【完結】Fate/Epic of Gilgamesh   作:kaizer

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15.決意の選択

 早朝。鳥の囀りで目を覚ますと、体のあちこちに違和感があった。

 

「痛っ……くっそ、筋肉痛か?」

 

 昨夜セイバーに剣の稽古をつけてもらっていた影響か。腕や足腰に、痺れるような痛みがある。それだけではなく、よく見るとあちこちに痣や擦り傷の痕が残っていた。

 普段は使わないような筋肉を動かした事による筋肉痛と、竹刀で叩かれた傷の二重奏。結構キツいが、まあ動けない程ではない。この程度で痛がっていては、笑われてしまうだけだろう。

 ふん、と気合いを入れて布団から出ると、大きく伸びをして深呼吸。冬の冷たい空気が肺に行き渡り、寝起きで冴えない頭を完全に覚醒させてくれた。頭を振って時計に視線を送ると、時間にはまだ余裕がある。この分なら、朝食を作ってもまだお釣りが来るだろう。

 朝食の計算をしながら服を着替え、部屋から出て台所へ向かう。昨日はあの騒ぎのせいで残り物を食べる羽目になったから、朝食に回せそうなものは残らなかった。簡単に一品か二品おかずを作って、後はふりかけと味噌汁で勘弁してもらおう。

 

「…………?」

 

 カタン、という音。居間に入ろうとしたところで、台所の方から何か物音が聞こえた。珍しく、この時間帯に誰か起きているのだろうか?

 

「おはようございます、先輩」

 

「ああ。おはよう、桜」

 

 襖を開けると、そこには見慣れた後輩の姿。エプロン姿でお玉を持っているところから見て、朝食を作ってくれている最中だったのだろう。

 横に目線を映すと、コンロにかけられた鍋が見える。どうやら味噌汁を作り始めたばかりのようだから、これなら俺が手伝えることも──って、ちょっと待て。桜は確か、体を壊していたのではなかったか。

 

「さ、桜!? その……具合は大丈夫なのか?」

 

「はい、ちょっと風邪気味だっただけなので、もう大丈夫です。心配をかけてしまって、すみませんでした」

 

 そう言って一礼する桜。にこやかに微笑むその姿は、確かに元気そうに見える。

 けど……桜がここにいるのは、一体どういうことなのか。昨日、俺たちは慎二とライダーを倒しかけたばかり。そんな状況下で慎二が、自分の妹を敵マスターの家に送り出すような真似をするだろうか。

 

「桜。慎二のヤツ、何か言ってなかったか」

 

「え? 兄さん……ですか?えっと、兄さん、昨日から家に帰ってなくて……」

 

「帰ってない? あいつがか?」

 

 それはおかしい。ライダーがあれだけの傷を負い、慎二自身にも戦う手立てがないのでは、あいつは自分の家に逃げ込む他なかったはずだ。

 だが、桜の表情に嘘を示す色はない。なら、本当にあいつは帰っていないのか……ひょっとすると、敢えて自宅を避け、キャスターかランサーの拠点に匿われているのかもしれない。セイバーの追撃を考えていたのだとすれば、その可能性も十分あり得る。

 

「ええ。最近、兄さん帰ってこないことが多くて……それより、先輩たちにもご迷惑をおかけしてしまいましたし、今日は久しぶりにわたしが朝ご飯作っちゃいますね。先輩は、のんびり休んでいてください」

 

 ぐっ、と握り拳を作ってそう言う桜。元気も良いし、休んでいた原因にも特に慎二は絡んでいないようだから、これ以上問い詰める必要もないだろう。

 

 ──こんな健気な後輩の兄に、おまえは何をしようとした?

 

 自分の中で聞こえてきた声に、浮かべようとした笑顔が凍る。

 慎二が何をしていようと、どういう立場になろうと、あいつが桜の兄貴だという事実に変わりはない。けれど、俺と慎二が敵対関係になってしまっているのが現実であり……それを知ったら、桜はどんなに悲しむことか。

 覚悟を決めた、はずだった。慎二を止めなければならないのは間違いない。けれど、それが……慎二の命を奪う結果に繋がってしまった時。俺は一体、どうやって桜と向き合えばいいのか。

 

「……そっか。それじゃ朝食は任せようかな。でも、まだ具合が悪いようだったらちゃんと言うんだぞ。風邪がぶり返すと困る」

 

 硬直した思考の中。何とか、それだけを捻り出す。

 

「はい。任せてください、先輩」

 

 上ずった俺の声に気付く様子もなく。最後に微笑むと、作りかけだった味噌汁の方に向き直って調理を再開する桜。上機嫌なのか、鼻歌まで口ずさんでいる。

 普通料理をするといえば面倒くさがる人が多いのだろうが、我が家に限ってはその真逆で、料理はどちらかというと娯楽に近い。それで、よく調理場の取り合いが発生するのだ。最近は桜に朝食を作ってもらう機会も減っていたし、ここは任せてもいいだろう。

 ……それに何より、これ以上桜と向き合っていると感情を隠せなくなりそうだった。

 

 

 

***

 

 

 

「……なあ。なんかおかしくないか、これ」

 

「────」

 

 俺の小声に対して、無言で漬物を咀嚼するアーチャー。言葉こそ発さないが、激しい不快感を抱いているのは、その殺気に近い雰囲気だけで察しがついた。

 見れば遠坂もセイバーも、揃って苦々しげな表情を浮かべている。楽しい会話が飛び交うはずの食卓で、全員が同じように口を噤み、嫌悪感さえ漂わせているのは明らかな異常だった。

 だが、一人だけ。

 

「先輩、このお浸しはどうですか? 美味しいほうれん草があったので、作ってみたんです」

 

「あ、ああ……ありがとう、桜」

 

 にこにこと笑顔を浮かべ、朝食を勧めてくる後輩。この異様な空間で、桜だけがいつも通りだった……いや、そう言うのには語弊がある。この場にいる人間の中で、桜だけが異彩を放っていた。

 彼女だけが、何も気づいていない。場の空気を読むのに長けた桜が、ここまで周りの雰囲気を感知できないなど、今日が初めてのことだった。

 

「……ねえ」

 

 と。流石に見かねたのか、食器を置いた遠坂が、真剣な目つきで桜に問いかけた。

 

「貴女、ちょっと大丈夫?」

 

「えっと……何がですか? 遠坂先輩」

 

「これよ。貴女、何とも思わないの?」

 

 遠坂が指差すのは、たった今桜が俺に勧めたお浸し。憤懣やる方ないといった様子の遠坂に対して、桜は自分が何を指摘されているのか理解できていないようだ。その致命的なズレに気付いていないのは、桜本人しかいない。

 はてな、と首を傾げながら、お浸しを口に運んでみる桜。皆の視線を浴びながらほうれん草を咀嚼していた彼女だったが、不思議そうな表情を浮かべるばかりで、違和感に気付く様子はない。

 

「あの……()()()お浸しだと思いますけど。ひょっとして、お口に合いませんでしたか?」

 

 だとしたらごめんなさい、と悄然と俯くが……これはわざとやっているわけではない。冗談ではなく、桜は本当に何がおかしいのか分からないのだ。普段の彼女からは有り得ぬ異常さに、苛立ちよりも先に、得体の知れない不安を感じた。

 

「なあ桜。味見したんだよな、これ」

 

「ええ、いつも通りしたつもりですけど……」

 

「濃すぎるぞ、これ。どれだけ塩と醤油を使ったんだ?

 いや、お浸しだけじゃない。漬物も、味噌汁も、鮭の塩焼きも。どれもこれも、とんでもなく味が濃い。

 ……なあ、桜。ひょっとして、具合でも悪いんじゃないのか?」

 

「え──」

 

 さっ、と桜の顔から血の気が引く。俺たちの顔を順番に見回し、それからもう一度料理に目を向けると、蒼白な顔に怯えのようなものが貼りついた。

 この家に来たばかりの頃は、確かにこういう失敗があった。だがここ最近、どれか一品ならまだしも、全ての料理で致命的な失敗をしたという記憶はない。そもそも失敗をしたとしても、普通は味見の時点で気付くはずなのだ。それすら分からないということは……桜の体調に、何か異変が起きているのではないか。

 

「サクラ。具合が悪いのでしたら、遠慮なくそう言ってください。すぐに──」

 

 そう、セイバーが言いかけた途端。

 

「……………………ぁ」

 

 バタリ、と。糸が切れた人形のように、桜の体が横に倒れた。

 

「な──!?」

 

「桜!?」

 

 箸を放り投げ、慌てて駆け寄る。その額に触れると、驚くほどの熱さが伝わってきた。

 ……冗談じゃない。こんなに熱があるのに、俺は今まで、後輩の状態にすら気付いてやれなかったのか。元気よく振舞っているように見えた桜は、無理にそう演じているだけだったのだ。

 

「ああもう、何やってんのよ……! 士郎、体温計とタオル持ってきなさい! セイバーかアーチャー、どっちでもいいから桜を部屋まで運んで!」

 

 数瞬遅れ、テーブルを回り込んできた遠坂が、硬直している俺から奪い取るように桜の体を抱き起こす。てきぱきと指示を出し始める遠坂を見て、俺は慌てて洗面所に走り込んだ。

 大急ぎで洗面器に水を入れ、タオルを絞る。走って戻ると、丁度セイバーが桜を抱えて行くところだった。洗面器とタオルを抱えたまま、俺もその後に続く。

 もっと早く気付くべきだった。昨日まで桜は、出歩けないほど具合が悪かったのだ。そんな病人が、一日で料理ができるまで快復するはずがない。冷静に考えれば分かることだった。

 慎二の事が頭にあったせいか、そこまで気が回っていなかった。桜が休んでいたのは慎二の差し金によるものだと決めてかかっていたせいで、それが違うと分かった後さえ、そちらにばかり意識が向いていた。桜への注意がおざなりになっていたのは、完全に俺が悪い。

 ……これでは、先輩失格だ。先のことばかり考えていて、目の前が何も見えていなかった。足元すら覚束ないまま、後輩を蔑ろにしたままで、どうやってこれから人を守っていけるというのか。

 

 ──そんな俺を。蛇のような瞳が、見ている気がした。

 

 

 

***

 

 

 

「……三十八度五分。多分、風邪がぶり返したのね」

 

 客間から出てきた遠坂が、ため息を吐きながら体温計をかざして見せた。重病では無く、ただの風邪で終わるならまだ良いのだが、ここまで熱が高いとひょっとするとインフルエンザか何かかもしれない。

 

「病院に連れて行きたいところだけど……正直、この子を今この家から出すのは得策じゃないわ」

 

「こんな時に限って藤ねえもいないしな。つくづく間が悪いというか……」

 

 姿を見せないと思っていた藤ねえだったが、つい先ほど、桜の看病で立て込んでいる間に電話を寄越してきた。昨晩美綴の意識が一度戻ったらしく、病院の方に朝イチで向かったせいでこちらには立ち寄らなかったようだ。今日はそのまま病院に留まり、学校に顔を出すのはかなり遅くなるという。

 これから学校で、もしかすれば他の生徒たちにも被害が及ぶような戦いが起きようとしている状況に、藤ねえが巻き込まれる可能性がほぼなくなったというのは思わぬ僥倖だ。そうでなければ、どうにかして学校から藤ねえが離れるような方法を考えなければならなかった。だがその反面、桜を藤ねえに任せるという選択肢が消えてしまった。

 

「……そうだ、藤ねえのとこの家政婦さんにお願いするか。雷画爺さんに頼めば、多分一人ぐらいこっちに人を回してくれると思う」

 

「藤村先生の?」

 

「そうそう。桜と顔なじみの家政婦さんもいるし、あそこなら大丈夫だ」

 

「んー……そうね、この状況じゃどうこう言ってられないか。じゃあそっちは任せるわ、士郎。

 ところで、綾子の様子はどうだったの? 藤村先生、病院の方に行ったんでしょう?」

 

 やはり気になっていたのか、遠坂はしきりに友人のことを聞きたがる。ぐい、と迫ってくる彼女に若干気圧されながら、俺は今分かっていることを話すしかなかった。

 

「意識が戻ったらしい、って事しか俺も聞いてないんだ。詳しい事は、藤ねえが戻ってきてからになると思う」

 

「そう……まあ、快復してきたなら良かったわ。生命力を吸われただけなら、意識さえ戻れば体の方も自然と良くなるだろうし。後で、藤村先生に詳しく聞いてみましょう。

 それで桜のことなんだけど、わたしは今日の準備があるから……」

 

「なあ、遠坂」

 

 話を続けようとした遠坂を遮る。ん? と首を傾げている彼女は、いつもと変わらぬ自然体。

 後輩である桜の心配と、慎二と戦うための準備。その二つを、何ら躊躇うことなく並行して行う彼女には、何も思うところがないのだろうか。慎二が桜の兄だということは、遠坂も知っているはずなのに。

 煮え切らない。最後の一歩を、踏み出せない。そんな俺と違って、どこまでも普段と変わらない遠坂。抑えていた疑問が、とうとう抑えきれなくなった。

 

「遠坂は、慎二と戦うことになっても良いのか?」

 

「今更何言ってるのよ。喧嘩を売ってきたのは向こうの方じゃない、精々高値で買ってやるわよ。

 ……でも、それを今聞くってことは。やっぱり、桜のことが気になる?」

 

 内心を一瞬で見抜かれてしまった。動揺を隠せずにあらぬ方向に視線を逸らした俺に、遠坂が深々とため息を吐く。

 

「士郎の言いたいことは分かる。わたしだって、あの娘を悲しませるような真似はしたくないわ。

 でもね。仮に、慎二の身に何かがあったとしても──それは、あいつ自身が選んだ結果。命の奪い合いに足を踏み入れ、戦うことを選んだのは慎二なのよ。それに、普通の人を巻き込むような手段を選んだ時点で、もうあいつは言い訳なんかできない。本当に、慎二が結界を使うつもりなら……管理者として、遠坂にはそれを止める義務があるわ」

 

 だから、批難も罵声も、受け止める覚悟は出来ている──。口に出さずとも、遠坂の瞳には固い決意が宿っていた。

 俺とは違う。とっくの昔に、遠坂凛という魔術師は、選ぶべき道を受け入れていた。桜を悲しませる結果に繋がるとしても、自分の責務を違えることはない。同年代の少女らしからぬ強さは、彼女がマスターたる所以か。

 

「それじゃ、わたしはそろそろ準備の方に取り掛かるわ。桜のことは任せたわよ、士郎」

 

 そう自分に言い聞かせるように頷くと、遠坂はくるりと踵を返した。言葉もなく、居間の方へ向かっていく彼女を見送った後で、閉ざされた客間の扉に目を向ける。

 俺は……あそこまではっきりと、割り切ることができない。慎二は友人だし、桜は後輩だ。単純に慎二が友人であるだけなら、ここまで迷うことはなかった。けれど……あいつと戦った結果は、それ以外の誰かにも波及する。人の存在は、他の繋がりがあってこそ成り立つからだ。

 桜だけじゃない。顔が広い慎二には、他の友人も知人も大勢いるだろう。突然慎二が彼らの前からいなくなり、そして何の説明も与えられないとしたら……その原因である俺は、聖杯戦争についてさえ話すことができないのだ。

 

「……でも、止めないと」

 

 しかし、それは。慎二が巻き込もうとしている大勢の人々にも言えることだ。数百人にも及ぶ生徒の命の犠牲と、それが引き起こす悲劇。絶対に、それだけは防がなければ。

 ひょっとしたら、あいつが心変わりするかもしれない。もしかしたら、自分のやろうとしていることの重さを自覚するかもしれない──そんな希望は、持っているだけ無駄だろう。慎二の倫理観が完全に破綻していることは、昨日この目で確かめたはずだ。

 

「できるのか、俺に」

 

 熱を出して倒れた桜。普段なら、こんなことがあれば学校を休んででも桜を病院に連れていくのだが……今日だけはそういうわけにはいかない。大勢の生徒を巻き込もうとする奴を、桜の兄貴を、この手で止めなくちゃいけないのだ。

 桜の感情と、何百人もの生徒の命。分かっている。どちらも選ぶなんて、現実には不可能だ。戦いで熱くなっていた昨日とは違う。冷静になった今、俺は感情ではなく、よく考えた上で結論を出さなければならない──。

 

「──ク、中々面白い事になっているではないか、あの娘」

 

 一体、いつからそこに立っていたのか。背後から響くアーチャーの声に、思わずびくっと反応してしまった。

 

「驚かすなよな……というか、見てないで少しは手伝ってくれてもよかっただろ」

 

「ハッ、この我に雑種の面倒を見ろと? 笑わせるな、あのような汚物を我に供すなど万死に値する大罪だ──が、あの小娘にはまだ()()がある。故に此度の無礼は不問としたが、下らん勘違いを起こすなよ。貴様ら雑種は我に傅き奉仕する存在、断じてその逆ではない」

 

 ふん、とさも不愉快そうに吐き捨てるアーチャー。このとんでもない王様発言は一体どこから来るのか、アーチャーの唯我独尊ぶりには呆れを通り越して嘆息する。この男の正体は結局分かっていないが、記憶を失う前からこうだったのであれば、生前こいつと付き合いのあった人間はさぞ苦労したに違いない。

 

「それで、小娘の容体はどうなのだ」

 

「え? ああ、熱はちょっと高いけど、ただの風邪じゃないかって。無理して料理なんかするから、治りかけだったのが再発したんじゃないかな」

 

「フン、()()()()()か。貴様らにはそう見えたか」

 

 突然桜の心配をしたかと思えば、今度は得心がいったという様子で頷くアーチャー。相変わらず、このサーヴァントの考えは分からない。

 

「まあ良い。それより時間は良いのか、雑種。あまり些末事に拘っている余裕はあるまい」

 

「……そうだな、桜の看病をしてたから、随分時間が押してきてる。そろそろ行かないと」

 

 今日の作戦は時間が鍵になる。敵側の陣地に踏み込む作戦で、しかもこちら側の数が足りてない以上、常に先手を取って主導権を握らなければ不利になるのは俺たちの方だ。

 遠坂は昨夜のうちに使い魔を放って学校を監視していたらしいが、特に変わった様子はないらしい。まだ敵が動いていないということは……おそらく、生徒が集まりきった始業時刻後に姿を現すつもりなのだろう。生徒の数が多ければ多いほど、吸い上げられる魔力もまた増えるのだから。

 俺たちは、奴らが姿を現した瞬間に叩かなければならない。速攻でライダーを倒さなければ、生徒たちに被害が及ぶ。だが、逆に言えば、ライダーさえ倒せば俺の懸念は全て払拭されるのだ。

 

「俺は下で遠坂と打ち合わせしてるから、アーチャーもすぐ来てくれよな。わかってると思うけど、もうあんまり時間がないんだ」

 

 念を押す俺に対し、鷹揚に手を振るアーチャー。それを肯定の意と受け止め、踵を返すと居間の方へ向かう。作戦自体は昨夜のうちに遠坂が立てていたが、実戦に向けて最終確認をしておく必要がある。

 ただ、何故か……アーチャーが客間に、意味ありげな視線を向けていたのが気になった。

 

 

 

***

 

 

 

 遠坂が立てた作戦は、単純明快なものだった。

 ライダーが結界を発動する為には、学校へ姿を現す必要がある。しかし結界は未だ不完全な状態で、無理矢理発動させたとしても効力を発揮するまでには時間がかかる。その間、ライダーは人目に付く場所を避けなければならず──そして敷地内で人気のない場所といえば、裏手の雑木林が候補になる。

 雑木林にあるのは、結界の基点。人知れず結界を発動させるためには、まさに絶好の場所だ。なら……そこに俺たちが待ち伏せし、罠を設置するのも必然と言える。 

 愚直にライダーが突っ込んでくるなら良し、そのまま遠坂が仕掛けた罠とサーヴァント二人がかりで強襲するだけだ。キャスターやランサーが同時に現れたとしても、地の利があれば対処できる。アーチャーに奇襲をかけたような空間転移を使われても、出現位置がここなら飛んで火に入る夏の虫だ。 

 逆にライダーがここではない基点で結界を発動させようとするなら、場所は限られる。学校内に他のサーヴァントが踏み入った時点で、こちらはその存在を感知できる。それは向こうも同様だろうが、初めから俺たちが敷地内にいる以上、先手を打てるのはこちら側だ。ライダーがどの基点に到達するよりも早く、俺たちの方が攻撃できる。仮にライダーが基点を用いずに一瞬で結界を起動できたとしても、先手を打てるのは俺たちだ。 

 そもそもこの場に現れないか、或いは逃げ出すならそれでも構わない。十分な魔力を入手できないライダーは自然消滅する可能性すらあるし、魔力を溜めていると思われるキャスターに助力を乞うなら、あの陣営全体の総合力を削ることができる。もっとも、その場合は次の作戦を練らなければならないが。 

 つまりライダーがどの選択肢を選んでも、俺たちにとって不都合はないのだ。待ち伏せというただの一手で、相手の動きを大幅に封じて見せた遠坂の戦略眼は驚嘆に値する──アーチャーならまだしも、俺にはここまで深い考えは思いつかなかった。

 

「──士郎」

 

 だが、戦いが始まるより前に、俺たちがここに隠れている事が露見するのは避けたい。待ち伏せとは、奇襲効果があって初めて意味を持つからだ。

 そのリスクを避けるため、遠坂は俺と自分に気配遮断の魔術をかけた上で、人目を避けて学校の裏手へ回り込んでから、授業が始まったのを見計らい弓道場まで移動していた。若干視界は悪いが、この近くからなら校庭全体を見渡せる上に、場所を選べば外部から姿は見えないし、生徒たちが来ることもほとんどない。身を隠しながら学校を監視するには、まさにうってつけの場所だ。

 後は奴らが現れる、その予兆を見逃さなければ──

 

「──ちょっと、聞いてる?」

 

「……あ、悪い。ぼーっとしてた」

 

「しっかりしなさいよね。これから戦いになるってのに、上の空じゃ話にならないわよ。休むなら、戦いが終わった後にしなさい」

 

 半眼で俺を睨みながら、遠坂は買ってきたコーヒーを飲み干した。戦いが迫っているからか、その姿は傍目にも緊張感を孕んでいると分かる。彼女の視線の鋭さに、自然と俺の全身にも力が入った。

 穏やかな天気、吹き抜ける風、時折聞こえる鳥の声。一瞬惑わされてしまいそうだが、ここは既に平和の地とは程遠い。一秒後には血の結界に包まれるかもしれない、文字通りの戦地なのだ。

 ……けれど。この平穏な日常が壊されようとしているとは、やはり俄かには信じがたい。

 

「なあ、遠坂。ライダーたち、本当にここに来ると思うか?」

 

「来るわね」

 

 一秒の間もない、即答。

 俺たちは弓道場の入り口にいるが、セイバーとアーチャーはそれぞれ見張りのために少し離れた場所にいる。何か異常があれば、彼らがすぐに飛んでくる。だが、その予兆すらないというのに、遠坂は一片の迷いもなく断言してみせた。

 そんなことは分かっている。窮鼠猫を噛むとも言うし、追い詰められた者は何でもやるだろう。それこそ、学校の生徒を皆殺しにしてでも。

 ……しかし、それでも。旧友が凶行に及ぶと信じたくない思いは、やはり俺の中に残っている。現実を受け入れたくない一心で、俺は唇を噛みしめた。

 

「遠坂も言ってたけど、この結界は、学校の中の人間を無差別に溶かす物なんだろ。けど、それは神秘の漏洩を防ぐっていう魔術師の大前提に反するんじゃないか」

 

 可能性を否定したい、屁理屈じみた俺の言葉。俺と違って現実をとっくに受け止めている遠坂は、ただ肩を竦めてみせるだけだった。

 

「士郎。魔術師っていうのは、善人じゃないのよ。あなたのお父様がどうだったのかは知らないけど──確かに、神秘の秘匿は何よりも優先されるべきもの。それは士郎の言うとおりよ。でもね、それってつまり……()()()()()()()()()()()()()()()ってことなのよ」

 

「それ、は──」

 

「人間の一人や二人殺しても、結果的に秘密が守られていればそれでいい。目撃者を消すことは、むしろ奨励されているのよ……わたしは、そんなことしたくないけれど。

 学校中の人間が殺されれば、それを隠蔽するのは難しいわ。でも、その理由付けさえできていれば──例えば、テロリストが毒ガスを撒いたとか、突然の地盤沈下で学校が倒壊したとか。そんな証拠をでっち上げることができれば、少なくとも魔術との関わりは誤魔化せる。魔術師の常識では、それさえできていれば問題はないわ」

 

 冷静さを保ったまま、そう続ける遠坂。その冷たい瞳は、彼女が紛れもなく一流の魔術師であり……魔術師見習いに過ぎない衛宮士郎とは違う存在であると、そう印象付けるものだった。

 学校一つを無くしても……その中の生徒数百人を犠牲にしても、魔術との関わりが外部に露見しなければそれで終わり。それを咎める者も、裁く者も存在しない。犠牲者を知る者は、真実さえ、人災だと知らされることさえなく、ただありもしない災害か、実在もしないテロリストを憎む羽目になる。そんな無数の憎悪と悲しみを踏みにじり、本当の犯人はのうのうと生き延びるのだ。

 

 ──それが。そんなことが、歴史上無数に繰り返されてきたというなら。聖杯戦争だけでなく、外道を働く魔術師そのものが許されざる存在だと感じる。

 

「士郎が許せないという気持ちは分かるわ。でも、今わたしたちにできるのは、そんなふざけた真似をする連中を止めることよ」

 

 俺が握り締めた拳に気が付いたのか。遠坂は、あくまで冷静にそう言い放つ。

 ……けれど。彼女の拳も、また微かに震えていることに気が付いて、仄暗い怒りの感情がすっと引いていくのを感じた。人の命を玩具同様に扱う奴らに、怒りを感じているのは遠坂も同じなのだ。魔術師としての覚悟はあっても、実際に非道な行為に及ぶかどうかは当人次第。そして俺の知る遠坂は、そんな悪行を容認できるような人物ではない。

 怒りを抑え、冷静に現実に立ち向かおうとしている遠坂と、ただ感情に任せようとしていた俺。何とも、自分がみっともなく感じた。

 

「ああ、そうだな。今は、この結界を止めないと」

 

「そういうこと。それが分かったなら、この話はここでおしまい。

 ……それにしても、よくここに来る気になったわね、士郎。昨日の様子、正直普通じゃなかったわよ」

 

 長い髪をかき上げながら、今度は微かに心配そうな視線をこちらに向ける遠坂。昨日の俺は、どうやらかなり取り乱していたらしい。

 確かに、あの得体の知れない魔物に対する恐怖感はある。触れれば死ぬという直感は、まず間違っていないだろう。セイバーの睨んだとおりなら、この後戦いの場でアレがまた現れないとも限らないのだ。またアレと遭遇して、生きて帰れる自信はない。

 

 ──けれど。

 

()()()()()より、この結界の方が大事だろ。これを放っておけば、何人犠牲が増えるか分からない」

 

「…………」

 

 と。それを聞いた少女は、何故か表情を強張らせた。

 ふわり、と屋上に風が通り抜ける。だが、僅かに乱れた黒髪を直そうともせず、遠坂は真剣な瞳で俺を見つめていた。

 

「士郎。貴方、自分が死ぬような目に遭ってまで、本気で人のために命を賭けられるの?」

 

「ああ。俺が迷ってる間に誰かが傷つくなら、命を賭けた方がいい。誰かを助けたいなら、手段に拘ろうなんて考えは甘いんだ」

 

 瞼の裏に移るのは、絢爛たる黄金の影。

 

『人間どもをサーヴァントから救いたいと言うのなら、手段に拘る事こそ何よりの愚挙』

 

 そうだ、あいつの言う通りだ。自分の力だろうとサーヴァントの助けだろうと、結局人を助けられなければ意味なんかない。俺がもっと早く気付いて、決断できていれば慎二を止められたかもしれないし、美綴や他の人を巻き込むこともなかった。こうして結界の前でギリギリの綱渡りをせずとも、多くの人を守ることができたはずだ。

 しかし、現実はそうはならなかった。慎二を止めることはできず、美綴はあいつの毒牙にかかり、この学校の何百という生徒の命が危険に晒された。この埋め合わせは、きっと俺なんかの命を賭けただけでは足りないのだろう。

 

「……やっぱりおかしいわよ、貴方」

 

 ぽつり、と遠坂が漏らす。その声には、冷たさと憐れみが等しく配分されていた。

 

「私はいいわ。この戦いに挑む準備を何年も前からしてきたし、その覚悟もある。あの慎二だって、聖杯戦争のことは知ってただろうし、戦うだけの理由もあるはずよ。

 ──でも、貴方は違う。ほとんど素人と言ってもいいのに、突然戦いに巻き込まれて、それでいて何の躊躇いもなく命を賭けられる。それも自分のためじゃなく、関係のない他人のために」

 

「……いや。俺が戦うのは、他人のためじゃないさ」

 

 そう。マスターたちが願いの為に聖杯を求めるなら、俺の願いは『人を助けたい』という思いそのもの。

 あの炎の夜に、零れ落ちていった魂。小さな手で掬うには、あまりに多すぎた人の命。けれど、今なら。今の俺なら、あの時より大きな手がある。例え一人でも、この手で救える命があるのなら。この手が届くなら、俺は迷うことはない。

 何故なら──

 

「俺はもう、理不尽な理由で誰かが死ぬ姿を見たくないだけなんだ」

 

 命が失われる光景は、もう十分過ぎるほど見てきた。この聖杯の奪い合いで大勢の人が死んだ。これ以上、下らない争いで人が死ぬのは十分だ。ただそれだけの、極めて簡素な理由。

 十年前の地獄では、何の罪もない人が亡くなった。けれどそんな惨状の中でも、俺は生き長らえた。助けてもらえた。だから、きっと──今度は、俺が衛宮切嗣(正義の味方)になる番だ。

 

 ──それだけなのに、遠坂は。

 

「そのためなら、自分が死んでもいいって言うわけ?」

 

 敵意すら宿った眼差しを、毅然と俺に向けていた。

 

「いや、それは違──」

 

「違わないわよ。士郎の言ってるのは、つまりそういうこと。

 ……そう、今のでようやく分かったわ。貴方はお人よしなんかじゃない。どんな善人だって、自分の命は勘定に入ってる。いえ、むしろ自分というものが根底にあるから、彼らは善人足り得るのよ。

 けれど、士郎は違う。自分より他人が大事なんじゃない、そもそも自分が秤の上に乗っていないのよ。自分のことを何とも思っていないから、簡単に命を投げ出せる」

 

「──っ」

 

 感情を押し殺した、低く平坦な声で話す遠坂。反射的に言い返そうとするが、その只ならぬ雰囲気に呑まれ、ただ無意味に口を開く事しか出来なかった。

 命を粗末にしているのか、と問われれば、断じて否と言い切れる。

 死ぬのが怖いか、と聞かれれば、そのとおりだと頷ける。

 だが。自分と他人の命、どちらが重いか、と訊ねられた時。俺の中に、自分という選択肢は存在しなかった。遠坂がおかしい、と言っている意味は分かる。けれど衛宮士郎にとっては、それが常識であり日常なのだ。

 

 ──だが。それに何の疑問も抱かず、むしろ当然だと感じてしまっている自分自身に、俺は一番驚愕していた。

 

「……ねえ、士郎。それで救える人は、確かにいるのかもしれない。けれど度の過ぎた自己犠牲は、自殺願望と同じよ。

 貴方の命と引き換えに、命を助けられても。それで、助けられた側が素直に喜べると思う?」

 

「…………」

 

 想像する。

 仮に、自分が誰かに助けてもらったとする。その人のお陰で、自分は生き延びることができた。あの地獄のような日に、俺が切嗣に助けられたように。

 しかし……自分の命の代償に、その誰かは死んでしまった。お礼を言おうにも、謝ろうにも、その対象はどこにもいない。残されたのは、助けられた自分だけ。

 切嗣は、信じられないほどの早さで亡くなった。ひょっとしたら、その原因には俺が関わっているのかもしれない。それは前から薄々感づいていたことでもあるし……申し訳ない気持ちがないかと言えば、嘘になる。

 でも。例え自分の命と引き換えにしたとしても。切嗣には一片の後悔もなかったと、それだけは断言できる。俺を助けることができて良かったと、あの曇りのない笑顔があったから──俺は、ここまで歩いてこれたのだ。

 助けられた側に、やりきれない思いがあったとしても。助かった人の中には、必ず残るものがある。

 

 ──だから。

 

「それでも。助けられる命があるなら、俺は助けたい。この道は、間違っちゃいないって、信じてる」

 

「士郎、あなた──ッ」

 

 俺に、遠坂が怒りの籠った視線を叩き付けてくる。一体何故ここまで彼女が憤っているのか……理由が掴めず、困惑する。頬を撫でる冷たい風は、まるで彼女の感情のようで。

 

 

「下がって、凛、シロウ──!」

 

 

 どん、と強く押される感覚。何が起きたのかも分からないまま、抵抗すらできずに尻餅をつく。

 

「な……!?」

 

 地面の感触が伝わるか伝わらないか、という刹那。状況を認識するより早く、赤い何かが目と鼻の先を掠めて行った。一瞬遅れて、木が砕けるような轟音が響き渡る。

 わけも分からず横を見ると、同じように度肝を抜かれた表情で座り込む遠坂。そしてその向こう、弓道場の横にある大木にめり込んでいるのは、見覚えのある赤い剛槍。あれは、あの槍は紛れもなくランサーの──。

 

「ちっ、こういうのはオレの柄じゃねえって言ってんだが……あれを躱すか。しかしまあ、こう何度も奇襲を防がれるとは、流石に情けなくなってくる」

 

 忌々しげに響く、その声。もう一度瞬きをすれば、そこには見覚えのある青い戦士が、槍を引き抜き佇んでいた。

 ……馬鹿な。今の今まで、そこには誰もいなかった。不意打ちなどというレベルではない。何の兆候もなく、ランサーは唐突に出現していたのだ。何の気配も感じさせず、最初から誰もそこにはいないかのように。

 

暗殺者(アサシン)の真似事か、狗。気配が感じられぬ……いや、これは魔術の類か。となれば、この場に潜むのは貴様一匹ではあるまい」

 

 朗々と響く声。座り込んだまま上を見上げると、そこには黄金の鎧に身を包んだアーチャーが、屋根の上からこちらを見下ろしていた。その手に握られた黄金の剣を認識して、ようやく凍り付いていた頭が動き出す。

 如何なる手段を以てしてか、完全に気配を消したランサーは、遠坂が敷設していた魔術の罠をすり抜けてきた。そして二人のサーヴァントに兆候すら感じさせず、俺たちを殺しにかかったのだ。セイバーが直前で飛んできてくれなければ、俺と遠坂は仲良くあの世に送られていただろう。まさに紙一重の差で俺たちは命拾いしたのだ。

 

「その洞察力には感心するわ、アーチャー。貴方を敵に回したのは惜しかったかもしれないわね」

 

「ハ。この我に気付かせぬ、という点では褒めてやる。だがそれまでだ。如何な手品とて、種が一つでは飽きも来ようよ」

 

「ふふ、貴方たちも手品を披露しようとしていたのではなくて? でも残念。その前に種を見抜かれては、客の拍手は望めないわよ。

 ──私とそこのお嬢さんとでは、魔術師としての年季が違うわ」

 

 一体どこを見ているのか。俺たちを睥睨していたアーチャーが、突如としてあらぬ方向に目を向けたかと思うと、どこからともなく女の声が聞こえ……そして一拍置いて、空に黒い染みのようなものが現れた。

 初めは霧のようだったそれは、やがて固まり形を持ち始め、見る見るうちに人の姿を形成していった。紫紺のローブに、錫杖を捧げ持つ女。あれがアーチャーを襲ったという、キャスターのサーヴァントに違いない。

 頭上で睨み合うアーチャーとキャスター。眼前で対峙するセイバーとランサー。都合四人のサーヴァントが、殺意の刃を向け合っていた。一人でも驚異的な破壊力を持つサーヴァントが、一度に四人。彼らが全力で戦えば、こんな林は瞬時に更地と化すだろう。

 

「嘘、これほど完全にサーヴァントの気配を消せるなんて──それに、わたしの魔術が全部破られてる」

 

 跳ね起きると同時、我に返ったのか、キャスターの言葉に歯噛みする遠坂。その横顔には屈辱感さえ滲み出ている。

 詳しくは教わっていないが、この弓道場の周囲には、遠坂の手によってサーヴァントにすら効力を発揮するような罠が幾つも仕掛けられていた。それを、仕掛けた本人である遠坂や、同じサーヴァントであるアーチャーやセイバーにさえ気付かせずに、全てを破ってみせたその手腕。幾らサーヴァントとはいえ、驚嘆すべき魔術の技だった。

 

 待てよ。サーヴァント、だと……?

 

「ちょっと待て、ライダーは何処に──!?」

 

 はっと気づき、勢いよく立ち上がった、その瞬間。

 

 

 ──世界が、血の色に染まった。

 

 

「これは、ライダーの結界……!?」

 

 いち早く反応したセイバーの瞳が、驚きに見開かれる。翠の瞳に映し出されるのは、一面の赤。

 直前まで澄み渡っていた空は、今や見る影もない。色という色は消滅し、禍々しさすら感じさせる血腥い赤色に、全てが塗り替えられている。学校という空間そのものが、何かに上書きされたかのような異常さ。

 これこそが、ライダーが敷設した結界。対象内の人間を悉く鏖殺し、その命を魔力として吸い上げる殺戮宝具。全てを染め上げる血の要塞(ブラッドフォート)

 一旦発動してしまった以上、これを止めるには発動者を倒すしかない。半人前とはいえ、魔術師である俺ですら気持ち悪さを感じているのだ。何の魔力も持たない生徒たちが耐え切れるはずがない。

 不幸中の幸いか、この結界は不完全だ。発動と同時に生徒全員が即死する、という訳ではないだろう。それでも、これを放っておけばどの道結果は同じだ。防ぐ手立ては一つしかないというのに──ライダーの姿が、ここには見当たらない。

 

「ちっ、これもアンタの仕業ね、キャスター。ここまで気配を殺されると、ライダーの居場所が分からない……!」

 

 遠坂が舌打ちと共にキャスターを睨め上げる。宙に浮くローブの下に覗くのは、冷酷な薄ら笑い。

 

「なるほど。ランサーとキャスターが私たちの足止めを。その間に、ライダーは結界で魔力を回復する。ライダーの回復まで凌げば、サーヴァント三体がかりで我々を圧倒できる。そういう魂胆ですか、キャスター」

 

「つまりそういうこった。

 ……やれやれ。どうしてこう、気の乗らん戦ばかりになるかねえ」

 

 セイバーの分析に答えるのは、不承不承といった風情のランサー。だがその口ぶりとは対極的に、槍を構えるその姿には、微塵の隙さえ感じられない。彼の意思がどうあろうと、極限まで死闘に順応した肉体は、敵を殺すための牙を研いでいた。 

 ……まずい流れになった。罠を張り巡らせ、完全に先手を取ったつもりでいたが、その実こちらの手の内は完全に読まれていたのだ。三人のサーヴァントは、たった一晩で完璧な連携と共に俺たちを打倒しに来た。今や機先を制され、窮地に立たされているのは俺たちの方だった。

 俺たちはライダーが結界を動かすより早く、力押しの速攻でライダーを打倒する予定だった。魔力の供給源がなければ、じり貧になるのは向こうの方だからだ。

 しかし、一旦結界が発動されてしまうと状況は逆転する。時間が経てば経つほど、結界から供給される魔力は増加していく。生徒に犠牲を出さないために、俺たちは無理矢理にでも攻めるしかないが、ライダー側はただ耐えていればそれでいい。勝利条件の難易度が、あまりにも違い過ぎる。

 

「くそ、どうすりゃいいんだ……!」

 

 相手の所在を感知できることが前提の作戦は、キャスターの隠蔽魔術によって既に破綻している。ライダーがこの敷地内にいるのは確かだろうが、どこにいるかまでは分からないし……第一、キャスターとランサーが俺たちを見逃す理由がない。

 ギチ、と握り締めた拳が嫌な音を立てる。まただ。ライダーを倒さなければ、人がまた死ぬというのに……いくら考えても、いくら動いても、人を殺す魔の手は止められない。これでは、何の為の正義の味方なのか。すぐそこに止めるための手段があるというのに、手が届かないなんて。

 

「ライダーは限界まで弱ってた。なら、これ以上の消耗を抑える為に、基点の近くで結界を発動させたかったはず……」

 

 焦りを抑えたのか、冷静さを取り戻した遠坂が考え込む。このまま睨み合っていても、刻一刻と俺たちが不利になるだけ。キャスターとランサーは、ただ時間が稼げれば戦わなくても良いのだ。つまり俺たちが動かなければどうにもならないが、作戦がなければ動きようもない。

 基点。文字通り、結界の基となる場所。この敷地内に記された血の呪刻。構成の要であるその場所は、結界を発動するには最適だろう。

 だが、最有力視されていたこの場所にライダーはいない。幾らキャスターの魔術が優れていようと、結界の発動そのものの隠蔽はできまい。となれば、ライダーはどこか別の場所、他の呪刻がある地点で結界を発動させたのだ。しかし結界は不完全で、魔力を取り込むまでには時間がかかる。効率よく魔力を回復させる為には、呪刻の近くにいる方が都合が良い。

 残された呪刻。その中で、ライダーにとって最も都合の良い場所。他の人間には見つからず、かつ監視に向いた場所。そこはすなわち、

 

「屋上──!」

 

 俺が気付くと同時、遠坂も同じ結論に至ったのか。視線が合うと、こちらに向け頷いて見せる。ライダーがいるとすれば、そこしかない。

 だが、易々とこの場から抜け出せるはずもない。キャスターの素顔はローブに包まれて見えず、一方のランサーは仏頂面のまま、所在なさ気に槍を弄んでいる。しかし俺たちが動けば、容赦なく襲い掛かってくるであろうことは間違いない。

 セイバーは不可視の剣を構え、敵サーヴァントたちの一挙手一投足に注意を払っている。引き絞られた弓を思わせるその背中は、僅かでも敵が動きを見せた刹那に矢となって飛んでいくだろう。二度に亘って自身と拮抗して見せたランサーと、得体の知れぬキャスター相手に、彼女が油断するわけがない。

 そして、黄金の弓兵は。

 

「──で、どうするのだ雑種。放っておけば衆愚どもが死ぬぞ」

 

 いつものように。劣勢など知らぬというように、傲然と屋根の上で立っていた。

 一度戦っている相手。それも片方は、アーチャーの技量を遥かに凌駕するランサーだ。だというのにこのサーヴァントの威圧感は、欠片も損なわれる事がない。セイバーが張り詰めた弓ならば、アーチャーは毀れを知らぬ輝煌の剣。弓兵と剣士が逆の印象を与えるのも、何とも奇妙な話だった。

 自然体のまま、紅蓮の瞳で俺を見下ろすアーチャー。血の結界より尚赤い瞳に見つめられて、自分のすべきことを考える。

 

「どうする、ってそれは……」

 

「士郎。ここはわたしとセイバーで引き受けるから、あなたはアーチャーと一緒にライダーを倒して」

 

 口を開こうとした俺を遮り、遠坂が低い声でそう告げる。その言葉に含まれる意味の無謀さに、一瞬脳が理解を拒絶した。

 

「な──セイバーと遠坂だけで、サーヴァント二人を相手にするってのか!?」

 

「無茶でも何でも、そうするしかないのよ。ライダーを倒すためには、最低一人のサーヴァントがこいつらを止める必要がある。そして、それができるのはわたしのセイバーだけよ」

 

 淡々とそう続ける遠坂。反論しようにも、言い返す言葉がない。それが最も正しい選択肢なのは、俺自身が理解している。

 キャスター一人なら、或いはアーチャーでもどうにかなるかもしれない。だが、アーチャーにランサーは止められない。必滅の槍を防ぎ切ったとはいえ、あれは一度きりの奇跡。加えて、単純な技量でランサーはアーチャーの上を行く。キャスターと二人がかりとなっては、まず確実に敗北する。宝具さえ使えれば、と思うが、ないものねだりはできない。

 しかし、これがセイバーなら話は別だ。圧倒的な対魔力性能(スキル)によって、ほぼ全ての魔術を無効化するセイバーは、キャスターに対して圧倒的な優位に立つ。ランサーに対しては互角かもしれないが、今回はマスターである遠坂もいる。いざとなれば令呪もあるし、足止め程度なら十分可能だろう。

 遠坂とセイバーを、危険な目に遭わせることになる。だが……時間も選択肢も、今の俺には残されていなかった。

 

「……わかった。ここは任せていいか、遠坂」

 

「ええ。こいつらはきっちり止めてみせる。その代わり、さっさとライダーを倒してきてよね。

 ……もう、あまり時間はないわよ」

 

「ああ」

 

 幾つかの宝石を取り出すと、一歩踏み出しサーヴァントたちに向き合う遠坂。俺に背を向け、セイバーに並ぶその姿に迷いはなく──故にそれは、嫌でも俺の役割を認識させた。

 ライダーを、倒す。生徒に犠牲者が出る前に、遠坂とセイバーが傷つく前に。一刻も早く、ライダーのサーヴァントを打倒する。

 それができなければ……待っているのは、あの夜の光景。炎に体を焼かれ、悶え苦しみ、人の形すら留めず死んでいった大勢の人たち。もう顔すら思い出せない犠牲者の中に、見知った顔が加わる。世話になった先生に、仲良くしていた級友。それだけは、断じて許せない。

 正義の味方。みんなのヒーロー。そんな絵空事が必要とされているのは──今、この瞬間。守るべき人々も、倒すべき悪も明白。こんなことさえできずに、何が正義の味方か。

 

「──行くぞ、アーチャー。ライダーを倒して、この結界を止める」

 

「ほう。サーヴァントすらも殺さぬ、とでもほざくかと思えば……その程度の覚悟は固まったか。この期に及んで戯言を抜かす気なら、我手ずから貴様の首を刎ねていた所だ。

 だが良いのか雑種。ライダーのマスターは、貴様の友人であろう。この道を進めば──貴様は、自らの友を手にかける事になるぞ」

 

「それ、は──」

 

 淡々と、まるで今日の天気を語るかのような口調で、容赦なく叩き付けられる現実。気に食わなければ俺を殺すと言ったその言葉よりも……俺が選ぼうとしている選択肢の重さが、氷山のように冷たく圧し掛かった。

 人ならざる魔性の瞳が、刃の鋭さで俺を貫く。その冷酷さが、他の何より明白に告げていた。この道を選べば──おまえはもう、後戻りできないと。

 偶々、聖杯戦争に巻き込まれた。死にたくないから、サーヴァントと戦った。そういう言い訳は、ここから先は通用しない。どんな大義名分があっても、どういう状況だったとしても。俺がやろうとしていることは、人を殺す可能性を秘めていて……決して、許される行為ではない。

 だけど。

 

「関係ない。もし、慎二が大勢の人を手にかけようって言うなら……」

 

 ぐっ、と拳を握る。選ぶべき道は、とうの昔に決まっていた。人を助けるのが、俺という人間の在り方。そして慎二とライダーを見逃せば……助けられるはずの命が、何百と失われる。

 引き戻そうとした言葉は空虚に響き。友人を止めようとした俺の意思は、殺意の刃で報われた。その瞬間に、俺とあいつの関係は、決定的に壊れてしまったのだ。間桐慎二は、人を殺す外道となり──そして衛宮士郎は、それを倒す魔術師になった。

 昨日の戦い。あの一戦で、慎二を止めることはできなかった。止めさせたいという決意はあったが、友人の命を奪うという選択に、俺は最後の最後まで躊躇していた。けれど、既に逡巡する余裕などないのだ。

 結界は発動されてしまった。それはすなわち、あいつが最後の一戦を踏み越えたということ。大勢の命をエゴのために踏み潰し、利用する。もう後戻りができないのは、俺だけではない。

 これ以上立ち塞がるなら、容赦は出来ない。例え誰に何と思われようとも、俺は俺の意思で、人を傷つける()を。

 

「俺の手で、倒す」

 

「──よく言った。無様で、未熟で、歪ささえ感じるが……それでも貴様は、自ら業を背負い、道を選ぶ決断をした。ならば、我もサーヴァントとして応えてやらねばなるまいよ」

 

 そう嘯くと皮肉げな笑みを浮かべ、黄金の弓兵が軽やかに着地する。

 まただ。この英雄はいつも、目を背けたくなるような事実を突き付け、迷う俺を詰り、叱咤し……一見突き放しているように見えても、一歩先で待っている。

 気の向くまま動き、他人に耳を貸さず、自分一人で完結しているようでありながら……いつも遥かな先を見据え、迷いなく道を指し示す。それは魔術師に従うサーヴァントというよりも、人間を導く王のような──。

 

「……それで? 私たちが見逃すとでも思っているのかしら?」

 

 一方。直前までアーチャーと睨み合っていたにも関わらず、まるで路傍の石のように無視されたキャスターからは怒気の渦が立ち上った。

 ローブの下から、禍々しい魔力を宿した手が覗く。可視化される程の光を集めたそれは、紛れもなく魔術の前兆。結界に囚われ風の止んだ空間に、魔力の大嵐が吹き荒れようとしていた。

 

「ほう、魔女さんはご機嫌斜めか。ま、こんだけ舐めた口叩かれりゃ、誰だって怒るわな。オレもあまり気は乗らないが──今回ばかりはキャスターに同感だ。逃げられるとでも思ってんのか、てめえ」

 

「無駄口が過ぎるわよ、ランサー。今回は見逃してあげますけど……次に私を魔女と呼んだら、相応の罰を与えます」

 

「おー、怖い怖い。んじゃ、とっととおっぱじめるか」

 

 緊迫した空気の中、軽口を叩くランサー。キャスターの怒りを平然と受け流す態度は、死線に臨む戦士らしからぬ軽薄な姿。だがその口調とは裏腹に、ランサーはゆっくりと槍の穂先をこちらに向けていた。

 間に立つ、セイバー主従のことなど関係ない。あの男の狙いは、始めから俺とアーチャーだ。『刺し穿つ死棘の槍(ゲイ・ボルク)』が放たれれば、その時点で奴らの勝利が決まってしまう。

 

「たわけめ。舐めているのは貴様らだ、雑種ども」

 

「あぁ?」

 

 だというのに。そんな些末事など知らぬというように、アーチャーは侮蔑の表情を向ける。怪訝な顔をするランサーを、怒りを堪えるキャスターを──この男は、完全に見下していた。恐らくは、脅威だとすら感じていまい。

 その底無しの自信は、天に聳える王者のもの。この場を逃げ出そうとしている現状とは、あまりにかけ離れた余裕だった。

 

「雑種がいくら群れようが、所詮は有象無象の塵に過ぎん。貴様らごときが、その女を破れるものか。

 ──そうであろう、セイバー。お前ほどの英霊が、雑種風情に遅れを取る道理はない。何ならそこの雑種二匹、屠ってしまっても構わんぞ」

 

 と。傲岸に放たれたその言葉に、誰よりもセイバー自身が驚いていた。

 アーチャーを仰ぎ見た瞳は、驚愕に大きく見開かれている。敵から視線を逸らすとは彼女らしからぬ迂闊さだが、それだけアーチャーの言葉が予想外だったのだろう。見れば横に並ぶ遠坂も、愕然とした表情を浮かべていた。

 この男が、セイバーを気に入っているのは知っていた。だがそれでも、セイバーに冷たい言葉を叩き付けこそすれ、面と向かって彼女を評価する言葉を向けるのは、これが初めての事だった。紅の瞳には、誇張や虚言を口にしている色はどこにもなく──ただ純粋に、この男はセイバーを信じきっている。

 直接相対したキャスターの力。必殺の宝具を有するランサー。それらを鑑みた上で尚アーチャーは、セイバーが負けるはずがないと断じていた。

 

「フ……勿論だ、アーチャー。何人たりとも、私の後ろを通しはしない」

 

「言ってくれるじゃない、アーチャー。いいわ、わたしのセイバーの力、お望み通りはっきり見せてやるんだから。あいつらをやっつける前に、とっとと戻ってきなさいよね」

 

 風を斬り、剣を正眼に構え直したセイバー。左手に魔術回路を浮かび上がらせ、詠唱の準備をする遠坂。二人の少女が、揃って自信に溢れた笑みを見せる。今までアーチャーと反目していた二人が……初めて、この英霊に見せる表情だった。

 対するサーヴァントたちは、無言。収束させた魔力が、微かに震える槍が、ここからは言葉ではなく刃を以て語れと宣言していた。

 

「行くわよセイバー。Fixierung(狙え),EileSalve(一斉射撃)──!」

 

「ええ。信頼に応えましょう、マスター。決着をつけるぞ、ランサー──!」

 

 突貫する遠坂とセイバー。その結末を見届けることなく、彼女たちに背中を任せ……俺は、ライダーのいる屋上へと走り出した。


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