1
『七つまでは神のうち』
この国には、そんな言葉がある。
数えで7歳になるまでの稚児は、人ではなく神や霊に近い存在である。
そんな言い伝えが、この国にはあった。
乳幼児の死亡率が極めて高かった時代。子供は人と神の境界に立つ両義存在とみなされていた。
無論、医療が発達した現代においては、失われて久しい民族伝承である。
だが、
その「神稚児信仰」の伝承が、
この冬木の地においては、未だに生き残っていたのだ。
美遊は士郎の、本当の妹ではない。
今から5年前、士郎は養父である
世界は滅びに向かっている。
魔術師であった切嗣は、その滅びゆく世界を救う手段を求めて、世界各地を巡っていたのだ。
その旅の途中、立ち寄った街において命を救った士郎を、自分の養子とした切嗣。
士郎は子供心にそんな切嗣を慕い、助手として彼の旅に同行していた。
とは言え、簡単な旅ではなかったことは、想像に難くないだろう。
「世界を救う」などと簡単に言ったところで、その具体的な方法も手段も、何も無いのだから。
幾度とない徒労と失望を繰り返した。
その果てに、
2人は、この冬木の地にたどり着いたのだ。
この地には、古くからある「神稚児信仰」が、息づいているという。
曰く「冬木にある旧家『朔月家』では、生まれた子供を見た事が無い」
曰く「正確には、数えで7歳より下の女の子を知っている者はいない」
曰く「それが、ある日突然、人前に姿を現すようになる」
など。
いずれも、状況証拠に過ぎない。
仮に神稚児とやらが本当にいたとしても、それが世界を救うほどの力を持っているかは分からない。
しかし、既に万策尽きているに等しかった切嗣と士郎は、藁にもすがる思いで、冬木の地へとやって来た。
だが、そこで士郎と切嗣を待っていたのは、予想だにしない光景だった。
街全体を見渡せる外縁の峠道に到着した瞬間、
街その物を呑み込むほど、巨大な闇が、際限なく広がろうとしていた。
闇はどんどん広がり、人々の怨嗟が士郎の耳にこびり付く。
まるで貪欲な獣の如く、闇は街の全てを食らって成長していく。
やがて、自分達にも闇が迫ろうとした。
まさにその時、
突如、伸びた一条の光が、巨大な闇を払いのけたのだった。
いったい、何があったのか?
街から逃げようとする人の波に逆らい、士郎は光の発生源を求めて街の中を走る。
行かなくてはいけない、その場所へ。
確かめなくてはいけない、何が起こったのかを。
駆け付けた先で、士郎は見つけた。
何かを隠すように生い茂った竹林の先。
今まさに、崩れ落ちそうなほどに壊れ果てた日本家屋。
その残骸と化した部屋の中で、
何も知らぬげに、毬を手にしてこちらを見つめる小さな女の子を。
街を呑み込もうとした闇の破壊跡は、まさにその少女のすぐ手前まで迫ったところで消滅していた。
直後、辛うじて保っていた屋敷が崩れ落ちる。
半壊した屋敷が、耐えきれずに崩壊を始めたのだ。
とっさに、少女を助けるべく駆ける士郎。
だが、
間に合わない。
否、
間に合えッ
そう、念じた瞬間、
驚愕すべき事態が起こった。
今まさに、少女の頭の上に崩れ落ちそうになっていた瓦礫は、士郎の見ている前で、空中でピタリと動きを止めたのだ。
おかげで、士郎は間一髪で少女を救い出す事に成功したのだ。
その後、追いついて来た切嗣の調べで、少女の名前は「
美遊には、無差別に人の願いを叶える能力がある。
それ故に朔月家の人々は、人の想念を遮断する結界を屋敷に張り、美遊の出産も、育児も、全てその内部で行っていたのだ。
全ては、美遊の「能力」を消し去り、普通の子供にするために。
士郎たちの到着は、ギリギリのタイミングだった。あと1か月、美遊が結界の中で暮らしていたら、彼女の力は失われていたという。
だが、まさに今日、想定外の事が起きた。
あの「闇」である。
あの闇が街を呑み込もうとして結界を破壊。それにより、朔月家の人間も美遊を除いて全滅してしまったらしい。
だが幸か不幸か、結界が破壊された事で、闇に飲まれんとする人々の想念が美遊の中へと流れ込み、それが美遊の神稚児としての力の発動を促した。
その結果、闇は払われ、美遊自身も助かった、と言う訳である。
切嗣は狂喜した。
これぞまさしく、彼が追い求めていた「世界を救う手段」に他ならなかったのだ。
美遊を使えば、世界を救う事ができる。
そう考えた切嗣は、冬木市の深山町にある、高い塀に囲まれた日本家屋を買い取って、そこに美遊をかくまう事とした。
そして士郎に家事と美遊の世話をさせる傍ら、自身は本格的に「美遊の能力」を活用する方法を模索し始めたのだ。
だが、
そこで完全に行き詰まる事になる。
美遊という決定的な手段を得たにも拘らず、切嗣はそれを有効に活用する方法を、見出す事が出来なかったのだ。
そうしている内に、時間だけが無為に過ぎていく。
切嗣が倒れたのは、その頃の事だった。
元々、過去の戦いが元で病魔に侵されていた切嗣は、根詰めた研究をつづけた事で体調を悪化させ、ついには志半ばで倒れる事となった。
あの時、
死を前にして、切嗣は士郎と共に星空を見上げて言った。
『僕は、正しくあろうとして、際限なく間違いを重ね続けた。そしてどうしようもなく行き詰った果てに、都合の良い奇跡を求めたんだ』
『それは見えない月を追いかける、暗闇の夜のような旅路だった』
それはひたすらに「正義の味方」であろうとした男の、生涯を掛けた後悔の言葉だった。
もっと方法は無かったのか?
否、あるいは自分さえいなければ、起こらなかった悲劇もあったのではないか?
そんな想いが、死にゆく男の脳裏を霞める。
だが、
そんな言葉を、彼の生涯唯一の弟子にして、息子でもある少年は否定した。
『暗闇なんて嘘だ。月が無くたって星が輝いている。正しくなろうとすることが間違いなはずが無い。俺が、間違いになんてさせないから』
少年は、父に誓った。
あんたの遺志は、自分が引き継ぐ。
必ず、正義は完遂する、と。
士郎のその言葉に、切嗣が何を思ったのかは分からない。
ただ一言、
『そうか、それなら安心だ』
それだけを言い残し、切嗣はこと切れた。
彼の人生は、確かに迷走ばかりだったかもしれない。間違いだらけだったかもしれない。
だが、
最後の最後で、自慢の息子が傍にいてくれた事だけが、唯一の救いだったのかもしれない。
親にとって子供とは、自らの未来であり、答えである。
だからこそ、切嗣は士郎に全てを託して逝くことができたのだ。
だが、士郎は切嗣との約束を果たす事が出来なかった。
美遊を使い、世界を救う。
そうするには、少女が自分に対して、無垢な瞳で向けてくる親愛が、あまりにも重すぎたのだ。
美遊を使って世界を救えば、美遊の存在は魂ごと、永久に世界に縛り付けられることになる。
無制限に自分を慕ってくれる少女に対し、士郎は非情に徹しきる事が出来なかった。
神の子として育てる事も出来ず、
さりとて人の子に落とす決心もつかず、
結局、士郎が美遊に対してできた事は、彼女を高い塀の内に隠したまま、当たり障りのない知識だけを与え続ける事のみだった。
そうしている内に歳月は流れ、美遊は随分と人間らしく成長していった。
出会った頃から変わらず表情の変化は薄いものの、自分から積極的に家事手伝いを行い、士郎が学校に行っている間は、1人で大人しく留守番をしている日々。今では料理の腕もすっかり、士郎に追いつくまでになっていた。
だが、
そんな美遊を見て、尚も士郎の中では燻りが晴れなかった。
自分は、美遊をどうしたいのか。
どうすべきなのか?
その答えを士郎は見いだせないまま、ただ時間だけが過ぎ去っていくのだった。
「なあ、ジュリアン・・・・・・」
いつもの昼時。
今日も例によって、手伝いで生徒会室を訪れた士郎は、いつもの如く、ジュリアンと昼食を囲んでいた。
ふと、思い立ったように、相方へと士郎は声を掛ける。
「何だ?」
対して、ジュリアンは茶を飲む手を止めて顔を上げた。
ジュリアンが士郎を疎まし気にしている事も、士郎がそんなジュリアンに一切お構いなしなのも、相変わらずの事なのだが。
ある意味、この2人にとっては、これが平常運転である。
「もし、5年前の災害みたいな事がもうい一度起こったとして、仮に今度は世界規模だったとして・・・・・・誰か1人を犠牲にする事で他のみんなを救えるとしたら、どうする?」
世界か?
それとも美遊か?
葛藤は、士郎の中で渦巻いている。
世界を救おうとすれば美遊を犠牲にせねばならず、しかし美遊を助けようとすれば世界が犠牲になる。
そのジレンマとも言うべき問答の中で、士郎は答えを探し欲していた。
判っている。
こんな事、ジュリアンに聞いても答えが出る訳ではない。
だが、それでも良い。
この時の士郎は、結局のところ、誰かに縋りたかったのかもしれない。
「・・・・・・・・・・・・誰か、とは誰だ? もっと具体的に言え」
曖昧な質問に答える気は無い。という意思を表すように、ジュリアンは先を促す。
対して、士郎は少し躊躇うように言った。
「誰って・・・・・・たとえ話なんだから別に誰でも良いんだけど・・・・・・その、自分の妹とか」
「妹だ」
迷いながら訪ねる士郎に、ジュリアンは即答して見せる。
まるで考えるまでもない、といった態度である。
「・・・・・・え?」
「妹、と言ったんだ」
もう一度、今度ははっきりとした口調で告げるジュリアン。
親友のそんな態度に、士郎は意外そうな顔をする。
「・・・・・・知らなかった」
ジュリアンの顔を見ながら、士郎は言った。
「お前って、シスコンだったんだな」
「ああァッ!?」
とんでもない事を言う友人に、キレかけるジュリアン。
何を言ってれとんのじゃ、このトンチキ男は。
士郎に食って掛かろうとするジュリアン。
だが、その前に生徒会室の扉が勢いよく開かれた。
「失礼します。衛宮先輩はここにいますか!? あ、一義先輩、お疲れ様です!!」
騒々しく室内に駆け込んで来たのは、弓道部の後輩である
その姿に顔をしかめるジュリアン。
「またうるさい奴が来た」とでも言いたげな態度である。
対して、士郎は怪訝な面持ちで修己へ振り返った。
「どうしたんだよ、日比谷?」
「どうしたじゃないですよ。なに、のんきに食べてるんですか。今日は昼からクラブ連盟の合同ミーティングがあるって言ってたじゃないですか。いつまでたっても来ないから呼んで来いって言われたんですよ」
「ああ、そうだった。悪かったな」
そう言えば、そんな予定があったのを思い出した士郎は、弁当を手早く片付けるとジュリアンに向き直った。
「じゃあなジュリアン。また今度」
「ああ」
部屋の主に挨拶をして、足早に生徒会室を後にする士郎。
その後から修己が続く。
「悪かったな。余計な手間を取らせて」
「いえいえ。ていうか、急ぎましょう。桜が1人で頑張ってますから」
「おっと、それはまずいな」
そう言って苦笑すると士郎は、孤軍奮闘しているであろう後輩を救うべく足を速めるのだった。
2
ゆっくりと、
無人の街を歩く。
黄昏に沈む街並みに、人の気配はない。
ただ、己の刻む足音だけが、耳に潜り込んで来た。
この街は本当に、ゴーストタウンと化してしまったのだ。
自分が住んでいたころは、閑静ながらそれなりに住みよい、良い街だったというのに。
かつて、捨て去った故郷とは言え、こうなってしまうと物悲しい物があった。
しかし、
これから起こる凄惨な戦いの舞台としては、この方が都合が良いのかもしれない。少なくとも、一般人の犠牲者を出さずに済むだろうし。
これならあるいは、自分の目的を果たせるかもしれない。
ここ暫く、彼に張り付いてみて、色々と考えさせられることがあった。
衛宮士郎。
穂群原学園高等部に通う少年で、かつては「魔術師殺し」衛宮切嗣の養子として、彼の人物の仕事を補佐していた。
そして、
今現在、聖杯を保有する人物。
当初、あの言峰という神父から衛宮士郎の話を聞いた時には、彼を殺して聖杯を手に入れる事も考えていた。
聖杯を手に入れる。
自分はそのためにこの街に戻ってきた以上、手段を選ぶ気は無かった。
だが、ここ暫くの接触で、その考えは少しずつ変化しつつある。
彼ならば、
あるいは衛宮士郎ならば、
聖杯を正しい形で使ってくれるのではないか?
そんな風に思うようになっていたのだ。
いずれにしても、もう少し見極める必要があると思った。
衛宮士郎を生かすのか? あるいは殺すのか?
と、
そこでふと、足を止めた。
「・・・・・・・・・・・・いい加減、出て来たらどうです?」
問いかける、静かな声音。
次の瞬間、
少年の背後に、ゆらりと人影が浮かぶ。
高い身長に、痩せた幽鬼のような男。
漆黒のコートを着ている事から見ても、吸血鬼のような印象がある。
「やあ」
警戒するような目つきの少年に対し、男は大仰な身振りで手を広げながら挨拶をしてきた。
「良い黄昏だね。魔が這い出るにはちょうど良い時刻だ」
柔らかい口調。
しかし、
その刺すような視線には、明らかな殺気が含まれている。
まるで毒針のような雰囲気に、少年の緊張は増す。
「匂いにつられて、ネズミも這い出してきたようだしね」
「・・・・・・・・・・・・」
「最近、この界隈を色々と嗅ぎまわっているそうだね。いったい、何を調べていたのかね?」
この男は、
こちらの事情を知っている。
と言う事は、つまり・・・・・・・・・・・・
「聖杯について、かね?」
男が言った瞬間、
少年の手が跳ね上がった。
その手の先に握られる、一丁の拳銃。
「エインズワース、ですか?」
質問に意味は無い。
ただの通過儀礼だ。
次の瞬間、
少年は返事を待たずに引き金を引いた。
放たれる弾丸は致死の魔弾。
当たれば、その生物の生命活動を暴走させ、確実に死に至らしめる。
魔術師として戦うにあたり、少年が使用する武器である。
躊躇ってはいけない。
躊躇った瞬間、死は己に向かって牙をむく。
少年が生きていく上で、唯一絶対としてきたルール。
故に狙うは先手必勝。ただ、それあるのみ。
放たれた弾丸は、真っすぐに男へと向かう。
当たれば、確実に相手の命を奪う。
その弾丸が、
次の瞬間、命中を直前にして、目の前から消滅した。
「ッ!?」
思わず息を呑む少年。
構わず、連続して引き金を引く。
火花を散らしながら、次々と飛翔していく弾丸。
だが、結果はすべて同じ。
弾丸は男に当たる事無く消滅していく。
やがて、銃のスライドが下がり、引き金が反応しなくなる。
弾切れだった。
悔し気に舌打ちする少年。
対して、男はニヤリと笑みを浮かべる。
「無駄だよ。そのような単調な攻撃では、私に傷一つ付けることもできん」
目の前に開いた空間を指差しながら、男は嘲るように笑う。
弾丸は、あの空間に飲み込まれた瞬間、消滅してしまったのだ。
「・・・・・・置換魔術、ですか」
相手の魔術の正体を見抜き告げる。
エインズワースは置換魔術の使い手。
置換魔術自体、下位の互換魔術に過ぎないが、エインズワースのそれは通常の枠に収まらない。
彼らの長に至っては、常軌を逸したレベルに達しているという噂もある。
「さて・・・・・・・・・・・・」
男は少年に向かって、手を差し出す。
「君の持つカード。それをこちらに渡してもらおうか」
「・・・・・・・・・・・・」
狙いはそれか。
少年は心の中で舌打ちを漏らした。
予想できたことだ。
クラスカードはエインズワースにとっても貴重な戦力のはず。それを奪われたまま、と言う訳にはいかないのだろう。
それがまさか、このタイミングで、とは。
「あれは我らエインズワースの叡智の結晶。崇高な代物だ。君如きネズミが、むやみに触れて良い物ではないと知り給え」
そう言って、少年に迫る男。
次の瞬間、
「申し訳ありませんが・・・・・・・・・・・・」
懐に手を入れる少年。
同時に、取り出した物を男の顔面目がけて投げつけた。
「まだこれを、手放すわけにはいかないんですよ」
細長い金属の筒。
次の瞬間、男の目の前で、それはさく裂した。
同時に、強烈な閃光が、周囲に撒き散らされる。
「クッ 小細工をッ!!」
とっさに目を覆って閃光を避ける男。
その隙に、少年は脱兎のごとく、その場から離脱した。
「おのれッ」
背後から声が聞こえてくるが、無視して駆ける。
今はまだ、本格的にエインズワースと激突する時ではない。
少なくとも、ギリギリのタイミングまで、自分は見極める必要がある。
そう、あと少し。
せめて、衛宮士郎という少年が、聖杯を手にするに足る人物であるのか?
それを見極めるまで、たとえ不要の道化であろうとも、舞台を降りる事は許されなかった。
3
結局、自分は美遊をどうしたいのか?
その明確な答えを、士郎は見出す事が出来なかった。
切嗣は迷わなかった。
生前、切嗣は美遊との間に、殆ど家族らしい交流を持たなかった。
彼はあくまで、美遊を「神の子」という世界を救うための道具と断じ、それ以上には見ていなかった。
美遊の方でも本能的に、切嗣の魔術師としての冷酷な面を見抜いていたのだろう。彼には殆ど近づこうとせず、もっぱら士郎の方に懐いていた。
だが、その切嗣はもういない。
美遊をどうすべきか、決めるのは士郎だった。
人の子か?
あるいは神の子か?
士郎の心は、振り子の針のように揺れ続けていた。
そんな迷いを振り払うように、毎日の日課である魔術鍛錬に没入する。
手にしたのは、一振りの定規。
長さ50センチの定規に意識を集中させる。
この定規の材質、構造、形状。その全てを解析し、作り替えていく。
「・・・・・・・・・・・・」
やがて、ゆっくりと目を開ける。
手にしたのは、一本の鉄パイプ。
士郎はその鉄パイプを空中に放り投げると、定規を縦横に振るう。
すると、
鋭い切り口を残し、鉄パイプが寸断された。
強化魔術。
士郎が使う事ができる、初歩的な魔術であり、このように物質を強化する事ができるのだ。
士郎は定規を床の上に投げ出す。
やはり、というべきか、鍛錬に集中できない。
美遊をどうするのか?
このままずっと、隠し続ける事はできない。
いずれは、決断しなくてはならないであろうことは、士郎にも判っていた。
鍛錬場にしている土蔵を出て、母屋へと足を向ける。
明日も早い。朝から弓道部の練習がある。
今日は早く寝よう。
そう思った時だった。
「鍛錬、お疲れ様です、士郎さん」
縁側から声を掛けられて振り返る。
そこには、美遊の姿があった。
士郎が買ってあげた羊さんパジャマを着た美遊は、本を手にして座っている。
「まだ起きていたのか?」
普段の美遊なら、とっくに寝ているはずの時間である。
まだ起きていたのは意外だった。
「うん、星座を探していた」
「星座? なんか美遊に似合わずロマンチックだな」
美遊の年齢は10歳。小学校高学年程度である。本来なら星座のような幻想的な物に興味を持ち、夢を馳せるのは当然の姿であろう。
だが、
「天体の運行に物理以上の意味などないはずなのに、見かけ上の星の並びに、無関係な絵を当てはめた理由が知りたくて」
淡々と自分の考えを話す美遊。
それに対し、士郎は内心で頭を抱える。
士郎が図鑑や伝承本、参考書など、知識を学ぶような本ばかり与えてしまったため、美遊の頭の中は、完全に石頭と化していた。
もっと、絵本とかも読ませるべきだった。と、最近では後悔の種が増えている。
美遊の「情操教育」という意味で、士郎は完全に失敗していた。
そんな美遊の傍らに、士郎も腰を下ろした。
「そう言えば親父も、ここに座ってよく星を眺めていたな」
「オヤ・・・・・・切嗣さんが? どうして?」
美遊にとって切嗣は、せいぜい「一緒に住んでいた大人」程度の感覚でしかない。名目上は父親であるが、家族的な交流など殆ど無かった。
だが、同じく名目上の兄である士郎が、切嗣を深く尊敬しているであろうことは、子供心に分かっていた。
「どうしてだろうな・・・・・・もしかしたら、星に願い事をしていたのかもしれない」
それを聞いて、美遊は何かを閃いたようにハッとした。
「もしや、星の並びに何らかの魔術的作用がッ!?」
「いや、そう言うんじゃなくてさ・・・・・・・・・・・・」
あくまで明後日の方向に突っ走ろうとする美遊を引き戻しつつ、士郎は諭すようにつづける。
「おまじない、みたいなもんかな。内に秘めたささやかな想いなんかを、星に願うんだ」
ふと、士郎は思う。
あの、死に際した縁側で、切嗣はどんな事を思ったのだろう?
あくまで、美遊を使った世界の救済か?
それとも・・・・・・・・・・・・
美遊の力は、人々の願いをランダムに叶えてしまう。
だが、朔月家を出てここに移り住んでから、もう何年も、美遊が能力を発動するところは見ていない。
もう、美遊の「神の子」としての能力は失われてしまったのだろうか?
勿論、それがただの都合の良い願望に過ぎない事も、士郎には判っている。
判っていてなお、そう思わずにはいられなかった。
「・・・・・・星に願い事」
美遊が口を開いたのは、そんな時だった。
「もし、一つだけ、願いが叶うなら・・・・・・・・・・・・」
星を見上げ、
静かな声で、
少女は呟いた。
「私は、士郎さんと本当の兄妹になりたい」
それは、少女にとってささやかな願い。
心から望んだ事。
振り返る美遊。
その瞳は、それまでの深紅ではなく、彼女の「兄」によく似た、琥珀色に変わっていた。
「・・・・・・なんて、だめだよね?」
少女の顔には、はにかんだような笑顔が浮かべられていた。
対して、士郎は目に涙を浮かべる。
何が起きたのか、彼には判っていた。
美遊は、願いを叶えたのだ。
自分で、自分の願いを。
士郎と本当の家族になりたいという、彼女のささやかな願いを。
ならば、
「兄」として、どうしてそれを拒む事が出来ようか?
「ダメな訳、ないだろ」
そう言って、「妹」に笑いかける。
その日、士郎と美遊は、本当の意味での「兄妹」となったのだった。
第32話「神か、人か」 終わり