【完結】Fate/Epic of Gilgamesh   作:kaizer

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9.雪の少女

 ──月の、綺麗な夜だった。

 

「……子供の頃。僕は、正義の味方に憧れてた」

 

 唐突に。俺の養父(衛宮切嗣)は、そんなことを語り出した。

 今から、五年も前の話。俺を地獄から救ってくれた親父との、最後の会話がこれだった。

 

 冬木市を襲った大火災。

 数百人を焼き殺し、俺の家族も自宅も友人も、何もかもを葬り去った忌まわしい過去。

 当然のように、俺はそれに巻き込まれた。炎の中を彷徨い歩き、熱に体を焼かれ、煙に喉を壊され、俺はあそこで死ぬはずだった。

 炎熱地獄からは逃れられても、もう自分はボロボロだった。火炎に焦がされた体は、死者に呪われた心は、とうに意味を為さず壊れてしまっていた。白く染まった空を見て、雨が降るのか、と微かに感じたことを覚えている。

 

 ──そして。そこで、俺は切嗣に助けられたのだ。

 

 死に体だった俺を、どうやって助けたのか。どうして生き延びることができたのかは分からないが、ふと気が付くと、俺は病院のベッドで横たわっていた。

 ややしばらくして現れた、俺を助けてくれた男。照れくさそうに、自分は魔法使いだと語ったその人物に、俺は引き取られることになったのだ。

 

 養父となった切嗣との生活は、とても楽しいものだった。普通の暮らしというものを忘れてしまった俺でも、あの時間は人並み以上に幸せだったと断言できる。

 時々いなくなったかと思えば、戻ってくるなり旅の武勇伝を面白おかしく語ってくれる親父。

 切嗣によく懐いて、いつしか俺の姉のように面倒を見てくれるようになった藤ねえ。

 俺の境遇を知って、何かと親切にしてくれた近所の人たち。

 そんな人たちに囲まれて、みんなと同じように、けれどちょっとだけ変わった生活を送る。そんな日が、いつまでも続くのだと思っていた。

 

「ヒーローは期間限定でね。大人になると、名乗るのが難しくなるんだ」

 

 いつからか。少しずつ、僅かずつ、親父の具合は悪くなっていた。

 病気ではない。怪我でもない。何ら原因が判らぬにも関わらず、衛宮切嗣という男は確実に死へと向かっていた。

 寿命と呼ぶには余りに若すぎたが、そうとしか言いようがない。あの頃の親父からは、生気というものが失せてしまっていた。まるで、何かの悟りを開いてしまったように。もう生きる目的がないとでも、そう言うかのように。

 

 子供心にも、俺は親父の死期を悟っていたのだろう。この時の俺は、何を語るともなく親父と二人でいることが多くなっていた。

 悲しくなかった、と言えば嘘になる。親を失った俺にとって、切嗣はただ一人の父親であり、そして格好良い正義の味方でもあった。

 父親だったとはいえ、家事など全然出来なかったし、正直に言えば頼りなかった。けれどそれでも、親父は俺の憧れだった。世界中に誇れる、誰より立派な人だった。

 

「──そんな事、もっと早くに気付けばよかった」

 

 嘆息して、力なく微笑む切嗣。それを見て、無性に腹が立ったのを覚えている。

 切嗣は俺の英雄だった。死ぬはずだった子供の俺は、切嗣のおかげで助かった。俺が生きていたことを、我が事のように喜んでくれた人。父となったその人は、大きな手で傷だらけの俺を抱きかかえ、あの地獄から連れ出してくれたのだ。

 その笑顔に、憧れた。

 それが、あまりにも嬉しそうだったから。救われたのは自分ではなく、男の方ではないかと思ったほど。

 

 ──生きていてくれて、ありがとう。

 ──助けられて、よかった。

 

 感謝するのは、俺の方のはずなのに。まるで俺に感謝するように、心底から嬉しそうに、切嗣は笑っていた。

 

 俺だけが助かった。

 誰も彼もが、焼き尽くされた焦土で。助からないはずの世界で、俺は一人だけ助けられたのだ。

 救われたなら、救わなくちゃいけない。からっぽになった心が、そう考えるのは自然のことで。

 だから、そういう人間になろうと思った。彼のような正義の味方に、偉大な理想の英雄(ヒーロー)に。それが、どんな絵空事だったとしても。子供の空想に過ぎなかったとしても。絶対になってやると、そう誓ったのだ。 

 俺を助けてくれた親父は、『正義の味方にはなれなかった』と言っていた。それは、どこか空虚なモノで。だからこそ、俺は決心した。正義の味方になって、誰かを助けられる人間になろうと。憧れたあの人の代わりに、尊い夢を叶えようと。

 そう言い切る前に、切嗣は瞳を閉じていた。もう動くことのないその表情は、微かに笑みを浮かべていた。

 

 ──それが、衛宮士郎の始まりのカタチ。決意と憧れが生んだ、幼い少年の儚い理想(ユメ)

 

 

***

 

 

「────」

 

 懐かしい夢を見ていた。

 あの頃の夢を見るのは何年ぶりだろう。ここしばらく、親父の夢を見ることなどなかったというのに。最後に見たのはいつなのか、記憶にないほど昔のことだった。

 昨日の一件で、戦う覚悟が定まったせいか。衛宮士郎が戦う理由を、夢の中で思い出した。

 

 ──あの笑顔に憧れたから、そうなりたいと思った。

 

 そう、この胸にあるのはただそれだけのこと。そのためならば、自分はどこまでも走っていける。

 

「……でもまずは、この聖杯戦争を終わらせないと」

 

 正義の味方。

 俺はそれを目指しているはずなのに。その定義が一体何を示しているのか、未だ以て俺は答えを得ていない。ふと頭を過るのは、弱きを助け強きを挫く、数多の人々の理想像。それも答えの一つには違いないが、けれども完全な答えではない。だが、これだけは言えるだろう。正義の味方は、困っている人を助ける者だと。

 そして……今現在。今日この瞬間にも、理不尽に喘ぎ苦しんでいる人たちがいる。

 それが日々の生活、日常の範疇で起こり得ることならまだいい。世界が不完全な物である以上、その日常の中で起こり得る苦悩なら、否定も拒絶もできはしない。それすら取り除いてしまえば、俺たちの暮らしには、いや、俺たちにとっての世界は何の意味も為さぬ背景に成り果てるだろう。

 

 ──だが。常識を離れ、世界の理に従わず、且つ抗いようもない不条理な力。それが、他ならぬ人の欲望によって引き起こされるモノである以上、俺は断固として拒絶する。

 

 五回目だという、今回の聖杯戦争。しかし、聖杯を求めて集った参加者は、他者の犠牲を厭わない。聖杯を手に入れるためならば、例え多くの者を巻き込んでも構わないと言う、身勝手で利己的な魔術師たち。

 そんな奴らを野放しにしておいては、十年前の惨劇が繰り返される。それだけは、どうあっても許容出来ない。

 故に、俺は戦う。他人を巻き込み、犠牲にしてまで聖杯を掴もうという『敵』は、俺自身の手で止めてみせる。例えそれが、相手を倒すことであろうとも。

 

「さてと、起きるか」

 

 布団から起き上がり、頬を叩いて気合を入れる。

 今日も学校だが、昨日とは違って俺にはやる事がある。それも学校の結界を壊すという、俺の手に余る大仕事が。

 壊すと言っても、結界本体を破壊できるわけじゃない。あの結界は、同等以上の概念でしか壊せない。それは即ち、魔法や宝具級の神秘を用いねばならないということだが、アーチャーもセイバーも、そんな宝具は使えない。

 けれど、結界そのものではなく、その枝葉を壊すことはできる。具体的に言えば、それは結界を作り上げている基点だ。

 家を建てる時には土台が必要なように、結界を作る時にもその基盤になるモノが必要となる。全体が出来上がってしまっている以上、今更末端の一つや二つを壊したところで影響は出ないが、それでも結界の発動を遅らせることはできる。少しでも時間を稼ぎたい俺たちには、藁にも縋るような手段ということだ。

 遠坂曰く、俺はどうやら世界の異常に敏感な体質らしい。そこで、空いた時間に学校を散策し、できるだけ基点を見つけておいて欲しいと言われたのだ。

 末端と言えど、常人には手の届かない神秘で括られた結界に、俺は取りうる手段を持たない。だが、その程度であれば遠坂は破壊できるという。俺が基点である呪刻を見つけ、遠坂が破壊するという役割分担は、こうして今日から実施されることになった。

 しかし、この方法にも問題がないわけではない。結界の一部を破壊する以上、俺たちの行為は結界を構築した術者に確実に伝わる。自分を阻む者がいる、という事実を知れば、相手が何らかの行動に及んでもおかしくはない。

 こちらの狙いはそこにある。相手に露見するというデメリットを、隠れている相手を動かすというメリットとして逆に利用した形だ。敵が誰なのか判らないこの状況で、相手の方から動いてくれるというなら万々歳だ。付け込む隙は十分見出せるだろう。

 

「どんなヤツだか知らないけど、引っ張り出してやる──」

 

 そして、利点はもう一つある。俺というマスターそのものが、情報戦では有効な武器になるのだ。

 俺は魔術の基本もろくにできていない、半人前の魔術師だ。先祖代々伝わる魔術刻印や、大層な魔術回路も持たない俺は、魔力の生成すらも十分にできるとは言えない。

 つまり、自分で賄う魔力にすら事欠く俺は、魔力をほとんど外部に発していないのだ。それは即ち、魔術師からすれば俺は一般人にしか見えないということ。事実、遠坂は俺のことをマスターどころか魔術師であるとすら気づいていなかった。……まあ、俺自身も遠坂に指摘されて初めて、自分が魔力を発していないと知ったのだが。

 それはさておき。遠坂にすら見抜けなかったのだから、学校に潜むマスターは俺が聖杯戦争の関係者だとは思いもよらないだろう。そいつは表に出てきた途端に、遠坂やセイバーだけでなく、俺とアーチャーの奇襲を受けることになる。

 普通のマスターなら、敷設した結界が攻撃を受けたとしてもそのまま静観するだろう。呪刻の破壊は対処療法に過ぎず、結界という巨大な癌細胞を丸ごと消滅させるなどほぼ不可能。結界が完成してしまいさえすれば、莫大な魔力を集められ、一気に優位に立てるのだからわざわざ動く意味などない。

 だが、公共の施設にあんな物を仕掛けた奴がまともであるわけがない。なら、そいつの行動に合理性を求めるのは無駄だろう。俺たちの作戦は、学校に潜むマスターがどう動くかにかかっているのだ。

 校内を見回るルートを思い出しながら、自室を出る。藤ねえや桜が来る前に、遠坂たちと細かい打ち合わせをしなければならない。

 

 

***

 

 

「──これで最後、と」

 

 鮮やかな手並みで最後の呪刻を壊した遠坂が、背筋を伸ばして立ち上がる。

 時間帯は、既に放課後。休み時間や昼休みを利用して、結界の基点──俺に言わせれば、空気が淀んでいる場所に目星を付けておいたため、一つあたりの呪刻を壊す時間は予想より短く済んだ。

 だが、地味に数が多かったせいで、結果的にはそれなりの時間がかかってしまった。今学校に残っている生徒は、おそらく俺と遠坂だけだろう。

 

「士郎、他に怪しい場所はなかったのよね?」

 

「ああ。俺が変に感じた場所はここで終わりだ」

 

 ふーん、とそう言うと、遠坂が何事かを考え込む。微かに傾げられたその首元から、ほんのりと甘い香りが漂ってきて不覚にも心臓が高鳴った。

 そんな俺の様子に気付くこともなく。何か結論が出た様子で、遠坂はこちらに振り向いた。

 

「……士郎。わたし、ちょっと寄っていく所があるから、先に帰ってていいわよ」

 

「それって、遅くなるのか?」

 

「たぶんすぐ済むと思うんだけど……どうかしら。あんまり遅くはならないようにするけど、何なら先に夜ご飯食べちゃってていいわよ。

 あ、解ってると思うけど、余計な寄り道はしないこと」

 

 そう言うと、遠坂は俺に背を向けて、ずんずん歩いて行ってしまった。

 気を付けろよ、と一声かけようとしたが、その時には既に遠坂の姿は廊下の角に消えている。あいつ、思い立ったらすぐに行動するタイプの人間らしい。

 

「……まあ、心配いらないか。遠坂だし」

 

 遠坂が去っていったのを確認してから、俺も足を動かす。遠坂とは反対方向へ廊下を歩き、階段を下りると正面玄関が見えてくる。当然のように、玄関には誰も残っていない。

 今朝の藤ねえの情報によると、最近のガス漏れ事件や行方不明事件のせいで保護者から学校側に苦情が来たらしく、当面は早朝・放課後の部活動を見合わせるらしい。それが原因で、放課後になると学校から生徒の姿は一気になくなる。生徒だけでなく、教員も早めに帰宅するようにしているとのことで、今この学校に残っている人間は俺を除けばほとんどいないだろう。サーヴァントを連れていない今、マスターだと知られていない俺が襲われる危険性は少ないだろうが、早めに帰ったほうがいいに違いない。

 玄関を抜けて、陰り始めた夕日を尻目に歩き出す。時間的にはまだ早いが、冬ということもあって日没は早い。肌寒く頬を突き刺す風が、夜の到来を告げている。

 

「……ん?」

 

 校庭を抜けようとした、その矢先。視界の端に、おかしなものを捉えた。

 首を横に向けて、遠くを横切った影をもう一度確認する。こんな時間に、何故あいつがいるのかは判らないが……あの特徴的な青みがかった髪は、見間違えるはずもない。

 

「あれは……慎二?」

 

 弓道場に向けて、堂々と歩いていく人影。その姿はまぎれもなく、俺の友人である間桐慎二のものだった。

 どうやら俺がいることには気付いていないらしく、こちらに向き直る気配はない。遠目に見える横顔は、どことなく不機嫌そうだ。

 

「忘れ物でもしたのか、あいつ」

 

 生徒は早めに帰宅するよう学校側から指示が出ているし、部活動も一時的に停止状態になっている今、慎二が戻ってきた理由はそれ位しかない。俺と違って、あいつは今でも弓道部に所属している。色々とよくない噂は聞くが、あいつはあいつなりに弓道を続けていたはずだ。

 

 ──だが、何故か気になる。何の変哲もない日常の風景に、どこか違和感を覚える。

 

 校庭に向かおうとした足の向きを変更。歩いて行った慎二の後を、物陰に隠れながら追っていく。

 どうやら俺の予想通り、慎二の目的地は弓道場のようだ。何の迷いもなく進むその足取りは、明らかに何らかの目的を持ってこの場に来たことを示している。

 そのまままっすぐ進むと、弓道場に消えていく慎二。流石に中まで付いて行っては尾行がバレるので、音を立てないよう入り口近くの茂みに隠れておく。

 ……が。不審な友人は、一分と経たないうちに入口まで戻ってきた。先程とは打って変わって、口元には楽しげな笑みすら浮かべている。

 

「……?」

 

 忘れ物をしたにしては、あまりにも早すぎる。それに、入っていった時と同じく、慎二は手ぶらのままだった。

 茂みの中に隠れる俺には気付かぬまま、慎二は校門へと歩いていく。目を凝らしてその様子を伺うが、特に変わった様子はない。もう誰もいないというのに、あいつは一体何のために弓道場まで来たのだろうか。

 どうにも腑に落ちず、慎二がいなくなったのを確認してから、数日ぶりの弓道場へと入る。よく考えてみれば、いつもは鍵がかかっているはずなのに、開けっ放しになっている辺り不用心だ。

 

 ……と。そんなことを考えて弓道場に踏み入った、その瞬間。

 

「これ、は──!?」

 

 そこは、文字通りの異界だった。

 奇妙なまでの息苦しさ。

 吐き気を催す濃密な空気。

 嫌悪感を齎す淀んだ湿気。

 そして……何よりも、匂いが違い過ぎる。この甘ったるい、滑るように纏わりつく臭気は、尋常なものでは有り得ない。こんな場所、ただ立っているだけで気分が悪くなる。

 弓道場の柱。木張りのそこに描かれているそれを、見誤るわけがない。なにせ俺は、つい三十分前までそれをこの目で見ていたのだから。

 その奇怪な刻印こそは、日常を侵す非日常の証。学校の結界を構成する、呪刻の一つだった。

 

 

***

 

 

 夕暮れの街の中を、俯きながら歩いていく。

 これから買い物に向かうのだという認識はあるが、周囲の様子を正しく認識できていない。俺の脳は、ただ一つの光景だけを考えていた。

 

「…………」

 

 つい先程見た光景を、未だに信じることができない。聖杯戦争が、日常を壊すモノだと理解してはいたが……まさか、こんな身近な所にまで魔の手が及んでいるなんて、考えが甘かった。

 

 ──間桐慎二。

 

 数少ない俺の友人であり、付き合いの長い人物。

 成績は常に学年トップクラスで、運動能力も高い。弓道部では、副主将の座を務め上げるだけの腕前を持っている。

 良家の息子らしく、金回りは良い。外見も良いため、女子からの人気も高い。

 ……が。客観的に見て、あまり性格の良い人物とは言い難い。悪い人物ではないのだが、他人を見下す癖があり、男子からの評判は悪い。

 と言っても、折り合いさえつけてしまえば付き合いやすい奴なのだ。あいつとは中学の頃からの付き合いで、登山に行ったりゲームをしたりとしょっちゅう遊んでいた。今は少し疎遠な関係になってしまっているが、友人であることに変わりはない。

 あいつは、普通の一般人だったはずだ。それが何故……あのタイミングで、異界となった弓道場に出入りしていたのか。

 

「何かの偶然、なのか……?」

 

 声に出して呟くが、そんなわけがないと理解してしまっている自分がいる。

 部活動に停止命令が出ている今、各部室はきちんと施錠される決まりになっている。鍵は顧問の教員か、或いはその部の部長・副部長が管理しているはずだ。あんな風に開けっ放しにしておく理由はないし、鍵を持っているはずの慎二が鍵を掛けていかなかった理由も解せない。几帳面なあいつに限って、不用心な真似に及ぶはずがないのだ。

 それに、そもそもあんな時間に弓道場へ行ったこと自体がおかしい。忘れ物をしたにせよ、慎二が弓道場にいた時間はほんの数十秒。何かを持っている様子もなかったし、あれではただ、『何かを確認しに来た』ようにしか見えない。

 そして……弓道場の柱に刻まれていた、結界の刻印。俺は校内は見て回ったが、あの場所の事は失念していた。この日に限って慎二が不審な行動を取り、その先にあったのは結界の基点。穿ち過ぎかとも思うが、偶然にしては出来過ぎている。

 

 ──が。慎二があの結界に関係しているとすれば、全ての辻褄が合う。

 

 今日、俺と遠坂は学校中の呪刻を壊して回った。壊す、と言うよりは一時的な妨害に過ぎないが、それでも結界の発動を遅らせることはできる。一つだけではなく軒並み呪刻に干渉したのだ、結界を仕掛けた者には確実に露呈しているだろう。

 そして、まだ俺たちが見つけていない呪刻があったとすれば……結界の術者は、その無事を確認しに行くに違いない。

 俄かには信じ難いが、そう考えれば筋は通るのだ。俺が感じた違和感も、これで殆ど説明ができる。感情的には納得できないが、理屈の上では特に矛盾している部分はない。

 

 ……だが、一つだけ腑に落ちない点がある。どうしてあんな場所に結界の基点を作ったのか、それがどうにも理解できない。

 他の呪刻は、全てが人目につかない場所にあった。階段の裏や、掃除用具入れの影や、使われていない空き教室。まあ、なるべく人の立ち寄らない場所に仕掛けるのは当然と言えば当然だ。

 けれど、この場所は違う。俺のような半人前の魔術師でも、一目で判るような場所に呪刻は存在していた。他にも見つかりにくい場所はあったにも関わらず、何故あんな目立つ場所を選んだのか。その不可思議な不用心さは、まるで()()()()()()()()()が目的とでも言うような──

 

 そうやって、物思いに耽っていたのがまずかった。

 

「あっ」

 

 どん、と腰のあたりに衝撃。

 慌てて顔を上げると、見慣れた商店街の景色が飛び込んできた。夕方ということもあってか、立ち並ぶ店の数々は手提げ袋を持った買い物客で賑わっている。……って、そうじゃない。

 ぼーっとしていたせいで、誰かにぶつかったのだろう。謝らなければならない、と周囲を見渡すも、俺の近くに人影は見当たらない。

 

「?」

 

 くいくい、と裾を引っ張られる感触。はてな、と思って視線を下に向ける。

 すると、そこには。

 

「もう、気を付けなくちゃダメじゃない。レディにぶつかるなんて、すっごく失礼なんだから」

 

 銀の髪を靡かせる、小さな少女が立っていた。

 

「な──!?」

 

 反射的に、後ろに飛び退き身構える。

 この少女は……つい数日前、イリヤスフィールと名乗った魔術師。あのバーサーカーを従える、聖杯戦争のマスターに他ならない。何だってこんな商店街にいるのかは知らないが、真昼間から人前に姿を晒すなんて想定外にもほどがある。

 人目を憚る気がないのであれば、次の瞬間にも俺は斬殺されているだろう。アーチャーを連れていない、登下校の隙を狙われるとは迂闊だった──!

 

「良かった。生きてたんだね、お兄ちゃん」

 

 いつでも逃げ出せる態勢を取る俺をよそに、少女は明るく笑みを浮かべる。その表情は、セイバーを斬り伏せた残忍さからは想像も出来ない、年相応の幼いもので。それに怯える俺の方が、この空気の中では異端だった。

 すぐに襲ってくるのかと思えば、目の前の少女からは敵意や殺意が感じられない。その矛盾に違和感を覚え、おそるおそる口を開く。

 

「おまえ、確かイリヤスフィールって……」

 

「あ、覚えててくれたんだ!」

 

 嬉しそうに、少女が顔を綻ばせる。どこまでも純真なその瞳に、力を入れていたこちらは肩透かしを食らった形になる。

 

「長いからイリヤでいいよ! それで、お兄ちゃんの名前は?」

 

「え、俺? 俺は衛宮士郎だけど……覚えにくかったら士郎でいい」

 

 目を輝かせて訊いてくる少女に、思わず普通に答えてしまう。いくらバーサーカーのマスターとはいえ、幼い女の子の質問を無視するわけにもいかない。

 俺の名前を聞いて、んー、と可愛らしく口元に指を当てるイリヤスフィール。何事か呟いているようだが、そのさり気ない動作に鳥肌が立つ。

 ……あの夜。俺がバーサーカーに斬られたあの夜にも、この少女は同じ動きを見せていた。こうして何かを考える様子を見せた後、無邪気な自己紹介と共に、イリヤスフィールは俺たちを殺そうとバーサーカーを差し向けたのだ。

 今すぐにでも走り出そう、と腰を落とす俺。それを不思議そうに見つめる少女は、軽く首を傾げると再び口を開いた。

 

「そう身構えなくてもいいよ、シロウ。まだお日さまが出てるでしょ? お日さまが出ているうちに戦っちゃダメなんだから」

 

「っ──戦う気はないのか?」

 

「ないよ? 今日はバーサーカーも連れてきてないし、シロウもサーヴァントを連れてないでしょ? だから、おあいこ」

 

 そう言うと、上機嫌にこちらを見上げてくるイリヤスフィール。その挙措に、やはり戦意のようなものは感じられない。

 

「戦う気がないって言うなら……じゃあ、おまえは一体何しに来たんだ?」

 

「シロウとお話ししに来たんだよ? わたし、シロウと話したいコトいっぱいあったんだから」

 

「お話しって、おまえ……本当に戦いに来たんじゃないのか」

 

 と。

 そう口にした途端、少女の瞳が鋭く細められた。

 

「──ふうん。そんなにわたしと戦いたいんだ、お兄ちゃん」

 

 ぞっとするような声音。その冷たさに、逆らえば命などないと理解する。

 見た目こそ幼い少女だが、彼女はあのバーサーカー……ヘラクレスのマスターだ。今はサーヴァントを連れていないと言っているが、ちゃんとした魔術師ですらない俺には、その真偽は判別出来ない。セイバーを斬り伏せ、アーチャーの矢を無効化したあの怪物が今この場に現れれば、俺一人でどうこうできるはずがない。

 周囲には何人もの一般人が歩いているが、この凍り付くような目をした魔術師が、そんな事で躊躇するとは思えない。殺すと決断したのなら、誰が何処で見ていようとこの少女は相手を屠るだろう。

 アーチャーの冷徹さとはまた違った、マスターとしての冷酷さ。それを見せつけられた俺は、今確かに気圧されていた。

 

「……いや、俺も戦うつもりはない。話をすればいいんだろ? 付き合ってやるから、それでいいか、イリヤ」

 

 周囲の人を巻き込むわけにはいかない、と降参宣言をする俺。それを聞いた少女は、今見せた残酷さが嘘のように、花の咲くような笑顔を浮かべてみせた。

 

「うん、じゃあっちに行こ! 早くしないと置いてっちゃうんだから!」

 

 その場でぴょん、と飛び上がると。くるりと背を向けて、少女は一直線に駆け出した。

 嬉しそうなその後ろ姿は、聖杯戦争のマスターとは思えない。どう見ても、それは天真爛漫な少女のものだ。イリヤは純真に、俺の言葉を信じて走っていったのだろう。

 少しずつ開いていく距離。けれど、イリヤは後ろを振り向く様子を見せない。俺が着いてきているものだと、迷いも無く信じ切っている。

 アーチャーには、敵の誘いに乗るなど愚の骨頂、と嗤われるだろう。

 遠坂には、寄り道するなって言ったでしょうが、と怒られるだろう。

 セイバーには、何を考えているのですかシロウ、と叱られるだろう。

 ……でも、それでも。いくら相手が敵だったとしても、自分を信じてくれた少女を裏切るなんて、俺にできるはずがなかった。

 

 

***

 

 

 商店街の喧騒から離れ、誰も居ない小さな公園に着いた。乾燥したベンチに腰掛け、二人で並んでいる俺たちは、傍から見れば実に不思議な光景だろう。

 兄妹だと言うには外見が違い過ぎるし、友人だと称するには年齢が離れすぎている。けれど、他に誰もいないのだから、説明が必要な理由もない。

 ……そして。人目を憚らなくても良いという事は。つまり、俺は今この瞬間に、バーサーカーに襲われるかもしれないという事でもある。

 隣に座っているイリヤは上機嫌だが、この少女のことをほとんど知らない以上、いつ気分が変わるかなど判ったものではない。魔術師としての力を持たず、サーヴァントも連れていない俺は、どこからどう見ても隙だらけだ。

 その自覚はあるが、かといって無暗に動くこともできない。イリヤが俺を信じたように、俺もこの少女を信じて、話をしてみるべきなのだろうか。

 いつまでも黙っているわけにもいかず、自然さを装って口を開く。

 

「……なあ。話をするって言ったって、一体何を話せばいいんだ? 俺、イリヤが喜びそうな話に心当たりはないんだが……」

 

「えー? 面白いお話じゃないとつまんないよ」

 

 ぷー、と膨れるイリヤ。その様子がリスのようで、思わず苦笑してしまう。

 

「面白いって言ったってなあ……俺はイリヤのこと知らないから、何が面白いと思ってもらえるのか分からないぞ」

 

「そっかあ……じゃあ、今日は特別にわたしの方からお話しするね!」

 

 そう言うと、えへへと笑って、肩を寄せてくる雪の少女。本当に楽しそうな笑顔のまま、イリヤは話を始めた。

 

 本名はイリヤスフィール・フォン・アインツベルンだということ。

 雪の降り頻る、冬の城で生まれ育ったこと。

 母親譲りの髪が自慢で、父親にも褒めてもらったこと。

 部屋の外には、あまり出たことがなかったということ。

 冬木に居る間は、森の奥の洋館に住んでいること。

 お城には口煩いメイドが居て、いつも注意されること。

 

 次々と、まるで魔法のようにイリヤの口からは言葉が零れる。ただ相槌を打つだけだった俺も、いつしか警戒心を解き、微笑んで言葉を交わせるようになっていた。

 無邪気に話すこの少女が、聖杯戦争のマスターだとは到底思えない。何も知らなければ、俺も可愛らしい少女としか思わないだろう。

 ……けれど。他でもないこの少女が、バーサーカーを嗾け、セイバーを殺す命令を下したのだ。平和な会話に絆されて、その冷酷さを忘れるわけにはいかない。

 だが、今のこの純粋さと、あの夜の残酷さの、一体どちらが本性なのか。イリヤスフィールの二面性を、俺は未だ理解できずにいる──。

 

「ねえねえ、シロウは何か楽しいお話ししないの?」

 

 そんな事を考えていると。黙り込む俺を不審に思ったのか、イリヤが顔を上げてきた。

 

「んー、そうだな……」

 

 思考を切り替え、むむ、と顎に手を当てる。

 今までの会話で、イリヤは本当に何気ない話でも楽しんでくれるというのは判った。きっと、冬の城から出たことがなかったというイリヤには、他人の会話それ自体が楽しいのだろう。

 何を話せば良いのかとも思うが、ひょっとすると、俺の平凡な日常でもイリヤにとっては奇想天外な物語になるかもしれない。過去の失敗談や学校での出来事を、幾つか脳裏に思い描く。

 

「じゃ、最近の俺の話をしようか。面白そうなのを選んでみるけど、つまらなかったらごめんな」

 

 こくこく、と首を縦に振るイリヤ。期待の込められたその瞳に、自分の顔が綻ぶのを感じる。

 

「そうだな、面白かった話と言えば──」

 

 一旦、話を始めてみれば。面白いように、次から次へと話題が飛び出した。

 

 俺は親父に魔術を習ったけど、腕前はてんでダメなこと。

 桜という後輩がいて、我が家の家事を手伝ってもらっていること。

 仲の良い一成という友人がいて、遠坂と事あるごとにいがみ合っていること。

 遠坂は学校では猫を被っていて、本性は全然違ったということ。

 最近家に来たサーヴァントたちは、将棋にハマっているらしいということ。

 

 始終楽しそうに話を聞いていたイリヤだったが、何が面白かったのか、遠坂の話題になると身を乗り出して聞き入っていた。特に、一成と遠坂の掛け合いや、遠坂が上級生をこっ酷く振った話は大受けで、我ながら話した甲斐があったというものだ。……遠坂本人の前では絶対に口に出せないが。

 けれど、そんなイリヤは。俺がサーヴァントの話題を出した瞬間、急に表情を曇らせた。

 セイバーとアーチャーが将棋をしていた件のあたりまではまだ良かった。しかし、話がアーチャー本人のことに及んだ途端……イリヤは、それまで浮かべていた笑顔を無表情へと切り替えたのだ。

 その豹変ぶりに、俺も口を閉ざしてしまう。なんでもない話をしていたと言うのに、サーヴァントの話を出したのはやはり間違いだったのだろうか。

 

「……イリヤ?」

 

 声を掛け、俯いてしまった少女の様子を伺う。険しい色を宿した紅い瞳は、何事かを思案するようにここではないどこかを見つめていた。

 静まり返る公園。僅かに響く二人の呼吸音だけが、生命の存在を感じさせる。

 気付けば、既に日は落ちる間際。あと一時間もすれば、冬木市は夜の帳に包まれるだろう。早く家に帰らなければならないな、とそんな考えが脳裏を過る。

 夕暮れの中、ただ静かな時間が過ぎていく。その沈黙を打ち切ったのは、唐突に顔を上げたイリヤだった。

 

「──ホントは、つまらない話はしたくないんだけど。大事なコトだから、シロウにも言わなくちゃいけないよね」

 

「え──?」

 

 その真剣な眼差しに、息を飲む。あの夜の残酷さとも、今までの無邪気さとも違う、年齢にそぐわぬ冷静な瞳。

 吸い込まれるような紅い瞳から、目が離せない。今目の前にいるのは、本当は大人の女性だとでも言うような、そんな妖艶ささえ感じさせる。

 幼い少女とは思えぬ、迫力すら纏わせて。動けない俺を見つめたまま、イリヤは濡れた唇を開いた。

 

 

「シロウ。あのサーヴァントとの契約を切りなさい」

 

 

 それが、余りにも予想外だったせいなのか。その言葉の意味を理解するまでに、数瞬の時を要した。

 

「な──イリヤ、それってどういう……」

 

「他のマスターは害虫だけど、シロウは特別。あのサーヴァントとの契約を切るなら、見逃してあげてもいいわ」

 

 俺の言葉を遮るように、イリヤはとんでもない話を続ける。

 それが、邪魔だからマスターを降りろと言うのではなく。心底から、俺の身を案じる瞳だったから。俺は口を開くことができず、押し黙る他はなかった。

 そんな俺を眺めて、何を思ったのか。一度口を閉ざしたイリヤは、一瞬何かを考え込むと、再び俺の目をまっすぐ見つめてくる。

 

「シロウ。あのサーヴァントのこと、何か知ってる?」

 

 そう真正面から問いかけられて。答えようとして、その時に初めて……俺は、自分の召喚したサーヴァントについて、何も知らないのだと気付いた。

 真名も宝具も判らず、行動原理すらも判然としない、正体不明の異端の英霊。サーヴァントとして在るべき霊体ではなく、実体として召喚されたこと自体が、本来ならば有り得ぬ異常。

 あの遠坂ですら、アーチャーについては一切の心当たりがないと言う。セイバーは何か知っている様子だったが、まだ俺は彼女にそのことを訊いていない。

 マスターと共に戦ってくれるのがサーヴァントだと言うのに、自分のサーヴァントについて何一つ知らないというのは大問題だ。家に戻ったら、セイバーにアーチャーのことを訊いておかなければならない。そう結論付けると、俺は俺の知る限りの答えを言うことにした。

 

「──いや。あいつがアーチャーだってことしか、俺は知らない。

 召喚の手違いだか何だかで、あいつ、自分の記憶がないみたいでさ。あいつ自身にも、自分が何者なのかが判らないらしい」

 

「……ふうん。わたしの知らないサーヴァントだもの、何か歪みが出てるとは思ったけど……そっか、記憶の読み込みに失敗してるのね。それで、霊格と強さにあんなに差があったんだ。

 でも、それはそれで良かったかな。こんなこと、わたしにだって想定外だし」

 

 何事かに納得した様子で、理解できないことを呟きながら頷くイリヤ。

 それに首を傾げていると、一通り考え事が終わったのか、少女は再び顔を上げた。俺が答えるたびに、真剣な表情で思案するその姿からは、イリヤが本当に重大な悩み事を抱えているのだと伺わせる。

 

「シロウは、魔術師だけど素人だって言ってたよね?」

 

「ああ。情けないけど、俺は魔術は正直に言って上手くない。できるのも、強化と投影くらいだ」

 

「ふうん? また変わったのを使うんだね。そんな効率が悪いのしかできないって、ホントに素人なんだ。

 ……じゃあ、ひょっとして聖杯戦争のコトも知らなかったりする?」

 

「いや。聖杯のことも、サーヴァントやマスターのことも、一通りは知ってるぞ」

 

 と言っても、その殆ど全てが遠坂や言峰からの受け売りなのだが。

 

「そっか、それは知ってるんだね。じゃあ、サーヴァントとマスターの関係も分かってるんだ?」

 

 確かめるように、今俺が口にしたばかりのことを質問してくるイリヤ。意図が解せずに眉を顰めるも、ああ、と答えを返す。

 マスターとサーヴァント。この関係は、二人で一組の特別なものだ。

 指揮官であるマスターは、サーヴァントを現世に留め、彼らに魔力を供給する。

 戦闘代行者であるサーヴァントは、人間よりも遥かに強力な存在だが、マスターなしでは現世に留まることができない。マスターから魔力の供給を受けることで初めて、サーヴァントはその真価を発揮できる。

 マスターとサーヴァントにはそれぞれ聖杯を望むだけの理由があり、その利害の一致があるからこそ両者は共闘する。それが、この聖杯戦争に於ける魔術師と英霊の関係だった。

 

「サーヴァントは、マスターがいなきゃこの世界に留まれない。この世界の住人じゃない英霊は、現代にい続けるための依り代と魔力が必要なの。それを提供するのが、マスターになった魔術師たち。

 ──まだ分からない? 逆に言えば、依り代と魔力さえあれば、サーヴァントにとってマスターなんか必要ないって」

 

「な──」

 

 イリヤの紡いだ言葉に、色を失う。執拗なまでにサーヴァントについて訊かれた理由も、その一言でようやく理解できた。

 サーヴァントに命令を下すための令呪、というものがある。けれど、そんなものがなくてもサーヴァントはマスターの意向に従わざるを得ない。マスターはサーヴァントがいなくても生きていくことができるが、サーヴァントはマスターがいなければ存在自体が許されないからだ。

 だが、何かの間違いで……この世界に留まる為の依り代と、魔力。その双方を、サーヴァントが自分で賄えるようになってしまえばどうなるか。

 話は簡単だ。そうなってしまえば、サーヴァントにとってマスターなど必要ない。実際に戦うのは英霊であるサーヴァント自身なのだから、令呪という要らぬ枷を持つマスターは、寧ろ邪魔になるだけだろう。マスターの存在意義は、この時点でほぼ喪失してしまっている。

 そして……そんなイレギュラーを、俺は一人知っている。

 

 俺が召喚したアーチャーは──あの黄金のサーヴァントは、いつでも俺を見捨てられるということではないのか。

 

 あいつは霊体ではなく、現実の肉体を持っている。ならあいつは、既にこの世界の住人になっているということだ。

 自分の肉体を持っているのなら、それはもうサーヴァントとは呼べない。依り代など必要ないし、魔力だって自分で生成することができる。令呪さえなければ、マスターに従う義務すらも存在しない。

 握り締めた拳に、力が入る。この手に刻まれた、三画の令呪。俺とアーチャーの関係は……実の所、その薄く脆いカタチでしかなかったのだ。

 自分に目的はないと、ただ愉しむだけに戦うと、そう笑っていたアーチャー。あの時に感じた、期待にそぐわなければ殺されると言う直感は、どうしようもなく正しいものだった。あいつは──あの英霊は、その気になれば躊躇いなく簡単に俺を殺せるのだ。

 

「これで分かったでしょ。シロウが、どれだけ危ない橋を渡ってるかってことが。

 そうじゃなくても、あのサーヴァントは何かおかしいわ。まだシロウがマスターを続ける気でも、あのサーヴァントとの契約だけはダメよ」

 

 そう断言するイリヤ。反論しようとした言葉も、突き付けられた現実の前には力を失い消えていく。

 もう何度目になるのかも分からないが……今までの認識は、甘すぎた。

 あれ程遠坂が警戒し、セイバーが敵視していた理由。その本当の意味を、俺は今になって理解した。

 マスターが必要ないサーヴァント。俺と言う存在を差し引いても、そのイレギュラーはそれだけで脅威なのだ。

 

 通常、サーヴァントがどれだけ強力でも、その性能はマスターに依存する。マスターの力量が低ければサーヴァントの力を活かしきれないし、マスターが倒されてしまえばサーヴァントは消えるしかない。

 だけど、アーチャーは自分だけで好き勝手に戦える。マスターという弱点自体を、アーチャーは元から持たないのだ。それは即ち、真正面からアーチャーを打ち破る以外にはあの英霊を打倒する手段がないということ。

 加えて、アーチャーは自前で魔力を調達できる。マスターに頼らざるを得ない他のサーヴァントと違って、自分で自由に戦えるアーチャーは、それだけで大きな戦略上の優位を持っている。これで記憶さえ十全なら、本当にとんでもないサーヴァントになっていただろう。

 

「でも、サーヴァントだって言うなら、どんなヤツでも令呪には逆らえないわ。一画くらいなら抵抗できる英霊もいるでしょうけど、二画・三画と重ねられた命令に逆らえるサーヴァントなんかいない。

 シロウ。あのサーヴァントと契約を切りたいなら、『死ね』って命じるだけで良いわ。

 それが嫌なら、どうでもいい命令に令呪を全部使っちゃいなさい。マスターじゃなくなったシロウは見逃してあげるし、残ったサーヴァントはわたしがバーサーカーで倒してあげる」

 

 イリヤの誘い。その甘美な誘惑は、夜の教会で言峰が口にしたものと同じだった。

 あの神父は言っていた。強力な魔術である令呪を、無駄に使い潰すなどもってのほかだと。しかしそれは、あくまで自分の命があってこそのもの。ただ持っているだけで、いつ殺されてもおかしくないような鬼札など、早々に捨ててしまいたい。

 アーチャーの、あの人ならざる目を思い出す。正直、俺にはあいつが何を考えているのかすら分からない。必要以外には口を開かず、ただ全てを見下すように振舞うアーチャーは、今まで出会ってきた他のサーヴァントたちと比べても、明らかに何かが異質だった。

 

「どうするの、シロウ?」

 

 真剣な表情のまま、俺を見上げてくるイリヤ。その瞳に映るのは、純粋に俺の身を案じる色だけだ。

 きっと──この少女は、マスターとしての打算ではなく、足元すら覚束ないような俺を本当に心配してくれているのだろう。出会って間もない少女にすら案じられるほどに、今の俺の状況は危ういのだ。

 

「…………俺は」

 

 戦う覚悟は決めた。けどそれは、サーヴァントという脅威に対抗する、それと同位の存在がいたからだ。それが味方ですらなく、意思一つで俺を切り捨てるような悪鬼だったのなら……俺は、一体どうするべきなのか。 

 知っていた。アーチャーの冷酷な紅い瞳を、俺は確かに知っていた。

 しかし、俺はどこかで油断していた。マスターなしではサーヴァントは生きられない以上、あの男は俺を本当に殺せるのだろうかという疑念があった。あいつが受肉しているという事実を深く考えもせず、一歩間違えば奈落へ落ちる崖っ縁を、俺は呑気に彷徨っていたのだ。

 正義の味方として戦う? いや、それ以前の問題だ。何かをする前に殺されてしまったのでは、それには何の価値もない。それでは、十年前に俺が助けられた意味がない。

 

 ──どうする。

 

 この少女の言うとおり、アーチャーとの契約を切るか。

 そうすれば少なくとも、俺は得体の知れない英霊から逃れることができる。確かにマスターやサーヴァントから狙われる可能性は残っているが、言峰教会に逃げ込むという選択肢もある。背中から刺されるよりは、その方が幾分かマシだろう。

 聖杯戦争がいつまで続くのかは知らないが、そんなに長期間に及ぶものではないだろう。それさえ終わってしまえば、後はまたいつもの日常が戻って来る。マスターもサーヴァントも、戦いも殺し合いもない、貴重で得難い平穏が。

 そもそも、俺は望んで戦っているわけではない。ここでサーヴァントと契約を切っても、元の形に戻るだけで、何一つ問題など──。

 

「…………俺は」

 

 ──違う。

 

 思い出せ。十年前を思い出せ。

 あの災禍、あの災厄。あれこそは、その平凡な生活を奪った地獄だ。その苦痛を齎す者こそサーヴァント。その天災を招く物こそ聖杯。

 いつもの日常に戻れる? 否。戦いから逃げたところで、災害からは逃れられない。人の力では、天災には勝ち目がない。

 俺は、失ったのではなかったか。あの劫火の中で、全てを失い全てを捨てた。聖杯戦争になど何の関わりもなかったにも関わらず、ただそこに居合わせただけで何もかもを失くしてしまった。

 大勢の人が焼け死んだ。大勢の人が悲しんだ。そんな理不尽に背を向けて、俺はこの先胸を張って生きていけるのか。 

 それに……先程見た光景。間桐慎二が、俺の友人が、聖杯戦争に関わっている。もしそれが本当なら……それに目を背けるわけにはいかない。

 学校に通う人間、その全てを巻き込むという結界。アレを仕掛けたのは、他ならぬ慎二かもしれないのだ。もしアイツが間違った凶行に及ぼうとしているのなら、それを止めるのが友人の役目だろう。

 そして、俺が戦いを放棄するということは、学校に仕掛けられた結界に目を瞑るということでもある。そうなっては、また大勢の人が死ぬ。既に一度、数多の人間を見殺しにしていると言うのに──一度ならず二度までも、俺は他人を見捨てる選択をするのか。

 

「────」

 

 空を見上げる。天の支配者は、いつの間にか太陽から月へと移り変わっていた。

 平等に降り注ぐ月光を受け、一度だけ深呼吸する。夜の冷たい空気に、揺らいでいた心が凍っていく。

 幾度となく出したはずの、結論。無知故に、感情だけで決めた教会の時とは違う。俺は今度こそ……自分に降り掛かる危険を知って、改めて。自らの進む道を、命を賭して駆ける道を、自分自身の手で選ぼうとしていた。

 長い瞬きの後、目を開く。視界に映るのは、俺の答えを待つ少女の顔。それをまっすぐに見つめて、俺は。

 

 

「──戦う。俺はもう、十年前のような出来事を起こさせるわけにはいかない」

 

 

 そう、あの夜と同じ答えを口にした。

 

「……どうして? そんなに聖杯が欲しいの、シロウ?」

 

 俺の答えを、或いは予測していたのだろうか。驚くこともなく、イリヤは静かに問いかけてくる。

 

「いいや。俺は聖杯なんかに興味はない。

 ──けど。この争いを放っておけば、多くの人が巻き込まれる。それを黙って見過ごすなんて、俺にはできない」

 

「でも、シロウのサーヴァントは、シロウを見捨てるかもしれないんだよ。……いいえ、見捨てるだけならまだいい。最悪、殺されてしまうかもしれない。

 聖杯が欲しいわけでもないのに、他人のために戦うなんて、死ぬのが怖くないの?」

 

 死ぬのが怖くないのか、か。それは、他でもないアーチャー本人にも問われたことだ。

 ならば、その答えは決まっている。この答えを違えた時点で、衛宮士郎は衛宮士郎でなくなってしまうのだから。

 

「怖いさ。でも──自分のせいで、他人が死ぬ事の方がよっぽど怖い」

 

 自分が傷つくのはまだいい。けど、他人が傷つくのは許せない。

 正義の味方は、困っている人や、傷ついた人を助ける英雄(ヒーロー)だから。だったら、こんな恐怖で立ち止まっちゃいられない。

 

「それにな。あいつ、そんなに悪いヤツじゃないと思う。記憶はないって言うし、偉そうだし、我儘放題だけどさ。理由もなく、俺を殺すようには思えなかった。

 何となく、だけどさ──あいつ、ホントは凄いヤツじゃないかって、時々そう思うんだ」

 

 傲岸不遜な、黄金のサーヴァント。

 あの英雄は確かに、衛宮士郎を助けてくれた。何かしらの思惑があったにせよ、アーチャーは俺の意図せぬ召喚に応え、ランサーを撃退し、バーサーカーと戦ってくれたのだ。

 ……それに。見捨てると決めたのなら、あいつは初めから俺を助けてなんかいないだろう。もしそうなら、最初に力不足だと判った時点で、或いは、セイバーを助ける為にバーサーカーに突っ込むという選択をした時点で、あいつは俺を切り捨てていたはずなのだ。

 なのに、あいつはそうしなかった。俺を試すように真意を聞き出し、呆れ、嘲りながらも、俺のサーヴァントとして戦うと、アーチャーはそう宣言した。

 それだけではない。わかりにくいが、アーチャーは時折俺に助言らしき言葉すらかけてくる。俺を見限っているなら、何故そんなことをしなければならないのか。

 アーチャーは、常に冷たい正論しか口にしない。それがどれだけ上から目線であれ、あいつの言葉はあいつなりに筋が通っている。あいつが俺を見捨てる時があったとすれば、それは──俺がどうしようもなく、道を違えた時だろう。

 

 俺の答えに、見開かれた少女の瞳。イリヤの紅い目は、愚かな決断をした俺を責め立てるようで。

 

「凄いって……あれはわたしのバーサーカーだけじゃなく、セイバーにだって敵わないようなサーヴァントなんだよ? どうしてそんなヤツに肩入れするの、シロウ?」

 

 イリヤの問いに、苦笑する。

 確かに、俺の言っていることはおかしいのだろう。理屈の上では、アーチャーは危険なサーヴァントなのだ。

 

 ──だけど。

 

「やっぱり、あいつは俺が呼び出したサーヴァントだしさ。マスターの俺が信じてやらなかったら、他に誰が信じるって言うんだ?

 それに……裏切られるとか、見捨てられるとか言うけどさ。それって、何もサーヴァントに限った話じゃないだろ。例えば、俺は料理に包丁を使うけど、あれだってちょっと間違えば手や足を切っちまうかもしれない。

 こんな言い方は嫌なんだけどさ……イリヤたちにとっては、サーヴァントは『武器』なんだろ?だったら、使い方を間違えたら、持ち主が傷つくのは当たり前じゃないか」

 

 包丁に限らず、それは俺がやっていた弓道だって同じだ。仲間や道具を信じることができないヤツや、正しく接することができないヤツに、結果が付いてくるわけがない。自分から歩み寄ることもせずに「裏切られるかもしれない」と怯えるなんて、それこそお門違いな話だ。

 理論だけで、理屈だけで突き詰めれば、そんなものに意味なんてないのだろう。けどこれは、物差しなんかで測れるものじゃない。

 常に合理的な魔術師にとっては、俺の決断は理解できないだろう。でも、それでもいい。この道は俺が、衛宮士郎が選んだ道なのだから。誰に理解されなくとも……俺は、自分の選んだ道が間違ってないと信じている。

 

「記憶を失くしてるだけで、本当のあいつはとんでもない英霊かもしれないだろ?なら、そんな強い『武器』を手放すなんてことはできない。

 情けないけど、俺は一人じゃ聖杯戦争なんかできっこない。だったら、自分のサーヴァントを信じなくちゃな。そもそも──あいつは『武器』なんかじゃなくて、聖杯戦争の『相棒(パートナー)』なんだからさ」

 

 そう口にした途端。胸の中にあったモヤモヤは、綺麗に消えてなくなった。

 イリヤの言葉で揺らいでいた決意が、自分の言葉で改めて固まる。ほう、と息を吐いて、令呪の宿る手を握り締める。

 

「──だからごめんな、イリヤ。俺は、この戦いを降りる事はできない」

 

 本心から、頭を下げる。

 俺を心配してくれた少女を、俺は真っ向から裏切ることになったのだ。それは即ち、彼女の敵であるマスターであり続けると、そう宣言したのに等しい。

 だから──怒り出すかと、そう思ったのに。

 今にも泣き出しそうな笑顔で……イリヤは、優しい声を紡ぎ出した。

 

「──そう。シロウは、わたしの敵になるんだね」

 

 そう言うと。前触れもなく唐突に、イリヤがベンチから立ち上がる。明確な拒絶を示すその後ろ姿に、俺は何も言えず座り込んだまま。

 

「いいわ。今日はもう帰るけど、戦うって言うのなら、わたしが相手になってあげる。

 だってわたしは──キリツグとシロウを殺すために、この街に来たんだから」

 

 最後に、そんな事を言い残して。

 味方として手を差し伸べてくれた少女は、敵として公園から立ち去った。

 

 

***

 

 

「ク──はは、ふははははははは! この我を『武器』と称するとは、礼儀を知らぬにもほどがある!」

 

 人影の絶えた家。その中に、高らかに響く笑声があった。

 家の主は未だ帰らず、家に住む者も戻る気配を見せない。故に、此処に在るのは一人だけ。廊下に座り込み、ライダースーツに身を包んだ、金髪の青年のみ。

 一体何が可笑しいのか。腹を抱えて大笑するアーチャーは、何度も手を打ち鳴らす。笑みと言えば嘲笑しか見せぬこの青年が、かくも楽しげに笑うなど、見る者が見れば瞠目する光景だろう。

 笑いを堪える様子すら見せず、アーチャーは声を響かせる。何の憚りも見せぬその様子は、心底からこの英霊が愉しんでいるのだと伺わせる。

 

「だが許そう。器の卑小さを弁えず、身の程を越えた願望を懐く者。それがどれ程愚かであれ、希少なモノには価値がある。

 何せ、我のマスター足る雑種だ。せめて、その程度の不遜さがなければな──!」

 

 くつくつと笑うアーチャー。目の前には誰もおらず、闇に沈んだ庭には虫の姿すら見当たらない。この青年の興を惹くモノは、何一つとして存在しない。否──そもそもアーチャーは、目を開けてさえいない。

 だと言うのに、何故この英霊は笑っているのか。他者が見れば不気味さすら感じるだろうその秘密は、マスターとサーヴァントの関係にあった。

 彼の感覚器官に映し出されているのは、遠く離れた地の光景。住宅街の中に取り残された、寂れた公園。それはまぎれもなく、彼のマスターである衛宮士郎が今目にしているもの。

 

 ──感覚共有。

 

 魔術師(マスター)使い魔(サーヴァント)の間に繋がれた、魔力の経路。それを通じて、一方の契約者と視覚や聴覚を共有する、魔術の中でも汎用性の高いもの。

 しばしば魔術師は、己の使い魔を通じて遠方の光景を覗き見、或いは彼方の音を直に聞くことができる。その理由こそが、今アーチャーが行使している能力だ。

 今のアーチャーは、魔術を使うことはできない。しかし、蛙や鳥なら兎も角として、知性を持つアーチャーには、魔力の経路を辿るなど造作もない。マスターの感覚を共有する程度、何の苦労もなくこなしてみせよう。

 この魔術は、双方の同意が得られなければ行使できないという欠点も持つ。だがその難点は、衛宮士郎とアーチャーの関係に限って意味を持たなかった。

 衛宮士郎は、殆ど素人同然の魔術師だ。魔術に対する抵抗力は弱く、防御魔術すら持ち合わせていない。多少力のある魔術師ならば、容易く手玉に取れるだろう。

 アーチャーが何ら問題なく感覚共有の能力を使えるのも、マスターの未熟さが原因だ。おそらくあの少年は、自らの感覚に干渉されているという自覚さえあるまい。

 当然、アーチャーはそんな事実を伝えるつもりはない。また、マスターに自らの感覚を共有させるつもりもない。自分が他者の感覚を使うのは勝手だが、他者が自らの感覚を使うなど断じて許さぬというのが、唯我独尊なこの英霊の矜持だった。

 

「この聖杯戦争とやら、下らぬ遊戯には違いないが──存外に、愉しめる喜劇に化けるやもしれぬな」

 

 笑みを深める黄金のサーヴァント。彼が脳裏に描くのは、今まで出会った人間たち。この英霊が最も興味を向けているのはセイバーだが、その他の人物にも無関心というわけではない。

 セイバーのマスターである凛という少女も中々に面白そうではあるし、この家に来る女たちも並大抵の人間ではない。少なくとも、この男がある程度の不敬を許しているという時点で、彼女らに対する関心の程が伺い知れよう。

 そして、今この瞬間……マスターである、衛宮士郎に対する興味も湧いた。凡百の雑種なら早々に切り捨てる所存だったが、アレは並の人間ではない。いや、その能力こそ十人並みだが、根底にあるモノが違い過ぎる。一般人らしく表層を取り繕っているようだが、その程度の虚構、真紅の慧眼が見通せぬ道理がない。 

 呼び出されて早々に、記憶を思い出せぬという致命的な問題。通常のサーヴァントなら、いや、普通の人間ならば誰もが戸惑うその異常すら、この英霊にとっては瑣事の一言で片が付く。アーチャーにとっての問題は、自身の記憶ではなかった。

 他のサーヴァントと違って、彼には目的意識が希薄だ。記憶を取り戻せるなら取り戻したいとは思うが、聖杯戦争自体への興味はない。願いを叶えるというその評判すら、アーチャーは碌に信じていなかった。

 だが、呼び出されてしまったからには仕方がない。自ら『座』に戻るほど酔狂ではない以上、現世での娯楽探索は彼にとって最優先される事項であり、楽しみを見出せぬことは最大の問題でもあった。

 しかし、早々簡単に愉悦の種が見つかるはずもない。そこでアーチャーが目を付けたのは、彼を取り巻く人間たちだった。

 

「我を『武器』呼ばわりしただけでなく、あまつさえ『相棒(パートナー)』などと抜かしたか。ハ、つくづく身の程を弁えぬ雑種よな」

 

 中でも、意図せず彼の主となった衛宮士郎。自らを縛る鎖となる、マスターという存在自体がアーチャーにとっては許し難いもの。己を愉しませる価値を持たないのなら、何の躊躇いもなく斬り捨てるつもりだった。自身の肉体を持つ以上、アーチャーにはマスターなど寄生虫でしかないのだから。

 せめてもの慈悲と、自分は味方ではないと忠告してやった。にも関わらず──衛宮士郎は、この英霊の想像を容易く越えてみせた。

 何の能力も持たない分際で、戦うと決意したのもさることながら、敵を助ける為に自ら死地に飛び込む異常な在り方。

 己が置かれた状況すらも解らぬ愚昧かと思えば、並の人間以上に確固たる信念を宿したその魂。

 そして、その肉体に秘められた希少な物体。埋め込まれているソレは、この英霊をして瞠目させる程の価値のモノ。

 加えて──今その口で紡いだ、アーチャーを信じるという理由。確かに青臭く、幼く、矛盾したものではあるが、だからこそ面白い。ここまで歪な存在は、世界広しといえそうはいまいと断言できる。

 故に、アーチャーは興味を持った。鑑賞するだけだったはずの対象を、初めて己が眼で吟味した。

 

 その結果──アーチャーは、衛宮士郎は自身の愉悦に成り得るという確信を懐いた。

 

 それは、果たしてどのような偶然か。

 一つ歯車が違っていれば、この英霊は己がマスターに何の興味も湧かなかったに違いない。路傍の石と同様に、気にする価値もないと捨て置いたことだろう。

 或いは、立ち位置が異なっていれば。このサーヴァントは、容赦なくあの少年を倒しただろう。人としての歪さは、時として嫌悪感すら感じさせるものになるのだから。

 それとも、そもそも出会うことすらなかったかもしれない。如何な決意を固めようと、衛宮士郎は余りに未熟。幸運が味方せねば、この時点で斃されていても不思議ではない。

 有り得ぬはずの確率。起こり得ぬはずの奇跡。それを無自覚に引き当てた衛宮士郎は、間違いなく幸運な人間だろう。少なくとも、アーチャーはそうだと確信している。どんな要素が作用したにせよ、それを引き当てるのは運に恵まれた人間なのだから。

 

「フン──我の契約者足らんとするならば、我を存分に愉しませてみよ。それが貴様の務めだ、衛宮士郎」

 

 上機嫌に笑みを浮かべる、黄金の英雄。その威圧感に耐えかねたように、空の隅に残っていた太陽が沈む。

 後に残されたのは、月に照らされた青年だけ。微笑の余韻を残すその瞳は、どこまでも続く夜空を見上げていた。


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