参謀はハイラルへ報告を急いだ。
支那兵相手に無敵皇軍だった我軍だが、露助は砲兵も段列も輓馬部隊の日本軍と違い、トラック3千台、油槽トラック1300台で、野砲も自動車で牽引し、装甲車や戦車の機甲戦力も充実していた。
銃剣突撃で支那軍は蹴散らせても、戦車や装甲車を前面に押し立てるソ連軍相手には上手くいかない。死にゲーすらぬるすぎる。
関東軍司令部作戦課による敵兵力見積もりは、狙撃1個師団、火砲120門、戦車2個旅団、外蒙軍騎兵2個師団であったが、実際は狙撃2個師団(各師団に砲兵2個連隊、戦車1個大隊を含む)、空挺1個旅団、戦車1個旅団、装甲車2個旅団、狙撃兵1個連隊、砲兵2個連隊の規模だった。
現実を前に気持ちは引きずらない。日本軍は全力投入により重砲と航空隊による空爆で対処しようとした。
「敵が越境して本格的攻勢に出ている以上、策源地を叩く必要がある。国際的にも自衛の範疇として越境作戦による反撃は許される」
しかし日本側の対応は後手に回る。
8月20日、火砲600門、航空機250機による敵の攻勢が始まった。
ソ連側指揮官ジューコフ中将は、外蒙古の主張する領土、ハルハ河右岸地帯を固守すべく命じた。赤旗を掲げブルジョア国家を全プロレタリア同志と共に倒すだとかお題目はどうでも良い。装備が揃い目標が決まり、行動の理論を実践する時が来たのだ。
共産主義ロボは日本軍の攻勢本拠地であるハイラルを覆滅し、国境線を東に推進すると言う方針で動いていた。
敵は優勢なる砲兵の支援を有し我に数倍する戦車を以ており、有利な地形を利用して攻撃して来る。
更には第一梯団が衝撃力を失えば第二梯団が代わって進む。中途に攻撃が挫折する事を防ぐ現代版車懸かりの陣であった。
ディヴォーションLMGやマスティフショットガン、進化式ボディシールドも存在しない世界。日本軍から見れば、敵の装備は猛烈に嫉妬したくなるが無い物ねだりだ。
撃滅せねば止まぬ勇猛果敢な精神は敵ながら天晴れだが、矢面に立つ皇軍将兵にとってはたまったものではない。
戦では、テーベの英雄エパミノンダスが新戦術でスパルタの精鋭を撃破した様に、パラダイムの転換が必要だった。
共産主義は博愛や愛する為に生まれて来たのではない。革命の暴力こそアカの本質だと言える。だからこそ皇軍は醜くて汚いアカと戦う。生存競争であり敵を潰すのは当然だった。
偶然は必然でもある。意外な場所に勝利の鍵が転がっていたりもする。
ソ連軍の大規模な侵犯が起き、第一線各中隊は希望を失いつつある中で、相互に掩護する事で孤立を防ぎ奮戦死闘を繰り広げている。優勢な敵の執拗な攻撃に対して、寡兵な23Dにとって国境の防御作戦は厳しい物があったが陣地を死守している。算定から勝ち目が無くても、大本営や関東軍司令部への面目から戦わずして後退や降伏する選択肢はない。
「戦勢我に不利とあるが、何れにしても事態の収集は急がれる。正し解決を急ぐあまり兵を徒に失うわけにはいかん」
関東軍は壮烈凄惨な戦闘詳報を受け取り、今回の戦が予測出来た事だと悔やまれた。
「絶対優勢な敵を制圧するには、一致団結してソ連軍を排除する。その上で砲兵と航空機の協力は不可欠だ」
我が北支軍と中支軍は、襄東作戦を実施したばかりであり休養を必要としている。増援は望めない。軍司令部の責任もあって真摯に向き合い、23Dに防戦を任せる事は不適当であるとして、ここに於いて増援として7Dの派遣が決定された。
「敵が持久行動を行う以上、決戦地区に兵力を集中し、迅速果敢に攻撃を続行して速やかに目標を奪取するべきです。ここは第2師団と第4師団を増加配属しては如何でしょうか」
「防御は攻撃と表裏一体とは言え、何事もやり過ぎは良くないよ。関東軍を総軍に格上げするには参謀本部が嫌がる。関東軍を良くするには大局的見地が必要だよ」
満州西正面の一角に日ソ両軍は神経を集中している。全面戦争寸前であるならば、避ける努力は必要だった。絶対的正義、関東軍の組織としての未来の為に賛同した。
内地の中央では、参謀本部作戦課長の稲田正純大佐(士候29期、陸大37期優等)が今回の国境紛争に関する関東軍の処置した対応で、軍務局課長岩畔豪雄大佐(陸士30期、陸大30期)と激論を交えた。関東軍の増派に対する人情論と、戦争を拡大させてはどうするのかと言う理論だ。
「けちけちするな。やるなら2、3個師団ぐらい増やして一発で終わらせろ。敵の航空基地も叩き潰す位の事はやらねば日本が舐められる」
戦場では、機先を制して徹底的に叩くしか結末はつけられない。陸軍大臣板垣征四郎中将(士候16期、陸大28期)が先輩である植田大将の決定に反対する事はあり得ない。関東軍司令部とは逆に中央はやってしまえと言う空気になっていた。
敵は疾風迅雷の勢いを以て猛撃すべき所だが、その動きは泰然と言うか遅々としている。日本軍陣地前の要点を占領して偵察に努め、絶対優勢を以て撃滅し、ハイラルを奪取すると言う正攻法に拘っている。陣地があるなら取らなくてはいけないと、頑迷に思い込んで沼にはまっていた。それが付け目だった。
日本兵が戦場に持ち込んでいた
忠臣義士の美談が現代でも人々の魂を突き動かす様に、リビドーも人を動かす。この場合、動きを止めた。
これこそ戦機熟した瞬間であった。
即日、タムスタ、マタット、サンベースの航空基地が日本軍による空爆を受け破壊された。先制攻撃による敵基地攻撃が必要であると言う証明であった。
関東軍司令部の寺田参謀は、東京に攻撃成功を報告。参謀本部の稲田作戦課長は寺田参謀と同期であり、「おめでとう。良くやってくれた。大戦果だな」と喜んでくれた。しかし寺田参謀は青筋を浮かべて怒鳴った。「馬鹿野郎、何が大戦果だ。此方は戦をやってるんだぞ。早く応援をよこせ」稲田課長は思いがけない叱責に浮かれた気持ちを消沈させて謝罪した。
この空爆が効果を現し始めソ連軍は攻勢限界に達し、日本軍の大兵団が増派されるに到りハルハ河西岸に敵兵力が駆逐され引き分けに持ち込んだ。
ジューコフ将軍が評価する様に、日本陸軍はよく訓練されており、規律を持ち頑強、防御戦に強い。
火炎瓶の尽きた右翼フイ高地の日本軍守備隊は、糧秣の中にあった塩を共産主義ロボに投げつけた。破れかぶれの反撃だったが、浸透圧によって装甲は砕け共産主義ロボを遂に撃破したのだった。中央の733高地、左翼のノロ高地でも我軍の守備隊は、決死的奮闘で勇戦した。
その後は再度の戦に備える一方で、昇進や異動、勲章や感謝状の流れがあり、勝っても負けても組織のルールは変わらない。
後に参謀本部第四部から聞き取り調査を受けた植田軍司令官、小松原師団長はノモンハンの戦史編纂で大いに協力し戦訓を残した。一方で、知己を得た新聞社の従軍報道班員に対して、戦死した兵達の親に顔向けがならないと異口同音に述懐している。
2.共産主義ロボ、再び
慶応4年1月の設置以来152年、日本と東亜の秩序を第一線で守る我が陸軍には様々な美談がある。
支那の戦では、南苑の五ノ井中尉、酒井大尉。居庸関の峯中尉、京漢線無名高地であった平頂山の長尾中尉等は著名な存在だ。
米英蘭豪相手に
世紀の大戦争である大東亜戦争開戦劈頭のマレー作戦は、帝国一億国民に止まらず、全世界、全宇宙を感激と畏怖させた。
反面教師としては、勇猛だが部隊を全滅させた軍神五反田戦車隊長の逸話が、80年過ぎてなお私達の失笑と批判を免れはしない。
日本は東亜の正義を守る国だが、大英帝国は二度の世界大戦で落ちぶれるまでは、世界を経済的にも征服しようとしていた。邪悪な野心は世界に沢山の植民地を作った事からも言える。
そしてシンガポールに築きあげた難攻不落の大要塞は、大英帝国の東亜に於ける作戦中枢をなしていた。また米国の支配するマニラと相呼応する対日包囲陣の本拠で重要性があった。
忠誠勇武な陸軍にとって仮想敵国は、日露戦役の頃からロシアであり北方重視であった。その為、太平洋の島嶼を巡る対米戦は巻き添えを喰らった形で、控え目に言ってカスな海軍が主役になる為の戦争と言えた。
昭和16年11月6日、南方軍総司令官に親補された寺内寿一陸軍大将は、同日、大本営陸軍部で、参謀総長杉山元陸軍大将より大陸令第555号が発令され、世紀の大渡洋作戦となる作戦準備に取りかかった。
敵航空基地攻撃による航空撃滅戦で、航空優勢を確保。次いで上陸と言う基本方針だが、マレー方面だけは違った。
南方要域確保の為、12月4日に南遣艦隊の護衛で輸送船17隻、病院船1隻は海南島を出港。7日、インドシナ半島沿いにシャム湾に向かい北上していた輸送船団はG地点から、6箇所の上陸地点に向けて分散した。
プラチュアプ、チュンポーン、バンドン、シンゴラ、バタニはマレー領だが、コタバルはマレー領で敵地だった。
その為、我が精強たる皇軍は12月8日猛将名高い山下中将の第25軍は全軍に先駆けて動き出した。マレー半島にあるマレー領コタバルのケランタン河口東側海岸に輸送船3隻に分乗した18D先遣隊である56i(+)/18Dの侘美支隊、42i(+)/5Dを基幹とする安藤支隊は輸送船4隻でタイ領バタニー河口西側海岸、5Dを基幹とする軍主力は輸送船10隻でシンゴラ東側海岸に上陸した。
さすがに3個師団約11万人を一度に運ぶ渡洋能力は日本には無く、実際は1/4の2万6千が初動部隊だった。
対する英印軍はマレー英印軍司令官パーシバル中将の指揮統率下、北部マレーシアの防衛にマレー・ライオン少将の第11印度師団(第6、第15旅団)を配置し、アロルスター前面のチャンルン〜ジットラ間に縦深数十kmの三線陣地を構築し、これをマレー防衛の第一線としていた。
東部海岸には第9印度師団(第8、第22旅団)で、第28独立歩兵旅団と共にサー・ルウィス・ヒース中将の指揮下で第Ⅲ印度軍団を構成していた。
大要塞シンガポール島はチャンギー、ケッペル、ランジャンの要塞を拠点としてゴードン・ベネット少将の第8豪州師団(第22,第27旅団)、第12独立旅団、馬来旅団で空前絶後、史上最強、鉄壁の守りであった。
鉄条網と地雷が敷設され、トーチカによる堅固な陣地の築かれた敵前上陸作戦。コタバルは鳥肌ヤバ太郎で大きな犠牲を覚悟された。
未明、コタバルに大挙敵前上陸を敢行、初めからクライマックスであり、航空機による対艦攻撃と沿岸の敵陣地からの濃密な火網により犠牲は刻々と増える。
「殺す、殺す! 取り敢えず殺す」
忠勇無比な皇軍将兵は敵の堅陣を果敢に突破し、勇戦奮闘、神速果敢に敵飛行場を制圧し、コタバル市を攻略した。
一方、シンゴラ上陸部隊は炎暑の中、国境を突破し、サダオ附近に於いて敵軍を夜襲、壊走させてアルスターに殺到し激烈な戦闘を展開した。
マレー方面航空部隊は第5飛行集団であり、特に第12飛行団長の青木武蔵大佐の活躍は、戦後も長く語り継がれている。
海軍軍令部第3部の結踵海軍中佐は、藤原岩市少佐の陸軍F機関と協力し、友軍部隊の進撃を支援すべく、マレー半島及シンガポール島の後方攪乱に携わった。
敵の猛烈な防御砲火を冒して敵陣を突破した皇軍将兵は、カワウソをモリモリ食べながら敵軍の猛追撃に移った。
当時、第25軍参謀の作戦主任であった辻政信中佐は戦時中に発行された「大東亜戦記」や戦後に執筆した「シンガポール」の中で、皇軍の上陸したコタバルからジョホール・バルまで1100キロ、東京~下関に相当する長距離を突破して行く過去に例の無い作戦と表現している。
確かにマレーの地形は平地に乏しく、大部分が山地とジャングルで、兵用地誌の準備も捗っていなかったから道路を外れての進撃は難しかった。だからこそ開戦前は守備側が有利と考えられた。
だがマレー東岸南下部隊は密林、湿地帯を突破、トマトを食べなければ殺すぞとばかりに敵を追撃、適時要地を攻略した。
一方、マレー西岸南下部隊の突進作戦は雨季と言う利点もあった。敵第1の防衛線ジットラを突破して敵機械化部隊を破砕しつつ進撃、敵第2の防御線ベラク河を敵前渡河し、阻止せんとした敵の機先を制した。この時までに敵兵力は半数壊滅せしめられたのである。
野菜嫌いでチー牛食べてそうな英軍は、シンガポールの本防御陣としてマレーの首都クアラ・ルムプールを死守すべく作戦指導、北方スリム地区に野戦軍を動員したが、この一戦で脆くも皇軍に包囲殲滅され11日には完全占領。英軍の抗戦力はガタ落ちしたのである。
人生何をやっても上手く行く時がある。昭和17年1月中旬、幸運スパイラルに入っており日本軍にとって全般有利な形勢であったが、
パクリで
実際、インドや豪州からの寄せ集めでジャングルの戦闘に適した装備とは言えなかったが、インド独立第45旅団を基幹とする部隊が、速射砲、野砲、迫撃砲、機関銃、地雷や鉄条網を備え、堅固な防御で展開していた。
「不意打ち過ぎた。日本軍は強いそうだぞ」
「いや、でも逃げちゃ駄目だろ」
本当に優先すべき事、目標はシンガポールの防衛であり、防御体制構築、陣地強化の為に日本軍の進攻を遅延させる事がマレー半島に展開する部隊の目的だった。
敵は抵抗の主体を道路と橋梁の破壊に置き、破壊點の前方に、砲兵の制圧帯を設け、日本軍が近付くと急襲的に火力を指向した。
18日、国司追撃隊の前衛である
しかし伊藤部隊は予想外の強敵に遭遇した。共産主義ロボだ。
イギリスは独ソ戦勃発で厳しい台所事情ながら、対ソ援助を行っていた。スターリンは対日参戦こそしていないが、熱帯地方での戦訓を手に入れる好機でもあり、イギリスに恩を売るべく、シンガポール防衛の支援として共産主義ロボの改良型を義勇兵の形で送り出していた。
ノモンハンでも鈍重だった共産主義ロボは、さらに足場の悪い湿地帯や密林があるマレーであっても防御戦闘では強さを発揮して、猛烈な集中砲火を浴びせて伊藤部隊の前進を阻んだ。
勇戦敢闘しつつも死傷者が続出する中で岩畔豪雄大佐は、麾下の
大柿部隊の背後遮断に対して敵は逆襲を図るが、日本兵が持ち込んでいた少女のピンナップを発見、足を停めてしまった敵戦車に対してガソリンを積めたサイダー瓶で果敢に防戦し撃退した。
19日夜半、国司追撃隊に配属された戦車第14連隊第2中隊(五反田戦車隊)は、作戦を失敗に帰しめる愚行を犯した。
「ロボットが何だと言うのです。小回りの利く我々の方が遥かに有利です!」
作戦要務でも「機械化部隊は特性を利用して迅速に目的を達成する如く行動する事緊要なり」とある。しかし、当時の日本陸軍は現代の10式戦車や90式戦車と比べて、蝿にもなれない装甲車に毛がはえた程度の戦車を装備していた。95式軽戦車である。
今までは騙し討ちの奇襲の効果や勢いが凄い物で、破竹の快進撃を見せていた。
五反田大尉は笑おうとして、岩畔大佐の表情を見て止めた。
「うん、五反田大尉。貴官のやる気は買うが、ちょっと待ちんしゃい。ここは歩兵と協力して慎重に事を進めるべきでは無いかな? 待っときんしゃい」
「お言葉ですが連隊長殿、歩兵の速度に合わせていては戦車の邪魔でしかありません」
五反田大尉は戦車に対する過信から敵を鎧袖一触と完全に舐めきっていた。しかし敵の兵力、火砲は増強されている。
尖兵を任じられた戦車中隊は、敵陣を突破して主力の前進を容易にさせる事を目的とするが、状況は悪い。
この重大なる戦で第一線の状況を把握せず、全車揃ってもいない上に歩兵を随伴させず無謀にも戦車のみで敵陣突破を図り、共産主義ロボの猛火に曝されて五反田大尉以下戦車隊は全滅した。
「五反田大尉戦死、戦車隊は一両を除き全滅しました」
「あの馬鹿たれめ!」
旅順要塞に強襲を試みて十万の将卒を殺した乃木と変わらぬ愚行、蛮行だった。
岩畔大佐は責任感と誠意ある人物だが、彼の軍人生活の中で、五反田の暴走を許した事は、生涯を通じて禍根の残る物だった。岩畔大佐の決心に従っていたら戦車隊は敗れる事も無かった。
戦場で情報が錯誤する事が無くても、頭がおかしい指揮官はどうしようもない。護国の華と散ると言葉を飾っても、指揮官が自己陶酔で状況判断の出来ない阿呆だったと言える。
一方の大柿部隊は皇軍の武威を遺憾無く発揚した。20日、大柿大隊長は激しい闘志をみなぎらせながらも戦死、主だった幹部が死傷した結果、新米士官が大隊残余の指揮を執って敵の遮断を完遂した。
共産主義ロボは鈍足が仇となり支援を受けられず遊兵化しつつある。岩畔大佐は軍使を派遣して投降勧告を再度行わせたが拒絶される。
報告を受けた第25軍司令部の作戦主任、辻参謀は「何故もっと早く報告しなかったんだ!」と叱責、ノモンハンの経験から共産主義ロボには塩による攻撃が有効として、タイから塩を運ばせた。
その結果、午後にはパクリの敵を殲滅し勝利する事が出来、四分五裂してマレー半島南端に追い詰められる敵軍。国威を維持してシンガポールに攻め込み、城下の誓いをさせる事が出来た。
3.共産主義ロボ、三度現れる!
昭和17年、忠勇義烈なる皇軍将兵の勇戦敢闘した戡定作戦により、英軍が
北部仏印や支那沿岸部が日本軍の勢力圏に入っており、援蒋ルートとして米英は使えない。その為、長駆インドのチッタゴンとコルカタから北東、ビルマ北部を掠めて支那にやって来る。
中には20以上のカーブのある道もあり、設計士は「おめぇ頭おかしいんじゃねえの?」と言われても仕方がない。それらは地形の制約から、ビルマに近いレドを経由する。
遮断するだけなら日本軍は、フーコン谷地から北緬の米支軍(NCAC)を掃討してレドを叩く、あるいは拉孟から雲南の保山に推進、雲南軍(Y-Force)を撃滅すると言う選択もあった。
日本軍が先にやらなければ、敵が先に攻めて来る。これは事実であり日本側の懸念も間違いでは無かった。昭和17年には米軍のスティルウェル将軍によって、インパール方面から米1個師団、英軍3個師団、支那軍2個師、雲南方面から支那軍12個師によるビルマ~タイ進攻、支那軍9個師によるハノイ進攻、支那軍による香港奪還等を計画として纏めていた。
実際、昭和18年には雲南の支那軍が32個師に増強されており、各2~3個師の11個軍が5個集団軍として編成されていた。勿論、支那軍の1個師が単位に対して他国の師団より規模は小さかったので、米軍からも実質的には11個師団と見られていた。この他に沿岸部に英第15軍団(3個師団)、インパール方面に英第5軍団(3個師団)、レド方面にCAI(2個師団)が展開している以上、懸念や危惧では済まされない状況だった。
そうして昭和18年2月初旬、第18師団長牟田口廉也中将(陸士22期、陸大29期)は麾下の歩兵1個連隊を基幹とする支隊によるインパール攻撃を実施させた。いわゆる第一次インパール作戦である。
インパールは印緬を区切るバトカイ大山系の盆地帯で、マニフールロードの中心で、バレル、レドと結ばれている。
チンドウィン河を渡河して、アロー~パンタ~タム~インパールの経路で、アラカン山系を走破。敵中突破による急襲で英軍の攪乱を目的とする打通作戦である。
作戦は第21号作戦とは別物で、木庭大大佐の歩兵第55連隊(第2大隊欠)を基幹に、山砲第18連隊、工兵第18連隊、師団通信隊、輜重兵第12連隊、衛生隊、野戦病院、防疫給水部等から抽出した部隊で編組する木庭支隊によって実施された。
チンドウィン河の水深は相当あり戦前は汽船が航行していた。ミンヂャンの対岸でイラワディ河に合しており、河川の利用による補給や部隊の移動が容易と言えた。
この頃、英印軍第4軍団は不運な事に、チンドウィン河畔に於いて反攻作戦の準備を推進中であったが日本軍に先手を打たれた形となった。
渡河に必要な舟艇や器材を一支隊程度ならば確実に用意出来る。船舶工兵の舟でユウ河経由で渡り、雪崩れ込む様に突っ込んだ木庭支隊はアローを占領、敗走する英軍を蹴散らし、一部は追い越してタムに前進した。敵は、兵站・補給が困難になるアラカン山系の障害にを突っ切って日本軍が攻めて来るとは考えていないと言う隙があった。
木庭大佐は、牟田口師団長より未開の地で遠距離挺身を行う事になるので、無理をせず雨季までに帰還する様に命じられていたが、まだ戦える。それこそ何処までも行けそうな勢いだ。
戦機を掴み出来るだけ戦果をあげることは暗黙のルールであり、軍人の本分と言えた。
「日本軍は依然として北上中!」
「それ動きが俊敏過ぎるだろ! 日本軍主力は何処に居るんだ!」
英軍は存在しない主力の影に怯え判断を誤っていた。司令部には重苦しい空気で漂う。
木庭支隊は防御の第3線まで突破したが、タムの市街には堅固な陣地が築城されている。敵は航空優勢の利点があり、木庭支隊は突撃では抜けず、その上、滅茶苦茶に空爆を受けた。更にはインパールから増援が急行していた。
敵の火力は強い。督戦は無いから逃げる事は何時でも出来る。行動の自由を与えられていたが、木庭大佐はレド公路の切断は無理でも、インパールにせめて一撃を与えた上で引き揚げようと考えた。
木庭大佐は険しい山間部の移動で悩まされていた砲兵を、第3大隊と共にタムの抑えとして残し、支隊の残りは夜陰に紛れモーレに迂回して、パレル方面に向かって北上した。
日本軍の精兵振りを身を以て経験し知り尽くしていた英軍は、バレル手前のシェーナムに兵力を増員され、今や最大の要点となった陣地を築いて待ち受けていた。そこに木庭支隊は飛び込んでしまった。
シェーナムで第1大隊の半数を失う損害を出した木庭支隊だが、その活躍に18Dは、補給を送る為にチンドウィン河を越えアローに一部部隊を推進、糧秣、弾薬を集積したが、敵の執拗な空爆で足止めを食らっていた。
「木庭支隊は尚更、補給が必要だろうに」
これから5月には雨季が来る。雨季に入ると兵站線は泥濘となり、河川の氾濫で輸送は途絶する。輜重兵は輸送が本来の任務だが、彼らでも一苦労する。
牟田口師団長はこれ迄と考え、木庭支隊にアローへの転進を命じた。歩兵が不足して戦力が低下した事を認め、木庭大佐も執着する事無く後退を決心した。
後退する木庭支隊を追撃した英軍は、バレルで待機していた山砲と工兵の仕掛けた罠に飛び込み、世界最強のM3グラント中戦車までもが血祭りにあげられた。更に松の木が道路を塞いだ。こうなっては戦車に勝ち目が無い。敵が後退する。
かくして木庭支隊は、脅威を排除した事でゆっくりと逃げきれた。
アローで木庭大佐を迎えた牟田口師団長は慰労と感謝の言葉を告げた。中でも兵を喜ばせたのは酒に煙草、甘味と言った嗜好品だった。
「気が利くじゃないか」
頑強な敵を相手にしながら、実質的に勝ち進み続けた事から、十分な兵力と補給があればインパール攻略は可能であったと牟田口師団長は自信をつけた。安全な道にこそ勝機がある。「来年だ。来年こそは、インパールを手中に収める」と。
一方、ラングーンの第15軍司令部は、牟田口師団長からの戦闘詳報に頭を悩ませる事になった。敵の捕虜や鹵獲した文章からも英軍は反攻を計画しており、実行されていたらビルマは混乱に陥り皇軍の威信は低下していた。今回は偶々運が良く、木庭支隊の冒険的な攻撃によって敵の計画が頓挫したが、問題は日本軍による敵状判断が完全に間違っていた事が浮き彫りにされた。事は重大だ。軍司令部はもとより、総軍、大本営の慢心と怠慢が明白だった。
「もし牟田口中将が、師団の全兵力を派遣していれば、タムはもとよりインパールまで攻略していただろう」
軍司令官飯田祥二郎中将(陸士20期、陸大27期)の言葉は全員が頷ける物だった。
シェーナムを越えればバレルは目前であり、バレルに推進すればインパール攻略も夢ではなかったと、第15軍作戦参謀不破博中佐(陸士39期)も同意している。
第15軍後方参謀釘宮真石中佐(陸士34期)からの報告を読んだ総軍も、補給量を統制せず第15軍に十分な用意を与えなかった事を悔やんだ。
英軍は、日本軍による今回の攻撃を、本格的攻撃前の威力偵察と判断。当然、二度目は許さず防備は更に固められた。
3月、
魚心あれば水心、河辺中将と牟田口中将の関係は支那の頃から良好で、今回もビルマ防衛のテーマに対して意見を求められ自説を説く機会があった。
牟田口にとって幸いな事に、第15軍参謀長の小畑信良少将(陸士30期恩賜、陸大36期)は輜重兵出身で、輜重兵畑を歩んだ補給のベテランであった。
前回の第一次インパール作戦の結果、大規模な兵力を動員せず、少数精鋭に十分な支援を与える事が出来れば不意急襲で敵陣地を抜けると考えられた。しかし二度も同じ手が通じるほど英軍に油断があると楽観視もされなかった。
只、闇雲に突進作戦に終始すると考えず、陣地攻撃は第5飛行師団の対地支援によって行うものと兵棋演習に於いて研究、準備された。補給が途絶えては戦えぬが、それより爆弾を敵に落としてくれと言うのが前線で戦う部隊の要望だったからだ。
河辺中将は牟田口中将を全面支援した。
当時、南方軍や方面軍は、緬甸方面周辺の敵兵力約160万にして、内英印軍約120万、米及米式化支那軍10万、支那軍30万と分析していた。
対する方面軍は、拉孟、騰越、ミイトキイナ、カマイン、カレワ、アキャブを連ねる線に包括されたる緬甸要域を確保すべく、日本軍約20万の外、緬甸兵補軍夫約80万と記録が残っている。
「インパールを少数の兵で攻略出来ると言うなら、結構な事じゃないか。フーコンや雲南方面では敵軍が戦力を増強しつつあり、反攻の兆しが見えると言う報告も来ている。インパールを落として印支地上連絡線の遮断が出来たならば、雲南支那軍を牽制抑留すべく、方面軍は北緬に決戦を求める事も出来る」
ビルマ奪回を企図する敵はあの手、この手と反撃を敢行して来ていたし、敵を撃退し防衛するだけでは終わらない事も周知の事実だった。
「方面軍は緬印国境を侵す敵の攻勢を、先制攻撃でその企図を封殺する。この後に、西北部緬国境並びに雲南省付近の敵軍を叩き潰す方向で行こう」
かくして第二次インパール作戦は根本観念として、寡少兵力を以て該方面の敵の反攻企図を事前に封殺する防衛目的であり、なるべくシンプルで済む様に兵力量は入念に検討された。
翌年昭和19年1月7日、大陸指第1776号でインパール作戦を大本営は認可、15日には総軍と方面軍より実施命令が下達された。
方面軍は18日に所定前送量の輸送を完了。ラシオ、シュエボ、ニニワ等の第一線集積点、マンダレー、メイクテーラ、ラングーンの第二線集積点、カロー、トングー、モールメンの第三線集積点に合計して、弾薬約6個師団に応ずる1会戦分、燃料全兵力に応ずる約40日分、糧秣全兵力に応ずる約4ヶ月分、衛生材料全兵力に応ずる約半年分であった。
25日、第15軍は麾下の作戦参加部隊に展開命令を下達。
主攻と助攻、インパールに指向する第一線連隊1個(歩兵第215連隊、独立速射砲第1大隊、山砲兵第33連隊第2大隊、その他所要の後方兵力を伴う)を以て、迅速に作戦目的の達成が目指された。
山地では両端と言うべき翼の限界が存在しない為に防御には弱い。その為、攻撃側は複数の経路を利用する事が出来、今回は歩兵第58連隊基幹の宮崎支隊が助攻撃としてコヒマを占領して、アッサムからインパールまでの補給、増援を遮断する事となった。
各支隊には通常の1個師団の弾0.2会戦分、糧秣20日分、燃料10日分が用意された。作戦を持続するには十分過ぎる量だった。
数字を見せられた33D長柳田元三中将(陸士26期、陸大34期優秀)は、軍司令官と師団長の頭の出来の違いがこれかと漏らした記録が残っている。
インパール作戦開始の2月8日の朝、
先頭の豚の背に軍刀の鞘を立て仁王立ちしてるのが山本少将だ。215i長の笹原政彦大佐は、失笑を耐えながら後続する豚に跨り続いていた。
弓兵団の宮崎支隊でも同様の光景が見られる。アラカン山系は必ずしも山地戦とは限らず、通過する道は所詮山地の隘路を形成している。森林地帯もあり、車輌部隊、機械化部隊の行動には不便で、豚や牛は移動手段以外に対峙するインド兵の士気を信仰の面で低下させる意味もあった。215iの作戦主任片山大尉は、当初、この計画を聞かされた時には冗談だと思ったと、同僚の情報主任増田中尉に語っている。
歩兵の行軍速度は時速4キロメートルである事から、豚の配備で向上した。赤土を巻き上げて豚の群れは進む。
牛2頭、御兵1の牛車は200キログラムの運搬能力がある。輸送司令部の手配した自動車中隊は、不整地では動けず、逆に牛車は作戦行動可能であり、戦闘部隊に追従可能だったのが大きい。他にも軍馬や象輸送隊も存在した。
砲兵にとっても足は大切だ。60ミリ迫撃砲なら3.4キロメートル、81ミリ迫撃砲なら5.9キロメートル、120ミリ迫撃砲なら7.2キロメートル、105ミリ榴弾砲なら14キロメートルの射程で、山岳地域の錯綜とした地形で敵の陣地を攻撃する場合、砲兵の火力は命綱と言えるが、その分だけ重量が増す上に砲廠の様な設備での整備も必要になる。アラカン山系を走破するには、重装備の部隊では移動が困難だ。
その為に第15軍には第5野戦輸送隊司令部が配属されていたが、第2野戦輸送隊司令部が増強されている。
第2野戦輸送司令官粕谷留吉大佐(陸士25期)が北兵站地区司令官となり、独立輜重兵第2連隊を指揮下に入れて、15D及び31Dの後方を担任し、第5野戦輸送司令官吉田清秀少将(陸士29期)が中兵站地区司令官となり、独立輜重兵第3連隊を指揮下に入れて、33D及び軍直轄部隊の後方を担任した。
原始林を切り開いて作られたビルマ人の集落が途中にあった。
現地産の茄子や胡瓜、猿の肉を仕入れ易い事から、ここに糧秣集積所や野戦病院、兵器勤務隊、経理勤務隊、師団病馬廠、師団無線等の後方支援体制を整えて支隊は前進を続ける。
糧秣や弾薬、医薬品等の輸送は輜重兵の他に、ビルマ国軍の協力や雇われの
勝ち戦では飯が食える。腹が満たされている間は健康状態も維持されており、落伍や脱落する兵は居ない。大切なのはバランスの取れた食事と適度な攻撃前進であり、防疫給水部によって水の供給での心配も無かった。
「軍は何故補給に対しかくも親切なりや。その誠意、温情真にありがたきなり」と柳田中将は日記に書き残している。
何故、インパールを攻めるのか兵、下士官に至るまで説明された。目的を理解しビルマ防衛と言う目標にたどり着く為の努力を各自が行う。
「突撃にぃ、前へ!」
将校が先頭に立つと、下士官や兵は奮い立ち後に続く。必死こそ生きる道だった。
愛嬌のある指揮官はアドバンテージがあり、部下や上官に恵まれる。地図を見るだけで前進経路がイメージ出来る様に、頭に叩き込んで居た。
「中隊長殿に続け!」
気持ちのアップダウンは戦場でも存在する。戦闘疲労や精神疾患で脱落する兵は悪くはないが、人として限界に達してる。それよりも逃げ出す兵が始末に悪い。
隣の戦友が逃げ出す姿を見て、なお戦い続ける強い意思を持つ者は限られる。
長くやってると敢闘精神も燃え尽きて来、バッドエンドを迎える。啓蒙が高まり見えない物が見えて来る。敵に圧されると何処の軍隊でも戦略持久の策を取るしか無いが、簡単には真似できる物ではなく、長時間無理してやろうとしても、遂には抵抗を砕かれるのであった。
「小隊、突撃に、進めぇ!」
「突っ込めぇ!」
号令と喚声が雄叫びとして聴こえる。
ロクタク湖の様な湿地帯は戦闘には不向きだ。そう考えていたが、ロクタク湖を豚や牛で渡って攻めて来た。支那方面の
歩兵主体なのだから、馬鹿正直に正面から銃剣突撃をしたりはせずに、確実に地歩を固め敵の砲煙弾雨を極力避けて戦った。『LOST EGG』でも諦めない事、状況確認する事、創意工夫する事を訴えている。
英軍からしたら敵の日本兵は、すげぇわ、ヤバイと言う言葉しか出てこない。恐怖指数が上がっている感じだ。
「見りゃ分かるだろ! 日本軍はインパールを落としたんだ」
日本軍各支隊の機動は順調に進捗し、後続の自由独立印度国民軍もパレルに進出しつつある。孤立のインパール敵集団は戦車砲兵を有する有力な戦力であったが、急速に戦力を消耗して日本軍に降伏した事で、アラカン山系を通過して行うビルマ方面への大規模な反攻と印支地上連絡線の利用は当分の間、困難となった。
同時にインパールを占領した日本軍は、大量に鹵獲された物資の中に共産主義ロボを発見した。
「これは何だ? 戦車か?」目を丸くする兵に、若い少尉が解説する。
「ソ連のロボットだよ」士官学校の戦史教程で、ノモンハンやパクリの戦例を習っていた。
「マレーでも近衛師団の連中が手を焼かされたそうだ。今回、こいつが出てこなくて運が良かった」
ロボットは腹が減っても戦が出来る。無傷で鹵獲された共産主義ロボは研究の為、内地に送られる事となった。その後、英軍では地走魚雷やグリンデル・マシュースの発明した殺人光線、フオシオン・ビュプレイが発明した電気砲を研究を重ね、この共産主義ロボに搭載されていた事実が判明する。
皇国の開闢以来、重臣の数は多いが、ビルマ防衛を立て直した希代の名将、聖将と讃えられた牟田口軍司令官の様に、徳望は国中に充ち、誉れは外国まで溢れている者が何人居るだろうか。牟田口軍司令官は武臣の手本、国家の礎である。
麾下の第15軍も精兵であったが、一部には無頼の輩も居た。戦場では悪路の中、一部で通信が途絶える事もあった。勝ち戦で勢いに乗ってる間は、軍司令部や兵団司令部の指揮統制から逸脱しても、作戦に邁進してるならば独断専行も問題が無いと認識されている。
第33師団の松野栄兵長、近藤善広上等兵、酒井響介一等兵は本作戦中、通過した村落で原住民の少女に性的暴行を加え殺害した事から憲兵に逮捕された。これは勝利や国益に寄与しない。
陸軍刑法では、戦地又は占領地に於いて住民の財物を掠奪したる者は、1年以上の有期懲役に慮す。前項の罪を犯すに當たり婦女を強姦したる時は無期又は7年以上の懲役に慮す。中略、前2条の罪を犯す者人を傷したる時は無期又は7年以上の懲役に慮し死に致したる時は死刑又は無期懲役に慮す、とある。
一般刑法上でも、人を殺したる者は死刑又は無期若しくは3年以上の懲役に慮すとあり、更には、強盗婦女を強姦したる時は無期又は7年以上の懲役に慮す因て婦女を死に致したる時は死刑又は無期懲役に慮す、とある。
「チャンコロや土人をどうしようと何が悪いんだ!」
好事魔多しと言うが、強者は徒に傲る所がある。ロリコンはまだしもペドは許されない。大本営から情報確認の参謀が派遣される前に、軍司令部は現地部隊に命令した。
「ムラムラはいけない。銃殺にしなさい。ただしこれは提案であり強制ではない」
聖人のように性欲が枯れ果てなくても良い。姦奪を戒めるべき立場に在りながら部下を統率出来なかった上司の大隊長と中隊長は重謹慎10日、直接上司の小隊長は軽謹慎7日の後に解任。当人達も容疑を認め銃殺されている。
「え、嘘でしょ。ちょっと待ってよ」と思うが、お尻ペンペンで済ませず
国の存亡を賭ける程でもない小作戦だったが、兵隊ごっこでしかなかったペドに哀れみをかける物ではない。
この様にしてクリアされたインパール作戦のエンディングは、皇軍の栄光であると同時に、末尾をムラムラしたロリコンが汚した汚点でもあった。