年度がもうすぐ変わる3月の末。
提督である俺は遠くの鎮守府へと2泊3日の出張で勉強会があった。
勉強会の予定をすっかり忘れていた俺は前日に慌ただしく出かけ、帰りも同じように急いで帰ってきた。
夜も深くなっていて、時刻は午前1時。
まだ寒い夜の風に耐えながら、鎮守府に戻ってきてまっすぐ向かうのは自宅ではなく、自分の執務室。
そこに誰もいないことを望み、きっといることを俺は予測する。
息を切らし、執務室がある3階まで全力で走る。
扉の前にきてから息を整え、熱くなった体を冷やすために着ていたコートのボタンを外す。
そうして落ちついてら深呼吸をし、ドアノブをひねる。
けれど鍵がかかっている。
そのことに『もしかしたら』という安心する心が一瞬出る。
胸ポケットから鍵を取り出し、扉を開けた先には『もしかしたら』という心が休まるものはなくなっていた。
明かりもついていない暗い執務室は、カーテンが開いている窓から入る淡い月の光が部屋を照らしている。
そこから見えるのは畳張りの部屋。和風な家具と机。それらには自然の材料しか使っていないため、ガラスや金属といった無機質で暖かみのない色はなくて当然。
だけれどそこにあった。いや、いた。
静かな部屋の隅に、柔らかい月明かりを受けて銀色に反射するものが。
そこにある銀色は俺にとって心を暖かくし優しくさせてくれる存在で、体育座りで顔を膝の間にうずめている駆逐艦娘の子がいた。
その子は夜の闇に溶けこんでしまいそうなほどの黒い制服を着て、黒のタイツをはいている。
白のネクタイはそれら黒色に埋もれてしまっていて、暗いところでは見分けができない。
服だけではわからないが彼女自身の素敵な特徴があれば簡単に見つけることができる。
今だと、月の光に照らされて幻想的な雰囲気を出している銀髪。腰まですらりとまっすぐに伸びているのは印象に強く残る。
膝の間に顔をうずめていても、少しだけ見える肌は白く、シルクのような肌触りを連想するような肌が見える。
俺が部屋に入っても置物のように動かない彼女だが、俺は知っている。
それはただ怖いだけってことを。
「菊月」
俺は愛おしい菊月に対して、とても優しく名前を呼ぶ。
菊月はすぐに顔をあげ、俺の顔を何秒か見つめたあと笑顔になって駆け寄ってきた。
その姿は迷子になった子犬がご主人さまを見つけたかのような。
慌てて靴を脱いで執務室に入った瞬間、菊月は俺へと抱きついてくる。胸に顔をうずめ、腰へしっかりと手を回して。
身長さが頭ふたつぶんほどある、小さな彼女。まるで中学生のような。
何分かして顔をあげると、出張前には白い肌が綺麗だったが今ではやつれていて、涙で目が赤くはれていた。
「遅くなってすまなかったな」
「構わない。司令官が帰ってきてくれるなら」
普段の耳に心地よいのとは違い、かすれている菊月の声を聞くと、俺は不安を覚えた。
暗い部屋を見渡し、菊月のためにと置いていった布団と食糧・水を探す。
部屋の隅に敷いた布団は寝た様子もなく、机の上に置いてある昨日買ったお弁当と水が入った紙袋は触れてすらいなさそうだった。
菊月の頭に手を置き、何度か優しく髪をなでる。そうしてから頬に手をあてると背筋が寒くなるほど驚き、ひどく冷たかった。
菊月に抱きつかれたまま靴を脱いで部屋に上がり、明かりをつける。
次に灯油ストーブの電源を入れ、部屋のカーテンを閉めた。
そのあいだ、菊月は俺に抱きついたままついてきた。
「何も食べなかったのか?」
「司令官と一緒でなくては嫌だ」
「……布団で寝たか?」
「いいや。もしも悪いヤツがやってきたら大変だから―――あぁ!」
突然大きな声を上げ、腰に回していた手は俺の胸元を掴んでくる。
さっきまでの安心した表情ではなく、荒い息をつきながら俺を怖がる様子へと変わっていく。
「司令官が帰ってきたことに気付かないのはすまなかった。鍵を開けなかったのは嫌いとか、いじわるしたいとか、そういうのじゃなくてだな。わざとじゃないんだ。だから、だから見捨てないでくれ……」
悲痛な声を出し、目を涙いっぱいにしながらすがりついてくる。
それに俺は頭を撫でて安心させる。
何度も撫でているうちに、嗚咽をもらしていたが次第に呼吸が安定していった。それに俺は安心して深い安堵の息をつく。
―――いつからだろうか。
菊月は俺がいないと日常生活を送ることすら困難になったのは。
出会った頃は物静かだが自分の意志がはっきりしている子だった。俺が間違ったことをしてしまったら怒ってくれるし、冗談を言いあうこともできた。
けれど今は違う。
冗談を言うと本気で泣きだすし、俺に怒るだなんてことはなくなった。
代わりに自分自身に怒るようになって、しっかり見ていないと自分を罰するために自傷行為をしてしまう。
睡眠も食事も一緒じゃないとしなくなったし、行動も言葉も人間性も変わった。
変わっていないのは、輝くような銀色の髪だけだ。
昔のことをちょっとだけ思い出しながら頭を撫で、落ち着いた菊月の手を引いて動き始めたストーブの前に行く。
俺があぐらをかいて座ると、そこにいるのが当たり前のように足の間へ入って、背中を俺の胸へと預けてくる。
安心した様子を見て、何も食べていなかった菊月に温かいご飯を食べさせようと考える。
部屋の隅に置いてある、食堂の冷えたお弁当ではないものを。
でも座ったばっかりだから、俺が取りに行くのを嫌がるのは簡単に想像がつく。でも、もしもということがあるかもしれない。
「俺は菊月のために温かいご飯を持って来ようと思うんだが」
「部屋の外か? やめてくれ、来たばっかりだというのにもう行ってしまうのか」
「それなら、あそこにあるご飯を持ってきてくれない?」
部屋の隅に置いてある紙袋を指さすと、菊月はすぐに立ち上がっては急いでそれを掴み、俺の元へ戻ってくる。けど、今度は俺の足の間ではなくて向かい合うように正座で座った。
紙袋から冷えたお弁当と箸を取り出すと、俺の口元に卵焼きを差し出してくる。
「司令、あーんしてくれ」
「俺はもう食べたから」
「あーんっ」
「菊月に食べて欲しいんだけど」
「あーん……」
断るごとに涙目に近づいていく菊月を見て、食べるしか選択肢がないことを知る。
口元に持ってきている卵焼きを食べると、菊月は笑みを浮かべて箸を渡してくれる。受け取ってからすぐに高カロリーな鳥の唐揚げを見つけてすばやく菊月の口へと入れる。
もごもごと唐揚げを頬張っているのを確認し、食べ終わる前にまた箸で掴んでは口元の前に持ってくる。
菊月は若干不満な目を向けてくるが、俺に文句が言えずに差しだされるまま食べていく。
あーんを続けて、最初の卵焼き以外弁当の中身はすべて食べてもらった。
ゴミを片付け、水が入った小さなペットボトルを持った菊月はさっきと同じように俺の足の間へ入って背中を預けてくる。
食事をしてくれて安心した俺は、気分がいい菊月に今日何をしていたかを聞く。
「俺がいないあいだ、由良の言うこと聞いてたか?」
秘書である由良の話を振ると、途端に菊月は俺へと振り向いて不満げな顔になっていた。
普段から仲がよく、優しい由良についての話なら問題ないと思ってが、俺がいないあいだになにかあったのだろうか。
「司令官がいないと、すぐ姉のように振舞ってきた。ご飯は食べたか、きちんと寝たか、今日は自分の部屋で寝なさいって」
「ちょっとでいいから由良の言うことを聞いてくれると、俺は安心するんだけどなぁ」
「いつも司令官がそういうから由良のことには従うようにしている。でも今日は許せなかった」
「由良に怒られでもした?」
「違う!」
菊月はペットボトルを乱暴に投げ捨て、体ごと顔を俺に向けて大声を上げる。
「あ、い、今のは司令官にではなく由良に……」
感情が高ぶって大声を上げた菊月は、怒られると思って申し訳なさそうに小さな声になる。
俺は菊月に対して1度も怒ったことがないっていうのに。
黙ったまま頭を撫でると、菊月は落ち着いて言葉の続きを言う。
「由良はな、『今日は私が提督さんを待っていますから大丈夫ですよ』って言うんだ。だからな、由良を追い出して鍵をかけてやったんだ。どうだ、偉いだろう?」
説明が足りない言葉に首を傾げて考える。
菊月が怒るということは、いないあいだに由良が俺を独占しようと考えたんだろうか。
そして、由良と俺をふたりっきりにするとみだらな関係にでもなるという予測?
由良どころか菊月にも、どの艦娘にも手を出していない俺だというのに。
「司令官を愛するのは、この菊月だけで充分だろう? おかしくなるぐらい大好きだぞ」
俺の首に手を回して抱きついてきて、耳元で小さく愛の言葉をささやいてくる。自分がここにいてもいいよね、と確認するかのように。
でも俺はその言葉には答えられない。
愛しているという言葉を毎日言ってくれるけれど、1度でも俺からは返事を返したことはない。
俺が彼女と一緒にいるのは恋愛感情があるという理由ではなく、放っておけないからだ。
彼女のことを思うのならば、医者に診せることが必要だがそうもしない。
彼女が俺を必要としているように、俺も同じことをしている。俺は誰かに強く必要とされていないと精神が安定しないから。
このままの状態がいいとは思わない。でも俺は行動することはできず、ずっとこの生活を維持している。
いつの日か、この関係が壊れるまで俺は菊月と共に過ごしていきたい。