はじめに
人によってズレは存在する。それを多様性と呼ぶが、戦争はズレを正す政略の最終手段である。その為、戦争は国の未来を作る国事行為であり、国家を代表する政府によって将軍は統帥される。
弟殺しの源頼朝が鎌倉に幕府を開いて1.5世紀が経過した日本では、朝幕の摩擦軋轢から一大衝突が起き、後鳥羽上皇による承久の役後、幕府の影響力を握る北條氏によって、朝廷に干渉を強めるようになった。それは皇位継承にまで介入し、天皇を
元弘2年、
しかし衆寡敵せず吉野山の勤王軍は敗れるが、千早の正成は才と謀を以て頑強に抵抗した。
元弘3年、後醍醐天皇は隠岐を脱して
鎌倉の高時は、船上山の攻撃に名越高家及び足利高氏の派兵決定する。
この間、千早の戦いは続いている。高地を押さえる正成に対して関東勢は、赤坂吉野の寄手加えて20余万、圧倒的兵力差で、包囲圏は逐次圧縮されたにも関わらず交通不便な山岳戦で背後連絡線の関係、攻略上の考慮等から見て苦戦を強いられた。イゼルローン要塞と違いご都合主義な火力は無く、正成の指揮統制だけが全てだった。
攻囲を行う賊軍の中に、
当時、幕府は戦費を賄う為に臨時の徴税を行ったが、義貞は要求を拒絶。5月8日には兵を挙げた。
初戦で義貞は上野守護、長崎孫四郎左衛門を排除し地盤を固めるべく、入間川を渡り世良田の国府を攻めている。引き続き武蔵に前進した義貞の下に義士が駆け付け、人員を補充し兵力は2万に拡大した。
並行的に鎌倉攻撃が実施出来る様に準備を進めていたのか、義貞は逐次到着しつつある友軍を併せて指揮して、5月11日に小手指ヶ原に進出。同地に於いて櫻田治部大輔貞國、長崎次郎高重、長崎孫四郎左衛門等の賊軍6万による迎撃を受けた。
賊軍は久米川に後退したが、12日早朝、官軍の攻撃を前に再度賊軍は敗退した。連戦連敗な状況で鎌倉は新たに左近将監入道恵性泰家を将とする後詰を13日に出発させた。同部隊は14日夜半、関戸で貞國と合流する。
多摩川の分陪河原に前進した両軍は、15日には戦闘再開。賊軍の頑強な抵抗を前に、義貞は堀金に後退する。新たな応援を加えて官軍は16日に朝駆けを実施、賊軍は大敗する。義貞は好機を逃さず世谷原に鎌倉討伐の兵を集結をさせ、藤澤に指揮所を前進させると、17日には鎌倉を包囲した。
官軍の攻撃部署は、大館宗氏、江田行義の右翼が極楽寺の切通を指向、堀口貞満、大島守之の左翼が山の内から村岡、洲崎を経て小袋坂へ、新田義貞の中軍が藤澤から梶原村を経て、化粧坂へ其々進攻した。投入された兵力は諸説あり、12万乃至60万7千。
これに対して賊軍は大佛陸奥守貞直、赤橋相模守守時、金澤右近大夫貞将を将として防御戦闘に当たった。
18日、官軍は附近の村々50ヶ所を放火、攻撃開始した。現代なら住民感情に配慮を求められるが、鎌倉攻めの義貞や千早の正成は政治の介入を受けなかったからこそ、決心を鈍らせる事無く思う存分活躍出来た。
史書にもある通り、逆臣による武家政治は義兵によって滅び、天下は王政復古、国体本然の形に還って天皇親政の建武中興の御代となった。
しかし普仏戦争に於いてフランス政府は、軍事の才能が無いのに為政者としてのプライドだけが高く、客観視が出来ず作戦上大なる妨害を興した。巷で言う所の半年ROMれと言う言葉は当てはまる。政治には、将軍を見守りリカバリー出来る事こそ求められる。
教育総監部第一部長 松屋治郎少将
たまに帰って来る戦争の終わらせ方のすゝめ 月曜會(昭和100年)より
1.日支講和締結
日清の戦役で、清は陽キャラではなく陰キャラ、肥えた豚だと諸外国に知れ渡り、統治能力の欠如から太平天国の乱や辛亥革命を引き起こし崩壊した。新たに中華民国が樹立されるが、文字通り人心は乱れ、心も頭も狂い軍閥が各地に跋扈していた。支配者が入り乱れて支那はまさに戦乱の世であった。
しかし偉大な指導者、蒋介石の登場により動乱の時期は終えようとしていた。それを滅茶苦茶にしたのが浅ましくも日本の関東軍や軍部の暴走だった──と言う事に、良識的日本人の弁を借りればそうなっているが、マルクス主義の特徴であるレッテル貼りその物だった。
倫理的、道徳的観念も時代によって異なる。西洋列強が実を取り、切り崩された支那であったが、日露の戦役で皇国日本が勝った事で、南満州は日本の守る土地となった。中華民国支那は日本の行動全てが侵略的で、抗弁は幼稚で無責任として日本を大陸から追い出そうとした。
抗日と言う火種は各地に飛び、大陸に渡った国民に著しい被害出た。
そして火は大火となり、昭和6年9月18日に柳條溝事件を発端として始まった満州事変は、アカのコミンテルンによる策謀により表舞台に出た形の日本だが、大陸への派兵長期化により国民の生活は戦費や軍事費によって逼迫している。
キレ芸で圧をかけ、多門二郎中将(陸士1期、陸大2期)の率いる
自爆テロの反満工作を行う張学良が、熱河省を利用すべく支那正規軍を侵入させており、熱河省一帯の義勇軍(6大隊の5万)や匪賊、反満軍は13万5千(歩3旅半、騎兵2旅、砲兵1旅と団の正規軍3万5千)。熱河の省長湯玉麟は、満洲国参議院副議長の要職にありながら、満洲国に反旗を揚げ、満州国のサークルクラッシャーとなった。熱河問題は、日満軍が熱河地方に進出すれば余波が北支那、北平、天津地方に及ぶ事が当時から衆知の事実だった。
12月17日、本土から依田四郎少将(陸士15期、陸大27期)の混成第8旅団、朝鮮から室兼次中将(陸士9期、陸大20期)の直卒する20D司令部、混成第38旅団が増派され、27日は2Dも遼陽を出発し、榮口に前進した。29日、奉天を出発した室師団は依田旅団と共に、奉山線(奉天〜山海關)方面から兵賊を撃破しながら前進。尖兵は白濱中尉の装甲列車隊であった。
翌年の昭和7年1月3日午前10時40分、多門部隊は戦わずして綿州を占拠し、4日には室部隊も入城。
20Dは遼西一帯に於ける匪賊掃蕩を行う事になり、北寧沿線に兵力を配置し、準備に着手した。この間の悲劇として、綿西の匪賊討伐の為、騎兵第7連隊が前進し匪賊との戦闘で戦死した軍神古賀連隊長の逸話は広く知られている。
しかし国の説明が下手だったのか戦の火は消えず、更なる討伐をすべく茂木部隊(騎兵第4旅団)、
北の露助に対抗すべき関東軍は、満州国の安全確保として不仲営業を行い、支那軍を排除すべく張家口~北平~天津に到る線までの制圧も視野にいれていた。
1月18日、中支那の上海で下っ端チンピラな支那救国義勇軍の団員と抗日分子の支那人300名による非道な暴行によって、日蓮宗僧侶天崎啓山、水上秀雄他信徒3名が、鉈、コンクリート塊、煉瓦で殺傷された。現実ではノックダウンシールドが無いと死んだら終わりであり、これは始まりに過ぎず抗日運動は日増しに激化した。
支那側にも理知的な者も居たが、最初から支那側が悪と言う結論ありきで対する日本と交渉する事が出来ない。日本人の中でも一部過激派が軍事衝突を誘発させると言う不正規作戦実施の前提で結論が出てるから、和平は実現しないのも当然だった。
それはやり過ぎだろうと言う情勢下で、日本人は面子を大切にする以上、邦人保護の為に海軍陸戦隊が展開した。
これに対して支那の英雄蔡廷鍇は、「良い度胸だ、この野郎。上海は我が国固有の領土であり、外国による主権侵害は認められない。我々は武力を以て戦う事も辞さないだろう」と決然たる姿勢を見せて来た。23日に第19路軍は営長以上を集めた緊急軍事会議を行った点からも、上に立つ者の政治的パフォーマンスだとは理解出来るが、24日には各部署の調整を終え抗日を基本方針で固めた。末端の兵はそれを見て調子づく。
支那側の戦史によると、第一次淞沪会戦、一・二八事変の勃発は日本軍陸戦隊が1月28日23時半、砲兵の火力支援で装甲車十数両と共に閘北に攻撃前進、人としても越えちゃいけないラインを越えて、支那正規兵と交戦した事で始まったとされている。
「我が東三省を占領する暴虐な日本は、卑劣にも浪人を使って最近更に上海で放火殺人をやっていたが、28日夜12時、陸戦隊が閘北に公然と攻めて来た」とか云々の凄く長いポエムの発表をして盛り上がってしまい、2月3日には再度陸戦隊が侵攻して戦闘がダラダラ続いていた。
この頃、日本側が侵略戦争を始める理由が無かった。1月27日には哈爾濱附近に於いて、吉林軍と丁超、李朴の率いる反吉林軍が衝突。2Dは丁超軍撃破に向かっていた。
「てめぇ、ふざけんなよ! 馬鹿野郎! ビビるからマジ、考えてくんない!?」
自分の声を大きくしたら聞こえる、意見が通る。その理論は正しい。しかし頭を使って状況を見ていない。面白いと思ってやってるなら、面白くない。
「うっざ、マジで。何なん。腹立つわ、こいつら」
彼我の兵力は、三下とは言え敵が優勢で3万数千、我が約3千。支那の
国際都市である上海の居留民は2万5千ほど、その他外国人は3万4千。正に上海危うしであった。
始まってしまった以上は仕方がない。翁照垣の
支那軍は元々、欧米から日本軍より優れた装備を調達していた。エグゾフレームも無く、たまたま編成されただけの陸戦隊が苦境に陥るのも当然で、海軍では越えられない壁があると認識した。
結果として海軍が便器の外に糞を垂れて失敗。反省をしていたから、ケツモチとして陸軍は嫌々、タイムカードを押して出勤する様に動いた。
租界地区の居留民を守れと言う事で、田中内閣の陸軍大臣だった白川義則大将をエリアマネージャーの指揮官とする上海派遣軍が編成された。
白川大将は知性、理性、品性、そして芸術性でもセンスを持つ人物で、軍人として生涯を過ごした。後世の目から見ても、将器に疑問を挟む余地は無かった。上海派遣軍は、
「白川大将の上海派遣軍は、上海地区の敵軍を撃砕し、居留民の安全を確保すべし」とされていたが、先ずは文明人らしく交渉を行った。
2月18日、日本軍第9師団長植田中将は支那側の面子に配慮せず、「第19路軍は上海租界より引き上げ、周囲30キロを非武装地帯とすべし」とスピリチュアルかかった非現実的な要求を一方的に行うが、南京政府と第19路軍軍長の蔡廷鍇は、「意味わかんねぇよ。ちょっとあれかもしれない。頭おかしいんじゃねえか?」と最後通牒を拒絶、対日宣言を行った。
戦闘に際しては海軍も海から協力し上海の作戦に寄与した。第2・3艦隊は溜飲を下げる様に何時間も、何日も徹底的に砲爆撃を行い支那軍を叩いた。
同日、支那軍を北に引き付ける目的ではないが、満州国軍政部内討熱作戦総司令部は午後1時、熱河討伐を発表した。
抗日運動の根幹は複雑な感情もある。日本は全世界、銀河を支配する100年の計画として支那を手中に収めんとして、手始めに満州を占領し、次に上海で戦を始めたとされている。
日本側の視点で見れば上海は敵に包囲されている危機状態だった。西正面には19Jの第60、61、78師が並列配置されており、各々2個旅から成っている。その背後、南翔に張治中の第87師が展開しており、最終的には南京政府の蒋介石直系の警察軍(警衛師改編の第87、88師)が加わり6個師が上海方面に集結した。
これに対して日本軍は、19J及び其の別働隊である便衣隊の計画的挑戦によって、租界の共同防衛に関する任務達成及び居留民の生命財産の保護上、このままでヤバイとして20日、実力で敵勢力の排除に動いた。
9Dの
「敵、前進中!」
「目標敵散兵、射て」
下元態弥少将が指揮する24MBは呉淞支隊(歩兵2個中隊基幹)と共に右翼隊を形成している。海軍陸戦隊は、左翼として協同動作で固めている。
日本軍は頑強な敵の抵抗に遭遇すれば迂回し、後方深く進撃し、揚子江に敵を追い込み包囲した。
「やべぇやつ来た! 何で、何で。さっきまで普通だったじゃない! 許して、許して!」「ぴえんぴえんぴえん!」と逃げる支那兵。「チャンコロに死を」と何処までも追撃する日本軍。21日には、孟家宅を占領した。
22日、廊行鎮付近の攻防戦が始まった。インクの減らない判子か弾幕ゲームの様に、支那軍は頑強に抵抗する。しかし皇軍将兵は勇猛果敢に進む。
「足下に注意しろ」
市街地を移動してると略奪された商店が目立つ。それも日本軍だけではない。撤退する支那兵も接収名目で略奪をやっていた。路上には支那兵が食事中だったのか、はぞめき蟹の甲羅が食い散らかされており悪臭を放っていた。
日本軍の最右翼、24MBに配属された工兵により、旅団の左翼隊である森田大隊正面、鉄条網に突撃路が開通された。タイタンも無い生身の決死隊が、自己犠牲の精神と爆弾筒を以て鉄条網を破壊した。
第1小隊は成功したが、第2小隊は多大な損害を出した。第2小隊は1個組以外全滅したが──第1班の全滅した9名ではなく──とりあえず爆破に成功、廊行鎮を占領した事から、第2班第1組の兵は死んでも美談扱いで処置した。
「我が軍は頑張っちょる。このまま行けば今月中には上海を完全掌握出来るだろう」
戦場には何でもある。英雄になる機会、幼女をお持ち帰りする機会さえも転がっている。戦況報告を聞いた参謀本部は、爾後の行動計画を纏めようとした。
「参謀総長、上海派遣軍は南京に一番近く進出している部隊です。北に突破させれば、この戦争は終わります!」
若気のいたりと言う事で、心の中のノコギリを隠して叱責をした。
「あ、馬鹿たれが! それは違う。それでは表面上の事しか見ていない。チャンコロが何匹居るのか弾が勿体無い。頭をかち割ろうとすれば国際的な批判を受け、帝国はますます孤立をしてしまう。それに支那は国土が広すぎだろう。帝国の手には余る。それが分からんのか」
若さゆえの過ち、無謀で余計な物まで攻めていると参謀総長は判断したのだ。
「支那軍に時間を与えれば、兵力を増強します。僅かな逡巡が勝てる戦の勝利を逃す。我々は誰にも縛られない。軍人の本能に従えば良いのです!」
戦の手動を握り支那軍を包囲、打撃を与える事により華麗な勝利を収めそうな日本軍だったが、蒋介石は持久戦の死守命令を出した。
包囲下の国府軍は陣地防御に慣れている。一定地域を確保し、一定期間、時間を稼いだ後に攻勢転移の逆襲を行う為、戦力を温存すると言う決心で、空中投下による補給が行われた。
負けたらキレるのは良い。学ばず反省しないのは無能だ。そこまで国民党政府も愚かでは無かった。
メンタルは体調が関係する。確り食べて寝て健康であれば、弱兵が努力をしなくても戦える。
自暴自棄になって頑張れないかもと思ったが元気になってジャンジャンバリバリ撃って来る支那軍。強制収容所に送られると言う噂もあって支那兵は奮闘した。
この戦闘の最中、9Dの第一線で戦っていた7iの第2大隊長空閑少佐が行方不明となった。2MBは廟巷付近の敵陣を奪取、郭家宅の北方敵陣を突破した。
25日、日本軍は第二次総攻撃を開始するが、27日に国府軍の反攻が始まった。この時の国府軍は祖国を守る大義があった。初見殺しの死兵として戦った。
3月1日、大場鎮に日本軍は進出するが落ち着いて周りを見ても、厳家橋付近の壮烈的肉弾戦な戦闘で林大佐を始め多くの将兵が戦死した。ズキュン、ドキュンと撃ち込まれる弾に仕掛けがあった。
「ダムダム弾を使用してるだと!」
肉壁やデコイ代わりの兵は幾らでも出せる支那軍は黄浦江を渡河して協同租界地区に進出、日本軍の後背を脅かした。現地軍は頑張りが足りなかったが、全滅の危機が見えて、どうしてかな、何で自分が出来なかったんだろうと勝利を諦めきれ無かった。
リスクマネジメントが甘く、国府軍の大反攻により上海派遣軍は三割の損害を受けて勝利を逃した。「どう言う気持ち?」と煽られても敗けは事実だ。通常、三割の損耗は組織的戦闘能力の喪失を意味する。支那軍強し、侮るべからずとして陸軍は大いに反省する所があった。
3月4日、熱河省の首都、承徳城を日満軍は占領した事で、上海の失点を補い交渉する機会が訪れた。
対話を諦めなければやり直す機会はある。事変は英仏の仲介によって停戦。実質的に無敵と驕っていた皇軍が破れた事から帝国政府は、大陸での計画をリスケ、閻錫山を仲介として支那政府と真摯に向き合った。
抗日侮日を煽った共産主義者の毒悪性と言う共通認識もあり、獅子身中の虫である共産党に対する剿匪の徹底、在留邦人、日本資産の保護を条件に、関東州まで日本軍の撤退、満洲国を中華民国に於ける自治政府として承認で同意。
多くの戦費を使い多くの戦死者を出した日清日露の戦役後のこれまで、多くの資本を投入して開発した満州は、日本にとって一蓮托生、運命共同体、生命線とも言えた。
いわば日本のシマであり、支那軍閥如きに奪われるのは滅茶悔しい。この気持ちが一番ではあったが、前に進まないといけないと思ったから、これまでの投資と引換えに賠償金無しと言う事で支那との講和が成立した。
結果として抗日戦争が終結した事により蒋介石の目は国内一本に絞られ、引き続き共匪の撲滅実施。郭汝瑰等共匪の間諜の存在が発覚した事から、犯罪の裏には共匪と金持ちの白人が居る。外国勢力による策謀の排除を目的として、欧米列強は支那から閉め出され市場を失った。
西欧列強指導者の脳裏にはザラサーテのツィゴイネルワイゼンが轟々と鳴り響いた。
2.大東亜戦争の転機
後世の史家はマウントを取りたがり出逢いは何だろうと気にするが、大東亜戦争は満州事変の延長にある。英米に追従していた支那の抗日、排日に悩まされていた日本は、満州事変の結果、国際連盟を脱退し、英米の帝国主義、支配体制の一角を崩し始めた。そして一度、戦が始まれば、米英撃滅の日まで戦って勝ち抜く決意を固めていた。
しかし日支が和解した事で、日本を取り巻く情勢は変化した。欧州に介入したい米国の強引な対日強硬政策によって大東亜戦争開戦を余儀なくされた。
寝てる間に人は夢を見る。夢の世界は現実の世界とは異なる異世界であると解釈もある。
夢は無意識であり、無意識の願望が現れると言われる。では化け物に襲われたり、落下する夢は自殺願望なのかと言うと、不安やストレスの現れだと解釈されている。
昭和16年12月8日、米国海軍太平洋艦隊司令長官ハズバンド・キンメル大将は、燃え盛る軍港と飛行場からの煙で視界が塞がれるのと同時に目眩を感じた。
やるとなったら日本人は徹底的にやる。開戦と同時に、日本海軍はハワイにまで遠征し、真珠湾に在泊する太平洋艦隊を叩いた。そしてその結果が無惨に沈没した戦艦達だ。
残念ながらこれは白昼夢ではないので、意識は覚醒している。
優れた戦略や戦術は時に数の優位を超えるが、敵として我が身に降りかかるなら悲劇だ。日本軍の奇襲で麾下の艦隊は損害を受けている。真珠湾は浅瀬なので引き上げて修復する事は可能だが再戦力化には時間がかかる。おそらくだが半年間は行動不能と見ていた。
畜生。これではマーシャル、トラックの攻略どころかグアム、フィリピンの救援も不可能だ。
使える手駒は限られていた。サンディエゴで修理中の「サラトガ」と「ホーネット」も加えて、空母は「エンタープライズ」「レキシントン」の合計4隻と、高速戦艦2隻―――「フロリダ」「ユタ」と若干の護衛艦艇と潜水艦のみ。
大艦巨砲主義、戦艦中心の艦隊決戦で勝利する事こそ帆船時代から海軍の本懐であるが、残存艦艇で艦隊決戦を挑み日本海軍を撃ち破ると言う事は不可能だった。
この敗北はキンメル一人の責任ではない。太平洋艦隊、海軍全体の汚点であり、汚名返上、名誉挽回には戦果が必要だ。
1ヶ月待てば、大西洋艦隊から補充としてワイオミング級とニューヨーク級の戦艦4隻が回航されて来るし、新たな就役艦も配備されるが、日本軍の攻勢は止まらないし、待ってくれる時間もない。
母国の悠久と繁栄を願うならば、徒に怠惰な時間を過ごす贅沢は許されない。国を守れぬ海軍は悪だ。だからこそ求められるのは、政治的にも軍事的にも効果を発揮する目立つ戦果。
情報が正しければ日本軍の主力艦隊は全作戦支援として、瀬戸内海西部に警戒碇泊し、所要に応じて出撃するとして、動いてない。燃料の問題もあって呉に停泊したままだと言う。
9月1日の年度戦時編制発令と変わらないならばGF主力は呉だ。呉を叩く。
呉奇襲により、こちらもやり返す事は出来る事を思い知らせてやれる。キンメルから構想を聞かされたスミス参謀長とマクモリス作戦参謀は同意した。彼らはキンメルと一蓮托生であり、キンメルが解任されるならばスタッフは一新されると認識していた。その為、冒険的であっても戦果を求めた。
指揮官は豪胆にして、臆病とは無縁な者に任せたい。キンメルは「エンタープライズ」を基幹とする
ハルゼーはこの時、米国海軍が保有する全空母への指揮権を持っていた。ハルゼーに与えられた海の精鋭たる兵力は、ウィルソン・ブラウン少将の
呉は日本本土にあり濃密な哨戒網が構築されていると考えられた。この観点からハルゼーと幕僚は艦隊を生還させるべく、呉の在泊艦隊に一撃を与えた後、離脱する消極的だが堅実な作戦を立てた。
ウィリアム・H・ブラッカー中佐は作戦参謀の観点から危険見積りを行った。安全管理、危険予防、災害防止で受傷事故防止に励み、常に最悪を考える。ブロムフィールド・ニコル少佐は課題に対して対応を考えた。
敵の勢力圏で奇襲を行えるのは、上手く行ったとしても一度しかチャンスが無い。一撃必殺の攻撃が求められる。
レイモンド・スプルーアンス少将が将旗を掲げる「フロリダ」と「ユタ」の2隻は鈍足の戦艦ではない。WW1も経験した老齢ながら機関換装で32ノットも出せる高速戦艦に生まれ変わっていた。
2隻の主砲である12インチ/45口径Mk5砲は、陸軍なら305ミリの重砲で十分な火力がある。ならば重巡、駆逐艦と共に打撃部隊として、広島湾の柱島泊地を目標に突入し活躍する事が期待された。同時にグラマンF4FワイルドキャットとダグラスSBDドーントレスからなる母艦航空隊が、江田島や岩国、呉周辺への攻撃も行われる計画だ。
気に入らない。しかし他に良いアイデアもない。――――これがハルゼー達の置かれた状況だった。
一方で、日本海軍と言うよりも日本軍はミスをした。本土防衛は陸軍の管轄とされているが、組織の弊害が出た。
海軍による真珠湾奇襲の戦果は知っている。もはや敵に反攻を行う戦力が残っていないとの認識に陥ったのも仕方がない。しかし敵が同じ事をしてこないと陸軍には予測できなかった。
海軍でも良識者である伏見宮博恭は、軍令部総長時代に陸海軍協定を定めようとしたが軋轢は大きく、実り少なかった。伏見宮派と呼ばれる及川古志郎、永野修身、嶋田繁太郎、南雲忠一らは無敵海軍を率いて輝く戦果を収め武勲並び名将の名を謳われながら、伏見宮の意を汲んで本土防衛の一助となる努力をしていた。漁船を利用した哨戒網の構築もその一つだ。
矢は弦を放たれた。日夜、我が身を省みず訓練に励んで来た海軍将兵の決意は硬く、疲れた体と心を癒す暇もなく一路、日本本土の決戦に向かう。
この時、呉周辺には
「最低でも、『長門』と『陸奥』を叩けば良い。連中の保有する40センチ砲搭載の戦艦はこれだけで、残りは36センチだからな」
一機、また一機とレディレックスとビッグEの甲板を飛び立ち、編隊を組む空襲部隊は、
危険を冒し、攻撃ギリギリの直前に上げた
眼下には6隻の戦艦が見える。ビッグセブンに数えられる「長門」「陸奥」、いささか旧式の「伊勢」「日向」「扶桑」「山城」だ。砲塔の天蓋等と言う装甲の厚い箇所を狙っても効果は薄い。狙うのは艦首や艦尾の甲板、煙突と言った装甲で固めきれない箇所だ。
ドーントレスから投下された1000ポンド爆弾は、高度600メートルから強烈な勢いで甲板に叩き付けられ、勢い衰えず艦内で攻撃側が望んだ通りの効果をあげた。日本海軍主力戦艦の撃沈である。
呉鎮守府部隊である呉海軍航空隊、佐伯海軍航空隊、岩国海軍航空隊ら周辺の航空部隊覆滅を図り、あらゆる物を叩いた。被害は第一艦隊だけには収まらなかった。
八雲や勝力、第6潜水隊、呉警備戦隊の西貢丸、盤谷丸、香港丸や、貴重な補給部隊の春天丸、長興丸、山鳥丸も沈められた。
この奇襲で米国は反攻の為の貴重な時間を稼ぐ事に成功した。
誤解無く伝わるのは難しい。しかし世界は広げるしかない。
場所は呉から変わり、アジア・太平洋戦争中に激戦の一つとなったグアム島。開戦劈頭、日本軍はグアム島に奇襲攻撃を敢行した。
グアム島は、日本の勢力圏であるサイパンやパラオ、トラックの間に存在する米国の大要塞だった。まさに喉元に刺さった刺であり、取り除かねば皇軍も自由に動けなかった。
中部太平洋は海軍が主となり担当する地域だが、陸戦隊では荷が重い。そこで陸軍から第55師団の歩兵3大隊基幹として、堀井富太郎少将の指揮する南海支隊(145i基幹、3/55K、Ⅰ/55BA他)が編成されG作戦に投入されガチでマウント取りに来た。
これに対してグアム島の防衛軍は、現代風に訳すと「すげぇ、愛が重いな。草生える」と言った感じで小粋なジョークで応じ、徹底抗戦の構えを見せた。
海軍の南洋部隊もウェーキ、グアムの攻略に、担当区域の防備哨戒、機動部隊の引揚掩護等と任務が目白押しだった。
南海支隊の上陸部署は、軍隊区分として支隊司令部、楠瀬部隊(144i、TA/1K、1BA、1P)、塚本支隊(TA、K1分、他)、林部隊(海軍陸戦隊第5大隊)に分かれていた。
米軍は本格的な防御を固めていないと言う前提で自分本意な作戦を立てていた為、主力の楠瀬部隊は待ち受けていた陣地を前に、7/9以上が戦死ほぼ全滅すると言う損害を受けた。
日本側は、呉の主力戦艦部隊が壊滅した事もあって戦力的余裕はなくなり、マリアナは米艦隊の勢力圏に入ってしまった。
グアム島に関する海軍の自信は全く無くなってしまった。攻略不可能であったが、出来ないと言葉に出して伝える事は難しい。
塚本支隊は背後から米軍の陣地を攻撃しようとした。
穏やかな南国の島で日米両軍の激戦は半年間続き、南海支隊の三度の総攻撃が失敗し惨敗した。
南洋群島方面に対する敵の脅威を封殺すると言う作戦目的だが、この苦戦は己を過信し、敵を軽視した結果であり、南海支隊苦戦の戦況推移を受けて大本営は、グアム島ごときの攻略に長期間、兵力を拘束されるつもりは無かった。
大本営陸軍部作戦部長田中新一、作戦課長服部卓四郎、作戦班長辻政信。三人の秀才によって大本営陸軍部は実質的に動いており、中部太平洋方面の作戦方針を変更し、フィリッピンを一週間で陥落させた本間雅晴中将をグアム島攻略に差し向けた。
大本営は南方軍より当初2個師団、更に追加で1個旅団の兵力を予定していたが、本間中将は「1個連隊で十分」と最小限な兵力を要求した。
「戦国時代の城攻めと同じで、ま、そう言う事です。水を失えば渇きで戦えなくなるでしょう」
兵力を上手く使えてこそ指揮官だ。戦いと渇きと病の中で米軍は破れた。
米軍守備隊を破った物の、軍令部総長が御前会議でグアム島攻略の中止を上奏し「激戦敢闘、
年が明けての 昭和17年2月から米軍はマーシャル、ウェーキ、南鳥島に対する攻撃を行い、これに対してGFは敵艦隊を誘い出し撃滅すべく、軍令部の進める米豪遮断作戦を利用した。ソロモン諸島東部にあるフロリダ諸島のツラギ、豪北のニューギニア島東南のポートモレスビー攻略作戦である。
作戦の総指揮は小林宗之助中将(海兵35期)であり、ツラギを含むフロリダ諸島攻略は清水光美中将(35期)の指揮で呉の第3特別陸戦隊と第7設営隊の一部が送り込まれる事となった。この為、軽巡洋艦五十鈴、砲艦嵯峨、橋立に分乗し、鴻型水雷艇6隻が護衛の警戒隊として配属された。
清水中将は海軍の出世街道を進む官僚であり、政治を理解している。実戦で勘と経験を、度胸も養うと、戦争を終える為の道筋を作るのが自分の職責であると理解できた。
4月2日未明、航路を欺瞞しながらサボ島沖北方を通過した艦隊は左舷に転進した。その瞬間だった。五十鈴の見張りがフロリダ島の影にピンク色の光線を視認したと同時に、10本の水柱が五十鈴を取り囲んだ。
「阿呆んだらぁ、先手を打たれやがった。主力艦の砲撃だな!」
衝撃に揺れる艦橋で手近な物にしがみつきながら清水中将は、初弾夾叉させた敵の戦技の高さに驚愕した。
目を凝らせば島陰に艦影が浮かぶ。旧時代のニューヨーク級戦艦。BB-35テキサス、それが死へ誘う死神の正体だった。
日本海軍が望んで会いたがっていた戦艦だ。
この頃、米軍は日本軍の暗号解読を粗方解読しており、もっとも直接的な反攻手段として、テキサス艦長のルイス・コムストック大佐を指揮官とする小規模な戦隊を南太平洋に派遣していた。
「敵戦艦、第2射発砲」
五十鈴艦長の浦孝一大佐にとって不運だったのは、五十鈴が軽巡洋艦であり、テキサスが建造費に見合うだけの戦艦だった事だ。
企図を秘匿した完璧な奇襲だった。戦果を獲得すべく、全てを海に沈める。
テキサスの45口徑14
「第1、第2砲塔被弾。射撃不能!」
「ボケ茄子が、ボコボコ好き放題やりやがって。ここに北上と大井が居たら……」
岸福治少将(40期)の指揮するMO主隊には、61糎4連装魚雷発射管10基40門装備の重雷装艦に改造された軽巡洋艦北上と大井の
無い物ねだりをしても愛は返ってこない。
警戒隊の水雷艇は五十鈴が砲撃を浴び被害を受けるに至り、これ以上好きにさせないと敵の頭を押さえ同航戦を挑むべく速度を上げた。見敵必殺。誰かに命令される前にやると言う対処が求められる瞬間だった。
しかし警戒隊の突進は、36キロノットで走るMk8魚雷の衝撃で阻止される。PTボートで知られる哨戒魚雷艇が待ち構えていたのだ。
同じDNAを持つ水雷艇は沈む時も一緒だった。鴨と鵲が木っ端微塵に爆沈した。後続する雉と雁も直ぐに後を追う。
次々と魚雷が命中し、沈没する警戒隊の水雷艇。残るは鴻と隼のみ。誰もが「俺、まだ生きてるけど、これ終わったな」と悟った。
攻撃初動の自由は敵にあり反撃が封殺されたこの時、MO機動部隊を指揮する栗田健男少将(38期)は、慣れない空母の指揮は角田覚治少将(39期)に任せ、重巡洋艦最上、熊野、鈴谷、三熊の
清水中将は直接上司に当たる上官の顔を脳裏に浮かべた。
杓子定規にやっていては海軍は動かない。訓告か、減俸か、戒告か。敵戦艦を沈めて逆転すれば、有耶無耶の内に損害を揉み消せる。それが政治だ。
コムストック大佐も日本軍が急行させて来る事を予測しており、ツラギ攻略部隊を散々叩くと引き揚げて行った。局地的な戦闘だが日本軍の完敗だった。
そして8月7日、『真珠湾を忘れるな』を標語に、艦隊を再編した米軍は本格的反攻を開始する。南太平洋に於ける我が第一線の戦略拠点であるソロモン群島方面に進出する英米連合艦隊の姿があった。
鉄砲玉の米海兵隊約1個師団が有力な艦隊の掩護の下にガ島及ツラギに上陸。ガ島に位置した我が海軍部隊を撃破したとの報に接したので、陸軍は海軍の担当である南太平洋方面に一木支隊を急派した。
8月8日ツラギ海峡夜戦(第一次ソロモン海戦)で我が帝国海軍が猛撃を加えて以来、8月17日ギルバート諸島マキン島に来襲した米軍の撃退、8月24日、ニューへブライズ群島方面より北上して来た米増援艦隊に対する急襲擊擾(第二次ソロモン海戦)等の敵軍必死の執拗な反攻と相俟って、日米一大決戦場となり、ガダルカナル島に於いて寡兵よく困苦に耐えて戦った忠勇無比なる皇軍の死闘振りは、西南太平洋反枢軸軍司令官マツクアーサーやワルター・クリューガー中将、バンダーグリフト少将等を眞底から震撼せしめた。
後年、大本営派遣参謀辻政信の記述によると、ガダルカナルに上陸した敵海兵隊は我が海軍特別陸戦隊が寡兵を以て守備する飛行場を占拠、陣地を拡張し我が軍の反撃に備えていた。
陸上基地の配置上、我が陸海軍部隊は極めて不利な態勢であったが、敵の上陸地点、輸送船団、護衛艦隊を猛襲し、制海権も制空権を一時奪還し、陸軍部隊をガダルカナル島に送り込む事に成功した。
しかし豊富な火力を持つ敵陣から放たれる銃砲火は激しく、マライやフイリツピンで経験したよりも困難を伴う密林地帯を突破して果敢に攻撃前進した皇軍将兵は吹き飛んでしまう。
太平洋方面の作戦中であった一木支隊は不完全な900名で急進、挺身部隊の先鋒として10倍の敵に対して、毅然たる態度で鉄槌を下すべく攻撃前進した。敵の心胆を寒からしめたと言う事だが、米軍の待ち伏せに飛び込み壊滅したお猿さんだった。一木支隊の反撃は8月21日中に失敗した。
敵を侮ってはならない。米国人の性質と言っても、種々雑多の人種から成り立っているから一概には論じ得ないが、猿と見てる日本人に負けてたまるかと自尊心は高く、その勇猛心は疑うべくもない。
民主主義や自由を標榜する米国民だが、自由は限度を越えた無秩序と異なる。海兵隊は鍛えられた精兵だった。政権への不信感を煽り、官民を分断するには敗北が有効だ。ガ島で日本軍を破れば、連合国にとって小さな勝利だが、日本を揺さぶる事は出来る。
日本側から見れば、ガ島はラバウルから約1千キロ離れており、地上作戦に航空支援は無かった。だからと言っても敵の制空、海圏の真っ只中に突入、我に十数倍する敵を独力攻撃で排除出来ると考えるのは敵を舐め過ぎていた。
次いで川口支隊が増派されるが二の舞を演じる。第17軍司令官は更に川口支隊をガ島に送り同島を奪還せんとした。その間、敵もマクニカウ川からテナル川の間に、ルンガ泊地から兵力を逐次増強し飛行場3つを建設、重砲陣地を築きあげていた。
我が軍もその南に集結、緊要地形である903高地やアウステン山付近に進出したが、敵は航空優勢で我の海上輸送、陸上補給、上陸部隊の諸行動を妨害し、上陸軍を孤立化させるべく消耗戦に出た。
戦術的には妥当な判断だが、対する皇軍にとっては「なしよりのなし」であり、草を食い痩せ細る兵の前では、神国だから戦に勝つと言う神頼みの現実逃避を戦場の現実が許さない。
自分だけが戦場で目立ちたい、自分だけが前に出たい。そんな気持ちで戦場に立てば絶対に武功を稼げる。そう言う功名心が生きる力となる。
ソロモン群島からニューギニア島方面、西太平洋方面へ島から島へ航空基地を推進し来る米軍の反攻も、ビルマ方面から英印軍の反攻も予想は出来ていた。皇国の運命を一身に背負い我が将兵は南太平洋で戦った。
敵情捜索は十分ではなかったが、我が海軍はガ島飛行場砲撃し支隊の攻撃に策応する予定であったので、攻撃決行は9月12日夜と定まり、川口支隊長はルナガロン飛行場を南方より攻撃する方針を定め、迂回運動を開始した。川口支隊各縦隊は戦闘精神も旺盛で、11日夕迄にはテナル川(東川)の線に達し得た。
左第一線にⅠ/124i、中央にⅢ/124i、右翼に水野大隊(一木支隊残余)が並列配置され、第二線にⅡ/4iがは位置された。
12日2000攻撃開始、13日朝迄に飛行場を占領し、海岸に進出する計画であった。
川口支隊長は、十分な攻撃準備を行うべく、1200頃迄に各隊を攻撃位置に就け、日没迄に当面の敵情地形を偵察する様に徹底した。
「第一線の敵は3個中隊か。鉄条網も厄介だな」
「左翼は5個中隊、右翼は3個中隊を確認しました」
偵察の結果、飛行場の南2kmにはエドソン中佐指揮下、レイダー大隊(5個中隊)、落下傘大隊(3個中隊)が警戒配置に就いている事が判明した。
川口支隊は、ボルネオやフイリツピンの実戦経験もあったが、攻撃成功した場合、火力優性な敵の逆襲から確保した拠点を如何に維持するかの課題があった。
9月12日から実施された川口支隊のガ島飛行場奪回が失敗すると、ここ最近、モヤモヤした物があって14日に川口少将は色々考えて戦場離脱を決心。各部隊に命令指示した。
ガ島周辺の航空優勢は米軍の手中にあった。途絶えがちな補給状況もあって、現地部隊の将兵は餓えを満たす為にバナナやタロ芋、アナブミの稚魚、ハヅラボウを獲った。異界の生き物の様に見た目は悪いが形振り構わない。少なくとも餓えは凌げる。
糧食配分は少なく、体力、精神力の衰えから飢えに耐えられず「生きている事自体が地獄になったため、このような決断をさせていたただきました」と自決する者も居た。どんな形であろうが、死で解決される事は多い。弱兵が減る事で配給に回せる糧食は増えた。
杉山参謀総長は失敗続きな事態推移から、第17軍の今後について御上に上奏した。
「杉山よ、敵の防御組織、特にその物的威力予想以上と言う事は、敵の装備、火力が我が方よりも上だったと言う事ではないのか」
尾生の信と言葉を飾っても物事には限界がある。
「はい。その上で、陸海軍協力の下で第二師団を派遣。ケ号作戦を完遂する腹案にございます」
「出来るのか」
米軍の自動小銃に対して38式小銃が悪かったと言う訳ではない。日本軍にも機関銃や擲弾筒、歩兵砲、速射砲、野砲も存在する。支那の土匪、共匪、馬賊と言った匪賊相手なヌルゲーに慣れすぎていたからネガティブな思考に至らなかったのだ。
「先の敗因はジャングルによって連絡不十分となり、兵が分散したと言う事もあります。戦力を発揮させるべく、17軍司令部には参謀を増員させました。丸山中将ならば必ずややり遂げるでしょう」
丸山中将は若い頃から愛妾30人を抱える伊達男であり、男の中の男と言える大人物であった。指揮官として従軍した戦では常に勝ち続けており、将帥として戦神に愛されていると言わせる程に武運も申し分なかった。
大陸命第688号により第17軍は、台湾軍、国府援助軍、南方総軍より抽出された部隊によって兵力増強をされた。これでポジティブにならない訳がない。
第17軍高級参謀の小沼治夫大佐(陸士32期、陸大43期)は、講和の成った支那で、国府軍支援に派兵された第2軍参謀を経て、戦史課長兼陸大教官を経験して来た人物である。有効なソリューションを提供出来る経験があった。
日本軍の参謀は欧米のライン、スタッフな枠に填まらず、人が少ないから彼我の状況に応じて部隊の指揮権を与えられる事が少なくない。地頭のある者が、底上げされた権限で能力を発揮する形だ。米軍にとっては対日反攻のワンチャン狙う前に、やべぇやつがやって来た形だった。
ガ島の敵を撃滅すべき任務を有する2Dは、2個の突進隊を形成して密林を前進した。丸山師団長の決心は、決戦を企図してルンガ川~ムカデ高地~テナル川の敵第一線を越えて飛行場に突入する事にあった。
敵と遭遇した川口支隊の報告から敵情判明した。その処置として、悲しいネガティブ思考とはさよならして、右突進隊の前衛である4iに2A、2P、Sの一部を増強、歩砲協同の威力を発揮させ戦闘を有利ならしむ事も出来ると企図した。なお右突進隊は師団司令部、DTL、16i、S等も随伴している。
日本軍の襲撃に対して警戒に就いていた海兵隊の兵士は耳を澄ませた。
「何か聴こえないか?」
「『ウンコ、ウンコ、ウンコ』って聞こえるな。……どう言う意味だ?」
攻撃が始まった。今度も勝てると思い込んでいたが、今回の日本軍は精鋭であり、川口支隊の様にはならなかった。
飽くまで攻撃精神に燃える我が部隊は弾薬や糧食の不足、引っ切り無しに爆弾を落とす飛行機に悩まされながらも、夜陰に乗じて迂回しムカデ高知より飛行場に攻撃開始。
煌めくゴボウ剣の白刃と、雄叫びが恐怖感を増幅させる。急進した日本軍は遂に敵縦深陣地を突破する。
陸軍歩兵学校犬育成所で教育訓練された帝国軍用犬のフレンチブルドッグ、パグ、ラブラドールレトリバー、ゴールデンレトリーバー、パピヨン、ボストンテリア、柴犬も、猛犬連隊の如く戦場を駆ける。
日本軍と連合軍、開戦劈頭は奇襲の効果があったとは言え、どうして差がついたか。それは有色人種に負けないと言う慢心、そもそもの環境の違いだった。
砲煙弾雨の中、弱みを見せず果敢に突き進む我が忠勇なる皇軍将兵の威容、幾多の忠烈なる勇士の血を流して敵の飛行場を覆滅、日章旗を翻してガダルカナル反攻は為し遂げられた。
「────白人よ見てるか? これが本当の戦争だ」と従軍記者は記している。
3.豪州進攻
ガダルカナルは日本側に奪還され、ポンポンポンな連合軍の反攻は頓挫した。
ニューギニアは当時の従軍経験者から、暗黒の島、悪疫瘴癘の地で語られる事が多いがオーエン・スタンレー山脈を踏破した忠勇なる南海支隊は、大陸から増派された第17軍の増援を受け、ポート・モレスビーを攻略。南太平洋方面での死闘の結果、制海権、制空権は日本側の手に再び戻ったのである。
大本営は戦争終結と言う目的に対して、敵の策源地である豪州の切り崩しを目標として真剣に考え最終ラウンドの『豪州進攻作戦*』(『*』は原文のまま)が立案されたのであった。
豪州は770万平方キロメートル、日本の約21倍と言う広大な面積を誇るが、南東のシドニーやメルボルンに国の機能が集中している。昭和17年1月に於ける豪州方面の敵兵力の見積もりは、陸軍約30万(歩兵師団7個乃至8個、機械化師団2個乃至3個、装甲師団1個)、地方軍約10万であり、米軍約5万(2個乃至3個師団)となっており、空軍は約400機、米軍機約300機とあるが、昭和16年10月の米国の武器貸与法成立と月産2300機の航空機生産量がある為、カーチスP-40、P-39エアコブラ、ロッキードP-38、グラマンF-4F、F-4Uコルセア、P-47サンダーボルト、スピットファイヤー、B-17やB-29等の圧倒的に優れた装備を米国から送って貰い、増加は予想される。海軍は甲巡以下14乃至15隻(2,200噸)で、我が海軍の敵ではないから豪州の動員兵力は、人口700万の内1割の70万は可能と考察された。
富永恭次(陸士25期、陸大35期)の名は大東亜戦争を戦ったどの将帥よりも有名である。戦争末期に行われた豪州進攻では陽動の任務を与えられていたが、富永兵団はわずか2個師団にもかかわらず、大胆にも進出限界のアーネムランドを越えて、助攻や主攻の前進よりも前に敵首都を脅かし終戦への道を均した。軍司令官の決心と処置は、戦史、戦術の研究材料として今日も注目されている。
豪州本土への出兵は、支那での戦が終わって無ければ実現しなかったと考えられる。豪州占領に必要と見積られた陸上兵力は10~20個師団。支那は豪州よりも広大で、戦場の拡大は予測出来た。戦が長引けば100万でも兵は足りない事になっていた。
昭和18年4月、動員下令され下着、靴下等全部一通りの戦闘準備を完了、アラフラ海を渡り豪州に上陸した日本軍は、富永恭次中将麾下の第10軍(呂集団)であり、第1師団(玉兵団)及第16師団(垣兵団)の2個師団を基幹とする。陸海軍の協定によって作戦方針は細部に至るまで規定せられ、船舶も準備せられてあった。計画を急に変更する事は技術上殆ど不可能であり、豪州進攻の第一段階として橋頭堡の確保が求められた。
「豪州には敵の名将マッカーサー将軍がいる。在豪州連合軍司令官として、6万人の米軍と20数万人の豪陸軍を指揮している。シドニーを叩き、マッカーサー将軍にこの戦いは無益だと停戦を決断させる事が出来れば戦は終わる」
マッカーサーは米国大統領と連合国を動かせる政治力、影響力があり、南太平洋方面連合軍最高司令官の地位に就いていた。
先陣は軍歴でも富永よりも先任である中沢三夫中将(陸士24期、陸大32期)の1D。丸山中将の2Dがガ島で活躍した事から、個人ではなく師団の栄誉として対抗心を燃やし、武功をあげたいと考えていた。私情とも捉えられるがこの場合、どれをやるか作戦指導上の決心選択は将帥の専制であり政治の入る余地は無い。
「山口の八代島と広島の倉橋島は、広島湾外縁を形成する防波堤であるのと同様に、テイウイ諸島はアーネムランド前進の要と言えるだろう敵の沿岸監視要員による通報やPTボートの襲撃もあるだろう」
中沢中将が師団長として為すべき事項として1Dは、1i基幹の揚田支隊がテイウイ諸島のバサースト島へ、D主力はメルヴィル島へ、49i基幹の島本支隊は豪州本土のコバーグ半島へ上陸させた。
バサースト島に進出した10A司令部は引き続き全般指導を行っていた。先任参謀有末次大佐(陸士31期、陸大41期)は、テイウイ諸島とコバーグ半島を確保する事で後方の憂いを除いたが、戦勢が我にある好機を自ら放棄する凡愚ではない。積極的攻撃前進を進言し、軍司令官の決心を助けた。
1Dは大場四平中将(陸士22期)の16Dと共に挟み込み、敵軍を捩じ伏せ4月10日にダーウィンを制圧。13日にはアーネムランドを勢力圏に収めた。作戦初動の幸先良い快進撃。この勢いでは、豪州を横断してアデレードに迫るのは時間の問題と思われた。
マクダネル山脈に周囲から兵力を集結させた連合軍は、14日、テントクリークに重点を指向して前進するが、17日、10Aは航空優勢下、戦力を集中して徹底した逆襲を行い、連合軍の反撃は頓挫した。
退却する連合軍を追撃する10Aは、富永軍司令官の企図に基きアリススプリングスを占領。集積されている膨大な装備と物資を手に入れた。中には豪州原産種の犬種、チロリアンブランケが多数居り、帝国軍用犬犬籍簿に登録された。
「幾ら物があるからって、普通は燃料とか爆破せずに置いていくか?」
無傷で丸々手に入った大量の鹵獲品を前に撮影していた従軍記者は、我が皇軍ではあり得ないと呆れ返った。
編制上、車輛の装備が不足しており徒歩移動の歩兵が主であった我が軍ではあったが、鹵獲車輛と言う足を得て10Aは「やれやれ、行け行け!」とカルケラを越えて、主決戦方面である豪州南部に早々と進出した。
ケアドナー湖の北、タークーラーの死守を命じられた連合軍は、必死の決意を以て10Aに対峙したが、これまでの攻勢は陽動に過ぎなかった。
バース、タウンズビル、ブリスベン沖に日本軍の輸送船団を伴う艦隊が進出するに至って、連合軍は10Aが主攻ではなく陽動の衝背軍であり、まんまと釣り出された事を理解した。
東海岸沿岸部の主要都市が次々と落とされる状況にタークーラーの連合軍は、フリンダース山脈に後退。ポートオーガスタで備えようとしたが、10Aの追撃は止まらなかった。
「うわぁ、助けて! 殺される!」
棄甲曳兵とは正にこの事であった。
この時、10A司令部の参謀中佐杉田一次(陸士37期、陸大44期)が、迅速果敢に前線部隊を動かし勝機を掴んだ。
何をやるか作戦指導する参謀派遣は、場所によっては敵より嫌われている。現地部隊指揮官の立場では、どうやるか考えた指揮を疑われた督戦であり、出しゃばりすぎがマイナスポイントとも言えた。
しかし可動域の多い参謀の職責を無能ではやれない。師団は支隊を編組して戦う場合が多いが、参謀が指揮官に任じられる場合もある。
速戦即決、ポートオーガスタに迫った日本軍は
大休止と言う事で食事を路肩で取った。歩哨で離席してる者も多く、食事は交代で取っている。
「今日の昼食は何だった?」
「豚テキ、ゴーヤ炒め、ささみ刺し。ああ、
一敗塗地、敵は第一線陣地を奪取された時、最後まで陣地を死守する観念は無く退却した。手に入れた食材は日本軍将兵によって美味しく頂かれた。
「酒のつまみか?」
「アップルワインもどうぞ」
そこに鹵獲した自動車を飛ばして杉田参謀がやって来た。
村田大尉は黄金糖の差し入れを受けたが、用件はそれだけでは無かった。
距離感を詰めた杉田参謀は胸襟を開き語ってくれた。軍の障害となる不確定要素は除きたいと言うのも、ガ島の経験から十分に敵情を確認すべく、村田大尉にポートオーガスタ付近の偵察を命じた。
情報を精査、分析しタスク&スケジュールを管理する能力の高さから参謀職に就いているのだから、勝ち戦と言う実積もあって、村田大尉の思考がストップして杉田参謀の指示に従ったのも頷ける物がある。
軍主力の前進を掩護する任務としては妥当な判断だ。しかし連合軍は過剰反応を示した。
人間怖いと後退りする。10Aがアデレードに攻め込む積もりではないかと判断。敗けを認め、大慌てで逃げ出したのだった。
「あれが豪軍の第一線で、その主陣地、そして予備陣地。後方の教会が敵連隊長の自決地で指揮所です」
当時、師団参謀の一人であった安田大佐は、戦史編纂官のインタビューに対して「作戦の立案、企画の段階で、会話の成立しないコミュニケーション能力の低い者はバブちゃんで、参謀になりえない」と言葉を残している。
特にコミュ力の高い参謀は陽キャラでなくても、一緒にやろうと盛り上げる力を持っている。そもそも上に立つ立場では、損耗を恐れずいつでも関係性を切る事が出来る
勢いに乗る日本軍の進撃速度に敵軍は恐慌状態で壊走し続けた。予想外の事だが村田支隊はポートオーガスタを無血占領、皇軍将士の活躍は、全く大和魂の発露、尊くも勇ましい限りであった。そして上は部隊長から下は一兵に至るまで誰もが立派な手柄を立てようとしたが、戦地では女日照りになる。そうなると肌の色や年齢に関わらず、穴さえあれば未就学児の幼女でも良いと言うロリコンもマジで出てくるのであった。
輝く皇軍の戦史に黒い染みある。豪州方面にも汚点となる事件があった。
4月15日、豪州西南部、バースに野田謙吾中将(陸士24期、陸大32期)の
ユークラを目指す14Dに対するは最強の豪州兵が守る豪州本土最強の陣地、ノースマン要塞。
作戦は大胆より慎重を以て立案する物だ。
師団長の決心に基づき、隷下部隊の西本支隊は敵との遭遇を予測しながらも、やむを得ず一列の行軍隊形で前進していると、林の中に展開する敵の攻撃を受けた。激しい敵の射撃は異界でも魔界でもなく、地獄の扉が開かれた。漠逆の友と言うべき戦友も敵弾に倒れ伏す砲煙弾雨だ。
西本支隊は左翼に迂回し、高山亀夫大佐(陸士24期)の15iは右翼からブレイザーレンジへ突進、連絡線を速やかに遮断した。
「何なんだよ、コイツら。てめえー、マジでふざけんなよ! 死ね早く! 死ね死ね、死んじまえ!」
機関銃の射撃が戦車の装甲を叩く。怯んだ攻撃はまともに射つよりも効かない。本当にキツい時はトイレに行きたくなる。
「何、雑魚じゃんおめぇ! そんなのが効くわけねえだろ。キレちまったよ。つまんねーんだよ。本当によぉ」
火力に勝るのは装甲と機動力だけであり、勝敗を決めるのは真面目に戦い抜く精神力だった。
中隊は能無しの敵を蹂躙した。豪州戦線三大決戦と呼ばれるノースマンの殲滅戦の始まりだ。
「新たな敵だ! これ無理じゃない。ちょ、ちょ待って! 違うねん、違うねん!」
投降して来る敵の数は多く、前進が阻害される。スピードが命であり、後続の友軍部隊に任せて先を進んだ。
ノースマンに近付くと南方特有のスコールに襲われた。敵は通り雨のスコールを避けて雨宿りをしており、その隙を突き、中隊は更に前進したのだった。
状況判断から敵の取れる選択肢は多くない。増援の来援を待って戦勢を挽回するか、後退して陣地占領し時期に乗じて攻勢に出る案だ。
「小隊長、渡辺と光山が居ません」
戦場では指揮官の統率だけではなく、兵士の技量が未熟故の不祥事や事故の発生はある。部隊が半分くたばる事もある。この時、小隊長は二名の欠員が居た事から周辺民家の捜索を行った。
死の臭いがする。床にはポーリッジと呼ばれるオートミールのミルク粥が転がっていた。
奥に進むと渡辺陽太、光山和希二等兵が虚ろな目をした幼女を凌辱していた。民家に押し入り一家を殺害の上での凶行。許されざる事だ。
ロリには替えが効かない。重罪だった。戦後に「私はやってません、胸を張って言えます」と嘘を突き通すならともかくとして、現行犯で状況証拠がある。
迂闊に生半可な気持ちで性犯罪を犯した訳ではない。大学時代に「ミイラ取りがミイラになる」典型となり全人類ロリ化計画を研究するが、天晴れと称賛されず放校処分となった経歴を持っている。
戦場では最低限のマナーと我慢が出来たら後は許される。今はママを求める時代で、幼児退行でオギャるほどのバブみを求める方が正しい。
徴兵された段階で自己分析が出来ていない。ロリコンは時代遅れで、糞して寝ろと叱られる存在であった。
「は? きも……うわぁ、ないわぁ」
自分に出来る事を他者に期待して、大人なんだからこれ位の戦争法規は守れるだろうと軍規でうるさく言ってなかった所もあるが、性暴力は度を過ぎ恥ずかしいレベルだった。
「良くないわ。何やってるんだ。お前、何してるんだ。チンフェ野郎が、マジで殺すぞ」
「意馬心猿って言うじゃないですか」
心に想っているだけなら自由だが、それはもうニチャアと笑って誇らしげな様子で、もう人間性の成長出来ない筋金入りのロリコンだった。
「ったく、屑だな」
徴兵された兵卒は、親から預かって
まったく迷惑だ。だからこそ戦地では特に部下の精神的な面倒を見る必要があった。
陸軍刑法では特別裁判所である軍法会議の制度があり、こう言う事件が起きる度に、普通裁判の様に刑事訴訟法に従い検事又は司法警察官吏を巻き込み、片っ端から捜査手順を踏み、犯罪被疑者を捕まえ自白させ、起訴、裁判をしていては手間でしか無い。現行犯であればその場に於いて発覚するのであるから直に逮捕し得るのは当然でもある。ルールを破れば冷酷に報いを受ける。
「小隊長殿、馬鹿共はお任せ下さい」先任の下士官が進言して来た。実家は養鶏場をやっており、彼の得意分野だ。
「ああ、ありがとう」
しばらくして爆発音が聴こえた。
真実はいつも二つある。戦地での不祥事を従軍記者や法務官、憲兵の目から隠蔽するのは簡単だ。重々の不行き届き、一時の乱心として咎めを軽くするには、配給の塵紙と歯ブラシを賄賂として渡せば、ガタガタ言わず、調べも「やれやれ、国の礎となった」と言う形で済ます事は出来る。そもそも、彼女も居ない独身のチー牛であれば戦死や事故死扱いで処理すれば、後腐れ無く済む。戦場のビルドインスタビライザーである。
本件は名誉の戦死ではなく、鹵獲した弾薬の暴発事故として処理された。
末端の一部が腐っていても皇軍は勝利の為に戦場を進む。
戦争と言うのは戦の上手さだけではない。平時から銃後の皆に支えて貰ってるし、恩返しが出来る様にいざと言う時、ノリとテンポを合わせて協力出来る事が大切と言える。
かくして来年の紀元節までに豪州を占領すると言う大本営統帥部の計画は、現地兵団の快進撃によって豪州側へ「ガキが、舐めてるとぶち殺すぞ。さっさと謝れよ」とダイレクトにメッセージが広く届いた。
皇軍の武勲は偉大なる戦果を築き、その成果に就いて集合知が力になる様に初回フルスロットルの圧をかけて、実質的2ヶ月で豪州政府が降伏して来た。
所詮、合従連衡の関係であり実質的英連邦の切り崩しであった。
外務省が中立国に於いて、外交上の駆け引きを行う前の事だったが、スポーツの試合でも糞過ぎたらプレイを相手が辞めると言う事があると忘れていた。一回勝ったら偃武修文で勝ちと言えた。
終わりに
平和になると公開された豪州方面作戦の記録映画は、インスタ映えする名シーンの数々に、盟友ドイツのカール・オルフによるカルミナ・ブラナーが挿入され劇的な効果を残して大ヒットした。その影で、ステルスマーケティングの実験で同時期に劇場公開された『10日後に酒を飲むコアラ』は興業収入の面で惨憺たる結果に終わった事は記憶に新しい。