【完結】Fate/Epic of Gilgamesh   作:kaizer

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10.揺るがぬ理想

 赤い夕暮れ。太陽の残滓が、微かに大地を照らし出していた。

 どこからか聞こえてくるのは、車やバイクの排気音。仕事を終え、自宅に戻ろうという人が増える時間帯なのだろう。

 

「────」

 

 そんな中。喧騒から取り残された公園で、一人佇む。

 仄暗く陰り始めた空を見上げて、静かに息を吐く。雪のように白いそれを見て、先程去っていった少女のことが思い出された。

 

 イリヤスフィール・フォン・アインツベルン。

 

 バーサーカーの主だという、幼い少女。謎に満ちたマスターである彼女が最後に残した言葉、それがどうしても頭から離れない。

 イリヤは、俺と切嗣を殺すためにこの街に来た、と口にした。あの感情の宿らぬ瞳や、冷たく凍えるような表情には、嘘があったとは思えない。それが真実であると仮定して──何故彼女は、俺のみならず、切嗣を殺すと宣言したのか。

 俺が知る限り、切嗣とイリヤの接点はない。しかし、俺が知る切嗣の姿はたった五年間に限ったもの。それ以前の経歴は知らないし、俺と暮らすようになってから、切嗣は何度も旅に出ていた。もしかしたら、その間に何かがあったのかもしれない。

 衛宮切嗣という人は、俺にとっては命を救ってくれた恩人であり、頼りない養父であり、憧れである正義の味方だ。いつも、女の子には優しくしろと言っていた親父は……年端も行かない少女に、殺意を向けられるような行為に及んでいたとでも言うのか。

 

「…………くそっ」

 

 苛立ち紛れに悪態を吐く。誰も居ない公園に、無意味な声が空しく響いた。

 今の俺には、何もかもが分からないことだらけだ。切嗣のこと、アーチャーのこと、イリヤのこと。知らなければならないはずのことばかりなのに、俺は余りにも無知だ。

 けれど……そんな俺にも、一つだけ分かったことがある。

 あのイリヤスフィールという少女は──きっと、話せば分かってくれる人間だ。

 俺を倒すのが目的なら、この公園に着いた時点でバーサーカーを呼び出せば良かったのだ。いや、サーヴァントを呼ばずとも、あの狂戦士を従えられるほどの魔術師なら俺を倒すなど容易だろう。

 しかし、イリヤはそうしなかった。話をする、と言った俺を信じてくれたばかりか、俺が知らないアーチャーの危険性を教え、聖杯戦争の舞台から降りるように手まで差し伸べてくれた。昨日今日会ったばかりの、しかも敵であるマスターの俺に。

 

「…………」

 

 だが、イリヤ個人の人格や思惑は別として。彼女がバーサーカーのマスターであり、立ち塞がる大きな壁であるという事実に間違いはない。如何に彼女が善良であろうと、アーチャーやセイバー、それに遠坂は、躊躇せず彼女と戦うだろう。

 

 では──俺に、それができるのか。

 

 戦うと、決意した。聖杯戦争を勝ち抜くと、そう決めた。しかし、俺の動機は他のマスターたちとは違う。第三者を巻き込むような、手段を選ばない外道を止める。それが、衛宮士郎の戦う理由であり……そしてそれは、イリヤと戦う理由にはならない。

 どうするべきかと、逡巡する。

 イリヤとは戦えない。だが、あの夜のようにバーサーカーの猛威に襲われて、無抵抗でいるなど愚かしい。

 ならば……イリヤではなく、あの巨人を倒すべきなのだろう。サーヴァントが存在しなければ、マスターはただの魔術師でしかないのだから。

 それがどれほど困難で迂遠な道なのかなど判っている。セイバーとアーチャー、二人がかりでも傷付けることしかできなかった不死身の英雄。あれを敵に回すぐらいなら、そのマスターを狙う方がよほど容易い。ギリシャ神話の大英雄に、正面から立ち向かって勝とうなど、それこそ神でもなければ不可能だ。

 イリヤと戦いたくないのなら、アレを倒す他ない。結局は振り出しに戻ってしまったが、やはりそれしかないのだろうか──。

 螺旋のように絡み合った思考を、頭を振って横に置く。いずれ出さねばならない結論だが、今はそれより優先しなければならないことがある。

 

「帰るか」

 

 最後に一度ため息を吐き、重い腰を上げる。こんな時間になっている以上、俺以外の皆は既に帰っているだろう。これ以上遅くなって、心配をかけるわけにはいかない。

 ……と。その前に、商店街に寄って夕食の材料を買っていかないと。

 帰りが遅くなった挙句、夕食もないと知れたら、確実に藤ねえの不興を蒙る。せめて夕食だけでも揃えておかなければ、虎の暴走は防げそうにない。

 何故遅くなったのか、とも聞かれるだろうが……イリヤのことは、今は誰にも話さないでおこう。敵のマスターと出会ったのだ、遠坂たちには話しておくのが筋だろうが、それでも話したくはない。

 今日のイリヤは、俺の敵じゃなかった。彼女はマスターではあるが、あの時は確かに俺の味方になってくれていた。だからこそ……その事実を、俺以外の人間に公言してはいけないだろう。

 

 

***

 

 

「ただいまー」

 

 買い物袋を引っ提げ、明かりのついた我が家の玄関に入る。商店街を練り歩いているうちに、すっかり辺りは暗くなってしまっていた。

 

「おかえりなさい、シロウ。今日は遅かったのですね」

 

 靴を脱いだあたりで、セイバーが姿を見せる。それに答えようとして……ふと、違和感に気付いた。家から、セイバー以外の気配が感じられないのだ。

 耳を(そばだ)ててみるが、話し声すら聞こえない。足元を見下ろすと、そこにあるはずの靴の数が明らかに足りていなかった。首を傾げつつ、玄関まで歩いてきたセイバーに向き直る。

 

「ああ、ちょっと色々あってね。ところで……遠坂は、まだ帰ってきてないのか?」

 

「はい。凛は、今日は遅くなると」

 

「そっか。藤ねえと桜も、まだ帰ってないのか?」

 

 そう訊ねると、セイバーの秀麗な顔が微かに憂いを帯びた。その表情で、何かがあったのだと直感する。

 

「いえ、先程戻ってきたのですが……学校で弓道部の生徒が倒れたとの電話があり、二人とも病院の方へ。シロウには、今夜は戻れない旨を伝えてほしいと」

 

「な──」

 

 取り落としそうになった買い物袋を、寸での所で掴み取る。瞬時に思い浮かべるのは、学校を覆う血の結界。まさか、あれが何らかの動きを見せたのだろうか。

 ……いや。もしそうなら、セイバーがここに留まっているはずがないし、遠坂もアーチャーも動くだろう。だがこのタイミングで学校の生徒が倒れたのは、果たして偶然と言えるのか。一瞬の動揺を覆い隠して、セイバーにもう一度質問する。

 

「セイバー。その件について、二人は何か言ってなかったか?」

 

「特には。二人とも急いでいましたし、その生徒の容体が気にかかるところですが……」

 

「そうか……」

 

 セイバーと会話をしながら、居間に入り買い物袋を置く。

 ……と。放置されている将棋盤を見て、もう一人のサーヴァントの不在を思い出した。今の話の衝撃で頭から吹き飛んでしまっていたが、遠坂たちだけでなく、アーチャーの姿も見当たらない。四人もの人間が一度にいなくなった居間は、予想以上に閑散としている。

 また酒でも漁っているのか、と台所の方を見るが、やはりそちらにも人影はない。今ここにいるのは、俺とセイバーの二人だけだ。

 

「アーチャーでしたら、シロウたちの学校へ向かいました。結界の様子が気になると」

 

 俺の疑問を感じ取ったように、セイバーが先んじて答える。その言葉の内容は、やはり予想できたものだった。

 ここ数日、街を巡回しているセイバーと違い、家の中で寝転んでいるばかりだったアーチャー。だが、彼とて聖杯に招かれたサーヴァントの一人。聖杯戦争に関係しているであろう事件が身近で起きていると聞いては、やはり気になるのだろう。

 

「このタイミングで結界を見にいった、ってことはやっぱり……」

 

「ええ。その事件にはあの結界か、或いはそれを仕掛けた者が関与している可能性が高い。シロウと凛は、今日結界の基点に干渉したと聞いています。学校に潜むマスターがその動きに気付いたのなら、何らかの反応を見せてもおかしくはないでしょう」

 

 それでは……まさか。俺たちが結界に手を出したせいで、無関係の生徒が巻き込まれたとでも言うのか。

 確かに俺たちは、結界を仕掛けた犯人が何らかの動きを見せることを期待していた。だがそれは、あくまで結界に手を出した俺たちを狙ってのもの。間違っても、第三者が巻き込まれるような事態は視野に入れていなかった。

 いくら一般人には察知できないといっても、結界が完成する前に、下手に校内で騒ぎなどを起こしてしまえば犯人側は動きにくくなる。だからこそ、犯人は裏で動くだろうと予測を立てていたのだが……その日の内に、一般人を巻き込むような行為に及ぶとは完全に予想外だ。

 この事件が結界に関連しているというのも、今はまだ仮説の段階でしかないが……もしそうだとすれば、この犯人は本当に何も考えていない。利害が釣り合わない不可解な動きは、感情で動いているとしか思えないのだ。

 

 ──どうする。

 

 その倒れたという生徒、或いは結界の張られた学校。その双方を確認しにいきたいという衝動に駆られる。

 だが、今の時点で闇雲に動き回っても意味のない事くらい、俺にだって分かっている。生徒の所には藤ねえと桜が、学校にはアーチャーが向かった。今の俺にできることは、ここで皆の帰りを待つことだけだ。

 

「────」

 

 放課後、不審な行動を取っていた慎二を思い出す。

 まだ決まったわけではないが、あいつはこの事件に関わっているのだろうか。俺の友人であったはずのあいつが、聖杯戦争と何の関わりがあるのか。

 いや、そんな疑問はどうでもいい。今受け止めるべきなのは……間桐慎二が、俺の敵として立ち塞がるかもしれないというその事実だけ。

 共に遊んだ友人が、一般人を手に掛ける外道となって敵に回る。それに立ち向かう覚悟なくして、俺の理想など貫けるはずがない。正義の味方とは、大勢の人を救うモノなのだから。

 

「……シロウ。どうかしましたか?」

 

 突っ立ったまま考えている俺を不審に思ったのか、セイバーが訊ねてくる。その声で、ふと我に返った。 

 

「いや、何でもない。夕食を作るから、セイバーは待っててくれ」

 

 こくり、と頷くセイバーに背を向け、足元の買い物袋を持ち上げると台所へ向かう。

 最近、こうして考え込むことが多くなった。物事について思案するのは、決して悪いことではないはずなのだが、俺の場合は考えると言うよりは悩んでいるのだ。いつまでも同じことについて悩むのは、未熟だという証拠に他ならない。

 もう言い訳のできる時期は過ぎ去った。聖杯戦争に正面から向き合う以上、戦うことに臆し、悩んだままではいられない。マスターが考えるべきは『どう戦うか』であり、『何故戦うか』ではないのだから。

 

 

***

 

 

 二人だけの夕食を終えた後は、洗い物の時間だ。

 藤ねえと桜は帰ってこないとのことなので、四人分の夕食を作り終えたのはいいものの……遠坂とアーチャーがいつになっても戻ってこないので、先にセイバーと二人で夕食を食べてしまったのだ。

 こんな時間まで戻ってこないのが心配ではあるが、遠坂に何かあればサーヴァントであるセイバーにも伝わるらしいし、アーチャーに至っては心配する必要があるかすら怪しい。開き直って、ここはおとなしく待っているべきだろう。

 ……と、そんなことを考えている間に洗い物も終了。二人分の食器しかないから、洗う時間も短くて済む。

 六人もの人間が揃うようになると、洗い物の手間も半端ではないので、これは我が家も食洗機というものを導入する時期かと考えていたのだが、今夜のように全員が揃わないのではその必要もないかもしれない。

 食器を水切り籠に置いて、居間へと向かう。きちんと正座しているセイバーの、反対側へと俺も座る。

 

「…………」

 

「…………」

 

 気まずい。

 金髪の美少女と二人きりで座っている。そう文字だけを並べてみれば、羨ましがられる状況なのかもしれないが……何を話すでもなく、ただ黙って向かい合っているというのも居心地が悪い。

 藤ねえは一人でも騒ぐ人だし、桜も家に来るようになって長いから、もう家族のようなものだ。遠坂も、以前から面識がなかったわけではない。

 だが、セイバーという少女と俺は、考えてみれば接点がない。セイバーは遠坂のサーヴァントであり、俺はアーチャーのマスターだ。一時的に同盟を組んでいるだけで、本当は敵同士であるはずの関係。その相手と話すことなんて──

 

 ──待った。

 

 他ならぬセイバー本人に、俺は訊いておかなければならないことがあったはずだ。

 幸いにも、今は俺とセイバー以外には誰もいない。聞かれたくない質問をするなら、今をおいて他にはない。

 そうと決まれば覚悟も固まるもの。机の傷を眺めていた顔を上げ、セイバーの瞳をまっすぐ見つめる。

 

「そういえば……セイバーに訊きたいことがあったんだ」

 

「私に、ですか?」

 

 無表情のまま、小首を傾げるセイバー。それに頷いて返し、話を続ける。

 

「アーチャーについて、教えて欲しい」

 

「────」

 

 そう訊ねた途端に、セイバーの表情が曇る。

 思い悩むように伏せられた瞳と、固く結ばれた唇。それが苦悩の証だと見て取るのは、火を見るより明らかだった。

 だけど、こればかりは知っておかなければならない。マスターとして、自分のサーヴァントのことを何一つ知らない以上……そして、そのサーヴァント本人さえ自分のことが判らない以上、あの黄金の男について知り得る手段は、過去にあいつを見知った者に直接訊ねる以外はない。

 セイバーは、あの夜初めて会った時からアーチャーについて知っているようだった。名乗ってすらいないにも関わらず、この少女は黄金の男を弓兵(アーチャー)だと断定したのだ。その後も続くアーチャーへの過度の警戒心といい、セイバーがアーチャーについて何らかの情報を持っていることは疑いようもない。

 

「……そうですね。シロウには、話しておくべきでした」

 

 眉間を寄せて、深く悩んでから。何かを決断したように、セイバーが俺へと視線を向ける。

 その真剣な面持ちに、思わず背筋を伸ばしてしまう。これから語られる内容は、一言一句たりとも聞き逃してはいけないと、そんな予感があった。

 

「以前にも話したと思いますが……私が聖杯戦争に参加したのは、これが初めてではありません。前回の戦いの折、私は衛宮切嗣のサーヴァントとして召喚されました」

 

「────え? 今、なんて…………?」

 

 ちょっと、待て。

 どうしてセイバーの口から……切嗣(オヤジ)の名前が出てくるんだ。

 

「私は切嗣のサーヴァントだった、と言ったのです。私は彼と共に聖杯戦争に挑み、最後まで勝ち残りました。

 ──そして。私と同様に、最後まで勝ち残ったサーヴァント。前回の戦いに於ける最後の一日、私の前に立ち塞がったのがあの黄金の英霊でした」

 

 セイバーの口から語られた真実に、体が強張る。

 切嗣がマスターであり、聖杯戦争に参加していたという事実にも驚いたが……そもそも十年前の大火災は、聖杯戦争の影響で引き起こされたものだ。魔術師だった親父があの場に居合わせていた以上、聖杯戦争に関係があったとしても何の不思議もない。

 それについては、後で改めてセイバーに訊こう。今俺が知るべきなのは、自らのサーヴァントについての情報だ。

 アーチャー自身が予測していたように、セイバーは前回の聖杯戦争でアーチャーと面識があったのだ。過去に敵対関係だったのなら、セイバーがあれだけアーチャーを警戒していた理由も頷ける。

 

「セイバー。じゃあ、アイツの正体も知ってるのか?」

 

「……いえ、それが分からないのです。前回の戦いで、私と切嗣は他の全てのサーヴァントの真名と能力を把握していました。ですが、あのアーチャーに関してだけは、最後まで正体が掴めなかった。

 英霊であるなら、誰もが持つ象徴(シンボル)である宝具。それが、あの英雄には存在しなかった」

 

「え? それはおかしいだろ。だって、アーチャーは──」

 

 ランサーとの戦い。

 その後のバーサーカーとの戦い。

 どちらの戦いでも、アーチャーは武器を使っていた。双剣と大弓の形状を持つ、現代では有り得ない魔力に満ちた武器。そしてランサーの魔槍すら防ぎ切った、尋常ではない硬度を誇る黄金の鎧。あれが、宝具でなくて何なのだと言うのか。

 

「──少し長い話になりますが、私が経験した前回の戦い。そこで見たアーチャーの姿について、話しておいた方が良いかもしれません。そうすれば、シロウの疑問にも答えられる」

 

 そう言うと。訥々と、セイバーは彼女が知る第四次聖杯戦争について語り始めた。

 

「前回の戦いで、あの英霊はアーチャーのサーヴァントとして召喚されました。最初の戦闘から、彼は堂々と姿を現していた。

 ──ですが。そこで彼が用いた武器は、あまりにも異常だった。私が視認しただけでも、あのサーヴァントが用いた宝具は五十を超えます」

 

「えっ? ちょっと待ってくれ、セイバー。宝具っていうのは、一人の英霊につき一つ、多くても三つ程度って話じゃないのか。それが五十以上って言うのは、幾らなんでも──」

 

「おかしい、と。私もそう思いますが、この目で見たのですから間違いはありません。

 英霊の証である宝具を、あの男は湯水のように持っている。存在しないというよりは、どれが本当の宝具なのか分からない、というべきでしょうか。あまりにも数が多すぎるため、アーチャーの真名を見破ることは最後までできませんでした」

 

「それって……一個の剣が分裂したとか、同じ剣が沢山あったとか、そういう物じゃなかったのか?」

 

「いいえ。あの英霊が用いた宝具は、その全てが異なるものでした。無論、それらが偽物であるという可能性も考えましたが、そうだとするならあの魔力量には説明がつきませんし──第一、あれが偽物なら()()()()を打倒できるはずがありません」

 

 信じがたい、と言わんばかりの表情でそう呟くと、セイバーは前回召喚された他のサーヴァントについて話し出した。

 

 ──征服王イスカンダル。

 

 アレキサンダー、アレクサンドロスとも呼ばれる大英雄。歴史の授業では誰もが習う、世界に名を刻んだマケドニアの王。

 前回の聖杯戦争では、その本人がライダーのクラスとして召喚されたらしい。その知名度に違わず、彼もまた強力なサーヴァントだったという。

 ライダーが用いた宝具は、元々はゼウス神殿に安置されていた戦車。だがそれとは別に、途方もない宝具を彼は隠し持っていた。

 本来は悪魔や精霊が操るとされる、世界の法則を局所的に書き換える異能。魔法に最も近い魔術と謳われる、『固有結界(リアリティ・マーブル)』。イスカンダル大王は、それを最強の切り札としていた。

 その固有結界の能力は、イスカンダル大王が生前指揮したマケドニア軍そのものの召喚。数万を超える英霊(サーヴァント)の軍勢を呼び出す、評価規格外の究極宝具。

 聖杯戦争に呼び出されたサーヴァントは、伝説の英霊の現身だ。それがただ一人だったとしても、どれほどの力を持つかは俺が身を以て知っている。

 それを、万単位で召喚する。それがどれ程常軌を逸した脅威なのか、最早推し量ることさえできはしない。そんな凄まじい宝具に対抗できる者など、存在するはずもない。例え強力なサーヴァントであったとしても、一人一人が自分に迫る力を持つ数万の軍勢には勝ち得る道理がない。

 

 ──だが、その英霊を相手にして。傷一つ負わずに勝利したサーヴァントが、あのアーチャーだった。

 

「嘘だろ──」

 

 セイバーの話を聞き終えて。俺は、ただ絶句するばかりだった。

 数え切れぬほどの宝具。

 規格外のサーヴァントを、消耗すらせずに打倒する異常性。

 それは……そんなものは、有り得ない。伝説の征服王を、数万の英霊を相手にして、無傷で勝てる者がいるものか。あの真名すら判らぬ、記憶を持たないサーヴァントはそこまで凄まじい英霊だというのか。

 

「なあ、セイバー。セイバーとアーチャーは、前回最後まで勝ち残ったんだろ。じゃあ、最後に勝ったのは──」

 

 その続きを、問おうとして。歯噛みし、俯くセイバーの姿で答えが分かってしまった。

 

「────」

 

 勝てなかった、のか。

 あのバーサーカーには一歩劣るが、セイバーの力はランサーや今のアーチャーを遥かに上回っている。そのセイバーを以てしても、過去のアーチャーには勝利できなかった。

 つまり──図らずも、数時間前に俺がイリヤに話した内容は確信を突いていたわけだ。記憶を失っていなければ、あいつは本当に途轍もないサーヴァントだったのだ。

 呆然とする俺と、悄然とするセイバー。誰もが口を噤んだ居間に、重い沈黙が降りる。カチカチと響く時計の音だけが、唯一の背景音楽となっていた。

 

「ただいまー」

 

 玄関から聞こえた声に、思考が中断される。一拍置いて、無造作な足音が廊下を鳴らす。

 顔を上げ、音の聞こえた方に目を向ける。程なくして、ツインテールを靡かせた少女と長身の青年が姿を現した。

 

「ごめん、遅くなっちゃった。今帰ったわよ」

 

「ふん。我の帰還に対し、出迎えの一つもせぬとはどういう了見だ? 雑種めが」

 

 ごめんごめん、と全く誠意の感じられない謝罪を見せながら部屋の一角に座り込む遠坂と、憤然と王様発言を吐き捨てながら上座に陣取るアーチャー。一応ここの家主は俺なのだが、どうしてこう我が家の居候は偉そうなのか。少しは遠慮というものを見せてほしい。

 俺のじとっとした目にもどこ吹く風と、二人は堂々と腰を下ろしている。ため息をつく俺をどう思ったのか、空気を切り替えるようにセイバーが口を開いた。

 

「凛。アーチャーと一緒だったのですか?」

 

「ええ、ついさっきばったり会ったの。どうせ帰る場所は同じなんだから、一緒に帰ってきたってワケ」

 

 うーん、と疲れたように伸びる遠坂。それを憮然とした目で眺めるアーチャーを見て、気になっていた件を質問することにした。

 

「そういえば……結界の様子を見に行ったって聞いてたんだけど、どうだったんだ?」

 

「ああ、あれか。結界自体に然したる変化はない。当初の見立て通り、あと数日もすれば発動しよう。

 が──異変が無かったかと言えば、そういう訳でもなさそうだ。微かだが、あの学校にはサーヴァントの気配があった」

 

「……アーチャー。そいつ、誰だか分かったのか」

 

「いや。我の気配を感じ取ったのか、早々に消えたようだ。だが凡百のサーヴァントにしては、我の知覚領域から離脱するのが早すぎたな。

 あれは、初めから我が来るのを察知していたか……いや、遠隔視や魔術の類ならば我が気付かぬ道理がない。となるとあの速度の持ち主は、ランサーかそれに近い敏捷性を持つサーヴァントであろうよ」

 

 ランサーと聞いて、あの青い槍兵の姿を思い出す。

 何の抵抗もなく俺の心臓を穿ち、アーチャーの鎧を貫いた、放てば必ず敵を屠る魔槍。あの恐るべき戦士が、また学校に現れていたというのか。

 高度なルーン魔術の使い手であるという、クー・フーリン。高い敏捷性を持ったサーヴァントということは……やはりあの英霊が、学校に結界を仕掛けた犯人なのだろうか。

 

「じゃあ、やっぱりランサーが……」

 

「──いいえ。あれはランサーの仕業じゃないわ」

 

 と。俺たちの会話を聞いていた遠坂が、唐突に口を挟んできた。

 

「ランサーの正体がクー・フーリンなら、彼が使う魔術はルーン魔術よね。でも、学校に張られた結界はルーン魔術によるものじゃないわ。

 わたしが知らない古いルーンかとも思って、色々調べてみたんだけど……今日学校の呪刻を見て回って確信したわ。あれは、ルーン魔術とは別の神秘で括られたものよ」

 

「別の神秘って……ルーン魔術じゃないなら、あの結界は何で張られてるって言うんだ?」

 

「それが分からないのよ。というか、知ってるヤツがいたら教えてほしいくらい。あのレベルの結界になると、もう大魔術の域を超えてるし……ひょっとすると、ホントに何かの宝具かもしれないわ、アレ」

 

 ぐぬぬ、と悔しげに唸る遠坂。結界についての心当たりがないという事実が、プライドの高い彼女にとってはお気に召さないようだ。

 セイバーも、見た目に反して負けず嫌いな気質だし……このマスターとサーヴァントは、どうやら似た者同士らしい。

 遠坂曰く、召喚されるサーヴァントはマスターの性質に似通った者が多いとの事。遠坂とセイバーは、その具体例と言えるだろう。

 しかし……そうだとすれば、俺とアーチャーもどこか似ているという事になる。だが、あの傲岸不遜で偉そうな男と、ただの半人前魔術師に過ぎない俺の間に共通点があるとは思えない。

 ちらり、と横目でアーチャーに視線を送ると……この黄金の青年の瞳は、またしてもセイバーへと向けられていた。その眼差しに気付いていないはずもないが、セイバーの方は無視を決め込んでいる。意味の分からない視線を気にするだけ、時間の無駄だと悟っているのだろう。

 

「凛。あの結界がランサーの手によるものではない、というのは確かですか」

 

「ええ、それは間違いないわ。それ以上は分からないってのが情けない話だけどね」

 

「でしたら、結界を張ったサーヴァントが絞り込めます。今我々が把握しているサーヴァントは四人。ですが、私とアーチャーはあの結界に関与はしていない。

 バーサーカーに結界が構築できるとは思えませんし、疑っていたランサーの仕業でもない。とすれば、残ったサーヴァントは──」

 

「キャスター、ライダー、アサシンの三人ね。

 一番怪しいのはキャスターだけど、わたしは違うと思う。街中でガス漏れ事件を引き起こして、人々から魔力を集めてるヤツがキャスターよ。それなら、あれだけ広範囲に亘って事件を引き起こしてるのも、周到に痕跡を隠してるのも納得できる。戦闘力で劣るキャスターは、他のサーヴァントの注意を引きたくないはずよ。

 そしてアサシンは、暗殺者のサーヴァント。人殺しが専門のヤツに、あんな結界が張れるとは思えないわ。となると──」

 

「下手人はライダーか。ふん──それならば、あの逃げ足の速さにも得心がいく。自身が力不足であれ、それを乗騎によって補うのが騎乗兵(ライダー)だからな」

 

 俺を抜きにして、三人の間で会話が進んでいく。結局俺が一言も発さぬ間に、結界の犯人が特定されてしまった。

 怪しいのはランサーだとばかり思っていたのだが……そうではないとするならば、確かに真犯人がライダーである可能性は高いだろう。

 先程のセイバーの話で俺は、前回の聖杯戦争で召喚された征服王(ライダー)が、どれだけ規格外の英雄だったのかを聞いている。その能力に比べれば、あの驚くべき結界もまだ現実味がある。

 ランサーが魔術に秀でていたように、まだ見ぬライダーもまた魔術の心得があるのかもしれないし、或いは宝具の力で結界を構築しているのかもしれない。ともあれ、詳細は未だ見えずとも、敵のクラスだけでも特定できたというのは情報不足だった俺たちにとって大きな吉報だ。

 

「ライダーっていうと、乗り物に乗って戦うのか? セイバーの話だと、前回の戦いでは戦車に乗ったライダーがいたっていうけど……」

 

「そ。戦車に限らず、戦艦とか魔獣とか。ひょっとしたら、飛行機なんてのもあるかもしれないわね。とにかく、そんな乗り物を使って戦うのがライダーのサーヴァントよ」

 

「乗り物、か……」

 

 む、と顎に手を当てる。相手がライダーであると仮定して、何かその正体に繋がるヒントがないかと考えてみるが……相手の姿も知らない現状では、これ以上の情報は得られないだろう。後は、実際に敵と対峙するのを待つだけだ。

 

「……手詰まりかしら。サーヴァントのクラスは特定できても、結局正体は分かってないし。マスターも出てこないんじゃ、手の打ちようがないわ。

 アーチャー、さっき学校に行ったって言ってたけど、そのサーヴァント以外に何か怪しいヤツはいなかった?」

 

 遠坂の問いに、アーチャーが否と首を振る。が……その()()()()()というフレーズに、俺は一つ心当たりがあった。

 

「なあ、遠坂。そういえば、学校でおまえと別れた後、妙なヤツを見たぞ」

 

 そう口にした途端、全員の視線が俺に集中する。続きを促す三対の瞳に若干気圧されながらも、俺は放課後の出来事を語ることにした。

 腑に落ちない行動を取った慎二。

 見落としていた、弓道場の呪刻。

 この二つが無関係であるならそれで良い。しかし、今日あのタイミングで起こった出来事が、聖杯戦争に何の関係もないと考えるのは虫が良すぎるだろう。

 

「──やっぱりそうか。まさかとは思ったけど、アイツ、マスターだったのね」

 

 苦虫を噛み潰したような顔で、遠坂が唸る。その口ぶりは、既に慎二がマスターだと確信しているようだ。

 しかし、慎二が黒だと断定するには、まだ証拠が不十分だと思う。まさか遠坂は、他に慎二が犯人だという根拠を持っているのだろうか。

 

「凛。何か、思い当たる節があるのですか?」

 

「ええ。ひょっとしたらと思ってね。今日、学校帰りに間桐の家に行ってみたの」

 

「……え? 遠坂、慎二がマスターだって知ってたのか?」

 

 遠坂の言葉に疑問を覚え、話を遮る。

 俺の話が出るまでは、慎二についてのことは話題にも上らなかったはずだ。だというのに、これでは遠坂は初めから慎二を疑ってかかっていたようだ。そう考えるだけの理由を持っていたなら、何故俺に伝えてくれなかったのだろう?

 俺だけでなく、他の二人からも向けられる視線に、遠坂が頭の上に大きな疑問符を浮かべる。

 

「言ってなかった? 間桐の家は、元々はマキリと言って、没落した魔術師の家系なの。まあ、今じゃもう廃れちゃって、今代の継承者は魔術回路も持ってないって話だけど」

 

「────。俺、聞いてないぞ」

 

「あれ、そうだっけ。……ごめん、忘れてたかも」

 

 一言呟くと、明後日の方向を見て口元を抑える遠坂。まずかったかも、というオーラが滲み出ている。

 ……前から思っていたのだが、遠坂は完璧なようでいてどこか抜けている部分がある。問題なのは、それがわりと致命的な事柄ばかりだということだ。結界についても、教えてくれたのは学校の中に入ってからだし。

 

「えっと……まあそんなわけで、慎二には魔術師としての適性がないの。だからわたしは、アイツは無関係だと考えてたんだけど、万が一があるかもと思って今日アイツの家を偵察してきたのよ」

 

「で、どうだったんだ?」

 

大当たり(ビンゴ)。あの家の中に、間違いなくサーヴァントの気配があったわ」

 

「な……!?そのように危険な場所に、どうして一人で行こうとしたのですか」

 

 何故自分を連れて行かなかったのか、と責めるセイバーの瞳。遠坂は鷹揚に手を振って、大丈夫大丈夫、と軽く流す。

 

「使い魔を飛ばして、ちょっと偵察しただけだから危険はないわ。使い魔には気付かれてても、それを操ってる術者が誰かまでは向こうからは確認できないし。

 でも、あの家にサーヴァントが居るのは確実よ。どうやって慎二がマスターになったのかは知らないけど、ここまで状況証拠があれば、アイツが黒だっていうのはほぼ確実。

 それにしても……使い魔越しでもサーヴァントの存在が分かるなんて、間桐の結界はお粗末よね。それとも、そんなに自信があるのかしら?」

 

 呆れたように嘆息する遠坂。その姿は、確かに俺の目に映っている。しかし……俺は遠坂を通り越し、別な人物の姿を思い浮かべていた。

 

 ──桜。 

 

 覚悟はしていた。学校で慎二を見かけ、あの呪刻を見つけた時に、友人が敵になるかもしれないのだと心のどこかで思っていた。

 それ自体も衝撃的だが、あいつが大勢の人々を巻き込もうとしているのなら止めなければならない。それが友人としての務めであり、正義の味方のなすべきことだ。

 けれど、あいつには妹がいる。俺のよく知る彼女は……兄が何をしているのか、知っているのだろうか。

 震える拳を握り締め、微かな恐怖を抑え込んで口を開く。

 

「──遠坂。慎二がマスターってことは……桜も、聖杯戦争に関係してるのか」

 

「その可能性は低いと思うわ。あの子からはマスターの気配がしないし、サーヴァントを従えてる様子もない。その点で言えば、慎二からもマスターの気配はないんだけど、あれは特例よ。多分、正規のマスターじゃないんでしょうね。

 それに、あの子がマスターだったとしたら、毎日ここで顔を合わせてるのにわたしやセイバーが気付かないはずがないわ」

 

「そうか──それなら、良かった」

 

 安心して、ほっと胸を撫で下ろす。

 少なくとも──桜は、こんなふざけた争いには関係していなかったわけだ。あの子が、俺の後輩までもが、魔術師の戦争に巻き込まれているのだとすれば……俺は到底、黙っていることなどできなかった。

 暗く、笑わない子だった桜は、最近はよく笑ってくれるようになった。楽しそうにしていることも多い彼女が、また以前のようになってしまうなんて許せない。あの子には、穏やかで何気ない日常こそが似合うのだから。

 

「────ク」

 

 気のせいか。俺が安堵した途端……アーチャーが、僅かに口元を吊り上げたように見えた。

 咄嗟に目を向けるも、端整な容貌は無表情のまま。やはり見間違えかと、視線を遠坂の方に戻す。

 

「慎二がマスターだとすると、桜をこの家に来させるのもまずいかもしれないわね……まあ、それはおいおい考えるとして。

 マスターが一人割れたからって、油断はできないわよ。わたしの知る限り、学校にはもう一人マスターが潜んでる。結界を張ったのが、そっちのマスターだって可能性もないわけじゃないわ」

 

「ん? 昨日学校で言ってたマスターって、慎二のことじゃないのか」

 

「違うわ。わたしも今日になるまで、アイツがマスターだってことは知らなかった。士郎と同じで慎二も魔力を発していないから、わたしも気付かなかったのよ。

 でも……それとは別に、あの学校からはマスターの気配を感じるの。そっちの方も気を付けなくちゃいけないわ」

 

「つまり、学校には俺たち以外に二人もマスターがいるのか……厄介だな」

 

 皆の情報を集めてみると、状況は当初の予想より混沌としていた。

 俺たちは、学校にいるマスターは一人だけだと思っていた。なら、俺と遠坂が組んでいる以上、そいつを表に引きずり出すことができればこちらが優位に立てると考えていたのだ。

 しかし、それとは別に慎二がマスターであることが発覚した。あいつがもう一人のマスターと関係があるのかは定かではないが、二人のマスターが潜んでいるという時点で俺たちの優位性は崩れ去る。こうなると、戦略を練り直さなければならない。

 最優先しなければならないのは、学校に仕掛けられた結界の解除だ。その為には、下手人のマスターかサーヴァントの撃破が必須となる。

 結界を張ったサーヴァントは、ライダーである可能性が高い。だが、慎二がライダーのマスターなのか、或いはもう一人のマスターがライダーを従えているのか、それが特定出来ない以上おいそれと慎二に手出しはできない。

 結局。相手が動くまで成す術がないという、最初の状態に戻ってきてしまった。

 

「────」

 

 どうする。

 今は疎遠になってしまっているが、慎二は俺の友達だ。あいつなら、話せば分かってくれるのではないだろうか。

 マスターであるとしても、あいつは悪いヤツじゃない。結界を張ったのが慎二だとしても、何の理由もなしに、あいつがそんな蛮行に及ぶとは思えない──。

 

「──士郎。まさかアンタ、慎二と話そうなんてバカなこと考えてるんじゃないでしょうね」

 

 と。そんな思考が、遠坂の声で中断された。内心を見抜かれたことに、思わず背筋が強張る。

 驚きを隠せない俺に、遠坂は冷たい瞳を向ける。いや、遠坂だけではない。アーチャーもセイバーも、愚かだと蔑むように感情の籠らぬ瞳で俺を見据えていた。

 

「あのね。私たちが特別なだけで、マスターっていうのはその時点で他のマスターの敵になるの。

 話をしようだなんて、ひょこひょこ行ってみなさい。向こうにとっちゃ、鴨が葱背負ってきたようなものじゃない。そんな甘い考えじゃ、ただ無駄死にするだけよ。

 一般人なら戦いを嫌うのは良いことでしょうけど、アンタはもうマスターなの。戦う気がないのなら、生き残れないわよ」

 

「違う。俺は──」

 

 諭すような遠坂の声。反射的に口を開くも……俺は、その先を続けられなかった。

 一拍の間が開く。一度だけ息を吸って、考えを纏める。

 時には、戦う選択も必要だ。だけど、それで誰かを傷付けたり、巻き込んだりするのは許せない。正義の味方は人を助ける者で、人を傷付ける者ではないのだから。

 

「戦いを避けてるわけじゃない。けど……それで誰かが傷つくのはイヤだ。相手がマスターだとしても、話し合いの余地があるならそうした方がいいと思う」

 

「愚か者。自らの矛盾にも気付かぬか、雑種めが」

 

 俺の言葉に対して、吐き捨てるような侮蔑。それが気に食わず、嘲るように俺を見下ろすアーチャーを真っ向から睨み付ける。

 

「どういう意味だ、アーチャー」

 

「なんだ? 説明されねば分からんのか。貴様の信念や言動は、全てが欺瞞に満ちている。

 仮に、貴様の言う他者を傷付けぬやり方を良しとしよう。この場合、貴様がなすべき行為は他者に危害を加える脅威を阻止する事だ。現状では、あの薄汚い結界の破壊だろうよ。その為には、術者を倒すのが手っ取り早い。

 そして──シンジとか言ったか? 貴様は、その雑種がマスターであると知っている。ならば、そやつを有無を言わさず葬るべきだ。

 そやつが下手人であれば良し。異なるにしても、敵が消える事に変わりはない。凡百の雑種どもに犠牲を出したくないのなら、どちらにせよマスターは始末せねばなるまい。そのシンジという雑種を屠るに、躊躇する理由などない。

 だというのに、貴様は迷っている。これを矛盾と言わず何と言う」

 

「な──ッ」

 

 弾丸のように、俺の心を削っていくアーチャーの言葉。それが事実であるからこそ、辛辣な言葉は衝撃となって降り注いだ。

 マスターである慎二を倒せば、サーヴァントという脅威は消える。二分の一の確率で、学校に張られた結界もなくなる。人々を巻き込まないようにするためには、それが正しい道だろう。

 けれど、慎二は俺の友人だ。あいつが犯人だと確定したならまだしも、その可能性も揺らいでいる。あいつを一方的に断罪し、攻撃し……あまつさえ、殺すことなどできるものか。

 慎二という一を切り捨てて、大勢の人を救う。それを──友人を裏切った道を、俺は誰に誇れるというのか。

 絶句する俺を、傲然と見下ろすアーチャー。二の句を告げぬ俺を詰るように、黄金のサーヴァントは言葉を続ける。

 

「よもや貴様、全ての人間を救おうなどという、思い上がった戯言を抜かすのではあるまいな。

 たわけめ──何かを犠牲にせねば、何かを獲得する事は出来ん。何の代償も払わずに、全てを手に入れようという夢想は、その身を焼き滅ぼすだけだ」

 

 現実を突き付けてくる、冷徹な紅い瞳。それに射竦められて……ふと、切嗣の言葉を思い出した。

 千人を救うことはできない。ならば、百を見捨てて九百を生かそう。少数の犠牲で、多数を生かすことが、何より優れた手段なのだ──。

 全てを救おうなど絵空事だと、俺にとっての正義の味方は断言した。そんなこと、俺だって知っている。誰も彼もを救うことなど、現実には叶わない。どんな奇跡があったとしても、それだけは起こり得ない。

 だけど、それでも──その理想を追い続けて、皆を助けるのが正義の味方じゃないのか。もしそうなら、その在り方を曲げることなどできない。衛宮士郎は、その道を貫くと決めたのだから。

 

「シロウ。貴方は、誰も傷付けないために戦うと言うのですか」

 

 俺とアーチャーのやり取りを黙って見つめていたセイバーが、静かに問いかけてくる。迷う事なく、翡翠の瞳に肯定を返す。

 それを、どう受け取ったのか。俺から視線を逸らさぬまま、二度瞬きをすると……金髪の少女は、感情を籠めた眼光を俺に向けてきた。

 

「貴方の信条は理解しました。ですが、その為に自分の命を投げ出すような行動を取られては困る。以前私にしたように、自分の安全を考えずに誰かを助けるような事は止めて欲しい。

 単なる人助けならまだしも、サーヴァントの前に飛び出すなど自殺と同じです。サーヴァントの相手は、私やアーチャーに任せてください。サーヴァントは戦うための存在なのですから、私たちの傷を惜しむ必要はありません」

 

 淡々とそう口にするセイバー。自分を戦うための者だと、そう言い切った冷たさに、かっと頭に血が上った。

 

「っ……! ふざけんな、女の子を傷付けさせるくらいなら、俺が自分で戦ってやる──!」

 

「な──!?」

 

 驚き、目を見開くセイバー。その姿と、あの夜の姿が重なった。

 バーサーカーと戦ったあの夜、セイバーは巨人に斬り倒された。あの時の傷は、普通なら死んでいてもおかしくはない。それでもなお──苦痛に悶えながらも、セイバーは戦いを続けようとした。血塗れになったその姿を見ていられなかったから、俺は反射的に飛び出したのだ。

 俺が抱えたセイバーの体は、驚くほど軽くて。だからこそ、この騎士が一人の女の子なんだということを思い知らされた。

 無力な俺を守るために戦って、そのせいで女の子が傷ついてしまうなんて許せない。そんなヤツを、正義の味方と呼べる理由がない。あの惨禍をもう一度繰り返させるくらいなら、自分が傷つく方が遥かにマシだ。

 

「──ほんっと、どうしようもないお人よしね。自己献身の精神も、ここまで行くと一種の異常よ。

 セイバー。士郎は本気で、貴女を傷付けさせるくらいなら自分が戦うって言ってるわ。どうしてか知らないけど、こいつの中では自分の命より他人の命の方が重いの。それが、例えサーヴァントだったとしてもね。

 一昨日もアーチャーが言ってたけど、士郎にお説教するだけ時間の無駄よ。もっと有益な話をした方がいいわ」

 

 呆れ返った、とばかりに遠坂がため息を吐く。馬鹿につける薬はないのよね、というぼやきも一緒に聞こえてきた。

 遠坂が口を閉じると、居間には静寂が訪れる。黙って状況を眺めているアーチャーと遠坂を余所に、何事か思案していたセイバーは、やがて一度頷くと伏せていた顔を上げた。

 

「──分かりました。他人を助ける為なら、相手がサーヴァントであっても戦うと、シロウはそう言うのですね」

 

「ああ」

 

「どうしても考えを曲げないのなら、一つ条件があります。時間の許す限り、シロウには剣の鍛錬を受けてもらう。そうすれば、貴方が生き残れる確率も上がるでしょうし──それに、サーヴァントの力という現実をより深く知ってもらえるでしょう」

 

 それは、つまり。

 

「セイバーが、俺を鍛えてくれるってことか?」

 

「はい。シロウには、鍛錬を通して戦いの現実を学んでもらう。そうすれば、貴方の考えも変わるでしょう」

 

 剣の訓練、か……。

 セイバーに鍛えてもらえるからといって、一日や二日で何かができるとは思えないが、戦いを知っておくことで、これから先サーヴァント戦に臨んだ時も少しはマシになれるだろう。

 ランサーやバーサーカーに、何も出来ずにただ殺されるようでは、誰かを助けることなど叶うはずもない。だが、心構えや覚悟があるのとないのでは、結果もまた違ってくる。

 サーヴァントに勝とう、などという思い上がりがあるわけではない。でも、少しでも剣を扱えるようになれれば、俺にも生き残る可能性が見えてくるのではないだろうか。

 

「ふーん……じゃあ、わたしは士郎の魔術の訓練をするわね。強化もろくにできない、っていうのは問題だし」

 

 いいコト思いついた、という笑顔を見せる遠坂。しかし、自信に溢れる遠坂を目の当たりにすると、何故か不安が拭えない。

 そんな俺を置き去りにして、遠坂とセイバーは話を進めていく。いつの間にか、明日の朝から俺の鍛錬が始まる計画になっていた。

 明日からどんな目に遭わされるのか、あまり考えたくもない。この展開を愉しむように、うっすらと笑みを浮かべたアーチャーは、マスターを助けてくれるような気は更々ないようだし。

 

「…………なんでさ」

 

 はあ、と深いため息を吐く。俺のことについて喋っているはずなのに、何故本人は蚊帳の外にいるのか。

 今夜得られた結論は、人間、時には諦めも肝心という真理だった──。

 

 

***

 

 

「おい、言峰。ありゃあ一体どういう事だ」

 

 深夜。静謐さのみがあるべき空間に、似合わぬ粗野な声が響く。

 丘の上。死者たちが眠る、墓地の側に聳える教会。闇と影に包まれた場所で、唯一の光源が此処だった。

 仄暗い部屋の中、不機嫌さを漂わせて痩身の男が立っている。その細められた瞳は、椅子に腰掛け背を見せる人影に向けられていた。

 何かの作業に集中しているのか、人影は振り返らない。微かに聞こえるカリカリという音は、紙に文字を刻むペンの音。ややしばらくして、待ちかねた男が舌打ちすると、報告書を書いていた人影は今初めて気づいたとでも言うように腕の動きを止めた。

 

「ほう。一体何の事だ、ランサー」

 

「とぼけんな。テメェ、あの『影』について知ってやがるんだろうが」

 

 槍兵の誰何。隠し立てなど許さぬというその気迫を受けて、机に向かう神父はようやく後ろを振り返った。

 

「おまえが何を見たのかは知らぬが、私が与えられた任務は聖杯戦争の監督だ。それ以外の事件については管轄外だと言っておこう」

 

「ハッ、狸が。テメェが今書いてる報告書とやらも、大方アレについてのモンだろう。

 どうにも気になったんでな、今日一日街を見回ってきたんだが……ここ最近の人攫い、あいつがその元凶じゃねえか。しかも、日に日に人数は増えていってやがる。

 分かってんのか言峰。このままじゃ、この街は無人になる。そうなりゃ、聖杯戦争どころの話じゃねえだろ」

 

 その眼光に殺気すら纏わせるランサーと、無表情のまま淀んだ目を向ける言峰神父。その組み合わせは、本来有り得ぬはずの異常だった。

 本人が口にした通り、言峰綺礼の役職は第五次聖杯戦争の監督だ。魔術師たちの闘争が世間へ露呈するのを防止し、最低限の枠組みを設け、聖杯戦争という儀式を円滑に運営するのが務め。

 であるならば、その監督役がサーヴァントと共に居る事自体がおかしい。中立であるべき監督役は、どの陣営にも与せず、あらゆるマスターとサーヴァントから距離を置くはずの存在。当然、この事態は偶然に生じたものではなく……言峰綺礼の思惑によって、意図的に引き起こされたものだった。

 そもそもランサーは、歴とした魔術師に召喚されたサーヴァントである。彼女こそは、魔術協会の執行者にして、英霊に迫る戦闘能力を持つ規格外。そのマスターの名は、バゼット・フラガ・マクレミッツという。

 

 ──ところが。ランサーが目を離した隙に、惨劇は起こった。

 

 彼のマスターにとって、旧知の仲だという教会の神父。その男に騙され、ランサーの主は令呪の刻まれた腕を斬り落とされた。

 ランサーが気付いた時には、全てが手遅れ。自らのマスターを手にかけた男を、彼は令呪の力によって新たな主と仰がねばならぬ羽目に陥った。

 以来、ランサーは言峰綺礼のサーヴァントとして使役されている。仮にも監督役を謳うこの男が、何を企んでいるのかは定かではないが、マスターを裏切った人間の望みなど聞きたいとも思わない。命令にこそ従えど、ランサーはこの神父に対して一片の忠誠心も持ち合わせてはいなかった。

 

「フ──腐っても英霊ということか。戦い以外には興味のない男と思っていたが、中々どうして気が回る」

 

 座ったまま、皮肉げに自らのサーヴァントを見上げる神父。その揶揄に、ランサーの顔が不快感に染まる。

 

「韜晦すんのもその程度にしておけ。あれが巻き込むのは一般人だけだと思うか? マスターもサーヴァントも、あれにとっちゃ関係はねえ。あのバケモン──事もあろうに、このオレを喰おうとしやがった」

 

 昨晩、ランサーを襲った謎の影。

 公園より撤退した後、あの影が只ならぬ存在であると判断したランサーは、根城である教会には戻らず街中を探索していた。

 街を隈なく探せば、影の足跡は容易に見つかった。一度邂逅した以上、この男が敵の気配を見誤るはずもない。隠蔽する気さえ感じられぬ、無差別に残る影の残滓。その正体を知らぬ者からすれば魔力の痕跡としか感じられぬそれを、ランサーの嗅覚は鋭く嗅ぎ取っていた。

 ……そして。影が気配が残る全ての場所で、近頃話題の行方不明事件やガス漏れ事件が発生していたことも、少し調べればすぐにそれと判った。

 

「あれはな、街の人間から生命力を吸い上げている。つまり、あれは無差別に魔力を求めてやがるんだ。オレを狙ったのも、サーヴァントの持つ魔力が目的なんだろうよ。

 今はまだ大人しくしてるようだが、放っておけばすぐに被害は広まるぜ。あれが何者かは知らんが、魔術師もサーヴァントも、あれに襲われて無傷でいられるとは思えねえ」

 

 生きて帰れる気がしなかった──とまでは、ランサーは口にしなかった。

 それを怯惰と謗られようとも構わない。本能的な『死』を感じさせるあの異形を前にして、生き残れる確証もなしに立ち向かう者の方が愚かだろう。

 ランサーとて、相手が人型であれば如何様にも手段はある。彼の持つ魔槍は、心臓を持つ全ての生命に対して絶対的な天敵。例え死徒であろうとも、その力の前には朽ち果てる。

 魔獣、魔物の類だろうと、恐れる必要はない。ランサーは、数多の怪物を退治してのけた経験を持つ。 蛇蠍魔蠍の類であろうとも、ランサーの敵には成り得ない。

 

 しかし──そのランサーを以てしても、あれは規格外と呼ぶべき死神だった。

 

 人ではなく、獣でもない。ランサーが知る如何なる魔性にも、あの影は該当しない。故にランサーは、あの影に対し打つ手を持たない。

 何か一つの選択肢を誤れば、あの晩槍兵が生きて帰る事は叶わなかっただろう。あの影に捕らわれればどうなるかなど、想像すらしたくない。

 

「心配は無用だ、ランサー。その『影』とやらを使役しているのが何者であれ、よもや際限なしに人間を喰らうつもりはなかろう。

 それに、この程度の被害ならば教会(われわれ)だけでも問題なく処理出来る。前回のジル・ド・レェ(キャスター)に比べれば、まだこちらの方が与し易い」

 

 ──だというのに。落ち着き払うこの神父が、ランサーにはひどく癇に障った。

 

「言峰。まさか、あれを放っておけって言うんじゃねえだろうな」

 

「ふむ、分かっているなら話が早い。おまえは引き続き、他のサーヴァントを監視しておけ」

 

 余計なことをするな、と言外に含ませた命令。抑えていた怒りを隠し切れず、ランサーが唇を噛む。

 英雄である彼にとっては、一般人が巻き込まれているということ自体が不快に過ぎる。加えて、事態はそれだけに留まらない。

 サーヴァントである彼を狙ったという以上、あの『影』が再びランサーの前に現れる可能性は高い。ランサーに限らず、あれが魔力を求めている以上は他のサーヴァントも標的となるだろう。そうなれば、彼の望みが叶わない。

 元々クー・フーリンは、強者と戦う為に魔術師の召喚に応じた英霊だ。自身と敵手との戦いに、余計な茶々を入れられては興醒めというもの。更には、自身の戦いの舞台すらも覆そうという存在など、見過ごしておけるはずもない。

 

「貴様──」

 

 

「──ふふ、仲間割れかしら。マスターとサーヴァントの間柄でしょうに、随分と仲の悪いこと」

 

 

 神父へ向けて、歯軋りと共に踏み出したランサー。その瞬間、二人きりのはずの空間に第三者の声が響いた。

 

「──!?」

 

 瞬きの内に、言峰とランサーが動く。歴戦の代行者である神父と、伝説の英雄であるランサーは、不測の事態にも動じる事はない。

 僧衣を翻した神父は、刀身のない剣を引き抜き。青い槍兵は、その手に魔槍を顕現させている。得体の知れぬ声の主を、敵と判じての動きだった。

 

「あらあら、そう警戒しないで欲しいわね。今日の私は、戦いに来たわけではないのだから」

 

 どこからともなく響く、妖艶さに満ちた女の声。二人の戦士が警戒する中、それは徐々に姿を現した。

 部屋の中央。その床より、ゆらりと湧き上がるように人影が立ち上る。霞みがかったようなその影は、やがて人の形へと外観を変えた。

 紫紺のローブに身を包み、フードで顔を隠したその姿からは、細かな特徴は判らない。だがフードの下より微かに覗く口元は、フードの下に秘められた美貌の片鱗を窺わせるものだった。

 女の手に握られているのは、古めかしく豪奢な錫杖。妖しく煌く輝きは、どこか邪なものを連想させる。

 

「貴様、キャスター……!」

 

 剣呑さを宿した瞳で、ランサーが女を睨み付ける。その視線を受けて、魔女の整った唇が笑みを象った。

 

「貴方とは数日ぶりね、ランサー。でも残念、野卑な犬に用はなくてよ。

 用があるのは──そう、そこの貴方。言峰綺礼、と言ったかしら?」

 

 憤る槍兵を華麗に無視し、キャスターが言峰に向き直る。予想だにせぬ視線を受けた神父は、訝しがるように眉を顰めた。

 サーヴァントが中立地帯とされるこの教会に姿を現したことも異常なら、ランサーではなく監督役である神父が目的というのも不可解だ。

 ともあれ、戦意を見せない相手に此方から打って出るわけにもいかない。警戒を解かず、いつでも魔力を籠められるよう黒鍵を握り締めたまま、言峰は静かに口を開いた。

 

「ほう、私の客とは珍しい。普段なら、喜んで歓迎する所だが──生憎、この地はサーヴァントの手出しを許さぬ不可侵地帯と定められている。掟を破った者には、監督役としてペナルティを課さねばならないのだが」

 

「貴方が監督役ですって? 笑わせないで頂戴、ランサーのマスター。貴方の信教の戒律には、『嘘を吐いてはならない』とあったはずだけど?」

 

「博識だな、キャスター。我が主の教徒というわけでもなかろうに、十戒について知り及ぶとは大したものだ。

 だが……残念ながら私の宗派では、その一文の前には『隣人に関して』という条件が付く。そして、この世の者ではないおまえたちが()()の範疇に入るとは思えんがな」

 

「口の上手いこと。でも、その程度の詭弁で私を騙し通せるとでも思って?」

 

 棘どころか、毒に満ちた言葉を交わし合う言峰とキャスター。二人の口元には、歪んだ微笑が浮かんでいる。

 論点のすり替えを多用した、無意味で空虚な口論。だがこの程度は前哨戦に過ぎぬのだと、双方とも理解している。キャスターの狙いはその先にあり、言峰とてこの状況を打開するためのきっかけを望んでいる。それぞれの頭脳では、異なる謀略が展開されていた。

 唯一ランサーだけが、この二人から離れた場所で佇んでいる。しかし彼とてサーヴァント、無策に立ち尽くしていたわけではない。目の前に立つキャスターに対し、即座に槍を振るえるよう慎重に間合いを計っていた。

 

「──さて、本題に入りましょうか」

 

 ランサーの殺気に気付かぬはずもあるまいに、余裕綽々といった態度でキャスターが告げる。その雰囲気に応じるように、言峰は黒鍵を下ろしてみせた。

 明言こそせずとも、それは会話に応じようという意思表示。それを見た魔女は、思惑通りと笑みを深める。残るランサーも、主の命が下らぬ以上は自ら動くつもりはなかった。

 聴衆の注目が、自らに集まったのを確信し。キャスターは、悠然と美しい唇を開いた。

 

「単刀直入に言うわ──私と、手を組まないかしら?」

 

 

 

***

 

 

 

 ──ここに、戦局は移り変わる。

 

 七人の役者が揃った以上、演じられるのは喜劇か悲劇か。

 常ならば、その帰趨は明白だ。舞台に上った演者は、己が欲望の為に他の演者を蹴落とし滅ぼす。時には誰かと手を組み、時には誰かを裏切って。最後の一人が残るまで、その狂宴は終わらない。

 だが、此度の舞台は既に別物。限りなく本物に近いものの、そこに歪みが生じたならば、それは既に完全とは呼べぬ。元が完璧であればあるほど、僅かな罅は大きな傷へと広がっていく。広がり続けたその傷は、果たして何処へ向かうのか。

 

 淀み蠢く数多の大望。集い揃った幾多の英霊。それらは何へ至るのか──今はまだ、誰も知らない。


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